水曜日, 5月 30, 2007

さいたま:岩槻から春日部、そして中川水系合流点の越谷に

さいたま:岩槻から春日部、そして中川水系合流点の越谷に

利根川の東遷事業や荒川西遷事業ゆかりの地を何箇所か歩いた。また、東遷・西遷事業によって取り残され、埼玉の沖積低地に取り残された昔の利根川水系、現在の中川水系ゆかりの地も巡った。で、古利根川、元荒川といった中川水系の川筋を眺めていると、越谷市と吉川市の境にある吉川橋のあたりで、古利根川(中川)と元荒川が合流している。街工場の中を流れるのか、それとも緑豊かな郊外・牧歌的風景が広がるのか、どんなところか気になった。とりあえず行くべし、ということでとある休日、中川水系合流の地に出かけた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

大体のルートは、先日の岩槻散歩の時、時間切れで行けなかった東岩槻の慈恩寺を歩く。次に春日部市経由で北越谷に電車で進み、越谷へ。そして、久伊豆神社からいくつかの川筋を辿りながら中川合流点へと歩く、といった段取りとした。

本日のルート;東武野田線・東岩槻>諏訪>表慈恩寺をへて慈恩寺>徳力を通り>東武野田線・豊春>(電車移動)>春日部駅>春日部市郷土資料館>春日部駅>(電車移動)>東武伊勢崎線・北越谷>大沢地区>葛西用水(逆川)>県道19号線>久伊豆神社>県道19号>花田>新方川>増林地区>勝林寺>古利根川>古利根川沿いを中川合流点まで>弥生橋>中川沿いを下る>新方川と合流>合流点から少し引き返す>東埼玉道路>橋を渡り元荒川まで>元荒川を中川との合流点まで下る>吉川橋を渡り>平沼>保の交差点をへて>JR武蔵野線・吉川


東岩槻駅
Jr湘南新宿ラインで大宮、それから東武野田線に乗り換え東岩槻駅に。駅を降り、のんびりした駅前を北に進み、左に団地を見ながら東岩槻小学校脇に。小学校を過ぎる頃から、畑地の中を歩くことになる。

慈恩寺
のんびり、ゆったり歩を進み、しばらく北に歩くと坂東観音霊場12番の札所・慈恩寺。駅から2キロ強といったところ、か。境内前の駐車場には幾台かの車。観音巡礼の人達であろう、か。
慈恩寺。天長年間(824~34)慈寛大師の草創という。慈覚大師・円仁。下野国の生まれ。第三代比叡山・天台座主。最後の遣唐使でもある。慈寛大師、って、いままでの散歩では、鎌倉の杉本寺、目黒不動・龍泉寺、川越の喜多院などで出合った。
慈恩寺は往時本坊四十二坊、新坊二十四坊といった大寺ではあったよう。境内も13万坪以上あった、と。このあたりの地名が慈恩寺と呼ばれているのは、その名残であろう。江戸期には徳川家の庇護も篤く家康より寺領100石を賜っている。また、本尊は天海僧正の寄進によるもの、とか。ともあれ、天台宗の古刹であった、ということだ。『坂東霊場記』に「近隣他境数里の境、貴賎道俗昼夜をわくなく歩を運び群集をなせり」、と描かれているように、昔は、門前市を成すって活況を呈していたのであろう。が、現在では、あっさり、というか、さっぱりしたもの。本堂前には南部鉄でつくられた鉄の灯篭があった。

玄奘三蔵塔
慈恩寺を離れる。のんびりした風景。慈恩寺の寺名の由来は唐の大慈恩寺から。このあたりの風景が慈覚大師の唐での学び舎・大慈恩寺の風景によく似ていたから、とか。そういわれれば、風景もありがたいものと思えてくる。そのこととも関係あるのだろうが、近くに「玄奘三蔵塔」が。玄奘三蔵法師の骨を分骨している、と。
大慈恩寺って玄奘三蔵法師が天竺・インドへの仏典を求める旅から戻り、その漢訳に従事したお寺さま。先の大戦時、南京で日本陸軍が偶然発掘し、一部をこの地におまつりした、という。ちなみに、奈良の薬師寺にはこのお寺さまから、分骨したということである。

ついでのことながら、坂東三十三観音をメモしておく;
1番 杉本寺 神奈川県鎌倉市
2番 岩殿寺 神奈川県逗子市
3番 安養寺 神奈川県鎌倉市
4番 長谷寺 神奈川県鎌倉市
5番 勝福寺 神奈川県小田原市
6番 長谷寺 神奈川県厚木市
7番 光明寺 神奈川県平塚市
8番 星谷寺 神奈川県座間市
9番 慈光寺 埼玉県比企郡ときがわ町
10番 正法寺 埼玉県東松山市
11番 安楽寺 埼玉県比企郡吉見町
12番 慈恩寺 埼玉県さいたま市岩槻区
13番 浅草寺 東京都台東区浅草
14番 弘明寺 神奈川県横浜市南区
15番 長谷寺 群馬県群馬郡榛名町
16番 水沢寺 群馬県北群馬郡伊香保町
17番 満願寺 栃木県栃木市
18番 中禅寺 栃木県日光市中禅寺
19番 大谷寺 栃木県宇都宮市
20番 西明寺 栃木県芳賀郡益子町
21番 日輪寺 茨城県久慈郡太子町
22番 佐竹寺 茨城県常陸太田市
23番 観世音寺 茨城県笠間市
24番 楽法寺 茨城県真壁郡大和村
25番 大御堂 茨城県つくば市
26番 清滝寺 茨城県新治郡新治村
27番 円福寺 千葉県銚子市
28番 龍正院 千葉県香取郡下総町
29番 千葉寺 千葉県千葉市
30番 高蔵寺 千葉県木更津市
31番 笠森寺 千葉県長生郡長南町
32番 清水寺 千葉県夷隅郡岬町
33番 那古寺 千葉県館山市

古隅田川
東武野田線・豊春駅へと向かう。徳力地区を越えると春日部市に。両市の境あたりに水路がある。古隅田川。岩槻区南平野を基点とし、春日部市梅田で大落古利根川に合流する。あれ?南流しないで、北流している。どういうことか?チェックしてみた。
近世以前、利根川東遷事業、荒川西遷事業による河川の瀬替え以前は、この川は他の川筋と同じく南流していた。流路は春日部市梅田あたりまでは古利根川筋を流れていた。梅田で現在の川筋とは異なり、南西へと流れを変え、岩槻市長宮あたりに向かって下り、現在の元荒川に合流。次いで、元荒川を流れ越谷市中島あたりで中川筋の流路となり、最後は隅田川につながっていた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

流れが逆方向になったのは、利根川・荒川の瀬替えのため。瀬替えによって水源を失った元荒川・古利根川は水位が急激に低下。そのため、岩槻市長宮あたりから春日部市梅田方面に向かって北東に逆流することになった、という。
で、古隅田川の東京都に入ってからの川筋だが、いつだったか、千代田線綾瀬駅あたりで古隅田川に出合ったような気がする。調べてみる。古隅田川は中川を下り、東京都に入る。足立区中川あたりで中川から分かれ、葛飾区小菅で綾瀬川に合流。その後は北千住あたりを経て、隅田川に通じていた、なんとなく流路を把握できた。

春日部市郷土資料館
先に進み東武野田線豊春駅に。電車に乗り、春日部方面に向かう。なんとなく春日部駅で下車してみようと思った。駅前の案内板をチェック。駅から少し東に進んだところに春日部市郷土資料館がある。ちょっと眺めて資料など集め、なにか新たな発見でもあればと歩を進める。春日部東3丁目の教育センター内に資料館。さっと館内を歩き、『春日部文化財マップ』『春日部 庄和町の歴史』といった資料を入手。
概略をまとめる;春日部の名前は、中世、春日部氏を名乗ってこの地に住みついた武士団に由来する、と。鎌倉末期から室町にかけては、春日部重行が後醍醐天皇に従い、武功をたてた、といった記録もある。江戸時代、この地は日光道中・奥州道中第四の宿場町として栄えた。粕壁宿、も書かれている。また、古利根川を利用した舟運も盛んで、米麦の集散地でもあった。さてさて、時間がタイトになってくる。とっとと、中川水系の川筋が合流する「吉川」の地に進まなければ、ということで、駅に戻り、東武伊勢崎線・北越谷に急ぐ。

北越谷駅
北越谷駅の東口に出る。最初の目的地は越谷の久伊豆神社。大雑把に言えば、東に一直線に進んだところにある。北越谷東口駅前通を東に。東大沢橋の一筋南の橋を渡る。この水路は葛西用水。逆川とも呼ばれる。越谷市大吉・大吉調整池の近くにある寿橋あたりで大落古利根川から分かれ、新方川と交差。ついで、この久伊豆神社前を通り越谷市大沢で元荒川に合流する。葛西用水の一部であり、大落古利根川と元荒川を連絡するもの。

川に沿って遊歩道がもうけられている。逆川というのは流路が逆流した、ため。先ほどメモした古隅田川と同じ。逆川の場合は、昔、松伏溜井のあった古利根川から瓦曽根溜井のあった元荒川へと送水していた逆川は、洪水時とか非灌漑期には元荒川から古利根川に水が逆流した、ということである。溜井は簡単にいえば農業用水の溜池、といったところ、か。川のところどころの川幅を広げるなどして、水を溜め灌漑に使っていた、ということだ。


久伊豆神社
逆川を越えると直ぐに久伊豆神社。岩槻の久伊豆神社と勝るとも劣らない立派な構えの神社。名前から、というか、由来のよくわからない神社ということで、小さな祠程度と思っていたのだが、とんでもありませんでした。神社の何たるか、については、先回散歩の岩槻・久伊豆神社でメモしたので、ここでは省略。ちなみに、境内で田舎饅頭を農家のおばあさんが売っていた。即購入。東京から最も近い田舎饅頭入手スポットをゲット!結構うれしい。田舎では、柴餅と言っておった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

新方川
久伊豆神社を離れ、いくつかの川筋を確認しながら、本日のメーンエベトである、中川水系の川筋が合流する吉川に向かう。まずは、久伊豆神社の北東を流れる新方川に。花田2丁目、新方川に架かる宮野橋をマークし、携帯ナビウォークで進む。1キロ程度で新方川に。「ニイガタ川」と読む。起点は春日部市増戸と岩槻の平野地区あたり。越谷市中島で中川に合流する11キロ程度の河川である。流域は元荒川、大落古利根川、古隅田川の自然堤防に囲まれた沖積低地であり、合之掘川、安之掘川、武徳用水などの用排水路として使用されてきた、ようだ。
越谷市大吉に大きな調整池・大吉調整池がある。このあたりは、大落古利根川と元荒川に挟まれ浸水常襲地域であった、とか。それも、そんなに昔のことではない。昭和57年とか昭和61年の台風によって5000戸近い家屋が被害にあった、と言う。この調整値は水害被害の再発防止を図って造られた、と。

勝寺林
新方川を越え、次は古利根川。地図をチェックし、増林にある勝寺林にマーキングし、携帯ナビウォークで進む。勝林寺は渋江氏ゆかりの寺。渋江氏って、岩槻で地名にあり、ちょっと気になりチェックしていた。岩槻の地は中世、渋江郷と呼ばれたくらいであるから、渋江一族が威をとなえていたのだろう。そこに、太田道潅の父・道真(資清)が関東管領・上杉氏の家宰として岩槻に城を築く。渋江氏は太田氏の支配下に組み入れられるも、道潅の孫・資頼のとき北条氏に与し、一時太田氏を岩槻から除く。が、最終的には資頼に敗れる。で、この勝林寺は資頼との戦に破れた渋江氏が戦死者の菩提をとむらったお寺である、と。

古利根川(大落古利根川)
お寺の前に古利根川(大落古利根川)。大落古利根川は古利根川の正式名。起点は久喜市吉羽・杉戸町氏下野あたり。この地で葛西用水と青毛掘川が合流し、そこから下流が大落古利根川となる。流れは杉戸町・春日部市へと下り、越谷市増森・松伏町下赤岩で中川と合流する。地図をチェックすると、春日部から下の流れは「古利根川」と書かれている。全長27キロの中川水系に1級河川。
大落古利根川には多くの「落し」が合流する。「落し」は農業廃水路。掘とも呼ばれる。中川水系の低地に散在していた沼沢地を干拓するため江戸期につくられた排水路。この排水先が大落古利根川とされた。これらの「落し」には見沼代用水の支線である騎西領用水や中島用水から取水し灌漑に使われたあとの悪水(農業用排水)が集められている。見沼代用水の排水路となっている、ということ。大落古利根川はさまざまの「落し」から集められる水の排水路ではあるが、この川の基本は葛西用水の送水路である、と言えるだろう。

松伏溜井
大吉調整池の近くに、古利根堰がある。その上流は川幅も広くなっているが、ここは松伏溜井(ためい)と呼ばれる農業用水の貯水池。葛西用水はこの溜井に水を送水するために古利根川を利用しているといってもよい。また、松伏溜井の水は古利根堰で取水され、逆川(葛西用水)を経由して、瓦曽根溜井(元荒川、越谷市)へ送られる。瓦曽根溜井からは東京葛西用水、八条用水などに送水することになる。

中川に合流
利根川の東遷と荒川の西遷によって取り残された利根川の旧河川、現在の中川水系の河川であるが、これらの川筋は江戸時代に農業用水路として整備され、見沼代用水・葛西用水を中心にした農業用水のネットワークが確立した。で、この大落古利根川であるが、大正から昭和にわたる大規模河川改修により排水改良工事が行われ、葛西用水の送水路、また見沼代用水の排水路として現在に至っている。もちろんのこと、時代の変化にともない工場・家庭からの生活廃水をさばく都市型河川の性格を強めているのは言うまでもない。
大落古利根川の土手を進む。自然な雰囲気の残る川筋。1キロ強進むと中川に合流。合流点から1キロ強下ると新方川が合流。いつだったか、新河岸川を歩いていたとき、朝霞市で黒目川が合流。合流地点近くに橋がなく、夕暮れの中、もと来た道を引き返したことがある。この新方川との合流点でも同じ羽目に陥る。合流点から1キロ弱、新方川を西に戻り昭和橋に。昭和橋脇にまことに大きな道路。東埼玉道路。東京外環八潮インターから庄和に向けてつなげようとしている。現在は八潮インターから、庄和橋のちょっと北あたりまで開通している、よう。

元荒川に合流

昭和橋を渡り、新方川をふたたび中川合流点に。合流点から中川を600m強だろうか、南に下ると元荒川に合流する。あたりの景色は、のんびりした郊外の風景。本当の所は、町工場の密集した景色を想像していただけに、嬉しい誤算。合流点に近い中島橋を渡り、さらには中川にかかる芳川橋を渡り、南に下りJR武蔵野線・吉川駅に。中川水系の川筋巡りの散歩を終え、一路家路へと向かう。


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