土曜日, 12月 10, 2016

伊予 石鎚三十六王子社散歩 そのⅠ;序

「お山は三十六王子、ナンマイダンボ(南無阿弥陀仏のなまり)」。往昔、先達に導かれた石鎚講中の登拝者はこの唱えことばをかけながら険しい登拝道を霊山石鎚の頂上を目指した、と聞く。
石鎚に王子社があることを知ったのは平成22年(2010)、弟の還暦記念のため雪の石鎚山に上った時のことである。石鎚神社中宮・成就社の本殿と見返遙拝殿の右手、八大龍王の祠の傍に、第二十 稚子宮鈴之巫女王子社があるのを知った。

石鎚三十六王子社 Google Eaerhで作成
「王子社」に出合ったのはこれがはじめてではない。いつだったか、熊野古道・中辺路道を歩いたとき、熊野九十九王子社のいくつかに出合っていた。『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』によれば、熊野参拝道の王子とは、熊野権現の分身として出現する御子神。その御子神・王子は神仏の宿るところにはどこでも出現し参詣者を見守った、とのことである。

その王子社が石鎚山にもあった。王子社の建つ登拝道を辿りたいと思っていた。思っていたのだが、詳しいルートや所在地がわからずそのまま時が過ぎていた。が、思わぬところから石鎚三十六王子社のルートと所在地が登場した。 山歩きフリークの弟が平成22年(2012)に、既に石鎚三十六王子社を歩き終え、詳細な行動記録とルート地図・写真をHPにアップしていたのだ。昭和46年(1971)に、石鎚神社十亀和作宮司ら8名2泊3日の予定で現地調査し、昭和47年(1972)に『石鎚山 旧跡三十六王子社』として発行された小冊子などを基に踏査したとのことである。弟は藪漕ぎ専門で、歴史にそれほどフックが掛っていないだろうと思い込んでいたわけで、灯台下暗し、とはこういうことだろう。
弟の記事を読むまで、石鎚三十六王子社の建つところは、加茂川の谷筋から石鎚山山腹(標高1450m)の成就社に登る尾根筋にあるのだろう思い込んでいた。加茂川の谷筋を県道12号に沿って進み、県道142号と分かれる(氷見から上ってきた県道142号は、黒瀬峠から河口までは県道12号と同じ)河口(こうぐち)から、成就社のある石鎚山麓まで進む尾根道筋にあるのだろうと思っていたのだが、弟の記事によると、第一の王子社は黒瀬ダム近く、黒瀬峠あたりからはじまるっている。
大雑把に言うと、第一福王子社から第六子安王子社までは黒瀬峠から河口まで。加茂川の川筋に沿って、県道から比高差50mから150mほどのところを進む。次いで、第七黒川王子社から第二十稚子宮鈴之巫女王子社までは、河口から成就社までの尾根道を等高線にほぼ垂直に6キロ、比高差1200mほどを上る。 その先、第二十一大元王子社から第三十四夜明峠王子社までは、再びお山を西之川の谷筋まで下り、複雑極まりない順路をお山の夜明峠までに上っていくようだ。第三十五裏行場王子社と第三十六天狗嶽王子社は標高1980mの石鎚山頂・弥山にある、と言う。

ルートを想うに、車での単独行であり、第一から第六王子社までの10キロ弱は、車デポ地までのピストンを繰り返し1回か2回で終える。第七から第二十王子社のある成就社までの尾根道は6キロ程度、5時間ほどの歩きだろうから、一気に1回で終えることにしようと思う。車は河口の尾根道取り付口に置き、尾根を成就社まで進み、そこからロープウエイで下り、バスで車デポ地まで戻ればよさそうではある。第二十一から第三十六王子社までは今は冬でもあり、来年のお楽しみとなるだろう。
ということで、晩秋のある日、第一王子社から第六王子社まで歩こうと、スタート地点の西条市を流れる加茂川を堰止めた黒瀬ダム近くの黒瀬峠へと向かった。


本日のルート;
第一王子社から第四王子社まで
黒瀬峠>一の鳥居>黒瀬峠傍に車デポ>第一福王子社>上の原地区を進む>沢が切れ込む箇所に>「七曲り」を下り沢に出る>沢から拝礼道に登る>第二桧王子社>極楽寺分岐>極楽寺>植林地帯を進む>第三大保木王子社(覗の王子)>ザレ場を下る>第四鞘掛王子>県道に下りる
車デポ地に戻る
仙徳寺>極楽寺別院>西南日本中央構造線の黒瀬断層>車デポ地に
第五王子社から第六王子社まで
第五細野王子社に向かう>古長河内神社>細野集落への分岐道>細野集落跡>道が荒れてくる>迫割禅定>第五細野王子社>沢のガレ場を下る>第六子安王子社>ガレ場を下りる>旧県道の隧道>三碧橋



黒瀬峠
実家の新居浜市から国道11号を西条市に向かい、加茂川に架かる橋の西詰から左に折れる国道194号に乗り換え、加茂川に沿って北に向かう。松山道の高架が目に入る手前で右に分岐する県道12号に乗り換え、黒瀬ダムに沿って進み県道142号が合流する箇所まで車を進める。合流点の県道142号の黒瀬峠は切通しとなっていた。




黒瀬ダム
愛媛県の資料によれば、「黒瀬ダムは、洪水調節や農業用水などの不特定用水の補給及び工業用水の確保を目的として建設された多目的ダムであり、昭和39年度から調査を開始し、昭和41年度工事着手、補償問題、物価の上昇など様々な問題に直面しながらも昭和48年3月に完成しました。
ダム設置後の昭和50年代には、天然資源による循環型エネルギーの開発が強く望まれていたことから、住友共同電力株式会社がダムサイト下流約0.3kmの地点において、ダムから放流される流水の落差を利用したダム水路式の黒瀬発電所を建設し、昭和57年9月1日より水力発電を行っています」とあった。

一の鳥居
豪快な切通しが気になり、ちょっと県道142号に寄り道。切通しを抜けると無住と思える数軒の民家があり、その先に鳥居が建つ。鳥居の傍に石碑があり「砂田」とか、「昭和弐年拾月建立」といった文字が読める。昭和2年(1927)に建立されたようだ。この鳥居は石鎚神社の「一の鳥居」と称される。

が、ここでちょっと疑問。何故にこの地に一の鳥居が建つのだろう。あれこれチェックすると新居浜市の図書館にあった『石鎚信仰の歩み;発行代表者十亀興美(石鎚神社頂上社復興奉賛会発行)』に「一の鳥居」に関する既述があった。 その記事に拠ると、石碑には「奉納者砂田篤志、建立・黒川カメ 昭和弐年拾月建立、黒川実」と刻まれていることのこと。奉納者の砂田篤志氏は壬生川市三津屋の生まれで台湾で材木商を営み、台湾安里山の桧材を鳥居建立のため奉納した、とある。
台湾から材木を壬生川に船で送り、荷馬車でこの地まで運び、当時は大きい桧を削り両端を銅板で巻いたが、現在は腐食防止のため、亜鉛版入りのトタン巻きとなっているとのこと。建立に際しては、県道専用願いがなかなか許可されなかったようである。
なに故にこの地に?
建立の時期が昭和2年(1927)ということにより、この地に建立した要因を妄想逞しくするに、どうも県道の開削と大いに関係があるように思える。 『石鎚信仰の歩み』には、「明治末期に西条から伸びた県道も大正8年頃には大保木の極楽寺の下付近まで伸びる。氷見からの県道も大正9年には黒瀬峠の掘割工事が行われる。
大正10年には千野々まで開設が進み、極楽寺では県道の傍らに別院を建てる。昔は氷見から千野々まで駄馬が通っていたが、新道の開設により荷馬車が通行するようになる。
県道の開設により登拝者も長谷道(氷見からの県道142号沿いに長谷の集落がある)から黒瀬峠を越え、黒瀬からは新道を歩くように変わった。県道は大正15年に河口まで、昭和2年西之川まで伸びた」といった記事があった。 それまで山道を辿るいくつもの登拝道をお山に向かった登拝者も、新たに開削された県道を西条や氷見から黒瀬峠へと進み、そこからは加茂川の谷筋に沿って県道を河口(こうぐち)まで歩いた後、河口から今宮道や黒川道を上り、お山へと登ることになったのだろう。

で、何故にこの地か、ということだが、氷見からの県道を進み、西条から河口に向かう県道(当時は黒瀬ダムも建設されていないわけで、県道は現在の道筋より谷に下りたところを進んだのではあろう)に合流する地点であり、開削された切通し、という誠に「神々しく」もあり「わかりやすい」ロケーションを鳥居建立の地としたのではないだろうか。単なる妄想。根拠なし。
因みに「二の鳥居」は石鎚山の中腹、標高1450mの高所にある成就社にある(成就社境内の拝殿前にあるちょっと小振りな鳥居がそれだろう)。
石鎚神社
現在石鎚山信仰は石鎚神社が司る。石鎚山頂(弥山)の頂上社(奥之宮)、石鎚山中腹の成就社(中之宮)、里の本社(口之宮)の三社をもって石土毘古神(石鎚大神)を祀る。が、石鎚神社が石鎚山信仰の中心となったのは、それほど昔ではない。明治3年(1870)、明治新政府の神仏分離令により、石鉄神社(後に石鎚神社に改称)が誕生して以来のことである。
それまでの石鎚山信仰の経緯であるが、『山と信仰 石鎚山;森正史(佼成出版社)』には「役小角の開山と伝えられ、以来、前神寺・横峯寺を別当寺とし、石鎚大神を石鎚蔵王大権現と称して、1300年あまりにわたって神仏習合の信仰(石鎚修験道)を伝えてきたが、明治3年(1870)、神仏分離によって権現号を廃し、石鉄神社(のちに石鎚神社)と改めて、新たな出発をすることになった。
明治6年(1873)、別当の横峯寺を廃して西遥拝所と改め、8年(1875)には別当前神寺を廃して東遥拝所とするとともに、前神寺所管の土地建物など一切を神社の所有とした。さらにその後、明治41年(1908)には東遥拝所を改めて石鎚口之宮(本社)とし、西遥拝所を口之宮に合併して神社の新たな基盤を確立した」とある。
明治2年(1869)に始まった神仏分離の取り調べに関しては横峯寺のある小松藩からは、石鎚山に祀られる像(蔵王大権現のことだろう)を「神」と復名、前神寺のある西条藩からは「仏体」であるとして譲ることなく主張するなどの経緯はあったようだが、結局は1300年にわたって石鎚山信仰の中心であった別当寺・前神寺は廃され、その地は石鎚神社の本社となり、石鎚中腹にあり信仰の重要拠点でもあった「常住・奥前神寺」も前神寺から石鎚神社に移され、名も「成就」と改められ、成就社となり、また、横峯寺は西遥拝所横峯社となった。
前神寺・横峯寺のその後
寺領をすべて没収された前神寺は一時廃寺となるも、その処分を不服とし訴訟を起こすといったことを経て、のちに前上寺として現在地に再興され、明治21年(1889)には旧称前神寺に復した。同じく横峯寺も明治42年(1909)、再び横峰寺として旧に復した。明治新政府の性急なる神仏分離令への反省の状況も踏まえての処置ではあろうか。
因みに前神寺は四国霊場64番札所、横峰寺は60番札所でもある。

石鎚三十六王子社の散歩のメモをはじめようと思うのだが、そもそも「石鎚三十六王子社」の持つ音の響きに誘われて始めた散歩のため、石鎚三十六王子社のことなど、何もわかっていない。メモに先立ち少し頭の整理をしておこうと思う。


●石鎚三十六王子社●

王子とは、熊野権現の分身として出現する御子神。その御子神・王子は神仏の宿るところにはどこでも出現し参詣者を見守った。このことは既にメモした。 『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』に拠れば、王子の起源は中世に存在した大峰修験道の100以上の「宿(しゅく)」、と言われる。奇岩・ 奇窟・巨木・山頂・滝など神仏の宿る「宿」をヒントに、先達をつとめる園城寺・聖護院系山伏によって 参詣道に持ち込まれたものが「王子社」のはじまり」のようである。 石鎚のお山は、本邦初の説話集である日本霊異記に「石鎚山の名は石槌の神が座すによる」とあるように、山そのものが神として信仰される山岳信仰の霊地であった。山岳信仰伝説の祖・役行者が開山との伝説もある。
その霊山に役行者の5代の弟子・芳元(讃岐の生まれ)が大峰山で修行の後、石鎚山に熊野権現を勧請し、石槌の神は石鎚蔵王権現として信仰されることになる。これが石鎚に王子社が生まれるベースとはなったのだろう。
奈良時代、芳元によって石鎚のお山に王子社ができるベースが整ったとしても、それ以降、石鎚のお山にどのように王子社が誕生していったのかは、不明である。妄想するに、お山の各地に修験者によって修行の「宿」として王子社が出来たのではあろう。実際、大宅政寛覚書(文政5年)には今回辿る三十六社以外にも幾多の王子社の名が記録されている。
石鎚三十六王子社巡拝のはじまり
Google Earthで作成

山岳修験の地、『其の山高く嶮しくして凡夫は登り到ることを得ず。但浄行の人のみ登りて居住する』しかなかった石鎚山に、一般の人びとが登拝するようになったのは、近世も中期以降のこととされる。江戸時代に入ってからのことである。

『石鎚山と瀬戸内の宗教文化;西海賢二著(岩田書院)』によれば、一般の人びとが登拝するようになったのは講中が組織されるようになってから、と言う。お山の大祭の頃には、講を差配する先達に導かれ幟を立て、「お山は三十六王子、ナンマイダンボ(南無阿弥陀仏のなまり)」の唱えことばをかけながら、ホラ貝を鳴らし登拝道を進んだ。石鎚三十六王子社巡拝がはじまったのはこの頃、江戸の中期だろうとは思われるが、はっきりした時期は不詳である。
講中は愛媛県下ばかりではなく岡山、広島、山口県下一円からお山に上ってきた、とある。宿泊の地である石鎚参詣道の集落である黒川や今宮には『備後国又八組』『安芸国忠海講中』『安芸国西山講中』『安芸橋本組』『備中鬼石組』『周防大島講中』『備後尾道吉和講中』『安芸大崎講』『阿波赤心講』『備後久井講社』などと書かれた常連講中への目印となるマネキが宿の入り口に打ち付けられていた、とのこと。
講中・先達の制度は前神寺によってつくられた、とされる
『山と信仰 石鎚(森正史)』によれば、頂上を目指した「お山講」・「石鎚講」を指導したと先達は修験道から出た言葉で、霊山の登拝にあたり、同行者の先頭に立って案内、指導する、修行を積んだ経験豊かな修験者のことであり、石鎚の先達制度は前神寺によって創設されたとされる。
江戸時代中期、前神寺は道前・道後の真言寺院を先達所に指名し、先達(先達所の寺僧は大先達)と講頭(民間有力者)を中心に講中を制度化していった。明和6年(1769)に幕府に提出した資料には道前、道後の60の寺院・堂庵が記されている(明確なものは39寺院)。39のうち道前が7寺、道後が32と道後が多い。道後平野を主要拠点としている。
前神寺は文化10年(1813)から登拝の許可証といった先達会符の発行はじめる。先達と一般信徒(後達、平山)を識別し、先達に権威を与えるものである、この先達会符は現在でも形を変えて石鎚神社に踏襲されている。

江戸の中期頃からはじまった石鎚三十六社巡拝であるが、江戸末期には既に衰退しその場所も不明となっていたようだ。明治になると神仏分離、修験道の禁止などにより、三十六王子社巡拝は踏み跡も消え藪に埋もれることになったのだろう。

石鎚神社宮司による三十六王子社の現地踏査

その石鎚三十六王子社が再び日の目をみたのは石鎚神社宮司・十亀和作氏たちの努力による。「石鎚信仰は里宮本社、中宮成就社と石鎚山奥宮頂上社からなる。その道中石鎚霊山にちなむ三十六王子社が祀られるが、現在は唯掛け声として唱えられている伝語であるが、両部神道(「仏教の真言宗(密教)の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想(Wikipedia)」)の名残をとどめ、将来も石鎚信仰から消え去ることはない。
しかしそれだけではなんの意味もなく、これを究明するのが責務。各方面からの要望もあり、往古役行者より代々の修験者の、足跡を足で歩いて直に踏み訪ねる(『石鎚信仰の歩み』)」と昭和38年(1963)に企画し、社蔵の古文書や、古老の口碑、各王子社に建つ昭和六年十一月と記した石標(大十代武智通定宮司の時代)を元に現地踏査し、「何百年かの間、時代の変遷とともに登山道が逐次変更され、一部の王子を除いて殆ど日の目を見ない辺鄙と化していたため、探し当てるのは容易でなかった」王子社を46年(1971)に調査し、昭和47年(1972)に『石鎚山旧跡三十六王子社』として発行された。今回歩く石鎚三十六王子社はこの調査の結果比定された王子社である。

石鎚登拝道
石鎚のお山巡拝道として石鎚三十六王子登拝道をメモしてきたが、江戸時代のお山への巡拝道は石鎚三十六王子登拝道の他、いくつもある。『山と信仰 石鎚(森正史)』には、石鎚の北、瀬戸内側からの表参道、南からの裏参道、脇参道などに分かれるが、表参道だけをみても、
小松起点のルートとして

◇小松>岡村>綱付山>横峰寺>郷>モエ坂>虎杖橋>成就社>頂上
◇小松>大頭>大郷>湯浪>古坊>横峰寺>成就社>頂上
◇小松>大頭>大郷>途中之川>横峰寺>成就社>頂上
西条の氷見起点として;
◇中国地方から舟で西条市氷見の新兵衛埠頭>小松>岡村>おこや>横峰寺>黒川>成就社
◇氷見>長谷>黒瀬峠>上の原>上山>大檜>堅原>土居>細野>今宮>成就社(これが石鎚三十六王子社登拝道に近い)
◇西条>加茂川沿い>兔之山>黒瀬山>大保木
など。
また、『石鎚 旧跡三十六社』では、昭和36年(1961)の王子社調査隊は、里の本社(口之宮)から直接峰入りし、尾根道登り、遥拝所としての二並山(標高418m)を経て黒瀬峠へとトラバースするルートをお山信仰の古道として踏査している。
結構なバリエーションルートはある。が、大雑把に言ってどのルートを取ろうとも、最終的には河口集落へと収斂し、そこからは西条藩領である尾根を登る今宮道とそのバリエーションルートである三十六王子社道(前神寺・極楽寺信徒)、そして小松藩領である黒川の谷筋を登る黒川道(横峰寺信徒)を辿り常住(現在の成就社)に向かったようである。

Google Earthで作成
以上のようにお山には多くの登拝道がある。決して巡拝道は三十六王子社道だけではないということである。逆に、巡拝道は講中を組織した別当寺・前神寺より、もうひとつの別当寺である横峰寺経由の道のほうが多いようにも思う。また、登拝者の数も横峰寺信徒のほうが多い、といった記事もある。
『石鎚信仰の歩み』には、「安政の頃の参詣人は10,250人、慶応2年は9,249人、これらの人が別当寺である東の前神寺、西の横峯寺を経て登山していたとあり、また、西登山口の大頭に寛政4年(1792)建立の常夜灯などからして、昔は西の横峰寺を経ての登山者が相当多かったと思われる」とある。
どうも、「お山は三十六王子、ナンマイダンボ(南無阿弥陀仏のなまり)」の唱えことばをかけながらお山巡拝したのは、登拝者全体の一部と考えたほうがよさそうに思えてきた。王子社巡拝での「修行」もさることながら、第七王子社から第二十王子社まで比高差1000mほどを登った後、再び谷筋まで下り第二十一王子社から第三十四王子社まで行ったり来たりのルートをお山に向かって登り返すルートは、修験者ならまだしも、庶民の参詣者には少々辛いものではなかろうか。

「石鉄山」山号を巡る別当寺前神寺と横峰寺の紛争
それはそれとして、石鎚のお山信仰については、修験者だけのときであればいのだろうが、一般庶民がお山に登拝するようになると,お山に鎮座する別当寺の前神寺と横峰寺での争いが起こったようだ。お賽銭もばかにならないわけだから、「経済闘争」でもあろうが、『石鎚信仰の歩み』に拠れば、「基本は「石鉄山」という山号と、それにともなう「石鉄山」の別当寺の正当性を巡る争いのように思える。
享保14年(1729)横峰寺が「石鉄山横峯寺」の札を発行したことに前神寺が抗議し、京都の御室御所(仁和寺門跡)に訴える。その結果、「石鉄山之神社は領地が入り組んでいるが、新居郡石鉄山、西条領であり、前神寺が別当である、とし
予州新居郡氷見村 石鉄山 前神寺
予州周布郡千足村 仏光山 横峯寺」
との裁定がでた。

横峯寺は仏光山に限るべし。仏光山石鉄社別当横峯寺とせよ、ということであるが、この調停を不服とした横峰寺は享和元年(1801)御所の調停を離れ、江戸表・寺社奉行に「石鉄山別当職」を出願する。結果は,別当は前神寺として却下される。
また、お山では千足山村の者による奥前神寺打ちこわし事件が起こっている。現在石鎚神社中宮・成就社のあるこの地は小松藩と西条藩の境界であり、千足山村の言い分は、常住(奥前神寺)は小松領であるとして打ちこわしを行ったようだ。これにより、別当争いに境界争い、小松藩と西条藩の境界論争が加わることになる。
文政8年(1825)に出た幕府の裁定では、成就社の地所は千足村、別当職は前神寺、となったが、幕府からどのように言われようと、横峰寺は「石鉄の文字と別当の肩書」に執着している。なにがしかの「伝統」が根底にあったのだろう、と同書は記す。
明和5年(1768)の「道後先達通告書」には
石鉄山別当は前神寺に限る
先達初参者に御守授与のこと
石鉄山号は女人結界の地以外へは通ぜざること
横峯山号は仏光山にして石鉄山にあらざること
先達寺院権現を勧請祭祀せるは古来よりのことなり、その故をもっaて石鉄山号を唱うることなし
石鉄山参詣東西両道勝手たること

Google Earthで作成
とある。石鉄山別当は前神寺。横峯寺は仏光山の別当であり、石鉄山にあらず。参詣道については特段の規制はなし、ということであろう。このような石鉄山の別当としての正当性は前神寺優位ではあるが、参詣者は横峰寺経由のほうが多かったというのは、誠に面白い。
毎度のことではあるが、「石鎚三十六王子」という言葉の響きに誘われ、お気楽に歩いたものの、いざメモする段階であれこれ気になることが登場し、頭の整理に少々メモが長くなった。
今回のメモはここで力尽きた。実際の王子社散歩のメモは次回に廻すことにする。

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