金曜日, 2月 24, 2006

高尾山・陣場山散歩

高尾山・陣場山散歩

2月のある日、会社の仲間と3人で高尾山から陣場山の尾根道を縦走することになった。もっとも縦走というほどの大層なものではなく、ハイキングというのが正しい表現ではあろう。高尾山には六号路といったびわ滝川の沢道を進む登山道、表参道コースとも呼ばれる一号路、主尾根とは別の尾根道を進む稲荷山コースなどのコースを登ったことがある。

高尾山頂から先は尾根道を歩き小仏城山から相模湖に下るコースは二度ほど歩いた。陣場山は小仏峠手前の景信山への直登ルートから明王峠を経て陣場山へ歩き、山頂から藤野へ下るコースも歩いた。で、今回は今まで歩いたルートをまとめて一筆書き。高尾山から小仏峠を経て景信山に登り、尾根道を歩き陣場山へと進む。陣馬山からは裏高尾・陣馬高原下に進み、バスで八王子に戻るコースをルーティングした。

京王線高尾山口
朝9時に京王線高尾山口で待ち合わせ。高尾山にはケーブルで登ることに。本日の行程、時間を考えるとこの高尾山の登りでの1時間余の時間と消耗は結構きつい、と衆議一決。高尾登山ケーブル・清滝口から一気に高尾山に。ケーブルに乗ったのは10年ぶりくらい。斜度は31度18分と日本最大。山頂駅手前の急峻な登りは中々の見ものではあった。

蛸杉
ケーブルを降り、のんびり歩く。蛸杉が。往時、参道開削の折、邪魔になる根っこを伐採しようとしたとき、一夜にして根っこが後方に曲折、その姿が蛸の足に似ていたので名づけられた、と。

浄心門
蛸杉を過ぎ、744年創建の浄心門をくぐる。門脇に神変堂。安置されている神変大菩薩は山伏のルーツ、とか。堂の脇を固める石像は2匹の鬼。妙童鬼、善童鬼という夫婦で神変大菩薩に従者として仕えている。結構いい表情。神変大菩薩により悪行を悔い改めて、人々の救済のために尽くしている、とか。

高尾山薬王院
神変堂の先は二つにわかれ、男坂という108段の階段か、女坂といわれるゆるやかなスロープのふたつのルート。迷うことなくゆるやか道を選ぶ。参道右手に山門・四天王門が。少々コケティッシュな持国天、増長天、多門天、広目天のお像を眺めながら高尾山薬王院に。大天狗、小天狗が迎えてくれる。

天狗は高尾の守り神。その昔、行基がこの地を訪れた。身に持つ薬師如来を安置する場所を求めて高尾の山に分け入る。疲れて眠り、目覚めると薬師如来が消えている。と、目の前に大天狗が薬師如来を捧げ、「行基さまのおいでを待っていました」と。以来、お山を知り尽くした天狗は行基を助け薬草を集める。天狗はいつしか、螺善坊と呼ばれるまでに。行基は集めた薬草を携え都に戻り、聖武天皇に献上。その故に菩薩の称号を。で、螺善坊はお山に残り、里の女性を娶り、というか略奪したそうだが、所詮は言い伝えであるので、それはそれとして高尾の守り神、自然体系の頂点にある存在として、幸せに暮らしました、とさ。と、強引にまとめておこう。

飯綱権現堂
右手に石段。仁王門をくぐり薬王院大本堂に。真言宗智山派の大本山。正式名称「高尾山薬王院有喜寺」。今から1,200年前の天平年間に行基菩薩が聖武天皇の勅命を得て薬師如来を安置し開山、と伝えられる。

おまいりを済まし、奥の院経由山頂への案内に従い、大本堂左手の石段を登る。飯綱権現堂が。飯綱(いづな)権現は高尾山のご本尊。南北朝時代、永和年間の1375年、京都・醍醐山より俊源が入山。六号登山路途中にある琵琶滝(びわたき)に打たれて修行し飯縄大権現を感得、と。飯縄大権現は、火焔を背にした不動明王の化身、そして不動明王は大日如来の化身。権現様は神でもあり、仏でもある、ってことは熊野散歩のメモに書いたとおり。

ちなみに、長野戸隠に飯縄神社というのがある。そこでは飯縄山に住む狐をまつっている。「飯縄使い」とは「狐つかい」のこと。ということは、高尾山中興の祖・俊源が狐の妖術使いだった?!。ともあれ、高尾山は飯縄大権現を御本尊、俊源大徳をもって高尾山中輿の祖としている、とか。お堂裏手の石段を更に登って行くと、薬王院の奥の院、江戸時代初期に建立の不動堂が。雪というか、霜柱、これって関東特有、関東ローム層ならではの現象、との同行者の薀蓄を聞きながら少し進み高尾山頂に到着。

高尾山頂
高尾山頂の茶店で少々休憩し先に進む。山頂から小仏城山までは12月1日の散歩ルートと同じ。高尾山・高尾ビジターセンター>もみじ台>一丁平>小仏城山に進む。日陰は霜柱、日向はぬかるみ、と道のコンディションはよろしくない。小仏城山の茶店で少々の休憩の後、小仏峠に下る。

小仏峠
20分程度で峠に。旧甲州街道の小仏関所があったところ。高尾山の北の山麓、つまりは裏高尾を走る旧街道ルートは結構高低差がある。明治21年に現在の甲州街道・国道20号線を作る際はこのルートは通らず、大垂水峠を越えるルートに道筋を変更した、とか。とはいうものの、中央高速にしてもJRにしても旧甲州街道に沿って東西に直線に走っている。スピードを出すには直線がいいのはあたりまえ。邪魔な山はトンネルを掘ればいい、ってことだろう。峠には明治13年、明治天皇の山梨巡行の折につくられた、「明治天皇小仏峠御小休所址及御野立所」の碑があった。

景信山
小仏峠から景信山に登る。先般、小仏峠手前の景信山直登ルートから入ったときは結構きつい登りであった。で、身構えていたのだが、この小仏峠からのルートは拍子抜けするほど楽なコース。遊歩道といった雰囲気で歩けた。景信山に。景信山から陣馬山までは12月9日の散歩メモに同じ。景信山(727m)>堂所山(710m)>明王峠(710m)>陣場山(854m)と進む。陣馬山では先回お世話になった山頂の茶屋でオバーチャンに挨拶し少々休憩。

陣馬高原下のバス停に降りる
休憩の後、陣馬高原下のバス停に降りることに。和田峠から車道をおりてバス停に進む1時間10分のルートか、陣馬山から一挙に山道を下る、40分の「直滑降」ルートか、どちらか。登山靴では車道というか舗装道路は歩き難いということで、直滑降ルートに。いやはやこれがとんでもない状況に。足をとられ、滑り転げ、世の中の不幸をすべて請け負ったような汚れ具合に、笑うしかなし。

バスの時間は1時間に1本。乗り遅れないようにと心はあせれど、体がついていかず。4,5時間の山歩きで膝は笑う。ダイナミックな転倒に情けないやら、恥ずかしいやら。とはいうものの、先陣を受け持つ騎士・ナイトもかくやあるらん、といった義務感というか「ノブリス・オブリージュ」の気概で転びの場所の露払い。それにしても後に続く皆様、笑いを堪えるのが大変であったろう、な。
ともあれ、なんとかかんとか車道に到着。バス停まで1キロ強を小走りで進み4時15分のバスになんとか間に合い、八王子駅まで戻り本日の予定終了。快適な尾根道散歩でありました。

本日のルート;ルート;京王高尾山口>高尾山頂上>高尾登山ケーブル・清滝口>高尾山>仏舎利塔>薬王院>奥の院>高尾山ビジターセンター>小仏城山>小仏峠>景信山>堂所山>明王峠>陣馬山>陣馬高原下・バス停>京王八王子駅

木曜日, 2月 09, 2006

江戸の塩の道散歩 そのⅢ;新川・古川を進み行徳に

塩の道散歩の第三回は、荒川から旧江戸川に抜ける新川を進み、途中から古川に入る。もっとも、古川には、散歩の途中でほんの偶然に出会ったのだが、ともあれ、新川ができる前の古い川筋・古川に入り、行徳に至るルートを歩く。
新川・古川筋を船堀川とも呼ぶ。正確には、古川筋をすすみ、新川に合流し中川に注ぐもともとの川筋の名前が船堀川。古川・新川の合流点から東に真っ直ぐ旧江戸川に貫く新しい水路を新川。ために、それ以前の旧江戸川から新川との合流点までの、いわゆる取り残された川筋を古川、と読んでいる。(木曜日, 2月09, 2006のブログを修正)


本日のルート;新川排水機場>新川>宇喜田橋>新海橋>三角橋>新川橋>古川親水公園>環七通り>瑞穂大橋>今井水門>旧江戸川>新中川分岐>旧江戸川に戻る>常夜灯>笹屋のうどん跡>行徳駅

都営新宿線・船堀駅

都営新宿線・船堀駅下車。線路に沿って少し戻り、荒川堤に出る。どうせなら、新川が荒川より分岐する箇所からはじめるべし、といった心持。荒川と中川の中堤上を走る高速道路を眺めながら分岐点の新川排水機場に。新川は昔、というか荒川放水路・荒川が明治末期から昭和初期にかけて建設されるまでは、荒川の西を流れる旧中川に流れ込んでいた。荒川放水路の建設によって流れが分断された中川は現在荒川を挟んで泣き別れといった状態になっているわけだ。



新川
川筋に沿って進む。遊歩道が整備されている。快適な散歩道。川幅は最大で21m。ゆったりとしている。先回の仙台堀川親水公園にしても、南十間川親水公園にしても、予想以上に環境整備が進んでいる。水質も予想外に悪くない。旧江戸川の新川東水門で取り入れられた水を新川排水機場で排水することにより、水質を保つという。
快適な遊歩道を宇喜田橋、新海橋、三角橋と進む。川沿いの遊歩道・親水テラスの下は地下駐輪場となっている、とか。


古川
新川橋を越える。左手に古川親水公園の案内。新川?古川?その関連は?上でメモしたように、新川・古川の関連はそ後からわかったのだが、この時は、「古」というわけだから、古川とはもともとの水路であろう、と新川を離れ、古川筋を歩くことにした。
古川親水公園のどのあたりだったか定かではない。古川の案内があった。「古川は江戸川から中川に通じる昔の流路。天正18年(1590)家康江戸入府の後、行徳の塩を江戸に運ぶ重要な水路でしたが、寛永6年(1629年)、現在の三角付近から東へ新たな水路が掘られ、通運の役目はそちらにうつりました。これが今の新川で、北関東や東北からの物資を運ぶルートとして、明治時代には蒸気船が就航するなど、内陸水水運網の大動脈として賑わいました」、と。


その後生活廃水などによりの汚染が進み、川としての生命を失いかけていたが、1974年、1.2キロの親水公園として復活した。これもどこだったか定かではないが、親水公園の川筋のどこかに、公園化するまえの、お世辞にも美しいとは言えない古川の写真があった。
ちなみに「親水公園」という名称。いまでこそあちこちに散見する。が、その第一号がこの古川親水公園であった、とか。汚れた河川は蓋をしたり、埋めたりといった従来の都市河川政策と真逆のこの試み、水と緑に親しめる新しい公園にするこの計画は世界的にも大きく評価される。昭和57年にナイロビで開催された国連人間環境会議で紹介され、国内外の注目を浴びた。親水公園の第二号は同じく江戸川区にある小松川境川親水公園。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

環七と交差
しばらく進むと環七との交差点。二之江神社。香取神社と八幡神社を合祀して昭和42年に二之江神社となった。境内は香取神社のもの。境内の欅(けやき)は樹齢500年以上。神社の斜め前に古川けやき公園。その横に妙勝寺。日蓮宗。中山法華経寺の末寺。区内でも古い寺院。「黒門寺」とか「ジョウジン」と呼ばれる。

寺伝によると、13世紀中旬、葛西沖に難船が漂着。童子を二之江村の漁師五郎が救う。童子は平家の末葉であるといわれ、後に僧となり古川べりに草庵を結ぶ。これが妙勝寺の始まり、と。直ぐ近くに蓮華寺。鉄筋のお寺。「虫除け不動」として信仰を集めた。






宇田川家長屋門


しばし進む。遊歩道が終わりとなる。なんだか大きな民家に沿って道なりに進む。戦国時代小田原北条の家臣であった宇田川家の屋敷。立派な長屋門が残る。江戸時代後期に再建されたもの、と言う。門の前には行徳道石造道標。先に進むと旧江戸川の堤防に。旧江戸川に合流する新中川にかかる瑞穂橋まで橋はない。






旧江戸川・熊野神社

北に進む。道脇に熊野神社。創建は18世紀初頭。この神社、「おくまんさま」と呼ばれる。神社前の江戸川は水流の関係で深い瀬となっており、その水流が堤防を壊すのを防ぐため多くの「だし杭(くい)」を打っていた。また、この近辺の水はきれいで、将軍家のお茶の水として使われていた。で、ここらあたりの水を「おくまんだしの水=熊野神社のだし杭いのあるところの水」と呼ばれたのが、その由来。
ここの水は野田醤油の製造に使われたり、本所・深川・大島あたりでもここの水を買って呑んでいた、と。境内に芭蕉の句碑;茶水くむおくまんだしや松の花。深川からこの水を求めて逍遥したときに詠ったものか。

新中川
瑞穂大橋に。左手に今井水門を眺めながら新中川を渡り、旧江戸川の堤に。今井児童公園に沿って歩き、今井橋を渡り旧江戸川南岸に。橋を渡りきったあたりで階段を下り、堤防に向う。

行徳河岸跡

こ れといって情緒のない堤防沿いの道を相之川、湊新田、湊、押切、伊勢宿、関ヶ島、本行徳へと進む。堤防脇に水神さま。まことにささやかなる祠。祠の横に行徳河岸の案内。別名、祭礼河岸とも。貨物専用の河岸であった、とか。





行徳・常夜灯

先に進み常夜灯の碑に到着。昔の航路標といったもの。案内によれば、「寛永9年(1632)江戸幕府は下総行徳河岸から日本橋小網町に至る渡船を許可し、その航路の独占権を得た本行徳村はここに新河岸を設置しました。現在残る常夜灯は、この航路安全祈願のために、江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の講中が成田山に奉納したものです。高さ4.31m、石造り、文化9年 (1812)に建てられましたが、昭和45年、旧江戸川堤防拡張工事のため、位置が多少移動されました。この航路に就航した船は「行徳船」と呼ばれ、毎日明け六ツ(午前6時)から暮れ六ツ(午後6時)まで運航されていました。行徳特産の塩を江戸に運ぶのが目的でしたが、成田山への参詣路として文化・文政期(1804~1830)のころからは旅人の利用が多くなり、当初16艘だった「行徳船」も幕末期には62艘にも増え、江戸との往来の賑やかさがうかがえます」、と。
行徳船の数は1671年;51隻、1848年;62隻であった、とか。行徳から日本橋小網町まで3里8丁の長丁場。ために長渡船とも呼ばれた。日本橋川に行徳河岸があったが、それは行徳からの船便の荷揚げ場所だったのだろう。松尾芭蕉、十返舎一九、古林一茶、渡辺崋山といった文人・墨客も行徳船を利用した。

笹屋のうどん跡地

塩の道の散歩はこれで終了。あとは往時、行徳船の利用者で賑わったという笹屋のうどん跡地、といっても普通の民家の軒先に石碑があるだけだが、ともあれ行徳街道を少し戻り場所だけ確認。この笹屋、頼朝と深い関係がある。石橋山の合戦で破れた頼朝が安房に落ち延びる道すがら、この行徳に。当時のうどん屋の主人の接待を感謝し、後に頼朝の家紋「笹りんどう」の紋を与え、店の名前も「笹屋」となった、由。

営団東西線行徳駅

営団東西線行徳駅に。駅前の地図を見ると、本塩・塩焼・塩浜・塩場寺といった地名が残っている。西の赤穂、東の行徳というくらいかつては塩業が盛んな町であったわけだ。「塩は軍用第一の品、領内一番の宝である」、として戦略商品を産する行徳は徳川幕府の天領であった。
江戸の勝手口として繁栄した行徳は「行徳千軒、寺百軒」といわれるほどに発展。誠にお寺が多い。明治に入っても水運が盛んであった。蒸気外輪船が往復する。が、水運を有り難く思うあまり、鉄道敷設に反対。鉄道・総武線は行徳を外し、内陸部を走ることになる。
近代的交通ルートから取り残された行徳は「陸の孤島」と。それに輪をかけて、大正六年の大津波で、塩田が壊滅。広大な湿地と干潟がひろがり、雁や鴨、鷺、千鳥等が群れる鳥類生息地となる。一時さびれた行徳も埋立て事業がスタート。臨海工業地帯に。また昭和44年の地下鉄東西線が開通し、田園地域から一大住宅地帯となり、現在に至る。
行徳の地名の由来;葛飾誌略では、「行徳といふ地名は、其昔、徳長けたる山伏此処に住す。諸人信仰し行徳と云いしより、いつとなく郷名となれり」、と。土地の開発と、人々の教化に努め、徳が高く、行いが正しかったことから多くの人から「行徳さま」と崇め敬われた山伏がその名前の由来、と言われている。

水曜日, 2月 08, 2006

江戸の塩の道散歩 そのⅡ;小名木川を荒川との合流点まで

先回は日本橋川を下り隅田川まで歩いた。今回は隅田川から荒川までを小名木川を歩く。小名木川は家康が行徳の塩田地帯でつくられる塩を江戸に運ぶためにつくった川筋・運河。葛西から船橋にかけての一帯は鎌倉時代から塩の生産地。北条氏に年貢として納めていたともいう。海浜地帯であることは塩をつくる必要条件としても、十分条件は燃料である薪の確保。利根川・江戸川水系の水路のネットワークにより燃料供給が安定していたことが、この地で塩田が発達した要因という。ともあれ、清洲橋の少し北で隅田川から分岐する小名木川に向う。(水曜日, 2月 08, 2006のブログを修正)(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


本日のルート;新小名木川水門>高橋>西深川橋>東深川橋>大富橋>新高橋>(扇橋)>新扇橋>小松橋>小名木川橋>小名木川クロバー橋>横十間川親水公園>進開橋>丸八橋>番所橋>旧中川>中川大橋>大島・小松川公園>小名木川排水機場>荒川>新船堀橋>中川>船堀橋>都営新宿線船堀橋

小名木川

小名木川は、隅田川から荒川、正確には荒川の手前の旧中川まで江東区を東西に横断する長さ5キロ弱の一級河川。家康の命により小名木四郎兵衛がこの運河を開削したのが名前の由来。もっとも、これも諸説あり、うなぎがよく採れたのでうなぎ川、それがなまったという説などいろいろ。
もともとは行徳(千葉県市川市)の塩を江戸に運ぶために開削された。が、後に、関西地方から江戸に塩がもたらされるようになってからも、東北や北関東からの生活物資を江戸に運ぶ重要河川としてその役割を担った。房総、浦賀といった太平洋の海の難所を避け、茨城あたりで内陸に入り、利根川・江戸川経由で小名木川、そして江戸に続く、いわゆる奥川廻し、この内陸水路をつかった水運ネットワークの一環として機能したのだろう。ともあれ、歩をすすめることにする。

万年橋
隅田川から分岐した小名木川にかかる最初の橋が万年橋。橋の北に「川船番所跡」の案内。深川番所・川船番所・深川口人改の御番所とも呼ばれる。海の関所といったところ。水路をとおって江戸に出入りする人や荷を監視するため隅田川口に設けられた。人の通行改めはそれほど厳しくはなかったが、川船に積まれた荷物、とくに米、酒、鮮魚、野菜、硫黄、塩などの監視は極めて厳しかった、とか。万年橋は元番所橋ともよばれる。
万年橋近辺には俳人・松尾芭蕉ゆかりの地がいくつかある。常盤1-3-12の芭蕉庵跡・芭蕉稲荷。1680年にこの地に庵を結び、1694年に51歳でなくなるまで、この地から全国への旅に出た、と。「こゝのとせ(九年)の春秋、市中に住み侘て、居を深川のほとりに移す。(しばの戸)」。「深川三またの辺に草庵を侘て、遠くは士峰の雪をのぞみ、ちかくは万里の船をうかぶ(寒夜の辞」」。北斎の富嶽三十六景「深川万年橋下」の光景か。新大橋通り方面に少し上ると、芭蕉記念館もある。逆に、清澄通りを少し南に下り、海辺橋の南詰めに採茶庵跡。庵と芭蕉の銅像があった。

新小名木川水門
万年橋から少し進む。新小名木川水門。隅田川からの逆流を防ぐための水門、とか。工業化・地下水汲み上げの影響による地盤地沈下により、小名木川筋のほうが水位が低い。仙台堀を歩いていたとき、木場公園のあたりで防水工事案内を目にした。大潮の干潮時の水位をゼロとすれば、満潮時は2.1m。堤防の高さは6.4m。今立っているあたりは2.5m。昭和34年の伊勢湾台風のときは潮位5.1mまでになったという。堤防がなければ完沈である。台風などの水害防止のためにも水門が機能しているのだろう。

高橋
清澄通りに架かる高橋に進む道筋の南、清澄3丁目には大鵬部屋・北の海部屋・尾車部屋などといった相撲部屋も見られる。高橋って、もともとは橋の中央が盛り上がる、というか「高く」なっていたためつけられた名前。水運華やかなりし川ではの、名前ではあろう。

新高橋
川筋に沿ってつかず離れず進む。西深川橋から東深川橋三つ目通りにかかる大富橋、そして新高橋。先ほどの高橋とこの新高橋、このペアに近いものが近くの川にもあった。日本橋川が隅田川に流れ込む手前に分岐している亀島川に架かる高橋と南高橋。それがどうした、と言えば、それだけのことではあるのだが。。。

大横川と交差
新高橋を越えると小名木川は大横川と交差する。川筋には道がないので、一度清洲橋通りまで戻り扇橋を渡り、新扇橋から小松橋へと進む。小松橋は鉄骨組みのトラス橋。

扇橋閘門(こうもん)
小松橋と新扇橋の間に水門が。扇橋閘門(こうもん)。江東区の東は西と比べて地盤が低いので、水害防止のため東側地区の水位を常に低くしておく対策を実施。水門で囲えばいいわけだろうが、通船の水路確保のために閘門を設けることになる。閘門とは、京都の琵琶湖疎水のインクラインと仕組みは同じ、か。水位差のある箇所をふたつの水門で囲う。片方の水門を開けて船を入れる。このときの水位は水を入れた側と同じ。次に水門を閉じポンプで水を注入する、あるいは排水して反対側の水位と合わす。水位が合うと、出る側の水門を開き船を通す、という段取りとなる。パナマ運河の小規模版といったもの。付近に製粉会社が目に付く。新扇橋のたもとに、日本発の蒸気機関をつかった製粉工場をつくった雨宮啓次郎さんの碑があった。

小名木川橋
小名木川橋。南の東陽町から北の錦糸町を経て押上に通じる四つ目通りに架かる。この橋というか、四つ目通りを境に、東西の街の相が少々異なる。西は昔ながらの下町、東は新開地といった雰囲気。民家の多い東と団地の多い西、生活道路中心の東と幹線道路が南北に走る西、と言った感じもする。
歴史的にみても江東区はこのあたりを境に西が深川区で東が城東区。もっと歴史を遡ると、江戸の時代深川まで、つまりは四つ目通りあたりまでが江戸の内、それより東は外縁部であった、とか。川筋の遊歩道も小名木川橋より西は途中で突然道がなくなる。が、これより東は整地された遊歩道が完備、といった按配であった。歩いてわかる街の姿、ではあります。

小名木川クロバー橋

川筋をすすみ小名木川クロバー橋に。横十間川との交差点。交差点をクロスしたX型の橋。南は横十間川親水公園となっている。少し下ってみたが、結構いい雰囲気の散歩道となっている。JRの貨物駅の脇を進み進開橋に。明治通りとの交差点。川の北側は大島地区。正倉院文書に葛飾郡大嶋郷と記されている。それがこの地の名前の由来かどうか、定かならず。

中川船番所
丸八通りにかかる丸八橋を越え少し進むと仙台堀川公園が分岐。仙台堀は南に下り、葛西橋通りあたりで西に向い、小名木川のひと筋南をほぼ平行に開削されている。
旧中川の手前に番所橋。隅田川口、万年橋北詰めにあった深川口船番所・深川口人改之御番所が1661年、この地に移転し中川船番所に。中川・小名木川・新川(船堀川)が交差するこの地におかれ、人や物資の取り締まりをおこなった。ただ、通船数が多くなるにつれ、通関手続きは形骸化し「「通ります通れ葛西のあふむ石」と川柳で揶揄されてはいたようだ。

荒川ロックゲート
川筋を一筋北にのぼり旧中川にかかる中川大橋を渡り、小高い大島・小松川公園を眺めながら小名木川排水機場に。荒川ロックゲートとも呼ばれている。扇橋閘門と同じ原理での水門。荒川と中川の水位差を調節している。荒川に沿って新大橋通りに。東に向かい荒川にかかる新船堀橋を歩く。中堤に首都高中央環状線が南北に走る。高架下をくぐると中堤を隔てたほうひとつの川・中川。船堀橋を渡り都営新宿線船堀橋に到着。本日の予定終了となる。

火曜日, 2月 07, 2006

江戸の塩の道散歩 そのⅠ;日本橋川を隅田川まで


東京の下町低地,広義での利根川の河口部=沖積地、の散歩には今ひとつ意欲が湧かなかった。理由はひとつだけ。地形のうねりが感じらづないから。ゼロメートル地帯というか、マイナス3メートルのところもある、という。凸凹のない地形散歩ってポイントが絞れない。とはいうものの、深川不動とか富岡八幡に行ったり、清澄公園とか深川江戸資料館に行ったり、吉良邸とか回向院、江戸東京博物館に行ったり、錦糸町で飲み会の後夜中に新宿まで歩いたりはしていた。が、今ひとつこれといった散歩ターゲットがみつからない。はてさて、と地図を眺めていた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)




と、隅田川から荒川に繋がる川筋がある。小名木川という。名前が面白そう。一体どんな由来のある川筋なのだろう。調べてみた。江戸開幕の折、千葉・行徳の塩を江戸に運ぶため開かれた堀・運河である。江戸城の和田倉門から道三堀、日本橋川を経て隅田川、隅田川から荒川まで小名木川、荒川を越え新川(船堀川)から旧江戸川を経て行徳まで連なる塩の道。散歩のストーリーとしては美しい。ということで、道三堀・日本橋川から行徳までの川筋散歩に向うことにした。(火曜日, 2月 07, 2006のブログを修正)



本日のルート;JR水道橋駅>神田川と日本橋川の分岐点>三崎橋>新三崎橋>あいあい橋>新川橋>堀留橋>南堀留橋>俎橋>宝田橋>雉子橋>一ツ橋>錦橋>神田橋・日比谷通り交差>鎌倉橋>常盤橋>新常盤橋>一石橋>西河岸橋呉服橋>日本橋>江戸橋>鎧橋>茅場橋>豊海橋>隅田川>隅田川大橋西詰め>箱崎の東京シティエアーターミナル>半蔵門線・水天宮前

道三堀
道三堀。家康が城普請よりなにより、先ず最初に手がけたのはこの堀の開削工事。未だ天下人とはなっていない時期なので、天下に「お手伝い」の号令を出すこともできず、家康の家臣のみて工事を始めた。慣れぬ土木仕事に家康家臣は苦労した、とか。流路は和田倉門・辰ノ口、現在のパレスホテルのあたりから始まり大手町交差点を経て呉服橋門あたりまで。およそ1キロ程度の運河。後に日本橋川に合流することになる。
名前は、この運河の近くに徳川家の典医・曲直瀬道三邸があったから。とはいうものの現在は埋め立てられ跡形もない。であれば、日本橋川との合流点・呉服橋あたりからはじめるべし。とは思いながらも、どうせのことなら、日本橋川のスタート地点から歩を進めることにした。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

神田川と日本橋川の分岐・三崎橋


日本橋川は中世の平川、もともとの神田川のルートにあたる。つまりは飯田橋・水道橋のあたりから日比谷入江に注ぐ川筋である。現在の神田川は1620年頃の第三次天下普請により、御茶ノ水の台地を切り崩し直接隅田川に流れ込む川筋となっている。理由は、江戸のお城への洪水を避けるため。
日本橋川と神田川の分岐点に歩を進める。JR総武線・水道橋で下車。少し飯田橋に戻ると神田川と日本橋川の分岐・三崎橋。ちょっと昔まで、このあたりにJRの貨物駅があったような気がするのだが、今は都市開発ですっかり様変わりである。

堀留橋

目白通りと水道橋西通りの間を流れる川筋に沿って歩く。三崎橋>新三崎橋>あいあい橋>新川橋>堀留橋で専大通りと交差。堀留とは、川を上流から埋め立て下流部分を水路として残したものを言う。江戸のお城や日本橋への洪水を避けるため、御茶ノ水の台地を切り崩した瀬変えにともない、三崎町から九段までを埋め立てた。で、この堀留が海浜部から内地に最も入り込んだ水路。この湊町を基点に九段の台地上の旗本屋敷へ生活物資を送り込んだわけだ。

雉子橋
南堀留橋>俎橋>宝田橋>共立女子大脇の雉子橋と進む。江戸時代、唐国からの使者の接待に雉子にまさるものなし、ということで雉子を集めた小屋をつくる。その小屋近くにあった橋であったので、雉子橋と。
毎日新聞社と丸紅の脇に一ツ橋。家康入府の折り、大きな丸太一本の橋があったので一ツ橋。後に知恵伊豆こと松平伊豆守の屋敷があったので、伊豆橋と呼ばれたこともある、という。平川門に通じている。平川門は「不浄の門」とも呼ばれ、江戸城内の罪人などの運び出すときに使われた、と。刃傷事件を起こした浅野内匠頭もこの門から城外に出たと、言う。また、通常は大奥の通用門であった、とか。

神田橋
錦橋から神田橋に。土井大炊守利勝の屋敷があったので大炊殿橋と呼ばれたことも。神田橋門は将軍菩提寺の上野寛永寺への参詣の道筋でもあり、警護はことのほか厳しかった、と。現在は日比谷通り。

鎌倉橋
外堀通りとの交差点・鎌倉橋に。家康入府の折、この河岸に建築資材である木材・石材が相模の国鎌倉から数多く運び込まれたのが名前の由来。佐伯泰英さんの『鎌倉河岸』は今は高速道路に覆われている。






常磐橋

JR京浜東北線を越えれば常盤橋。三代将軍家光の頃、大橋とも浅草口橋とも呼ばれていた。しかしその名前、よろしくない、とのことで町年寄・奈良屋市右衛門が改名案を考えるように命じられた。で、家に寄宿する浪人に相談。金葉集、太夫典侍の「色かへぬ松によそへて東路の常盤の橋にかかる藤波」、これって歌の心を松平にかけて、おめでたい名である、ということで橋の名に。
江戸城外郭の正面にあたり、常盤橋御門と呼ばれる重要な門があった。橋の傍にある公園には江戸城の威容を今に伝える4mの石塁が残っている。渋沢栄一の銅像も。

竜閑橋交差点
鎌倉橋から常盤橋に進む途中、JR京浜東北線の手前で道が二つに分かれる。その分岐点の名前が竜閑橋。JRを越えるところに今川橋という交差点もある。今は川筋とてないが、往古竜閑川が神田川へと流れていた名残だろう。

一石橋
新常盤橋を越え一石橋に。橋の南北に商人・後藤家が二軒。五斗(ごとう)+五斗=一石が名前の由来。洒落ている。西詰めに「迷い子の志るべ」。江戸時代の迷い子探しの伝言板。当時このあたり、人で賑わっていたのだろう。

西河岸橋
西河岸橋。川や海に面した町屋敷・町人の「荷揚げ」の地を河岸(かし)という。で、荷揚げだけに留まらず市が立つのは自然の成り行き。水路に沿って多くの河岸ができることになる。地名を冠したもの、扱う商品を冠したものなどさまざま。西河岸周辺だけでも魚河岸、裏河岸、米河岸、四日市河岸(木更津河岸)など。行き先の地名を冠した行徳河岸も。行徳からの船便の到着する場所であったのだろう。江戸には65もの河岸があった、とか。ちなみに同じ荷揚げ場所でも武家の場合は「物揚場」と呼ばれた。

鎧橋
呉服橋から日本橋へと進む。で、江戸橋を越え、鎧橋に。明治5年に架橋。兜町(かぶと)に鎧橋(よろい)って、出来過ぎ。米や油の取 引所、銀行や株式取引所でにぎわっていた、とのこと。当時の風景を谷崎潤一郎は「兜橋の欄干に顔を押し付けて水の流れを見ていると、この橋が動いているように見える。私は渋沢邸のお伽のような建物を飽かずに見入ったものである。。。」。対岸の小網町には土蔵の白壁が幾棟となく並んでいる、といったことが案内されていた。異国情緒の景観があったのだろう。ちなみに、橋ができるまでは「鎧の渡し」と呼ばれる渡船場があった。

亀島川分岐
日枝山王神社の御旅所などにお参りし、先に進む。茅場橋を越え、湊橋の手前に亀島川との分岐が。江戸橋付近には木更津漁師の拝領地があり、木更津・銚子方面への船便で賑わった。木更津河岸と呼ばれた所以か。

豊海橋
茅場橋から湊橋。茅場は茅を扱う商人が多く住んでいたから。そして隅田川の手前に豊海橋。橋のそばに高尾稲荷起縁の地の案内。「江戸時代この地は船手組持ち場であったが、宝永年間、下役の喜平次が見回り中に対岸になきがらが漂着しているのを見つけ、手厚く葬った。吉原の高尾太夫が仙台藩伊達綱宗候に太夫の目方だけ小判を積んで請出されたがなびかず。ために、隅田川三又の船中で吊し切りにされ河川を朱に染めたという。事実かどうかは定かではない。が、世人は高尾をまつり当時盛んだった稲荷信仰と結びつき、高尾稲荷社の起縁となった」と。

隅田川
で、隅田川に到着。川沿いを隅田川大橋まで登り、箱崎の東京シティエアーターミナルを越え、半蔵門線・水天宮前で地下鉄に乗り、本日の散歩終了。
今日、何年か振りに交換した携帯のナビおよび写真を使う。案内板など写し、ミニSDをPCに移し参考にしながらメモを取る。結構イケてる散歩になってきた。

日曜日, 1月 22, 2006

六郷用水散歩 そのⅣ;北堀を辿る

六郷用水散歩も最終回。今回は北堀ルートを巡ろうと思う。仕上げは馬込にある大田区の郷土美術館。六郷用水の資料もあるだろう。実際に歩いた道筋を思い浮かべながら六郷用水のまとめでもしてみよう、と思う。で、北堀ルートへのアプローチはどこから、と地図を眺める。東急・池上線に御嶽山(おんたけさん)駅が。名前に惹かれ、御嶽山からスタートすることにした。(日曜日, 1月 22, 2006のブログを修正)


本日のルート;
東急池上線・御岳駅>御岳神社>中原街道・環八交差>桜坂>さくら坂信号>田園調布高校>蜜蔵院>大田区図書館>台地を歩き観蔵院の裏・女塚>白山神社前交差点>白山神社>分岐地点>東急池上線・千鳥町駅>第二京浜と交差>本門寺前>養源寺橋>浄国寺橋>環七交差・春日橋>南馬込・大田区郷土博物館


東急池上線・御嶽山駅
東急池上線・御嶽山駅に。山があるわけではない。駅近くに御嶽神社がある。木曽の御嶽山ならぬ、嶺の御嶽山(おんたけさん)と呼ばれる。峰(嶺)村の代官・ 伊那半十郎忠治が17世紀中頃、木曽の御嶽山の神さまを分祀したのがはじまり、とか。伊那半十郎忠治、って確か玉川上水の指揮官では?関東郡代として何代も続く名前だけに、当の本人かどうか判別は難しいが時代から言えば、同じ人のよう。で、御嶽神社、木曽の御嶽で修行を積んだ修験者・一山が1831年に現在の本殿をつくる。江戸時代には山岳信仰がさかんとなり、富士や木曽の御岳などへの集団登山が流行った。
境内には御嶽塚跡が。散歩の折々、例えば狭山湖畔などで見かけた富士塚の御嶽バージョン、か。実際に山にお参りできない人のために、人造で塚というか山をつくり、その塚に登れば本物の木曽御岳にのぼったと同じご利益がある、ということで神社は大変な賑わいだったよう。

桜坂
御嶽神社を離れ、次はどこへ、と少々考える。そういえば、この近くにあの桜坂、福山雅治の『桜坂』で一躍脚光を浴びた坂がある。その坂は旧中原街道にあり、沼部の大坂と呼ばれていた、はず。であれば、中原街道から沼部の駅方面に下る坂であろう、とあたりをつけ進むことに。
環 八を交差。中原街道方面に向って環八から一筋中の道を、なりゆきで進む。左方向をチェックしながら、昔ながら、っぽい道筋を探す。左手の道筋はどれも下り坂。どれも皆桜坂に思える。ゆるゆる進む。中原街道と環八の交差する田園調布警察前交差点から南西にまっすぐ進み、沼部の駅に下る道筋がある。現在の中原街道は丸子橋方面へと西方向へ進んでいるが、昔は橋があったわけでもなし、この道が旧中原街道であろう、と左折。
いかにも、といった桜並木が見えてきた。桜の季節ならまだしも、今は真冬、何があるわけでもない。切り通しの坂道は結構な勾配。さぞや工事は大変だったろう、と思ったのだが、この切り通しができたのは大正12年。道路拡張の際に、切り通しを掘り進めた、と。中原街道最大の難所・沼部の大坂の急勾配もゆるやかになった。
桜坂と名づけられたのは昭和5年。御大典を記念して地元民が桜の苗50本を植えたのが始まり。御大典とは天皇の即位儀礼の3点セット;「践祚(せんそ);前天皇のなくなった後直ちに即位すること」、「即位式;国の内外に宣言すること」、「大嘗祭(だいじょうさい);新米を神と共食すること」のうち、即位式と大嘗祭をセットにした国家的大イベント。

旧中原街道

坂の中ほどに赤い橋。切り通しの両端をつないでいる。昭和38年につくられた「桜橋」。橋から桜、というよりも沼部方面に下る坂の勾配をゆっくり眺める。旧中原街道の案内があった;「中原街道は、江戸から相州の平塚中原に通じる道で、中原往還、相州街道とも呼ばれた。また中原産の食酢を江戸に運ぶ運送路として利用されたため、御酢街道とも呼ばれた。すでに近世以来存在し、徳川家康が江戸に入国した際に利用され、その後、部分改修されて造成された街道である。江戸初期には参勤交代の道としても利用されたが、公用交通のための東海道が整備されると、脇往還として江戸への物資の流通や将軍の鷹狩などにもしばしば利用された。 また、平塚からは東海道よりも近道だったため、急ぎの旅人には近道として好まれたという。中原街道の旧道の様子を残しているのは、区内ではこの付近だけである(大田区教育委員会)」

新幹線と交差
で、桜坂を離れはてさて次はどちらへ、と少々悩む。真っ直ぐ下れば先回歩いた六郷用水・東光寺脇。同じ道筋を歩くのも芸がない。それ以上に今回はできるだけ台地上を歩き、地形のうねりを少々感じるべし、ということで桜橋を左に折れ、住宅街に入る。道なりに進み稲荷坂から新幹線を跨ぐ橋を渡る。散歩と全然関係ないことだが、新幹線はもっともっと南を通っていると思った。また、多摩川を渡ると不自然なほど南にカーブしている。何でだろう?時間ができたら、その理由でもチェックしてみよう。

白山神社


散歩に戻る。田園調布高校脇を通り、坂道を下りきらないように進む。西嶺町の台地をゆっくりと下り、先回訪ねた観蔵院の裏手・女堀跡に出る。女堀跡からは水路跡を離れ、再び台地に向って少々登り、少々アップダウンを感じながら道なりに進み環八に出る。道の向こうに白山神社。御嶽神社から始めたわけで、白山を素通りするのもなんだかな、ということでおまいり。至極あっさりした神社。白山神社とはいうものの、もともとは女体権現社と呼ばれていた、とか。女体権現、ってまた大胆な名前、とは思ったが、よくよく考えれば、日光には男体山もあるわけだし、逆もあり、とは思う。
日光といえば、日光山縁起にこんな話が。都の殿上人・ 有宇中将が下野に下り土地の長者の娘・朝日の君と恋におちる。しばらくの月日がたち、都に残した母が心配で単身都に向う。途中で病死。朝日の君も後を追い旅に出てなくなる。閻魔大王が二人を蘇生させ、子をもうける。男児・馬頭御前。有宇中将は日光の男体権現、朝日の君は女体権現となる、と。山岳信仰の拠点日光でもあり、男体山には男体権現、女峰山には女体権現が宿ったとか。女体が何ゆえ白山となったのか定かではない。が、白山にしたことろで、山岳信仰のメッカであるわけで、山岳信仰繋がりゆえの、ってことにしておこう。少々立ち止まりすぎた。先を急ぐ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

北堀・南堀の分岐点

白山神社前の環八脇に立ち光明寺方面を眺める。ゆったりと下る環八に沿って南北引分と呼ばれた北堀・南堀の分岐点(千鳥3-8-2)まで歩く。藤森稲荷交差点から東に進む。北堀は環七まで池上通りとほぼ並行に進むことになる。昔、池上道とか平間(川崎中原区平間)街道とか相州鎌倉道とか呼ばれた古の東海道の道筋だ。

東急池上線・千鳥町駅

千鳥町駅を越えてすぐ遊歩道。いかにも水路跡の道筋。東急池上線の千鳥町駅の少し北で線路と交差。少し進むと遊歩道が始まる。千鳥いこい公園脇を進み千鳥1丁目あたりで第二京浜と交差。第二京浜を過ぎ、池上署の脇より遊歩道が続く。池上3丁目あたりだった ろうか、遊歩道はなくなる。が、水路跡らしき道筋、ところどころ六郷物語のマンホール、っぽい案内もある。

川・養源寺橋
本門寺前を越えたあたりで遊歩道はなくなる。呑川の養源寺橋近くに。六郷用水物語の案内が;「六郷用水北堀は南北引き分けから東進してくると呑川に突き当たります。そこで呑川を横断させ、新井宿(現在の中央一帯)方面に流すため、「八寸」という堰が設けられました。この堰で分流された流れは、北上して旧池上道の山下橋(現存しない)をくぐり、養源寺橋の上流で呑川に一旦合流しました。。。」。案内図にしばしば登場する用水のランドマーク浄国寺橋脇を通り、池上通りに沿って東進。一筋北に走るのは古の平間街道、というか池上道だろうか。なんとなく昔の街道跡といった雰囲気が感じられる。

環七と交差
水 路跡の道は普通の道路となる。水路跡は判然としないが、ところどころに六郷物語のマークがあるのでなんとなく安心。春日橋交差点で環七と交差。道を渡り交差点脇から続く、いかにも水路跡の雰囲気の道を進む。が東海道線に当たる。地図で見る限り、線路を渡った地点から南に水路跡のような道筋がある。水路は京急・大森海岸近く、岩井神社(鈴森八幡)あたりで東京湾に流れ込んだとか。もちろん支流・分流はいくらでもあるわけで、あくまでも幹線ルート、ということではある。が、北堀散歩はここまでとする。日も暮れ始めた。一路大田区郷土博物館に。

大田区郷土博物館

環七・春日橋交差点から北に向う。環七の一筋西の道を上る。結構複雑な地形をしている。臼田坂を登る。このあたり、谷地の環七部分を台地で囲んでいる、といった地形。次の機会は地形図をもって、台地と谷を上り下りしてみようと思う。
で、郷土博物館。予想通り3階に六郷用水の資料・情報が。床一面に張り込まれた地図一面に水路跡が書き込まれている。詳しい水路情報を書き込んだコピー、六郷用水ポイントガイドなど資料も結構そろっていた。これって歩いた後だからよかった気がする。歩く前であれば少々情報量が多すぎてハンドルするのが大変だったかもしれない。やはり今後も今まで通りのスタイル、とりあえず進み、あれこれ気になったことは後から調べる、というスタイルで散歩を楽しむ、べし。

散歩を終わって感じたことだが、大田区って結構おもしい地形であった。多摩川沿いの下町低地といったイメージしかなかったのだが、凸凹、地形のうねりを十分に感じられるところであった。台地部と低地部のアップダウンが楽しかった。日が暮れて十分意歩けなかったが馬込のあたりも面白そうな地形だ。大田区の台地部は多摩川に沿った国分寺崖線、山王から池上への南北崖線、久が原台地、荏原台地などがある。これらの崖線部は台地と谷筋が複雑に入り組み地形のうねりが実感できる面白い地形。当然のこととして坂も多く、大田全体で名前のついた坂だけでも50以上ある、とか。そのうちに、何か別の切り口で大田区散歩を楽し みたい。

木曜日, 1月 19, 2006

六郷用水散歩 そのⅢ;南堀を辿る

六郷用水散歩も3回目。先回の続き、南堀跡を巡ることに。六郷用水が多摩川に注いでいたあたりも確認。南堀散歩を締めくくる。(木曜日, 1月 19, 2006のブログを修正)



本日のコース;京浜東北線の蒲田駅下車>西蒲田公園>金剛院>大田区区民センター>志茂田中学>JR交差>新宿小学校・「六郷用水新宿ミニパーク」>蒲田署>多摩川土手>六郷ポンプ所>六郷水門>六郷橋>六郷神社>雑色駅>蒲田駅

京浜東北線?・蒲田駅


京浜東北線の蒲田駅下車。西蒲田8丁目の西蒲田公園に再び。水路跡を確認。光明寺方面から環八にそって下ってきた水路は東急多摩川線と環八が交差するあたりで環八から離れ、新蒲田2丁目の金剛院脇から南東に下っている。最初のランドマークは金剛院。
線路に沿って進み環八と交差。少し下ったところに金剛院。金剛院脇に六郷用水物語の案内。南西に大田区の区民センターに下る道が水路跡。区民センターまで進む。なにか用水に関する情報がないものかとセンター内に。特に何も無し。
センターの南は、蒲田電車区。操車場だろう。用水跡の地図によれば電車区の敷地内で西・・東・南の3方向に分岐している。蛸の手、と呼ばれていた、とか。操車場を迂回し志茂田中、志茂田小の脇をとおり京浜東北線を渡る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

六郷用水新宿ミニパーク
東方向への水路のランドマークは、蒲田電車区の線路を隔ててすぐ南にある蒲田高等学校・新宿小学校。蒲田西公園の案内図によれば、そのあたりに「六郷用水新宿ミニパーク」がある。名前からすれば何らかの新たな情報があるか、とも思い歩を進める。

蒲田高等学校と新宿小学校の間に本当に言葉どおりの「ミニ」パークがあった。東方向・糀谷方面への水路跡情報があった。
環八を越え、糀谷村の南・萩中村の北を通り浜竹用水・南前堀で東京湾に下る、と。大雑把にいえば北前堀(緑地)方面に続く水路と、南前堀(緑地)方面に続く水路があったよう。これが東方向に進む水路。東方向への水路跡巡りはまたの機会、ということにして今回は南方向への水路跡を辿り、下流から逆に西方向への水路を登ることにした。ランドマークは、蒲田署、正覚寺、そして本羽田1丁目公園。

多摩川堤

蒲田署のある第一京浜に進む。道を隔てたデニーズ脇にいかにも水路跡らしき道筋。歩いていると六郷物語の案内が。道路にシンボルマークが描かれており、大体 の方向の指示もある。助かる。まったくの民家の軒先を進む。途中、どこで間違ったか正覚寺、そして本羽田1丁目公園は見逃した。が、あえて戻ることもないかと、先に進み多摩川堤に登ることにする。ガマなのかどうなのか名前は知らないけれども、川中の洲の植生が豊か。湿地の保護が進んでいるのだろう。いい雰囲気になっている。

六郷水門
土手を進む。六郷ポンプ所。ポンプ所、って大雨のときに下水管が雨水で飽和状態になり配水機能がなくなるのを防ぐためのもの。下水に充満する雨水を汲み上げ川に放水する。ポンプ所のすぐ隣に六郷水門。メモする段階で分かったのだけれど、これって六

郷用水の排水口。狛江からの水の流れの最終地点、ということになる。偶然ではあったけど、六郷用水が多摩川に流れ込む地点に至った。至極ラッキー。
水門が造られた理由は六郷用水の歴史的役割の変化による。用水は元々灌漑のためつくられた。が、昭和に入り六郷地区の宅地化による生活廃水の増加とか、田畑の減少による用水路の水量増大。灌漑用の水を必要としなくなるのだから水量が増えるのは当然か。で、大雨時に多摩川に排水しきれず浸水地域が拡大。また、多摩川の水位上昇による川の水の逆流もある。こういった被害を防ぐため配水口を拡げ、適宜多摩川と六郷用水を遮断するために水門が設けられた、ということ。また、先ほどのポンプ所は、水門からの自然排水だけでは処理できなくなったためつくられた、と。

六郷橋
河川敷に多摩川六郷橋緑地。六郷橋の袂に。「六郷渡れば川崎の万年屋。鶴と亀とのよね饅頭」という、お江戸日本橋の歌詞フレーズが浮かぶ。よね饅頭を復活させた饅頭屋が鶴見にある、という。散歩の帰りに鶴見駅まで行ってみた。定休日。その後、自宅から自転車で20キロ、お饅頭を買いに出かけた。またまたお休み。日曜日が休み、などと考えてもみなかったのだけれども。またまたその後、自転車で鶴見まで。三度目の正直でよ
ね饅頭をゲットした。ちなみに、お江戸日本橋の歌詞を知っている人は、周囲にほとんどいなかった。少々愕然。
「お江戸日本橋」;
お江戸日本橋 七つ立ち
初のぼり
行列そろえて
アレワイサノサ
コチャ 高輪(たかなわ)
夜あけて 提灯(ちょうちん)けす
コチャエ コチャエ

六郷(ろくごう)わたれば 川崎の
万年屋(まんねんや)つるとかめとの
米饅頭(よねまんじゅう)
コチャ 神奈川
急いで 保土ヶ谷(ほどがや)へ
コチャエ コチャエ

六郷神社
第一京浜に沿って六郷神社に。六郷地区の総鎮守である八幡宮。源氏とのつながり強く、というか八幡って源氏の守り神なので当然なのだが、源頼義・義家親子がこの地の大杉に白旗を掲げ岩清水八幡に戦勝祈願。前九年の役に勝利。お礼に神社創建。頼朝も奥州遠
征の折、戦勝祈願。お礼に社殿寄進。また、徳川家康は神領として朱印状を発行する。六郷神社が八幡宮の巴紋とともに徳川の葵紋をともに使う所以。徳川家の遠祖は八幡太郎義家、って、言ってるわけだから当然か。
六郷神社を出る。水路跡を上流に向って逆に歩く。第一京浜に沿って進む。雑色駅手前で第一京浜をこえる。第一京浜と並んで進む雑色商店街の道路を進む。しばし進み北に折れ、蒲田電車区南の分岐点に到着。本日の散歩終了

水曜日, 1月 18, 2006

六郷用水散歩 そのⅡ;南堀・北堀の分岐を越えて新田神社に

先回の散歩の最終地点、東急田園都市線・多摩川の駅から散歩を始める。一路南に下り、途中分岐する用水を南堀跡に沿って進み、多摩川の矢口の渡しのあたりまで進む。(水曜日, 1月 18, 2006のブログを修正)


本日のルート;東急田園都市線・多摩川駅>中原街道交差>東光院>新幹線交差>蜜蔵院>観蔵院裏・女堀跡>護摩堂の洗い場>増明寺>鵜の木八幡>環八・藤森稲荷交差点>光明寺>玉川の堤>新田神社

東急田園都市線・多摩川

浅間神社前に。水路が切れており、この先どうしたものやら、とは思いながら、とりあえず東急多摩川線を渡り、線路沿いの道を進む。中原街道と交差。多摩川に丸子橋が。狛江の和泉から続いた次太夫堀というか丸子川という呼び名はここまでとしよう。この先は本格的に六郷用水巡り。とはいいながら、水路は見つかるのだろうか、と少々不安であった。中原街道下のトンネル。昭和初期につくられた大田区内最初のトンネル。トンネルをくぐるとすぐ水路跡があった。大安心。 六郷用水物語という案内図も。案内図にある水路跡の地図は消えかかり、少々見えづらい。が、なんとか大枠での道筋をメモする;
1. 六郷用水は東急多摩川線に沿って下り、観蔵院脇を抜け環八近くの光明寺近くに進む
2. ここで北堀と南堀に分岐
3. 北堀は平間街道・池上通りに沿って東にすすみ、池上本門寺から環七方面に至る。で、環七を越えたあたりから東京湾に流れ込んでいる
4. 南堀は環八に沿って下り、東急多摩川線と交差。そこから環八を離れ、金剛院の脇を志茂田中学あたりに向って進みJR京浜東北線と交差
5. JR京浜東北線を越えたあたりで3方向に分岐
6. 新宿小学校のあたりから西に進み環八を越え、糀谷から東京湾に至る水路
7. 新宿小学校のあたりから南に進み萩中の正覚寺から本羽田1丁目児童公園に至る水路
8. JR京浜東北線を越え、南西方向に進み、京急・雑色駅から六郷神社、そして東に進み本羽田1丁目公園の水路と繋がる。
といった水路が、大雑把ではあるが確認できた(水路の概要図をアップ)。もとより、用水路である以上、この幹線をもとに水路は静脈・動脈・毛細血管の如く網の目の如く拡がるのではあろう。が大体のランドマークがわかった。歩を進める。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

新幹線と交差
水路に沿った遊歩道を進む。東光院。真言宗。聖観世音菩薩は北条政子の念持仏とか。これって、浅間神社の由来書にあった、政子の聖観世音菩薩と同じもの?六郷用水・遊歩道休憩所がある。東光院を越えると水路は切れる。なんとなく水路跡だろう、といった名残りを求めながら進むことにする。新幹線と交差。蜜蔵院。真言宗智山派。大田区最古の庚申塔がある、とか。道の左手は結構な台地。坂の途中にある大田区図書館には昔来たことがある。

女堀(おなぼり)跡
道なりに進む。観蔵院裏の台地に沿って急勾配の坂道が左手に登る。さて右に下るか、左に上るか。なんとなくのぼりの坂道がそれっぽい。ということで進む。坂 を登りきったあたりに六郷用水物語の案内。女堀(おなぼり)跡の説明。このあたり、岩盤も固く用水開削時の難所のひとつ。工事の景気つけに女性を交えて開削を進めた、というのが女堀の由来。今は埋め立てられ、一見すると普通の坂道。が、昔はこの坂道は切り通しの水路が通っていた。



護摩堂の洗い場跡
坂道を下るたあたりに護摩堂の洗い場跡。もともとは水田の灌漑用の水として機能した六郷用水だが、時代が下り大正時代になると出荷野菜の洗い場に。あたりの水田が宅地となってしまい、灌漑する必要がなくなった、ということか。左手に小高い丘、右側にはいかにも重厚な民家。鵜の木交差点近くで環八と交差。道向こうに、水路跡らしき道筋が。環八を渡る。水路跡の西・東にある増明寺と鵜の木八幡に寄り道。どちらも台地上。


より大きな地図で 六郷用水流路 を表示

北堀と南堀の分岐点
あてどなく台地を歩き水路跡に戻る。環八・藤森稲荷交差点に。このあたりが北堀と南堀の分岐点。下丸子への分水口跡の案内があった。これは分流。昔は石組み 
のトンネルがあり、環八の西側の下丸子1丁目方面に水を送っていた、と。道の向こうに光明寺。このお寺って、昔環八の南下を阻止していたあのお寺。結構長い間行政と争っていたような気がする。

矢口の渡し
さてと、北堀を東に進むか、南堀を南下するか少々考える。が、南下することにす る。日も傾いてきた。どこまで進めることやら。矢口の渡しの「今」の風景を見ようと、多摩川堤に進む。道なりに歩く。多摩川清掃工場脇から堤に登
り、多摩川の土手を第二京浜道路まで進む。味も素っ気もない風景を想像して

いたのだが、結構いい。のどか。豊かな自然が戻りつつあるよう。

新田神社
堤を離れ武蔵新田駅方面に。こ新田神社に向かう。立派な神 社。鎌倉幕府を倒した新田義貞の子・新田義興を祀る。南北朝時代、南朝・後醍醐天皇の武将として活躍。矢口の渡しにて足利基氏と畠山国清により謀殺される。その後、実行犯の江戸氏や畠山氏に祟り。また矢口の渡しに怪しい火が現れ住民を悩ます。で、たたりを恐れた住民が新田大
明神としてお祀りした。境内にはご神木の欅。謀殺に加担した畠山一族ゆかりの
者が近づくと雨を降らし、唸り声をあげるという狛犬。円墳も。
平賀源内がこの円墳に生える竹を使い「矢守」をつくる。これが正月名物「破魔矢」のおこり。「破魔矢」を日本で最初に売り始めたのはこの新田神社、とか。本日
の散歩は終了。

火曜日, 1月 17, 2006

六郷用水散歩 そのⅠ;丸子川を下る

丸子川;先回の散歩で谷戸川を下り、丸子川に合流した。丸子川は次太夫堀とも六郷用水とも呼ばれる。徳川家康江戸入府早々、六郷領・35カ村というから、今の大田区の低地域の新田開発・米の増産を計画。が、当時の六郷領の水利は千束の池水溜と池上西谷水溜池に頼るだけ、という状況。ために、土木技術のエキスパート小泉次太夫を登用し用水を開削。これを六郷用水と言う。
いつだったか散歩の折、六郷用水の取水口に行ったことがある。 狛江市和泉。狛江から六郷というから東京湾まで続いている。これは行くしかないでしょう、というとこで、丸子川を下り、六郷用水を歩くことにした。とはいうものの、いまさら用水があるわけでもないし、用水「跡」を巡る・探す散歩となるのだろう。(火曜日, 1月 17, 2006のブログを修正)



本日のルート;東急田園都市線・二子玉川下車>法徳寺>上野毛自然公園>第三京浜交差>稲荷坂>覚厳寺>善養寺>六所神社>谷沢川と交差>等々力渓谷>等々力不動>八幡神社、照善寺>多摩川台公園>東急東横線交差>浅間神社>東急東横線・多摩川駅

東急田園都市線・二子玉川駅
東急田園都市線・二子玉川下車。線路に沿って少し西に戻り丸子川に。崖線下、心地よい川筋の道。坂道が魅力的。ちょっと登ってみよう、と進む。なりゆきで法徳寺に。浄土宗のお寺。由緒書に「境内にある筆塚の碑は、明治初期、寺子屋の師、大塚貞三郎のために近在の瀬田、用賀、岡本などの門弟一同がたてた記念碑である」、と。大塚貞三郎は幕末、このお寺に寺子屋・芝光塾をつくり、近辺の農村子女教育につとめる。門弟は300人を数えたという。


上野毛自然公園と稲荷坂
坂を下り、歩を進める。川筋の家々にmy bridge。雰囲気がいかにもいい。東急大井町線と交差。少し進むと野趣豊かな公園、そして急峻な坂道。上野毛自然公園と稲荷坂。いつも通る環八の風景のどのあたりだろう、と、公園に入る。国分寺崖線の斜面林を生かした自然公園。鉄製の階段を台地上に。百本近い桜。世田谷百景のひとつ、とか。
覚厳寺。真言宗智山派、京都東山の総本山智積院の末寺。おまいりを住ませ環八に出る。上野毛駅前だった。ということは、稲荷坂は上野毛通り。ちなみに、「野毛」って、崖地を意味するということをどこかで読んだことがある。ともあれ、急な坂道の途中に稲荷神社。お参り。ふたたび川筋に戻る。

第三京浜と交差

第三京浜と交差。川筋と台地の標高差20m程度だろうか。魅力的な崖。少し進むと善養寺。真言宗智山派・総本山智積院の末寺。境内にカヤの大木。都の天然記念物。寺の近くに住んでいた娘が多摩川で川遊び。沢蟹の親子が「今夜,川が氾濫し、流されてしまします。高台に逃がしてください」、と。逃がしてあげる。 その夜、多摩川が氾濫。翌日沢蟹の親子がお礼にカヤの実をもってきた。娘はその実を善養寺の境内に植える。それがこのカヤの大木になった、とか。
善養寺の北隣に六所神社。このあたりの総鎮守。境内に水神様。多摩川の安全と豊漁の神様。
川筋に戻り進む。玉堤通りと交差。しばらく進むと谷沢川と交差。等々力渓谷からの水が多摩川に流れ込む川筋だ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

谷沢川・等々力渓谷

先日等々力渓谷を散歩した。が、改めて渓谷を逆方向から歩いてみよう、ということで丸子川を離れ谷沢川・等々力渓谷に寄り道。不動の滝に。滝もさることながら、滝の両脇の崖面からの湧き出る水も魅力的。これほど勢いよく崖の岩の切れ目から湧き出る水はまことに「いい」。「とどろき」の名前の由来は、滝の音の「とどろき」から。
脇の坂を登り等々力不動尊にお参り。正面の石段の向こうに雑木林。石段を下りる。雑木林の中を進み弁天堂明王台に。弁天様をおまつりしている。その先に等々力児童遊園。右手は崖。等々力渓谷崖上を歩く。見晴らしはそれほど良くないが、渓谷を上から眺めることができた。歩きながら、改めて等々力渓谷の成り立ちについて整理しようと思った。
等々力渓谷;現在、谷沢川は用賀付近を源流点として等々力渓谷を経て多摩川に流れ込む。しかし、一説によれば、往古、谷沢川は九品仏川の上流域であり、尾山台、自由が丘、緑ヶ丘を経て呑川に合流していた、と。根拠のひとつは、谷沢川が形成してきた谷底低地。等々力渓谷で流路を急激に南に切り込んでも、谷沢川が形成したと思われる谷底低地は東に広がり、九品仏川が形成した谷底低地にスムーズにつながっている。では何故谷沢川の川筋が変わったか、ということだが、それは河川争奪によるとの説がある。河川争奪とは、ある川が別の川の流れを取り込んでしまう、ということ。このケースで言えば、元々は等々力渓谷の湧水点を源流としていた谷沢川が、谷頭侵

蝕により次第に源流点を北に延ばす。用賀付近を源流点として流れる九品仏川の流路に到達。九品仏川の水が谷沢川に切り替わる。以降、切り離された先が九品仏川と呼ばれる。流れだけでなく、名前も取り上げたってことか。

多摩川台公園
丸子川に戻り歩を進める。多摩川と逆方向に湾曲する川筋に沿って、武蔵工業大学の前を進み、尾山台1丁目を過ぎ田園調布1丁目に入る。川沿いに八幡神社、照善寺。ちょっとおまいりし、先に進む。
丸子川が多摩川に接近。左手に台地が迫る。多摩堤通と合流地点で川筋を離れ台地に登る。多摩川台公園。多摩川台古墳群と呼ばれる多数の古墳が尾根道に続いている。1号から8号までは円墳。古墳展示室の南にある亀甲山古墳は前方後円墳。全長100m。5世紀後半につくられたよう。規模から見て、国造(クニノミヤツコ)クラスの墳墓と言われている。
多摩川と台地に挟まれた多摩堤通りの脇を水路は進む。第三京浜入口近くの野毛大塚古墳。等々力渓谷の御岳山古墳。そしてこの多摩川台古墳群。直ぐ近くに蓬莱山古墳もある、という。

多摩堤通り
台地からの多摩川の眺めは素晴らしい。台地から眺めると多摩川が直ぐ下に見える。丸子川が多摩川に流れ込んだのであろうか。少々不安になる。事前に地図を見たときは、確かにこのあたりで流路が消えていた。合流点を探さねば、と台地を下る。丸子川はあった。多摩川と台地に挟まれた多摩堤通りの脇を水路が続く。 水路跡と多摩川の水位差は5mくらいだろう。狛江あたりから水を取り込まなければ六郷の村々に水を通すことができない、ということは十分納得。六郷用水プロジェクトの最初の2年間は測量期間。夜に提灯の明かりで高さを測りながら測量を進めた、とか。

浅間神社
東急東横線と交差するあたりで暗渠となる。線路の高架下を過ぎると左手に神社。浅間神社。今から800年前の創建、と伝えられる。房総より馬を進め、北区王子の滝野川・松崎に上 陸した源頼朝を追ってこの地にやってきた妻政子。足の痛みのためこの地に逗留し傷の治療。徒然に、台地の亀甲山古墳に出向き富士を臨み、富士吉田の浅間神社に向かい頼朝の武運長久を祈る。富士吉田の浅間神社は政子の守り本尊。その際身につけていた「正観世音増」をこの地に建てる。地元の人々はこの像を「富士浅間大菩薩」と呼び尊崇。これが多摩川浅間神社の由来、とか。
境内の見晴台からの多摩川の眺めはまことに素晴らしい。神社の台地を下り正面入口に戻る。川筋はここまで。はてさて、流れはどちらに?とはいうものの、日が暮れてきた。これ以降は次回の散歩といたしましょう、ということで東急多摩川線に沿って歩き、東急東横線の多摩川駅に歩き、本日の散歩は終了。

月曜日, 1月 16, 2006

谷戸川散歩;源流から丸子川合流点へ

昨年9月4日の仙川散歩で偶然谷戸川に出合った。仙川が野川に合流する手前、野川と逆方向に伸びる細長い水路。これは一体何だろう。と、何気なく水路を辿った。六郷用水というか丸子川。岡本民家園とか岡本静嘉堂緑地といった落ち着いた景観に惹かれる歩を進める。岡本静嘉堂緑地の端で丸子川に合流する川がある。それが谷戸川だった。川筋を源流に向って北上した。砧公園手前で東名高速に潜り込む。丁度日没。ということで、今回改めて源流・水源から下ることにした。(月曜日, 1月 16, 2006のブログを修正)


本日のルート;小田急線・祖師ヶ谷大蔵駅>笠森公園>荒玉水道道路>中央卸売市場・世田谷市場>砧公園>仙川>岡本の台地>静嘉堂文庫美術館>小阪家の別邸>谷戸川


小田急線・祖師ヶ谷大蔵駅
地図をチェック。小田急線・祖師ヶ谷大蔵駅近くに僅かな水路が見て取れる。とりあえず祖師ヶ谷大蔵に行き、後は成り行きという、いつものスタイルで散歩を始める。駅前の道案内をチェック。山野小学校脇から水路が続いている。駅前の城山通りを環八方面に歩く。学校脇に水路を見つける。一安心。

笠森公園
ふと通りの北を見ると公園がある。いかにも水路跡といった雰囲気。暗渠のようだが、とりあえず先を辿る。北東に進みすぐに西方向にターン。荒玉水道道路と交差。右手に笠森公園。かさもり=瘡守;ほうそう(皮膚病)の守り神、から。公園に谷戸川の説明があった。このあたりの湧水点から谷戸川が下っていった、と。案内板には北東に一直線に延びる荒玉水道道路と、それに沿って点線が描かれている。メモをまとめる段階で、その点線が源流点への案内であることがわかった。笠森公園から荒玉水道道路に沿って進み環八と交差。桜ヶ丘5丁目、船橋2丁目と進み再び環八を越え千歳台3丁目・成城警察のあたり、そこが源流点、のようである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


荒玉水道道路
荒玉水道道路。前々から気になっていた。自宅のある杉並和泉の近く、井の頭線の永福町と西永福の間から一直線で多摩川まで延びている。一体何だ?ということで調べてみた。荒玉水道とは大正から昭和の中頃にかけて、多摩川の水を砧(世田谷区)で取水し、野方(中野区)と大谷口(板橋区)に送水するのに使われた地下水道管のこと。荒=荒川、玉=多摩川、ということで、多摩川・砧からだけでなく、荒川からも水を引く計画があったようだ。が、結局荒川まで水道管は延びることはなく板橋の大谷口で計画中止となっている。
杉並・和泉の我が家はこの上水のお世話になっている、よう。思い込みというか、思い違いがあった。てっきり北の和泉方面から砧方面に送水されている、と思っていた。理由は単に北のほうが標高が高い、ということから。砧というか多摩川に水を送って何をしようとするのか、やはり下水管なのかな、などと勝手に思い込んでいた。上水道は水圧で送水。高低は関係ない。ちなみに下水道は勾配を利用して流す、とか。

中央卸売市場・世田谷市場

山野小学校脇に戻り水路脇を歩きはじめる。水路脇、とはいいながら道は川の脇にあったり、なかったり。砧4丁目あたりで荒玉水道と交差。一瞬水路途切れる。が、すぐ開渠に。大蔵1丁目で直角ターン。暗渠に。進行方向左手・小高い丘に奇妙に派手な建物。中央卸売市場・世田谷市場だった。なんという名前か忘れたが近くの神社などに足を延ばし再び川筋に。川筋は砧公園に流れ込む。




砧公園
公園内では一時地下を走る。しばらくして川筋が現れる。水量が増えている。湧水を取り込んでいる。自然の湧水とは思えない。多分人工の湧水だろう。吊橋もある。渓谷風のつくりだ。砧公園って、世田谷美術館あたりまでしか知らなかった。こんなにのんびりした緑地が広がっているとは想像もできなかった。いい公園だ。





東名高速下に潜る

川筋に沿って進み、東名高速下にもぐり込む。迂回が必要。東名高速に沿って進み、公園を出る。目の前に区立総合運動場。 案内板を見る。陸上競技場とかテニス場の先に林というか森、そして親水公園。運動場の外周に沿って歩き総合運動場の西端に。崖道。結構な高低差。台地の下に川。仙川だ。ということは、この崖は国分寺崖線、そして崖下の親水公園って、先般の仙川散歩の時に出会った親水公園。仙川散歩のとき、親水公園上の崖の向こうに何があるのか、どうなっているのか、砧公園をそのうち歩いてみたい、と思っていた、将にその場を偶然歩いていた。行き当たりばったりの散歩の妙味か。

岡本の台地
崖道を上ったり下りたり、自然豊かな崖道を堪能し総合運動公園入口に戻る。公園橋を渡り東名高速を越え岡本に。台地の尾根道。谷に下り川筋を、とは思ったが、台地からの眺め、特に仙川方面に下る急峻な坂道からの眺め、その魅力から離れがたく、台地上の尾根道を歩く。

尾根道とはいっても廻りは高級住宅地。西に広がる眺めは素晴らしい。夕暮れ時にまた訪れたいものである。

静嘉堂文庫美術館
夕焼け、独り占めの世界を岡本3丁目を進む。前方に緑。岡本民家園とか岡本静嘉堂のある緑地、というか森。静嘉堂文庫美術館裏手に当たる。静嘉堂文庫美術館は三菱財閥・岩崎家蒐集の古美術・古典籍の美術館。野趣豊かな坂道。途中に名前は忘れたが神社も。ここでも崖道のアップダウンを堪能し谷戸川が流れる大蔵通りに下りる。静嘉堂文庫美術館は残念ながら休館日。後日に楽しみを残す。

小阪家の別邸

大蔵通りが丸子川と交差する手前瀬田4丁目、左手に急峻な坂道とフェンスに囲まれた林。地形のうねりを肌で感じることが最大の興味・関心であるわが身としては、とりあえず登るしかないでしょう、ということで坂を登る。瀬田四丁目緑地との案内。民家風の建物。庭というか林を一回りして建物内に。小坂邸跡との案内。外務大臣など多くの政治家を輩出し たあの小阪家の別邸とか。邸内の展示物を見ていると、この近辺には政治家、財界人、そして政商っぽい人たちの別邸が数多くあった、よう。

谷戸川
邸内に上がり込み、少々休憩し大蔵通りに下り、谷戸川が丸子川に合流する地点を確認し谷戸川散歩は終了。後は一路、丸子川に沿った道、川沿いの家はすべて丸子川・六郷用水に架けたmy bridgeをもつ、そんな素敵なる家並みを下り246号線で右折。東急田園都市線・二子玉川駅に到着し本日の予定は終了。


谷戸川の「谷戸」の語義の整理;丘陵地が浸食されてできた谷間の低湿地・小川の源流域を示す環境のこと。こういった環境のことを谷戸とか谷津と呼ぶ。辞書で「やと」を引く。「やと」=「谷」>「やつ(谷)」を見ろ、と。「やつ」を見ると、「低湿地のこと。関東地方の地名に多い。やち、やと、とも言う」と。まとめると、「やと」、も、「やつ」も「谷」の一字で表し、「谷戸」「谷津」という漢字では表現しない。また、関東ローカルな地名であるよう。で、茨城、千葉は「谷津」が使われ、神奈川は「谷戸」を使う。東京は混在、ということだ。鎌倉では、亀ケ谷(やつ)と「谷」だけでの表示もあった、けど。実のところ、関係浅からぬ係累の名前に「谷津」がついている。なるほど、出身は茨城県でありました。納
得。