土曜日, 10月 08, 2016

西会津 会津街道散歩 そのⅠ;上野尻から野澤宿を抜け、束松峠を越え片門に(上野尻から野澤宿に)

沢上り仲間のTさんに誘われ一泊二日で会津街道を歩くことになった。会津街道歩きといっても、そのほんの一部、西会津町の上野尻から会津街道の三大宿場のひとつと言われる野澤宿を抜け、束松峠を越えて会津坂下町の片門までだけである。

Google eaethで作成
この散歩は、Tさんの知人で西会津観光交流協会に勤務するHさんが企画した、新発田から会津若松までの会津街道(会津からの呼び名は「越後街道」)を5回に分けて歩く、「会津街道探索ウォーク」の4回目の企画。全行程116キロの探索ウォークのうち、ほんの20キロ程度である。

会津街道自体にそれほど思い入れもないのだが、参加を決めた理由は、とりあえず歩けるのなら何でもOKということ、この旅程の前後に前々から気になっていた会津若松の「戸ノ口堰用水」に寄ってみようと思ったこと、そして、少々とってつけた感はあるが、中村彰彦さんの小説、『落花は枝に還らずとも(中公文庫)』の主人公である「秋月悌次郎の慟哭の峠である束松峠へ」という同企画のキャッチフレーズに惹かれたことにある。

基本散歩は単独行であり、団体行動に不慣なため、少々の戸惑いはあったが、主催者の行き届いた配慮、専門家による詳しいガイドなど、単独行とはまた趣の違った、誠に楽しい散歩となった。 いつもの散歩であれば、事前に散歩の準備をすることもなく、散歩で偶々出合い、気になったことを調べてメモするのだが、今回の一泊二日の散歩は、普段と異なり、主催者が準備してくれた33ページにぎっしり詰まった解説文がある。今回の散歩はその資料(以下「主催者資料」)を参考にさせて頂きながらメモすることにする。



本日のルート;
■上野尻の西光寺>イザベラ・バード感動の地>雪崩常習地帯>芹沼一里塚>芹沼の大山祇神社道標>安座川を徒河>小屋田遺跡の敷石住居跡>堀貫橋跡に>本海壇(火防塚)>化け桜>野澤原町宿田沢橋口西門>ふるさと自慢館
■脇本陣跡>常泉寺>野澤停車場通り>劇場通り・花街通り>野澤原町宿東門>初期野澤内郷組郷頭橋谷田又右衛門家跡>研幾堂跡>肥後殿御殿への裏道>天満天神宮>旧野澤小学校跡>代官清水>熊野神社>常楽寺>野澤宿本陣跡>井戸水噴出の民家>鈎型>栄川酒造>遍照寺>諏方神社>一里塚>地蔵原・六地蔵原・古四王原(胡四王原)>徳蔵橋>馬頭観音>広谷寺>日本一小さい無名美術館>御?神社>復縁の松


磐越西線野沢駅
「会津街道探索ウォーク」の集合地は磐越西線・野沢駅近くの西会津町役場。時間は午前8時半。新潟や福島の参加者なら当日早出で間に合うだろうが、東京からでは前泊しなければ集合時間に間に合わない。会津街道散歩は一泊二日の企画ではあるが、我々は二泊三日の旅となる。
野沢駅近く、ツアー初日に泊まる宿を前泊1日余分に予約し、東北新幹線で東京から郡山、郡山から磐越西線で会津若松経由で野沢に向かう。途中、会津若松で4時間ほど時間をとり、「戸ノ口堰用水」の事前調査というか、さわりの部分を歩き、夕刻の列車で野沢駅に到着。翌日を迎える。

スタート地点・上野尻の西光寺
町役場で集合の後、先回のゴール地点である、福島県耶麻郡西会津町上野尻の西光寺にマイクロバスで移動。西光寺は蒲生氏ゆかりの寺のようだ。は、国指定重要文化財の「紙本著色蒲生氏郷像」があるとのこと。蒲生氏郷は秀吉の天下統一の後、会津に移封され91万石の大守となった戦国武将。当初黒川城と呼ばれていた会津若松の城、鶴ケ城と呼ばれるようになったのは、蒲生家の家紋・舞鶴に拠る。

上野尻・西光寺から野澤宿・縄沢までのルート図
それはそれとして、出発点の上野尻ってどんなところか、気まぐれにチェック。と、西会津観光交流協会のページに「野尻には上野尻と下野尻のふたつの村があって、どちらも越後街道の駅所でした。このなだらかな下りの一番低いあたりに上野尻と下野尻の境界があります。
下野尻のほうが歴史は古く、戦国時代から阿賀川の舟運で物資を会津へ運ぶ基地でした。その需要の多さにより、すぐおとなりに上野尻ができるほどの賑わいで、野尻が重要な駅所だったのがわかります。ピーク時には上野尻99軒、下野尻80軒の家があったとの記録が残っています。
現在のJR上野尻駅の裏手に「中嶋」と呼ばれる荷物の発着所がありました。 当時、会津藩の廻米の量は年間10~13万俵で、そのうちの6割は下野街道から江戸へ、残りの4割が阿賀川舟運で日本海航路を通って京都・大阪に運ばれていました。
中嶋舟着場では、廻米を含めたすべての荷物がいったん陸揚げされて、役人の検査を受けた後、(中略)車峠(私注;下野尻の西)を越えて馬による陸路で運ばれるルートと、阿賀川沿いの道を徳沢舟着場へ運び、そこから鵜飼船に積んで舟運で搬送するルートに区分されて津川の湊に運ばれました」といった記事があった。
へえ、そうなんだ。が、ちょっと疑問。どうして野尻が舟運の拠点に?あれこれチェックすると、江戸の頃、会津藩は、会津若松の北、磐越西線の塩川から阿賀野川(阿賀川は新潟に入ると阿賀野川となる)の津川までを通舟する工事が行われたが、途中難所が多く、工事が危険でありかなりの区間を陸路を使った、といった記事(「阿賀川と船運;川口芳昭」)があった。
コスト面や途中の目減りロス、そして大量に早く大阪に廻米するためには舟運のほうが効率的なことは明白であるわけで、上流であればあるほど段取りがいいのだろうが、そこに拠点がないとすれば、この野尻辺りが越後側から通舟工事ができる上流端であったのかと推論(妄想)する。

阿賀川・阿賀野川
阿賀川は南会津田島から流れる大川、猪苗代湖から流れる日橋川、そして南会津から流れる只見川をその源流とする。かつては、日橋川が大川と合流し「大川」に、その大川が只見川(『会津鑑』には、尾瀬沼から只見までを「揚川」、只見から片門までを「只見川」、片門より下流を「揚川」と記す)と合流し「揚川(あがかわ)」としたが、揚川が阿賀川となり、福島を越えて新潟の平坦な地を流れるに至り、その野の流れの穏やかさが別の川のようでもあり、川名も変え「阿賀野」川としたようである。
「揚川」は奥会津で大雨が降り、急に水嵩が上がる故とのこと。とはいえ、揚川が阿賀川に転化した経緯は全く不明。

イザベラ・バード感動の地
西光寺を離れ、国道49号を越えて阿賀川脇の道を進む。と、阿賀川の対岸に灰色の崖面が見える辺りで、ガイドの先生が、このあたりが「イザベラ・バード感動の地」と。『日本奥地紀行』に「下を流れる急流の向かい側には、すばらしい灰色の断崖がそそり立ち、金色の夕日の中に紫色に染まっている会津の巨峰の眺めは雄大であった」とある箇所であろうと。会津の巨峰とは飯豊山(いいでさん)につらなく連峰のことだろうか。
イザベラ・バード
英国の旅行家。明治初期日本を旅し、東京から北海道、そして関西の旅を紀行文にまとめる。『日本奥地紀行は』は明治11年(1878)、東京から北海の日本北日本紀行「undeaten tracks in Japan」を訳したもの。

雪崩常習地帯
道なりに国道49号に戻り、なんとなく右手の山側が国道に迫りくる辺りが雪崩常習地帯であったとの説明。地図の等高線を見ても、蝉峠山からの尾根筋が阿賀川に突き出した箇所である。越後長岡藩士の記録に雪崩のこと、雪崩による街道止め記録が残る。






芹沼一里塚
雪崩常習地帯から少し先、阿賀川が南東に突き出た対岸の地を大きく廻りこむあたり、国道49号から少し山に入ったところに芹沢一里塚。とはいいながら、塚の形を留めることもなく、少々周囲とは「ノイズ」を感じる程度の丸まった小振りの平坦地がそれである。
通常二つある一里塚の「南塚」との研究報告書もあるが、対になる「北塚」や塚の間を通る道形の痕跡もないようで、距離的には一里塚と一致するも、未だ「不明」とのことであった。

芹沼の鳴沢田と伝説成立のお話
芹沼集落にある、鳴沢田と呼ばれる良田にまつわる伝説の「拡大プロセス」についてガイドの先生からの説明;芹沼村の老夫婦が旅の僧に一夜のもてなし。そのお礼にと僧は観音像を手渡し旅立つ。観音像のおかげで田は鳥害もなく良田となる。その田を鳴沢田と呼ぶのは、観音像に鳴管を繋ぎ、田の畔に置くと、鳥が近づくと鳴管がなり鳥が逃げ出したことに拠る。また、この観音さまを鳥追観音と称するようになった。
この話は、『会津鑑』では、旅の僧は行基となる。そして老夫婦が亡くなった後、鳥追観音は、自ら阿賀川の淵に鎮座するも、空海が近くを通ると、自ら空海の掌に飛び移る。如法寺は空海がその観音像を安置するため建てたものである、と。鳥追観音・如法寺は磐越自動車道・西会津インターの少し南にある。 旅の僧からはじまったお話は、行基・空海が登場し、さらには鳥追観音・如法寺の縁起までに発展するが、話は更に発展する。
「西会津ふるさとの伝説」には、空海と徳一が共に旅をしたこととなり、空海の掌に飛び移った観音さまを徳一に託し、徳一が観音堂を建立。それが鳥追観音・如法寺とのこと。
伝説・縁起はこういったプロセスを経て、「ありがたさ」を拡大していくのだろう。
◆徳一僧都
鳥追観音・如法寺のHPに拠ると、開創は徳一大師(私注;大師号は受けていない)、本尊の鳥追観音は行基作とある。空海は良しとして、徳一僧都について同HPをもとに簡単にまとめると、「平安時代初期、奈良の都から会津へ下られた法相宗の僧。会津に仏の都を実現し衆生済度をと志し、大同2年(807)、会津東方の磐梯山麓に根本寺として慧日寺を創建。次いで越後への要所野沢に会津西方浄土として鳥追観音如法寺を開創。
更に会津盆地の中央に勝常寺を、奥会津只見への要所柳津に円蔵寺を、会津北方の要所熱塩に慈眼寺(現在は示現寺)を開創。民衆の布教教化に邁進し、故に民衆は、僧徳一を東国の化主、菩薩、大師と尊称致し、尊信敬仰致した。
また、徳一は、天台宗最澄、真言宗空海という平安新都の二人のリーダーに対して、奥州会津慧日寺に住しながら、真っ向から独り法戦を挑み一歩も引かず五分に亘りあい、よく旧南都仏教法相宗の正義を守った学僧としての面目も高い。
徳一菩薩、徳一大師と、一般民衆より尊信敬仰されたことは、仏教僧の本分である衆生済度に身命を賭して、都より遥か東国の野に下り、民衆の為に御仏の慈悲を施し、仏教の法燈を点し続けた徳一の真面目であり、故に、今日でも徳一大師と尊称致し、尊敬致して止まぬ。
その後、やがて磐梯山慧日寺は、会津四郡を支配し、最盛期には寺領十八万石、子院二千八百坊、僧侶三百人、僧兵数千人を数える程に隆盛を極め繁栄致しました。この慧日寺支配による荘園政治は、武家政治が確立する鎌倉時代以前まで続き、奥州一の会津仏教文化の黄金時代を創り出した」とあった。

芹沼の大山祇神社道標
国道49号を離れ安座川に向かって土径(どみち)に入る。磐越西線が安座川に架かる鉄橋手前、芹沼集落端の田圃に上部が欠けた道標がある。「大山祇神社道標」とのこと。
地図を見ると、大山祇神社への道は、この地より安座川に沿って堀越集落,牧集落へとの進み、牧で中野川筋に乗り換え南に進み中野集落を経て大山祇神社に至る。
で、この地に道標が立ったのは、弘化4年(1847)に、野沢と芹沼を結ぶ新道が、旧来の堀越村を経由するルートをショートカットする形で、芝草の端村新田からこの地に通じ、新道に入らないよう注意を喚起するため。我々はその新道を進むことになるようだ。
大山祇神社
第四十九代光仁天皇の御代宝亀九年(西暦七七八年)の勧請とされる。御祭神は大山祇命、岩長比売命、木花咲耶姫命の親娘三神。 大山治水(治産治米)は治山治水(治産治米)、 岩長姫命は健康長寿、 木花咲耶姫命は良縁・子宝安産の神。 「なじょな願いもききなさる野沢の山の神さま」として、 県内外、遠くは越後、出羽一円にまで 厚い信仰がよせられている古き社である。
で、何故にこの社が越後、出羽にまでその信仰が?実際、道標に刻まれた「北越水原」は現在の新潟県阿賀野川市にあった「講中」である。道々でのガイドの先生の軽口に拠れば、これから訪れる野沢宿の「悪所」が楽しみでもあった、とも。
信仰と「現世利益」がセットになったものは散歩の折々に出合う。お酉さまで賑わった足立区の大鷲神社も、祭礼の日に赦されていた賭博が禁止となると、人の流れがピタッと止まったともいう。今回のツアー参加者のひとりが、父親が熱心に大山詣でをしていたが、その実は「悪所」が楽しみでは、といった父親の姿を楽しげに語る姿が、なかなか良かった。

「軽口」はともあれ、大山祇神社参詣が盛んになったのは明治以降との記事も見かけた。明治に入り宮司さんが越後の販促をかけ、そのおかげで講中が増えた、とも。

三島神社
この大山祇神社と直接関係はないかもしれないが、大山祇と関係の深い三島神社が福島には多い。全国400社ほどの三島・三嶋神社の本社は、伊予の大山祇神社か、静岡・三島の三嶋大社であろうから、愛媛県に全体の3割近い111社が集中し。次いで静岡県の36社はわかるのだが、この2県に次いで福島県35社(その後は福岡県24社、高知県19社、神奈川県19社と続く)となっている(Wikipedia)。その所以など興味津々ではあるが、寄り道が過ぎてしまうので、このあたりで「思考停止」としておく。

安座川を徒河
磐越西線の鉄橋橋脚の傍を下り安座川に。ここからは川を徒河する。往昔の街道歩きの追体験。用意された長靴に履き替えず、素足で渡河。小石が足裏に当たる刺激が心地よい。

安座(あざ)川
「安座」は、「あぐらをかくこと。また、くつろいで座ること」、とか「何もしないで安らかな状態でいること」と言った意味がある。あれこれチェックすると、安座川の上流、安座集落に「弘法の岩屋」があるようだ。由来は、この弘法大師にあるのでは。因みに、弘法大師空海(大師号は没後に授けられたもの)がこの地を訪れたといった記録はないようだ。

小屋田遺跡の敷石住居跡
安座川を渡り、新田集落を経て国道49号を渡り、ふたつに分かれる道を右に向かうと、最初の角に「小屋田遺跡の敷石住居跡」がある。
「小屋田遺跡は阿賀川の河岸段丘上に縄文中期から後期にかけて形成された大集落。東西約300m、南北約320m、7万平米の大遺跡。大小さまざまな川原石が敷き詰められた縄文時代後期の住居(敷石住居)跡で、敷石の中央には円形の石囲炉が数個の礫で作られている。火焔土器など出土している県内の代表的縄文時代遺跡である(「主催者資料」より)」。

堀貫橋跡に
縄文住居跡から北に向かい、野沢の町並みを横切る通りに繋がる道を進み、田沢川に架かる橋(多分、新町橋)を渡る。田沢川とも四岐川とも呼ばれる橋を渡ると直ぐに川に沿って北に折れ、土径を先に進み崖端に。対岸に岩壁が見えるが、往昔、ここに堀貫橋が架かっていたようである。


田沢川を渡る街道の変遷
「主催者資料」に拠れば、田沢川を渡る道筋は、3度その渡河点を変えており、最も古くは、本海壇(私注;後ほど訪れる)の脇を通って国道49号傍の「道の駅にしあいづ」の直ぐ北にあった田沢川橋(下条橋)を渡り、芝草に入る(私注;原文を修正。順序が逆?)。天明6年(1786)以降は、常泉寺脇(私注;後ほど訪れる)からこの掘貫橋を渡り芝草に。
弘化4年(1847)以降は、「芹沼の大山祇神社道標」でメモしたように、最短距離のルート。先ほど渡った新町橋の直ぐ川下に欄干付きの新町橋ができ、芝草から新田を通って芹沼に通じた。

本海壇(火防塚)
堀貫橋跡から新町橋に戻り、道を野沢宿の方に少し進み道を右に折れる。しばし南に進み田沢川(四岐川)岸に向かう。川に落ちる崖前の平坦地は「本海壇(火防塚)」とのこと。
その由来は、いつの頃か、本海という行人が祈祷中、失火に寄り野沢宿が全焼。怒った宿場の人々は本海を生き埋めに。しかし、それ以降宿場に火事が頻発。本海の祟りを鎮めるため、本海を火防鎮火の聖として壇を築き祀った、と。広場状となっているのは、供養のための奉納相撲が昭和30年(1955)頃まで行われた、その名残であろうか。
上に田沢川を渡る最も古い街道は、本海壇(火防塚)の先で田沢川橋(下条橋)を渡るとあったが、現在、橋らしきものは見当たらなかった。

化け桜
本海壇(火防塚)から折り返し、野沢の宿に入る最も古い道筋を先に進むと、左手に老巨木が見える。案内には「下条の普賢象桜」とあり、「この樹には白狐が樹幹空洞部に棲息していたと言われ、住民から 「 化け桜 」または「千歳桜」などと称され、今でも広く親しまれています。
ここは、旧越後街道に沿い、行き交う旅人の休み場所であったらしい。この桜は推定樹齢約五百年といわれ、会津でも有数の老巨木です 西会津町教育委員会」との案内があった。
品種はエドヒガンとあるが、案内に「普賢象桜」とあるのは、花の中心に葉が垂れたその形状が、雌しべが花の中央から2本出て細い葉のように葉化している普賢象桜に似ているから、とか。
また、その形状故に、花の中心から「舌」を出しているようにも見られ、自死した宿場女郎が化けたとのエピソードも生まれた。「化け桜」と称される所以である。
桜の形状はともあれ、気になるのは「旧越後街道に沿い」との記述。上で田沢川を渡るルートの最古のものは、下条を通るルートとメモした。天明6年(1786)以前は、このルートを歩いて野沢宿に入ってきたのだろう。

野澤原町宿田沢橋口西門
「化け桜」から更に、旧街道だろう道筋を進む。少し東に進んだ後北に向かい、町並みを貫く大きな通りに出る。そこが「野澤原町宿田沢橋口西門」とのことであった。通りから西を見ると蝉峠山が堂々とその姿を現していた。

野澤宿の概要
ディテールに入り迷い込む前に、大雑把に野澤宿の概要をまとめておく; 大山祇(おおやまづみ)神社と鳥追観音の門前町でもある西会津町、その町中心部に位置する野澤宿は江戸時代以降、津川宿(新潟県阿賀町)、坂下宿(会津坂下町)とともに、会津・越後街道の三大宿場町として栄えた。
会津からも越後からも山越え・峠を越えた先の小盆地にある野澤宿は古くは湖底であったとされる。WEBにあった「野澤組地理之図(『新編会津風土記』)」にも「ひとり原町本町(私注;野澤宿は野澤原町村、野澤本町村から成る)の四方すこし開けて平地なり東西南に高山連なり、北は揚川流る、(中略)相伝ふ、此地往古揚川の水道塞り、其水数里の外に洋溢して遂に一大湖となり、平衍の村落民業を失ひ、漸々に山稜に登り、各自に家居をなせしが何の頃にか下野尻村の北銚子口(私注;下野尻の少し下流の狭隘の渓谷)と云山隘の口決し、其水大に潰て忽平地となりしとぞ」とある。
鎌倉期には地頭として荒井氏が館を設け、戦国期には芦名氏の支配下となり、16世紀の初め、野澤六人衆による町割りが行われ、江戸に入ると会津街道(越後街道)の宿場町として整備される。会津藩は野澤に代官所や郷蔵を設け、六斎市の開設など地域行政・経済の中心として発展し、前述の如く、津川宿(新潟県阿賀町)、坂下宿(会津坂下町)とともに、会津・越後街道の三大宿場町として栄えたようだ。
この地が地域行政・経済の中心となった因を「妄想」するに、会津・新潟間の往来を困難にする山塊を越えた山間の地、それも1日の行程の地にあるということ、かと。越後・会津の両地域からの物資の中継地として、丁度いいポジショニングであったのだろう。会津からは山の幸、越後からは海の幸の集散地として栄えた、とのことである。また、大山祇神社、鳥追観音・妙法寺の門前町といったこともその因の一端かもしれない。
寛文10年(私注;1670)の家数119軒,人数は男422・女369(万覚書)化政期(私注;文化・文政:1804‐1830)の家数127軒。
文政9年(私注;1826)の大火では寺社2,3を残して全焼。明治4年(私注;1871)の戸数140・人口766(若松県人員録)同8年(1873)野沢本町村・西平分と合併して野沢村となった(『角川地名大辞典』)。

ふるさと自慢館
蝉峠山と反対方向、野澤原町宿の大通りを進み、「ふるさと自慢館」に。ここで少し休憩。米穀店の蔵をリニューアルしたこの施設、江戸時代末期まで熊野権現および愛宕権現の別当荒井家の里修験場・大正(大勝・大昌)院と宿坊・柳屋であった、と。
大山祇神社参拝の先達を務めたとの記事もあったが、鳥追観音・妙法寺とのペアで山岳修験・神仙思想の霊地として大山祇神社が組み入れられたのだろうか。
それはともあれ、ふるさと自慢館の1階、2階に西会津の地形、歴史、会津大地震、戊辰戦争を背景とした大河ドラマ「八重の桜」に関わる八重や山本覚馬、また西の松下村塾に対して東の研幾堂と称され、幕末・明治に有意の人材を輩出した野澤宿の私塾のことなど、会津街道散歩に何の問題意識もなく参加した我が身には、頭を整理する上で誠に役立つ資料が展示されていた。


西会津の今昔(私注;地形)


◆1600万年前頃、日本列島のほとんどが海。会津では飯豊山など一部が海上に顔を出していた
◆800万年前頃、日本列島は隆起し、会津盆地の西に残った海は、現在の阿賀川筋に沿って新潟の海と繋がり、浅い海となっていた。
◆300万年前頃、会津盆地は沈降し周囲は隆起することにより海は湖水となり、会津盆地と西会津が分断された現在の地形に近いものとなる 。
◆5000年前頃、沼沢火山が噴火し大量の火砕流堆積物(軽石等)が只見川、阿賀川沿いに流下し、銚子の口(私注;西会津町の西端、新潟県境に位置する阿賀川の狭隘の渓谷。野尻の下流)で堰止められ、野澤盆地が湖水となる。水流で粉砕された軽石が厚く堆積し現在の地形面をつくる。平安末期から鎌倉初期にも銚子の口が地滑りで堰止められ沼泥化したようだ。


西会津の歴史(NHK大河ドラマ『天地人』の時代から明治まで)

芦名盛氏の頃(16世紀後半);大槻太郎左衛門の乱 
天正6年(1578)2月 会津守護の蘆名盛氏(葦、芦)の家臣で野沢村の地頭であった大槻太郎左衛門政通(大槻城・現、野澤山返照寺、のちに荒井館、現野澤小学校に移住)は、越後の上杉謙信に内応し、芦名氏に反旗を翻し、片門村に出陣。只見川沿いで戦うが討死。
只見川以西の地頭の多くは大槻に従うも、天屋村の溝田氏は芦名に与し、恩賞として下野尻村を賜る。茅本村(私注;野澤村の北、長谷川右岸)に上方より渡辺中務、更に足利尊氏の一族山口貞景が森野村(私注;茅本村と長谷川の間)の地頭として赴任。
芦名氏は織田信長への使者として野澤村地頭・荒井満五郎・新兵衛親子を任じ、貢物を献上。
上杉謙信の死去;御館の乱・天正6年(1578)3月
謙信没後、家督を巡る上杉家の内紛(御館の乱)に芦名氏も、「混乱に乗じて、五泉市辺りまで出兵。野澤からも芦名氏傘下で大槻、矢部、石川氏が出陣。
会津領主の交替;摺上原の戦い 天正17年(1589)
芦名氏を破り伊達氏が黒川(会津若松城)に入城。領内統治をはかるため野澤大槻城に菅信濃・荒川近江を置くが、野澤の自治は野澤政所・伊藤伊勢、野澤内郷組郷頭・橋谷田又兵衛らの活躍で守られる。
◆上杉景勝の会津統治;慶長3年(1598)
蒲生氏郷が90万国の大名として会津に移った後、上杉景勝が120万石で会津に転封。領内統治のため、西会津には満願寺勧右衛門を派遣し、野澤に万(満)願寺屋敷(元東北電力)と野沢町・直右衛門屋敷(現存、高梨直七)とを置く。 関ヶ原後、石田光成の一族は野澤本町村に移り、石川と改める。上杉の家臣斎藤下野守朝信や小島弥太郎の子孫も野澤本町村に住む。
慶長の大地震;慶長16年(1611)
慶長の大地震(M6.8)が会津を襲い、西会津でも鳥追観音堂が崩壊し、程窪・泥浮山・小杉山等に新沼が生まれる(私注;縄沢から南に下る走沢川筋。現在も地図に沼が残る)。芹沼村にも大沼(私注;現在も残る)が生まれた。
一方、会津地方の大動脈である阿賀川も塞き止められ、舟運や越後街道が変更される中、交通の要衝として西会津の政治的経済的位置づけが重要性を増してくる。
江戸末期・明治維新
江戸末期に西会津から多くの逸材が登場する。
渡部思斎:私塾「研幾堂」塾頭。野澤小学校、明晋学校校長(渡辺中務子孫)。 同長男鼎;野口英世の恩師(私注;野口英世の左手を手術し、その後彼を書生として指導)。渡辺中務子孫)。
山口千代作;自由民権家。福島県議会議長・衆議議員(山口貞景子孫)。
同妻[旧姓斎藤]志具、自由民権家。貢の母。私塾「三顧堂」運営(斎藤朝信子孫)。
小島 忠八;自由民権運動家。福島県議会議員・野沢町長(小島弥太郎子孫)。 石川暎作;『国富論』翻訳。婦人束髪運動(石田三成子孫)。
野澤?一 ;山本覚馬の日本再 建の建白書「管見」 を口述筆記した法律家(私注;写真不鮮明で説明文は原文ではない)。

□西会津の歴史に、人名が太字となっている箇所があったのだが、この江戸・明治維新に登場する人物の先祖であることをわかりやすく示したものだろう。 なお、同「ふるさと自慢館」には研幾堂から登場した逸材に関する誠に詳しい解説があったのだが、不勉強な我が身には、いまひとつリアリティが感じられず詳細なメモはパス。また、八重の桜の八重さん、山本覚馬の解説もあったのだが、写真ピンボケのためメモできず。


会津大地震
上にメモした「西会津の歴史」の中で「慶長の大地震」とあった「会津大地震」についても、詳しい説明があったので、以下メモする。写真ピンボケのため概要をWikipediaなどで補足しながらまとめる;
慶長の会津大地震とは
慶長16年(1611)、西会津町と隣の柳津町の境にある“飯谷山”を震源とするマグニチュード6.9規模の地震発生。被害は会津一円に及び倒壊家屋は2万戸余り。会津のお城や、西会津の鳥追観音・如法寺などの神社仏閣にも大きな被害が出た。死者は3,700人に上った。
また各地で地すべりや山崩れが発生し、特に喜多方市慶徳町山科付近では、大規模な土砂災害が発生して阿賀川(揚川・会津川)が堰き止められたため、東西約4-5km、南北約2-4km、面積10-16km2におよぶ山崎新湖が誕生し、最多で23もの集落が浸水した。
その後も山崎湖は水位が上がり続けたが、蒲生家家臣・岡半兵衛を中心に、河道バイパスを設置する復旧工事(現在は治水工事により三日月湖化している部分に排水)により3日目あたりから徐々に水が引き始めた。しかしその後の大水害もあり山崎湖が完全に消滅するには34年(一説では55年)の歳月を要し、そのため移転を余儀なくされた集落も数多い。
旧越後街道の一部が山崎新湖により水没し、さらに勝負沢峠付近(会津坂下町北部・雷電山付近)が土砂崩れにより不通となり、越後街道は現・会津坂下町内・鐘撞堂峠経由に変更され、現在の国道49号線の原型ができあがる。
西会津地域の被害
西会津における大地震の影響の最大のことは、野澤平(野澤盆地)が牛沼(湖沼)化したこと。湖沼の縁には四岐船場・綱沢(舟繋沢)舟場が設けられ、旧越後街道のルートが、山側や台地に変更され、野澤原町、野澤本町の原型が形成され始めた。
個々の村落については、山崩れ、崩壊、土砂崩れによる湖沼化など多くの集落で甚大な被害が生じる。被害のため村落の移転も起きている。また芹沼村には大沼・小沼が誕生した。
大地震の復旧・復興工事
復興事業の責任者は前述の蒲生家仕置奉行筆頭・岡半兵衛(重政)。野沢郷を含む津川狐戻城三万六千石領主であった半兵衛は倒壊した鳥追観音など神社・仏閣の復興、「水抜き工事を行う(注;この部分追加)」。野澤の大沼弥次右衛門に命じ商業復興・鉱山開発に取り組ませ、野澤六歳市を興す。
岡氏は藩政や地震復興方針を巡り、正室(家康の三女)や重臣と対立。蟄居の末、駿府にて切腹となる。岡氏の妻は石田三成の次女であった。

ちょっと疑問
「ふるさと自慢館」の展示により、「主催者資料」の行間は相当埋まったのだが、ひとつだけ疑問が残る。それは、野澤盆地が湖沼化されたことはわかるのだが、その時期が何時まで続き、いつの頃野澤原町村、野澤本町村の原型ができたのだろう?ということ。
上記展示資料で、5000年前頃に湖沼化し、芦名氏の頃、大槻太郎左衛門が野澤村の地頭とあるので,16世紀後半には「陸地化」されていたことはわかる。が、その間が飛び過ぎてよくわからない。
なにか手がかりは?と、事務局から頂いた資料に天台座主慈円の句として「東路の 野澤のかつみ 今日ばかり 菖蒲の名をも 借りててるかな」とあり、その下に牛沼(野澤潟)から苦水川の掘削・街の建設という記事があった。
その関連についての説明は聞き漏らしたのだろうが、慈円の家集『拾玉集』に収められたこの句は、いかにも湖沼の景観を感じる。『拾玉集』には「のざはがた雨ややはれて露おもみ軒によそなる花あやめかな」との句もある、という。
ということは、慈円は1155年誕生、1225年没であるから、12世紀後半、平安末期から鎌倉初期の頃までは、野澤盆地は未だ湖沼地帯であったと推察できる。

野澤潟が陸化した時期は?
では次に、いつの頃「陸化」したのか?ということだが、「主催者資料」には野澤六人衆の記載がある。上記野澤宿の概要で「16世紀の初め、野澤六人衆による町割りが行われ」としたが、もう少々のエビデンスが欲しい。で、あれこれチェック。
と、JapanKnowledgeというサイトの「歴史地名もうひとつの読み方」の「野沢」の項に、「野沢熊野神社の縁起書によれば野沢原町村の草分け六家によって文亀―大永年中(1501‐28)頃までに現街区の原形となる町割が行われ」といった記事が見つかった。
同解説には「野沢が水底にあった期間は最長で9世紀から16世紀まで」といった、湖沼であった時期に関し、「ふるさと自慢館」の解説との齟齬はあるものの、陸地化した時期は熊野神社縁起と齟齬は生じない。野澤の陸地化は16世紀の初め頃なされたのだろう。
その後慶長の大地震による液状化現象により野澤平(野澤盆地)が牛沼(湖沼)化するも、復興事業の結果、野澤原町宿が形成され、野澤本町村と相共に、野澤宿となって会津街道の三大宿のひとつとして繁栄することになる。

牛沼
ついでのことながら、ここに「牛」とあるのは、必ずしも動物の牛に限ることはないかと思う。牛沼という地名は全国に散見されるが、東京都下あきるの市をさまよった時、「郷土あれこれ(あきるの市)」には、「牛はウシ>ウス>薄い色>浅い色>浅い沼」といった説明があった。野澤の場合も、湖の口が決壊し、水が引いた後の浅い沼・湿地ということではないだろか。


メモを始めると、常の如く、あれこれ疑問が生じ、結構長くなってしまった。野澤宿の途中で、少々中途半端ではあるが、今回は「ふるさと自慢館」で終え、その先は次回に廻す。

金曜日, 10月 07, 2016

会津 会津若松用水散歩:戸ノ口堰用水をちょっと歩く

先日、沢登り仲間の友人Tさんに誘われて会津街道・越後街道を野沢宿から束松峠をへて片門まで歩いたのだが、野沢に向かう道すがら、会津若松で4時間ほど時間をつくり、前々から気になっていた戸ノ口堰用水を歩くことにした。
戸ノ口堰用水を知ったのは数年前のこと。会津大学に仕事で訪れた際、時間をつくり会津若松を彷徨ったのだが、その折、白虎隊自刃の地として知られる飯盛山で戸ノ口堰弁天洞穴に出合った。

滔々と流れ出す洞穴からの水路は、白虎隊の退路との説明があったが、それよりなにより、その水路は猪苗代湖・戸ノ口から会津盆地へ水を引く用水堰であり、全長31キロに及ぶ、と。開削時期は江戸の頃。17世紀全般に始まり、19世紀に藩普請により全面改修が行われ、その際、この弁天洞窟も開削されたとのことであった。

用水フリークとしては大いにフックが掛ったのだが、当日は時間がなく用水散歩に向かえなかった。今回、列車の関係上4時間という制限はあるものの、時間の許す限り歩いてみようと思った。そのうちに、それも近い将来全ルートを歩く下調べといった心づもりではある。

が、これは全く予想外のことではあるが、戸ノ口堰用水に関する水路図が見つからない。概要の説明はあるのだが、いまひとつ猪苗代・戸ノ口から飯盛山までの水路がうまくつながらない。否、むしろ、繋がらないというより、その後開削された発電所用の水路などを含め、水路が交錯し、どれが本線なのかよくわからない、というのが正確かとも思う。
また、用水路を辿ったといった記事も見つからない。里の水路はいいとして、山間部の水路が如何なる風情か、どの程度荒れているのかもよくわからない。これはもう、とりあえず現地に行き、成り行きであれこれ判断するしかないだろうとの結論に。

散歩のルートを想うに、ルート図がみつからない以上、手掛かりは弁天洞穴。そこに繋がる水路が戸ノ口堰用水とのことであるので、地図にある弁天洞穴に繋がる水路を逆にトレースし、山間部の水路跡に入り込む適当な場所を探す。

地図を見るに、弁天洞窟から不動川を渡り、滝沢の集落を越えた先に戸ノ口堰第三発電所がある。根拠はないが、発電所の敷地を越えた辺りで道路から水路跡に入れるのではないか、と。そして、そこからは、山間部の水路跡を先に向かい、列車の出発時間を考慮し適当なところで折り返し、里に戻り滝沢集落から弁天洞穴の水路を辿り、飯盛山に戻ることにした。
それほど用水に萌えることもない友人のTさんには誠に申し訳ないのだが、お付き合い頂き、会津若松駅からタクシーで戸ノ口堰第三発電所に向かった。


本日のルート:戸ノ口堰第三発電所>八幡配水池>水路に入る>水路が切れる >旧水路跡に>藪漕ぎで進む>切通し>切通しが続く>車道に出る >水路跡が車道とクロスする>折り返し点>戸ノ口第三発電所導水管と交差し水路は下る>車道に沿って水路が進む>八幡地区から躑躅山地区に水路は下る>滝沢峠への道と交差>不動川の右岸を水路は進む>不動川を石橋で渡る>弁天洞窟に向かって水路は進む>滝沢本陣>飯盛山>戸ノ口堰洞穴


戸ノ口堰第三発電所
タクシーで戸ノ口堰第三発電所の山側、高山(標高437m)の山麓を進む車道で下車。水路へのアプローチ地点を探す。明治に造られたという発電所に訪れてはみたいのだが、本日は時間がなくパスする。
戸ノ口堰と発電所
戸ノ口堰用水筋に設けられている三つの発電所のひとつ。猪苗代湖と会津若松の標高差は300mほどあると言う。その比高差と両者の間にある金山川を活用し、明治の頃発電所の建設が行われる。
猪苗代湖から鍋沼を経て金山川に落ちる箇所に戸ノ口堰第一発電所、第一発電所に落ちた水を導水路で引き、再び下流の金山川に落とす戸ノ口堰第二発電所、その第二発電所に設けられた取水口から、羽山・石ヶ森・高山の山腹を穿ち導水路を通し水を落としたのか、この第三発電所である。農業用水として始まった戸ノ口堰は明治になり、水力発電の水源としても使われるようになったわけだ。
因みに、戸ノ口堰に関わる発電所はその供給先として首都圏を目した。現在もこれら発電所は東京電力がその事業者となっている。

八幡配水池
右手ゲートの中に貯水タンクのようなものが見える。「八幡配水池」とある。ゲートは立ち入り禁止となっており、入ることはできない。用水路橋らしき姿も見えるのだが残念である。
配水池は浄水場から水を送られ地域に配水する施設。八幡配水池は(池とはいいながら、前述の如くレストレストコンクリート造円筒型(直径22m 高さ8m)の貯水タンク。
戸ノ口堰第三発電所脇にある滝沢浄水場から揚水ポンプでこの地に揚げられ、松長地区(滝沢浄水場の北、・宅地開発された一帯)・八幡地区(滝沢浄水場の周囲)・躑躅山地区(前述不動川右岸・堂ヶ作山の南)へと水を送る。 滝沢浄水場の水源は金山川の「戸ノ口堰第三発電所取水口」であり、もとを辿れば猪苗代湖となる。戸ノ口堰の用水を上水に利用するようになったのは昭和4年(1929)になってからのことである。
農業用水として開削された戸ノ口堰は、明治には水力発電、昭和に入ると上水の水源として、時代に応じてその機能を追加し、会津盆地の人々に貢献した、ということであろう。

水路に入る
八幡配水池を過ぎ、車道を進むと、右手に入る舗装道があり、ゲートもあるが脇からは入れるようになっていた。この辺りであれば入らせてもらっても大丈夫だろうと、自分に言い聞かせ舗装されたアプローチを進むと、藪に覆われた先に水路があった。
水路は直線に切られ、如何にも「今日的」で往昔の水路とは思えない。水量も結構多い。水路を右に向かうとすぐにトンネルに入る。右へと先に進んでも八幡配水池の敷地にあたるだろうから、通り抜けることができるとも思えず、左手に向かう。

水路が切れる
左に進むとほどなく水路は切れる。水路は切れるがそこには激しい勢いで渦巻くさまの水流が見える。水路の切れた先はコンクリートで固められた崖となっており、地図をみると、水路の切れた北、突き出た尾根筋の間に同様の直線水路が見える。
地図には、直線水路の行き止まり箇所から左手に曲がりくねった水路が見える。これが旧水路跡だろう。ということは、コンクリートで固められた崖面下には、尾根に沿って曲がりくねって進む旧水路をショートカットすべく掘り抜かれた送水管が埋め込まれ、その水が水路に激しく落ちているのだろか。尾根を越えた先にある直線水路の水流がどの程度のものか確認するまで、結論は持ち越す。

旧水路跡に
さてと、旧水路に入るべく、行き止まりとなった水路の左手をチェックする。藪が激しく見通しがきかない。なにか水路跡の手掛かりはと探すと、藪の中に錆びた鉄製ゲート開閉機の回転ハンドルらしきものが見えた。その辺りが旧水路の合流点であろうと藪に入る。
足元がぐちゃぐちゃ。僅かながら水も残る。旧水路跡であろう。水は用水というより、雨水か湧水が溜まったものかと思う。

藪漕ぎで進む
足元は泥でグチャグチャ。行く手は、藪と倒木。先ほどのバイパス水路ができて廃路となったのであろう水路跡は荒れ果てている。こんな荒れた水路とは思わず、私は半袖、Tさん半ズボン。こんなはずではとの、Tさんのため息が感じられるも、撤退はなし。
お互い手と足に手負いの傷をつけながら、藪を進むと前方が開け、切通しが見えてきた。この辺りまで来ると藪も少なくなってくる。

切通し
切通しの規模は大きい。通常であれば、尾根筋の先端部を迂回し用水路を通すのだろうが、火砕流でできた地質故の脆さを危惧し、尾根筋を掘り抜いて切り通しとしたのだろう。また、逆に地質が脆い故に、かくも大規模な切り通しを人力で掘り割ることもできたのではあろう。


切通しが続く
水路の両側は高い崖面に囲まれており、切り通しに切れ目がない。尾根筋を部分的に掘り抜いた、というより、等高線310m辺りを延々と掘り割り、切り通しとしているように思えてきた。
水路跡の左手に車道が走り、車の走る音も聞こえるのだが、車道に出ようとも思わないほどの高い崖が続く。

車道に出る
切通しを進み、左手の車道が開けた辺り、切り通し部分を越えたところで一度車道に出る。水路から藪を掻き分け車道に出ると、そこは旧水路跡が車道の下を抜けている手前であった。
「ブラタモリ」用アプローチ
車道から水路跡へと藪が刈り込まれている箇所があったが、そこは、タモリさんの番組(「ブラタモリ」)撮影用に刈り込まれたアプローチと、後で聞いた。

水路跡が車道とクロスする
車道を水路跡がクロスする地点まで進む。道の右手には藪というか笹に蔽われた水路跡が見える。その水路跡が車道とクロスし、尾根筋の先端部を迂回し、再び車道に接近する姿を確認。車道左手に掘割状となった水路跡が車道に沿って進む。


折り返し

もう少し先に進めば、先ほど行き止まりとなったコンクリート崖面に続くと思われる、直線に走る水路があるのだが、そろそろ時間切れ、。引き返す時刻となってきた。残念であるが、次回のお楽しみとする。

戸ノ口第三発電所導水管と交差し水路は下る
車道を戻り、八幡配水池の敷地を越えた辺りで水路へのアプローチを探す。戸ノ口第三発電所の導水管が、車道下にある発電所に水を落とす辺りの山側が開けており、水路へのアプローチが可能となる。導水管脇を上ると戸ノ口堰用水が流れる。水量は豊富である。

地図を見ると、金山川にある第三発電所取水口から抜かれた隧道が、戸ノ口第三発電所への導水管の手前で開け、調整池らしきものが見えるのだが、そこから発電所導水管に落ちる流れとは別に、調整池らし水槽を経て、先ほど出合った「直線の水路」に向かって下る流路が見える。金山川にある第三発電所取水口からも戸ノ口堰へ養水が行われているように見える。
先ほど出合った、水源不明の直線水路の豊富な水と相まって、滔々と流れる水路は、導水管を越えた先で隧道に入り、車道脇に出る。

車道に沿って水路が進む
隧道を出た水路は一時暗渠となるも、すぐに開渠となり車道に沿って下る。下るにつれ、水路は車道と次第に離れ、少し高い箇所を進み隧道に入る。






八幡地区から躑躅山地区に水路は下る
車道に戻り、隧道の先に続く水路へのアプローチを探すが、車道と水路の間に民家の敷地・耕地があり水路に入れない。
車道を進み、三島神社の森を右下に見遣り、少し進んだ畑地の畦道といったものが水路へと向かっている。豊かな水量の水路を確認。
水路に沿って進もうとするも、水路脇を進むのが少々困難な箇所となり、車道に戻る。水路は八幡地区から、八幡配水場でメモした躑躅山地区に入る。

滝沢峠への道と交差
道を進み水路に出たり入ったりしながら先に進むと水路は滝沢峠へ上る道とクロスする。クロスする箇所の掛かる橋の右手には坂下増圧ポンプ場があった。八幡配水池から躑躅山地区に水を送る上水施設である。
因みに、坂下は「バンゲ」と読む。関東では「ハケ」、つまりは、「崖」のこと。 「バンゲ」に坂下という漢字をあてたのはどのような事情かは知らないが、誠に適切な「当て字」ではなかろうか。
白河街道
滝沢峠に続く古道は会津と白河を結ぶ白河街道。白虎隊もこの道を進み、滝沢峠を越え、戸ノ口原の合戦の地に出向いた、と言う。如何にも峠道といった趣のある道脇にあった「旧滝沢峠(白河街道)」の案内によれば、「白河街道は、もともとはこの道筋ではなく、もう少し南、会津の奥座敷などと呼ばれている東山温泉のあたりから背あぶり山を経て猪苗代湖方面に抜けていた。15世紀の中頃、当時の会津領主である蘆名盛氏がひらいたもの。豊臣秀吉の会津下向の時も、また秀吉により会津藩主に命じられた蒲生氏郷が会津に入る時通ったのも、こちらの道筋。
滝沢峠の道が開かれたのは17世紀の前半。寛永4年(1627)に会津入府した加藤嘉明は急峻な背あぶり山を嫌い、滝沢峠の道を開き、それを白河街道とした」、とのことである。

不動川の右岸を水路は進む
水路は不動川の右岸を進む。水路も水路脇の道も整備されている。今回、実際散歩するまでイメージしていた「戸ノ口堰用水」の姿がそこにあった。足元グジャグジャ、倒木、藪漕ぎなど、実際に歩くまで、想像もしていなかった。




不動川を石橋で渡る
不動川の右岸を進んだ水路は、川幅が狭まった辺りで石橋を渡り不動川の左岸に移る。石橋手前に堰があり、余水を不動川に流す。結構大量の水を落としていた。石橋は不動川水管橋とも坂下水路橋と称するようだ。




弁天洞窟に向かって水路は進む
不動川左岸に移った水路はゆったりとしたスペースの平坦地を進み、高い崖に掘られた弁天洞穴に流れ込む。弁天洞穴は戸ノ口原の合戦で敗れた白虎隊が逃走路として潜った水路洞穴として知られる。
ここから先、弁天洞穴の出口に向かうことになるのだが、高く聳える崖を這い上がろうとの提案は、即却下される。そういえば、琵琶湖疏水()を辿ったとき、極力水路ルートを歩こうと、隧道上の藪山に這いあがったとき、そこが私有地であり、所有者にキノコ盗掘者と間違われ、大声で呼び止められたことを思いだした。
それはともあれ、それでは不動川に沿って廻り込もうとアプローチを探すも、急峻な崖のようで、それも諦め、結局、大人しく、来た道を戻り、旧滝沢本陣前から飯盛山に向かうことにする。

滝沢本陣
水路を戻り、不動川水管橋を渡り、白河街道を右手に見遣りながら道を下り、滝沢坂下交差点を左折し、大きな通りを進むと、道の右手に滝沢本陣が見える。 茅葺屋根は数年前に訪れた時と異なり、新しく葺き替えられたように思う。
お城から3キロほどところにあるこの本陣は、延宝年間(1673-1680)に滝沢組11カ村の郷頭を務めていた旧家・横山家に設けられ、藩主の参勤交代や領内巡視、会津松平家藩祖・保科正之公を祀る土津神社への参拝時などに旅支度をするための休憩所として利用された。
また、会津戦争の時は戸ノ口の合戦で奮闘する兵士を激励するために藩主・松平容保がここを本陣とする。で、護衛の任にあたったのが白虎隊。戸ノ口原の合戦への援軍要請に勇躍出撃したのはこの本陣からである。

土津(はにつ)神社
藩祖を祀る土津神社は磐梯山麓見祢山の地にあり、会津若松から結構遠い。何故に?チェックすると;
正之は、磐梯山(磐椅山とも称される)を祀る磐椅神社(いわはし)を気に入り、その遺言として、神体山である磐梯山を祀る磐椅神社の末社となって永遠に神に奉仕したいと望んでいた、とのこと。ふたつの社は猪苗代の街に並んで建つ。尚、「土津」は保科正之が吉川神道の奥義を極めたとして授けられた霊神号である。


飯盛山
本陣を離れ、飯盛山の弁天洞穴に向かう。飯盛山のあれこれは、いつだったか訪れた時のメモにお任せし、本日は用水に焦点を合わせ、お山に上ることにする。

参道石段を戸ノ口堰用水が潜る
地図を見ると、参道石段を突き切る水路跡が描かれる。留意しながら石段を上ると、踊り場となったところにH鋼で補強された用水が走っていた。地図を見ると、水路は山裾に沿って南に下り、会津松平氏庭園(御薬園)へと向かっている。

厳島神社
ちょっと飯盛山に上り、白虎隊自刃の地から、3キロ先にかすかに見える会津若松の城を見た後、弁天洞窟穴のある「さざえ堂」方面へと、石段から右におれる下山道を進む。宇賀神社、さざえ堂を見遣り、さざえ堂前の石段を下りると、豊かな用水が二手に分かれて流れる。
二手に分かれた用水の間には厳島神社が建つ。厳島=水の神様。厳島神社となったのは明治から。そもそも「神社」という呼称が使われ始めたのは神仏分離令ができた明治になってからのことであり、この厳島神社もそれ以前は宗像社と呼ばれていた。
祭神は宗像三女神のひとり、市杵島姫命。杵島姫命は神仏習合で弁財天に習合。先ほど通り過ぎた宇賀神社にも、17世紀の中頃の元禄期、会津藩3代目藩主松平正容公が宇賀神と共に弁財天像が奉納されている。宇賀神も神仏習合で宇賀弁財天と称されるわけで、これだけ水の神・弁天さまを祀るということは、いかに戸ノ口堰の水が会津若松にとって貴重であったかの証かとも思える。
因みに、飯盛山は、元々は弁天山とも呼ばれていたようである。先ほどの宇賀神=宇賀弁天様共々、弁天様のオンパレード。ここまで弁天さまが集まれば、飯盛山が弁天山と呼ばれていたことに全く違和感はない。

戸ノ口堰洞穴
厳島神社の先に池があり、その向こうの崖面の洞窟から水が流れ込む。ここが先ほど隧道に入り込んだ戸ノ口堰隧道の出口である。案内には、「戸ノ口堰洞穴は、猪苗代湖北西岸の戸ノ口から、会津盆地へ引く用水堰で、全長31kmに及ぶ。 元和9(1623)年、八田野村の肝煎八田内蔵之助が開墾のため私財を投じ工事行い、寛永18(1641)年八田野村まで通水した。
その後、天保3(1832)年会津藩は藩士佐藤豊助を普請奉行に任命し5万5千人の人夫を動員し、堰の改修を行い、この時に弁天洞穴(約150m)を堀り、同六年(1835)完成した。
慶応四年(1868)戊辰戦争時、戸ノ口原で敗れた白虎士中二番隊20名が潜った洞穴である」とあった。

戸ノ口堰用水は、もともとは飯盛山の山裾を通していたが、土砂崩れなどもあり、飯盛山の山腹を穿つことになった。で、この洞穴、白虎隊が戸ノ口原での合戦に破れ、お城に引き返すときに敵の追撃を逃れるために通り抜けてきた、と言う。

二本松城を落とし、母成峠の会津軍防御ラインを突破し、猪苗代城を攻略し、会津の城下に向けて殺到する新政府軍。猪苗代湖から流れ出す唯一の川である日橋川、その橋に架かる十六橋を落とし防御線を確保しようとする会津軍。 が、新政府軍のスピードに間に合わず、防御ラインを日橋川西岸の戸ノ口原に設ける。援軍要請するも、城下には老人と子どもだけ。ということで、白虎隊が戸ノ口原に派遣されたわけではあるが、武運つたなく、ということで、このお山に逃れてきた、ということである。

■戸ノ口堰用水の水路を想う■

限られた時間ではあったが、今回の散歩で戸ノ口堰の一端を「掴んだ」。山間部の、荒れてはいるがスケールの大きな切通しの水路跡、里近くを下る未だ現役の用水路など、「飯盛山で見た弁天洞穴が戸ノ口堰と繋がる」、といっただけの情報から水路を逆にトレースし、成り行きで彷徨った割には、結構バッチリの用水路散歩ではあった。

水路をトレースし戸ノ口堰の用水路を作成
で、今回歩いたルートが戸ノ口堰の用水ルートの末端であろうと、猪苗代湖畔・戸ノ口から会津若松までの用水ルートを想う。地図を見ると、今回歩いたルートの先、高山からの尾根筋が突き出した先に水路が続く。
トレースすると水路は牛畑から吹屋山の東裾を進み、金掘集落に。金堀から烏帽子山に切れ込む沢筋を進み、沢筋の最奥部近くで反転し烏帽子山の西裾から沓掛峠近くの山麓を廻りこみを進み、山裾を蛇行しながら戸ノ口堰第一発電所の取水口に辺りに。
そこから御殿山の山麓(会津磐梯カントリークラブがある)を進み、鍋沼の南を走った後、北東に向かい、東電第一発電所への用水路かと思える水路を横切り、その水路と日橋川の間を蛇行しながら下り、猪苗代湖の戸ノ口と繋がる。

戸ノ口堰の開削経緯をもとに検証
これで戸ノ口堰のルートは完成、と思ったのだが、飯盛山の戸ノ口堰洞穴にあった説明、「寛永18(1641)年八田野村まで通水した」との説明と地理的に間尺に合わない。八田野村は、現在の会津若松市河東町八田野あたりかと推察されるので、トレースした水路の牛畑のはるか北にある。トレースした水路はどうみても通りそうにない。
戸ノ口堰の用水路の地図を探すが、これが全く見つからない。それではと、戸ノ口堰開削の経緯をもとに推定しようと、WEBをあれこれチェックすると、戸ノ口堰土地改良区のページに開削の歴史が記載されていた。そのページを以下引用する;

「戸ノ口堰土地改良区」のWEBページにある開削の歴史 
「戸ノ口堰は今から372年前、1623年に八田野村(現在の河沼郡河東町八田野)の肝煎、内蔵之助という人が、村の周辺に広がる広大な原野に猪苗代湖から水を引いて開墾したいと考え、時の藩主・蒲生忠郷公に願いでて、藩公が奉行・志賀庄兵衛に命じて開削に取りかかったというのが起源です。
それから2年くらいは藩の方で工事が行われましたが、財政難のため中止せざるを得ませんでした。その後、内蔵之助は工事の中止を憂い、自分の資材を投げ打ち2万人くらいの人夫を使い、途中の蟻塚まで開削しました。しかし、内蔵之助も個人ですので、資金がどうしても続かないということで、途中で中止しました。それでも開拓の志はどうしても捨てきれず、再び当時の藩主・加藤明成公に願いでて、また藩の方から工事の再開を認められました。それにより約15年かけて八田分水まで水を引くことが出来ました。その後、その時の功労を認められて、この内蔵之助という人は八田堰の堰守に任じられ、その土地の用水堰は「八田野堰」と名付けられました。
それからまた開削が進められ、1638年には鍋沼まで到達し、それから3年ほどかけて河東町の八田野まで支川として戸ノ口の水路を造り、その時に7つの新しい村が出来ました。これが第1期、第2期の工事になります。
第3期工事は、河沼郡槻橋村(今の河東町槻木)の花積弥市という人が、鍋沼から一箕の方を回った水路を造り、長原一箕町、長原の新田を開拓したいということで、また藩の方に申し出て行いました。
次の第4期工事で会津若松までつながるのですが、1693年に北滝沢村(今の一箕町北滝沢)の肝煎の惣治右衛門という人が、自分の近くの滝沢付近までいつも水を持ってきたいということで願いでて、開拓しました。長原新田から滝沢峠を通り、不動川の上を渡し、飯盛山の脇の水路を通って今の慶山の方まで持ってきたということになっています。当時の水路は猪苗代湖から会津若松まで約31kmあり、1693年には八田野堰から戸ノ口堰に改名されました
今まで、雁堰からの水を会津若松のお城、生活用水、防火用水等に使っていましたが、雁堰は湯川の水を入れているので日照り等があると渇水になります。そこで、会津藩としては、どうしても会津若松まで水を持ってきて、安定した水が欲しいというのが願いでした。
それから約200年以上経った1835年(天保6年)、時の藩主・松平容敬公が普請奉公を佐藤豊助に任命して、会津藩から5万5,000人を集めて戸ノ口堰の大改修が行われました。戸ノ口堰は1623年以降212年経過しており、山間部を通ってくるので、土砂崩れなどにより常時通水が出来なくなったということで、堰幅、深さを改造した。
それまでは、飯盛山の北西にある水路を通っていましたが、その時初めて飯盛山の洞窟約170mを掘りました。この洞窟には、慶応4年の会津戊辰戦争の時に戸ノ口原の戦いに敗れた白虎隊が逃げ帰ってきて、飯盛山の洞窟を通って飯盛山に登り、自害したという有名な話があります」とある。

この説明では用水ルートはわからない。わかることは、八田分水は鍋沼まで達していない以上、その手前になるだろうということ。次に、ルートははっきりしないが、戸ノ口堰は、河東町の八田野まで支川として開かれ、その時に7つの新しい村が出来た。これが第1期、第2期の開削の状況。 「戸ノ口堰は、河東町の八田野まで支川として開かれた時期は、「1638年には鍋沼まで到達し、それから3年ほどかけて」との説明があることから、それが飯盛山の戸ノ口堰洞穴の案内にあった「寛永18(1641)年八田野村まで通水した」と言う記述のことであろう。

そして、説明には、第3期には鍋沼から一箕の方を回った水路を造り、長原一箕町、長原の新田を開拓した、とある。長沼新田は現在の一箕町松長、長原辺りだろうと思う。
ここで「鍋沼から一箕の方を回った水路」とあるので、第1期、第2期に河東町の八田野まで支川として開かれた水路は、一箕方面ではなく、鍋沼の手前の八田分水から直接八田野に水路を開削したのかとも推定できる。実際、地図をみるとそれらしき水路跡が膳棚山の南から八田野に走る水路が見える。
第4期には「長原新田から滝沢峠を通り、不動川の上を渡し。。。」とあるので、この時期に一箕町松長、長原方面からの水路が本日歩いた水路と繋がったようである。

水路跡をトレースして作図した戸ノ口堰と、開削の歴史の記述が合わない 

以上、開削の経緯をチェックするも、用水は金堀集落とはるかに離れた箕町松長、長原辺りを走った、という記録だけである。地図にある水路をトレースして推定した金堀経由のルートとは「掠りも」しない。さてどうしたものか。これはもう、水路図をなんとか見つけるしか術はない。


国立国会図書館で用水ルート図発見●

ということで、日本で発行されたすべての出版物を保管する国立国会と図書館であればひょっとして、と「戸ノ口堰」で蔵書を検索する。
と、「猪苗代湖利水史」に「戸ノ口用水堰」とともに、「戸ノ口堰一覧図」という目次がヒットした。
「戸ノ口一覧図」が用水路ルートであることを祈り、永田町の国立国会図書館に出向き、PCで本文確認。そこには探していた用水路が描かれていた。本書はデジタルアーカイブされており、PDFで当該ページを印刷し、本文とルート図を見比べる。

水路跡をトレースした用水作図は戸ノ口堰の分流であった
本文には「この堰は十六橋の左岸にはじまり、大体標高514メートルの同高線を辿り、河沼郡河東村大字八田の大野原を蛇行し、鍋沼を経て「ノメリ橋」に至る。ここで一部は「金堀り廻り」の分水路となり、大部分は「ノメリ滝」を爆下し、石ヶ森から四ツ留までは「金山川」という渓流を流れ、四ツ留から再び人工水路となり、羽山や堂が作山の西麓を蛇行し、不動川を水路橋で渡り、飯盛山の西麓をめぐって流末は湯川に注いているのである」とあった。
これですっきりした。トレースしたのは「金堀り廻り」の分水路であり、本流は分水路のはるか北、人工の用水路から自然の川である金山川を活用し、羽山を越えた辺りで、現在の一箕町松長、長原へと向かい、高山の西裾で本日辿った金堀に続く水路筋に繋がっていた。また、八田分水も推定の通り、鍋沼の手前から北に向かって延びていた。

戸ノ口堰用水路作図
◆同書の地図をもとに戸口堰を作図する。一箕町松長、長原付近は宅地開発の影響か往昔の水路は途切れているため、地図はその区間直線とした。

◆八田分水は同書では途中までしか描かれていないが、作図では「八田野」まで辿れる水路をトレースした。これが正しい水路か否か不明であるが、とりあえず八田分水が八田野に繋がりそう、ということを自分に納得させるためでの作図である。

残る疑問
同書の本流は分水路の「金堀り廻り」と繋がっていない。が、現在の水路は繋がって見える。その理由は何だろう。発電用、上水用として使われ、その余水を現在でも会津盆地に流し、観光用・防火用・生活用水など現役として使われている戸ノ口堰の水は、発電用導水管で送水され、要所で分水しているわけで、戸ノ口堰の用水路からの水はそれほど重要ではないようにも思える。
そこでひっかかるのが、散歩の最初で出合った直線の人工水路に流れ込む激しい水勢の源がどこか、ということである。そのためには、今回時間切れで行けなかった、尾根を越えた先にある直線の水路の水勢がどの程度のものか確認し、判断することにすることが必要かと思う。
「金堀り廻り」の分水路の水量が豊かなものか、はたまた、地図では切れてしまったように見える一箕町松長、長原方面からの水路が地下を潜り、未だに豊かな水を供給しているのか、妄想は膨らむのだが、実際に行って確認するまで結論を保留しておくしかないだろう。

ともあれ、戸ノ口堰の用水路はなんとか把握できた。後は、ひたすら歩くのみである。