月曜日, 5月 14, 2007

関宿散歩:利根川東遷事業の地を辿る

平将門のゆかりの地を訪ねる散歩メモの第三回。将門の営所のあった岩井を離れ、最後の目的地・関宿城跡に向かう。国道354号を北西に古河方面に。利根川に架かる「境大橋」を渡るとすぐ、関宿城博物館。 利根川と江戸川の分岐点の近くにある。本当に、まっこと、本当に来たかったところ。利根川東遷事業ってどんな規模のものだったのだろう、江戸川と利根川の分かれるところってどんな風景であるのだろう、舟運の要衝っていうけれど、大河を遡るわけで、どの程度の流量なのであろう、などとあれこれ想像していたわけだ。やっとのこと関宿の地に来ることができた。

関宿城博物館

到着時間が4時半を過ぎ。関宿城博物館は既に閉館していた。ここに来た目的は、利根川東遷、というか、利根川の瀬替えに興味があったから。関宿城自体がどういった歴史をもつものか、なにもしらなかった。
関宿の歴史との唯一の接点は千葉・市川散歩のとき。市川市・国府台にある総寧寺に関宿城主であった小笠原氏の墓所があった。これは総寧寺自体がもともとは関宿にあったものが、国府台に移ったため、とか。
小笠原氏をきっかけに江戸期の関宿城主をチェックすると、牧野氏・板倉氏・久世氏といった老中格の譜代大名が城主となっていた。奥州の外様大名への備えとして重要な地であったわけだ。利根川・江戸川の分岐点、ということは、舟運に限らず交通・物流の要の地であったわけで、当たり前といえば当たり前のことではあった。で、散歩のメモをきっかけにあれこれ調べると、関宿から、まことに波乱万丈の歴史が現れてきた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



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本日のルート;古河市>古河歴史博物館>高見泉石記念館>利根川>古河総合公園>古河公方別邸>・・・>境歴史民俗資料館>逆井城址公園>岩井・国王神社>岩井営所跡>関宿城

関宿時空散歩:「空」の巻
当初関宿については、その地理的なところにフォーカスを充ててのメモと思っていた。が、その歴史も結構のもの。「時空散歩」がたのしめそう、である。まずは「時空散歩」の「空」、空=関宿の地理、からはじめる。当然のこととして、此処に来た最大の理由、利根川東遷事業の視点からメモしてみたいと思う。

利根川と江戸川の分流点
とりあえず歩きはじめる。向かう場所は利根川と江戸川の分流点。別にこれといって道があるわけではない。葦が生い茂る低地を「力任せ」に進む、のみ。背丈以上もあるような葦原。とてものことひとりでは心細くて歩けたものではない。また、こんなところを歩く酔狂な者など居るはずもない、だろう。周囲に塵芥が散見する。水量が増したとき流れ着いた浮遊物であろう、か。葦原の踏み分け道を進む。葦原が切れ、川筋近く、テトラポットが幾重にも積まれている。足元を気にしながら、突端に進む。利根川と江戸川の分岐点に到着。結構時間がかかった。30分ほど歩いたような気がする。川面に手を入れ、思わず満足の笑み。わけの分からない達成感ではある。
利根川と江戸川の分岐点と書いた。が、正確には、昔からここに利根川・江戸川が流れていたわけではない。目の前に流れるこれらの川筋は、人工に開削された水路である。現在「利根川」と呼ばれている水路は、「赤堀川」と呼ばれる人工水路であった。また、現在「江戸川」と呼ばれる水路は、これもまた「逆川」と呼ばれる人工水路であった。

赤堀川は元和7年(1621年)に開削。関宿から上流の栗橋まで掘り進められたわけだが、これはおなじく元和元年、赤堀川の上流、佐波地区から栗橋までの8キロを開削し、利根川と渡良瀬川を合流させた「新川通り」とよばれる直線河道の延長上につくられたもの。
この赤堀川は関東ローム層台地を掘り割り、江戸に流れ込んでいた利根川・渡良瀬川を常陸川筋とつなぎ、銚子から太平洋に流す、いわゆる、利根川東遷事業の第一歩といってよい。とはいうものの、開削された当時は工事のミスか、それとも計画通りなのか定かには知らねども、通常殆ど水はながれていなかった、よう。「新川通り」からあふれる洪水時対策用水路であった、ともいわれる。で、工事を繰り返し、幅50m、深さも9mといった「大河」となり、ちゃんと水が流れ始めたのは元禄11年(1691年)の頃。が、水深・川幅などを勘案すると、常陸川水系にインパクトを与えるほどの水が流れ始めたのは、江戸時代後期の文化6年(1809)年ころになってから、とも言われる。

一方、現在江戸川と世ばれている川筋は、このあたりは当時「逆川」と呼ばれていた。関宿の少し南、江川の地まで開削されてきた江戸川と、赤堀川、というか、常陸川水系をつなぐものであった。『日本人はどのように国土をつくったか;学芸出版社』によれば、この逆川は複雑な水理条件をもっていた、と。普段は赤堀川(旧常陸川)の水が北から南に流れて江戸川に入る。が、江川で「江戸川」と合流する川筋・「権現堂川」の水位が高くなると、江戸川はそれを呑むことができず、南から北に逆流し、常陸川筋に流れ込んでいた、と言う。

この江戸川も上流部は人工的に開削されたものである。寛永11年(1635年)に起工し寛永18年(1641年)通水。下流・野田橋の近く、金杉あたりから18キロにわたって関東ローム層の台地を掘り割ってきた。江戸川の開削も洪水対策のため、と言われる。瀬替え、堰の締め切りなどにより、権現堂川から庄内古川に集中することになった、利根川・渡良瀬川水系の水を、江戸川に集めることにしたわけだ。沖積低地上の庄内古川筋を流れていた利根川の水を、関東ローム台地の中に導水し治水につとめた、ということ、である。

利根川の河道の変遷
利根川の河道の変遷をまとめておく。上でいろいろメモしながらも、やっぱりこの複雑な水路を整理しないことには、少々混乱してしまいそう。派川は省略し、主道をまとめる。
利根川は群馬県の水上にその源を発し、関東平野を北西から南東へと下る。もともとの利根川は大利根町・埼玉大橋近くの佐波のあたりで現在の利根川筋から離れる。流れは南東に切れ込み、高柳・川口方面へと続いていた。浅間川とよばれていたようだ。地図を見ると、現在は「島中(領)用水」が流れている。が、これは昔の浅間川水路に近いのだろうか。で、ここから流れは現在の「島川」筋を五霞町・元栗橋に進む。ここで北方から古河・栗橋・小右衛門と下ってきた渡良瀬川(思川)と合流し、現在の権現堂川筋を流れる。そして上宇和田から南へ下る。昔の庄内古川、現在の中川筋と考えてもいいだろう。水は下って江戸湾に注いでいた。これがもともとの利根川水系の流路である。

この流路を銚子へと変えるのが利根川東遷事業。狭義では江戸開府以前に行われた「会の川」の締め切り工事から「赤堀川」通水までを指す。もっとも、広義には、江戸初期から昭和初期までの400年に渡る河川改修プロジェクトを指す、とも。ともあれ、文禄3年(1594年)、忍城の家老小笠原氏によって羽生領上川俣で「会の川」への分流が締め切られる。これが「会の川」締め切り。
ついで、元和7年(1621年)、浅間川の分流点近くの佐波から栗橋まで一直線に進む川筋を開削。これが先にメモした「新川通り」とよばれるもの。この「新川」開削に合わせて、高柳地区で浅間川が締め切られる。そのため、それまでの島川への流れが堰止められ、川筋は高柳で北東に流れ伊坂・栗橋に。そこから渡良瀬川筋を下り、権現堂川から庄内古川へと続く流路に変更された。

「新川通り」は開削されたものの、利根川の本流とはなっていない。この人工水路が本流となったのは時代をずっと下った天保年間(1830年―44年)頃と言われる。この新川の延長線上に開削されたのが上でメモした「赤掘川」である。 この赤堀川も当初はそれほど水量も多くなく、新川の洪水時の流路といったものであったようだが、高柳・伊坂・中田へと流れてきた利根川水系の水と、北から下り、中田あたりで合流した渡良瀬川の水をあつめ、次第に東に流すようになったのであろう。

利根川の瀬替えにより、利根川水系・渡良瀬川水系の水が権現堂川筋から庄内古川に集まるようになった。結果、沖積低地を流れる庄内古川が洪水に脅かされることになる。その洪水対策として関東ローム層の台地を開削したのが「江戸川」。この江戸川とつなぐため、上宇和田から江戸川流頭に位置する江川までの権現堂川が整備される。権現堂川から庄内古川への流水は閉じられ、この結果、栗橋で渡良瀬川に合流した利根川本流は、栗橋・小右衛門・元栗橋をとおり権現堂川を下り、関宿から江戸川に流れることになった。また、江戸川の通水をみた寛永18年(1641年)に江戸川流頭部と常陸川を結ぶ逆川が開削されたのは、上でメモしたとおりである。

利根川・江戸川の分流地点を離れ、江戸川に沿って歩く。道などなにもない。本当に先に進むことができるのか、少々不安になるほど。なんとか、難路を切り抜け堤防をよじ登る、といった有様で、中ノ島公園に到着。関東一と言われるこぶしの大樹がある、という。しばし休憩し、長い橋を歩いて関宿城博物館に戻る。

関宿時空散歩:「時」の巻

関宿の時空散歩の前半、「空」=地理について、利根川流路の変遷をまとめた。今度は「時」=歴史。戯れに、といった軽い気持ちでチェックしたのだが、これがとんでもないことになった。簗田氏の登場。関宿の地を舞台に、小田原・北条、上杉謙信、武田信玄を相手に丁々発止。常に古河公方の側に立ち、戦国期を乗り切った、まことに「とんでもない」一族がこの地にいた。少々長くなるが、梁田氏および関宿を巡る戦国騒乱をまとめておく。

簗田(やなだ)氏

まずは、簗田(やなだ)氏の出自について。桓武平氏の流れをくむ、とか、源義家に従い「前九年の役」で活躍し、その恩賞で下野・簗田御厨に土着した、とか、例によってあれこれ。定かにはわからず。が、出自はともあれ、簗田氏は関東公方の家来であったことは間違いない。公方よりのおぼえもめでたく、側近中の側近であったようで、公方から名前の一字を頂戴したり、息女を鎌倉公方・足利持氏に輿入れするほどの強い結びつきになっていた。

「永享の乱」の勃発。先にメモしたように、鎌倉公方・持氏と京都の将軍&関東管領上杉家の争い、である。乱は持氏の死をもって終わる。先にメモしたように、持氏の遺子は各地に逃れる。で、第四子・永寿王丸を鎌倉から逃したのがこの簗田氏である。簗田氏にとって、永寿王丸は孫にあたるわけで、当然といえば当然、か。その後紆余曲をへてこの永寿王丸が古河公方・足利成氏となる。持氏に従った簗田氏は領地を下河辺荘、本拠は下総猿島郡水海(総和町)に移すことになる。
さて、関宿城のはじまり、であるが、それは結城合戦のころ。幾筋もの河川が交錯するこの地に下河辺氏が砦をつくる。これが、関宿城のはじまり、と言われる。 で、件(くだん)の簗田氏が関宿城に入ったのは長禄元年(1457年)の頃。足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことから勃発した、古河公方と関東管領上杉家の騒乱「享徳の乱」の真っ最中のことだ。簗田氏は、持氏に息女を嫁したように、代々古河公方に息女を嫁していた。当然のことながら、両者強い結びつきを保っていた。古河と関宿という強力なフォーメーションによって、舟運・交通の要衝を押さえていたわけだ。

とはいうものの古河公方も簗田氏も常に一枚岩であったわけではない。二代古河公方・足利政氏のとき、政氏と嫡男・高基と不和。簗田氏も古河政氏方、高基方に分かれて対立。足利高基が簗田高助の関宿城に移り、古河城の足利政氏・簗田政助と対峙することになったことも。最後は、足利政氏は太田氏をたより岩槻城に移り、出家。最後は足利高基も、政氏と和解した、ということだ。

もうひとつややこしい問題が起きる。それは子弓公方の問題。足利義明。二代古河公方・足利政氏の次男である。義明は、はじめは兄の高基と結び、父・政氏を排除する。が、上総武田氏や里見氏の助力を得て力をつけると、今度は、公方の座を兄の高基と争うことになる。上総・安房の勢力を集め、足利高基を支持する下総・千葉一族の領地に侵入。古河を目指す。この対抗策として、古河公方高基は小田原北条・二代氏綱と結ぶ、ことに。足利高基の嫡子・晴氏に北条氏綱の娘を嫁する、という婚姻政策をとることになる。敵の敵は味方、ということ、ではあるが、古河公方と小田原・北条のアライアンス、というか、小田原・北条氏の勢力下に組み込まれる第一歩、といえよう。

が、事はそれほど簡単ではない。古河公方・足利高基の死。高基の嫡子・晴氏は北条を嫌い、簗田高助の女を正室に迎えようとする。父への反抗か、はたまた、北条氏の影響を排除しようとしたのか。実際は影響力の低下を恐れた簗田氏の暗躍の結果、ではないか、とも言われている。
そうした状況下で起きたのが、天文7年(1538年)の「国府台合戦」。古河公方足利晴氏をたてる北条氏綱・氏康と子弓公方・足利義明率いる安房・上総軍勢の戦い。市川・国府台散歩でメモした通り、安房・上総勢力の足並みが揃わず、子弓公方・義明は単騎突撃で討ち死に。古河公方・足利晴氏が勝利。結果的に、北条氏の古河公方に対する影響力が強まることになる。北条氏の「威圧」もあったのか、晴氏は心ならずも、氏綱の女を正室に迎えざるを得なくなった。晴氏心穏やかならざること、このうえなし。

で、そんな状況下で起きたのが「日本三大夜戦」と呼ばれる「川越夜戦」。天文14年(1545年)、北条勢が立て籠もる川越城が上杉の軍勢に包囲される。背後に今川義元の脅威があるため北条氏康は動けず。北条方は絶望的状態。このような状況下、北条氏に不満を抱く足利晴氏は上杉軍に与する。ここでおきたのが「川越夜戦」。北条勢は十倍の上杉方に夜襲。上杉方敗退。古河公方・足利晴氏は古河に逃げ帰ることになる。

川越夜戦の勝利により北条氏の武蔵支配は完了したといっても、よい。さて、北条氏を「裏切った」古河公方の仕置きであるが、このときは穏便にすませている。古河公方の利用価値は、まだあったのだろう。滅ぼすことはせず、北条氏正室の子・義氏を古河公方の跡継ぎとすることで決着している。ということで、簗田高助の息女の子、晴氏の本来の嫡子である藤氏は廃嫡。古河公方同様、簗田氏もその利用価値ゆえに、厳しい仕置きをすることはなく、引き続き関宿の城を任している。

北条氏が完全に古河公方を「乗っ取った」のは天文23年(1554年)。北条に不満を抱く晴氏・藤氏親子は古河城で挙兵。が、あっという間に北条氏が平定。晴氏は幽閉される。 この事件を契機に北条氏は北関東への本格的進出を決定。永禄元年(1558年)、北条の血を継いだ足利義氏を古河公方とした。居城は関宿城。で、代々関宿を治めてきた簗田氏を古河城に移す。関宿の舟運を握る簗田氏の勢力解体の試みの第一歩、ということだろう。舟運の要の地・関宿をわが手にという、北条の戦略でもあろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

ここで、北条の古河公方権力の完全支配に対し、危機感を抱いたのが安房の里見、常陸の佐竹氏など。これら反北条方武将の要請で上杉謙信が関東に攻め入ることになる。永禄3年(1560年)のことである。関東討ち入りに際し、謙信は北条に不満を抱く簗田高助に帰順求める。条件として、外孫・藤氏を古河公方とする約束。謙信の関東進出に対し、関宿城の足利義氏は謙信を恐れ、高城氏の小金城、本佐倉城などを転々とし最終的には鎌倉に逃げてしまう。謙信の小田原攻撃。城は落ちず、謙信鎌倉に赴き、山内上杉氏の家督と氏関東管領職を引き継ぐことになる。越後に引き上げ。足利藤氏を古河城に、簗田氏を関宿に置き越後に帰る。

謙信が越後に引き上げた後、北条氏の反撃開始。要衝の地である関宿城、古河城奪還を図る。永禄5年(1562年)古河城攻略。足利藤氏捉えられ伊豆に幽閉・殺害される。簗田氏のこもる関宿城が一挙に緊張。ここからが、この地関宿を舞台にした、三度におよぶ関宿合戦となる。
第一次関宿合戦;北条氏が古河公方の解体を目指し関宿城の攻略戦を開始。武蔵を手中におさめ下総の大半を掌握した北条氏は常陸・上野・下野への進出を図る。水陸の要衝の地である関宿を手に入れることが必須であったのだろう。永禄8年(1565年)、北条氏康は北条に内通した大田氏資の岩槻城と江戸城を拠点に関宿攻略開始。先鋒は大田氏資。簗田氏それを撃退。越後勢来襲の報。氏康撤収。上杉謙信も臼井城攻撃の失敗や足利藤氏の死などもあり簗田と北条は和睦。これが第一次関宿合戦。

第二次関宿合戦;永禄11年(1568年)、八王子・滝山城主・北条氏照が野田氏の栗橋城を接収し関宿攻略を図る。このとき政治状況が大きく変化。「甲相駿三国同盟」を破り信玄が駿河に侵攻したわけだ。そのため北条氏は上杉謙信との同盟を結ぶことになる。結果、関宿を巡る戦線も解消。北条氏照は関宿から兵を退く。謙信としても古河公方にすると約定した藤氏も既になく、北条の血を継ぐ義氏を古河公方にすることに異議はなし。結果として、簗田氏は孤立。

孤立した簗田氏がとった戦略は予想をうわまる大胆なもの。その戦略とは藤氏の弟・藤政の擁立、そして武田信玄との同盟を結ぶこと。信玄は厨橋城付近まで進出する。北条方に緊張。そんなとき、元亀2年(1571年)北条氏康の逝去。遺言として後継者の氏政に、「相越同盟の破棄と相甲同盟の復活」を指図。北条氏政は信玄と和睦。その結果簗田氏、武田氏とも敵対すること、に。

第三次関宿合戦;天正元年(1573年)、北条氏照は関宿城を夜襲し失敗。翌年再度出兵。簗田藤政は佐竹・上杉謙信に救援求める。上杉謙信は武蔵羽生まで出兵。背後の敵や利根川の増水で積極的後詰できず。その機に乗じて、北条氏政は関宿攻略に。謙信、春日山より出兵。佐竹氏・宇都宮氏に出陣求める。謙信は北条の後詰を断つべく忍城、騎西城、菖蒲城の城下焼き討ち。藤岡まで進出。が、足並みに乱れ。佐竹が謙信との同陣を拒む。昔、勝手に北条と結んだことへの反感、か。「幸島(猿島)口」に越軍現る、の報を受け、氏政は飯沼・逆井あたりの防衛を命じている。先にメモした逆井城を拠点としたのであろうか。ともあれ、北条軍は越軍の足並みの乱れに乗じ、関宿攻撃へ大包囲戦。総攻撃。簗田氏は佐竹氏の仲介を頼み関宿城開城。水海城へ退去。これにより、簗田氏の関宿支配が終わり、関宿は北条直轄の軍事拠点となる。

関宿合戦の結果、古河公方領は北条に組み込まれる、天正10年(1582年)古河公方・足利義氏がなくなる。が、既に古河公方の権威を必要としなくなっていた北条氏は、後継ぎをつくることはなかった。古河公方の事実上の断絶ということである。
古河公方係累のその後;天正18年(1590年)小田原の陣で北条滅亡。義氏の死。息女・氏姫は秀吉の命により、古河城を退去。鴻巣御所に移る。秀吉に子弓公方義明の孫国朝との婚姻を命じられる。こういった「優遇」処置は、国朝の姉が秀吉の側室であった、ため、と言われる。名門足利家の血を絶やさない、との強い意地、であった、とも。が、国朝は子をなさないまま逝去。氏姫は秀吉の命で国朝の弟と再婚、子をもうける。義親。これが喜連川氏の祖。下野(栃木県さくら市)に立藩され、明治まで続いた足利の子孫である。で、氏姫は元和元年(1620年)鴻巣御所でなくなる。鴻巣散歩のときにみた義氏・氏姫の墓所がこれである。江戸期にはいると関宿には譜代の重臣クラスを配置。関宿の重要性は変わらず、老中クラスが城主。「出世城」と呼ばれた、と。

関宿を訪れ、気になっていた利根川・江戸川分流点を実感し、その実感を忘れないうちにと、利根川東遷についてまとめた。また、思いがけなく簗田氏という、北関東の戦乱を影で動かすフィクサーといった一族のことを知った。古河公方の古河からはじめ、将門の岩井、そして、この関宿。利根川の瀬替えだけが興味・関心ではあったのだが、あまりに古河公方と深く結びついた簗田氏のことを知るにつけ、古河と関宿はまさに文字通り、一衣帯水、であったことを大いに実感。時空散歩を終え,助手席NAVIをガイドに一路家路につく。

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