日曜日, 9月 09, 2007

千葉 印旛沼散歩 そのⅠ;>龍角寺古墳群から北印旛沼を辿り佐倉まで

龍角寺古墳群と北印旛沼
先日手賀沼を歩いた。で、どうせのことなら北総台地に残るもうひとつの大沼・印旛沼を歩いてみたいと思った。印旛沼に向かう。
といっても、どこからはじめよう、と地図をチェック。先日手賀沼散歩の終点であったJR成田線の木下(きおろし)を成田方面に進んだ下総松崎(まんざき)駅の近くに、「房総風土記の丘」がある。北総台地上の古墳群がある、という。印旛沼の脇をひたすら歩く、って本日の散歩に、少々の文化的アクセントをつけるのもいいのでは、とスタート地点に決める。その後は印旛沼に沿って佐倉まで下る、ことに。



本日のルート:下総松崎駅(まんざき)駅>坂田ケ池総合公園>土師神社>風土記の丘・岩屋古墳>風土記の丘・旧学習院初等科正堂>房総風土記の丘資料館>龍角寺>松崎街道から北印旛沼に>北印旛沼>印旛捷水路>山田橋>県道65号・佐倉印西線>西印旛沼>京成線佐倉駅

下総松崎駅(まんざき)駅

地下鉄・千代田線で我孫子駅に。我孫子からJR成田線に乗り換え下総松崎駅に進む。2時間程度かかった、ようだ。下総松崎駅(まんざき)はまことにのどかな駅舎。
駅前といってもなにも、なし。駅前に「房総風土記の丘」への簡単な道案内。大雑把な方角だけ把握して歩き始める。 駅の前に車道。松崎街道と呼ばれる。成田山裏門交差点と印旛郡栄町安食までの区間を走る県道18号成田安食線のこと、である。
きちんとした車道があるわけでもないので、時折通過するトラックに少々怖い思いをしながら西に向かう。台地が街道に迫るあたりに「坂田ケ池総合公園」「房総のむら」への案内。台地に向かって街道を離れる。


坂田ケ池総合公園

道なりに台地を北に進む。案内に従い坂田ケ池総合公園に。坂田ケ池を中心に、湿性植物園や野鳥観察所、遊歩道などが整備された千葉県唯一の総合公園である、と。池の畔をしばし進み、房総風土記の丘に向かう。 

土師神社
成行きで進むと道端に土師神社(はじ)が。土師神社って、土師連の氏神さま。で、土師連って、土師式土器や埴輪の製作、そして皇陵の築造の専門家集団。今から進む房総風土記の丘には古墳群があるわけで、何らかの関連がある、かと。
そういえば、印旛沼東の台地、そこには結構な古墳群があるようだが、その台地上には埴生神社が三社ある、という。埴生神社も土師神社も同源。埴輪つくりの部族の氏神様。ここまでの例証が揃えば、この土師神社が風土記の丘古墳群をつくった技術集団の氏神様であろうか、との推論もあながち間違いではない、かも。

風土記の丘・岩屋古墳
土師神社を離れ、先に進む。大きな道路に。あれ?なんだか、あらぬ方向に進んだよう。地名をチェックすると龍角寺。どうもこの道路は成田安食バイパスの、よう。風土記の丘は、もう少々西。 道に沿って西に進む。道脇に「岩屋古墳」「みそ岩屋古墳」への道案内。
道路を左に折れ、南へと進む。林の中を進むと小山が見える。それが「岩屋古墳」。方墳。一辺80m、高さ12mもある、という。推古天皇量にも勝るとも劣らないつくり。天皇陵にも匹敵する規模の古墳をつくることができた豪族の正体は未だ不明。 

風土記の丘・旧学習院初等科正堂

岩屋古墳を離れ、先に進む。すぐにちょっとした広場に。すぐそばに白亜のレトロな建物。旧学習院初等科正堂。もともとは新宿にあったものだが、正堂の新築にともない、成田市の下総御料牧場に移築された。その後成田市から千葉県に寄贈され、この地に移された、と。 案内に従い房総風土記の丘資料館に進む。雑木林の道に左右には古墳が続く。小さいものから大きいものまで様々。高さ数メートルといったものもある。それにしても数が多い。資料館に行って、この古墳群の何たるかをチェックするのが少々楽しくなってきた。先を急ぎ房総風土記の丘資料館に。

房総風土記の丘資料館
千葉各地から集められた考古学の資料が展示されている。展示説明やビデオを駆け足でチェック。お勉強した内容を簡単にメモ。この地の古墳群は龍角寺古墳群と呼ばれる。印旛沼と利根川に挟まれたた海抜約30mの台地上に、前方後円墳36基、円墳71基、方墳6基など113基の古墳が集まっている。つくられた時期は5世紀末から7世紀前半頃まで。前方後円墳で最大のものは、浅間山古墳。全長70m。方墳は先ほど訪れた岩屋古墳。日本での最大規模の方墳。6世紀後半、この地域に台頭してきた 豪族が勢力を伸ばし、7世紀前半に築造したものと考えられている。


龍角寺古墳の名前の由来は、この地から少し北にある寺院・龍角寺、から。7世紀後半に建てられた東日本で最も古い寺院と言われる、と。展示説明で最も興味を覚えたことは古墳とお寺の関係についてのコメント。龍角寺にしても、それをつくったのは岩屋古墳を築いた印旛地方の豪族であり、彼らは畿内の有力者と結びついて仏教をいち早く取り入れ、その勢力を広げるために一族の寺を建てた、とのこと。 古墳とお寺の関係といったのは、豪族が仏教に心が傾くにつれ、古墳をつくらずお寺を作るようになった、ということ。言われてみれば当たり前のことではあるが、今までそういった視点で古墳・寺院を見たことがなかったので、結構新鮮であった。
それにしても下総台地上には古墳が多い。先日歩いた手賀沼北岸の台地にも100近い古墳があるという。手賀沼南岸の沼南町もしかり。そしてここ印旛沼東北岸の台地、東岸の成田ニュータウンのある台地、そして佐倉市の印旛沼を見下ろす台地の山崎ひょうたん塚古墳群など数限り無い。往古、印旛沼も手賀沼も内海であり、この内海を臨む台地の上には長い年月に渡って古墳がつくられていったのであろう。先日娘の宿題で群馬が古墳王国であり、埴輪の出土数が全国一、といったことを知った。千葉もそれに負けず劣らず、といった様である。なんとなく訪れた印旛沼をきっかけに、あれこれ新しいことが見えてきた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

龍角寺
資料館を離れ、龍角寺に向かう。北におよそ1.3キロ程度歩いたところ。資料館から北に向かって道が続く。白鳳道と呼ばれる。龍角寺が建てられたのが上でメモしたように7世紀後半の白鳳時代であることが、名前の由来。
白鳳仏とよばれる本尊・薬師如来を有した龍角寺に向かって白鳳道を進む。道の両側にはこれまた大小の古墳群が続く。 しばらく進むと「成田安食バイパス」に当たる。道の手前からバイパスをくぐる道に下りる。バイパス下のトンネルをくぐると雑木林に。蛇が出そうで少々怖い。道の北側は整地されることなく、野趣豊かな雰囲気がそのまま残る。夕暮れ時など独りで歩くのは少々躊躇われる、といった道筋である。

林を少し進むとのどかな農村風景の中に。龍角寺は直ぐ近く。資料館のビデオで何となく想像はしていたのだが、往時の壮大なる堂宇は、今は無い。金堂跡、といった跡が残るだけ。本堂らしき建物もないのだが、正面のつつましやかなお堂が、それなのだろう。重要文化財となっている本尊・白鳳仏がある、という。どこかの博物館にでも保管しているのか、と思ったが、どうもこの本堂の中にお座りになっている、とか。
しばし休憩。本日のメーンイベントである印旛沼散歩に備える。印旛沼までのコースを地図でチェック。来た道を戻り、坂田ケ池手前から松崎街道・県道18号成田安食線に出るのが最短コースであろうか、と。道を戻る。途中バイパス手前に前方後円墳・浅間山古墳がある、と。結構気をつけて歩いたのだが、確認できず。

松崎街道から北印旛沼に

白鳳道を資料館に戻り、そこから先は成行きで歩くと、印旛沼が見える散歩道、といったコースに出る。印旛沼が見える、とはいっても、眺望が開けたのは一箇所のみ。それなりにいい眺め。先を急ぐ。その先も成行きで進み、台地を少々下ると坂田ケ池の畔に。道なりに台地を下ると「大和の湯」に出る。今はやりの温泉(鉱泉)センター、か。台地裾にあるこの温泉センターを先に進み松崎街道に。松崎街道から先は、水田の中を印旛沼に向かって西に進む。途中ショートカットで田圃の畦道なども強引に踏み分ける。行き止まり。これも強引に水路を飛び越えなんとか印旛沼脇の道にたどり着く。ここから佐倉まで、10キロ以上の印旛沼散歩をはじめることにする。

北印旛沼

印旛沼散歩、とはいうものの印旛沼は全く見えない。道と印旛沼の間には水路があり堤防には登れない。堤防の高さは標高5m。水路、正確には低地排水路と呼ぶらしいが、その標高は1.2mといったところ。
見通しがきかない。そのうちに沼も見えてくるだろう、と先を急ぐ。 松崎、八代、舟形と進み、甚兵衛機場に。ここの役割は、低地排水路に流れ込んできた地域の排水をポンプで汲み上げ印旛沼に戻す。また、印旛沼の水をポンプで汲み上げ地域の最も標高の高いところに送り、そこから水田へと水を供給する。印旛沼の標準水位は2.3m、満水、つまりは農閑期の頃だろうが、その時で2.5mと低地排水路より高くなる。ために、ポンプで汲み上げているわけである。
ちなみに、甚兵衛って、義民・佐倉惣五郎を助け、お咎めを見越して自ら命をたった船頭さんの名前。飢饉・水害に苦しむ農民のため幕府への直訴を図る惣五郎のために、ご法度である夜間に舟を出した、ということだ。惣五郎は、首尾よく江戸で4代将軍家綱に直訴し、佐倉領主・掘田氏には厳しい叱責がなされた、とか。

印旛捷水路
甚兵衛機場を過ぎ、甚兵衛大橋を渡る。この道は464号線・宗吾街道。歩道があるわけではないので、車が通るたびに少々怖い思いをする。橋を渡ると左に折れ「印旛捷水路」に沿って南西に下る。印旛捷水路はいままで歩いた北印旛沼と西印旛沼を繋ぐ水路。捷水路、って自然の水路、つまりは曲がりくねった水路を人工的に開削し真っ直ぐに通した水路のことを言う。江戸時代の絵地図とか大正10年頃の地図を見ると、昔の印旛沼は印旛捷水路の東を流れる中央排水路に沿って、水路というか沼そのものが蛇行している。蛇行部分を干拓し、この捷水路を通して上下の沼を通したのであろう。
捷水路を進む。水路脇にはサイクリングロードが続く。北印旛沼に注ぐ長門川の酒直水門のあたりからはじまり、北印旛沼の西岸を通り、甚兵衛大橋のところで印旛捷水路に入る。印旛捷水路を進み、西印旛沼の南を進み、八千代市の阿宗橋のあたりまで延々と続いている。

山田橋

サイクリングロードを東橋、安能橋と進む。台地が迫る。この台地を切り崩して水路を通したのだろうか。なんらかの自然の水路もあったのだろうか。工事そのものは昭和40年代とのことではあるようだが、この台地を一直線に切り通すには、それなりの理由がなければ、とてもやっておれない、といったスケールの台地の切り開きではある。そのうちにこの工事のことでも調べてみようか、と思う。

鶴巻橋を渡り、水路の南側に移る。市井橋を過ぎたあたりから道は台地への上り、となる。水路北側の道は大地に上ることなく、水路に沿って続いていく。北側の道を見下ろしながら進み台地上に。山田橋が架かる。橋の袂にナウマン象発掘地点の碑。1966年、印旛捷水路の工事のとき、日本で最初にほぼ完全なナウマン象の化石が発掘された、と。


県道65号・佐倉印西線
山田橋には結構大きな道が走る。県道65号・佐倉印西線。橋の北方向にコンビニ。有り難い。実のところ、松崎で北印旛沼に入った頃から水を切らしていた。10キロ程度水無しで歩いただろう、か。結構きつかった。コンビニで浴びるように水分補給。一息つく。 しばし休憩の後、県道65号・佐倉印西線を西印旛沼に向かって台地を下る。南東方向に台地が舌状に延びる。昭和になるまでは、この台地を取り囲むように沼地が広がっていた、ということだが、真っこと違和感なしの台地・低地のコントラスト。

西印旛沼
坂道を下り、西印旛沼に。沼畔に公園。ちょっとした見晴らし台といったものもある。寄っては見たいのだが、先客がのんびり沼を眺めている。邪魔をするのも如何なものかと、先に進む。
しばらく進むと印旛中央排水路。現在はささやかな水路ではあるが、総合開発がはじまる昭和38年以前は、沼はこの西印旛沼東端と同じ500mほどの幅があったのではなかろう、か。
印旛沼についてちょっとメモ;今を遡ること1000年、平安時代の頃、印旛沼は手賀沼や霞ヶ浦と一帯となった大きな水域であった。香取の海あるいは安是の海と呼ばれる広くて大きな海水の入り込む内海であった、よう。 が、上流からの流される土砂や海退現象によって、次第に陸地化し、それぞれが独立した水域となる。人々は土砂で浅くなった水域の周囲を開墾し新田開発に努めた、とか。

その状況が大きく変化したのは江戸時代。幾度かメモした利根川の東遷事業によって流路が銚子へと変わった利根川により、印旛沼は洪水に見舞われることになる。江戸を守るために流れを変えた利根川の水が印旛沼に流れ込み、地域に洪水被害を引き起こす。 洪水被害を防ぐため江戸時代に数度にわたって印旛沼の水を江戸湾に流す工事をおこなう。が、天明期の担当老中の田沼意次、天保期の水野忠邦の失脚などにより工事は頓挫。

結局は昭和38年からはじまる印旛沼総合開発事業の完成を待つことになる。印旛沼の水を花見川を通し東京湾に流すことができたのは昭和44年のことである。

京成線佐倉駅

台地を上る。歩道はない峠道。少々怖い。右手は佐倉市民の森。左手は岩名運動公園。ゆっくりと台地を下り、台地の裾・下根地区を進む。山崎地区を過ぎれば駅は直ぐ。日も暮れた。京成線佐倉駅から家路へと急ぐ。

土曜日, 9月 08, 2007

多摩丘陵の東南端を歩く:武蔵小杉から梶ヶ谷へ

武蔵小杉から多摩の台地に向かう
ここ何回かに分けて川崎市の丘陵地帯を歩いた。が、いまひとつ川崎市の時空についてわかっていない。川崎市の郷土歴史館などないものか、と調べてみる。と、武蔵小杉の近く、等々力緑地に市ミュージアムがある。そこが川崎の歴史郷土館の機能をも持っている、と。
ということで、今回の散歩は、とりあえず市民ミュージアムに行く。そこで川崎市のあれこれについてのスキミング&スキャニング。その情報をもとに、武蔵小杉から、つまりは、多摩川によって開かれた平地・沖積原から、多摩丘陵の東端へと上るルートを組み上げてみよう、ということに。
結果的には、川崎市中原区・宮前区・高津区を歩くことになった。(土曜日, 9月 08, 2007のブログを修正)




本日のコース;東急東横線・武蔵小杉駅>(小杉御殿町)小杉御殿跡>(小杉陣屋町)小杉陣屋>小杉神社>市民ミュージアム>春日神社>府中街道>ニケ領用水>(上小田中)>中原街道>南武線・武蔵中原駅>下新城交差点>江川交差>千年(ちとせ)交差点>影向寺>神明社>尻手黒川道路>第三京浜交差>野川小交差点>矢上川>権六谷戸>権六坂>野川第一公園前交差点>国道246号線>新道馬絹>武蔵野貨物線>馬絹古墳>馬絹神社>東急田園都市線・梶ヶ谷駅

武蔵小杉駅
東急東横線で武蔵小杉駅に向かう。武蔵小杉には多くの鉄道路線が集中している。東急東横線、東急目黒線、横須賀線、南武線、そして東海道新幹線。東急目黒線は東急東横線の複々線のうちの複線部を使用しているので、まあ、同じものといってもいいかと思うが、それにしても多い。交通の要衝であった、ある、ということだろう。実際、武蔵小杉のあたりには古くからの街道が交差している。中原街道、綱島街道、そして府中街道である。

中原街道;中世以来の主要道。平塚の中原と江戸を結ぶ。東海道の脇往還でもあった。はじまりはよくわかっていない。が、本格的に整備されたのは小田原北条の頃から。家康の江戸入府のときは、東海道が未だ整備されていたかった、ということもあり、この街道を利用した、と。中原街道と呼ばれるようになったのは,1604年以降。平塚の中原に「中原御殿」があったのが、名前の由来。
綱島街道;矢倉沢往還とか中原街道などの主要道を繋ぐ枝道のひとつ。稲毛道とも呼ばれた。この道は、神奈川宿から矢倉沢往還の溝ノ口へ至るショートカット・コース。神奈川宿をスタートし、北に綱島まで進む。現在の道筋はそこから武蔵小杉に向かって東に進むが、昔の街道は綱島から北に高田、下田を経て溝の口に続いていた、ようである。
府中街道;川崎宿の六郷の渡し辺りから多摩川西岸に沿って北に進み、小杉で中原街道、溝の口で大山街道(矢倉沢往還)、登戸で津久井道、そして、再多摩川を超えて府中に達する道筋。現在は川崎駅から府中をへて東村山市まで続いている。
街道チェックのため地図を眺めていると、鉄路の異常なほど急激なカーブが目に付いた。横須賀線、そして東海道新幹線である。直進すれば多摩の丘陵地帯に入り込んでしまうために、いずれにしてもこのあたりでカーブはしなければならない、とは思うのだが、それにしても何故にこのあたりで急カーブをしなければならない路線をとったのであろう。ふたつの鉄路とも図ったように綱島街道手前で急カーブしている。綱島街道を越えられない、なんらかの理由があったのだろう、か。疑問が残る。
急激なカーブと言えば、我が家の近くの井の頭線・明大前にも急激なカーブがある。当初の計画では、直線上に路線が延びることになっていたのが、なんらかの事情で中止になり、急なカーブだけが残った、とか。地形・環境の「ノイズ」にはそれなりの理由があるわけで、そのうちに調べてみよう、か。寄り道が過ぎた。先に進む。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000 /50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


小杉御殿
武蔵小杉で下車。北口に向かう。常のごとく、駅前の案内板をチェック。市民ミュージアムのある等々力緑地の途中に、小杉御殿跡とか小杉陣屋後の案内。そうそう、小杉御殿って、あったよな、小杉陣屋って二ケ領用水を開削した小泉次太夫の陣屋跡であるよな、などと思いがけないキーワードの登場に少々の喜び。成行き任せの散歩ゆえのサプライズ、といったところ、か。
北口の南武沿線道路を南武線に沿って西に進む。小杉交差点を越え、府中街道・小杉御殿町交差点を北に折れる。道成りに進み中原街道・西明寺交差点に。中原街道はこのあたりでカギ形に折れ曲がっている。街道脇に「小杉御殿とカギ形道」の案内板:「御殿の敷地はおよそ1万二千坪(四万平米)。表御門、、裏御門、御屋敷、御賄屋敷、御殿番屋敷、御蔵、御主殿などの各屋敷が連なり、規模大であった中原街道はここでカギ形に曲がる。城下町で見られるカギ形の道は防衛のために工夫されたもの。背後の多摩川、さらに西明寺や近くの泉沢寺も合わせて御殿の守りを固めていた」、と。
近くに道案内図。「小杉御殿の御主殿跡」、「小杉陣屋と次太夫」といった場所の大雑把な道順が示されて、いる。道案内を目安に「小杉御殿の御主殿跡」に。中原街道から一筋北の住宅地の中に、こじんまりとした祠があった。そこが御主殿跡。案内板:「二代将軍秀忠のたてた小杉御殿は家康の送迎のほか、鷹狩の休憩所として使われた。後に東海道が主街道となると、御殿は廃止された」、と。
御殿って、開幕時、新領国の安定・整備のために設けられたもの。慶長13年(1608年)の頃と言う。慶長期には江戸近郊に鷹場が設けられ、その宿舎としても御殿が使われた。いつだったか青砥のあたりを歩いたときにも青砥御殿に出合った。千葉には御茶屋御殿といったものも、あるようだ。また、前出の平塚・中原御殿もそのひとつ。静岡の御殿場もその名残、だろう。
この小杉御殿はまた、駿河と江戸を往復するための家康の宿舎としても使われた。西国大名の参勤交代のときの接待の場としても使われた。上にメモしたように、鷹狩りのときの宿舎としても使われた。勿論、鷹狩とはいうものの、それは単に鷹狩りだけでなく、領内の政治状況の安定と譜代家臣の結束を図る、といった目的もあった、よう。ために、藩幕体制が磐石なものとなってくると、その存在意義が薄くなる。同時に主街道が東海道に移ったこともあり、17世紀の中旬頃にはその役割を終え廃止された、とか。

小杉陣屋と次太夫

「小杉御殿の御主殿跡」を離れ、案内にあった「小杉陣屋と次太夫」に向かう。大雑把な案内図でもあり、いまひとつ場所がわからない。成り行きで進むと小杉陣屋町2-10に、ささやかな跡地を発見。小泉次太夫はじめて出会ったのは、世田谷区・砧散歩のときであった、かと。丸子川に出合い、あれこれ調べていると、丸子川って、昔の六郷用水の中流部、であった。この六郷用水の工事責任者が小泉次太夫、ということであった。それ以来、気になる人物であった。
二ケ領用水のことを知ったのもその時。次太夫は六郷用水だけでなく、多摩川を挟んだ川崎側にも用水を開削した。それが二ケ領用水。稲毛と川崎の二つの地を貫くため、「二ケ領」用水、と呼ばれた。で、今回、思いがけなく小泉次太夫の陣屋辺りに出会えた。また、近くには二ケ領用水も流れている。成行き任せの散歩の賜物、ではある。
それにしても、六郷用水はよく歩いた。取水口はどこ、下流はどこまで続いているのかと、取水口を求めて狛江市の和泉多摩川まで歩いた。下流部へと太田区を数回に分けて歩いた。北堀とか南堀とかいくつもの分流があり、六郷用水の詳しい流路をチェックするため、馬込にある大田区の郷土資料館に行ったりもした。池上本門寺から大森への流れの跡を辿った。世田谷区喜多見の次太夫堀公園にも足を運んだ。そのときの情景が少々ながら思い出される。

市民ミュージアム・等々力緑地
小杉陣屋町を離れ、市民ミュージアムのある等々力緑地に向かう。陸上競技場などが整備されたこの公園敷地は多摩川の旧川道。明治14年頃の地図を見ると、緑地のあたりで多摩川が大きく湾曲している。湾曲した川道の南端にあたりに鳥居のマーク。公園に沿った道路の南に小杉神社があるが、このあたりが昔の多摩川の自然堤防であろう、か。
外周道路に沿って進むと緑地の北に市民ミュージアムがある。立派な構え。あれこれ美術展などもおこなっている、よう。2階に歴史資料が常設展示されている。展示資料は、まあ、それなりのもの。なんとなく印象に残ったのは、影向寺、そして馬絹古墳、といったもの。資料も書籍として手ごろなものはなかったが、「二ケ領用水」とか「中原街道」「橘樹郡家と影向寺」といった小冊子を買い求める。
少々休憩。資料を見ながら、コースを検討。当初の方針は多摩川の沖積原から多摩丘陵に進むってこと。中原街道を西に向かい丘陵をのぼり影向寺に進む、そこから尾根道を北に進み国道246号に。東に折れ、馬絹古墳に向かい、梶ヶ谷で終わりとする、といったルーティングを想う。

春日神社
市民ミュージアムを離れ先に進む。先ほど歩いた緑地の外周道路を少し南に戻る。途中成行きで西に折れ、先に進むと春日神社。創建時期ははっきりしないが、12世紀頃と言われる。この地・稲毛郡の荘園領主であった九条家(藤原北家の系統)の氏神である奈良の春日大社をこの地に勧請したものであろう。また、神社の隣の常楽寺は奈良時代創建の古刹である、と。

二ケ領用水
神社を離れ西に進むと府中街道にあたる。府中街道を越えるとすぐに二ケ領用水。遊歩道になっている。用水は総延長32キロ。稲田堤の近くの中野島取水口、そして宿河原近くの宿河原取水口より多摩川の水を取り込み、川崎市のほぼ全域を流れる。先日取水口から武蔵小杉まで歩いたばかり。そのうちにメモをまとめておこう。

巌川橋・江川
道を南西に進み、南武線・武蔵中原駅手前で中原街道に合流。中原街道を西に進む。大戸小入口交差点、下新城交差点、巌川橋で江川を渡る。江川は二ケ領用水・根方堀の一部。二ケ領用水は溝の口の近く、久地で根方堀、川崎堀、六ケ村堀、久地・二子堀と4つに分かれる。灌漑面積に応じて用水を分流する施設・久地円筒分水が久地にある。地図をチェックすると、久地不動尊のある緑地、っぽいところに分流施設があった。のような形が見て取れる。

影向寺
橋を渡り千年(ちとせ)交差点に。このあたりは高津区になる。交差点の向こうには丘陵地が迫る。このあたりが多摩丘陵の東端であろう。地形図をチェックすると、溝の 

口から南東に千年交差点に向かって引いた線が丘陵の東端となっている。中原街道を離れ台地に上る。住宅街の中を第三京浜方面に向かって西に進むと影向寺がある。住所は宮前区野川となっている。
影向寺(ようごうじ)。7世紀後半の創建というから、法隆寺とおなじ頃つくられた古刹。平安時代後期に造立された薬師三尊像は重要文化財に指定されている。古代王権の確立期には、このあたりに武蔵国橘樹郡の役所である郡衙、正確には郡司である豪族の私邸を使っていたので郡家と呼ぶようだが、ともあれ郡の中心地があった。先日歩いた柿生の王禅寺が「西の高野山」と呼ばれるように、この寺は「関東の正倉院」とされる。ということもあり、お寺ももっともっと大きな構えを想像していたのだが、静かに、そして落ち着いた、つつましい堂宇であった。どうも中世の頃、時の権力者からの庇護もなく荒れ果てていたようである。15世紀の頃、伽藍再興の勧請をおこない小規模ながら金堂が建立された。深大寺とのコラボレーションもあった、とか。

矢上川
寺を離れ崖上に進む。崖の下には第三京浜が走っている。地形図で見る限り、丘陵を切り崩して道を通している、よう。崖線上を南に下る。神明社脇を進み、丘陵地を下ると再び中原街道に。野川交差点で尻手黒川道路に乗り換え西に進む。中原街道はこの野川交差点で南に折れ、第三京浜に沿って下ることになる。
第三京浜下をくぐり尻手黒川道路を西に進む。尻手黒川道路は矢上川に沿って進む。この道筋はどうも矢上川によって開かれた谷筋のようである。矢上川は東名高速川崎ICの西、というか先回歩いた生田緑地の南あたりを源流とし、下末吉台地を切り開き、高津区から中原区を流れ、幸区の矢上で鶴見川に合流する。

権六谷戸
しばらく進み、野川小入口交差点で尻手黒川道路を離れる。近くに「権六谷戸」がある、という。野川小学校脇を過ぎると道は上りとなる。その手前あたりで車道を離れ、谷地をのんびりと進む。奥まったところには未だに農地が残っている。なんとなく谷戸の雰囲気を楽しむ。権六谷戸の由来は、戦に破れた武士団、といっても20名程度であったそうだが、この地に落ち延びる。が、追っ手の追討を浮け、殆どが討ち取られた。で、ひとりのこった武家が権六と改名し、なくなった仲間の菩提をとむらった、とか。

野川台
谷内から丘陵に戻る。台地上の道を進む。どうも尾根道のようではある。尾根道とはいうものの、車の往来の激しい道筋、ではある。この丘陵は野川台と呼ばれている。北は矢上川、南は有馬川によって開かれた谷筋となっている。野川第二公園、野川第一公園と進む。住宅の脇から僅かに見える台地下の景色を確認しながら北西に進む。しばらく歩くと国道246号線・野川団地入口にあたる。

武蔵野線・梶ヶ谷貨物ターミナル

交差点を東に折れる。台地を下る。下りきったところは矢上川によって開かれた谷筋である。尻手黒川道路を越え、矢上川を渡るとその先には武蔵野線の梶ヶ谷貨物ターミナル。この武蔵野線に最初に出合ったのは確か稲城であった、かと。丘陵のトンネルに入る貨物を見て、このトンネルって、どこまで続いているのだろうか、とチェック。地中を走り、この梶ヶ谷でやっと地表に出ていた。
武蔵野貨物線が出来たきっかけは、山手線新宿近くで起きた米軍燃料貨物車の脱線事故。大都市のど真ん中で大爆発でも起きたら大事、ということで、その代替線として武蔵野線が計画された、とか。貨物だけでよかったようだが、沿線住民への説得材料として「人」も運びます、ということで、計画が承認された、といったことをどこかで聞いたかと思う。路線は横浜市の鶴見駅から首都圏をぐるっと周り千葉県船橋市の西船橋まで。そのうち旅客サービスは府中本町から西船橋駅までが定期サービス区間となっている。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000 /50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


馬絹古墳・馬絹神社
武蔵野線を越えると道は再び台地への上りとなる。国道246号線に沿って坂道を上る。目指す馬絹古墳は馬絹神社の隣にある。馬絹古墳;幅33m、高さ6mの円墳。7世紀後半のものであろう、と言われている。古代朝鮮半島の古墳様式の影響を強く受けているも

のである、と。
古墳を離れ馬絹神社に。アプローチを誤り、一度台地を下りることになった。後からわかったのだが、古墳から時計の逆回りに進めば割りと簡単に神社に行けたよう。ともあれ、一度台地を下り、神社正面から入ることに。結構構えの大きなお宮さま。長い石段を台地上まで進むと本殿。昔は女躰権現社と呼ばれていた、とか。明治に八幡社、熊野社、三島社、白山社が集まり「神明社」、と。馬絹神社とよばれるようになったのは、1986年のことである。
薄絹を身にまとった女性が杜に消えた。それをおまつりしたのが女躰権現社のはじめ、とか。ちなみに馬絹の由来であるが、この地に馬の放牧地があり、「まきの」と呼ばれていたのが、いつしか「まきぬ」になった。武将の馬に掛けた絹がこよなく美しかった、ため、とか。例によって諸説あり、これといった定説は、ない。



女体神社って、散歩の折々に出会う。昨年だったか、大田区の東嶺町を歩いていたときであった白山神社が、もともとは女体神社と呼ばれていた。また先日の埼玉・見沼散歩のときにも氷川女体神社に出会った。その艶かしき名前ゆえに、少々の驚きも覚えたのではあるが、よくよく考えれば「男体(山)」って名称は結構あるわけで、逆があってもそれほど不思議ではない、ということではあろう。
氷川女体神社の祭神は奇稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)。素戔鳴尊(スサノオノミコト)が八頭大蛇退治のとき助けて妃にした女性。ちなみに、大宮氷川神社は、もとはスサノオノミコトだけを祀る男体神社であった。日光の男体山には男体権現こと大己貴命(おおなむちのみこと)、女峰山の御神体は田心姫命(たごりひめのみこと)が女体権現として祀られる。筑波山には西の峰に伊弉諾命が男体権現として、東の峰には伊弉冉命が女体権現として祀られる。と、あれこれメモしたがいまひとつ、よくわかっていない。そのうちに調べてみようかと思う。ついでのことながら、筑波の由来は、山頂で琴(筑)を弾いたところ、海の波が山まで届いたから、とか。この馬絹神社をもって本日の予定終了。国道246号線に戻り、国道に沿って東にすすみ田園都市線・梶ヶ谷駅から一路家路へと急ぐ。

木曜日, 8月 23, 2007

下末吉台地散歩;大倉山から鶴見まで

多摩の丘陵に惹かれて川崎市麻生区から横浜市青葉区、都築区そして港北区・大倉山まで下ってきた。はじめは、「なんとなく新百合ヶ丘」といった程度ではじめた散歩。何回にも分けて歩くことになろうとは思ってもいなかった。それだけ、丘と谷、入り組んだ谷戸の景観に惹かれたのであろう。
先回の散歩では、都築区から、これも「なんとなく大倉山」に下った。なぜ「大倉山」という地名が記憶に残っていたのか、よくわからない。ともあれ、大倉山まで下ってきた。で、大倉山から南を眺めたとき、これも結構入り組んだ感じの丘陵が見えた。大倉山の近くには中世の城址がある。また、鶴見の近くにも城跡がある。で、どうせのことなら、あと少し足を延ばし、城跡を辿りながら海岸まで下ってみよう、多摩の丘陵地帯から海まで襷を繋げよう、と思った。多摩から歩いてどの程度で海にたどり着くのか、少々のリアリティを感じてみたかったわけである。




本日のルート;東急東横線・綱島駅>綱島公園・綱島古墳>綱島街道>鶴見川・大綱橋>綱島街道>東急東横線・大倉山駅>綱島街道・交差点>環状交差点>環状大倉山2号交差>みその公園>尾根道>獅子ケ谷横溝屋敷>獅子ケ谷市民の森>二ツ池>三ツ池公園>釣鶴見高校>別所交番前>第二京浜・北寺尾交差点>響橋>第二京浜・東寺尾交差点>馬場町公園>殿山>白幡公園・白幡神社>寺尾小学校>第二京浜・東寺尾交差点>(鶴見獅子ケ谷通り)東寺尾交番前>亀甲交差点>JR鶴見駅

東急東横線綱島駅
渋谷で東急東横線に乗り、大倉山駅に向かう。急行でもあり、一駅前の綱島に止まる。普通電車を待つのもウザッタイので、綱島で降りて歩くことに。綱島って、川の中州や湿地に点在する島、「津の島」のこと。すぐ南に流れる鶴見川、東を流れる早淵川によって形つくられた「川中島・中州」であったのだろう、か。
綱島古墳
駅に降りて案内をチェック。駅の近くに綱島古墳。直近まで全く興味のなかった古墳時代ではある。が、最近娘の宿題のお手伝い、といった事情もありに少々の問題意識を持つことにもなっている。つい先日、吉祥寺の古本屋で『まぼろし紀行;稲荷山鉄剣の周辺(奥村邦彦:毎日新聞社)』を買ったばかりではある。それはともあれ、線路に沿って少し戻る。少し歩くと小高い丘。古墳はこの綱島公園の中にある。公園の最も高いところに古墳があった。案内をメモ;「5世紀に造られた円墳で、墳丘頂部の埋葬施設から鉄刀、鉄子、鉄鏃などの副葬品が発見され、古墳の周辺からは須恵器甕や円筒埴輪などが出土し、地域首長の墓と考えら れる」、と。綱島公園は戦時中高射砲陣地があった、とか。

綱島街道・鶴見川
公園を離れ、大倉山に向かう。一旦、綱島駅に戻る。バスセンターが賑やか。駅前の道を綱島街道に出る。綱島街道は東京の五反田を起点に、丸子橋をへて横浜市神奈川区浦島までの道筋のうち、丸子橋より西を指す。都内は中原街道と呼ばれる。先に進むと「大綱橋」。名前の由来は大綱村から。鶴見川を渡り、樽町を進む。「樽」って、「伊豆・河津の七樽」ではないけれど、「滝」ってこと。鶴見川が氾濫してなかなか水が引かず、「樽に溜まった水」のようであった、ため。鶴見川の氾濫は昔から多かったようである。
大倉山の台地の北端は鶴見川で切られる。鶴見川によって開析された台地と平地との境目、といった風情。地形図でチェックすると、綱島の台地が平地にポッカリと浮かぶ。綱島街道を隔てた諏訪神社のある台地と共に「連れになった島>つなしま」、って知名の由来もあるのだが、地形図で見ると大いに納得。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

師岡熊野神社
道の両側に丘陵が迫る。向かって右手が先日歩いた大倉山の台地。左が熊野神社のある「熊野市民の森」の台地だろう。道を進むと熊野神社入口交差点。熊野神社は御園城跡(獅子ケ谷城跡)を拠点とした国人たちの心のより所であった、とか。ちょっと立ち寄る。台地を少しのぼり、ちょっと下ると熊野神社。境内前に池。「い」の池。灌漑用の溜め池。雨乞神事とか、片目の鯉の伝説が残る。
神社がひらかれたのは、8世紀前半・聖武天皇の頃。誠に由緒ある社である。9世紀末には光孝天皇の勅使六条中納言藤原有房卿が此地に下向。「関東随一大霊験所熊埜宮」の勅額を賜り、それ以来、宇多・醍醐・朱雀・村上天皇の勅願所となる。また、戦国期の小田原北条、江戸期の徳川家からの信仰も篤く、幕末まで御朱印を受けた、とか。
石段を上り本殿に。新しい。平成に大修理がなされた、と。なんとなく本殿裏手の姿に惹かれる。古い社とともに、雰囲気のある池。「の」の池。まわりは神域となっている。池の傍に裏山にのぼる道。のぼりきったところに展望台。師岡貝塚の碑もあった。縄文海進期の頃は、このあたりまで海であったのだろう。少し休み、綱島街道に戻る。

東急東横線・大倉山駅
熊野神社入口交差点からゆるやかな坂を大倉山駅方面に下る。綱島街道を離れて大倉山駅に行く。例によって、駅前での名所案内をチェックするため。いくつか散歩コースが案内されていた。目的地は御園城跡(獅子ケ谷城跡)。城跡の案内はどこにもない。この城の名前はいつだったか古本屋で購入した『多摩丘陵の古城址;田中祥彦(有峰書店新社)』にあったもの。そこの紹介でも、地元の国人たちの軍事拠点といった程度のもの。城というほどのものではなかったのかもしれない。『多摩丘陵の古城址』によれば、場所は横溝屋敷の北にある台地である、と。駅前の案内には「みその公園・横溝屋敷」と紹介してあっ
たので、とりあえず「みその公園」に進むことにする。
駅の北には大倉山が広がる。結構広い。山頂には大倉山記念館。ギリシャの神殿を思わせるような堂々とした建物である。実業家大倉邦彦氏が昭和7年につくった研究所がはじまり。当時名もないこの丘も、大倉氏の名前をとって大倉山、と。ちなみに、太尾駅と呼ばれていた駅も大倉山駅に改名。記念館の北、谷戸の風情を残す公園も、太尾公園から大倉山公園に改められた。

御園城
大倉山駅前の通りを進む。前方に新幹線の高架。商店街の上に新幹線が走る、って姿をみたかったのだが、残念ながら列車には出合わなかった。先に進み綱島街道・大豆戸交差点に。ここで環状2号に交差。目指す「みその公園」は環状2号線の南に広がる台地の上。信号を渡り、すぐの石段を登る。台地上から眺めると、環状2号は台地を「切り通し」ていた。
台地上は住宅街。ちょっと道に迷うが、先の緑の台地が「みその公園」であろう、と台地上の尾根道を進む。台地を少し下り、またすぐのぼると「みその公園」。御園城といわれていたのであれば、この台地が城跡であるのだろう。先に進む。雑木林が開けると、ちょっとした広場。このあたりが城跡であったのだろう、と、とりあえず思い込む。先に進む。「横溝屋敷」の案内。尾根道を進み、くねくね道を下ると台地下に「横溝屋敷」があった。

横溝屋敷
「横溝屋敷」。慶長年間から寛永にかけて名主を務めていた小田切氏の館跡に建つ。茅葺き屋根の母屋・表門(長屋門)・穀蔵・文庫蔵・蚕小屋などが残る。ゆったりとした、いい気持ちのひととき。台地崖下からの湧水池も、いい。
さて、これから先はどうしたものか。本日の最終目的地は、いままで二度チャレンジし、結局お店が休みで手に入らなかった、「よね饅頭」を買うこと。「お江戸日本橋七つ立ち」の歌に出てくる、あの「よね饅頭」である。といっても、会社の同僚でこの歌を知っている者はごく僅か。鶴見に行く目的はお饅頭ばかりでなく、あとひとつ。鶴見近くの寺尾にある、これも、お城といっていいのかどうかわからないような寺尾城跡をチェックすること。そこまでは、成行きで進もう、といった段取り。

獅子ケ谷市民の森

横溝屋敷前にある案内をチェック。南に広がる台地上に展望台のサイン。台地、谷戸といった地形 のうねりが大好きの我が身としては一も二もなく台地に向かう。道を南東に進み台地下に。「獅子ケ谷市民の森」と書いてある。台地下の公園から段を上る。少し湿った土。朝の雨の影響なのか、それとも湧水なのだろう、か。チェックする、池は地下水のポンプアップではあるが、崖地からは湧水が滲み出ていた。尾根道に進む。道は南北に通っているが、北に進み、しばらく雑木林の中を歩き、里に下りる。このあたり、樹枝状の台地が複雑に入り組んでいる。






二ツ池
さて、ここから先は、と、地図をチェック。近くに二ツ池、三ツ池公園、それと鶴見への道筋に下末吉といった地名が目に入る。池は谷戸からの湧水であろう。また、下末吉って、地質学で言うところの下末吉台地となんらか関係があるのだろう。ちょっと惹かれた。で、大体のコースを二ツ池>三ツ池公園>下末吉地区の順とする
谷戸を歩き、光明寺へ。ちょっとお参りし、それほど幅のない台地を越え東におりる。ゴルフ練習場脇を進み、車道に。少し北に戻ると道の東に二ツ池。池の中央に堤がつくられ、ふたつの池に分けられている。西は葦のような草が茂る野趣豊かな池。東側はふつうの池。多くのひとがつりを楽しんでいた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


三ツ池公園
池に沿って進み、再び台地に上る。鶴見女子学園のグランド南を進むと三ツ池公園に着く。こんな台地の上に池があるとは思えない。予想通り、崖地の下に池が見える。如何にも谷戸の姿。台地に囲まれた窪地から水が湧き出ているのだろう。結構大きい池である。池の周りを囲む崖上の遊歩道を進み「上之池」南端に下る。家族連れが多い。しばし休憩。

下末吉台地
公園を離れ、下末吉地区に進む。公園に沿って台地に上る。上りきったところに鶴見高校。ブラスバンドの練習の音。いかにも青春って風情。高校に沿って歩く。道は大きな下りとなっている。真っ直ぐ進むのもいいのだが、進行方向右手、つまりは道の西の地形が魅力的。一度下った谷地の向こうに再び台地が盛り上がっている。第二京浜の走る尾根道だろう、か。結構複雑な地形となっている。
この地形の「うねり」に抗すべくもなく、鶴見高校を越えたあたりで右に折れる。道の東は下末吉6丁目。当初、故なく下末吉1丁目一番地に行ってみようとも思ったのだが、行って何があるわけでもない。下末吉に足跡を残した、というだけで留めておくことに。それより、下末吉台地についてちょっとまとめておく。
下末吉台地・下末吉層;関東での地形の資料を見ているとしばしば登場する用語。この下末吉で発見された発見された地層により、往古、間氷期に現在より海面が上昇し、内陸奥地まで海が入り込んでいたことが明らかになった、とか。このとき堆積された地層を「下末吉層」、そして、海進が進んだ時代を「下末吉海進期」、そのときに形成された段丘面を「下末吉面」と呼ぶ。下末吉面の台地にあたるのが「下末吉台地」。鶴見高校のあったあたり。この洪積台地の下が沖積平野となる。そして、この上下の面の間は浸食されてできた段丘崖で隔てられている。神奈川県東部の北には多摩丘陵が広がる。神奈川県域では標高70mから90mといったところ。下末吉台地は、多摩丘陵の南、横浜市港北区、鶴見区、神奈川区に広がる。標高は多摩丘陵より一段低い40mから60mといったもの、である。

第二京浜・北寺尾交差点
下末吉面の台地を下る。下りきったところが別所交番前交差点。左手に見える白い建物が気になり左に折れる。少し進むと台地に上る。上りきったところが、第二京浜・北寺尾交差点。で、気になった建物は、道路わきに建つ聖ジョゼフ学園であった。交差点の手前にあるスターバックスで休憩。次の目的地、寺尾城跡への道順をチェック。響橋交差点で水道道に入り、馬場を経て、殿山に行けば、そのあたりが寺尾城跡の。よう。

東寺尾交差点
スターバックスを離れ、第二京浜に沿って南に進む。道の東に聖ジョゼフ学園を眺めながら進む。前方に第二京浜を跨ぐ道。この台地を繋ぐ道が響橋の、よう。第二京浜からははるか高いところを通っており、水道道に進めそうもない。響橋右折を諦め、少し進み東寺尾交差点で第二京浜から離れる。

馬場町公園
脇道はしばらく第二京浜に沿って進む。道が三叉路にわかれるところで台地に上る。台地を登りきり、住宅街を西に進むと馬場町公園。公園の北には谷地を隔てもうひとつ台地が見える。その台地に寺尾城跡があるのだろう。ということは、響橋からの道とい
うのは、その尾根道なのだろう。結構比高差のある台地を下り、窪地を進み、すぐに再び台地に取り付く。なかなか複雑な地形。上りきると結構交通量の多い車道。水道道に出た。少し北に鶴見配水場があるので、そう呼ばれるのだろう。

寺尾城
水道道・馬場3丁目交差点を少し南西に進む。殿山バス停。バス停脇から斜めに入る道。水道道を離れ脇道を少し上ると寺尾城跡の案内。案内と『多摩丘陵の古城址;田中祥彦(有峰書店新社)』を参考に、寺尾城についてかいつまんでメモする。



寺尾城跡:この城は入江川の谷戸を支配した豪族が築いたもの。城主は諏訪氏と言われる。諏訪氏について詳しいことはわかっていないが、早い時期に北条幕下に入っている。関東管領上杉氏のもとで長尾氏や大田氏が台頭することを快く思っていなかった、から。北条氏が上杉謙信と同盟を結んだときは、北条氏とともに武田信玄に備え、また、信玄と誼を通じたときは、謙信に備え川越の寺尾城に詰めた、とも。
ちなみに、寺尾と諏訪は深い関連がある、よう。川崎市、川越、そして秩父の寺尾の地はすべて諏訪氏と深い関係をもつ地である。鎌倉時代、川越の諏訪氏が寺尾姓の改姓しているほど、である、と。ちなみに、この城は北条とともに駿河に出向いているときに、武田信玄の軍勢により焼き払われた、ということだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」) 

入江川
先に進む。台地上は住宅街。城跡の赴きは何もなし。取り付く島もない。仕方ないので、台地を下り、寺尾城主・諏訪氏が創建の白幡神社に向かうことに。窪地に下りると川筋。入江川。地図でチェックするとこのあたりが源流のよう。流れは西に進み、西区寺尾付近でJR横浜線に沿って南に下り、神奈川区子安通りで横浜港に注ぐ。このあたりの複雑な谷戸の景観は昔入江川によって開析されたものであろう。とはいうものの、現在はほとんどが暗渠である。

白幡神社
白幡神社は向いの台地の上。坂道を上り白幡公園内にある白幡神社に。室町時代中期(1435)に創建された、と。神社を離れ、寺尾小学校に沿って台地を下る。道なりに進むと、先ほど馬場町公園に折れた交差点に。先に進み、第二京浜・東寺尾交差点に。交差点を渡り、台地に上る。今日はどれほど台地の上り・下りを繰り返した ことだろう。で、この台地がどうも最高点のような気がする。成行きで進み、鶴見獅子ケ谷通りに。東に下りると鶴見駅。西に進むとさきほどの水道道になっている。

総持寺

鶴見駅方面に下る。道の南には総持寺の寺域が広がる。遠くから見えていた青銅色の屋根は総持寺の甍であった、ようだ。総持寺は曹洞宗の大本山。はじまりは、7世紀の能登。明治31年に全山焼失。明治40年、この地に移る。移転の理由は、発展する京浜への教線を広げる、とか、海外に禅の教えを広める二は、海に面し開けたこの地がいい、ということのようだが、はてさて。ともあれ、移転を巡っては大騒動があったことであろう。そのうちに、調べてみよう。

よね饅頭
駅北にある古本屋でしばし古本を探し、最後の目的地、「よね饅頭」を売る、和菓子屋・青月に。しかし、またもやお休み。祝日は休み、日曜は休み。三度目の正直とも成り得ず。鶴と亀との「よね饅頭」になかなか、お目にかかれない。ちなみに、鶴と亀とは鶴屋と亀屋。鶴見橋のあたりにあった店の名前。よね、は浅草待乳山下にあった鶴屋の娘の名前。よね、さんがつくったのだ、と。

それにしても今回散歩の地形は実に面白かった。樹枝状に開析された丘陵地帯は、谷戸が入り組み複雑このうえない。鶴見といった海岸近くは、平坦なる低地であろうかと思っていたのだが、下末吉台地が鶴見川などによって複雑に開析され、結果、アップダウンに富んだ、魅力的な地形であった。結構満足。



月曜日, 8月 20, 2007

多摩丘陵散歩 そのⅣ:丘陵南端を歩き大塚・歳勝土遺跡に出会う

 田園都市線・荏田駅から東横線・大倉山駅に

多摩丘陵を数回歩き、横浜市青葉区市ヶ尾まで下ってきた。地形図をチェックすると、丘陵はまだまだ南に続いている。どうせのことなら、多摩丘陵の南端まで歩こう、と思った。
地図を眺め、コースを想う。田園都市線・荏田駅から南東に2キロ強、早淵川を下ったところに横浜市歴史博物館がある。実のところ、この港北地区の時空については、まったくもって、何も知らない。とりあえず博物館に行き、あれこれお勉強をする。散歩のコースはそれから考えようと、いうことに。結果的に、横浜市都築区・港北区を歩くことに。(月曜日, 8月 20, 2007のブログを修正)



本日のルート;田園都市線・荏田駅>東名高速>国道246号線>荏田町>剣神社>緑地・愛和幼稚園>神社裏>荏田南町>荏田東町>早淵川・矢先橋>13号・横浜生田線>区役所通り>横浜市歴史博物館>大塚・歳勝土遺跡>13号・横浜生田線>早淵川>最乗寺>勝田町>勝田団地>第三京浜交差>新田・庚申堀>市営地下鉄三号線・新羽(にっぱ)町>鶴見川・新羽橋>太尾町・大曽根台町>大倉山公園>東急東横線・大倉山駅

田園都市線・荏田駅
田園都市線・荏田駅に。「荏田」とは「湿地」の意味。早淵川沿いの湿地であったのだろう。また、この地は江田氏の本拠。義経や頼朝に従って活躍した、と。江田が荏田になったのがいつの頃からか、はっきりしない。荏田駅の南口に下りる。駅前に道路が複雑に交差する。あざみの駅方面から南北に通る道。北東から南西に通る国道246号・厚木街道。同じく北東から南西に走る高架は東名高速。地図を見ただけではわからないが、地形図を見ると、厚木街道も東名高速も、台地の高みを避けて走っている。そして、荏田で交差したふたつの道は、多摩丘陵を越え、鶴見川によって開析された谷地へと走ってゆく。川もそうだけれども、道も自然の地形に抗うことなく、素直に続いているよう、である。

剣神社
歴史博物館に行く途中に、どこか見どころはないかと地図をチェ

ック。駅の南東、1キロ弱のところに剣神社。名前に惹かれた。とりあえず進む。厚木街道を少し引き返す。台地に向かって上ってくる道を逆に歩き、最初の交差点・荏田西団地入口に。そこで右折し台地へと上る道に。荏田第二公園脇を進み、台地上に上る。で、何処で左に折れたのか今となっては定かではない。あたりは畑。目印がないわけだ。とりあえず台地を下る。眺めはいい。下は早淵川で開かれた「谷」ではあろう。
のどかな畑地をゆっくり下る。道に「縄」。とはいうものの、なんとなく動いている。蛇。結構大きな蛇。勘弁してほしい。お蛇様がゆったりと道を横切るまで待機。見えなくなって、小走りに進む。細路を進む。蛇を見た直後でもあり、少々緊張。ほどなく剣神社に裏手に出る。
剣神社。いままであれこれ歩いたが、この名前の神社ははじめて。縁起とか由来案内がなかったので、ちょっと調べる。どうも「本家」は、越前にある剣神社ではなかろう、か。越前では気比神社についで二宮ということだから、それなりに格式のある神社なのだろう。別名織田明神。越前の領主であった、朝倉・斯波・織田氏の庇護を受け、特に織田氏はこの神社を氏神として祟敬した、と。

WEBで調べていると、違う視点からの「剣」に関するアプローチがあった。音韻、というか「音」からのアプローチで、その説によれば、剣も都築も、表記は異なるが、「音」は同じ「tungus」である、と。また、敦賀も駿河も津軽も角も鶴も、筑紫も、戸越も、富樫も櫛も楠も、みな音は同じである、とする。真偽の程は分からないので、このあたりに留めておく。が、剣と都築が同じってことは、なんらか意味があるのか、単なる偶然か、はてさ。。。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


早渕川
神社の前に車道が見える。そのまま里に下りようか、とも思ったのだが、台地をもう少し歩いてみたい、先はどうなっているのかちょっと知りたい、との想い、あり。という事で、神社裏手の小道を引き返す。畑の畦道といった台地中腹の道筋を進む。成行きで進むと愛和幼稚園。南に進むとT字路。東に折れ、下ると車道・神社裏交差点に出る。
車道を越え、荏田南町にある台地の裾を迂回する。北端近くで台地に上る道に進む。すぐに台地を下りると荏田東町。早渕川が流れる。地形図でチェックすると、このあたり、いかにも開析谷。多摩丘陵が早渕川によって「開かれ」ている。早渕川は、青葉区の美しが丘、というから、田園都市線・あざみの駅の北が源流。都築区、港北区を流れ鶴見川に注ぐ。蛇行を繰り返し、早瀬や渕があったのが、名前の由来。荏田駅へと台地を上る国道246号線は、この早渕川の低地から上ってきていたわけだ。

横浜市歴史博物館
川に架かる矢先橋を渡る。台地手前を東に進む。早渕川の両サイドは丘陵地。緑が深い。太古の地形に想いを馳せる。しばらく歩くと、急にモダンな街並み。区役所通りと交差。センター北、といった地下鉄の駅がある。このあたりは港北ニュータウンの中心(センター)なのだろう。自然豊かな丘陵地とのコントラストが印象的。区役所通りを越え、地下鉄なのだろうか、高架を過ぎ、右に折れると横浜市歴史博物館がある。ここに来るまで、博物館が、どうしてこの場所にあるのか、意味不明、であった。なにせ、このあたりの地名は中川であり、牛久保、といった「ローカル」な名前。が、来てみて納得。都築の中心地であった。
横浜市歴史博物館に。横浜市の太古より現代までの歩みをスキミング&スキャニング。印象に残ったことは、このあたりも海進・海退が繰り返された、ってこと。どのあたりまで海が入り込んできていたのか、いまとなってははっきり思い出すことはできないのだが、海進期の地層が下末吉層であり、その段丘面が下末吉台地であるとすれば、今歩いている多摩丘陵あたりまで海が入り込んできていたのだろう、か。多摩丘陵の南には下末吉台地が広がっているわけであり、その比高差はおおよそ10m程度といったところ。その崖線が太古の海岸線であったのであろう。
また、もうひとつ印象に残ったことは、このあたりに古墳というか遺跡が非常に多いこと。この博物館に来るまで全く知らなかったのだが、大塚・歳勝土遺跡といった国指定の弥生時代の遺跡がある、と。もっとも、これほど古墳が多く見つかったのは、港北ニュウタウンの開発と大いに関連あるようにも思える。往古の人は台地上に集落を造らざるを得ないわけで、というのは低湿地など川の乱流・氾濫が怖くて住めるわけもないわけであり、そういった台地を掘り返せば遺跡・古墳が出てくるのは当たり前といえば当たり前のこと、である。
開発主体がお役所がらみであったことも、多くの遺跡がみつかったことと関係あるように思える。お役所がらみの大手ディベロッパーが開発主体であれば、工事現場から遺跡が見つかれば、きちんとレポートせざるを得ないわけで、結果的に多くの遺跡が見つかったのではなかろうか。ちなみに、文化財保護法って法律ができて以来、遺跡の発見・報告の数が激減した、といった記事をどこかで読んだ記憶がある。工事中に遺跡が見つかれば報告すべし、というのがこの法律。で、遺跡の調査、となれば、工事が中断。段取りが狂う。お金が入ってこない。結果として、頬かむり、となるわけだ。が、お役所主導の大規模開発ゆえに、キチキチと遺跡が発見・発掘された結果が多くの遺跡が見つかった主因ではなかろう、か。
そうそう、メモし忘れそうになったのだが、博物館で印象に残ったこととして、中小の河川流域を開発した古墳時代の人達は、その後、枝分かれし、谷戸の窪地への開発へと移っていった、ということ。勿論集団の規模は小さくなる。先日市ヶ尾の横穴古墳の主は、谷地の村の長、といった案内があり、いまひとつ、よくわかっていなかったのだが、ここにきて納得。

大塚・歳勝土遺跡

さてさて、次の目的地は、といっても、大塚・歳勝土遺跡と決まってはいるのだが、どこにあるのか、と地図をチェック。あれ、博物館のすぐ隣にある。博物館をブラブラしていると、大塚・歳勝土遺跡へのアプローチにのぼるエレベータもあった。エレベータで屋上に。歴博通りを跨ぐ陸橋を渡り、大塚・歳勝土遺跡公園に。入口で案内を眺め、まずは大塚遺跡に。
大塚遺跡;弥生時代の環濠集落跡。今からおよそ2000年前の竪穴住居、高床式倉庫などが復元されている。およそ100人ほどの弥生人が住んでいた、とか。歳勝土遺跡はこの地の人達のお墓である。港北ニュータウンの開発にともなう事前事業として昭和48年(1973年)から51年(1976年)にかけて発掘調査がおこなわれた、と。やっぱり。で、全貌があきらかになった1986年に国の史跡として指定された。ありがたい遺跡ではある。が、最近は遺跡・古墳への興味関心が急速に薄れている。娘の古墳・埴輪のレポートのお手伝いが終わったせいでもあろう。ということで、遺跡公園をあっさりと眺め、つぎの目的地をあれこれ想う。

最乗寺
次の目的地は大倉山とする。理由はよくわからない。なんとなく。昔から気にはなっていた地名。それが何故だかわからない。水道の配水塔があるのだろう、と何の根拠もなく思い込んでいる。距離も7キロ程度。日暮れも迫ってきており、丁度いい距離。で、遺跡公園を出発。公園内を東へと進む。フォレストパーク、というのだろうか、高層マンションあたりで南に折れる。こんなところ進んで大丈夫か、といった細路を下る。右手に竹林。一瞬中に入るが、やっぱり戻る。で、車道に下りる。大棚町。
道の南を流れる早渕川を渡り、茅ヶ崎東地区の小高い丘を迂回。廻りきったところに最乗寺。メモをするために地図をチェックしていると、そこからちょっと進んだところに杉山神社がある。この神社は鶴見川流域のみのローカルなお宮さま。50程度あるようだ。続日本後記にも登場する、ということは千数百年の歴史をもつ。延喜式では都築唯一の式内社。武蔵六所宮の「六の宮」といわれている。が、その「本家」というか「元祖」がどこなのかはっきりしないようではある。今回は実際に行ったわけでもないので、メモはこの程度にしておく。また、そのうちにどこかで出会うであろう。

市営勝田団地
最乗寺を越えると、またまた前方に小高い丘。樹枝状の台地が複雑に入り組んでいる。台地に上り、といっても宅地ではあるのだが、再びその台地を下る。目の前に再び坂道。交通量の多い車道。道を上ると市営勝田団地。少々の「歴史」というか「風雪」、というか「年輪」を感じる団地の坂道をのんびり下る。新栄高校交差点。少し進むと第三京浜と交差する。

新羽消防署前交差点

第三京浜を越えると、ゆったりと南東にカーブする道筋を進む。細い水路が見えるあたりで道筋は、今度は東に進み、新羽消防署前交差点に。水路の名前はわからない。地形図でチェックすると、この道筋は台地に挟まれた谷筋。多摩丘陵の最南端といったあたりのように思える。

鶴見川・新羽橋
新羽消防署前交差点からは交差点を南に。地形をチェック。このあたりまで来ると、多摩丘陵からはなれ、鶴見川によって開析された低地になっている。横浜市営地下鉄線あたりまで進むと、庚申堀に。少々騒がしい町並みとなる。更に南に。港

北産業道路と交差。道を東に進むと横浜市営地下鉄線・新羽駅に。新羽駅(にっぱ)東側交差点を越え、新田緑道を過ぎると鶴見川・新羽橋。前方に見える台地が大倉山であろう。あと一息、である。新羽の名前の由来は「新しく開墾された山の端(は)」といったところからくる、よう。地形から見れば、その通り、である。

大倉山記念館

新羽橋を渡ると太尾地区。往古、下末吉海進期にはこのあたりまで海岸線が上がってきており、そこに浮かぶ大倉山の姿が動物の尾っぽのように見えたから、と。新羽橋東側交差点に。南東に折れ、太尾堤交差点に。そのまま進めば東急東横線・大倉山駅ではあるが、大倉山に上るため道を左に折れ、龍松院前の道に入る。ゆったりとした台地、というか公園への上り道を進む。公園の中を進み、台地の上に大倉山記念館があった。


大倉山記念館は実業家・大倉邦彦氏が私財をなげうち建てたもの。東西の精神文化研究のためにつくられた「精神文化研究所」がはじまりである。ギリシャ神殿といった重厚なる建物。この台地は記念館が建てられるまでは、名無しの台地。それが、この研究所の完成をきっかけに、大倉山、と。また、駅も太尾から現在の大倉山という名前に変わった、と。
記念館の中をぶらぶらと眺め、しばし休憩。台地上から南方向を眺めると、多くの台地が見える。複雑な地形。なかなか面白そう。次の散歩は、この大倉山からはじめ、南に下ろう、との想いを抱き、東急東横線・大倉山に下り、本日の散歩を終え一路家路へと。

水曜日, 8月 15, 2007

多摩丘陵散歩 そのⅢ:生田緑地から、とんもり谷戸へ

先回の散歩で多摩川・鶴見川の分水界を歩いた。新百合丘から弘法松公園を経て、尾根道を生田南郵便局交差点まで進み、そこからは尾根道をはずれ南の王禅寺に向かった。その時に見た、生田南郵便局交差点から東に向かって続く尾根道が如何にも魅力的であった。もっとも尾根道とは言うものの、宅地開発された住宅街が続いているだけではある。が、ともあれ尾根筋に惹かれた。
今回は、生田南郵便局交差点から続く尾根筋を東に進んでみよう、と思う。その先には生田緑地もある。そこには枡形城跡もある、と言う。ということで、今回もまた新百合ヶ丘方面から散歩を始める事にする。(水曜日, 8月 15, 2007のブログを修正)




本日のルート;小田急線・百合丘駅>第二児童公園北側>百合丘第二公園>百合丘第五公園>生田南郵便局前>高石水道局配水塔>南生田中学>長沢浄水場>専修大学入口>生田緑地>桝形山>東生田4-22>飛森(とんもり)谷戸(初山1-17の東)?初山交差点>平瀬川>平瀬川分岐・南の川筋>源流点(尻手黒川道路の北)>菅生3丁目>稗原団地入口交差点>菅生こども文化センター>平瀬川交差>東長沢交差点>五反田川交差>小田急線生田駅

百合丘駅
小田急線に乗る。たまたま到着したのが普通電車。たまにはのんびりと読書をしながら、ということでそのまま飛び乗る。新百合ヶ丘駅手前の百合丘駅に停車。急行か何かの待ち合わせであった、のだろう。時間待ちをするくらいなら、と百合丘駅で下りることにする。新百合ヶ丘の駅前とは少々様変わり。昔風の商店街、といった趣き。駅前にはゆるやかにカーブし弘法松公園へと向かうのぼり道。

生田南郵便局交差点
第二児童公園北側交差点まで上る。道はここから一旦沈み、ふたたび弘法の松交差点へと上る、よう。第二児童公園北側交差点で車道を離れ脇道を進む。百合丘第二公園に。坂道に沿った窪地にある。公園南の道を南東に進む。百合丘第五公園へと少し坂道を上る。百合丘第二団地の中を南に進むと、先回の散歩で弘法の松交差点から生田南郵便局へと進んだ尾根道に出る。
先回の散歩では気がつかなかったのだが、生田南郵便局交差点手前の坂道からの眺めが美しい。しばし丘陵下の景観を楽しむ。生田南郵便局交差点に。この尾根筋では最も標高が高い、よう。110m強ある、だろうか。先回の散歩ではこの交差点から南に下ったのだが、今回は北東へと続く尾根筋に向かう。

高石配水塔
車の数も多い。しばらく進む。高石6丁目で分岐。車は東へと折れる尾根筋に流れる。が、尾根筋は北東へも続いている。どちらに進もうと少々悩む。が、結局は北東方向に。車道ではなく宅地の中の道筋。台地下の景観などを見やりながら進むと水道局配水塔脇に。 高石配水塔。さきほど生田南郵便局あたりの標高が高いといったが、川崎市多摩区の最高標高地点は配水塔近くの生田病院の裏側。そして二番目はこの高石配水塔である、と。
高石配水塔は台地の突端。塔の周囲をぐるっと廻り込む。1年ほど前にこの地を歩いたときは、配水塔の南の崖線上は林が残っていたのだが、今では宅地開発されすっかり様変わりとなっていた。

南生田7丁目・三田4丁目
崖線に沿って東に進む。道の南の南生田2丁目は、台地下に見える。ほどなく結構大きな通りに出る。ゆったりとした下り。道路の東に南生田中学校。ここからは再びゆるやかな上り道。中学校を超え「春秋苑」の脇を抜け再び坂を下る。賑やかな道筋に。この道を北に進めば小田急線・生田駅に続く。南を見ると、道路を跨ぐ橋のようなものが見える。生田中谷第一公園へと上りチェク。なんとなく配水管のように思える。すぐ近くに長沢浄水場がある。そこへの導水管であろう。

長沢浄水場
公 園を下り、道路道に。成り行きで道の東の台地に上る。長沢浄水場。東京都と川崎市のふたつの浄水場が併設されている、と。ここの水源は相模川水系の相模湖や津久井湖。そこから導水トンネルで導かれる。その距離は32キロに及ぶ、という。東京都は

世田谷、目黒、太田区の一部に給水。川崎はここから鷺沼配水池に送られ、高津・宮前区の一部、そして中原・幸区の水道水となる。鷺沼配水池といえば、いつだったか鷺沼散歩のとき、結構立派なプール施設があったのを思い出した。

生田緑地公園
浄水場の北端を進む。しばらく進むと道の両側に大学。北は明治大学。南は専修大学。道を第六公園から専修大学記念館前あたりまで進み、そこからは専修大学入口方面辺と右に折れる。専修大学入口の前は深い緑。川崎国際生田緑地ゴルフ場。ここを東に進めば生田緑地公園。

稲毛枡形城
緑が深い。丘陵地の宅地開発が進む前に川崎市が緑地として計画・保存した、と。公園内の尾根道を進む。岡本太郎記念館とか日本民家園などもあるのだが、なんとなくパス。稲毛枡形城跡のある枡形山に進む。気持ちのいい散歩道を進むと、枡形、つまりは方形に整地された山頂に着く。中央に展望台のある公園となっている。展望台に上る。多摩丘陵の東端といった位置であり、東は多摩川により開かれた低地である。四方の見晴らし至極、いい。この枡形山に稲毛枡形城があった。
稲毛枡形城;鎌倉時代の御家人・稲毛重成の居城跡。といっても重成は麓の広福寺あたりに館を構えていたようではある。で、枡形山に城、という か砦が築かれたのは戦国時代の北条氏の時代になってから。また、規模もそれほど大きくはなかったようで、永禄12年(1569年)この地に侵攻した信玄は、この砦を無視している。その程度の陣城(砦)であった、よう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
稲毛氏。平安末期に登場した秩父氏の一派。秩父重弘の子・有重がこの多摩の地に 下り小山田氏となる。稲毛氏はその子の重成がこの地を領して稲毛を名乗った。ちなみに、畠山氏も秩父氏の一党。秩父重弘の子重能が畠山の地を領しその姓を名乗った。江戸氏も秩父氏の一派。秩父重弘の弟筋が墨田近辺に下り、地名を冠した名を興した。
枡形城について、もう少しメモ。稲毛重成が居を構える前、この地には松方重時が居を構えていた。松方氏は河越重頼の四男というから、これも関東八平氏の一党、つまりは、秩父氏の流れである。で、河越氏といえば、源義経の正妻となった百合野の出た家柄。義経との繋がり故に、頼朝によって滅ぼされることになる。で、桝形の館の松方重時も河越の出自ゆえに、身の危険を感じる。そこで重時がとった危機管理策は、頼朝の三男・島津忠久の薩摩下向に随行する、ということ。薩摩に落ちのびることにより、危機を脱した。重時がいなくなり、無人となったこの枡形城の地に移ってきたのが、稲毛三郎、ということである。
ついでのことであるが、この松形方氏って明治の元老・松方正義の祖。松方一族って、松方コレクションで有名。また、ライシャワー元駐日大使のハル夫人も松方氏の出である。それから、西下した島津氏、って、鎌倉散歩のとき、頼朝のお墓の近くに島津氏のお墓があった。どうしてなのか今ひとつわからなかったのだが、これで納得。ちなみに、その横にねむる毛利氏は頼朝の補佐役でもあった大江広元の流れ。広元の四男・季光が厚木近くの「森庄」を領したため、森>毛利と名乗るようになった、と。ともあれ、江戸「幕府」を倒した島津、毛利両氏が鎌倉「幕府」を開いた頼朝と深い関係があった、というのは何とも言えない巡り合わせ、である。寄り道が過ぎた。散歩に戻る。

とんもり谷戸
公園のベンチで先のコースを想う。これといって、次の目標が定まらない。とりあえず公園のある台地を南に下り、ぐるっと一回りして生田駅の方面に向かうことにする。公園を離れて台地を下る。公園駐車場に。南に上る坂道・車道を進む。尾根筋まで進み、車道を離れ脇道に。ゴルフ場の境に沿って台地を下る。谷戸に下りる。湿地の上に木の橋が続く。里山の雰囲気を楽しみながら遊歩道を進むと初山地区に飛森(とんもり)谷戸
。遊歩道を離れ、林に寄り道。いい雰囲気。台地下の窪地から湧き水が沁み出てくる。今までの散歩で湧水も結構見てきたが、このように、土の間から沁み出す、といったところははじめて。新鮮な印象。何度でも訪れたいところ、である。結構なる満足感。雑木林の中をしばらく歩き、遊歩道に戻る。

平瀬川
遊歩道を南に下る。道に沿って、水路が続く。ゴルフ場内の滝沢の池(初山の池)から流れ出る用水路(とんもり川)ということ、だ。台地が切れたところに比較的交通量の多い道筋が東西に走る。初山交差点を西に進む。飛森谷戸を形づくる樹枝台地の裾といった雰囲気。しばらく進むと川筋。平瀬川。おもわず川筋へと車道を離れ北に進む。源流点まで遡ることに。遊歩道を進むとすぐに分岐。どちらの川筋に進もうかと、ちょっと悩む。が、結局、西に進む川筋に。

尻手黒川道路
川筋を少し進むと比較的交通量の多い道路。地図でチェックすると、専修大学入口から下る道。浄水場通り。住宅街をどんどん進む。途中には湧水公園、といった公園もある。先にすすむと水路は台地下の溝に入り込む。これ以上は進めない。台地を上ると尻手黒川道路に出た。菅生3丁目と水沢2丁目の境目あたり、である。

平瀬川
そろそろ日が暮れる。最寄りの駅をチェック。どことも離れているが、どちらかといえば小田急の生田駅が近そう。北に3キロ程度。尻手黒川道路を離れ北に向かい、先ほどの平瀬川が「消える」ところに戻る。川筋から再び台地に上る。台地の東端には聖マリアンナ医科大学がある。また、西には潮見台浄水場がある。台地を再び下りると川筋。これって、先ほど分岐した平瀬川のもう一方の川筋。こちらが支川である、と。水源は麻生区東百合丘。生田南郵便局のある台地下、田園調布大学裏手あたりまで水路が続いている。多摩丘陵東部台地の森が養った水が、丘陵地の谷合を通り多摩川に注ぐ。今越えてきた台地は平瀬川の川筋を南北に分けている、ということだろう。

小田急線生田駅
平瀬川の支流を越え、またまた台地に取りつく。南生田6丁目と長沢2丁目の境あたりを上る。交通量の多い車道に出る。生田駅前に続く通り。長沢浄水場にのぼるとき交差した道筋だ。緩やかな坂道を下り、五反田川を渡る。五反田川は麻生区細山地区に源を発し、細山調整池をへて、小田急線に沿って東に下る。そうそう、いつかメモしたように、細山の水源近くには香林寺がある。五重塔前からの眺めは一見の価値あり。

世田谷通り、というか津久井道を右折すれば小田急線・生田駅に到着。一路家路へと。ついでのことながら、生田の由来。川の名前にもあったように、「五反田」と「上菅生」を合わしたもの、という説がある。生+田ということだ。地名のなりたちは、いつもながら、それなりも面白い。

月曜日, 8月 13, 2007

多摩丘陵散歩 そのⅡ:鶴見川・多摩川の分水界を歩く

先回の新百合ヶ丘からスタートした散歩では、真福寺川によって開かれた谷筋を歩いた。道の左右には標高70mから80m程度の丘陵が連なる。起伏に富んだあの丘陵の向こうには一体なにがあるのだろう、との想いが残る。という事で、再び新百合ヶ丘近辺を歩くことにした。
今回は散歩のコースを事前に、少々真面目にチェックする。WEBには「分水界を歩く」とか「王禅寺の丘陵を歩く」とか、思いのほか多くのコースが案内されている。「分水界」とは、河川流域の境となる尾根筋のこと。ここで言えば、鶴見川と多摩川の流域の境となる尾根筋である。また、「王禅寺の丘陵」コースも魅力的。その名前だけで大いに魅かれる。で、今回は、分水界&尾根道&丘陵歩き、ということにする。小田急線・柿生駅からスタートし、麻生川筋をのぼり、新百合ヶ丘へと進む。そこからは、尾根道に乗り、王禅寺に向かい、あとは丘陵をアップダウンしながら小田急線・柿生駅まで戻る、といった段取りとする。(月曜日, 8月 13, 2007のブルグを修正)




本日のルート;小田急線・柿生駅>麻生川>麻生川を北に>小田急線交差>隠れ谷公園>小田急線交差>檜山公園>弘法松公園>生田南郵便局前>王禅寺東一丁目>日吉の辻>王禅寺>王禅寺ふるさと公園>琴平神社>籠口の池公園>真福寺川交差>月読神社>おっ越山ふれあいの森>秋葉神社>小田急線・柿生駅

小田急線柿生駅
小田急線・柿生駅で下車。北口に出るとすぐ前に「津久井道」。江戸時代、神奈川県西部の津久井、愛甲地方の産物、とくに絹を江戸に運ぶルートとして栄えた道。東京の三軒茶屋で国道246号線(大山道)から分れ、多摩川を多摩水道橋で渡り、狛江市、川崎市多摩区、麻生区、町田市を経て津久井に進む。甲州街道の脇往還として使われた。現在、三軒茶屋から多摩川までは世田谷通り、その先、鶴川までを「津久井道」と呼ばれている。

麻生川
津久井道をすこし北に進み、麻生川脇に。川筋の両側に遊歩道が整備されている。「麻生」は「あそう」ではなく「あさお」。地名の由来は「麻」が生える地、ってこと。8世紀、朝廷への調・貢ぎ物であった麻布の原材料である麻の産地であった。南北朝時代には麻生郷という地名が記録に残っている。地名の由来といえば、駅名の「柿生」。これも「柿」故のもの。鎌倉時代に王禅寺の等海上人が見つけた「禅寺丸柿」がその名の由来である。
麻生川を柿生新橋、麻生川橋と北に進む。桜の並木が続く。桜の名所であるらしい。川筋の両サイドには丘陵地が見え隠れする。川の東の丘陵地が鶴見川と多摩川の分水界かとも思った。が、東の丘陵のその東には真福寺川が流れている。ということは、東の丘陵は未だ鶴見川流域である、ということだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

小田急多摩線
小田急多摩線下をくぐり、津久井道との交差の少し手前で川筋を離れ右に迫る台地にのぼる。「隠れ谷公園」と。「かくれだに」ではなく「かくれやと」公園。谷戸というほどの、切り込んだ谷地は実感できなかった。地形図でチェックすると、どうもこのあたりが「分水界」の尾根道の始まりのよう。

こやのさ緑道

公園を抜け、麻生小学校前の道路に出る。再び小田急線を跨ぐ橋を越え、線路の南に。山口白山公園脇の道を南に下り、麻生スポーツセンター入口交差点に。五差路。右から左から、南や東から上ってくる車、北や西から下ってくる車とで混雑している。東に進み、成行きで進むと緑道に。小田急線に平行に緑道を北東に進む。
1キロほど続くこの道は、「こやのさ緑道」と呼ばれる。宅地開発の前はこの周辺は細長い沢道。周辺の山には茅を刈るための共有地があり、その管理「小屋」があったため、「小屋のある沢」>「こやのさ」、と。新百合ヶ丘の駅前に近づくと人通りも多くなる。さらに進むと住宅街に。駅からそれほど離れてはいないのだが、閑静な住宅街となっている。少し進むと「檜山公園」に着く。

万福寺檜山公園

「檜山公園」は崖線上にある。比高差は結構ある。この崖の東は多摩川流域だろう。分水界の上に立っている、という、誰とも共有できない、であろう、故なき感慨に浸る。現在は雑木林や松が生い茂るこの公園は、かつて、この尾根筋に檜を植えた山があった、とか。開発で消えた美しい檜山を惜しんで名付けられた、ということだ。

弘法松公園

公園を離れ、尾根道を「弘法松公園」に向かう。住宅街を南東に進む道筋の南に小高い緑の丘。そこが弘法松公園であろう、とおもうのだが、道の先に展望台のような場所が見える。標高もこのあたりでは最も高いよう。ちょっと寄り道、のつもりで進む。が、結局、そこが「弘法松公園」であった。
展望台の休憩所で一休み。さすがに眺めは素晴らしい。西が鶴見川流域。東は多摩川流域。分水界に立つ、ってイメージをあらためて実感。それにしても、いい景観である。「弘法松公園」と思い込んでいた緑の丘も眼下に一望のもと。単なる思い込みではあったのだが、その堂々とした山容ゆえに惹かれ、それゆえに「弘法松」を意識するようになり、再びの歩みとなり、素晴らしき景観を堪能できたわけである。「思い込みも」それなりに意味あった、よう。
公園につつましやかな松。それが弘法の松。昭和37年に植えられたもの。伝説の弘法松は昭和31年に火難に遭い、その後、枯れてしまった、と。

弘法松の由来:弘法大師ゆかりの伝説が残る。大師がこの地に訪れる。百の谷があればお寺を建てよう、と。が、九十九の谷しかない。で、お寺のかわりに松を植えた、と。なにを言いたい伝説なのか、よくわからない。もっとも、「江海之所以能為百谷王者、以其善下之。故能為百谷王。(容納百川)」;(大河や海が百川の水を集め得るのは、つつましやかに低地にいるから。だからこそ、百川に帝王としていられるのだ)、といったフレーズもあるわけで、仏教では「百の谷」って、なんらか意味があるのかも。とはいうものの、弘法大師が関東に来たってことはないようだ。伝説は所詮伝説として楽しむべし、ということか。
弘法松はかつての都築郡と橘樹郡(たちばな)の境界にあたる峠であり、旅人にこの巨松はよき道標であった、と。都築郡は横浜市の北西部、橘樹郡は川崎市全域と横浜市の北東部。ちなみに橘樹郡って、先般、行田市の「さきたま古墳群」を歩いたときメモした、笠原直使主が朝廷に献上した4箇所の「屯倉(みやけ)」のひとつ。武蔵国造・笠原直使主が同族の小杵(おぎ)と争ったとき、助けてくれた、と言っても暗殺者を派遣し小杵を殺めた、ということなのだが、ともあれ朝廷への感謝のために献上した地域である。また、そのときに献上した久良岐の地は、現在の横浜市の東南部である。

生田南郵便局交差点
公園内を成行きで歩く。南側は崖となっている。石段を下りると弘法松交差点。交差点の西は丘陵を下る道。東の尾根道を進む。王禅寺西2丁目と百合丘3丁目の間の尾根道・車道を進む。眺めが素晴らしい。生田南郵便局交差点はすぐ近く。どうでもいいことなのだが、この郵便局が、なぜ生田南局というのか、わからない。近くに生田区とか、多摩区西生田といった地名はあるものの、ここはまだ麻生区百合丘である。
生田南郵便局交差点から北東方向に車道が続く。交通量も結構多い。標高も高くなっており、尾根道は生田のほうに続いている。どういった地形かチェックするため、交差点から少し尾根道を先に進む。道を少しはずれると崖上に。確かに生田方面に尾根道が続く。このまま進んでみたい、という思いはあるものの、本日のメーンエベント「王禅寺」は真逆の方向。生田方面への尾根道散歩は次の機会のお楽しみとして、交差点に戻る。

日吉交差点

交差点を南に下る。しばらく進むと尻手黒川道路と交差。王禅寺東1丁目交差点。交差点を越え、更に南に進むと日吉交差点。道の両側に丘陵が迫る。いままでこれでもか、って住宅街を歩いてきたので、急激なコントラスト。谷戸の雰囲気が残る。道の東に川筋。黒須田川。この辺りを源流とし、市ヶ尾高校近くで鶴見川に合流する。

王禅寺

しばらく歩くとT字路。日吉の辻。南東に折れ、少々の坂をのぼる。車の交通量も多い。そのわりに歩道がないので、ちょっと怖い。坂を上りきったところに南からの道が合流する。その上り道をちょっと進み、すぐに緑の中に続く道に移る。案内もなく、よくわからないままに進むと王禅寺の入口になっていた。あたりは一面の鬱蒼とした森である。王禅寺の寺域であったのだろう。
星宿山華厳院王禅寺。名前のどれを取っても、有り難そう。真言豊山派の古刹。はじまりは古い。考謙天皇(718-770)の勅命により、都築郡二本松で見つかった銅つくりの聖観音像をまつったのがはじまり。中世には禅・律・真言三宗兼学の道場として西の高野山とも呼ばれた、とか。王禅寺といえば、「禅寺丸柿」というほど、柿の話で名高いが、古い寺歴があったわけだ。

「禅寺丸柿」の話をまとめておく;禅寺丸柿とは王禅寺中興の祖・等海上人が見つけた甘柿。新田義貞の鎌倉攻めのとき焼失した堂宇再建のため山中で木材を探していたとき見つけた、とか。建保2年(1214年)のことである。村人に栽培を奨励し、この地で柿の栽培が盛んになった。地名に「柿生」が生まれる所以である。境内には禅寺丸柿の原木が残されている。その傍らには、王禅寺の自然を愛して度々訪れた北原白秋の句碑がある。
白秋も散歩のいたるところで出会う。最初は世田谷の砧、次に杉並の阿佐ヶ谷。江戸川の小岩でも、そして市川でも出会った。東京で23回も引越しを繰り返したわけで、当たり前といえば当たり前である、ということか。「薔薇ノ木ニ薔薇ノ花サク。 ナニゴトノ不思議ナケレド」は、白秋のフレーズであった、かと。

王禅寺ふるさと公園

王禅寺を離れて、王禅寺ふるさと公園に向かう。寺域と接しており、成行きで進めばなんとかなるだろう、と、雑木林をのんびりと歩く。石段を下り、如何にも谷戸といった雰囲気の里を進む。しばらくすると寺の入口に。それにしても、これが表門だろうか。よくわからない。ともあれ、入口を出て、寺域というか緑に沿って西に進む。すこしの上り。のぼり切ったあたりで、これも成行きで公園に入る。整地されていない雑木林。いい感じ。どんどん進む。が、結局行き止り。これまた成行きで引き返していると、大きな道にでた。道を進むとトンネル。トンネルを抜けると、そこは如何にも「公園」といった風景が広がっていた。
公園の案内をチェック。「見晴らし広場」の名前に惹かれて、北に向かう。小高い場所ではあるが、見晴らす対象は公園の景色であった。引き返すのもなんだかなあ、ということで、これも成行きで北に。なんとなく裏門通りの方面に出る。次の目的地は琴平神社。公園の南西端にある。公園に沿って南に下る。道の西に「化粧面谷公園」。これって、「化粧料(面>免)除」ってこと。江戸時代この王禅寺あたりが二代将軍秀忠夫人・お江与の方の「御化粧領地」であり、幕府から諸役負担の一部が免除されていた、から。
琴平神社
しばらく歩くと琴平神社。地元の名主・志村文之丞が、文政9年(1826)に讃岐の金刀比羅宮を勧請したもの。入口に立ち入り禁止のサイン。どうも放火で焼失したようであった。金刀比羅>金毘羅とはサンスクリット語の「クンビー ラ」の音を模したもの。ガンジス川に住むワニを神とみなし、仏教の守護神としたもの。

稲荷森稲荷社

琴平神社を離れ、神社の儀式殿の前を通る道を南西に下る。少し進み、消防団の倉庫のところを右に入る。緑地の裾を西に進む。神明神社の祠を見ながら進み、稲荷森稲荷社に。ちょっとした台地上に鎮座する。石段を上りおまいり。周囲は竹。立ち入り禁止のため、石段を下り先に進む。

籠口の池公園

道なりに進み、ジグザグ道を上る。のぼりきったところで西に進むと「籠口の池公園」に着く。こんな丘の上に何故池が、などと思ったのだが、池は公園を下ったところにあった。池も昔はこのあたり下麻生の田畑の灌漑用に使われたのであろうが、現在は雨水の調整池。

月読神社

池からの水路である暗渠に沿って下り東柿生小学校交差点に。少し北に進み、すぐ西に折れる。下麻生花鳥公園脇を進み、真福寺川に架かる不動橋を渡り「月読神社」を目指す。
神社は台地の上にある。雑木林の中の石段を登る。素朴なる祠程度かと思っていたのだが、結構立派な構え。1534年、麻生郷領主小島佐渡守によって伊勢神宮の別宮

から勧請されたもの。
今まで散歩し、結構神社で休んではいるのだが、「月読神社」に出会ったのはこれが初めて。古事記によれば、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が天照大神の次に産んだのが月読尊(つくよみのみこと)と。あとひとりの兄弟である素盞嗚尊(すさのおのみこと)と合わせ、三兄弟というか三貴子と呼ばれている。有力なる神様であったわけだ。元々は壱岐の島の海上の神様であったようだが、渡来氏族、特に秦氏の力もあって、山城の地にもたらされた、と。古代京都の神仰や、渡来文化を考える上で重要な意味を持つ神様であるよう。姉の天照が太陽・お昼、この月読がお月さん・夜をつかさどる。夜のうちに作物が育ち、暦が変わるといったアナロジーで「成長・再生」のイメージをもっているのだろう。で、この神様の普及には、出羽三山の修験道が大きな役割を果たしたよう。修験者とともに全国各地に月山神社と月読神社が広まっていた、とか。

源内谷公園神社を離れ、西に進み麻生台団地の端を北に折れる。少し進むと、雑木林に入る。源内谷公園脇を進む。右手は崖。左手は鬱蒼とした谷戸、といった地形。結構な比高差がある。尾根道を進むと左手下にお寺か神社といった屋根が見える。尾根道をはずれ南に下る坂道を少し進むと秋葉神社。
秋葉神社
紅葉の中に秋葉神社。日除けの神様。江戸時代、領主三井家が遠州秋葉神社の火伏の神を勧請したもの。『神社の由来がわかる小事典:三橋健(PHP新書)』によれば、静岡県周智郡・秋葉山に鎮座する秋葉神社が「本家」。江戸時代に秋葉山の神輿が京と江戸に向かって渡御したことがきっかけとなって秋葉神は全国に勧請され有名になった、とか。江戸の中期には東海道や信州から秋葉詣でが盛んに行われた、という。

浄慶寺

秋葉神社のすぐ隣、というか同じ敷地内に浄慶寺。j神仏習合の名残であろうmか。小ぶりではあるが落ち着いた雰囲気のお寺様。千本を越えるアジサイが植えられ、「柿生のあじさい寺」と呼ばれている、とか。


おっ越し山ふれあいの森
先ほど下った坂道を再び尾根道に戻る。ほどなく「おっ越し山ふれあいの森」。「おっ越し」って、興味を引かれる名前ではあるが、もともとは「丸山」と呼ばれていた、よう。由来のほどはよくわからない。先に進むと、すぐに下り階段。柿生中学脇に下りる。交通量の結構多い車道。ゆるやかな坂をくだり小田急線・柿生駅に進み、本日の散歩は終了。一路、家路へと急ぐ。