事の成り行きで一緒に黒川道を下ることにしたのだが、道らしき道は里に近づくまで一切なく、黒川谷のガレ場、ザレ場を延々と下るルートであった。黒川道は小松藩領・横峰寺の信徒の登拝道であり、往昔、西条藩・前神寺や極楽寺の信徒が登る今宮道や三十六王子社ルートより多くの人が登った道とのことだが、今となっては、道を踏み固める人も無く、安全確保の虎ロープのオンパレードといった荒れた道ではあった。
比高差1200mの往路での上りに5時間ほどかかったが、下りであるにもかかわらず4時間程かかってやっと下山。メモをしようにも、王子社といったポイントも何もなく、蔵王権現の石像が残る行場跡が一カ所のみ。時に沢(黒川)に落ちる滝が現れるものの、その他はガレ場・ザレ場、崩壊地が延々と続く。といったルートであり、果たしてメモができるものかどうか少々心もとないが、ともあれメモを書き始めることにする。
本日のルート;石鎚神社中宮・成就社>>八大龍王社>展望台に:11時52分>展望台出発;12時26分>黒川道アプローチ地点;12時50分>笹からガレ沢に;12時54分>成就社への道標:13時7分>第一リフト交差;13時9分>支尾根の間の沢に水管>右手に黒川が滝のように下る;13時29分>石組の道;13時35分>正面に滝が落ちる;13時39分>蔵王権現の石仏;13時55分>王子道の尾根筋が見える;13時58分>崩壊地;14時10分>成就社2.5㎞の標識;14時18分>沢を渡る;14時41分>成就社まで2,750m標識;14時45分>杉林が見えてくる;14時55分>上黒川集落;15時25分>石灯籠とお地蔵様;15時34分>「成就社 5.0km標識」;15時39分>下黒川集落;15時42分>下山;15時58分>烏帽子岩;16時4分>横峰寺別院;16時12分>河口の車デポ地;16時12分
石鎚神社中宮・成就社
八大龍王社の傍にある第二十稚児宮鈴之巫王子社の左手にある見返遥拝殿から石鎚のお山・弥山に拝礼し本殿に。本殿は昭和55年(1980)の火災で焼失。昭和57年(1982)に再建されたようである。本殿の前に立つ少々小ぶりな鳥居は二の鳥居のようである。
既に何度かメモしたように、ここはもと前神寺の石鎚山修験道の根本道場であった。「常住」と称されたとのことであるので、通年で修験行者できる拠点ではあったのだろう。石鎚神社中宮成就社となったのは明治3年(1870)の神仏分離令により蔵王権現号を廃し石鉄神社が誕生してからのこと。明治8年(1875)には前神寺所管の土地建物など一切が石鎚神社の所有となった。
このことにより、奈良時代より石鎚山信仰の中心であった別当寺・前神寺は廃され、里前神寺は石鎚神社の本社となり、石鎚中腹にあり信仰の重要拠点でもあったこの地、「常住・奥前神寺」も石鎚神社に移され、名も「成就」と改められ、成就社となった。
石鎚のお山には子供の頃から幾度となく上っている。成就社も幾度も訪れている。しかし、この社と前神寺の関係、この地が小松藩と西条藩の境であるが故の横峰寺との争い、横峰寺信徒による「常住」打ちこわし事件など、今回の石鎚三十六王子社散歩を終えてメモする段階になるまで、まったく知らなかった。ちょっと「深堀り」すれば、あれこれと知らないことが登場する。実際散歩の後のメモは少々時間が取られはするのだけれど、散歩の原則「歩く・見る・書く」を改めて思い起こす。
●常住
石鎚のお山は、本邦初の説話集である日本霊異記に「石鎚山の名は石槌の神が座すによる」とあるように、山そのものが神として信仰される山岳信仰の霊地であった。山岳信仰伝説の祖・役行者が開山との伝説もある。その霊山に役行者の5代の弟子・芳元(讃岐の生まれ)が大峰山で修行の後、石鎚山に熊野権現を勧請し、石槌の神は石鎚蔵王権現として信仰されることになる。奈良時代のことという。
その芳元と同じ頃、『日本霊異記』では「寂仙」、『文徳実録』では「上仙」、また前神寺や横峰寺の縁起には常仙とも石仙とも称される高僧が山に籠もって修行に努め登拝路を開き、前神寺(横峰寺も)開いたと云う。この場合の前神寺とは「常住」の地に開いたお寺ではあろう。
現在石鎚神社本社・口之宮は、もとは里前神寺のあった場所であるが、これは江戸の頃建立されたもの。前神寺は石鎚山の別当寺であり、また四国霊場の札所でもある。その前神寺が石鎚山腹にあるのは、参拝に少々不便なため、庶民の参詣が盛んとなった江戸時代に新居郡西田村(現西条市)の山麓に新たに前神寺を建立したわけである。
神仏分離令により一時廃寺となった前神寺であるが、明治11年(1889)現在の地に前記寺、後に前神寺として旧名に復し石土蔵王権現信仰を継承した。
石鎚神社常住社(現成就社)となった常住・旧奥前神寺も、前神寺が復したため再建されることになる。一時河口と成就を結ぶ登山道脇に再建されたようだが、ロープウェイ開通によって登拝の流れが変わったため、昭和45年(1970)前神寺奥の院として現在地に移したとのことである。
◆常住から成就
『石鎚 旧跡三十六王子社』には「古伝に石鎚山開祖、役の行者が、今宮の八郎兵衛を道案内として、此所に登山し久しく参籠し池を掘り(宮川旅館裏にあり)毎日この池で禊(みそぎ)をして心身を清め、石鎚大神の神霊を拝さんと祈願したが其の霊験なく、力つきて下山しようとした時白髪の老人が現はれ斧を砥石で磨いているので、その故を問うと老人答えて曰く「之は砥いで針にするのだ」この言葉に感じ挫折してはならない、成せばなると心に言い聞かせ再び行を続け石鎚大神の霊験を得て、石鎚山を開山し此所に帰り、(遥かにお山を見返し、吾願い成就せり)と、仰ぎ拝したと云う。故を以って以来成就社と名づけられ、見返り遥拝殿の由緒でもある」とある。
ここには「常住」の文字はない。が、上のお話は少々「出来過ぎ」のように思える。「常住」>「成就」、「音」が似通っていることからの後世の創作であろうか。
●十亀宮司の像
境内にメガネをかけた銅像が立つ。江戸の末期には既に踏まれることもなくなった石鎚三十六王子社に再び光をあてた人物、石鎚神社宮司・十亀和作氏の像である。「石鎚信仰は里宮本社、中宮成就社と石鎚山奥宮頂上社からなる。その道中石鎚霊山にちなむ三十六王子社が祀られるが、現在は唯掛け声として唱えられている伝語であるが、両部神道(「仏教の真言宗(密教)の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想(Wikipedia)」)の名残をとどめ、将来も石鎚信仰から消え去ることはない。
しかしそれだけではなんの意味もなく、これを究明するのが責務。各方面からの要望もあり、往古役行者より代々の修験者の、足跡を足で歩いて直に踏み訪ねる(『石鎚信仰の歩み』)」と昭和38年(1963)に企画し、社蔵の古文書や、古老の口碑、各王子社に建つ昭和六年十一月と記した石標(大十代武智通定宮司の時代)を元に現地踏査し、「何百年かの間、時代の変遷とともに登山道が逐次変更され、一部の王子を除いて殆ど日の目を見ない辺鄙と化していたため、探し当てるのは容易でなかった」王子社を46年(1971)に調査し、昭和47年(1972)に『石鎚山旧跡三十六王子社』として発行された。今回歩く石鎚三十六王子社はこの調査の結果比定された王子社である。
アプローチ地点を探す
八大龍王社
さて、黒川道へのアプローチ地点を探す。弟が昔黒川道を上ってきたときは、展望台のあるスキー場第一リフト辺りに這い上がってきたようであり、沢筋を辿ったわけではないようで、第二十稚児宮鈴之巫王子社の横にあった八大龍王の御池の水が黒川の源流と云う事でもあり、八大龍王の祠周辺になにか痕跡はないものかとチェックに動く。
地形図で見る限り、八大龍王の裏手、スキー場第一リフト(普段はロープウエイから成就社に向かう観光リフト)から成就社に続く遊歩道の途中から、如何にも沢筋らしき切れ込みが丁度黒川を示す「実線」辺りまで続いている。遊歩道のどこからか下れる箇所を探したようだが、見つからなかった、と。
◆八大龍王社
神社の案内に拠ればその由緒には、「石鎚山中では〔水〕は大変貴重であり、ここ成就社では、往古より八大龍王神が水を司る神として奉斎されてきた。開山の祖、役行者の勧進とも伝えられる。
ご祭神故か女性参拝者も多く、厳しい天候の中も祈願を行う方が絶えない。脱皮から再生復活、水遠の命や若返りのご神徳、七生報国の由来ともされる。 古来の八大龍王社殿横には御神水の湧き出る泉がある。砲台地形の成就社境内での不思議の一つと数えられる。この泉は役行者が襖(みそぎ)をした、とも伝えられ、黒川谷の源流でもある。
昭和55年の成就社大火にて八大龍王社は焼失したが翌年再建立され、平成21年春には再び建立された。八大龍王社のおかげ話を始め、成就社大火後の御遷座時にまつわる不思議な出来事などは、現在でも当時の方かち直接伺い知ることが出来る。霊峰石鎚山 総本宮 石鎚神社」とあった。
本殿廻りの遊歩道から展望台に;12時37分
八大龍王社から本殿をグルリと一周する遊歩道もあるようだが、我々はその遊歩道の逆回り、本殿北端を崖下に注意しながら進む。ほとんど本殿裏といった場所を進み、スキー場第一リフト方面からの道が遊歩道に当たるところに小さな鳥居が建つ。
展望台に:11時52分(標高1414m)
遊歩道の鳥居に向かってスキー場リフト方面から家族連れが道を上ってくる。右手の崖から下りる道は無いかとチェックしながら進むが、そのような箇所は見当たらない。結局スキー場第一リフトまで進み、リフト職員に黒川道のアプローチを尋ねるが、崩壊地が多く通行止めとのこと。
弟にしてみれば、スキー場第一リフトに沿って斜面を下れば黒川道に出ることはわかっているのだが、通行止めと伝えられた職員の眼の前を、リフトに沿って下るわけにもいかず、昼食も兼ねて展望台で大休止することにして、別のアプローチ地点を探すことにしたようだ。
展望台から瓶ヶ森の美しい稜線を眺めながら、同行したご夫妻の奥様による手料理をごちそうになる。単独行の場合は、粒あんのアンパンか柿の種がメーンディッシュのわが身には、卵焼きなど誠に美味しい昼食となった。
展望台出発;12時26分
お昼を済ませ展望台を出発。黒川道への手掛かりは依然不明ではあるが、弟は成就社からロープウエイ乗り場までの遊歩道から下る道を探す方針だったようである。
黒川道を下る
黒川道アプローチ地点;12時50分(標高1,393m)
12時44分、成就社境内を離れ遊歩道を下る。5分程度お気楽に道を下っていると、突然弟が何か「ノイズ」を感じたらしく、道の左手の笹の中に入る。
しばし様子眺めの状態のあと、笹から姿を現し、「どうもこのルートらしい」と。僅かに踏み込まれた笹の中に、ルートを示す「誘導ロープ」を見つけたようだ。お見事。
アプローチが見つからなければロープウエイで下山という話もあり、膝に故障を抱えるわが身は、本心では「目出度さも中位なり」といった心持ではあったが、黒川道を下ることにする。
笹からガレ沢に;12時54分(標高1,355m)
下り口は一面の笹。笹の中の踏み跡を、時に誘導ロープに従い高度を50mほど下げると笹が切れ、ガレた沢に出る。水は何もないが、これが黒川の上流端辺りではあろう。
成就社への道標:13時7分(標高1,280m)
足元の危うい沢筋を10分程度下ると「成就社 愛媛の森林基金」が沢筋に立つ。標識の方向は下って来たルートを示している。後日衛星写真で確認すると、成就社の北、遊歩道とスキー場に囲まれた谷の自然林の中を下っていたように見える。
第一リフト交差;13時9分(標高1,278m)
道標から数分、ガレた沢を下ると前方にリフトが見えてきた。先に進むと道は リフトの下、防御カバーの下を潜る。リフトは先ほど休憩した展望台近くに続く第一リフトのようである。右手から下り左手で展望台方面に向かって上ってゆく。リフトのお客さんと軽口のキャッチボールを楽しみながら、数分の間は沢を離れルートを進む。
支尾根の間の沢に水管(標高1,165m)
リフト付近で落ち着いた道は黒川に近づき、少しの間沢に沿って進むが、次第に沢筋から離れ支尾根筋に向かう。リフト交差部から15分ほど歩き支尾根の間の小さな沢筋にかかると、沢を跨ぐ水管が現れる、水管は何処に向かうのだろう。
右手に黒川が滝のように下る;13時29分(標高1,125m)
支尾根の間に入り、黒川の沢筋から結構離れたため自然林に阻まれ姿を消していた黒川であるが、支尾根が合わさり、沢筋が消えたあたりで右手に現れる。まるで滝のように下っていた。
あまりに急勾配で下るため、当日は黒川とは思っていなかったのだが、メモの段階で地形図を見ると、黒川筋の等高線が狭まっていた。
道を左手から下り黒川に合わさる辺りに下りる途中に水槽らしきものがあった。先ほどの水管は一旦ここに貯められ、ここから更に下に向かって下っていた。
石組の道;13時35分(標高1,064m)
右手に近づく黒川の急勾配の沢を見遣りながら進むと、左手から沢筋が黒川道と交差する。水は少なく濡れた岩盤状で道に合わさるが、水が多ければ滝といった風情である。その先の捻じれた鉄板で沢を渡る。
右手が谷に切れ落ちた箇所を虎ロープで安全を確保しながら進むと、右手に滝が見えてくる。その滝を見遣りながら進むと石組みのしっかりした道が現れる。その石組みも一瞬で終える。
正面に滝が落ちる;13時39分(標高1,054m)
石組みの道から沢筋に下りる。眼前に滝が落ちる。これも当日は黒川に注ぐ支流の滝かと思っていたのだが、どうも崖を落ちる黒川そのもののようである。水量が多ければ、結構迫力のある滝であろう。
蔵王権現の石仏;13時55分(標高958m)
沢筋に下りてしばらくは、左岸のゆるやかな傾斜の道を進む。ただ、ガレ場、ザレ場が続き虎ロープが張られた足元の危うい道ではある。
(補足;地図の川のラインはトラックログの左にあり、右岸を進んだようになっている。左岸を下っているのは間違いない。弟のログも同じく右岸を進んでいる。2012年の黒川谷を上った時のログも右岸である。谷筋の電波状態と一言で片づけていいのだろうか。この規則的なエラーの原因が何か調べてみたいものである)
滝を正面に見た沢筋から15分ほど歩くと大きな岩壁があり、その前に石像が立つ。かつての行場跡のようだ。石像は蔵王権現の石像だろう。右足を上げたそのお姿は、石鎚の神と伊曽乃神(女神)とのエピソードを思い起こすと、結構微笑ましい。
◆石鎚大神と伊曽乃神(女神)
第十七女人返王子社のところでメモしたが、太古、石鎚大神がお山山頂に上る時、伊曽乃神(女神)が、いつまでも後を慕ってくる。霊山にて修行する石鎚大神は少々困惑し、再び会う日(12月9日)を約束し、修行のお山に登って投げる石の落ちた所で待ってほしいとお願いする。
が結局石鎚大神は、その約束を守らなかった。右足を上げた石鎚大権現(蔵王)の像もあるというが、それは約束を破られ怒った伊曽乃神が現れたとき、天に逃げあがろうとする姿といったお話もあるようだ。少々「出来過ぎ」の感はあるが、それであれば、それなりに「坐り」は、いい。
王子道の尾根筋が見える;13時58分(標高958m)
行者場を越える辺りから右手が開け、往路で王子社を辿った尾根筋が見える。位置から見て第十五矢倉王子社から第十六山伏王子社当たりの尾根稜線ではないだろうか。
崩壊地;14時10分(標高900m)
道は未だ落ち着かない。行者堂跡から先で道は沢筋から離れて行く。右手の谷が切れ落ちており、虎ロープのオンパレードである。進んだ後で振り返ると、崖がすっぱりと切れ落ちていた。崩壊地の上を迂回して進んだようだ。
成就社2.5㎞の標識;14時18分(標高894m)
崩壊地の先もザレ道、ガレ道にトラロープが張られる。トラバース気味に進んだ道が、等高線に沿って垂直に下る箇所の岩場に「成就社2.5㎞の標識」が 立つ。黒川道を1時間半ほど下ったが、まだ2.5㎞しか進んでいない。それより、崩壊地からこの木標まで地図ではほとんど距離がないのに、18分もかかっている。ガレ・ザレ場に難儀して距離が稼げていないようだ。
沢を渡る;14時41分(標高773m)
急な斜面を虎ロープを頼りに高度を60mほど下げた後、支尾根を巻くように進み、支尾根を廻り切った辺りで沢を渡る。地形図を見ると支尾根左側に切れ込んだ等高線が見える。そこからの沢水だろう。
成就社まで2,750m標識;14時45分(標高958m)
そのすぐ先に「成就社まで2,750m標識」が倒れていた。標識の前後は少し緩やかな道。黒川から比高差90mほどの処であり、黒川道の中では黒川から最も離れた箇所を進むことになる。
杉林が見えてくる;14時55分(標高673m)
緩やかな下りも、ほどなく等高線に垂直に70mほど自然林の中を下り、小さな沢を越えた先で杉林が見えてくる。植林地が見えると、里に近づいた気持ちになる。
道も踏まれたものになるかと思ったのだが、ガレ、ザレ、更に虎ロープの張られている箇所(15時4分)を越えた後、道は次第に落ち着き、15時17分頃には結構踏み込まれた道となる。
上黒川集落;15時25分(標高454m)
杉林の中を進む。道も結構踏み込まれて安定した頃、道脇に石垣が現れる。そのすぐ先、道の右手、左手に廃屋が残る。上黒川の集落跡だろうか。
今は数軒の廃屋と石垣、コンクリートの水槽などが残るだけではあるが、大正初期には黒川道を辿る登拝者のための季節宿が11軒もあったとのことである。
石灯籠とお地蔵様;15時34分(標高432m)
廃屋の地から5分ほど下ると道脇に石鎚山と刻まれた石灯籠が立ち、その傍にお地蔵様と小祠が祀られる。
「成就社 5.0km標識」;15時39分(標高400m)
踏み込まれた道を5分ほど進むと「成就社 5.0km」と書かれた木標と「成就社」の方向示す木標。3時間半ほどで5キロ下ってきた。残りはほぼ1キロか。
下黒川集落;15時42分(標高378m)
平坦な道を更に進むとほどなく、立派な石垣が現れる。その先には倒壊した廃屋が残る。下黒川集落跡ではないだろうか。この地にも大正初期には登拝者の季節宿が11軒あったとのこと。
「えひめの記憶」に拠ると、昭和33年(1958)の調査時点では黒川村(上黒川と下黒川集落からなるのだろう)に24世帯もあったとのこと。
この時点では季節宿は黒川村で7軒と大正初期から比べると減少しているが、その因は、登拝者の多くは成就社の宮川旅館や白石旅館や常住屋に泊まるようになっていた、とのこと。
半井梧菴の著「愛媛面影」に文久2年(1862)の登拝記が記されるが、そこには「(前略)板摺(虎杖)瀬と名づく。橋を渡って登ること十五町ばかりで下黒川村につく。今日は常住まで行きたいと思ったがそこは客を泊めることを許さない掟なるよし、さればとて此所に宿る」とあり、かつては成就社では一般客は宿泊できなかったようである。
下山;15時58分(標高237m)
下黒川集落の先もしばらく平坦な道を進み、虎杖(いたずり)に向けて突き出た支尾根を廻りこみ、そこからは等高線を斜め、平行、斜めとゆっくり虎杖に下りてゆく。右手に川が見えてみた。
当日は黒川かと思っていたのだが、河口に下る加茂川であった。舗装された県道142号道路に下りた時間は15時58分となっていた。4時間もの長丁場。踏まれた道は1時間弱、3時間ほどはザレ場、ガレ場を下る少々荒れた道であった。下山口には「成就社まで6km」の案内とともに、「通行止め」の標識が立っていた。
◆虎杖(いたずり)
下山口の虎杖集落の加茂川には虎杖橋が架かる。虎杖を「いたずり」と呼ぶのはなぜだろう?チェックすると、虎杖は「イタドリ」の中国での表記のよう。「イタズリ」は「イタドリ」の転化ではあろうが、それは我々が子供のときによく食べが「タシッポ」のことである。
野に生えるありふれた「イタドリ」が「虎杖」とは大層な、と思うのだけど、それは平安時代の清少納言も感じたらしく、「格別のことはないのに文字で表すと大袈裟になるものがあるとして、覆盆子(イチゴ)、鴨頭草(ツユクサ)、山もも(楊梅)などを挙げた後で、「イタドリ」は特に異様で「虎の杖」と書くようだが、虎は杖などなくても平気な顔をしているのに」と「虎杖」を挙げている。
「イタドリ」が虎杖と表記されたのは「茎が杖になり茎に虎の斑点があるから」といったその形状から、中国の人が斯く表記したとの説もあるが、日本で虎杖と同じ植物と比定され「イタドリ」とされたその由来は。この植物の根が虎杖根などと呼ばれ漢方で痛み止め、「痛取り(いたどり)」として重宝された故といった説もあるようだ。
◆イタドリとタシッポ
それはそれでいいのだが、我々が呼ぶ「タシッポ」と「イタドリ」の関係は? チェックすると、「イタドリ」の古名は「タヂイ(タヂヒ)」と呼ばれたことが日本書紀や古事記に記載されているとのこと。「多遅花は今の虎杖花(いたどりのはな)なり」と記される。蝮は「たぢひ」と呼ばれたようであり、中国と異なり虎のいない日本では、その斑点を蝮(まむし)と見たのだろか。
イタドリのことを近畿ではタジナ・タジンボ・ダンジなどと呼ばれるようだが、我々が子供の頃、酸っぱい茎を食べていた「タシッポ」も「タジヒ」の音韻転化の一つではあろう。
烏帽子岩;16時4分
下山口から虎杖橋の逆方向、河口方面に向かう加茂川対岸に巨大な岩が川床に屹立する。「天狗の屏風岩」とも「烏帽子岩」とも呼ばれるようだ。「烏帽子石あり其大さ立五間巾六間」ということで、おおよそ縦9m横幅11mといったもの。岩の後ろの山稜を借景に、誠に美しい眺めである。
横峰寺別院;16時12分(標高204m)
下山箇所から県道142号を10分弱歩き、黒川に架かる黒川橋を渡る(16時11分)と河口の集落に入る。道の右側に鳥居の建つ建物がある。同行の皆さんは何度も訪れているのだろう、そのまま通り過ぎたのだが、気になりメモの段階でチェックするとそこは横峰寺別院であった。鳥居が建つのは神仏混淆の名残ではあろう。
平成16年(2004)の台風で四国霊場60番札所横峯寺への道が寸断され参拝が困難となったとき、本院への登山林道が開かれる5ケ月は黒瀬峠の京屋旅館付近に仮札所・納教所を設けたが、後にこの別院に仮札所を移し、お遍路さんに便宜を図ったようである。
もっとも弟の記事に拠れば、平成24年(2012)の段階でも、虎杖からモエ坂を経て横峰寺に登る登拝古道は結構荒れたままのようである。
河口の車デポ地;16時12分
河口の種楽を抜け、今宮道取り付口の車デポ地に戻る。下り4時間半ほどの長丁場となっていた。
これで第一福王子社から第二十稚児宮鈴巫王子社までを歩いた。次回は西之川谷筋の第二十一番札所から第三十四夜明峠王子社まで。標高450mから1600mの比高差1200mほどの登りとともに、入り込んだ複雑な順路の「謎」が実際に歩けば少しは実感できるか否か、結構楽しみではある。積雪次第だが、できれば今年中に歩ければとは思う。
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