火曜日, 5月 29, 2007

埼玉 岩槻散歩 ; 道灌ゆかりの城址を訪ねる

岩槻は上杉方・太田道灌の戦略拠点。古河公方と対峙する 

埼玉県岩槻市を歩いた。先日、古河公方関連の地、古河市あたりを歩いたのだが、岩槻にはこの古河公方に対抗する、管領・上杉方の城があった、とか。大田道潅とも、その父である大田道真の築城になる、とも言われる。
古河公方の勢力範囲は利根川以東。上杉管領方はおおむね利根川以西。昔の荒川筋、利根川筋などが乱流する低湿地帯を挟んで両陣営が対立していた、ということであろう。
地政上の説明では、古河公方に対する、上杉方の戦略的橋頭堡は江戸城・岩槻城・川越城である、と。地形上の説明では、低湿地に屹立する台地に縄張りをしている、と。
そういえば、新河岸川散歩のときに立ち寄った川越城って武蔵野台地の端にあった。岩槻城って、どんな地形のところにあるのだろう、と思ったのが岩槻散歩のきっかけである。 



本日のルート;東武野田線・岩槻駅>芳林寺>浄国寺>岩槻郷土資料館>愛宕神社の大構
>岩槻城址公園>元荒川>久伊豆神社>慈恩寺>玄奘三蔵塔>古隅田川>東武野田線・豊春駅

東武野田線?・岩槻駅
新宿から湘南新宿ラインで大宮に。大宮で東武野田線に乗り換え、岩槻駅に向かう。 岩槻 って場所もいまひとつわかっていなかったのだが、大宮に結構近い。途中、大宮台地の下に広がる沼地跡???・見沼田圃跡を横切り岩槻駅に。
駅前で案内ボードを探す。いつものスタイル。町の東、元荒川の傍に岩槻城址公園。それ以外に何処か見どころは、とチェック。駅からそれほど遠くないところに「岩槻郷土資料館」、そして、岩槻城址公園を北に進み東武野田線を越えたあたりに「久伊豆神社」がある。
久伊豆神社は利根川以東の香取神社の祭祀圏、以西の氷川神社祭祀圏に挟まれた独自の祭祀圏をもつ神社。由来などいまひとつはっきりしない、と言う。思いがけない久伊豆神社の登場。
これは行かずば、ということで、大雑把なルートは、最初に郷土資料館。次に城址公園。最後に久伊豆神社。もっとも、郷土資料館の「発見」次第では、別ルートもあり、といった成行きで進むことに。 






芳林寺
郷土資料館に向かう。といっても住所が分からない。なんとなく地図のイメージを頼りに進む。東武野田線の線路に沿って西に進むと本町1丁目の道に脇に芳林寺。寺域は広い。太田道灌が信仰した地蔵仏を本尊に道灌の曾孫・太田資正が開基したという。道灌や5代目岩槻城主・氏資の供養塔、徳川家康の腹心で岩槻城主・高力清長の長男・正長の墓がある。
本堂は明治4年に一時、埼玉県庁が置かれた場所でもある。寺名の由来は、太田氏資の母芳林尼による。 太田資正は道潅に勝るとも劣らない名将であった、とか。三楽斎(さんらくさい)と号する。扇谷上杉に仕えていたが、川越夜戦で主君上杉氏が滅びたため、北条の旗下に。その後、北条氏の家臣として武功をたてるが、1560年、上杉謙信の小田原侵攻に機を同じくして、北条より離反する。
日本最初の「軍用犬」を使った軍事連絡などを駆使し、勇名をはせるた資正だが、嫡男・氏資の離反により岩槻城は落城する。、家督相続を巡って父・資正と対立し出家していた氏資は、第二次国府台合戦で父・資正が北条に破れた時 に還俗し、北条方についたわけである。氏資の奥方が北条氏康の娘であったことも関係あるの、かも。
で、資正は常陸の佐竹氏のもとに逃れ、反北条として転戦。一方、氏資は上総国三船台の合戦に3万の北条軍の一翼を担い参戦。里見義弘の軍勢に破れ、殿軍として奮戦するも戦死した。  浄国寺 加倉地区に入る。緑の森が見える。なんとなく森に向かう。国道122号線に出るとすぐに立派なお寺さまの入り口。


浄国寺
岩槻城主・太田氏房の発願により、天正15年(1587年)に開基。また江戸期の岩槻藩主・阿部家の菩提寺でもあった。浄土宗学僧の学問の場として関東18檀林のひとつに数えられる古刹。
周囲に広がる保安林を見るにつけ、往時の威勢が偲ばれる。 太田氏房のことはどうもはっきりしない。太田の家系ではなく北条の一族。4代当主北条氏政の三男と言われている。芳林寺でメモした氏資の戦死を受け、太田の家系の女性を娶り太田姓を次いだ、とか。




岩槻郷土資料館
国道122号線を東に進む。ここは昔の日光御成道。江戸を出た日光街道は4番目の宿場町・糟壁(春日部市)で岩槻街道と分岐。この岩槻道は将軍が日光参詣の折の経路であり、ために日光御成道と呼ばれた。岩槻宿には、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠10軒あった、とか。
日光御成道を北東に進む。岩槻郷土資料館に。ここは旧岩槻警察署庁舎。昭和5年に建てられたもの。大正期の雰囲気を今に伝えるレトロな、そしてこじんまりとした資料館。
岩槻の歴史をさっと眺める。市販の資料はなかったようだが、ここで「大宮市文化財マップ」を手に入れる。??岩槻市ではなく、さいたま市岩槻区、と。平成の市町村合併ということ、か。ともあれ、文化財マップはここ岩槻だけでなく、さいたま全域の文化財が概観できる。あれこれ先の計画もたてやすくなる。思いがけなく、ありがたい資料が手に入った
 
人形の街・岩槻

日光御成道を更に北東に進む。街道(?)筋には、人形店が軒を並べる。さすがに、人形の街・岩槻、である。
で、何ゆえ岩槻で人形造りが盛んになったか、ということが気にな った;岩槻周辺は上質の桐の生産地として有名。箪笥や下駄をつくっていた。その製造過程で大量にでるのが桐の粉。それが人形の頭をつくるのに最適であった。また、人形つくりに不可欠な胡粉(人形に塗る白い粉)の溶解と発色に適した良質の水も豊富であった。

環境はそろった。あとは人。それが、日光東照宮の造営、修築にあたった工匠たち。日光御成街道沿いのこの地に、そのまま足をとどめ、人形づくりを始めた。これが、岩槻で江戸期以来、人形作りが盛んになった理由。大消費地・江戸が近かったことも大きな要因であったことは、言うまでもない。
 


愛宕神社の大構
国道122号線・岩槻駅入口交差点を越え、ひとすじ先の交差点を線路方向に折れる。線路手前に愛宕神社。少々寂しげなお宮さま。なるほど土塁上に鎮座まします。

「愛宕神社の大構」の案内;戦国時代の末から江戸時代の岩槻城下町は、その周囲を土塁と掘が囲んでいた。この土塁と掘を大構(外構・惣構・土居)という。城下町側に土塁、その外側に掘が巡り、長さは8キロに及んだ、という。 この大構は天正年間(1580年代)頃、小田原の後北条氏が豊臣政権との緊張が高まる中、岩槻城外の町場を城郭と一体化するため、築いたものとされ、城の防御力の強化を図ったほか、城下の町場の保護にも大きな役割を果たした。
廃城後は次第にその姿を消し、現在は一部が残っているにすぎず、愛宕神社が鎮座するこの土塁は大構の姿を今にとどめる貴重な遺構となっている。 

岩槻城址公園
再び国道122号線に戻り、岩槻城址公園に向かう。渋江交差点を越え、岩槻商高入口交差点を南に折れ、諏訪神社に。城址にあるのだから結構大きな神社か、とはおもったのだが、小じんまりしたお宮さま。 神社脇を公園に。桜の頃でもあり、家族連れが目立つ。公園をふたつに分ける道路脇に岩槻城の案内。
概要をメモする;「岩槻城は室町時代に築かれた城郭。築城者については大田道潅とする説、父の大田道真とする説、そして後に忍(現行田市)城主となる成田氏とする説など様々。16世紀の前半には太田氏が城主。が、永禄10年(1567年)、三船台合戦(現千葉県富津市)で大田氏資が戦死すると小田原の北条氏が直接支配するところとなる。
 北条氏は天下統一目指して関東への進出を図っていた豊臣秀吉と対立。やがて天正15年(1590年)豊臣方の総攻撃を受けた岩槻城は2日後に落城。同年、秀吉が北条氏を滅ぼすと徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の家臣高力清長が城主となる。 江戸時代になると岩槻城は江戸北方の守りの要として重要視され、幕府要職の譜代大名の居城となる。
室町時代から江戸時代まで続いた岩槻城も、明治維新後に廃城。城の建物は各地に移され土地は払い下げられ、400年の永きに渡って続いた岩槻城は終焉の時を迎える。
岩槻城が築かれた場所は市街地の東側。元荒川の後背湿地に半島状に突き出た台地の上に、本丸・二の丸・三の丸などの主要部が、沼地をはさんで北側に新正寺曲輪、沼地をはさんだ南側に新曲輪があった。
主要部の西側は掘によって区切られ、さらにその西側には武家屋敷や城下町が広がっていた。また城と城下町を囲むように大構が建てられていた。 岩槻城の場合、石垣は造られず、土を掘って掘をつくり、土を盛って土塁をつくるという関東では一般的なもの。現在では城跡の中でも南隅の新曲輪・鍛冶曲輪(現在の岩槻公園)が県史跡に指定。どちらの曲輪も戦国時代に北条氏によってつくられた出丸で、土塁・空掘・馬出など中世城郭の遺構が良好に残されており、最近の発掘調査では、北条氏が得意とした障子構がみつかっている」、と。 

元荒川

前々から気になっていた岩槻城をやっと歩くことができた。低湿地を前に、台地に築かれた城。利根川の東に陣取る古河公方側の武将に対抗する、関東管領・上杉方の橋頭堡として東に睨みをきかせていたのであろう。さて、どの程度の台地かと、元荒川方面に下ることにする。
崖上から下を見る。結構の高さがある。確かに台地である。 崖を下り花見で盛り上がる皆様の脇を進み、元荒川に。川のすぐ脇には進めない。川道から少し離れたところに遊歩道。桜並木が美しい。満開を少し過ぎた頃ではあるが、十分に桜を堪能した。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)






川筋に沿った遊歩道を北に進む。元荒川についてまとめる。全長61キロ。埼玉県熊谷市佐谷田を基点として、おおむね南東に下り、行田市・鴻巣市・菖蒲町・桶川市・蓮田市・岩槻市をへて越谷市中島で中川に合流する。寛永6年(1629年)の荒川付替により、荒川が熊谷市久下で締め切られるまでは、この元荒川が本流であった。利根川が東遷され、荒川が西遷され、ふたつの水系は現在では別系となっているが、往古の荒川は利根川の支川であったことはいうまでもない。
ちなみに、桶川市小針あたりの備前堤で元荒川は綾瀬川と分かれるが、どうもこの綾瀬川筋がもともとの荒川の川筋でもあった、とか。
荒川の西遷事業って、元荒川の流れを締め切り、西を流れる入間川筋につなげ、現在の荒川筋を本流へと瀬替えした工事。荒川付替の主たる理由は中山道を水害から防ぐためのものであった、とか。
鴻巣市吹上地区で元荒川の上流部を見たことがある。取り立てて趣のある川筋、ってものではなかったが、ここまで下れば川幅も結構広く、野趣豊かな川筋となっている。地図だけではなかか実感できない川筋の雰囲気を味わいながら、先に進む。国道2号線を越え、本丸地区を進む。岩槻城の本丸があったあたりであろう。東武野田線を越え、鬱蒼と茂る森を目指す。その鎮守の森に久伊豆神社が鎮座する。 

久伊豆神社
前々から結構気になっていた神社。最初にこの神社の名前を知ったのは、鈴木理生さんの『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラリー)』。関東における神社の祭祀圏がクッキリとわかれ描かれていた。利根川から東は香取神社。利根川の西の大宮台地・武蔵野台地部には氷川神社。この香取・氷川の二大祭祀圏に挟まれた元荒川の流域に80近い久伊豆神社が分布する。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
香取神社の祭神はフツヌシノオオカミ(経津主大神)。荒ぶる出雲の神・オオクニヌシ(大国主命)を平定するために出向いた神。氷川神社の祭神はスサノオ・オオナムチ(オオクニヌシ;大国主命)・クシナダヒメといった出雲系の神々。が、この久伊豆神社の由来はよくわからない、と。神社に行けば何か分かるかと、期待しながら歩を進める。 
予想に反して大きいお宮様。想像では祠程度の神社と思っていた。こんなに大きな神社であった、とは、少々の驚き。神社の由来をチェック:神社由来:御祭神:大国主命。今をさる1300年前、欽明天皇の御世、出雲の土師連の創建したものと伝えられる。その後相州鎌倉扇ケ谷上杉定正が家老太田氏に命じ岩槻に築城の際、城の鎮守として現在地に奉鎮したといわれている。江戸時代歴代城主の祟敬厚く、特に家康公は江戸城の鬼門除けとして祈願せられた、と。 大国主命(大己貴命)、ということは出雲系の神社。出雲の土師連の創建した、ってことは先日歩いた鷲宮神社の由来と同じ。鷲宮神社の祭神は天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命。
天穂日命って、アマテラスの子供。大国主を平定するために出雲に出向くが、逆に大国主に信服し家来となり、出雲国造の祖となった、とか。とにもかくにもバリバリの出雲系の神様である。 
土師氏とは、埴輪つくりの専門家集団。野見宿禰をその祖とする。埴輪って、天皇がなくなった時、殉死者の代替としてつくられたのも。古墳の周りに置かれることもあり、土師氏は古墳つくりの専門家といった性格ももつようになった、とか。元荒川流域には古墳が多い。また、上野国は埴輪のメッカ、とも言う。土師氏が祀る久伊豆神社が、この元荒川流域に多いのは、こういったことも一因、か。勝手な解釈というか、妄想。根拠はない。
ちなみに、菅原道真の菅原氏は土師氏の後裔。古墳がなくなる頃、土師氏を菅原に改めてる、と。 久伊豆神社の分布範囲は、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している、とか。その中心地・騎西町にある玉敷神社が、久伊豆神社の「総本家」という。そのうちに訪れてみたい。

 慈恩寺
久伊豆神社を離れ、東岩槻の慈恩寺に向かう。東武野田線に沿って、元荒川に戻る。線路のすぐ上流にかかる橋を渡り、東岩槻地区に。道なりに北に北に進み、左に団地を見ながら東岩槻小学校脇に。小学校を過ぎる頃から、畑地の中を歩くことになる。
のんびり、ゆ ったり歩を進め、しばらく北に歩くと坂東観音霊場12番の札所・慈恩寺がある。駅から2キロ強といったところ。
境内前の駐車場には幾台かの車。観音巡礼の人達であろう。 慈恩寺。天長年間(824~34)慈寛大師の草創という。慈覚大師・円仁。下野国の生まれ。第三代比叡山・天台座主。最後の遣唐使でもある。慈寛大師、って、いままでの散歩では、鎌倉の杉本寺、目黒不動・龍泉寺、川越の喜多院などで出合った。
慈恩寺は往時本坊四十二坊、新坊二十四坊といった大寺ではあったよう。境内も13万坪以上あった、と。このあたりの地名が慈恩寺と呼ばれているのは、その名残であろう。
江戸期には徳川家の庇護も篤く家康より寺領100石を賜っている。また、本尊は天海僧正の寄進によるもの、とか。ともあれ、天台宗の古刹であった、ということだ。『坂東霊場記』に「近隣他境数里の境、貴賎道俗昼夜をわくなく歩を運び群集をなせり」、と描かれているように、昔は、門前市を成すって活況を呈していたのであろう。が、現在では、あっさり、というか、さっぱりしたもの。本堂前には南部鉄でつくられた鉄の灯篭があった。 

玄奘三蔵塔
慈恩寺を離れる。のんびりした風景。慈恩寺の寺名の由来は唐の大慈恩寺から。このあたりの風景が慈覚大師の唐での学び舎・大慈恩寺の風景によく似ていたから、とか。そういわれれば、風景もありがたいものと思えてくる。
そのこととも関係あるのだろうが、近くに「玄奘三蔵塔」が。玄奘三蔵法師の骨を分骨している、と。大慈恩寺って玄奘三蔵法師が天竺・インドへの仏典を求める旅から戻り、その漢訳に従事したお寺さま。先の大戦時、南京で日本陸軍が偶然発掘し、一部をこの地におまつりした、という。ちなみに、奈良の薬師寺にはこのお寺さまから、分骨したということである。 

古隅田川
東武野田線・豊春駅へと向かう。徳力地区を越えると春日部市に。両市の境あたりに水路がある。古隅田川。岩槻区南平野を基点とし、春日部市梅田で大落古利根川に合流する。あれ?南流しないで、北流している。どういうことか?チェックしてみた。
近世以前、利根川東遷事業、荒川西遷事業による河川の瀬替え以前は、この川は他の川筋と同じく南流していた。流路は春日部市梅田あたりまでは古利根川筋を流れていた。梅田で現在の川筋とは異なり、南西へと流れを変え、岩槻市長宮あたりに向かって下り、現在の元荒川に合流。
次いで、元荒川を流れ越谷市中島あたりで中川筋の流路となり、最後は隅田川につながっていた。 流れが逆方向になったのは、利根川・荒川の瀬替えのため。
瀬替えによって水源を失った元荒川・古利根川は水位が急激に低下。そのため、岩槻市長宮あたりから春日部市梅田方面に向かって北東に逆流することになった、という。
で、古隅田川の東京都に入ってからの川筋だが、いつだったか、千代田線綾瀬駅あたりで古隅田川に出合ったような気がする。
調べてみる。古隅田川は中川を下り、東京都に入る。足立区中川あたりで中川から分かれ、葛飾区小菅で綾瀬川に合流。その後は北千住あたりを経て、隅田川に通じていた、なんとなく流路を把握できた。 

東武野田線・豊春駅
古隅田川を越え、東武野田線・豊春駅に到着。豊春、って名前が気になりチェック。明治22年に11の村々が合併してひとつの村ができるとき、「年々耕作の豊かに熟して春和の候の如く合併各村和熟せんことを望むにあり」ということから豊春という名前となった,と。これって、東大和市ができるとき、「大いに和するべし」ということから名付けられた、ってことと気分は同じ。地名の由来って、一定のルールもなく、ために、面白い。 
ついでのことながら、駅の近くには、梅若伝説とか在原業平ゆかりの業平橋、といった旧跡が残る。梅若伝説は墨田の墨堤にあった木母寺が「本家」。また、業平橋というか、在原業平の「都鳥...」のお話も、墨田区が「本家」。昔の隅田の流れに沿って、この地にまで伝わってきたのだろう、か。はたまた、その逆か、はてさて。

それはそれとして、今回の散歩は思いもかけず久伊豆神社に出会え、気持ちも軽やかに家路に向かう。

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