水曜日, 5月 23, 2007

埼玉 行田散歩:さきたま古墳群と忍城へ

先日来、数回に渡って旧利根川筋を歩いた。権現堂川とか会の川といった川筋である。東遷が終われば次は西遷、というわけでもないのだが、今回は荒川の西遷事業・付替えの地を歩くことにした。荒川の付替とは寛永6年(1629年)、関東郡代・伊那忠治によっておこなわれたもの。現在の元荒川筋を流れていた本流を、熊谷近くの久下(くげ)で人工的に開削し、武蔵野の沖積平野・低地を流れていた川筋を西側、つまり、和田吉野川から入間川筋に流れを変えた。これが、 現在の荒川となったわけだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

荒川付替の地・久下は熊谷駅から国道17号線を南東に少し下ったところにある。久下から元荒川を下るのも一興と思いながら、どうせのことなら、近辺で何か見どころはとチェックする。
近くの行田市に「さきたま古墳群」がある。前々から気にはなっていたところ。なぜこのあたりに古墳群、というか、古代豪族の本拠があったのか、よくわからなかった。実際に言ってみればなにかヒントがあるかと、まずは、古墳の地に足を延ばすことにする。その後は現地で得た情報をもとに成行きで進み、最後に荒川付替の地・久下でクロージング、といった段取りとした。


本日の散歩;JR高崎線吹上駅>県道66号線>吹上本町地区>元荒川>駅入口交差点・国道17号線>下忍地区>前谷落>JR上越新幹線>下忍交差点・国道17号線>ものつくり大学前>佐間>県道77号線>忍川・野合橋>武蔵水路・新野合橋>さきたま風土記の丘・埼玉古墳群>前玉神社>県道77号線>旭町交差点>市役所前>忍城>諏訪神社>東照宮>秩父鉄道・行田駅>秩父鉄道・熊谷駅>荒川河川敷・荒川運動公園>JR高崎線・熊谷駅>自宅

JR高崎線・吹上駅

さてと、JR高崎線・吹上駅に。現在は鴻巣市となっている。この地は中山道の熊谷宿と鴻巣宿の中間にあり、昔は「間の宿」として発展。また、日光脇往還を経て忍の城下町(行田市)へと進む分岐点でもあった。 ちなみに、「吹上」の名前の由来は、水が吹き出るように湧く地、といったことから。町の中央部を流れる「元荒川」が、昔は川底から美しい水が湧き出ていた、とか。その面影は、今はない。

元荒川・新宿橋

県道66号線・駅北口通りを北に進む。しばらく歩くと新宿橋。元荒川に架かっている。元荒川の源流は、熊谷市佐谷田あたり。もともとは、大雷神社あたりからの湧水をあつめていた、と。このあたりは、荒川扇状地の扇端部にあたり、豊かな湧水が各地から湧き出していたようではある。が、今ではそれも枯渇し、ひとつは生活排水、もうひとつは近くの県水産試験場で地下水をポンプで汲み上げ、それを源流としている、と。

元荒川
元荒川は現在、熊谷市佐谷田からはじまり、行田・鴻巣・桶川・蓮田・岩槻と進み、越谷で中川に合流する。上でメモしたように、寛永6年、荒川付替により、熊谷市久下で荒川が締め切られるまでは、この元荒川が「荒川」の本流。付替により荒川が西の入間川筋に変更されたため、本来の川筋が、「元」荒川と呼ばれるようになった。現在では荒川と利根川は別水系ではあるが、元々の荒川・元荒川は利根川水系の一派川であったことは、いうまでもない。

中山道

先に進む。国道17号線・駅入口交差点に。この国道は昔の「中山道」筋。江戸の日本橋を発し、京都の三条大橋にいたる。東京から高崎までは、国道17号線の道筋である。で、先般の古河散歩のときも取り上げた、『日本人はどのようにして国土をつくったか;学芸出版社』によれば、江戸初期の荒川付替の直接的な目的は、この中山道の洪水対策・整備である、という。以下該当箇所をメモ;
「中山道は、板橋宿から志村に。ここで関東ローム台地を下りる。戸田の渡しで荒川を渡り、蕨に。蕨から浦和に入り、台地に上がる。志村から浦和までは低湿地帯。その中で、微高地の自然堤防を見つけて進む。この地点では三角州河川であるため洪水のエネルギーはそれほど強くない。洪水に襲われても、水が引けばそのまま道路は使用できた。
浦和を過ぎ、大宮・上尾・桶川・鴻巣と大宮台地上を通る。台地上のため洪水の影響はない。その後、(鴻巣市)箕田を過ぎると再び沖積低地に下りる。ここより熊谷を過ぎ、深谷近くまで沖積低地を通る。熊谷を過ぎると熊谷扇状地の扇端近くの小高い自然堤防上を通るため洪水の危険性はない。が、(鴻巣市)箕田から吹上・熊谷までは荒川に沿った自然堤防上を進み、洪水の脅威を受けることになる。この地帯は地形上、水が集中するところ。荒川の勾配の変節点でもあり変流しやすく、洪水のたびに大量の土砂を運び込み、復旧には多大な労苦を要する地帯であった」、と。久下のあたりで、内陸部に流れる川筋を締め切り、川筋を西に迂回させ、洪水の被害が中山道に及ばないようにした、ということか。なんとなく、納得。

「下忍」って、忍藩の「忍」??

先に進む。道の東は「下忍」地区。忍って、忍藩の「忍」?じっくりと地図を見る。その通り。このあたりは行田市であった。いつものように、前もってあれこれ調べることもせず、行き当たりばったりの散歩であるがゆえの「展開」。忍藩というくらいなので、お城でもあるものか、と期待する。どこかでチェックしなければ、などと思い巡らせながら、ともあれ、先に進む。

JR上越新幹線の手間に水路。「前谷落(まえやおとし)」。行田市持田からはじまり、吹上地区で元荒川に合流する4キロ程度の農業排水路。道の北側に「ものつくり大学」。いつだったか、新聞ネタになった、かと。学校前を進む。しばらく行くとふたたび、国道17号線。熊谷バイパスとなっている。途中幾筋かの小さな農業水路と交差しながら県道66号線を進み「佐間」交差点に。ここで県道77号線と交差。ここで右折し、77号線を南東に歩く。しばらく歩くと野合橋。忍川が流れている。

忍川

忍川は全長12キロ。中川水系の河川。熊谷市に起点があり、行田市内を経て、鴻巣市の吹上地区・袋で元荒川に合流する。この川には現在、水源といったものはない。元々は、熊谷市星川の星渓園あたりでの湧水が源流としていたようだが、現在ではそれも枯渇し農業排水と都市排水を集めて流れる。
忍川はかつて、熊谷市から行田市の忍沼(現在の水城公園)までは「上忍川」、そこから下流は、「下忍川」と呼ばれていた。下忍川は野合橋の少し北を通り、東に流れ見沼代用水に合流していた、とか。昭和初期の河川改修で下忍川は廃川。替って、南に向かって元荒川に合流する川筋が開削された。これが現在の忍川の下流の名前である「新忍川」。ちなみに、下忍川は現在、「旧忍川」として流れている。

武蔵水路
忍川を越えると直ぐにもうひとつ川筋。「武蔵水路」。この水路は、利根川と荒川の連絡水路。新河岸川と隅田川の浄化用水を導入している。きっかけは東京オリンピック。隅田川があまりに汚れているから、世界の皆様にお見苦しい、ということで、突貫工事でつくられた、とか。利根川からの取入口は、見沼代用水とおなじ、行田市下中条の利根大堰。排出口は鴻巣市の糟田。荒川は、元は利根川の水系であったわけで、荒川の西遷事業で切り離された川筋が再び繋ぎあわされた、といえなくもない。

さきたま古墳群

武蔵水路を越えてしばらく進むと、「さきたま古墳群」。5世紀の終わりから7世紀のはじめにかけてつくられた9基の大型古墳が集まっている。入口の南に「埼玉県立さきたま資料館」。この古墳群の全体像をちょっと眺め資料を手に入れる。で、実際の古墳に向かう。入口を入ると天祥寺。忍藩・(奥平)松平家の菩提寺。家康の長女・亀姫の子・忠明を祖とする家。

丸墓山古墳
北に進み最初に「丸墓山古墳」。日本で最大の円墳。6世紀前半に造られた、と。『風駆ける武蔵野;大護八郎(歴史図書社)』によれば、1日100人が働いて500日かかるボリュームとか。当時、そのくらいの人を動員できる勢力が登場していた、ということ。単に祭祀的首長ではこのような大規模の動員はできまい。ということは、政治・経済的な権力をもった首長が既にこの地に登場していた、ということ、だろう。
頂上に向かって階段を上る。1590年、石田三成が忍城を水攻めにしたとき、この古墳に陣を張ったという。この丘が、古墳であると思っていたのだろうか。資料館で昔の写真を見たのだが、木々が茂ったその様は、単なる小高い丘といえなくも、ない。ちなみに、三成といえば、駐車場からこの古墳までの道筋は、三成が忍城水攻めの時に築いた堤防の跡。石田堤と呼ばれている。

稲荷山古墳
丸墓山古墳の東に「稲荷山古墳」。階段を上る。全長120mの前方後円墳。造られた時期は5世紀後半。さきたま古墳群で最初につくられた古墳、とか。同じく『風駆ける武蔵野』によれば、1日100人で働いて300日を必要とする、と。昭和12年に前方部が削り取られたが、現在は復元工事によって昔の姿をとどめている。

金錯銘鉄剣
この古墳は、昭和43年に発見された金錯銘鉄剣、そしてそこに刻まれた115の文字で有名。資料館で手に入れた資料によれば、鉄剣に刻まれた文字の意味は「わたしの先祖は代々杖刀人首(じょうとうじんのおびと;親衛隊長)をつとめる。わたし(ヲワケノキミ)はワカタケル(雄略天皇)に仕え、天下を治めるのを補佐。で、辛亥の年(471年)7月に、これまでの功績を刻んで記念する」と。大和朝廷との深い関係を高らかに宣言している。この時期にすでに大和朝廷の勢威がこの地に及んでいた、ということだ。

将軍山古墳

稲荷山古墳の東に「将軍山古墳」。この前方後円墳がつくられたのは6世紀後半。稲荷山より100年ほど後のこと。後円部が失われていたが、現在は復元されている。古墳の上には埴生が置かれている。複製品であることは、いうまでもない。古墳には上がれない。

二子山古墳

少し南に戻ると「二子山古墳」。武蔵の国では最も大きな古墳。6世紀初頭に作られた、とされる。周囲は水をたたえた掘となっており、上ることはできない。

愛宕山古墳

二子山古墳から天祥寺脇を抜け、入口に戻る手前に「愛宕山古墳」。古墳群の中ではもっとも小さな古墳。古墳と言われなければ、ちょっとした「丘」といった風情。


県道77号線を越え、「さきたま資料館」側に戻り、瓦塚古墳、鉄砲山古墳、などを眺める。さきたま古墳群を歩き、資料館で手に入れた資料とか、既に挙げた『風駈ける武蔵野;大護八郎(歴史図書社)』などを参考に、「さきたま古墳群」のあれこれをメモする。

古墳の主は武蔵の国造・笠原直使主(かさはらのあたいおみ)。金錯銘鉄剣をつくらせた人物ともいわれる。鉄剣に刻まれた文字の解釈によれば、「わたしの先祖は代々杖刀人首(じょうとうじんのおびと;親衛隊長)として、(ヲワケノキミ)はワカタケル(雄略天皇)に仕え、天下を治めるのを補佐した」ということで、上に述べたように、大和朝廷との関わりを宣言している。
この笠原直使主って、武蔵の国造の地位を巡って胸刺(関東南部)の小杵、それを助ける毛の(上野・下野国)の小熊と相い争い、大和朝廷の助けにより、小杵・小熊を破った人物。つまりは、大和朝廷の尖兵として、先住の豪族を打ち破り、武蔵の国を大和朝廷の完全支配下に置いた、その象徴としての人物である。言い換えれば、武蔵の国を支配していた出雲系部族を大和政権の完全支配下に置いた象徴的「存在」である、とも言える。金錯銘鉄剣の歴史的意義は、そこにある。

大和朝廷の威が及ぶ前の武蔵の地は出雲族の支配する地であった。国譲りの神話などで、粛々と天津神系の大和朝廷に下った国津神系の氏族として登場するが、実際は、大和朝廷なにするものぞ、と最後まで「まつろうことのなかった」氏族である。
武蔵の国が出雲系氏族の支配する地であったことは、氷川神社の祭祀圏の分布でもあきらか。氷川=出雲の簸川の神、スサノオ・オオナムチ・クシイナダヒメの三神を祀る氷川神社が旧利根川水系の西に数多く祀られている。また、大和朝廷によって国司が派遣される前の地方の首長、つまりは、国造であるが、東国25カ国のうち、9国の国造が出雲系であった、と言われる。
こういった地に、大和朝廷の尖兵として武蔵に君臨しようとしたのが、笠原直使主。出雲族と衝突するのは当然であり、反旗を翻した先住出雲系氏族の小杵・小熊と衝突。結局は大和朝廷の勝利に終わる。『太子伝暦』には、「従来出雲系氏族によって継承されていた武蔵国造が、聖徳太子の時に物部系に移った」とある(前出の『風駈ける武蔵野』)。笠原直使主がどういった出自のものかわからない。が、結局のところ、というか、歴史的事実としては、武蔵の国は、大和朝廷と縁戚関係にある物部氏が国造となった、ということ。このことにより、歴史的事実としても、武蔵の地が完全に大和朝廷の支配下になった、ということであろう。

で、最後に、なぜこの地に、ということだが、これも『風駈ける武蔵野』によれば、「灌漑を主とする水田耕作は、河川に臨んだ低平地への集落の集中化となり、用水利用は必然的に広域の支配者の台頭とともに、富の蓄積と文化の向上をうながした。鉄剣が出土したさきたま古墳群の地は、利根川と荒川に挟まれた肥沃な一大平野で、大首長の生まれる格好な土地であった」とする。往古、川越あたりまで古東京湾が入ってきていたわけだし、このあたりから先は、茫漠たる湿地帯であったのだろう。逆に言えば、このあたりがなんとか人の住める低平地の限界線であったということだろうか。自分勝手に納得。

さきたま古墳群を終え、次の目的地はと、行田市の案内地図をチェック。「さきたま古墳公園」の直ぐ横に、「前玉(さきたま)神社」、それと行田市内に「浮き城・忍城」がある。どちらも魅力的。両方をカバーし、その後に当初の目的地・久下に向かうことにする。

前玉(さきたま)神社
さきたま古墳公園の中を歩き、「前玉(さきたま)神社」に。「さいたま」、という地名は、この「さきたま」から生まれた、と。祭神は前玉比古(さきたまひこ)と前玉比売(さきたまひめ)。名前からすれば、さきたま古墳群と大いに関係ありそう。
神社は古墳の上に祭られている。浅間塚古墳。丘の中腹に浅間神社が祀られている、ため。近世、富士信仰が盛んになったとき、忍城内に祀られてあった浅間神社をこの地に勧請。どうも、古墳であるとは知らなかったようで、前玉神社とともに合祀した。明治になって、丘の頂上に前玉神社、中腹に浅間神社と分けられ現在に至る。

前玉神社を離れ、忍城に向かう。郷土博物館がある、という。時刻は4時過ぎ。5時まで開いていることを祈りながら、早足で進む。県道77号線を戻り、佐間の交差点を越え、一直線に秩父鉄道・行田駅方面に進む。

与野地区にある高源寺を越えたあたりで水路と交差。道の西に水城公園。ということは、この水路は昔の下忍川であろう、か。時間があれば水城公園を廻りたいのだが、如何せん時間がない。

忍城・郷土博物館

さらに北に進み国道125号線とT字交差。西に折れ、行田市役所前を越えると忍城の御三階櫓が見えてきた。櫓脇の門をくぐり場内にある郷土博物館に向かう。が、時刻は午後4時35分。開館は4時半まで、ということで残念ながら、入館叶わず。門も鐘櫓も復元されたものではあるが、落ち着いた雰囲気に出来上がっており、安っぽさは、ない。譜代幕閣の重職が城主であった城の風格であろう、か。

諏訪神社・東照宮

しばし休息し、気を取り直し、お城前にある諏訪神社、そして東照宮に歩を進める。鬱蒼とした盛の中に諏訪社が鎮座する。東照宮も門が閉じられていた。東照宮は江戸時代の忍藩主・松平家は、家康の長女・亀姫の子である忠明を祖とする、故。境内に忍城の鳥瞰図が納められていた。なるほど、水城である。四方が水で囲まれている。この水城を三成が水攻めをした、というが、果たして効果があったのだろうか。気になる。後から調べてみよう、と思う。

熊谷駅
さて、最後の目的地・久下に向かう。秩父鉄道・行田駅から電車にのり、熊谷駅に。日が暮れ始める。久下までは行けそうもない。せめてのこと、荒川堤までは行こう、ということで、熊谷駅を南に降り、荒川堤に向かう。

熊谷桜堤
成行きで南に進む。荒川運動公園。熊谷桜堤に出る。荒川の土手から、しばし南を眺め、久下に行ったつもりで本日の予定を終了する。もともとは久下が本命であったのだが、さきたま古墳とか、忍城といったインパクトのあるトピックが登場し、予定外の散歩となったが、それはそれなりに、行き当たりばったりの散歩の楽しみを満喫した1日であった。

甲斐姫
後日談。『水の城 いまだ落城せず;風野真知雄(祥伝社文庫)』という本を読んだ。忍城水攻めの攻防戦を描いたもの。主人公は成田長親、そして甲斐姫。長親は城主成田氏長の従兄弟。城主氏長が小田原北条氏直の要請により小田原城に詰めたため、忍城を託されることになった成田肥前守の嫡男。が、突然の肥前守の死により、この城を預かり、石田三成と攻防戦を繰り広げることになる。
甲斐姫は城主氏長の息女。美貌のじゃじゃ馬娘として描かれている。頃は天正17年(1589年)。秀吉による小田原征伐のとき。4月から5月にかけて、北条方諸城の大半が攻略される。6月には、北条氏邦の鉢形城、北条氏照の八王子城、伊豆韮山城も落城。残るは、小田原城と忍城のみとなる。
小田原にて秀吉の命により、石田三成に館林城、忍城攻略の下知。可愛い三成に軽く手柄をたてさせてやろう、との親心。5月に上野館林城を3日で攻略。2万の兵をもって勇躍、忍城攻略に。
が、この小城はなかなか落ちない。で、秀吉の高松城の水攻めを真似たのか、7日間の突貫工事で、全長28キロ、高さ1間から2間の土手を築く。が、堤防が自壊するなどして失敗。むしろ自軍に数百名の被害者を出す始末。昼行灯として描かれる長親の、のらりくらり戦法。そしてじゃじゃ馬姫の突っ走り攻撃など、攻略戦のあれこれが描かれる。
散歩で歩いた佐間の、通じる佐間口には、長塚正家が陣を張った、とか。浅野長政、真田昌幸の援軍。それでも城は落ちず、結局小田原城開城の後まで落ちなかった唯一の城であった、と。とは言うものの、攻防戦の期間は意外に短く、38日程度であった、よう。
で、長親と甲斐姫のその後。長親は尾州に寓居。剃髪し自永斎と名乗る。二度と成田家には戻らなかった、と。城主・氏長に敵方内通の誤解を受け、気分を害したものであろう、と。

一方の甲斐姫は波乱万丈。秀吉がその武勇、またその美貌ゆえに懸想。側室となる。淀の方のお気に入りとなり秀頼の守り役、と。が、なにがどうなったか、秀頼の子を宿す。姫を出産。大阪落城のとき娘は7歳。千姫の助けにより鎌倉・東慶寺に預けられる。東慶寺中興の祖、天秀尼がその人。
東慶寺って、鎌倉散歩で訪れた品のいいお寺さま。縁切り寺とも駆け込み寺、とも。ちなみに忍城にこもった武士たちは、その武勇ゆえに家臣へと迎えたい、とった話、引きもきらずであった、とか。

そうそう、忍城の歴史をちょっとまとめる。戦国時代、この地に土豪・忍氏の館。忍地方の西部に力をもってきた土豪・成田親泰が山内・扇谷両上杉の争いに乗じ忍氏を襲い館を攻略、築城した。荒川扇状地の末端扇端の湧水地帯と利根川中流域に挟まれた低湿地に築かれた。忍城は周囲一里ほどの沼の中にある。沼がそのまま濠の役割。沼の中の島々に二の丸、三の丸、本丸、重臣たちの屋敷がつくられているわけで、このような「水城」、利根川・荒川の氾濫に馴れきっている忍城を水攻めしたところで、なんのインパクトもない、と思うのは私だけであろうか。

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