水曜日, 5月 16, 2007

利根川東遷事業の川筋を歩く;権現堂川から中川に

権現堂川を歩くことにした。利根川の東遷事業にしばしば登場する川でもある。東遷事業とは、その昔、江戸に流れ込んでいた利根の流れを、銚子方面へとその流路を変えるという、誠に希有壮大な事業。先日、茨城県古河市に遊んだ折、利根川や江戸川、そして関宿といった東遷事業ゆかりの地に触れた。それに触発された、というわけでもないのだが、東遷事業に関わる川筋を実際に歩いてみよう、と思った訳だ。

最初に権現堂川を選んだ理由はとくにない。なんとなく名前がありがたそう、であったから。「権現堂川」の名前は言うまでもなく、権現様から。江戸末期に幕府によって編纂された『武蔵風土記』によれば、「村の中に、熊野権現、若宮権現、白山権現という三社を一箇所にまつった神社があり、権現堂村と名付けた」とある。権現堂村を流れていたのが名前の由来であることはいうまでもない。ちなみに「権現」って、権=仮の姿で「現われた」もの。仏が神という仮の姿で現れるという、神仏習合の考え方である。
散歩の前に、東遷事業に関わる利根川の河道の変遷をまとめておく;利根川は群馬県の水上にその源を発し、関東平野を北西から南東へと下る。もともとの利根川の主流は大利根町・埼玉大橋近くの佐波のあたりで、現在の利根川筋から離れていた。流れは南東に切れ込み、加須市川口・栗橋町の高柳へと続く。その流れは浅間川とよばれていたようだ。地図を見ると、現在は「島中(領)用水」が流れている。が、これは昔の浅間川水路に近いのだろうか。
で、ここから流れは「島川筋(現在の「中川筋」)を五霞町・元栗橋に進んでいた。ここで北方、古河・栗橋・小右衛門と下ってきた渡良瀬川(思川)と合流し、現在の権現堂川筋を流れ、幸手市上宇和田から南へ下る。上宇和田から先は、昔の庄内古川、現在の中川筋を下り江戸湾に注ぐ。これがもともとの利根川水系の流路であった。

この流路を銚子方面へと変えるのが利根川東遷事業。はじまりは江戸開府以前に行われた「会の川」の締め切り工事。文禄3年(1594年)、忍城(行田市)の家老小笠原氏によって羽生領上川俣で「会の川」への分流が締め切られることになる。利根川は往古、八百八筋と呼ばれるほど乱流していたのだが、「会の川」はその中の主流の一筋ではある。南利根川とも呼ばれていた。 会の川は加須市川口、現在川口分流工のあるあたりだろうが、ふたつに分かれる。ひとつは島川筋(現在の中川)、もうひとつは古利根川筋(現在の葛西用水の流路)。実際、現在でも中川と葛西用水は川口の地で最接近している。こういった流れの元を閉め切り、南への流れを減らすべくつとめた。これが「会の川」締め切り、である。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

ついで、元和7年(1621年)、浅間川の分流点近くの佐波から栗橋まで、東に向かって一直線に進む川筋を開削。これが「新川通り」とよばれるもの。で、この「新川」開削に合わせて、高柳地区で浅間川が締め切らた。そのため、島川への流れが堰止められ、川筋は高柳で北東に流れ伊坂・栗橋に迂回。そこから渡良瀬川筋を下り、権現堂川から庄内古川へと続く流れとなった。「新川通り」は開削されたものの、すぐには利根川の本流とはなっていない。この人工水路が、利根の流れを東に移す本流となったのは時代をずっと下った天保年間(1830年―44年)頃と言われる。
この「新川」の延長線上に開削されたのが「赤掘川」。栗橋から野田市関宿まで開削される。赤堀川も当初はそれほど水量も多くなく、新川の洪水時の流路といったものであったようだ。が、高柳・伊坂(栗橋町)・中田(古河市)へと流れてきた利根川水系の水と、北から下り、中田あたりで合流した渡良瀬川の水をあつめ、次第に東に流すようになったのであろう。
「新川通り」の開削といった、利根川の瀬替えにより、利根川水系・渡良瀬川水系の水が権現堂川筋から庄内古川(中川)に集まるようになった。結果、沖積低地を流れる庄内古川が洪水に脅かされることになる。その洪水対策として実施されたのが「江戸川」の開削。庄内古川に集まった水を江戸川に流す工事がはじまる。
江戸川は太日川ともよばれていた常陸川の下流部であった。この江戸川を庄内古川とつなぐため、北に向かって関東ローム層の台地が開削される。関宿あたりまで切り開かれた。17世紀中頃のことである。
この江戸川とつなぐため、上宇和田から江戸川流頭部・関宿まで権現堂川が開削される。同時に、権現堂川から庄内古川へ向かう流れは閉じられた。この結果、栗橋で渡良瀬川に合流した利根川本流は、栗橋・小右衛門・元栗橋をとおり権現堂川を下り、関宿から江戸川に流れることになった。こうして、南に向かっていた利根の流れを東へと移し替えていったわけである。
ちなみに、現在関宿橋のあたりから江戸川・利根川の分岐点あたりまでは寛永18年(1641年)に開削されたもの。当時、逆川と呼ばれていたようだ。関宿の少し南、江川の地まで開削されてきた江戸川と、赤堀川、というか、常陸川水系をつなぐことになる。
で、この逆川は複雑な水理条件をもっていた、と。『日本人はどのように国土をつくったか;学芸出版社』によれば、普段は赤堀川(旧常陸川)の水が北から南に流れて江戸川に入る。が、江川で「江戸川」と合流する川筋・「権現堂川」の水位が高くなると、江戸川はそれを呑むことができず、南から北に逆流し、常陸川筋に流れ込んでいた、ということである。少し長くなった。散歩に出かける。

本日のルート:JR宇都宮線・栗橋駅;静御前終焉の地>利根川>川妻給排水機場>太平橋>舟渡橋>行幸水門・行幸給排水機場>権現堂堤>行幸橋 ・行幸堤碑>宇和田公園>中川・昔の庄内古川筋>幸手放水路>江戸川


JR宇都宮線・栗橋駅;静御前終焉の地
Jr宇都宮線・栗橋駅に。栗橋は埼玉の西北部。利根川を越えると茨城県となる。東口はのんびりした雰囲気。例によって駅前の案内をチェック。思いがけなく、直ぐ近くに「静御前終焉の地」がある、という。静御前は、いうまでもなく源義経の愛妾。奥州へ落ちのびた義経を追って、このあたりでその死を知り、落胆のあまり命を落とした、とか。もっとも、静御前終焉の地って全国に7箇所もあるようで、実際のところはよくわからない。
ここ栗橋駅周辺の伊坂の地は往時、静村と呼ばれていたようだし、この地の静御前の墓は、江戸末期の関東郡代・中川飛騨守忠秀が建てたとも伝えられるわけで、諸説の中では信憑性は高い、とは言われている、と。「吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」「しづやしづ賤のをだまき くり返し 昔 を今になすよしもがな」は、静御前が義経を偲んで詠んだとされる歌。




利根川
「静御前終焉の地」を離れ、道なりに東に進む。関所跡は国道4号沿いの利根川土手堤にある、という。関所跡を訪ねて、利根川堤に向かう。利根川橋の近くに香取神社と八坂神社。この近くに関所跡の碑があるとのことだが、見つけることができなかった。

利根川橋に国道4号線が走る「栗橋」この国道は昔の日光街道の道筋。日本橋からはじまり、千住宿・草加宿・越ケ谷宿・粕壁(春日部)宿・杉戸宿・幸手宿、と続き、この栗橋宿に至り、利根川を越えて中田宿・古河宿と日光に続いてゆく。
この栗橋の地はかつて、交通の要衝であり、江戸時代には東海道の箱根、甲州街道の駒木野、中山道の臼井と並ぶ関所が置かれていた。明治2年に関所が廃止されるまで栗橋は日光街道の宿場町、利根川の船運の町として栄えた、と。このあたりに渡しがあり、「房川の渡し」と呼ばれていた。ちなみに、駒木野の関跡は昨年、旧甲州街道・小仏への散歩の折りに出会った。もともとは小仏峠にあった小仏の関が、後に駒木野の地に移されたため、こう呼ばれた。高尾の駅から歩いて20分程度のところであった、かと。

川妻給排水機場
川向こうの古河の地を思いやりながら、利根川少し南に。成行きで進み、川妻給排水機場に。権現堂川の北端、といったところ。利根川堤にある権現堂樋管で取水された水は、この川妻給排水機場を経由して権現堂川に送られる。利根川と給排水機場の間は暗渠となっており、権現堂川、とはいうものの、実際のところ調整池といった雰囲気。池端を南に進むと霞橋。東北新幹線と交差する。このあたりの川筋は狭められている。

太平橋
新幹線を越えると、国道4号線・日光街道が接近。南に並走することになる。川、というか池の西側は小右衛門(こうえもん)地区。この地の開拓者の名前、とか。

少し南に下ると太平橋(たいへい)。国道4号線の交差点名が「工業団地入口」となっているように、川筋の東側には工業団地が続いている。この太平橋であるが、往時は渡船場があった。「勘平の渡し」とも呼ばれた、と。川幅が100mから200m程度あったようで、橋を架けることなどできなかった、わけである。

舟渡橋
大平橋を過ぎると、日光街道は川筋から少し離れてゆく。川の東側は五霞町元栗橋。茨城県猿島郡。そして西側は幸手市外国府間。「がいこくふかん」って何だ?とチェック。「そとごうま」と読む、という。しばらく進むと「舟渡橋」。権現堂川は舟運が盛んであり、それは昭和初期まで続いていた、と。川沿いには河岸場がいくつも作られていた。高瀬舟が往来していた河岸場は渡船場を兼ねることも多かった、とか。舟渡橋のあたりも、かつて、「外国府間の渡し」があった、よう。舟渡橋は「渡し」があった名残を留めるもので、あろう。

調整池には「スカイウォーター120」と呼ばれる、大噴水が見える。120mも噴きあげるから、とか。この調整池は御幸湖とも呼ばれている。国体カヌー会場でもあった。調整池は中川総合開発の一環として造られたもの。権現川は内務省の利根川改修事業にともない、昭和初期には廃川となっていた。このあたりは「溜井」として農業用水の水源として残されていたものが、中川総合開発の一環で調整池に生まれ変わり、1級河川として復活した。中川の洪水調整の機能、工業用水や上水の取水、また、中川への河川維持用水も供給することになったわけである。

行幸水門・行幸給排水機場
>しばし南に歩くと行幸水門・行幸給排水機場。ここで権現川は中川に合流する。この水門には中川の洪水を調整池に取り入れる堰も設けられている。現在は中川と呼ばれてはいるが、江戸時代はこのあたりは権現堂川と呼ばれていた。それでは、中川と呼ばれるようになったのは、いつの頃からか、チェック。
中川l江戸時代、中川と呼ばれていたのは元荒川・庄内古川・古利根川が合流する越谷より下流。もとより、これらの流れは利根川の東遷事業、荒川の西遷事業の結果取り残された川筋である。この川筋のうち明治になって、庄内古川・島川の流れが本流となり、この権現堂あたりもふくめて中川と呼ばれるようになった、よう。
現在、中川は江戸川の西・幸手市上宇和田から南に下る。この流れが昔の「庄内古川」である。島川筋って、利根川の本流でもあった浅間川が高柳で閉め切られ、取り残された元々の浅間川といったもの。昔の地図を見ると、水源を失った島川は古利根川へと流れる「会の川」とつながったよう、である。

権現堂堤
中川を進む。このあたりにも昭和初期まで権現堂河岸があった、とか。南の土手は桜並木で有名な権現堂堤。昔、このあたりは洪水多発地帯であった。利根川の瀬替により、本流は高柳で北東に向かい、伊坂・栗橋を通って権現堂川筋を流下することになった。この流れは北から下る渡良瀬川の水も合わせるわけであるから、大雨の時など、大変なものであったのであろう。その「巨大」な流れが北から一気にこの権現堂に押し寄せるわけで、それを防ぐものとして、この「巨大」な堤がつくられた、と。
権現堂川は自然の河川ではなく、中世に太日川とか渡良瀬川と呼ばれた川の支川として開削されたのがはじまりと言う。川辺領(大利根町)や島中領(栗橋町)の主要排水路であったが、川床の勾配が緩やかで、そのうえ年月を経るたびに堆砂が増えてきた。分岐元の赤堀川も積年の堆砂で河積が狭くなり水位が上がり、往々にして赤堀川より権現堂川のほうが流量が多くなることもあった、よう。また、権現堂川の「出口」の江戸川には、権現堂川から洪水が流入しないように工夫されていた。

そのため、権現川の水位は常に高く、水が滞留することになる。こういうことも周辺地域に水害をもたらした要因とのことである。

行幸橋 ・行幸堤碑
堤を少し西に戻り、行幸橋に。このあたりには行幸湖とか、国道4号線にかかる橋を行幸橋とか、天皇の「御成り」を想起さすような地名が多い。これは、水防に大いに関係する。権現堂堤の西端には「行幸堤碑」があるが、それは、明治8年6月起工、10月竣工した権現堂堤の修堤工事(島川の水除堤)を記念したもの。権現堂川に合流していた島川を締め切るためにほとんどを地元負担で工費が行われた。明治9年、明治天皇の巡幸は、その功績を称えるためのものであろう、か。ちなみに、桜並木、桜の時期に歩いたことがある。それはそれは立派なものでありました。




宇和田公園
堤を歩き、桜並木が切れるあたりで堤防を下り、中川というか権現堂川筋に戻る。川筋には工業団地が続く。工業団地が切れるあたりに幸手総合公園。多目的グランドや野球場が見える。公園を過ぎると、再び工業団地。
工業団地が切れるあたりに宇和田公園。設計者は本田静六氏。日本の公園設計の「父」といった人物。日比谷公園、水戸偕楽園、福岡の大濠公園、そして大宮公園などを手がけた。そうそう、先日歩いた武蔵嵐山の嵐山渓谷の名付け親でもある。小高い堤の上に緑が続く。権現堂堤の名残でもある。



中川・昔の庄内古川筋
宇和田公園辺り、上宇和田から中川は南に下る。昔の庄内古川筋である。正確に言えば、庄内古川の流頭部は杉戸町椿あたり。その下流が庄内古川であった。で、このあたりは昭和初期に開削されたもの。吉田村新水路と呼ばれていた。ともあれ、この人工水路が切り開かれ、庄内古川は権現堂川とつながることになる。
中川が南に下る少し手前に北から川筋が合流する。五霞落川。「ごかおとし」と読む。川というか、排水路というか、といったもの。合流点には中川からの逆流を防ぐための水門が見える。ちなみにこのあたり、五霞町であるが、この町だけが利根川の西にある茨城県の地。利根川の流路が変わったために、ここに取り残されたのであろう。

幸手放水路
中川が上宇和田の地から南に下るあたりに、東に進む川筋が見える。これは幸手放水路。中川の洪水を江戸川に分流する水路、である。この流れは、下流より掘り進み、赤堀川とつながった江戸川へと繋ぐために開削されたもの。寛永18年頃(1641年)頃と言われている。この江戸川への流路開削にともない、庄内古川への流入路は閉じられ、結果、栗橋で渡良瀬川に合流した利根川は、庄内古川筋ではなく、江戸川に流れになった。利根川本流は、栗橋、小右衛門、基栗橋を通って権現堂川を流れ、上宇和田、江川を経由して関宿から江戸川に流れることになったわけである。

江戸川
幸手放水路は関宿橋の上流で江戸川に合流する。もっとも、川筋が合流するわけではなく、「中川上流排水機場」で閉じられる。江戸川とは幸手樋管によってつながれることになる。昔の権現堂川の利根川からの取水口も、江戸川への流水口も現在では給排水機場で「閉じられて」いる。権現堂川は1級河川とはいうものの。実態は巨大な調整池であった。また、旧権現堂川は上流部が権現堂調整池、中流部は権現堂川の旧流路を改修した「中川」、そして、下流部は「幸手放水路」となっていた。
関宿橋に佇み、遠く関宿城博物館を眺め、本日の予定終了。橋の西詰めにあるバス停でしばしバスを待つ。東武動物公園行きのバスに乗り、家路へと急ぐ。


0 件のコメント:

コメントを投稿