水曜日, 9月 14, 2016

予土国境 坂本龍馬脱藩の道を歩く そのⅠ;土佐の梼原から予土の国境の峠を越えて伊予の大洲へと(本モ谷川筋茶屋谷・松ヶ峠・四万川筋高階野・韮ヶ峠)

坂本龍馬脱藩の道を歩くことにした。先輩諸氏から揶揄される常の如く、所謂「いいとこ取り」のルートである。トラックの排気ガスを吸い込みながらの車道歩きはかなわんと、土佐の高知から伊予の大洲への龍馬脱藩の道のうち、高知から梼原までの23里は避け、本格的な峠越えのはじまる土佐の梼原から伊予の大洲までの十三里を抜けることにした。十三里の内でも、勿論、山間部の山越え区間のみ、正確には梼原の西、本モ谷(おも)川筋・茶屋谷から、龍馬が舟で長浜に向かった小田川筋・亀の甲まで、である。

龍馬脱藩の道;予土国境山越えルート(Google Earthで作成)
龍馬脱藩の道を歩こうと思ったのは数年前になるだろうか。偶々古本屋で『坂本龍馬脱藩の道を探る;村上恒夫(新人物往来社)』を買い求め、そのうちに歩きたいと思っていた。思い始めて実行するまで結構時間がかかってしまった。その因は、予土国境の脱藩の道は山間の地をいくつもの峠を越えて行くのだが、詳しいルート図が見つからない、峠越えの始点・終点の谷筋にバス路線が見つからない、適当な場所に宿が見つからない、といった状況のため、ルーティングのイメージが固まらないためではあった。

ルート地図・バス路線・宿が見つからない
『坂本龍馬脱藩の道を探る』には、峠越えの途中、通過した地名は記載さとれているが、詳しいルート図はない。実際に歩いている人はいるだろからと、Webを検索しても詳しいルート図はみつからなかった。
また、梼原から大洲までの山間部は『坂本龍馬脱藩の道を探る』にあるポイントを直線で結ぶだけでも30キロ近くあるわけで、曲がりくねった山道を考えれば実際の距離はその1.5倍には軽くなるだろう。当然、散歩も数回に分けることになるのだが、その間にある舟戸川、河辺川、キビシ川の谷筋を走るバス路線も見当たらない(唯一舟戸川の谷筋にバス停マークをみつけたが、現在「廃止」とあった)、宿も梼原の他、途中河辺川の谷筋の「ふるさとの宿」といったところぐらいしか見当たらない(ちゃんと調べればあるのかもしれないが)。これでは段取りのいいルート設定は望むべくもない。

ピストンを繰り返し脱藩の道を辿ることに
かくのごとくの因により、「行きたしと思えども」の状況であったのだが、今回、「えいや」で予土国境の道を歩くことにした。段取りのいいルーティングはできないわけだから、残された手段は予土の国境・笹ヶ峰越えのように、二台の車で移動し、始点と終点に車をデポして進むか、単独での「ピストン」しかない。間が悪いことに、パートナーとして頼みにした弟は吉野の奥駆けの単独行に向かうと言う。結局単独での「ピストン」で進むことにした。
「ピストン」とは、「往復する」ということ。谷筋を車の進めるところまで進み、そこに車をデポし、峠を越へて次の谷筋まで進む。その後、車のデポ地まで折り返し、峠越えした先の谷筋まで車を進める。このプロセスを繰り返すわけである。
予土国境山越えの龍馬脱藩の道には、前半部に上にメモした3つの谷筋がある。ピストンでデポ地に戻った後、車で通れる尾根越えの林道があるかどうかわからない。山越えができなければ川筋を下り、迂回して次の谷筋に進まなければならない。成り行き任せである。
それでも前半部は谷筋からの山を越えて次の谷筋へという、簡単と言えば簡単なピストンであり、まだわかりやすいのだが、後半部は尾根道を大洲へと進むことになる。これはもう、行ってみなければ、どうなるのか想像もつかない。「えいや」で、とメモしたのはこういた事情である。

準備は『坂本龍馬脱藩の道を探る』に記載の地名をGPS ツールにマークするだけの、基本成り行き任せ

基本「えいや」であるが、一応最低限の準備はした。その準備とはGPSツールの地図への、目安となる地名・集落・峠名のマーキングである。『坂本龍馬脱藩の道を探る』に記載の梼原から大洲までの竜馬脱藩の道の地名・集落・峠名を無料の地図ソフト「カシミール3D」の地図にマークし、「デジカメプラグインで地図を切り出し、GPS 専用端末ガーミンGPSMap62SJに入れ、同時に、無料ソフトGMap Tools(前もって地図の必要箇所をダウンロードしておけば電波の通じないところでも地図・現在地が表示される)にも同様に龍馬が辿ったとされる地名・集落・峠名をマークした。
GMap Toolsにもマークしたのは、視認性で専用端末より格段に使い勝手がいい、というためである。広域・詳細が指先ひとつで自在に表示できるのは、専用GPS端末の狭い画面のそれと比べ、圧倒的に便利である。
このGPSツールの地図と地点のマークさえあれば、道案内があればそれでよし、なければGPSツールの地図とマークされた地名・集落名を頼りに、地図に記載されている山道・林道を進もう、といった算段である。

梼原の観光案内所が頼り
それでも、道案内はあるのだろうか? 道案内が無い場合、そもそも谷筋から脱藩の道の峠越えの登り口・取り付き口はわかるのだろうか?などなど肝心なこともはっきりしないのだが、梼原の観光案内所に行けば、ひょっとすれ詳細な脱藩ルート地図があるかも知れない、道案内の有無も確認できるかもしれないと、梼原の観光案内所に一縷の希望を託し、ともあれ梼原に向かう。

なお、竜馬脱藩のあれこれはWebに結構多く紹介されている。折に触れメモするかもしれないが、竜馬脱藩の経緯などの詳細は他のサイトにお任せし、今回のメモは、どこにも見当たらなかった予土国境の脱藩ルートの詳細地図を作成するのをその主眼としようと思う。



本日のルート;
梼原に向かう>梼原の町;9時10分
茶屋谷の峠越え取り付き口に向かう;9時39分>川西路の茶堂;9時44分> 県道2号と合流>宮野々関門址;9時51分>宮野々廻り舞台>六丁>竜王宮(海津見神社);10時18分

坂本龍馬脱藩の道;予土国境山越えの道

◎茶屋谷から松ヶ峠を越え、四万川筋・高階野集落に下り、韮ヶ峠に上る(往路)
茶屋谷の「坂本龍馬脱藩の道」案内:10時21分>茶屋谷の茶堂;10時31分>土径(どみち)に入る;10時36分>松ヶ峠番所;10時51分>アオザレ;11時14分>ナラ山・3.3㎞標識;>林道を下り土径に入る>下井桑集落への林道と交差し再び土径に;11時50分>高階野(こうかいの)集落・四万川を渡る;12時8分>韮ヶ峠の分岐;12時11分>土径に入る:12時14分>韮ヶ峠手前の林道に出る;12時44分>韮ヶ峠;12時47分

◎韮ヶ峠から県道を車デポ地の茶屋谷に戻る(ピストン:復路)
韮ヶ峠出発;13時>高階野の集落・分岐に戻る;14時1分>?の道路標識;14時20分>下井桑の集落;14時24分>井桑渓谷;14時39分>坪野田の集落;14時52分>県道2号に;15時16分>西宮神社;15時30分>六丁の茶堂;15時51分>六丁の集落;16時>神職・長谷部家跡;16時27分>道番庄屋屋敷跡;16時30分>龍王宮;16時45分>梼原に:17時過ぎ

■梼原に向かう
前日梼原までのカーナビを設定するとおおよそ3時間半ほどかかるとある。ルートは田舎の新居浜から国道11号を西条市に向かい、加茂川西詰めで国道194号に乗り換え、寒風山トンネルを抜け高知に入り、いの町で国道439号、高岡郡津野町で国道197号に乗り換え梼原に入るようだ。
所要時間は3時間半ほど。梼原に9時頃着くために田舎を6時前に出る。9時には観光案内所が開いているだろう、との思いではある。
田舎から梼原に近づくまでは、ひたすらナビの云う通り走る。国道とはいいながら、1車線の箇所もあったかと思うのだが、急ぐあまり途中のことはあまり覚えていない。
太郎川公園
国道197号を進み、野越トンネルで梼原町に町域に入る。野越トンネルに続く神根越トンネル、風早トンネルを抜け、太郎川公園まで来て、未だ9時前ということで少し気持ちに余裕が出る。
公園には「維新の碑」と刻まれた大きな石碑があった。また公園内の案内に、野越トンネルの東側から旧道・竜馬脱藩の道が右に分岐し、トンネル上を蛇行しながら進む、とある。
少し車で引き返し、千枚田や中平善之助打ち首の地などを掠りながら、1車線の道をなりゆきで進み太郎川公園に戻る。旧道・龍馬脱藩の道は国道197号に沿って南北を進むようだが、今回は予土国境の山越えが控えている。旧道歩きはやめにして国道に戻り梼原の町に向かう。
中平善之進
津野山郷(梼原町、高岡郡東津野村(現在津野町))の庄屋。宝暦5年(1755)、藩の圧政に抗した農民一揆(密告により失敗に終わる)の責を負い、宝暦7年(1757)風早峠において斬首。

梼原の町に到着;9時10分
化粧坂トンネルを抜けると出口に「右 梼原高校」の案内。右折し、道なりに坂道を下ると大きな広場・駐車場があり、幸運なことにその前に「梼原町歴史民俗資料館」があった。
時刻は9時過ぎ。既に開館していたので館内に入る。入場券は200円。

梼原歴史民俗資料館
脱藩の道;茶屋谷から韮ヶ峠
展示資料よりなにより、まずは龍馬脱藩の道の情報集め。受付の方に、脱藩ルートの詳細地図はありますか?山越の道案内の標識はありますか?峠越えの谷筋の取り付き口の目安は?など質問。

予土国境までのルート図入手
大洲までの脱藩ルートの詳細地図はないものの、高知県と愛媛県の県境・韮ヶ峠までの龍馬脱藩の道の地図が載る、観光案内パンフレット「雲の上の町 ユスハラ」という大判のパンフレットを頂いた。結構しっかりした案内地図であり、マークした地名・集落を結ぶ龍馬脱藩の道が、予土国境までではあるものの、はじめてイメージできるようになった。愛媛県に入ってかの詳しい地図は行政区が異なり、当然ながら手にはいらなかった。

道案内は整備されている、山越えの取り付き口もわかりやすそう
また、道案内については、「坂本龍馬脱藩の道」という木標が整備されており、藪っぽい箇所もあるが木標に従えば問題ないとのこと。
最初の峠への取り付き口は、四万川の支流である本モ谷(おもたに)川を遡った茶屋谷の竜王宮(海津見神社)の近く、茶屋谷の茶堂(注:後述)が目安とのこと。これで道案内と山越えの取り付き口に関する不安は消え、一安心。

ピストン行動の時間を考慮し、急遽宿の手配をお願いする
脱藩の道;茶屋谷から韮ヶ峠標高図
韮ヶ峠までの所要時間は3時間ほどかかるでしょう、と。ということは、ピストンで行動するため往復で7時間弱。梼原から茶屋谷の峠取り付き口まで30分かかるとして、ピストンでの戻り時間は4時過ぎから5時ということになる。 夜に3時間以上かけて実家に戻り、また明日同じ距離を戻ってくるのは少々苦しい。
受付の方に宿を取りたいので観光案内所は?と聞くと、観光案内所も兼ねているので、ということで日帰りはやめ、宿を手配して頂くことにした。親切に応対して頂き誠にありがたかった。
本来であれば館内の展示も見たいのだが、なにせ気が急く。歴史民俗資料館の方には申し訳ないが、館内資料をみることなく、すぐに峠越えの取り付き口に向かいますと伝えると、それでは入館料は不要ですと返金してくれた。申し訳なし。


■茶屋谷の峠越え取り付き口に向かう;9時40分

茶屋谷の竜王宮までナビ設定。ルートは梼原の町から梼原川を越え川西路地区から真西に向かい、大越峠を越えて四万川筋で県道2号に合流。そこから四万川筋を北に進み、六丁集落で四万川の支流・本モ谷(おもだに)川筋を北に進み竜王宮に至る。このルートは梼原からの竜馬脱藩の道筋でもあった。道は大越峠を越えるが、その標高は520mほど。梼原町の標高は420mほどであるから、「峠越え」というほどでもない。大越峠を歩くのはパスする。

川西路の茶堂;9時44分
梼原川を渡り川西路地区を進むとほどなく、道の右手に茅葺・三方吹き抜けの堂がある。気になり車を停めると「茶堂」とあった。
案内には「梼原町指定文化財 茶堂(川西路) 
藩政時代からあり、現在町内には13棟残されている。建物は2間(約3.6m)に1間半(約2m)位の建物で、木造平屋建て、カヤブキ屋根、板敷の素朴な形式である。
木造、石像を安置して諸仏を祀り、津野氏の霊を慰め、行路の人々に茶菓の接待を地区民が輪番で行い、信仰と心情と社交の場としてうるわしい役割を果たしてきた。現在も行っているところもある」
津野氏
案内に「津野氏の霊を祀り」とある。気になりチェック。来歴は諸説あるも、『坂本龍馬脱藩の道を探る』には、津野氏は伊予の河野氏の意をくみ、延喜13年(913)この僻遠未開の地に入り、以来700年、伊予の文化を取り入れ、「津野山文化」と呼ばれる独特の文化を津野山郷(高岡郡梼原町、高岡郡東津野村(現在津野町))に開花させた。(中略)この秘境の文化も、戦国の嵐にはさからえず、津野氏末代の親忠(長曾我部元親の三男。津野氏の養子となる)の非業の死で家は断絶した」とある。非業の死とは、詳細は省くが、父の元親に幽閉され、弟の盛親により殺害されたことを指すのだろう。

県道2号と合流
車を進めると大越峠。左手に旧道・竜馬脱藩の道に入る道があるが、現在は維新トンネルが抜ける車道を進むと四万川の谷筋に出る。ここで県道2号に合わさる。

宮野々関門址;9時51分
県道への合流点広野集落から蛇行する川筋を北に向かい宮野々地区に。と、橋脇に「左 九十九曲峠 右宮野々関門址」の案内。ちょっと立ち寄り。道を右に入り集落を抜ける旧道を少し戻ると民家の前に大きな石碑と案内があった。 石碑は田中光顕の書で「宮野々関門址」と刻まれる。
その奥には「この番所は、寛永六年(1626年)設置され、宝暦年間より、明治初期まで片岡氏が世襲の番所役人を勤め、通行者を検問した。今も片岡氏の居宅で、その構えは旧観をしのばせている。街道は、前の川(四万川川)を渡り、稜線をつたい県境に至る。土佐勤皇の志士脱藩で人に知られるようになり、碑は梼原村が建立した」とあった。

九十九曲峠
橋にあった「九十九曲峠」は、天誅組で知られる、吉村虎太郎などの「脱藩の道」で知られる。九十九曲峠から伊予の土居(城川町)に出て、黒瀬川・肱川筋を下り大洲へと向かう。因みに、『坂本龍馬脱藩の道を探る』には、竜馬脱藩は虎太郎脱藩から20日ほど後のこと。虎太郎脱藩を見落とした番役人に対し叱責があったはずであり、厳しい取り締まりの中の龍馬脱出行であったろう、と記す。
田中光顕 
土佐藩士。那須信吾は叔父にあたる。武市半平太の尊王攘夷思想に傾倒。元治元年(1864年)に脱藩。のち高杉晋作の弟子となって長州藩を頼る。幕末の動乱期を経て、明治政府の要職を歴任。収賄疑惑の避難を浴びて政界引退後は、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力した。

宮野々廻り舞台
宮野々関門址からほどなく、車道の左手に茅葺の民家が見える。車を停めると、「津野山舞台(宮野々廻り舞台)」とあり、
「高知県指定保護民俗文化財 津野山舞台(宮野々廻り舞台)
幕末から庶民の娯楽の殿堂として農村歌舞伎などの地芝居が行われてきたもので、梼原の廻り舞台は、鍋蓋式廻り舞台であって、すべて社寺境内を利用して、一戸建てとして4棟残っている。昭和37年(1962)には高知県の保護民俗文化財の指定を受けている」と記載されていた。
『坂本龍馬脱藩の道を探る』には「舞台の中心部の床が、円形に廻るようになっていて、床の下で人の力で動かしたものであることが知れる。また、観客は、その前の広場で、露天で見物したものと思われる」とあった。

六丁集落
結構多くの民家が建つ六丁の集落で県道2号から県道304号に乗り替え、四万川の支流・本モ谷川筋を北に向かう。

三嶋神社;10時9分
富永の集落から下組の集落に。そこに社が見える。目的の竜王宮と思ったのだが、三嶋神社とあった。案内には「梼原町指定文化財・三嶋神社 永禄の戦国争乱に、伊予の大軍が国境を侵して来た時、伊予三島大明神に祈願し、勝利を得た時に勧請したもので、土佐七社の内の一社と伝えられている。永禄12年(1569)宮の成川沿いに建立したが、寛文6年(1666)洪水のため社地が流失して、現在地に奉遷した。明治41年(1908)十月、無格社四社を合祀した。拝殿の彫刻は、内子町の大工篠崎豊城作といわれている」とあった。
永禄の戦国争乱に、侵攻してきたのは誰だろう?土佐の勝利を伊予三島大明神に祈願?など気になることが多いのだが、本筋からはずれそうで、深堀りはさける。

竜王宮(海津見神社);10時18分(標高541m)
三嶋神社から10分ほどで茶屋谷に(「茶や谷」とも表記される)。本モ谷川に架かる橋を渡り竜王宮に到着。社の駐車場にデポ。『坂本龍馬脱藩の道を探る』には、「(伊予の)城川町から九十九曲峠を越した時にも、山の中に何カ所か龍王神社の道案内(中略)確認していないが、九十九曲峠の少し北の大茅峠には、かつて龍王神社の鳥居が建っていたともいわれ(中略)それほど愛媛県にも知られた有名な神社であった」とある。境内に漁船が奉納され、海の神として信仰を集めたとのことだが、何故山中に?
龍王信仰
『肱川 人と暮らし 横山昭市(愛媛県文化振興財団)』には肱川沿いに龍王伝説は「かなり多く」分布するとある。舟戸川最上流域の大野ヶ原の姫ヶ淵(小松ヶ淵)の竜王神社にも竜神様が祀られる。この社の御神体は茶屋谷の竜王神社行き来する蟄竜(土に潜む竜)とされる。
同書には、竜は蛇と同一視される、とある。蛇(龍王)は川と山、山と山を自由に動き回る。山に祀られても不思議ではない。河川改修が行われる以前の肱川は深い淵の多い「異界」の趣を呈する川ではあったのだろう。鹿野川ダムができるまでは幹線流路82キロ弱に支流311が注ぐ川故に、洪水多発の暴れ川であった、という。山間の地を大蛇の如くうねり流れる肱川を龍王さまにみたて、龍王様に安寧を願うこともあっただろうし、山間部では肱川龍王信仰によく見られる雨乞いの神として祀られた、とも記す。
そして奉納される舟であるが、往昔の運搬の主体であった舟運に関係あるのかもしれない。『肱川 人と暮ら』には、肱川筋には往昔40ほどの河港があり。肱川に注ぐ支流との合流点には河港があったとあった。この記事からの妄想ではある。
盛んであった舟運も、日本三大林業地帯として知られた肱川の筏流しとともに、大正13年に大洲から鹿野川間に県道が開かれて以来、次第に廃れていった、とのことである。


坂本龍馬脱藩の道;予土国境山越えの道スタート

茶屋谷から松ヶ峠を越え四万川の谷筋に下り、高階野集落から韮ヶ峠に上る
おおよそ8キロ・2時間半(往路)◎

茶屋谷の「坂本龍馬脱藩の道」案内:10時21分(標高530m)
車のデポ地から橋に引き返す。と、橋の手前に「坂本龍馬脱藩の道」のルートを書いた案内板がある。地図を見ながら、何気なくその裏をみると「維新の道 坂本龍馬脱藩の道(茶や谷)」とあり、龍馬脱藩の道の概要が説明されていた。
脱藩の道を歩く、とはいいながら、「脱藩の道」というキーワードに惹かれ、『坂本龍馬脱藩の道を探る』も、道筋の集落名をチェックするだけで、その内容をあまり読み込んでいない我が身にはありがたい。誠にわかりやすくまとめてくれていた。

◆「維新の道 坂本龍馬脱藩の道(茶や谷) 幕末の英雄・坂本龍馬は、同士澤村惣之丞とともに、文久2年(1862年)3月24日に高知を出奔し、翌25日に梼原に到着。
その夜、梼原の勤皇の志士である那須俊平、那須信吾父子の家に泊まり、翌26日未明に俊平・信吾父子の道案内により、宮野々の関を抜け、四万川は茶や谷の松ケ峠番所を抜けて、与土県境峠・韮ヶ峠を越え、伊予の国(愛媛県)に脱藩した。
信吾は韮ヶ峠より引き返したが、俊平は同行し,小屋村(野村町)水ヶ峠(河辺村)を経て泉ヶ峠(五十崎町)に宿泊。27日宿間村に着いた。
俊平はここから引き返し、龍馬、惣之丞は船便にて長浜町へ、その夜冨屋金兵衛宅に泊まり、28日船で2日を要して三田尻(山口県)へ到着した」とあった。

茶屋谷の茶堂;10時31分(標高559m)
茶屋谷の集落を抜け、田畑の中の道を10分ほど進むと再び民家が建つ。そこで道が左右に分岐するが、その分岐点に「茶屋谷の茶堂」が建つ。いい風情である。茶堂の案内は、既に見た川西路の茶堂と同じ。




土径(どみち)に入る;10時36分(標高584m)
「坂本龍馬脱藩の道」の木標に従い左折。舗装された道を5分ほど上ると道の山側の土径(どみち)に入る。韮ヶ峠までおよそ8キロ、途中標高900mピークまで上り、一度標高700mの谷筋まで下ったあと、標高958mの韮ヶ峠に上り返すことになる。累積の上りは700mといったところだろう。
◆どみち
因みに、ここで「土径;どみち」と言う言葉を使った。これは今回のルートを歩き、道を尋ねた地元の人から返ってきた言葉。“「どみち」になるぞ”、などと。言う、言葉の響きがいいので、使うことにした。土道、土経、土径といった表記がある。「土径」が気に入り以下この表記で通す。

林道を掠り標高を上げる;標高640m
草に蔽われた土径を進む。マムシ除けにと棒切れで草を薙ぎ、煩いハチを除けながら蛇行する林道を横切り、標高が低い故か、竹林の中を進み、右手に現れた林道を掠り(標高640m)ながら、標高を上げてゆく。等高線にほぼ垂直に上るわけで結構厳しい。標高を上げ、木も杉の樹林帯になった先に松ヶ峠番所跡があった。

松ヶ峠番所;10時51分(標高724m)
案内には、 「維新の道 坂本龍馬脱藩の道(松ヶ峠番所跡) この番所は、土予の交通の北の要所で、幕末の英雄 坂本龍馬は同志沢村惣之丞とともに、文久2年(1862)3月24日高知を出奔し25日梼原に到着、その夜梼原の勤王の志士 那須俊平・信吾父子の家に泊まり、翌26日未明、俊平・信吾父子の道案内により宮野々の関を抜け、四万川は茶や谷の松ヶ峠番所を抜けて予土県境峠・韮ヶ峠を越えて伊予の国(愛媛県)に脱藩した。
その際、「坂本龍馬まかり通る」と名のり、堂々とこの番所をぬけたという地元の口伝が残されている。また新谷藩(現在の愛媛県大洲市)藩士で、後に岩倉具視の懐刀といわれ、宮内省に勤め大正天皇の御養育係となり、明治憲法の起草者としても名が知られる香渡晋も土佐への藩用にて通った番所である」とあった。

事前に龍馬が辿った地点を、『坂本龍馬脱藩の道を探る』を元にチェックするとき、最後までわからなかったのがこの松ヶ峠。結構簡単に到着し、少し拍子抜けの感がある。地形図を見ると、南北から迫る山稜の鞍部となっており、本モ谷筋の茶や谷から、ひと山越えた四万川筋の神の山の集落へと、土径を上るときに見かけた林道が峠脇を越えていた。

新谷藩
新谷藩一万石。大洲藩5万石の支藩。『坂本龍馬脱藩の道を探る』に拠れば、明治天皇の東京遷都に際し、大洲藩はその先駆け、新谷藩は行列の後衛を勤めている。藩主自らが勤皇の姿勢を明らかにするといった、他藩とひときわ違った勤皇藩としての功績故の晴れ姿である。
鳥羽伏見の戦いを前に、長州藩兵を京に進めるに際し、兵庫表警護を命ぜられていた大洲藩は、打出浜(芦屋)に上陸した長州藩兵を迎え、あまつさえ食料・弾薬を用意した。
幕府方の攻撃で全滅覚悟であった長州兵は無傷で上陸し、結果鳥羽伏見の戦いでの勝ち戦となった。西郷隆盛をして「大洲藩なかりせば、鳥羽伏見の戦いはどうなったか。。。」と語ったという。かくの如きの勤皇藩であった。
土佐の脱藩浪士が峠越えのルートは異なるも、大洲藩の領地へと向かったのは、藩を挙げての勤皇の地としての安心感があったのでは、と同書に解説する。
香渡晋
これも、『坂本龍馬脱藩の道を探る』に拠れば、大洲藩が京都警護の内勅を受けた時、新谷藩は大洲藩の支藩という理由で内勅不要との決定に異議を唱え、香渡晋らが三条実美に嘆願書を提出し、結果、内勅を得て藩主は天皇に拝謁した、とのこと。また、江戸で学んだ香渡晋が奸物であるとして誅殺せんとした岩倉具視を訪ね、逆にその思想に感化され弟子となった、とあった。

アオザレ;11時14分(標高903m)
松ヶ峠下の舗装された林道に下る。舗装された道は松ヶ峠の辺りで実線表示となり、舗装は切れ、脱藩の道は、舗装の切れた山道(実線表示道)に入る。北の山稜の等高線を斜めに少しずつ標高をあげてゆく。スギの樹林帯、草地、沢を越え、おおよそ2キロ弱で標高を200m弱ほど上げたところに「アオザレ 4.7キロ」の木標が建つ。
この辺りをアオザレと呼ぶのだろうか、4.7キロは韮ヶ峠までの距離だろうか?唐突で少々わかりにくい。
iphoneのツール・「距離測」でチェックすると、韮ヶ峠までのおおよその距離と合っていた。それはともあれ、この辺りが山越えの最高地点だ。


「アオザレ」の木標からほんの少しの間だけ平坦な道になる。地形図を見ると、茶屋谷をずっと奥まで進んだ本モ谷(おもだに)の集落あたりからジグザグの林道が延び、このアオザレの木標の少し北を通り、高階野の集落のある四万川谷筋に下っている。
その林道から分岐した道筋がこの平坦な道筋だろう。道の周囲は開かれ、今から向かう予土国境らしき山地が遠望できる。
その平坦な広い道もすぐ行き止まりとなり、「脱藩の道」の右へと折れる。ここからは四万川の谷筋、高階野の集落に向け、トラバース気味に下ってゆくことになる。
アオザレ
「土佐のアオジャレ」とも。青崩と表記するとの記事もあった。青みを帯びた脆くて崩れやすい蛇紋岩の地質を指すようだ。そういえば、アオザレの前後に土砂崩れの箇所が3カ所ほどあった。

林道と分かれる;11時21分(標高850m)
比較的広い道を、等高線を斜めに緩やかに10mほど下ると、右へと折れる木標があり、そこからは林道を下ることになる。地図に実線で描かれた林道をトラバース気味に30mほど下ると実線の林道は左に折れるが(11時21分)、脱藩の道は北に向かって、等高線をほぼ斜めに進む。山地図には破線で描かれたルートである。

ナラ山・3.3㎞標識;11時38分(標高798m)
土砂崩れの箇所を越え(11時23分)、小さな沢(11時31分)を過ぎると樹林が切れ、周囲が少し明るくなる。「脱藩の道」はそこで、破線ルートを直角に折れ、等高線を20mほど下ると突然周りに田圃が広がる。ちょっとした棚田の風情である。まだ里に下りたわけでもないのに、これは一体何?地形図を見ると当然のことながら、等高線の間隔が広く開いた平坦地となっていた。
石組みのしっかりした田圃の間を抜けると舗装された林道に出る。そこに木標があり、「ナラ山・3.3㎞」とあった。「ナラ山」の名は随所の案内図にあり、てっきり「山」と思っていたのだが、どうも集落の名であったようだ。




あれこれチェックすると「ナラ山集落」は昭和の初めには廃村となったようだ。水田も放棄されたとあるが、現在は立派に手入れがなされている。舗装された林道のおかげで田圃は復活したのだろうか。






林道を下り土径に入る;11時48分(標高816m)
舗装された林道を下ると右から林道が合わさる(11時41分)。この右から来る林道がアオザレのところでメモした本モ谷集落から高階野の集落に繋がる林道のようだ。「ナラ山」の木標のところで出合った林道は少し南で切れていた。 さらに道を下ると「坂本龍馬脱藩の道」の木標があり、林道から左に入る(11時48分(標高))。






下井桑集落への林道と交差し再び土径に;11時50分(標高816m)
林道に沿って土径を少し進むと林道に交差。この林道は上記林道から左に折れ、同じ四万川筋ではあるが、高階野の集落の下流にある下井桑の集落に下っていた。





高階野(こうかいの)集落・四万川を渡る;12時8分(標高719m)
下井草への林道に一瞬出た「龍馬脱藩の道」は、再び高階野に下る林道壁面を右に見ながらの土径となり、等高線に沿って緩やかに下る林道から次第に離れ、等高線を斜めに進む。標高も低くなり、周囲が竹藪に覆われる辺りで等高線を垂直に下り林道に出る(12時5分)。


林道を横切り、そのまま先に進むと辺りは開け田圃の向こうに民家が見える。高階野の里に下りてきた。田圃脇を進むと細い川筋がある。四万川の上流ではあろう。





韮ヶ峠の分岐;12時11分(標高726m)
川を渡ると県道379号に出る。「坂本龍馬脱藩の道」の木標は右を指す。少し進むと高い石垣の前に韮ヶ峠までの「坂本龍馬脱藩の道」の概略図がある。木標は石垣手前の道を左に、と指す。




土径に入る:12時14分(標高745m)
簡易舗装の道を少し進むと、再び土径に入る。等高線に抗わず、蛇行を繰り返し進む県道379と異なり、道は等高線を垂直に上る。
竹藪からはじまり、杉林の中を上ると、標高850m辺りで道は平坦になり(12時28分)、杉の林も少し明るくなる。すぐ上をジグザグで上ってきた県道379号が走る。

作業道から土径に入る;12時33分(標高850m)
少しの間平坦な道を進むと、「坂本龍馬脱藩の道」は平坦な道から右に折れ(12時33分)、等高線に垂直に進むことになる。地形図を見ると平坦な道は県道から分かれた作業道らしき実線と重なっていた。




韮ヶ峠手前の県道に出る;12時44分
標高900m辺りまで上ると杉林が荒れている(12時39分)が、すぐに落ち着き道に沿って左手に小さな沢筋が見える(12時41分)。その先、林道に上る手前に大きな水管が設置されていた。沢に流れる水の大元がここ。峠の辺りを走る県道整備の折、水処理として整備されたのだろうか。ともあれ、その脇から県道379号に出る。

韮ヶ峠;12時47分(標高958m)
県道379を少し進むと四阿(あずまや)が見える。休憩所かと近づくと格好のいいお手洗だった。
峠は寂しき風情との予想と異なり大きな車道が走る。その脇に広場があり、そこには「韮ヶ峠」、「坂本龍馬脱藩の地」、「脱藩の道」の案内図やその説明(注;「茶屋谷の説明と同じであり省略する)、歌碑、そして「覚 関雄之助 口供之事」のなどがあった。

歌碑 
歌が詠まれた歌碑がある。「坂本龍馬脱藩百五十年記念歌 又あふと 思う心を しるべにて 道なき世にも 出づる旅かな」と刻まれる。全国の龍馬ファンの賛同によりできたもので、歌は龍馬が文久元年(1864)6月1日、京の伏見から江戸に向かう際、お龍と別れの杯を交わし詠んだ歌とのことである。





覚 関雄之助 口供之事
三月二六日 四満川ヨリ韮ヶ峠ニ至ル  信吾コレヨリ引返ス
小屋村ヨリ榎ヶ峠-横通リ-封事ヶ峠-三杯谷-日除 -水ヶ峠ヲ経テ 泉ヶ峠ニ至ル
龍馬俊平ト共ニ泊レリ   二七日ゝ北表村ヨリ宿間村ニ至ル
俊平コレヨリ引返ス 宿間村ヨリ金兵衛邸ニ至ルマデ 大洲城下ヲ経渉スルコト七里半
金兵衛邸ヨリ招賢閣三田尻[注;招賢閣の三文字は×印で訂正] マデ二日ヲ要セリ
明治六年一一月一五日 自宅ニテ誌ス 高松小埜」

龍馬脱藩の道散歩に先立ち、GPSツールに地名を入力したのが、『坂本龍馬脱藩の道を探る』に掲載されていた、この覚書の地名である。「脱藩の道」の道案内がなくても、これだけで脱藩の道を歩こうと思ったわけで、「なんとなかなる」も極まれり、ではある。 因みに関雄之助は沢村惣之丞のこと。高松小埜は龍馬の義兄順蔵の号。金兵衛は長浜の豪商・冨屋金兵衛。代々紺屋を営む豪商で、下関の豪商・白石正一郎と同じく勤王派志士達を援助していた人物である。 地名は散歩を続けながら折に触れて補足していくことにする。

伊予への下り口確認 
少し休憩し、韮ヶ峠での最後の仕上げは、伊予に下る道筋の確認。高知は「脱藩の道」の案内はしっかりしていたが、行政区が異なれば、さてどうだろうと、峠を愛媛県側に進む。県道脇を左に入る道に「龍馬脱藩の道」の案内があった。これで一安心。ちゃんとした道案内が続くことを祈る。 県道から分かれる愛媛県側の道脇にいくつか龍馬脱藩に関する案内があった





「風雲児 坂本龍馬 脱藩 維新の道 第一歩の地 韮ヶ峠」 
ここに書かれているのは、韮ヶ峠にあった「覚 関雄之助 口供之事」の手書きでの案内であり省略するが,その横に覚書の解説があった。






覚書の解説
「文久2年(1862)3月24日、土佐郷士、坂本龍馬は、風雲急を告げる時局を洞察し自らの使命を自覚するや、決然として土佐を脱藩した。 24日、同士沢村惣之丞と、梼原村の那須俊平信吾父子の家に泊まり、翌26日那須父子の道案内で宮野々関を破り、韮ヶ峠を越えて伊予国へ出た。 途中、泉ヶ峠、長浜村に泊まり28日船出して29日三田尻に着き4月1日、目的地の下関白石正一郎方に着いた。 これはその道中の記録である。 日本の夜明け維新の道へようこそ 日本人の心に生き続ける英雄、坂本龍馬は、この韮ヶ峠に立ち国の夜明けをしかと見て維新の道を駆け抜けていきました。 どうかこの脱藩の道を探ねられる皆さん龍馬の大志をしっかりと受けとめ、現代にこそ龍馬以上の希望を抱いて世の中にはばたいて下さい。 足元に気を付けてご無事に 惣川自治振興会 惣川公民館」

案内を読み韮ヶ峠の広場に戻る途中、県境に「我ら再び生きて 故国土州の土を踏まず 坂本龍馬 沢村惣之丞」と刻まれた石碑があり、県境に龍馬たち四名の足型をつくっていた。これって必要?










韮ヶ峠から四万川筋を下り六丁をへて車のデポ地に戻る
15キロ・おおよそ4時間(ピストン・復路)  

ともあれ、これで茶屋谷から韮ヶ峠まで歩き終えた。デポ地に戻る時間を考えると、これ以上進まないほうがよさそうだ。復路は『坂本龍馬脱藩の道を探る』に、六丁から韮ヶ峠への「坂本龍馬脱藩ルート」であろうと記載されていた、四万川沿いを歩くことにする。同書では、監視厳しき松ヶ峠番所のある茶屋谷ルートは危険であり、四万川沿いを進んだのでは、とする。

現在は県道が整備されているが、当時は道なき険路ではあったかと思う。往時の険路・悪路を想像しながら歩くのもいいかも、と。また、明日車で韮ヶ峠まで進み、そこにデポし先に進むことになるので、四万川筋の県道の状況などもチェックできるかとの思いもある。
後の祭りではあるが、距離も調べずお気楽に歩いたこのルート、距離も15キロほどあっただろうか。結局4時間近く歩くことになった。 

韮ヶ峠出発;13時 
車のデポ地に向け出発。県道379号を下る。明日車を韮ヶ峠まで動かすことを考えて県道の状況を確認のため、とはいうものの、Google Street Viewでチェックし、既に車で走るのはおおよそ問題なさそう、というのはわかっており、基本「一筆書き」、同じ道を歩くのは勘弁、ついでに前述の如く「龍馬脱藩の道」との説もある道筋も歩ける、といったところが本音ではある。
県道は韮ヶ峠から南西に突き出た尾根筋の山腹を標高850m辺りまでは、ほぼ南に、脱藩の道に平行に下る。標高850m辺りで尾根筋の突端を廻りこんだ後は、「脱藩の道」から大きく外れ、等高線に抗うことなく東へ向かい、四万川の支流の切り込んだ谷筋に沿ってU字に走り、四万川の本流らしき谷筋に当たると、その川筋に沿って弧を描いて下って行く。「脱藩の道」に比べて結構大廻りすることになる。 

高階野の集落・分岐に戻る;14時1分(標高726m) 

韮ヶ峠からおおよそ1時間で高階野の集落の「脱藩の道」分岐点に着く。上りより10分ほど長くかかった。「こうかいの」と読むようだ。 高階とは高丘起伏の地形を指すことが多い。集落の戸数は県道からざっと見た限りでは10件ほどであった。位置からすれば、予土国境の最奥部の集落のひとつのように思える。






?の道路標識;14時20分(標高)
四万川の渓流を見遣りながら進むと、道脇に「韮ヶ峠文丸線」とある。県道379号の通称のようだ。文丸とは379号が南に進み県道2号に合流するあたりの地名である。
支流に架かる橋を渡り、その先の四万川を渡る橋の手前(14時20分)に「韮ヶ峠 四国カルスト」の道案内と、「下井桑、上井桑、松山・野村・高階野の方向を記した道案内があるのだが、どう見てもどちらの表示がおかしい。
 「韮ヶ峠・四国カルスト」が南に下るようになっている。今、北の韮ヶ峠から来たわけで、また韮ヶ峠の先から「四国カルスト」への公園横断道路が走っているようだから、真逆である。「下井桑」などの道案内に至っては。天地逆にしようが、左右逆にしようが、裏表逆にしようが、まったく集落との方向とは合わない。表記された地名を歩いてきたからわかるけれど、はじめての方は戸惑うこと必至、かと。 
四国カルスト 
愛媛県と高知県との県境にある標高が約1,400m、東西に約25kmに広がるカルスト台地。カルストとは、石灰岩などの水に溶解しやすい岩石で構成された大地が雨水、地表水、土壌水、地下水などによって侵食(主として溶食)されてできた地形(鍾乳洞などの地下地形を含む)。浸食作用で地表に露出した石灰岩が点在している。四国カルストは山口県の秋吉台、福岡県の平尾台)とともに日本三大カルストのひとつ(Wikipediaより)。 

下井桑の集落;14時24分(標高649m) 
わかりにくい道路標識の先で四万川を渡ると数分で下井桑の集落に入る。道に沿って10軒ほどの民家が建つ。その集落の南端近くに井高公会堂と書かれた建物があり、その横にお堂と「井高のあゆみ」と刻まれた石碑がある。



大師像と茶堂
石碑に刻まれた内容をまとめると、「明治21年、旧井桑組と高階野組が合併し、頭文字をもって「井高」と称し現在に至る。
 当時、「滝山」の断崖絶壁が土佐からの開発を閉ざしていた。この僻地を脱すべく、道路開設に努め、大正末期に馬道が開設、昭和9年には道路開設に着手し、21年に下井桑まで、14年には高階野、15年に中井桑まで開通した。
下井桑への道路開設と同時につくった産物集荷場が現在の井高公会堂。電気は21年下井桑、22年上井桑、23年に高階野で点灯。29年には下井桑に簡易水道施設、34年には電話開通といった生活インフラが整備されていった。
また、開発の壁となっていた「滝山」を道路整備とともに「もみじ街道」とし、人々の集うこの地に大師像を建立した 平成16年 井高部落有志 大師像建立委員会」といったことが刻まれていた。

石碑横に石像があったが、新しいもののようであったので写真は撮っていないが、碑文からすれば平成16年に建立されたものだろう。また、大師像の南に「茶堂」の案内。内容は既述の説明と同じであり省略するが、公会堂横のお堂が「井高の茶堂」であった。

滝山
『坂本龍馬脱藩の道を探る』に、龍馬脱藩の道がこの四万川沿いとの記事があり、道なき険路であったろうと記したが、この石碑で馬道ができたのが大正末期というから、龍馬がこの道筋を進んだとすれば、石碑にある「滝山」の断崖絶壁を難儀しながら韮ヶ峠に向かったのではあろう。
滝山がどこを指すのか不明であるが、地形図で見ると下井桑集落の南、支流が四万川に合流する南北に岩壁の記号が連なっている。その辺りを指すのかもしれない。 

井桑渓谷;14時39分(標高600m)
井高の公会堂を先に進むと、四万川右岸の道脇やその上の山肌に10軒ほどの集落が見える。これも下井桑の集落だろう。道を進むと、龍馬脱藩の道を松ヶ峠から高階野に下る途中、「アオザレ」、「ナラ山」辺りで出合った林道の下井桑に下る道と合流する。出合地点は舗装されていた。
その先は地形図に岩壁の記号が続く一帯となる。石垣、土砂崩れ防止壁の先は、特に土砂崩れ防止の壁面工事はされていないが、岩壁が屹立する。ここを掘り割り、川筋に道を通すのは大変ではあったと思う。
岩壁地帯を過ぎ、支流が四万川に合流する地点に案内があり、「紅葉の里 これより上流は井桑渓谷と呼ばれています。自然を守り紅葉街道の推進地域です」とあった。通りすぎた岩壁地帯が「滝山」では、との地形図からの想像は、あながち間違いでもなかったように思える。

坪野田の集落;14時52分(標高570m) 
支流合流点の少し開かれた箇所を越えると、再び岩壁が迫る道筋となる。石垣、土砂崩れ防止壁など、上流部より防災工事が施されている。逆にいえば、支流合流点より上流部は、それだけ堅い岩盤地帯であったのかもしれない。勝手な妄想ではある。
岩壁地帯を抜けるとその先に坪野田の集落が道に沿って続く。20軒弱程度の民間が南北に長く続いていた。




県道2号に;15時16分(標高524m)
坪野田の集落から20分強歩き、やっと県道2号に合流。峠から歩いてきた県道379・韮ヶ峠文丸線はここで終る。県道2号との交差する辺りが文丸と呼ばれる。
 ●県道2号
梼原の東で国道197号と分かれ、四万川水系に沿って本モ谷川、四万川本流、と北西に弧を描き進み、県道379の合流点を北端に、ここからは文丸川筋に沿って南西に弧を描き、半円を成したあと大芽峠から南西に下り、愛媛県西予市城川町で国道197号と再び合流する。

西宮神社;15時30分(標高509m) 
県道2号を15分ほど歩くと四万川の対岸に社が見える。橋を渡ると「西の宮神社」とある。川を借景にした、いい雰囲気の社である。
案内には「延宝5年(1677)勧請と伝えられている。昔から六丁・坂本川両部落の産土神で、宝皇大明神と称していた。宝物に大鹿の角一対がある。
明治元年(1866)西の宮神社と改められた。大正5年(1916)文丸の白王権現、坪野田の白王権現、天神宮を合祀し、四部落の産土神とした。 昭和15年(1940)に、紀元二千六百年記念事業として境内の拡張、本殿、直会殿の増改築が行なわれた。
祭神 事代主命(蛭子命) 祭礼 十月十四日 行事 祭礼 津野山神楽」とある。

宝皇大明神は不詳。その昔兵庫県西宮の「えびすさん」で知られる西宮神社より勧請されたといった記事もあるが、祭神の「蛭子(えびす)」繋がりは感じるものの、詳しいことはわからない。
白王権現は愛媛県西予市宇和町にある四国八十八札所の四十三番・赤石寺の奥の院に祀られる。千手観音菩薩が置いていった大石を祀る白王権現の祠がある、と。
今回の出発点竜王宮でもメモしたが、この辺りは土佐とは言いながら、文化圏・経済圏としては伊予との繋がりのほうが強かったとのことが改めて実感する。それはともあれ、白王と大岩、千手観音の関係など気になるが、本筋から離れるので、思考停止。

 六丁の茶堂;15時51分(標高501m) 
県道2号を四万川に沿って歩くこと20分、道脇に六丁の茶堂がある。茅葺、3方吹き抜け、奥に幾多の石仏が祀られる。 








六丁の集落;16時(標高483m)
茶堂から10分、本モ谷川が四万川に注ぐ地点ある六丁の集落に。韮ヶ峠から3時間かかった。後はひたすら本モ谷川に沿って県道304号北に進むのみ。残すは3キロ弱だろうか。ついでのことではあるので、「坂本龍馬脱藩の道」の木標に従い道を進むことにする。 

神職・長谷部家跡;16時27分 
六丁から県道304号を進み、左岸から右岸に橋を渡ると、その先で県道は右岸を進むが、「脱藩の道」の案内は橋を渡り左岸を指す。しばし左岸の道を進み、先に訪れた三嶋神社の南、東川と思うのだが、本モ谷川に支流が流れ込み、小振りな扇状地状となった南端辺りに架かる橋のところで「坂本龍馬脱藩の道」の木標が右岸を指す。
右岸に渡り、左岸にある三嶋神社に渡る橋の手前に学校のような校庭と昔懐かしい造りの講堂のある敷地がある。学校の統廃合が進み、この校舎は使われていないようだ。地図には、近くに「小学校前」というバス停が残る。
その校庭の道沿いに案内があり、「神職・長谷部家跡(吉田神道)とあり、「神職・長谷部家跡(吉田神道) 長谷部家初代は安藝の国佐伯郡都岐山嶋大明神の祝部であったが故あって弘治元年四万川に落ち来たりて住し、直ちに神職に取り立てられた。
元禄六年(1693) に五代目が京に上り、吉田神道裁許状を授かる。津野山郷で吉田官位を受け、国名を名乗ることを許された神職は、この五代目長谷部出雲守義敦が最初である。
爾来吉田神職は(中略)土佐六郷の祭祀に(中略)参列し褒詞を受く(中略)代々郷中の至福祈願を奉じた神楽古面は当家に九面有り」といった内容の説明があった。
吉田神道
室町時代、京の吉田家に始まる神道の一派。反本地垂迹説を唱える。朝廷・幕府に支持を受け、本来神道は皇室が主家であり白川家がもっていた神職の任免権、地方の神社への神位、神職の位階授与の権限を与えられ、ほぼ全国の神社・神職をその勢力下に置く。
 江戸期に入ると幕府の令により神社本所として全国の神社・神職をその支配下に置く。明治に入り神仏分離令により吉田神道と対立する本地垂迹説は完全に衰退するも、明治政府が神祇官を設置するに至り吉田神道も衰退する。

道番庄屋屋敷跡;16時30分 
三嶋神社を越え少し進むと道脇に案内がある。

「道番庄屋・屋敷跡・広瀬家(川向い) 
広瀬家初代は、戦国時代津野氏に仕え、西口の押えとして天神森城の重鎮であり、慶長六年山内入国と同時に庄屋となる系譜は今日に至る

上段本畑・萩野公領跡地・味元家所有 
四万川村戸長役場跡・吉村虎太郎行政遺跡・石の金庫発見の地・金庫は町資料館に展示す。明治十年四万川萩野小学校新築開校す、その校舎は現在茶ヤ谷へ移す。

二階・建造物・倉庫・佐竹家 
上・下参百五拾石分の年貢、統制産物、梶、茶、葛等の集荷所兼藩公認の酒造所であった」と三つの案内がまとめられていた。

天神森城 
近辺には天神森城は検索でヒットしない。伊予の久万高原町には天神森城があるが遠すぎる。内子に龍王城があり、その枝城である北之城に広瀬氏の名が見えるが、天神森城との関連は不明。

吉村虎太郎行政遺跡・石の金庫 
津野山郷芳生野(現、高岡郡津野町)の庄屋の子として生まれる。安政6年梼原村番人大庄屋として赴任するも、武市瑞山らと土佐勤王党を結成、文久2年脱藩して京に上がった。龍馬脱藩の20日前、という。
京で頼みとする島津公に討幕の意思なく、土佐に送り返され入牢するも、那須信吾らによる、参政吉田東洋の暗殺により、武市瑞山率いる土佐勤王党が勢を増し出所。
再び京に上がり、尊王攘夷の志士と天誅組を組織し大和に兵を挙げる。しかし、八・一八の政変(文久3年8月18日(1863年9月30日)、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派と急進派公卿を京都から追放したクーデター事件)で孤立。主将中山忠光卿、総裁吉村虎太郎以下、大和の義兵千余名を加えて転戦するも、幕軍に阻まれ天誅組は崩壊、虎太郎も壮絶な戦死を遂げる。

「石の金庫」とは梼原の庄屋として在任中、村民に非常の場合に備えて貯蓄を勧め、そのお金を保管するために作った石の金庫。公平を期すため村の長老と二人で鍵を開けるようにしていた、と言う。現在は高知城に保管されている、と。 

竜王宮;16時45分(標高541m) 
往路、車で走る時は気が付かなかった案内を読み終え、歩くこと15分、やっと車のデポ地である龍王宮前の駐車場に到着。疲れ重い足取りとはいえ、韮ヶ峠から4時間弱かかった。往路2時間半、復路4時間弱、計6時間弱の散歩となった

梼原に;17時過ぎ 
これで本日の散歩は終了。宿のある梼原の街に戻ると5時を過ぎていた。韮ヶ峠で先に進むことなく、引き返してよかったと心底思った。宿は観光案内所で紹介して頂いた「雲の上のホテル別館 マルシェ・ユスハラ」。清潔で洒落た、いいホテルであった。


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