木曜日, 4月 07, 2011

清瀬散歩そのⅡ;秋津から安松をへて柳瀬川、そして空堀川を野塩、梅園へと辿り竹丘へ

清瀬散歩の二回目。何の手掛かりもなく清瀬の駅に折り、郷土館で得た手掛かりで清瀬を彷徨った最初の散歩。今回はそのとき歩き残した清瀬の西半分を中心に歩こうと思う。ルートを想いやるに、清瀬の最西端、東村山との境に秋津の駅がある。何となく名前に惹かれる。その北東の所沢に安松神社が見て取れる。安松神社って、ひょっとして野火止用水を開いた安松金右衛門となんらかの関係があるのだろうか、などと想像を巡らす。実際のところは金右衛門とはあまり関係なかったのだが、それは散歩の後でわかったこと。散歩のルートは秋津から安松へと進み、清瀬の西部である野塩を柳瀬川に沿って辿り、その先はその昔、芝山と呼ばれ萱や雑木、松や芝草に蔽われた林野であった梅園や竹丘へと辿ることに。この芝山は、清瀬と言えば、というところの結核やハンセン病の病院のあったところ。病気療養の地として選ばれた清々しい大気の「芝山」の地がどのようなところか、実際に歩いてみよう、とも。そして、時間があれば野火止用水あたりをかすめ清瀬駅まで進めれば、などとルーティングし散歩に出かける。



本日のルート;西武池袋線・秋津駅>秋津神社>淵の森>長源寺>安松神社>柳瀬川交差点>清瀬橋>柳瀬川・空堀川合流点>清瀬せせらぎ公園>氷川神社>東光院>上組稲荷神社>円福寺>志木街道・野塩橋>永代神社>全生園>はんせん病資料館>社会事業大学>東京病院・>竹丘・野火止用水>松山三丁目交差点>西武池袋線・清瀬駅



西武池袋線・秋津駅
秋津駅に下りる。秋津って、なんとなく惹かれる地名。どういう訳だが、「風たちぬ 秋津」と、秋津の枕詞として「風たちぬ」が想い浮かぶ。堀辰雄の『風たちぬ』の舞台が信州の結核サナトリウムで、それが秋津のサナトリウムと重なる、といったわけではないのだが、はてさて。それはそれとして、秋津の由来は、その昔、府中に国司として赴いた秋津朝臣がこの地に住んだから、とか、低湿地を意味する「アクツ」から、とかあれこれ。まさか、「秋に多くいずる」が略され、「秋津=トンボ」とされた、「トンボ」に由来するとも思えないが、結局、秋津の地名の由来ははっきりしない。ちなみに、「風たちぬ」はポールバレリーの詩・「海辺の墓」の、「風たちぬ いざ生めやも」より。



秋津神社
西武池袋線・秋津駅を離れ、成り行きで進みJR武蔵野線を跨ぎ秋津神社に。江戸の頃は、秋津の不動さまとして信仰を集めた。元禄12年(1699)造立の石造りの不動明王が祀られる、と言う。明治になり、神仏分離・廃仏毀釈の余波を受け、秋津神社としたのだろう。境内に庚申塔。宝永7年(1710)造立と言う。もとは所沢地区にあったものが、西武池袋線の建設に際しこの地に移った。

淵の森
神社の端から柳瀬川方向を見やる。豊かな林が目に入る。林に向かって小径を下る。湧水とおぼしき池、そして雑木林が美しい。林の中を彷徨う。淵の森とある。柳瀬川の両岸に拡がるこの森は、市民が自然環境を守るため活動を行っている、とのことである。会長はジブリの宮崎駿さん。秋津三郎とのペンネームをもつ宮崎さんは、このあたりに住んでいる(いた)のだろう、か。そういえば柳瀬川を狭山丘陵にむかったあたりにトトロの森と名付けられた森がいくつもあった。このあたりを散策し、トトロの構想を練った、とか。



西武線とJRの連絡線
ところで、秋津神社から淵の森に下るとき、右手に線路と、その先にトンネルが見えた。トンネルは秋津神社の真下を貫く。線路は西武池袋線から延びているよう。これは一体何だろう?地図を見るとJR武蔵野線・新秋津のほうに向かっているようだ。ちょっと気になりチェックする。
この線路は西武池袋線とJR武蔵野線の連絡路とのこと。西武線が貨物を運んでいた頃は、貨車中継をこの連絡路をつかい新秋津の駅で行われていた。西武が貨物の扱いを止めてからは、西武の車両の新車入れ替えなどをJR経由で行われている。また、西武線のネットワークから切り離されている武蔵境の西武多摩川線は、車両検査のため飯能にある西武の検収場所に行くには、この連絡路を通じて行われる。武蔵境から八王子、そして新秋津までJRの線路を進み、新秋津でこの連絡線を経由して西武線に乗り飯能へと向かうわけである。なんとなく疑問に思ったことを調べると、あれこれ面白いことが現れる。

上安松地蔵尊
淵の森より秋津神社へと戻り、西武池袋線を越えて柳瀬川の川筋へと下ってゆく。柳瀬川に架かる橋は松戸橋。橋の北詰にある案内によれば、古くより安松郷と呼ばれ下宿とか本宿の宿場名が残る「安松地区に入る戸口」故の命名である。「新編武蔵風土記稿」に上安松村の本宿、下宿についての記述がある。「此二の小名は城村に北条氏照の城ありし頃 城下の宿驛のありし故に、此名起こりしと云、 柳瀬川 南北秋津村の南の方郡界を流れて下安松村に達す、川幅五六間、冬の間は小名松戸の邊に土橋を架して往来に便す」、とある。この土橋って松戸橋のことだろう、か。
先に進むと道脇に上安松地蔵尊の小さな祠がある。お地蔵様と馬頭観音が並ぶ。祠の脇には元禄14年(1701)に建てられた庚申塔。地蔵尊を右に折れる道は引又道、と言う。引又宿と呼ばれた志木への道筋である。この安松の地は幾つもの街道が集まり、入間と多摩の境にある往来の要衝であったのだろう。引又道を東に進めば小金井街道との交差を越えて本郷道を進み、滝の城にあたるわけでもあり、滝山城や八王子城とつなぐ戦略上の重要な道筋でもあったのだろう、か。

長源寺
道なりに安松神社へと向かう。安松神社手前、台地の裾に品のいいお寺様。曹洞宗・安松山長源寺。古くは天台宗であったと伝わるが、元亀・天正年間(1570~1592)の頃、八王子城主・北条氏照の養父である大石道俊(定久)によって中興開基され、以来、曹洞宗の寺として今日に至る。天正19年(1591)には朱印10石を賜り、往昔、境内敷地1万坪と大きな寺院であった、とのことである。屋根が破風切妻造りの山門・四脚門も、いい。



安松神社
お寺の前の道を台地に向かって上り安松神社に。鳥居を抜けて参道を登ると、中腹にまた鳥居があり、さらにその先にもまた鳥居が建つ。3つの鳥居を抜けると境内に出る。境内からは柳瀬川の低地が見下ろせる。
安松神社を訪れた動機は、ひょっとしてこの神社は野火止用水を開削した安松金右衛門ゆかりの神社だろう、などと勝手に思い込んだ、ため。実際は、その思い込みとは全く関係なく、この神社は大正3年に、長源寺の山林を買い受け、この周辺にあった稲荷神社、神明神社、八雲神社、氷川神社、日枝神社を統合しできたもの。また安松という地名も小田原北条の頃に安松郷柳瀬荘などとあるように、江戸の頃の安松金右衛門より古くからあるようだ。結構、いけてる推論などと思っていたのだが、ちょっと残念。(先日、杉本苑子さんの『玉川兄弟』を読んでいると、安松家はもとは神吉との姓であり、この安松の地に移り、姓を安松とした、とあった。当初の推論とは、真逆の、安松の地故の、安松金右衛門であった。2011年8月23日)

柳瀬川交差点
少々の落胆を感じながら、下安松の地を柳瀬川へと向かう。武蔵野線を潜り道なりに進む。道脇に東海漬物の所沢工場などがある。「きゅうりのキュウちゃん」ならぬ、茨城産の白菜を使った「白菜キムチ」の工場のようである。更に東に進み小金井街道の柳瀬川交差点に。江戸道(小金井街道)は所沢から清瀬に向かって柳瀬川を渡る。川の手前のこの柳瀬川交差点で引又道は柳瀬川を渡り、一時江戸道と合わさり、清瀬市側(南側)の段丘上を進み、志木街道(引又道)として志木(引又宿)に向かう。一方、柳瀬川交差点から先、柳瀬川左岸を川沿いに進む道は、本郷道となり滝の城へと進む。

柳瀬川と空堀川の合流点
柳瀬川交差点を進み柳瀬川に架かる柳瀬橋に。橋の少し西で柳瀬川に空堀川が合わさる。本日は空堀川に沿って中里、野塩をへて梅園、竹丘といった清瀬の西部へと辿ることにする。柳瀬川の源流は狭山湖の西岸。金沢堀や大沢のあたりである。往昔は狭山丘陵を深く浸食し谷をつくっていた柳瀬川ではあるが、狭山湖建設で上流部は断ち切られ、現在では源頭部は狭山湖堰堤より始まる水路となる。丘陵に挟まれた傾斜の緩やかな谷地を下り、発達した河岸段丘の地形の拡がる清瀬で空堀川を合わせ、その先の所沢台地の東端で東川が合流し新河岸川へと下る。
一方、空堀川は源流点を狭山湖の野山北公園(武蔵村山市)辺りとし、途中東大和市で奈良橋川を合わせ、清瀬のこの地で柳瀬川に注ぐ。川の名前は「悪水堀」、「溝流」、「砂川」、「村山川」などと地域によってあれこれ。また、空堀の由来は、渇水多き故、ということだろう。そう言えば、狭山湖の北を流れる不老(としとらず)川も、冬に渇水で水が無く、故に川として年を越すことができないので、年をとることがない=不老、ということである。空堀と同類の命名であろう、か。

中里・氷川神社
清瀬橋から空堀川へと向かう。柳瀬川との合流点付近に空堀川に沿って細流がある。清瀬せせらぎ公園とある。湧水点でもあるのかと先を辿ると、結局は空堀川の少し上流、石田橋のあたりから水を取り入れているようであった。少し戻り加減で中里の氷川神社に向かう。畑の中に如何にも鎮守の森といった緑が見える。江戸の頃、元和2年(1616),この地・中里を知行地とした旗本・武蔵義太郎の創建と伝わる。武蔵氏の館跡との説もあるようだ。氷川神社の少し東にある東光院も武蔵氏によって建てられた、とのことである。

上組稲荷神社
東光院より少し南に下ると畑の真ん中にささやかな祠の緑が見える。周囲を畑で囲まれた、ちょっと印象に残るお稲荷さま。中里村上組の人たちによって祀られた。創建年などすべて不詳ではあるが、江戸初期の頃のもと、と伝わる。

円福寺
畑の中の道を成り行きで西に向かい、雑木林を踏み分け清瀬四中脇を抜け円福寺に。山門横の「○福寺」の石碑が洒落ている。東久留米の古刹・浄牧院の住職の開山と伝わる、清瀬の名刹である。開山の頃は一七世紀の全般とされる。
境内の小高い台地に鐘楼と三重塔が見える。宮大工ではなく、ごく普通の大工さんが建てた、と言う。塔の脇に薬師堂。野塩の領主であった旗本・匂坂(さきさか)氏の篤い信仰の賜、とか。
薬師堂脇の竹林に「琵琶懸けの松 由来の地」の石碑。昔、ある琵琶法師が自分の目がみえるようにと、薬師堂にこもって一心に願った。満願の日に願いが叶った法師は、嬉しさのあまり琵琶を薬師堂のそばの松に懸けたまま立ち去った、との話が伝わる。今ひとつ有り難さがよくわからないが、ともあれこういった伝説が残る。松は枯れて今は、ない。

志木街道・野塩橋
円福寺を離れ空堀川の堤に出る。少し下流に見える橋は梅坂橋。急な梅坂を下ったところに架かるこの橋は、その昔、気の進まない婚礼故に流れに身を投げたお梅さんに由来する。以来、婚礼に際してはこの橋を渡るべからず、と。
上流を見るに西武池袋線が川を渡る。西武線を越えて先に進むと、河床に水がなくなってきた。親子が河床を散歩している。空堀川の所以であろう、か。ほどなく県道40号・志木街道に架かる野塩橋に。円福寺あたりから柳瀬川の両岸を野塩と呼ぶ。その昔、塩が掘り出されたのが、その名の由来。志木街道は西に進み、武蔵野線を越えた秋津三丁目で所沢街道と交差。志木街道も交差点から先は府中街道と名前を代えて、南へと下る。

芝山
この先は何処に進もう、と地図を見る。西に進み東村山に入ったところに永代神社。その南にはハンセン病資料館。敷地も全生園とある。清瀬の芝山(現在の梅里・竹山・松山に辺り)一帯にあった療養所の一環であろうかと、訪れることに。
空堀川を東に進み、全生園に。広い敷地に平屋の病棟が並ぶ。全生園は明治42年(1909)、ハンセン病の療養所としてこの地に創立。昭和16年(1941)、国立療養所多摩全生園となる。敷地を成り行きで進み永代(ながよ)神社に。入園者の希望により建立された。敷地内にはカトリック、プロテスタントの各教会や、真言宗、日蓮宗の会館など各宗派の建物も点在する、と言う。神社にお参りを済ませ、園内を道なりに進みハンセン病資料館を訪れる。脳天気に暮らしてきた我が身には、語る言葉、なし。
ハンセン病資料館の後は、すぐ東にある元の国立療養所清瀬病院の敷地内にある外気舎を訪ねる。外気舎とは、結核治療薬がなかった時代に、外気療法を行った病舎。きれいな大気の中で、簡単な作業療法を行いながら、自然回復をはかるという治療を行なったとのことである。国立療養所清瀬病院の前身は府立東京病院。昭和6年(1931年)、周囲は雑木林と畑以外には何もない、地名の通り「芝山」であったこの地が療養所の敷地として選ばれた。東京都心に近く、鉄道の駅があり、清い大気のこの地故の選択であった、とか。
かつての国立療養所清瀬病院の敷地は、現在では国立病院機構東京病院となっている。東京病院の手前に日本社会事業大学のキャンパスがある。キャンパスを通り抜けて病院の敷地へと抜けられるかと成り行きで東へ進むが、大学と病院の間はフェンスで遮られていた。結局は元に戻り、キャンパスの南端をぐるっと迂回し、東京病院玄関前に進む。玄関前からは病院の建物を抜け、裏手の雑木林に成り行きで進むと外気舎の小屋が残っていた。外気舎の案内に傷痍軍人東京療養所、とあるのは、昭和6年(1931年)、結核の治療を目的にこの地に設置した府立東京病院が、昭和14年(1934)年に傷痍軍人東京療養所となった、ため。結核を患った軍人のサナトリウムとして開設された、と言う。現在は一棟のみ残るが、当時は72の外気舎があった、とのことである。
東京病院を離れて南に向かう。竹山の一帯には誠に多くの病院や療養所があった。国立や民間や、宗教系の病院など数多い。15ほどの病院や療養所があった、とのことである。

野火止用水
東京病院から南に下る。東京病院にあるあたりは竹丘。その北が梅園、東が松山である。元の芝山が松竹梅に変わった、ということか。竹丘団地のあたりを成り行きで下り野火止通りに。道脇に野火止用水が流れる。いつだったか野火止用水を玉川上水・小平監視所から平林寺、さらにその先の新座まで辿ったことがある。その時に野火止用水の開削の責任者であった安松金右衛門のことを知り、それ故に安松神社とか安松が安松金右衛門ゆかりの地ではないか、と今回の散歩のきっかけともなったわけである。結局は地名も神社も金右衛門とは関係なさそう、ということにはなったのだが、これ以降地図の安松を眺めては、金右衛門の地を歩かなくては、などと思い悩むこともなくなったわけで、それはそれとして、良しとすべし、ということに。

以前歩いたときの野火止用水のメモをコピー&ペースト;武蔵野のうちでも野火止台地は高燥な土地で水利には恵まれていなかった。川越藩主・老中松平伊豆守信綱は川越に入府以来、領内の水田を灌漑する一方、原野のままであった台地開発に着手。承応2年(1653年)、野火止台地に農家55戸を入植させて開拓にあたらせた。しかし、関東ローム層の乾燥した台地は飲料水さえ得られなく開拓農民は困窮の極みとなっていた。
承応3年(1654年)、松平伊豆守信綱は玉川上水の完成に尽力。その功労としての加禄行賞を辞退し、かわりに、玉川上水の水を一升桝口の水量で、つまりは、玉川上水の3割の分水許可を得ることにした。これが野火止用水となる。
松平信綱は家臣・安松金右衛門に命じ、金3000両を与え、承応4年・明暦元年(1655年)2月10日に開削を開始。約40日後の3月20日頃には完成したと、いう。とはいうものの、野火止用水は玉川上水のように西から東に勾配を取って一直線に切り落としたものではなく、武蔵野を斜めに走ることになる。ために起伏が多く、深度も一定せず、浅いところは「水喰土」の名に残るように、流水が皆吸い取られ、野火止に水が達するまで3年間も要した、とも言われている。
野火止用水は当初、小平市小川町で分水され、東大和・東村山・東久留米・清瀬、埼玉県の新座市を経て志木市の新河岸川までの25キロを開削。のちに「いろは48の樋」をかけて新河岸川を渡し、志木市宗岡の水田をも潤した、と。寛文3年(1663年)、岩槻の平林寺を野火止に移すと、ここにも平林寺掘と呼ばれる用水掘を通した。
野火止用水の幹線水路は本流を含めて4流。末端は樹枝状に分かれている。支流は通称、「菅沢・北野堀」、「平林寺堀」「陣屋堀」と呼ばれている。用水敷はおおむね四間(7.2m)、水路敷2間を中にしてその両側に1間の土あげ敷をもっていた。
水路は高いところを選んで堀りつながれ、屋敷内に引水したり、畑地への灌漑および沿線の乾燥化防止に大きな役割を果たした。実際、この用水が開通した明暦の頃はこの野火止用水沿いには55戸の農民が居住していたが、明治初期には1500戸がこの用水を飲料水にしていた、と。野火止用水は、野火止新田開発に貢献した伊豆守の功を称え、伊豆殿堀とも呼ばれる。
野火止用水は昭和37・8年頃までは付近の人たちの生活水として利用されていたが、急激な都市化の影響により、水は次第に汚濁。昭和49年から東京都と埼玉県新座市で復元・清流復活事業に着手し本流と平林寺堀の一部を復元した。

西武池袋線・清瀬駅
用水に沿って松山三丁目交差点まで進み、交差点で野火止用水を離れ斜めに切り上がり清瀬駅に向かい、本日の散歩を終える。二回にわけて清瀬を歩いた。


清瀬散歩 そのⅠ;清戸から下宿、そして柳瀬川を中里に

清瀬を歩くことにした。練馬を歩いたとき、折に触れて清戸道に出合った。文京区の江戸川橋から始め、目白通りを付かず離れず清瀬の清戸村へと結ぶ道である。清戸村にある尾張藩の鷹場を結ぶ道、と言う。もっとも、尾張藩の鷹場は広大なもので、三鷹あたりから青梅までをカバーしたようであり、正確には中清戸村にあった尾張藩の鷹場御殿(休息所)への御成道であった、と言うところだろう、か。それはともあれ、清瀬を訪れ往昔の鷹場の名残など感じたいと思ったわけである。
それにしても、清瀬にかかるフックはなにも、ない。どこから散歩を始めればいいものか、少々戸惑う。地図を眺める。と、駅近くに清瀬市郷土博物館がある。まずは清瀬市郷土博物館に出向き、あれこれ資料を眺め散歩のルートを決める。資料が手に入らなければ、清瀬の北端、所沢との境を成す柳瀬川を下るか、上るか、その場の成り行きで決めようと、例によっての、行き当たりばったりの散歩をはじめることにした。



本日のルート;西武池袋線・清瀬駅>志木街道・上清戸一丁目交差点>清瀬市郷土博物館>志木街道・日枝神社水天宮>全龍寺>長命寺>下清戸・長源寺>下宿・上宮稲荷神社>関越自動車道>松宮稲荷神社>武蔵野線>柳瀬川>円通寺>八幡神社>瀧の城址公園>城山神社>清瀬金山緑地公園>中里富士塚>小金井街道>西武池袋線・清瀬駅

西武池袋線・清瀬駅
清瀬駅で下車。誠に、誠に初めての清瀬ではある。駅前は再開発され、大きなショッピングセンターが建つ。現在の人口は32,726戸・72,984名(平成23年)。明治33年(1901)年の記録では家屋420戸・3,125名とある。大正13年(1924)の武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)清瀬駅の開業と、戦後のベッドタウン化故の発展ではあろう。清瀬の名称が公式に使われたのは明治22年(1889)。近隣の六つの村が合併してできた。六つの村は上清戸村・中清戸村・下清戸村の三清戸と、柳瀬川沿いの清戸下宿村・中里村・野塩村。名前の由来は、三清戸の「清」と柳瀬川の「瀬」を合わせた、との説がある。

清瀬市郷土博物館
駅から一直線に北に進む通りを進む。ほどなく上清戸一丁目交差点で志木街道とクロスする。志木街道をやり過ごし少し進み、左へと折れ清瀬市郷土博物館に。周辺の畑やけやき並木の道筋は、なかなか趣がある。館内を巡り、清瀬のあれこれをスキミング&スキャニング。「清瀬市ガイドマップ」と「清瀬の史跡散歩」を買い求め、散歩のコースのルーティングを行うに、見どころの基本はどうも、志木街道と柳瀬川のようだ。街道に沿って開かれた村と水に恵まれた川沿いの村に神社仏閣が点在する。道すがらの、田舎めいた稲荷の祠もちょっと気になる。ということで、本日の散歩のコースは、志木街道を東へと進み、成り行きで柳瀬川へと向かい、後は時間の許す限り川沿いを西へと進み、清瀬駅か秋津の駅に、と想い描く。

志木街道
清瀬市郷土博物館を離れ、志木街道に向かう。上清戸一丁目交差点あたりを成り行きで志木街道に。けやきの並木や屋敷林が目にとまる。屋敷林は立川・砂川新田あたりの五日市街道を歩いた時にはじめて意識するようになったのだが、なかなか、いい。
けやきの並木の美しい志木街道を進む。志木街道は秋津から志木を結ぶもの。秋津三丁目交差点の少し西、府中街道と所沢街道が合わさる秋津四ッ辻よりはじまり、江戸の頃、引又宿と呼ばれた志木に続く。引又宿は柳瀬川から新河岸川を経て江戸を結ぶ河岸があり、当時の船運の要衝であった。当初青梅街道を運んだ青梅・成木の石灰も、大量運搬の可能な水運故に、引又河岸経由で江戸に運ばれるようになった、と言う。
ちなみに、秋津四ッ辻で合わさる府中街道は川崎からこの地まで上り、合流点から先は志木街道と名前を変える。府中街道の道筋は古代の東山道であり、鎌倉期の鎌倉街道上ッ道に付かず離れず、といった案配で進む。一方の所沢街道は、田無散歩で出合った北原交差点から北西に進みこの地に至る。秋津三丁目交差点でクランク状になっているのは新道付け替え故。本来の所沢街道は交差点の少し西を弓状に進む小径とのことである。

日枝神社・水天宮
上清戸を東に進み水天宮交差点の北に日枝神社。日枝神社の境内には水天宮、御嶽神社、八雲神社、琴平神社が祀られる。社伝によれば、日枝神社の草創は古く、天正7年(1579)の頃。元は山王大権現と称されたが、明治の神仏分離令により日枝神社となった。上・中・下清戸および元町、松山、梅園、竹丘の総鎮守である。
境内には三猿の石灯籠一対が残る。案内によれば;「二基の石燈籠は参道の両側に向い合って建てられ、竿は六角柱でそれぞれに「見ざる」「聞かざる」「物言わざる」の三猿が彫刻されている。日枝神社は山王様と呼ばれて人々に親しまれ、猿は山王様のお使いと信じられていた。燈籠の竿部に「山王開闢天正七天(1579年)中嶋筑後守信尚開之」と彫られ、さらに寛文四年造立の燈籠には山崎傳七良以下、下清戸村11名が、又宝永七年造立のものには中清戸村小寺宇佐衛門尉重政の名が刻まれており、中世末から近世にかけて、清戸の開発を知る貴重な手がかりとなっている」、とある。現在は並んで建って射るが、元々は境内参道に向かい合って建っていたのだろう。中嶋筑後守信尚はどのような武将か不明ではあるが、年代からみて小田原北条の武将だろう、か。江戸が開幕前に、このあたりは既に街道に沿って鍬が入れられていたのだろう。
境内にある水天宮は明治の頃に建てられたもの。元は九州・久留米にあったものが、久留米藩有馬公の屋敷神(慶応大学三田キャンパスの近く)として江戸で有名になり、明治になり藩がなくなった時に、現在の日本橋蛎殻町に移った。子育て・安産の神様として信仰を集める。
日枝神社は、明治に日吉山王権現が日枝神社となったものが多い。「**神社」って呼び方はすべて明治になってから。それ以前は「日吉山王権現の社(やしろ)」のように呼ばれていた(『東京の街は骨だらけ』鈴木理生:筑摩文庫)。この日枝神社も同様である。日吉山王権現という名称は、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた、ということ。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということ。本地垂迹というか神仏習合というか、仏教普及の日本的やり方、とも。

全龍寺
日枝神社を離れ、志木街道を少し東に進むと道脇に地蔵の祠。安産子育守護地蔵尊とある。お参りを済ませ祠の脇の道を下ると全龍寺。真新しい檀徒会館前を過ごし本堂に。開基は慶長元年(1596)の頃。江戸時代には15石の朱印寺であった、と言うから格を誇っていたのであろう。実際戦前には中清戸の三分の一はこの全龍寺の所有地。戦後農地解放により20町あまりの土地を失うも、現在でも3000坪の境内地をもつ。
この寺は武蔵野三十三観音の札所六番であり、一葉観音が祀られる。通常一葉観音さまって、木(蓮)の葉の舟に乗る。中国に渡航した道元上人を海上の嵐より救ったという伝説故のフォルムだろう、か。道元はこの観音さまを念持仏とした、とのことでもあり、どうも、曹洞宗のオリジナルの観音さまのようだ。曹洞宗の本山永平寺の池にも浮かんでいる、と言う。道中の安全を祈る人々の信仰を集めた。
ちなみに武蔵野三十三観音。昭和15年開創の観音霊場であり比較的新しい。一部西武新宿線沿線などもあるものの、ほとんどが西武池袋線沿線であり、西武鉄道の商業戦略などかと思ったのだが、実際は大きく異なっていた。戦中の殺伐とした世相のなか、観音様の大慈悲により人々の救済を願った郷土史家の柴田常恵氏の発願、呼びかけにより実現された、とのことである。


長命寺
道を更に東に進み、下清戸に長命寺。北条家の家紋である「三鱗(うろこ)」をもつこのお寺さまは、小田原北条家の武将・川越城主大道寺駿河守政繁の係累であるお坊様の手により天正18年(1550)に建てられる。いい構えの山門を入ると本堂、薬師堂、鐘楼がある。薬師堂におさめられる薬師如来は室町次代の作。もとは、志木街道の向かいにあり清瀬薬師と呼ばれていたものを、境内に移したもの。
大道寺駿河守政繁は、北条家の「御由緒家」と呼ばれる北条家累代の宿老の家柄として川越の城を預かる。秀吉の北条攻めの折りには、前田・上杉勢と碓氷峠で激しく戦うも、戦いに敗れるや降伏し、一転、前田・上杉勢の先鋒を勤め北条方の行田の忍城や八王子城を攻める。小田原降伏後には、秀吉から、その不忠故に死を賜った、とか。
本堂の前には誠に立派な一対の宝塔が並ぶ。徳川将軍家の正室の墓碑である。また、境内には15基の石灯籠もある。徳川将軍家の法名や正室、側室の法名が記されている、とのことである。はてさて、何故に清瀬のこの地に徳川将軍家ゆかりの宝塔(墓碑)や石灯籠があるのだろう。清戸に尾張徳川家の鷹狩御殿があった、からなのだろうか。はたまた、北条家ゆかりの寺故に、なんらかの縁があるのだろうか、などと、あれこれ妄想を巡らす。で、気になったのでチェックすると、なかなか面白い歴史が現れてきた。
ことのはじめは昭和20年の東京大空襲。徳川将軍家の霊廟(墓所)がある増上寺の大半が灰燼に帰した。廃墟となった霊廟跡は昭和33年(1958)に西武鉄道に売却され、東京プリンスホテルや東京プリンスホテルパークタワーとなる。そして廃墟に散在していた将軍家ゆかりの宝塔や石灯籠は、西武鉄道の手により狭山の不動寺に集められる。一部は狭山不動寺に再建されるも大半は野ざらし。その敷地も西武球場とするにあたり、宝塔や石灯籠の引き受け手を求めたようである。清瀬の長命寺はその時に狭山不動寺から移したものではないだろう、か。何気なく抱いた疑問をちょっと深掘りすると、あれこれと歴史が現れてくる。まことに散歩は面白い。 寺の前の清瀬薬師跡に。いくつかの石材が散在するが、これって徳川家ゆかりの宝塔や石灯籠の一部だろうか。ばらばらの古石材となった宝塔や石灯籠を狭山不動寺より引き取り、組み立て直し復元した、と聞く。
志木街道を更に東へ進み下清戸交差点に。清戸って、日本武尊が東征のみぎり、この地を訪れ、「清き土なり」と言ったのが、地名の由来とか。また、東隣・新座の菅沢村への入り口故の地名、とも。「清」は「すが>菅」との訓読み故に、菅(すが)への戸口、とのことである。地名の由来は諸説、定まること成し。
日枝神社の石灯籠の銘にあったように、清戸の村は小田原北条の支配の頃には、既に畑に鍬が入れられていたようである。文政9年(1826)の『武蔵風土記稿』には上清戸村38戸、中清戸村56戸、下清戸村62戸となっていた(『多摩の歴史2;武蔵野郷土史研究会(有峰書店)』)。

上宮稲荷神社
慶長年代に創建の長源寺を越えたところで北に折れ、清戸を離れ下宿地区に向かう。下宿は柳瀬川に近く水に恵まれており、清戸の畑作と異なり水田が開けていた、という。地名の由来は清戸の台地の下など諸説ある。畑と宅地が混在する道筋を進む。道脇には稲荷の小祠が佇む。清瀬にある21の社のうち11の社がお稲荷さま。個人の屋敷神である一家稲荷や、一族が講をつくり稲荷をまつるものとがある、と言う。この小祠はさて、どちらのものであろう。
先に進み、道の右手に雑木林が見える。林の中の建物は大林組の技術研究所とあった。下清戸を離れ、旭が丘地区に入り旭が丘交番交差点に。道はこのあたりから柳瀬川に向かって下り気味、となる。交差点右手の緑の中に上宮稲荷神社。下宿地区では上組と下組にわかれ稲荷講が組織されたとのこと。この社は上組の稲荷講によって寛永元年(1624)に創建された。 お参りを済ませ、次は下組の稲荷講がつくった松宮稲荷神社へ向かう。このあたりの地区・旭が丘は、往古、下宿とともに清戸下宿と呼ばれていたが、松が丘団地建設を契機として下宿から分かれ旭が丘となった。大規模団地で人口が一挙に増えたことが「分離」の一因だろう、か。

松宮稲荷神社
上宮稲荷前の道を東に進み、関越自動車道を潜り、武蔵野線の手前にある下宿三交差点で南に折れ松宮稲荷神社に向かう。緑豊かな小高い丘に鎮座する。下宿の下組の稲荷講がつくった稲荷の社である。なかなか、いい趣の社。松宮の由来ははっきりしない。が、往昔、この社には十間四方(約18m)に根を張った「円座の松」と呼ばれる松の大木があったようで、それが松宮の名前の由来だろう。新編武蔵風土記にも記されるこの松の大木は、立ち枯れのため大正時代に伐採された。

柳瀬川
松宮稲荷神社を離れ、柳瀬川へと向かう。武蔵野線の高架下を抜け、先に進むと清瀬水再生センター。東村山市・東大和市・清瀬市・東久留米市・西東京市の大部分、武蔵野市・小金井市・小平市・武蔵村山市の一部区域の雨水と汚水を別々の下水道管で集め、雨水は川へ放流し、汚水を処理する。関越道の近くは運動場となっており、運動場に沿ってぐるっと迂回し、柳瀬川の河岸に出る。
柳瀬川の対岸は比高差10m程度の崖線となっている。発達した河岸段丘である。柳瀬川により開削された、というより、太古の多摩川の流れが開いた河岸段丘とのことである。柳瀬川の崖線の向こうの台地は所沢台地。カシミール3Dで地形をチェックすると、このあたりの武蔵野台地は黒目川、柳瀬川、その北の東川(あずまかわ)によって開析された櫛形の開析谷が、平地に合わさる台地端ともなっている。段丘崖の雑木林、河畔林はなかなか、いい。 柳瀬川を西に向かう。柳瀬川の源流は狭山湖の西岸。金沢堀や大沢のあたりである。往昔は狭山丘陵を深く浸食し谷をつくっていたのではろうが、現在は狭山湖建設で上流部は断ち切られ、源頭部は現在ででは、狭山湖堰堤より始まる。丘陵に挟まれた傾斜の緩やかな谷地形を抜けると、清瀬あたりで発達した河岸段丘の地形となる。柳瀬川は清瀬で空堀川を合わせ、その先で所沢台地を刻む東川が合わさるが、東川が合流するまでは北に所沢台地の下末吉面、南に一段低い武蔵野面があり、これらを削り込んだ面のさらに一段低い侵食面を河川が流れている。繰り返しになるが、発達した河岸段丘はなかなか、いい。柳瀬川は志木で新河岸川に合流する。
関越道を潜り先に進む。対岸には滝の城址があるのだが、如何せん橋がない。武蔵野線を越え更に西に進み城前橋に。地図を見ると橋のそばに古い歴史をもつ円通寺や八幡様がある。滝の城を訪れる前にちょっと立ち寄り。

円通寺
このお寺様は暦応3年(1340)、というから南北朝の頃の草創と伝わる古刹。寺伝によれば、新田義貞の弟である義助が鎌倉幕府滅亡後、鎌倉より観世音菩薩立像をこの地に奉持した、と。念持仏としたのだろう、か。お堂を前に下馬させざる者、必ず落馬したため、「馬(駒)止めの観音」と称された、とのことである。山門、庫裡、鐘楼といった構えもいいのだが、中でも長屋門が印象に残る。寄棟瓦葺き(元はかや葺き)、白の大壁、板腰羽目の姿はなかなか、いい。ここは専門道場であった、とか。寺脇の天満天神宮、そのそばにある中世草創の下宿・八幡神社にお参りし、柳瀬川を渡り滝の城に向かう。

滝の城

城前橋を渡る。こちらは所沢市域。橋の北詰めから右に分岐する土の側道に入り、武蔵野線の高架下をくぐり坂道を進む。小さな城山神社の鳥居をくぐり急な階段を上り神社の本殿に。本殿前の平坦地が滝の城本丸跡。本丸の南側は崖面となっており、柳瀬川を挟んで清瀬が見渡せる。比高差20mといったところだろう。
滝の城は室町から戦国時代にかけて、木曾義仲の後裔と称した大石氏の築城と伝わる。加住丘陵の滝山城を本城とした大石定重がこの地に築いた支城である、とも。大石氏は、関東管領上杉家の重臣として小田原北条に備えるも、定重の次の定久の頃、上杉管領勢は川越夜戦に完敗。主家上杉家も上野に逃れるにおよび、大石定久は小田原北条と和を結ぶ。北条氏康の次男氏照を女婿に迎え、滝山城を譲り自らは五日市の戸倉城に隠棲した。上杉管領家滅亡後も岩槻城を拠点に北条と抗う太田資正に対しては、最前線の境の城として重要な拠点となったようだが、その太田氏も北条に下るにおよび、滝の城は川越(河越)城、岩槻城、江戸城との継ぎの城として機能した。滝の城は北条家の関東北進策を進める拠点、清戸の番所として整備された。城に残る遺構はこの時代につくられたようである。
城を歩いて気になったことがある。南面は崖線であり、天然の要害ではあろうが、北面は所沢台地が続くわけで、北からの備えは今ひとつ、といった感がある。もとより、同時の台地上は原野が続いたのではあろうが、それにしても所沢から引又(志木)へ続く道はあったろうし、人が通れないわけでもなさそうである。東川の谷筋から所沢台地に上り、北よりこの城を攻めれば攻略間違いなし、などと思い、あれこれ資料を見ていると、秀吉の小田原征伐の折には浅野長政率いる軍勢は北から攻め入り城を落とした、と。
新編武蔵国風土記稿には、「不慮に北の方、大手の前より襲い来たりしかば、按に相違して暫時に落城せり」とあった。それはそうだろう、と思う。
本丸の社殿を抜け、裏手にまわり二の丸や三の丸の曲輪や土塁、堀、見晴台とおぼしき高みなどを眺めながら堀割、といっても車の通る坂道ではあるのだが、その坂道を下り柳瀬川に戻る。

中里の富士塚
柳瀬川の土手道を西に向かう。発達した河岸段丘の景観はいつまでも見飽きることは、ない。進行方向右手の崖の林、河畔林、進むに連れ左手にも柳瀬川崖線緑地といった崖線も現れる。右手に清瀬金山緑地公園をみながら、金山橋あたりで川筋から離れ中里の富士塚に向かう。金山公園入口から舌状に突き出た低地上の崖道を直進するに、崖下の発達した段丘面の景観は誠に、いい。台地下、柳瀬川沿いの低地に立ち並ぶ宅地を見やりながら先に進み、道を成り行きで南に折れる。先に進むと住宅に囲まれた富士塚があった。文化2年(1805)、中里に冨士講が結成され、文政8年(1825)にこの富士塚が造られた。
富士講は霊峰富士への信仰のための団体。御師のガイドで富士への参拝の旅にでかける。富士塚は富士に似せた塚をつくり、富士に見なしてお参りをする。富士信仰のはじまりは江戸の初期、長谷川角行による。その60年後、享保年間(17世紀全般)になって富士講は、角行の後継者ふたりによって発展する。ひとりは直系・村上光清。組織を強化し浅間神社新築などをおこなう。もうひとりは直系・旺心(がんしん)の弟子である食行身禄。食行身禄は村上光清と異なり孤高の修行を続け、富士に入定(即身成仏)。この入定が契機となり富士講が飛躍的に発展することになる。
食行身禄の入定の3年後、弟子の高田藤四郎は江戸に「身禄同行」という講社をつくる。これが富士講のはじめ。安永8年(1779)には富士塚を発願し高田富士(新宿区西早稲田の水稲荷神社境内)を完成。これが身禄富士塚のはじまり、と伝わる。その後も講は拡大し、文化・文政の頃には「江戸八百八講」と呼ばれるほどの繁栄を迎える。食行身禄の話は『富士に死す:新田次郎著』に詳しい。

清瀬駅
日も暮れた。本日の散歩はこれで終了。富士塚を離れて清瀬駅に向う。地図を見るに、駅に向かって小金井街道が南北に進む。小金井街道は小金井から田無・清瀬を抜け、柳瀬川を清瀬橋で渡り所沢に至る。江戸道とも呼ばれる。上でメモしたように、所沢街道も江戸道と呼ばれる。江戸に向かう道はすべからず江戸道、ということだろう、か。
家康の江戸入府にともない、徳川恩顧の家臣がこの地を知行地とした。清戸村は代官・松木市右衛門、下宿村は石川播磨守、中里村は武蔵八郎右衛門、野塩村は向坂与八郎といった旗本である。江戸初期の頃、未だ江戸の町が整備されていない頃、これら旗本は知行地から江戸へと通勤した、とも言う。通勤路として江戸道が整備されていったのだろう、か。また、青梅の石灰を江戸へ運ぶ道としても「江戸道」が整備されていったのだろう、か。と、あれこれ想い、妄想を巡らせながら清瀬駅に向かい一路家路へと。

所沢散歩そのⅡ;狭山湖畔から柳瀬川を秋津まで

先日、清瀬を歩いたとき志木街道脇、清戸の長命寺に誠に立派な石灯籠があった。芝増上寺にあった徳川将軍家ゆかりのもの、と言う。その経緯を調べるに、芝増上寺が東京大空襲で灰燼に帰し、跡地を西武が買収。その地にホテルを建てるに際し、散在していた石灯籠や宝塔の一部を狭山湖畔・狭山不動尊に集めるも大半は空き地に野ざらし。その空き地も西武球場と化するに及び、希望者に分けた、という。長命寺の石灯籠も、かくのごとき経緯を経て境内に並んでいたのだろう。
興味深い清瀬の歴史と同じく、その地形も印象に残った。柳瀬川の発達した河岸段丘が、それ。その柳瀬川の源頭部は狭山湖の西部、金沢堀にあるも、狭山湖建設に際し、途中が断ち切られ、現在は狭山湖の堰堤が源頭部となっている。
狭山湖近辺は数回に渡り歩いている。が、狭山不動尊は見落としていた。また、狭山散歩の折々、柳瀬川をかすってはいるのだが、狭山湖堰堤部の柳瀬川源頭部を意識して眺めたこともない。ということで、今回の散歩のコースは、最初に狭山湖畔の狭山不動尊を訪ね、徳川将軍家ゆかりの石灯籠や宝塔を見る、次いで柳瀬川の堰堤・源頭部を確認し、そこからは柳瀬川を清瀬まで下ろう、と。清瀬あたりの発達した河岸段丘とは異なり、上流部の狭山丘陵を切り開いた景観がどういったものか、左右を見渡しながら川筋を下ろう、と思う。



本日のルート;西武山口線・西武球場前>狭山不動尊>勝楽寺>狭山湖堰堤>柳瀬川源頭部>中氷川神社>山口城址>下山口駅入口交差点>関地蔵尊>永源寺>じゅうにん坂>長久寺>勢揃橋>二瀬橋>梅岩寺>JR武蔵野線・秋津駅

西武山口線・西武球場前
西武線を乗り継ぎ東村山駅から西武園線で西武園に。そこから歩いて多摩湖線の西武遊園地駅に向かう。はじめから多摩湖線に乗ればよかったのだが、行き当たりばったり故の、後の祭りではある。ともあれ、西武遊園地から山口線に乗り換え西武球場前に。

狭山不動尊
目的の狭山不動尊は駅の通りを隔てた向こう側。エントランスには勅額門。芝増上寺にあった台徳院こと、二代将軍秀忠の霊廟にあった門である。東京大空襲で残った数少ない徳川家ゆかりの建物のひとつ。勅額門とは天皇直筆の将軍諡号(法名)の額を掲げた門のことである。門の脇には御神木。この銀杏の大木は太田道灌が築いた江戸城址にあったもの、と言う。 石段を上ると御成門が迎える。これも台徳院霊廟にあったもの。飛天の彫刻があることから飛天門とも呼ばれる。都営三田線御成門駅の駅名の由来にもなっている門である。勅額門も御成門も共に重要文化財に指定されている。
参道を上ると総門。長州藩主毛利家の江戸屋敷にあったものを移した。この門は華美でなく、素朴でしかも力強い。いかにも武家屋敷といった、印象に残る門である。誠に、誠に、いい。この門に限らず、この不動院には徳川将軍家ゆかりの遺稿だけでなく、全国各地の由緒ある建物も文化財保存の目的でこの寺に移されている。

参道を進み本堂に。もとは東本願寺から移築した堂宇があったとのことであるが、不審火にて焼け落ち、現在は鉄筋の建物となっている。その本堂を取り囲むように幾多の石灯籠が並ぶ。銘を見るに、増上寺とある。全国の諸侯より徳川将軍家、そしてその正室や側室に献上され、霊廟や参道に立ち並んだものである。
本堂右脇をすすむと第一多宝塔。大阪府高槻市畠山神社から移築したもの。その脇には桂昌院を供養する銅製の宝塔。桂昌院とは七代将軍家継の生母である。 本堂の裏手にも無造作に石灯籠や常滑焼甕棺が並ぶ。将軍の正室や側室のもと、と言う。また、本堂裏の低地には丁子門。二代将軍秀忠の正室崇源院お江与の方の霊牌所にあったもの。本堂左手脇には滋賀県彦根市の清涼寺より移した弁天堂がある。
本堂脇、左手の参道を上ると第二多宝塔。兵庫県東條町天神の椅鹿寺から移築。室町時代中期建立のものである。その右手には大黒堂。柿本人麿呂のゆかりの地、奈良県極楽寺に建立された人麿呂の歌塚堂を移築したもの。

その裏手の囲いの中にはおびただしい数の青銅製唐金灯籠群。増上寺の各将軍霊廟に諸侯がこぞって奉納したものであろう。その数に少々圧倒される。灯籠群に四方を囲まれ、港区麻布より移築された井上馨邸の羅漢堂が佇む。 灯籠群脇、道の両側に並ぶ石灯籠の中を先に進めば桜井門。奈良県十津川の桜井寺の山門を移築したものである。桜井門を抜け狭山湖堰堤へと向かう。

勝楽寺
車の往来を気にしながら先に進む。狭山湖の堰堤手前に勝楽寺という地名が残る。この地名は狭山湖建設で湖底に沈んだ村の名前。狭山湖建設前、このあたり一帯は山口村大字勝楽寺村と大字上山口よりなっていた。狭山丘陵の谷奥のこれらの村は所沢から青梅、八王子へと通じる道筋。
農業や所沢絣・飛白(かすり)の生産に従事していた戸数282、1720名の住民は、」狭山湖建設にともない、この地を去った。

狭山湖堰堤
狭山湖堰堤に。これで何度目だろう、か。西の狭山湖を眺め、東の丘陵を切り開いた谷筋を見下ろす。谷筋の景観は何度か眺めたのだが、柳瀬川により開析した谷筋、といったアテンションで眺めやると、それなりに今までとは違った景観として見えるような、見えないような。 それはともあれ、この狭山湖。正式には山口貯水池と呼ばれる。狭山丘陵の柳瀬川の浸食谷を利用し昭和9年に竣工。既に工事のはじまっていた多摩湖(村山貯水池)だけでは、関東大震災後の東京の復興と人口増加による水需要をまかなえなかった、ため。
多摩湖もそうだが、狭山湖への水は多摩川から導かれる。小作で取水され、山口線という地下導管で狭山湖まで送られる。一方、多摩湖への導水は羽村で取水され、羽村・村山線という地下導管によって多摩湖に送られる。
狭山湖(山口貯水池)に貯められた水は、ふたつの取水塔をとおして浄水場と多摩湖に送られることになる。第一取水塔からは村山・境線という送水管で東村山浄水場と境浄水場(武蔵境)に送られ、第二取水塔で取られた原水は多摩湖に供給される。また、多摩湖(村山貯水池)からは第一村山線と第二村山線をとおして東村山浄水場と境浄水場に送られ、バックアップ用として東村山浄水場経由で朝霞浄水場と三園浄水場(板橋区)にも送水されることもある、と言う。

狭山丘陵は多摩川の扇状地にぽつんと残る丘陵地である。狭山って、「小池が、流れる上流の水をため、丘陵が取りまくところ」の意。古代には狭い谷あいの水を溜め、農業用水や上水へと活用したこの狭山丘陵ではあるが、現代ではその狭い谷あいに多摩川の水を導き水源とし、都下に上水を供給している。

柳瀬川源頭部
堰堤の東スロープを柳瀬川の水路溝とおぼしき場所を目安に下る。流路が堰堤から繋がっている。流路に沿って下ると、水路が合わさる。水路の上流にはトンネル。どうも、こちらの方が本流のようである。堰堤の余水吐より通じるトンネルの出口となっている。大雨のときの放水路ともなっている、と。
合流部のすぐ下流に昔ながらの橋が架かる。そこから先、次のマーキング地点、県道55号の高橋交差点まで川筋に道はない。県道55号は埼玉県所沢から狭山湖と多摩湖を分かつ台地を進み、ら東京都武蔵村山を経て立川に至る。
成り行きで先に進み堰堤から高橋交差点に延びる道に出る。道の北側に清照寺、堀口天満天神社、狭山丘陵いきものふれあいの里、虫たちの森、トトロの森3号地が続く。いつだったかこのあたりを彷徨ったことが懐かしい。

中氷川神社
道を進み県道55号・高橋交差点に。交差点から少し南に下り、柳瀬川の「姿」をチェック。地図を見るに、ここから先も流路に沿って道はない。県道55号に戻り、中氷川神社に立ち寄ることにする。
道脇の火の見櫓などを見ながら中氷川神社に。この神社、武蔵三氷川のひとつ。あとふたつは、大宮の武蔵一の宮・氷川神社と奥多摩の奥氷川神社。この三社はほぼ一直線上に並んでいる、と。






先日奥多摩を歩いた時、奥氷川神社を訪れた。なんとなくさっぱりとしたお宮さま。武蔵の国造である出雲臣伊佐知直(いさちのあたい)が、故郷出雲で祖神をまつる地と似ている、と言うことで、武蔵で最初の氷川神社を建てたというのが、その奥氷川神社であった、とか。
その後、中氷川、大宮の氷川神社を建てていった、との説もあるが、諸説入り交 じり、定説なし。氷川はもとは、出雲の簸川から。ほとんどが武蔵の国にある、関東ローカルなお宮さま。その数、関東一円で220社。それ以外は北海道にひとつある、くらい。武蔵の国を開いたのが出雲族との説も納得できる。

山口城址
中氷川神社を離れ、山口城址交差点に。交差点脇、スーパーの西隣に山口城址の案内。この城、と言うか砦、と言うか館は平安末期、武蔵村山党の山口氏によって築かれたもの。南北朝の14世紀中頃には、新田義宗挙兵に呼応した武蔵平一揆の河越氏に与力。鎌倉公方足利氏満と戦うが、関東管領・上杉憲顕に破れ落城。その20年後の14世紀末、南朝方として再び足利氏満と再び戦うも敗北。その後、山口氏は上杉陣営、武蔵守護代・大石氏の傘下となり、城も狭山湖北麓・勝楽寺村に根小屋城を築き、この地を離れる。上杉氏が衰えた後は小田原北条氏の旗下に参じるも、小田原合戦で破れ、城も廃城となる。

下山口駅入口交差点
山口城址交差点から南へ少し下り、柳瀬川脇の山口民俗資料館へ。残念ながら休日は閉館のよう。柳瀬川に沿って道はない。県道55号に戻り下山口駅入口交差点まで進む。途中、道の北側には勝光禅寺。北条時宗開基と伝わる。江戸の頃には徳川将軍家の庇護も得る。禅宗様式の楼門が美しい。その東に来迎寺というお寺様がある。昔訪れた時は山門が綴じられていたので、現在の状況はわからないのだが、このお寺様には「車返しの弥陀」が伝わる、とのことである。その昔、奥州の藤原秀衡の守護仏である阿弥陀三尊を鎌倉に運ぶに際し、府中の車返し(府中に車返団地って、あったよう)で、荷車かなんだったか忘れたが、ともあれ車が動かず、先に進めない。結局引き返すも、この値で再びストップし身動きとれず。ということで、この地に草堂を建てたのがこの寺の始まり、とか。

関地蔵尊
下山口駅入口交差点から県道を離れ、柳瀬川筋へと向かう。西武狭山線・下山口駅を越え、先に進む。二股を左に折れ成り行きで柳瀬川筋に。あとからわかったのだが、この二股を右に折れると柳瀬川にかかる橋の袂に桜淵延命地蔵尊の祠があったよう。
成り行きで先に進み、道の途中で一瞬かする柳瀬川を確認しながら先に進み、成り行きで現れた橋を渡ると祠が見える。近づくと関地蔵尊とあった。祠の中には大きなお地蔵様とそれを取り囲む幾多の小さなお地蔵様。案内によるとこのお地蔵様は子育てのお地蔵様として地元の人々の信仰を得た。祠の中の多くの石物は子供の健やかな成長を祈る願かけと、願いが叶ったお礼の奉納仏、とのことである。

永源寺
関地蔵尊を離れ、またまた成り行きで先に進む。県道55号岩崎交差点の南あたりから川筋に沿って道が現れる。川筋から付かず離れず先に進む。県道の北には山口城主の菩提寺である瑞巌寺や、朝鮮半島からの渡来人である王辰爾(おうじんに)一族によって建立された仏蔵院がある。平安末期の頃は、『国分寺・一宮にもまさり、仏神の加護も尊く』といわれるほど、武蔵では一番の寺格を誇ったお寺様であるが、先回、といっても何年も前になるのだが、一度訪れたことがあるので、今回はパス。
道なりに進み、割と車の往来の多い道に出る。左手を見るとなんとなく構えのいいお寺さまが見える。とりあえずお寺様を訪ねると永源寺とあった。曹洞宗のこのお寺さまには武蔵国守護代大石信重の墓塔がある。また、境内にある石灯籠を見るに、増上寺の銘があった。この石灯籠も狭山不動尊のところでメモしたように、狭山球場予定地に野ざらしになっていた石灯籠を移したもの。徳川家江戸入府依頼、14代にわたり徳川家より寺領30石の寄進あったお寺さまであれば、ストーリーとしては結構自然。

じゅうにん坂
永源寺の山門を左に折れ、通りをすすむと「じゅうにん坂交差点」。名前の由来は、その昔、住人の武士だが落武者だかが切腹したとか、あれこれ。坂下からゆるやかなスロープを眺めただけで交差点を離れたが、坂の途中には10体の石仏が佇む、とか。もっとも、昔からこの地に祀られていたわけではなく、道路拡張にともない、この地に移された、とのことである。

長久寺
川に沿って付かず離れず先に進むと、勢揃橋交差点の手前に長久寺。時宗のお寺さま。お寺の前に旧鎌倉街道の標識。時宗のお寺は鎌倉街道沿いに結構多い。鎌倉街道は、お寺の脇を北に上る坂を進み、途中西武線でさえぎられてはいるものの、所沢市内の新光寺まで一直線で進んでいた、とのことである。
長久寺の北西、すぐのところに南陵中学があるが、その地には東山道武蔵路につながる古代の道の遺構「東の上遺跡」がある。JR西国分寺の駅の近くに東山道武蔵路の遺稿が残るが、その地より八国山を目指し一直線に進んできた12メートルの古代・武蔵道は八国山麓を迂回し、この地に繋がっていたのだろう。その先のルートは未だ特定されてはいないようだが、西武新宿線・入曽駅の東にある堀兼の井へと向かう堀兼道がその道筋、との説もある。

勢揃橋
勢揃橋交差点を南に下り、勢揃橋に。その昔、新田義貞が鎌倉攻めの折、この地で軍勢を勢揃いさせた、との伝承がある。橋のあたりから南に八国山の丘が見える。この丘の東端にある将軍塚は新田義貞の本陣跡、と伝わる。そう言えば、小手指には誓詞橋があった。この橋も新田義貞が軍勢に忠誠を誓わした橋、とのこと。勢揃橋の周囲は住宅が建ち並び、軍勢が集まる場所もないようだが、昭和50年代の写真を見ると、あたり一帯はのどかな田園風景が広がっていた。
柳瀬川も、このあたりまで来ると前面は所沢台地、南は八国山で囲まれ、少し南に迂回し、所沢台地と武蔵野台地の狭間を求めて先に進む。

二瀬橋
成り行きで先に進み二瀬橋に。この地で柳瀬川の支流である北川が合流する。源流点は柳瀬川と同じく狭山湖西側の金沢堀あたり、とのことだが、柳瀬川が狭山湖建設で途中が断ち切られたように、この北川も途中は多摩湖建設で断ち切れら、現在では源頭部は、多摩湖堰堤となっている。柳瀬川の源頭部は堰堤の下部よりトンネルで流れ出していたが、こちらは堰堤部の堤防より、階段状の流路で余水を流している。

梅岩寺
二瀬橋よりゆるやかな坂を上り梅岩寺に向かう。以前、一度訪れたことはあるのだが、境内のカヤとケヤキの巨樹が印象に残っており、再度訪れることに。このカヤとケヤキは文化・文政の頃(19世紀全般)に編纂された『新編武蔵風土記 稿』にも紹介されており、カヤは推定樹齢600年、ケヤキは700年、と伝わる。
久米川合戦の際、八国山の将軍塚に本陣をおいた義貞に対して、幕府軍が本陣を置いたとされる境内には四国88カ所巡りの地蔵群が佇む。江戸の文政7年(1824)、久米川村の榎本某が建立奉納したもの。

JR武蔵野線の秋津駅
成り行きで進み、県道4号・東京所沢線が柳瀬川に交差する橋に。県道4号は田無の北原交差点から所沢に向かう、通称所沢街道と呼ばれる道。橋を渡り、北秋津から上安松へと柳瀬川に沿って、つかず離れず進む。上安松あたりまで来ると、発達した河岸段丘が広がってくる。地形図をチェックすると、二瀬橋のあたりで北の所沢台地、西の狭山丘陵、南の東村山の台地(武蔵野台地)によって三方よりグッと狭まったのど元が、北秋津あたりから次第に広がり、上安松で大きく開けている。
日も暮れてきた。歩みを早め、西武池袋線の手前で淵の森の保存林を抜け、JR武蔵野線の秋津駅に進み、一路家路へと。


 

所沢散歩そのⅠ;東川に沿って所沢台地を柳瀬川の合流点まで


先日清瀬を彷徨ったとき、滝の城跡に出合った。柳瀬川の段丘崖上に縄張りをしたこの城は柳瀬川を前面に配し、天然の要害であった、とする。それはそれで納得できるが、柳瀬川と逆側は台地が広がり、それほど険阻な地形とは思えない。北の台地方面から攻め込めば、それほど侵攻が困難とは思えなかった。唯一北方からの進出を阻む可能性があるとすれば、所沢の台地を開く東川(あずまかわ)の、その谷筋が険しく、北からの進出を阻んでいたのであろうか、などと妄想したわけだが、どうせのことならその東川の開析の程度などを実際に目で見ようと思った。



東川を見るに、狭山湖北部、所沢三ヶ島を源流部とし、所沢台地を西から東へと貫流し、関越道路・所沢インター付近で柳瀬川に合流する。散歩のルートを想うに、今回は東川により所沢台地がどのように削られているのかを見る、ということが主眼でもあり、源流点溯行はカットし、スタート地点は東川が所沢台地に接近する西所沢とした。ルートは例の如く、成り行き。東川に沿って下り、あちこち彷徨い、最終地点の柳瀬川との合流点へと進むことにした。所沢は折に触れて歩いている。先日も狭山丘陵から柳瀬川に沿って所沢西部を辿った。また、所沢の北部、三富新田に武蔵野新田の名残を求め、堀兼井戸に歌枕の趣を求めたこともある。しかしながら、今回辿る所沢の市街地は歴史も地形も全くの不案内である。往昔、所沢は鎌倉街道や江戸道が交差する交通の要衝でもあった。宿場、というか荷継ぎ場の集落であった名残もあるだろう。散歩につれて、何が飛び出してくるのか、セレンディピティ(予期せざる喜び)を楽しみに散歩に出かけることにした。



本日のルート;西武池袋線・西所沢>東川>弘法祠堂>国道463号>東川地下河川流入立坑>新光寺>所沢神明社>峰の坂>実蔵院>江戸道・小金井街道>明治天皇行在所>有楽町>薬王寺>曽根の坂>西武線・所沢駅>所沢陸橋>牛沼市民の森>長栄寺>柳瀬民俗資料館>城地区>滝の城>JR武蔵野線新座駅
西武池袋線・西所沢
電車を乗り継ぎ西所沢に。西武球場前へと向かう西武狭山線が分岐する。この西所沢駅は設立当初、小手指駅と呼ばれていた。この辺りはその昔、小手指村の東端であったことによる。その後、小手指村が所沢と合併し、現在の小手指駅ができるにおよび、西所沢と駅名を変えた。この駅は映画『失楽園』のロケや缶コーヒー「WANDA」のCM撮影に使われている、とのことである。通常使用しないホームがあるのが撮影に便利というのが、その理由とか。

東川駅を降り、民家の密集する小径を進む。道は緩やかな坂となり東川へと下る。川は民家の間を縫う小さな都市型河川といった風情。玉石積みのような護岸やコンクリートの護岸など川の風情は時として変わるも、水質は予想より美しい。東川の名前の由来はよくわからない。東へと向かう故、というのは如何にもストレートに過ぎる、だろうか。それはともあれ、この東川は所沢の地名の由来ともなっているとの説がある。東川沿いに野老(ところ)=山芋が群生していたとか、東川が大きく湾曲し、着物の「懐;ふところ」のような形をしており、ふところ>ところ、となった、とか、東川の湾曲の形が、如何にも蛇が「とぐろ」を巻いているようであったため、その「とぐろ>ところ、となったとか、あれこれ。ともあれ、東川と所沢の地名にはそれなりの関係姓があるようだ。

弘法祠堂先に進み、国道463号に架かる弘法橋の手前に小さな祠。弘法祠堂とある。伝説によれば、弘法大師がこの地を訪れ、水を所望。優しき娘が遠方まで水を汲みに行き、大師に差し上げた。それを見た大師は、水の便の悪いこの地に功徳を施すべく杖で三カ所を指す。そこを掘るとあら不思議、水が湧き出で、絶えて枯れることがなかった、と。このお堂は大師を徳としてお祀りした、とのことである。その井戸跡のひとつ(弘法の三ッ井戸)は弘法橋の近くにあるようだ。ちなみに、大師と水にまつわる伝説は全国に数百、人に拠れば1600ほども逸話が残る、とか。 往昔、「嫁をやるなら所沢にやるな」と言われていたようだ。水に乏しい所沢の台地では、井戸も深く、20mから30m掘らなければ水脈に当たらず、その水くみ、そして運搬が重労働であり、可愛い娘を所沢で苦労させたくない、といったこと故の警句であろう。台地北部の三富地区では、風呂に入れず、カヤで体をこすって「風呂かわり」とする、といったこともあった、ようである。また、「所沢の火事は泥で消せ」とも言われた、とか。
所沢台地の地下水の本水は地表面から20mから30mのあたりではあったわけだが、東川や柳瀬川沿いの低地には地表面から5~10m程度掘り進めれば水が湧いて出るところが点在していたようである。宙水とか中水(ちゅうみず)と呼ばれるようであるが、この弘法大師の井戸もこういった宙水のことを指しているのだろう、か。それはともあれ、宙水を利用した井戸とともに集落を形成していった所沢の町も、人口が増えるにつれ宙水だけでは賄いきれなくなり、本水も利用するようになる。宙水か本水を利用したものか詳細は不明だが、所沢には明治初期に30弱、大正には150ほどの井戸があった、とのことである。ともあれ、昭和12年に所沢に水道ができるまでは、所沢では水の苦労が続いたのであろう。

国道463号国道463号に架かる弘法橋に進む。国道463号は埼玉県越谷から埼玉南部を横断し、埼玉の入間に進む国道である。この国道を「行政道路」呼ぶ。なんのことだろうとチェックすると、日米安全保障条約に基づき締結された日米行政協定(1952年;昭和27年)と関係がある、と。埼玉に点在する米軍基地間の便宜のために建設されたものだろう。行政道路は行政協定に由来する名称、かと。

東川地下河川流入立坑弘法橋を先に進むと、水門ゲートが見えてくる。民家の密集したこの地に調整池もないだろう、と思いチェックすると、東川の地下河川への流入口とのことであった。大雨が降ると東川の水量を地下のトンネルに流し氾濫を防ぐ。地下河川は本流の河道の下を2.5キロほど進み、所沢陸橋通り付近の加美橋のあたりまで続いている、と言う。民家密集地故の工法ではあろう。

新光寺地下河川流入立坑を越えると、民家に挟まれ心持ち水路は狭くなる。鉄製の人道橋はなかなか風情がある。ふたつほど続く古い人道橋に思わずシャッターを切る。成り行きで先に進むみ新光寺に。
竜宮門風の山門をくぐり境内に。六角堂や本堂にお参り。現在はこじんまりした境内ではあるが、往昔は1700坪強の広さがあった、とか。歴史も古い。本尊の聖観音は行基菩薩の作と伝わる。縁起は縁起としておくとしても、1193年(建久4年)頼朝が那須への鷹狩りの途中この寺で休息し、土地を寄進したとか、1333年(元弘3年)、新田義貞が鎌倉攻めの折、この寺で戦勝を祈願し、祈願成就の御礼に土地を寄進した、といったエピソードが伝わる。
ちなみに、この新光寺は馬の観音様としても知られる。鎌倉街道の往還や、江戸道(所沢道)が交差する交通の要衝であるこの地は馬の継ぎ場でもあろうし、それ故に馬の健康や行路の安全を祈ったものではあろう。交通といえば、境内には航空殉難供養塔がある。昭和2年、飛行訓練中に所沢飛行場を目前に新光寺に墜落した練習機の乗員である畑大尉、伊藤中尉を供養するためのものである。

所沢神明社新光寺を離れ、所沢神明社に向かう。小高い南向き斜面の上に立つ神社の社域は広い。境内から東川の低地、そしてその向こうの台地を眺め、川筋との比高差を感じる。家屋が密集した川筋の向こうの台地斜面にも家屋、高層マンションが建ち、それなりの凸凹感は見て取れる。比高差は7mから8m、といったところだろう、か。
所沢神明社は江戸の頃は所沢総鎮守として大いに栄えたとのことではある。が、文政9年(1826年)の火災ですべて焼失し、詳細は不詳である。現在の社殿は昭和9年に造営された。境内には巨大なケヤキが目をひく。特に県道6号よりに参道をくぐった左側にあるケヤキは誠に印象に残るご神木である。
この神社は「飛行機の神社」としても知られる。明治44年、日本初の飛行場が所沢に建設され、徳川好敏陸軍大尉の操縦する仏製・アンリファルマン機の初飛行の無事を祈願したことによる、と。境内には明治17年に建てられた、所沢の「(と)講」という富士講祈念碑もある。富士塚は築かれてなかったが、神社の小高い斜面それ自体を富士と見立てた、とも伝わる。

峰の坂次ぎは何処へと地図を見る。神社の北に峰の坂という交差点が見て取れる。東川の低地から台地へ上った尾根道あたりではあろうと足を伸ばすことに。神社の西参道、これってもともとは表参道ではあったようだが、参道出口を北に折れ県道6号を進む。
緩やかな勾配の坂を上る。往昔、東川の谷筋から見上げると、峰のように急な斜面の坂であり、馬方や手車引き、牛車など「荷」を運ぶ人達にとって難所であった、とか。この道筋は所沢との商い高も大きい川越へと続く道筋でもあり、昭和初期(4年とか7年とかの記録がある)に道路改修工事を行い斜面を削り、現在のような緩やかな勾配になった。 ところで、所沢の地名が歴史上最初に現れるのは鎌倉時代の嘉元3年(1305年)。「小杉本淡路古文書」に「久米郷所澤」とある。先日、柳瀬川を歩いたとき長久寺脇から一直線に所沢の新光寺向かう道が鎌倉街道とメモしたが、鎌倉街道と東川の流れの交差するあたりに集落が形成されていったのであろう。
往昔、新光寺や所沢神明社のあるあたりを河原宿と呼ばれたようであるが、この河原町(現在の宮本町)や、東側の南の本宿(現在の金山町)が所沢の最初の集落とされる。弘法大師の三ッ井戸の伝説、頼朝や新田義貞の新光寺にまつわる伝説など、このあたりが古くからの集落であったことを示す伝説も多い(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

伝説だけでなく、文書にも残る。文明18年(1486年)、聖護院門跡の道興准后(どうこうじゅんこう)が東国巡幸の途次、この地(野老澤;河原宿)を訪れ、観音院(新光寺だろう)の修験者と席を共にし、「野遊のさかなに山のいもそえて ほりもとめたる野老澤かな」と詠った記述が『廻国雑記』にある。道興准后さんには散歩の折々に出合う。山伏の総元締めとして組織強化のための東国巡幸ではあろうが、旅先での武蔵野の情景描写に往昔の武蔵野を想う。
江戸時代の「武蔵野話(斎藤鶴磯)」の中にも、新光寺が描かれる。「此寺(新光寺)の東南の道を本宿といふ。元野老澤村の民家は此所に在しと。今は江戸道の方へ皆居住する事になりぬ。」とある。江戸の頃は、鎌倉街道から江戸道へと往来の主流は移っていったのではあろうが、ともあれ、所沢の始まりの地は、この河原宿(宮本町)のあたりではあったようである。

実蔵院峰の坂を再び下り、小金井街道・元町交差点まで戻る。交差点を少し南に下ったところに実蔵院。開基は正平7年(1351年)、新田義興による、とも伝わる。山号は「野老山」。寺の東に鎌倉街道が通る。実蔵院は元町地区であるが、鎌倉街道を隔てた西側は金山町となる。今回は見逃したが、実蔵院のすぐ近くに金山地区の地名の由来ともなった金山神社がある。1546年、川越夜戦で敗れた上杉方の武将がこの地に移り、奈良多武峰の談山神社より金山権現を勧請、明治の神仏分離により金山神社と改めた。
参道では所沢伝統の三八市が現在でも開かれている、と。市の成立した時期は定かではない。寛永16年(1639年)には市神さまの繁栄を祈る祭分が残るので、その頃には既に市が立っていたのであろう。三と八のつく日に開催される市では日用品だけでなく、所沢名産の所沢飛白(かすり)の商いが盛んに行われた。

江戸道・小金井街道県道6号・小金井街道に沿って東に進む。銀座通りと呼ばれるこの道筋は、江戸の頃の江戸道筋である。所沢も、もとは鎌倉街道に沿った道筋が集落の中心ではあったが、江戸幕府が開かれると江戸へと向かう江戸道に沿って集落が立ち並ぶようになる。江戸城の建設が始まり、青梅の石灰をこの江戸道を使って江戸に運ぶことになったわけだ。道筋は銀座通りを進み、ファルマン交差点あたりの坂稲荷から所沢駅方面へと上り、北秋津から久留米、田無、中野、そして内藤新宿へと進む。また、1633年(寛永10年)には江戸城の御用炭が秩父から運ばれるようになり、所沢はその荷馬や人足の継ぎ場として賑わうようになり、所沢は交通の要衝として益々発展することになった。現在の銀座通りに沿った集落も上宿(現在の元町)仲宿(現在の元町と寿町)下宿(現在の御幸町)、裏宿(現在尾有楽町)と、西から東へと開かれていったようである。
江戸の末期には、江戸道に沿った集落では、穀商、肥料商、織物商、荒物、糸、油、薬種、鉄物、魚、瀬戸物、青物、煙草を扱う多くの商人が商いに励んだと言う。なかでも、多摩郡村山地方から所沢地方伝わったと言われる絣(かすり)木綿は前述の三八市を通じて取引され、明治期には所沢飛白として全国に知られるようになった、とのことである。

明治天皇行在所江戸道、というか銀座通りを東に進む。この通りは往昔、蔵造りの商家も多かった、とのことではあるが、現在では道の両側に屹立する高層マンションが目に付く。道脇に明治天皇の御在所跡の案内。明治16年(1883年)、近衛兵の演習天覧のため飯能に行幸し、その際の行在所とされた地元有力者の家の跡、とのこと。現在はすこし寂しき趣となっていた。

有楽町銀座通りの雰囲気を感じ、再び東川筋へと戻る。川に沿って周囲を彷徨う。町の風情は住宅街というよりは、飲食街といった印象。チェックすると、戦前、所沢は陸軍飛行学校を中心とした軍都であり、戦後は駐留軍の基地であり、基地の軍人のための歓楽街であった、とか。現在は有楽町(ゆうらくちょう)と呼ばれるが、その昔は裏町>浦町と呼ばれたよう。うら>有楽>ゆうらく、と転化していったのだろう、か。

薬王寺成り行きで歩を進めると、堂々とした木造りの塀、そしてその向こうに白壁の蔵をもつお屋敷。安政3年(1856年)創業の老舗醤油製造元である深井醤油のお屋敷であり製造所である。落ち着いた屋敷構え、そして屋敷裏の台地斜面に立ち並ぶ屋敷林の眺めを楽しみながら道なりに東に進むと薬王寺に。
このお寺様は新田義宗終焉の地、とされる。小手指ヶ原の合戦で足利尊氏に敗れた新田義宗は、僧の姿に身を隠し再起を図る。が、その願い叶わず、持仏の薬師如来を本尊として遁世した、と伝わる。江戸の頃は、尾張徳川家の藩主鷹狩りの折の休憩所ともなった。幕末動乱期には、旧幕府脱走兵などからなる仁義隊が薬王寺に駐屯し、軍資金をあつめをおこなった、と。幕末に飯能戦争などをおこなった旧幕臣の振武軍は散歩の折々で出合うのだが、仁義隊ってはじめて聞く名前である。そのうちに調べてみようと思う。

曽根の坂薬王寺を離れ、曽根の坂に向かう。東川の低地からゆるやかな坂をのぼり尾根筋に、往昔、石ころだらけの坂ではあったようで、「石ころだらけの痩せた土地」を「そね」と呼ぶことから坂の名前が付けられた、とのことである。尾根筋の国道463号を東に進めば所沢交通公園、戦前の陸軍航空学校の飛行場跡地ではあるが、いつだったか一度訪れたこともあるので、今回はパス。坂を再び下り、銀座通りファルマン交差点に。名前の由来は明治44年、所沢飛行場で試験飛行をおこなったフランス製アンリファルマン練習機、より。

西武線・所沢駅ファルマン交差点から所沢駅へ向かう。東川の低地と所沢台地の比高差を実際に感じてみたい、ということもさるころながら、往路の西武線で見かけた、駅東口のビルで行われる埼玉古書フェアを覗く、ため。ファルマン交差点から所沢駅へと上る道は「プロペ通り」。飛行機のプロペラに由来するのは、言うまでもないだろう。
車道を離れ駅へと続く商店街を歩く。秩父や、たまに越谷あたりで手に入る田舎饅頭を売る店があり、誠に嬉しかった。祖母がよく作ってくれた故郷の味である。駅を東口に渡り、古書フェアの会場で郷土史関係の書籍を探し、しばしの時を過ごす。

西武鉄道東口を離れ、成り行きで東へと進み所沢駅東口入口交差点を北に折れ所沢陸橋へと向かう。陸橋下には西武池袋線が台地崖線に沿って台地を大きく迂回し所沢駅へと向かう。昔の機関車は非力故、台地の傾斜を上るのを避けるのは、それなりに納得はできるのだが、それにしても、西武池袋線の所沢駅へのアプローチは少々不自然である。気になってチェックすると、西武鉄道成立の歴史ならではの興味深い話が現れた。
結論を先に言えば、所沢駅へのこの不自然なアプローチの原因は、現在は西武鉄道として同じ会社となっている西武新宿線、西武池袋線は、もともと別の会社であったことにある。西武新宿線と呼ばれる路線は、もともと川越鉄道と呼ばれ、甲武鉄道(新宿~八王子; 1889(明治22)年開通)の支線として国分寺から、当時の物流の集散地である川越へと結ばれた。1895(明治28)年のことである。所沢駅はそのとき作られた。
その後、 1915(大正4)年、現在の西武池袋線の前身である武蔵野鉄道が池袋から飯能へと開通。計画では飯能へと直線で進み、川越鉄道の所沢駅を通る予定ではなかったようであるが、なにせ鉄道は当時の輸送の根幹となるもの。貨物輸送の乗り入れをするにも、このふたつの線路を接続する必要があり、国の命令なのか要請なのか、ともあれ、後発の武蔵野鉄道は既に駅のあった川越鉄道の所沢駅に接続することになった。ために、台地崖線を進み駅の前後で大きく迂回して、「無理矢理」、川越鉄道の所沢駅に繋げた、とのことである。 不自然な急カーブはこれにて一件落着ではあるが、所沢駅で結ばれたふたつの鉄道会社が西武鉄道となるまでは、あれこれの軋轢があったようである。池袋へと繋がる武蔵野鉄道に対抗して、1927(昭和2)年、川越鉄道(1920年。武蔵水電に吸収され、その後西武軌道を合併。1922年には西武鉄道(旧)という社名になっていた)は、村山線(東村山~高田馬場)を開通。東京方面への乗客を確保せんとした。このとき所沢駅での両社のお客様の争奪戦は結構激しかったようである。
この両社も1928(昭和3)年、国分寺~萩山)を開通させた多摩湖鉄道の親会社である箱根土地(現コクド)により、1932年(昭和7年)に武蔵野鉄道が、1945(昭和20)年には西武鉄道(元の川越鉄道)が吸収合併され、西武農業鉄道となり、その1年後、名称は西武鉄道となり、現在の形となった。所沢の駅で同じホームでありながら、西武池袋線と西武新宿線の東京方面行きが逆向きであるのも、西武鉄道の歴史的経緯を踏まえてのことであろう、か。

所沢陸橋西武線を跨ぐ陸橋から、弧を描き所沢駅へと向かう線路を眺める。その昔、弧の最高点のあたりに「所沢飛行場」という駅があった。台地上の陸軍所沢飛行場への最寄り駅であった、とか。武蔵野線がこの地に駅を作れば、川越鉄道は西武新宿線が東川を渡るところに「所沢飛行場前駅」をつくり、お客獲得合戦を繰り広げたとか。今は昔の物語である。

牛沼市民の森陸橋を渡り小金井街道・所沢陸橋交差点を越え東川筋に。川に沿って桜並木が続く。西新井から松郷の弘法橋あたりまで3キロから4キロほど続く、とか。1964年の東京オリンピックの時、所沢で行われた射撃競技を記念しえ植えられたもの。
道なりに進む。川の北側、河岸段丘面が次第に拡がり、段丘崖の林など、風景が少し自然豊かな赴きとなる。神明社の名前に惹かれて鎮守の林へ向かうと神社の周囲は牛沼市民の森とあった。国道463号から東川の低地にかけてのなだらかな傾斜の雑木林にはクヌギ、コナラ、シラカシなどの混合林、そして、神明社には竹林が広がる。

長栄寺神明社を離れ、再び川筋に戻ると、川の南に長栄寺。境内の閻魔堂に丈六(高さ八尺の座像を丈六仏という)の閻魔様が佇む。天命五年(一七八五)造立と伝わる、2m90cmの木造朱漆塗の大閻魔像は、木造のものとしては、関東随一といわれている。なかなか、いい。しばし見とれる。ちなみに、この長栄寺のあたり牛に似た沼があったのが、地名牛沼の由来、とか。

柳瀬民俗資料館川に沿って東へと進む。段丘面が拡がり、川の周囲に広がりがでてくる。開析の度合いはそれほど深くない。ちょっと見た目には谷筋とは思えないような、台地にちょっと入った切れ目といった川筋である。松郷地区、新郷地区と川筋を進み亀ヶ谷地区に。川筋の少し北に柳瀬民俗資料館がある。川筋を離れ、御嶽神社の小さな祠をお参りし、すぐそばの資料館に。残念ながら休館となっていた。何故に亀ヶ谷に柳瀬資料館と言えば、往昔、このあたりは埼玉県入間郡柳瀬村であった、から。

城地区への上り益々拡がる東川両岸の段丘面の景観を楽しみながら先に進み、柳瀬小学校手前で川の南に移り、先日訪れた滝の城へと向かう。柳瀬川側の段丘崖故に天然の要害とされるが、実際に歩いた印象では、台地上の北部は平坦であり、それほど攻略が困難とも思えなかった。東川の谷筋が嶮岨で進入が困難であったのだろうか、実際に歩いて確かめようと思ったこともこの散歩のきっかけでもあるので、東川から滝の城へと進んでみようと思ったわけである。
橋を渡り、滝の城への道案内に従い、雑木林のゆるやかな坂をのぼる。畑の中の小径を成り行きで進み、県道179号に。いかにも丘陵地といった赴きで進むに困難なことはなにも、ない。新編武蔵国風土記稿には、「不慮に北の方、大手の前より襲い来たりしかば、按に相違して暫時に落城せり」とあった。それはそうだろう、と実感した。

滝の城県道179号から道案内に従い滝の城に。本丸がある社殿の裏手にある二の丸や三の丸の曲輪や土塁、堀、見晴台とおぼしき高みなどを眺める。
滝の城は室町から戦国時代にかけて、木曾義仲の後裔と称した大石氏の築城と伝わる。加住丘陵の滝山城を本城とした大石定重がこの地に築いた支城である、とも。大石氏は、関東管領上杉家の重臣として小田原北条に備えるも、定重の次の定久の頃、上杉管領勢は川越夜戦に完敗。主家上杉家も上野に逃れるにおよび、大石定久は小田原北条と和を結ぶ。北条氏康の次男氏照を女婿に迎え、滝山城を譲り自らは五日市の戸倉城に隠棲した。上杉管領家滅亡後も岩槻城を拠点に北条と抗う太田資正に対しては、最前線の境の城として重要な拠点となったようだが、その太田氏も北条に下るにおよび、滝の城は川越(河越)城、岩槻城、江戸城との継ぎの城として機能した。滝の城は北条家の関東北進策を進める拠点、清戸の番所として整備された。城に残る遺構はこの時代につくられたようである。

JR武蔵野線新座駅城址を離れ、城地区の民家というか農家の間の小径を進み、県道179号に出る。関越道に架かる橋を越え、東川と再び出合い、道を離れ東川の堤を下り柳瀬川との合流点に。本日の散歩はこれでお終い。後は柳瀬川を渡り、武蔵野線に沿って東へ進み、途中「子は清水」の跡、親が呑めばお酒で、子供が飲めば清水であった、と言う泉、といっても現在は武蔵野線の工事のため水源の絶えた泉跡の案内を見やりながら武蔵野線新座駅へと進み、一路家路へと。