今年(平成27年;2015年)に入り、春の桜の頃、再び二ヶ領用水を訪ねた。今度は、ニケ領用水の二つの取水口のひとつである宿河原取水口から南に下った。そのとき、たまたま宿河原堰の近くにあった「ニケ領せせらぎ館」を訪れ、ニケ領用水に関する資料を手に入れた。
当日は川崎堀が大師堀と町田堀に分かれる鹿島田まで下ったのだが、後日鹿島田から二つに分かれる大師堀と町田堀、そして悪水落としである渋川、そのほか成り行きでいつくかの支線を辿った。
さて、メモをはじめようと資料を見る。と、ニケ領用水の上部に大丸用水がある。ニケ領用水に注ぐ支流かと、ちょっと寄り道程度に大丸用水に取り付いた(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ)のだが、これが結構な規模の用水であり、結局数回に渡り歩くことになってしまった。
その大丸用水散歩のメモはなんとか書き終えたのだが、時期は春を越え夏となり、夏は沢三昧でしょうと、水根沢や逆川といった沢登りのメモにフックがかかり、二ヶ領用水のメモは、またまた据え置きとなってしまった。
地図をコピーし、その水路図をカシミール3Dに書き写す。元の地図は小さく、はっきりしたルートは特定できないのだが、カシミール3Dのプラグインである「タイルマップ」の関東平野迅速測図や「明治の今昔マッ」プを参考に水路トラックを引いた。そしてそのトラックデータをフリーソフトの「轍」でKMLファイルに変換し、Google Mapにインポートした(カシミール3Dでも直接KML ファイルを書き出すことができることはその後知った)。
もとよりそのルートの大半は暗渠であり、中には完全に埋められているものもあり、現在の地図では確認できないし、明治の地図にも記載されていないルートもあるので、推定図の域を出てはいない。
それはともあれ、この作業をしながら、なんとなくニケ領用水のメモを今まで躊躇っていた要因がわかったような気がする。自分の性格からして、まずは全体像を大雑把にでも把握できないことには、メモができない、というか、その気になれなかった、ということではあろう。
二ヶ領用水の水路全体の概要はわかった。今まで辿ったルートが全体のどういった位置づけの水路か、ということもなんとなくわかってきた。Google Mapにプロットしたニケ領用水の全体を頭に入れながら、今まで歩いたルートを、実際に歩いたログに拘らず整理しメモをはじめ、未だ歩いていないが何となく気になるルートを今後辿ろうと思う。その過程で、現在は大雑把ではあるGoogle Mapのニケ領用水概要図をより正確なものにしていければとも思っている。
本日のルート:京王稲田堤駅>大丸用水・菅堀>二ヶ領上河原堰堤>二ヶ領用水・上河原取水口>稲田取水所>二ヶ領用水と新三沢川の立体交差>ふだっこ橋>布田堰>中野島堰>沖川原橋>古い道標>一本圦堰>紺屋(こうや)前の堰>台和橋>「登戸付近の紙すき」の案内>新川橋>小泉橋>榎戸堰>榎戸の庚申塔>小田急線と交差>現在の五ケ村堀取水口>五反田川が合流>前川堀分岐>五ケ村堀緑地>新開橋>向ヶ岡遊園跡>長尾橋>長尾の天然氷>宿河原堰からの宿河原線と合流
●ニケ領用水
散歩に先立ち、二ヶ領用水の概要をまとめておく。ニケ領用水の流路図は上にメモした通り、川崎市の作成した水路マップを参考にGoogle Mapにプロットした。既にメモした通り、元図は小さく、かつコピーでもあり、正確な場所の特定は少々困難でもあり、明治の地図などを手掛かりに線引きした推定図にすぎない。大雑把な全体の位置関係、その規模感などを把握するためのものである。
で、二ヶ領用水の概略であるが、名前の由来は徳川幕府直轄の天領である稲毛領と川崎領を流れたことによる。全長32キロ(支線まで含まれているかどうか不明)、現在の神奈川県川崎市多摩区から川崎市幸区をカバーする。 用水工事に着手したのは慶長2年(1597)。正確には多摩川の両岸の測量がこの年に開始された、と言う。この両岸という意味合いは、六郷用水と二ヶ領用水のこと。用水開削は慶長4年(1599)。1月には六郷用水、用水は6月から開削が開始されたようだ。
用水工事の用水奉行は小泉次太夫。次太夫が家康より六郷領、稲毛領、川崎領の治水事業普請を下命されたのは天正18年(1590)。用水工事の測量が開始される7年も前のことである。
この年は秀吉の小田原攻めの真っ最中。その陣中にて秀吉より三河・遠州・駿河・甲斐・信濃の150万石から、関東6国・240万石へ移封が家康に伝えられた時である。家康は新封地の状況を把握し、多摩川両岸の開発が焦眉の急として、今川・武田そして徳川へと仕え治水に実績のある家系の次太夫にこの任務をアサインしたのであろう。
交通の要衝である小杉に陣屋を構えた次太夫は多摩川の両岸を調査。当時の多摩川は天正17年(1589)、18年(1590)と大洪水が続いた直後であり、それまで現在の流路より多摩丘陵に近い箇所を流れていた多摩川は、現在の流れにその流れを変えた。大洪水前の多摩川を「多摩川南流時代」、以降を「多摩川北流時代」とも称される。
天正17年(1589)の大洪水では、溝の口あたりから下流域が北東側にその流れを変えた。翌18年(1590)の大氾濫は上流の矢野口・菅あたりから溝の口あたりまでが大きく北に変えた。ほぼ現在の流路である。

その氾濫原を天正18年(1590)時点で52歳であり、戦傷のため不自由な足を引き摺り次太夫は7年にわたって多摩川の両岸を調査。工事の基本方針を決める。その概要は、稲毛領は上流部の菅村(現在の稲田堤辺り)の標高28m?30m、下平間付近が標高4m?5mほどで傾斜は問題なく、天正18年(1590)の洪水跡を用水幹線として活用し、流路中程の久地辺りで分水し下流を潤す。取水地は堰村(現在東名高速が走る辺り。堰の地名が残る)より上流ならどこでもよさそう、と。
川崎領は沖積デルタ地帯の平坦地が広がり、鹿島田辺りで幹線を二つに分け(大師堀と町田堀)、さらにその二つの堀から分水し、川崎の下流域を潤すといったものである(六郷用水は省略)。
次太夫の調査を踏まえ、慶長元年(1596)、家康臨席のもと幕閣より用水工事が正式に承認され、前述の如く慶長2年(1597)より測量が開始され、慶長4年(1599)より工事が開始されることになる。工事が完成したのは慶長16年(1611)、測量開始から14年後のことである。因みに工事は当時稲毛領・川崎領、そして六郷領ともに一村7軒程度であった状況を考慮し、役務負担を減らすため、六郷領水と二ヶ領用水の工事を3ケ月交代で行った、とのことである。
この用水開削により、「此の地(注:川崎領)数里の間水脈通ぜず、溝血梗塞し、毎歳旱、田に勺水無く、野に青草無し、居民産を失ひ、戸口従って減ず」と称された稲毛・川崎領、世田谷六郷領に灌漑用水、生活用水が供給されるようになり、江戸中期には用水の受益面積は約2000町歩、その石高は26,000石まで達したという。一町はほぼ1ヘクタール。よく比較に出る東京ドームと比較すれば、4.7ヘクタール(役4.7町歩)の東京ドーム400個強というところだろうか。
時代は移り、明治42年(1909)には灌漑・生活受益面積がおよそ2800町歩まで達したニケ領用水であるが、その後都市化、工業化の進展によりその受益面積は減少を続け、昭和16年(1941)には約1600町歩、昭和33年(1959)には546町歩、そして平成4年(1992)には26町歩となり、灌漑・生活の基盤としての役割を終え、現在は幹線部を河川として残す他はおおよそ暗渠または埋め潰されている。
現状の姿を大雑把にまとめると、上河原取水堰で多摩川から取水されたニケ領本川は取水口ちかくの稲田取水所から生田浄水場に送られ、工業用水として使用されている。余水はニケ領本川を下るも、久地の円筒分水手前の平瀬川に80%の水を落とす。
サイフォンで円筒分水に導水された余水20%の用水は開渠となって川崎堀を下り鹿島田の平間配水所に至る。この配水所は、昭和14年(1940)に造られた日本初の工業用水のための公営浄水場であった。が、臨海工場地帯の工業用水の需要減少に伴い、現在はその機能は停止し長沢浄水場と生田浄水場から送水管で送られる工業用水の配水をしているだけであり、ここまで流れていた用水も現在では活用されることなく暗渠をとおり多摩川に流される、とのことである。つまるところ、現在の二ヶ領用水は、一部が工業用水、また僅かに灌漑用水に活用はされているが、大半は多摩川に戻されている、と言うところだろう。
いつものことながら、全体のまとめが少し長くなってしまった。以上のまとめを頭に入れながら散歩のメモを始めることにする。
京王稲田堤駅
二ヶ領用水の取水口である二ヶ領上河原堰堤の最寄り駅京王稲田堤に向かう。駅名の由来は、明治31年(1898)、多摩川堤の完成と日露戦争の勝利を記念し稲田村大字菅の堤にソメイヨシノを植え、桜の名所となったことが契機。北原白秋作詞の『多摩川音頭』には「咲いた咲いたよ 稲田のさくら 時は世ざかり 時は世ざかり 花ざかり」と詠まれる。
斯くして「稲田堤」の名が広まり、昭和2年(1927)に南武線稲田堤停留場(現在の南武線稲田堤駅)が開業することにより、通り名として定着した。昔の大字を冠した「菅稲田堤」という地名は残るが、稲田堤という名は正式な地名として見当たらない。
稲田堤駅のある稲田村は江戸の頃、稲毛米という良質の米で名高く、将軍家や皇室に献上されていた、と言う。「稲田村で質のいい稲田米」。これって出来すぎの地名と産物の関係。そもそもが、流路定まることのない多摩川の氾濫原であり、稲毛領にはニケ領用水ができるまで一村に7軒程度の農家しかなかった、と上にメモした。
チェックすると稲田村ができたのは明治22年(1889)。江戸の頃の登戸村、菅村、宿河原村、堰村の4ケ村が合併してできたとのこと。そして、この稲田堤駅の辺りは菅村のようだ。慶長9年(1604)に大丸用水、慶長16年(1611)に開削されるまでは、菅村の地名の文字が示すように、多摩川の洪水の氾濫原に「菅(すげ)」が生い茂る寒村ではあったのだろう。
大丸用水・菅堀
現在の流路はここで切れるのだが、この三沢川は昭和18年(1493)に暴れ川である旧三沢川を改修し、素掘りで通した水路(旧三沢川は丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する)であり、江戸の頃はこの川はない。国土地理院の「今昔マップ首都 1896-1909」をチェックすると水路は先に進み、「二ヶ領用水」を越え、昔の「稲田村」辺りまで続いている。
二ヶ領上河原堰堤

堰堤は、川崎側に魚道と3門の巻き上げ式洪水吐ゲート、調布側には魚道のついた固定堤、そして洪水吐ケートと固定堰の間には流量調整ゲートが設けられている。
この二ヶ領上河原堰堤は二ヶ領用水開削時の取水口である「中野島取水口」と比定される。完成は慶長16年(1611)とされる(異説もある)。この地が取水口となった理由も不明であるが、上にメモした多摩川南流時代の多摩川の河道跡を活用したものとされる。中野島の名が示すように、流路定まらぬ氾濫原に残った島、と言うか微高地(中野島)を用水堤防とするのは理に掛っている。
●蛇籠からコンクリート堰堤に
それはともあれ、取水口には竹で編んだ蛇籠に石を入れ、流れを堰止めて取水していたとのことである。そしてこの蛇籠堰は稲毛・川崎領を潤す取水堰として補修されながら明治まで続くが、大正期に至り、社会状況の変化にともなう河川環境の変化のため取水堰の変化が必要となる。その要因は水位の低下と、水需要の増大である。また、二ヶ領用水の目的も水田灌漑用水から工業用水へのシフトもその要因ではあろう。
大正12年(1923)の関東大震災後の東京の復興のための建設資材としての砂利採取、そして人口の増大・東京都市化の進展に対応するため玉川上水・羽村堰からの取水増大のために多摩川の河床の低下、川崎の京浜工業地帯への工業用水の需要増大、さらには小河内ダム建設に伴う多摩川の流量減少、これらの二ヶ領用水を取り巻く環境の変化に対応し、安定した水量を確保するため従来の蛇籠を改めコンクリート堰を基本とする建設計画が策定される。
その計画には多摩川の伏流水を活用する六郷用水、狛江浄水場、砧下・砧上浄水場、玉川浄水場への地下流路を止めないよう、「浮き堰堤(堰堤基礎部分を不透性地盤ではなくその上の砂礫層に打ち込む)」構造を用い、昭和16年(1941)に工事着工し、昭和20年(1945)に完成した。責任者は久地の円筒分水を建設した平賀栄治である。
●平賀栄治
明治25年(1892)、現在の山梨県甲府生れ。東京農業大土木工学科を卒業し、宮内省帝室林野管理局、農商務省等の勤務を経て昭和15年(1940)に神奈川県多摩川右岸農業水利改良事務所長に就任。多摩川の上河原堰や宿河原堰の改修、平瀬川と三沢川の排水改修、久地円筒分水の建設などに携わった。
二ヶ領用水・上河原取水口
上にメモしたが、同時に開削された六郷用水の工事記録は残るが、二ヶ領用水に関する工事記録は残されていない。案内には宿河原取入れ口が上河原(中野島)取入れ口の20年後とあるが、宿河原取入れ口の工事が先との説もあるようで、詳細は不明である。
散歩の折々、用水歩きをすることも多いのだが、箱根用水や荻窪用水、山北用水など普請の責任者が商人・庄屋などお武家でない場合は記録が残らないものも多い。中には箱根用水のように、故なく罪を咎められ入獄といったケースもある。有名な玉川上水(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ、ⅵ、Ⅶ)を普請した玉川兄弟も後に、罪を咎められている。が、二ヶ領用水は幕府直轄事業である。その記録が残らないのは、如何なる事情があったのだろう。結構気になる。
二ヶ領用水上河原取水樋門
稲田取水所
生田浄水場は、稲田取水所から導水した多摩川表流水と「菅さく井群」から導水した地下水を浄水処理する施設ではあるが、平成28年(2016)には水道事業の浄水機能を停止し、工業用水専用の浄水場となったようだ。
因みに20万立方メートルを先ほど同様東京ドームとの比較でチェックすると、1万立方メートルでおおよそ東京ドーム2.5個分であるから、20万立方メートル=東京ドーム約50個分の水を導水することになろうか。
●菅さく井群
それはともあれ、既にメモしたように、この稲田取水所で工業用水用に取り入れられた二ヶ領用水の余水は下流の平瀬川でその80%を落とす。また、平瀬川をサイフォンで潜り久地の円筒分水から下流へと流れる用水も、かつては工業用水の浄水場であった平間浄水場で活用されていたが、現在はその機能を停止し、長沢浄水場と生田浄水場から送られる工業用水の配水所・平間配水所となっており、用水を活用することなく暗渠で多摩川に戻す。つまるところ、稲毛・川崎領の水田を潤した二ヶ領用水であるが、現在ではわずかの水田・果樹園の灌漑用水との機能を残すも、主としてこの稲田取水所でその水を工業用水として活用する役割へとその姿を変えているように思える。
二ヶ領用水と新三沢川の立体交差
もっとも、この三沢川、正確には、新たに開削されたこの新三沢川が開削された当初は、三沢川の方が二ヶ領用水の下を通っていたとのこと。が、その仕組みでは大雨時の三沢川への放水量に制限があったためだろうか、現在の姿に改修されたと言う。河道と用水の立体交差の上下が逆になるケースは散歩の折々に出合う。立川の玉川上水と残堀川もそうであった。
●三沢川
ふだっこ橋
布田堰
川崎市の作成した用水マップによると、この堰から取水された水は「中野島新田堀」とのこと。取水口から開渠が二ヶ領用水に沿って進みJR南部線を潜る。
中野島堰
中野島新田堀と登戸川原堀が交差
一方、「中野島新田堀」の下を潜った「登戸川原堀」は結構大きな暗渠として北東に進みJR 南武線の下を潜る。
●中野島新田堀と登戸川原堀
一方の中野新田堀は分岐点から民家に間を抜けJR南武線を潜りおおよそ布田地区と中野島地区の境あたりのJR線路脇で登戸川原堀に合流する。川崎市作成の用水マップを参考にGoogle Mapに「二ヶ領用水概要図」を作成した。大よその流路図ではあるが、参考にして頂ければと思う。
沖川原橋
語源から言えば、「沖」って「水の中」と言った意味もあり、氾濫原であった往昔の姿を伝えるにはいいネーミングとも思うのだが、どのよう経緯で「沖川原」が登場したのか不明である。
橋本橋・古い道標
新川橋を越え橋本橋に。車両が行き交う橋の北詰に古い道標が建つ。「正面 當字ヲ経テ調布村方面」、矢印とともに「土淵ヲ経テ高石柿生村方面」「登戸ヲ経テ榎戸高津方面」と記され。そして「御大典記念 昭和3年・・:・」と刻まれている。
●御大典
昭和3年(1928)の御大典とは昭和天皇の即位の儀式のこと。明治42年(1909)の「旧皇室典範」の定めにより、即位の儀式はに前天皇の喪が明けて執り行われることになったため、この年になっている。因みに大正天皇の即位の儀は大正4年(1915)とのことである。
●土淵
地名にある土淵とは往昔のこの辺りの地名。明治の地図には記載されている。また、生田浄水場近くの府中街道には「土渕」交差点の名前が残る。
一本圦堰
一本圦堰の名前の由来は、昭和25年(1950)頃、草堰からコンクリート堰となり、その取水口の扉が大きな一枚の板であったことによる((「(NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」))。
現在では取水堰は見当たらないが、用水中のマンホールの蓋のような管よりポンプアップで取水されているとのこと。用水脇にある薄茶色小施設がポンプ場であろうか。ここで取水された水は一本圦堰となる。
●一本圦堀
川崎市作成の用水マップによれば、この地で取水された一本圦堀は、中野島地区と登戸地区の境を北東に登り、大丸用水の菅堀を併せ、南武線手前で流れを南東に変え、南武線の沿って下り、世田谷通りの先で再び南武線を越えて「登戸新田堀」に合流する。
暗渠や埋め潰された用水が多い中、この一本圦堰は現在で多くの部分が開渠として残る。宅地開発された隙間に梨畑とか耕地が残るが、現在でも灌漑用水として機能しているのであろうか。そう言えば、元々は六郷橋下流の大師河原が発祥の地である梨の長十郎は、その生産地を登戸・中野島一帯に移したとのことでもあるので、一本圦堰は梨の生産に一役買っているのかだろうか。
紺屋(こうや)前の堰
昭和38年土地改良により水利統合の為休止し又今回二ヶ領用水改良工事につき堰を取拂う事になり我ら遠き先祖とともに歩んできた堰に感謝の意を表し、茲に登戸の紺屋前堰跡として之を建立する 昭和四十九年五月 吉日 発起人一同」と刻まれていた。
●紺屋前堀
「川崎歴史ガイド 紺屋前の堰」の案内には、「水は新田堀、高田堀、鮒堀、水車堀などに分かれ、登戸一帯を支えた」とある。が、川崎市作成の用水マップには紺屋堀としてひとつの流れが描かれているだけである。往昔、この支流から幾多の細流にわかれていたのではあろう。実際、カシミール3Dのプラグインの「タイルマップ一覧」にある明治の頃の「今昔マップ」を見るに、支流から細流らしきものが見て取れるが、どれが上記の分流か、特定する手懸りはない。
川崎市作成の紺屋前堀のルートは、台和橋手前から南東に下り、世田谷通り登戸交差点手前辺りで流路を変え、南西に向かって大きく弧を描き小田急向ヶ丘遊園駅を越え、南武線手前で再び流路を変え、南東に真っ直ぐ下り「前川堀(注;後からメモする)」に合流。合流した流れは、これもこの先メモすることになる二ヶ領用水・宿河原取水口からの流れ(宿河原線)に合わさるようだ。
台和橋
山下川は、多摩区菅馬場地先に源を発し、多摩丘陵の北縁にあたる丘陵地に沿って東に向かって流下し、途中で北東に流路を変え、この地で二ヶ領用水に合流する2キロ弱の河川である。川の周辺は日本住宅公団(現在は都市再生機構)により谷を削り大規模な宅地開発がなされている。源流点の先にある菅北浦調整池は、洪水対策の施設ではあろう。
「登戸付近の紙すき」の案内
この説明、何となく隔靴掻痒の感。チェックすると、桜紙は明治末から大正の頃、東京の護国寺近く、音羽にあった紙問屋・竹内商店に納められた再生紙のうち、薄く柔らかな上等のちり紙。高級品として花柳界、もっと言えば遊里でのちり紙として重宝されたのだろう。浅草方面と、ぼかしているのは遊里で重宝した理由が少々口に出すのは憚られる、ということだろうか。
新川橋
いつだったか長沢浄水場を訪れたことがある。その時のメモに補足して掲載する;長沢浄水場には東京都と川崎市のふたつの浄水場が併設されている。ここの水源は相模川水系の相模湖や津久井湖。そこから導水トンネルで導かれる。その距離は32キロに及ぶ、という。東京都は世田谷、目黒、太田区の一部の住民約50万名給水。その量1日につき20万立法メートル。
一方、川崎市上下水道局の長沢浄水場からは鷺沼配水池に送られ、高津・宮前区の一部、そして中原・幸区の水道水となる。その量は一日当たり14万立方メートル。市内総給水量の約25%にあたる。
また、工業用水は送水管を通して平間配水所や浜町に送られ、そこから、配水本管で市内に配水さえる。その量は1日235,000立法メートル(生田浄水場の多摩川の表流水と地下水を併せた25万立法メートルより少し少ない)。この送水ルートから勘案すると、新川橋の送水管は東京都水道局のものだろう。
小泉橋
「NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」によれば、登戸道に架かるこの橋は、元々は榎戸橋と呼ばれ、登戸村や上菅生村など、往還として重要なこの橋を利用する村々によって、およそ5年毎に改架されていたようである。
その橋名が小泉橋となったのは、天保15年(1844)、土地の豪商小泉利左衛門が石橋を普請したことによる(利左衛門は登戸に33の石橋を普請したと言われる)。橋はその後弘化4年(1847)、明治24年(1891)に修理され、明治34年(1901)に弥左衛門により近代的な橋に改修されたが、これらはすべて小泉家の手になるもので、天保の石橋が再利用されていた。しかし、平成3年(1991)の河川改修で撤収された、とのこと。現在の橋の裏に案内にあるような天保、明治の文字が残るわけではないようだ。
改修と言えば、最初に二ヶ領用水を歩いた7年ほど前に撮った小泉橋の写真と見比べると、明らかに現在の橋は変わっている。あれこれチェックすると、道幅を12mに拡大工事が平成23年(2011)に着工し、平成25年(2013)に完成したようである。
●旧津久井道(登戸道)
旧津久井道とは、三軒茶屋を基点に登戸に向かい、そこから西に生田、万福寺、柿生、鶴川と進み、さらに鶴見川の上流に沿って、相模原市の橋本から津久井地方へと通じる道。三軒茶屋から東は大山街道と繋がり赤坂御門まで続いていた。
この道は官制の街道ではなく、津久井・愛甲地方で生産された絹などの近隣の産物を運ぶ道であり、また商人や登戸に多く住んでいた左官・大工・下駄職人などの職人が行き来する道でもあった。小泉橋の辺りは、丘陵地への出入り口でもあり、交通の要衝として栄え、橋の付近には明治の頃、ふたつの銀行、乗合馬車の出発点もあったとのことである。
榎戸堰
かつて小泉橋の直ぐ下流に榎戸堰があった。「NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」に拠れば、「この堰から五ヶ村堀、中田堀(注;川崎市作成の用水マップでは「前川堀」とある)が分かれ、生田方面には上菅生用水に水を送った。 榎戸堰は大正末に水門がコンクリート化されたが、取水口は3門あり、ために「三本圦り」とも称された(三つの流れは二ヶ領本川、五ヶ村堀、中田(前川)堀)。この堰も平成3年(1991)に造り替えられた時、榎戸堰はなくなった(五ヶ村堀は位置を変え現存)。


榎戸の庚申塔
●丸山教
Wikipediaに拠れば、丸山教の前身は明治6年(1873)稲田村の農民伊藤六郎兵衛が興した丸山講。食行身禄以来の富士講の影響を引き継ぎ、世直しや反近代化の思想が強かったが、明治政府による大弾圧後は報徳社運動に沿った勤勉・倹約を中心とした。昭和21年(1946)、宗教法人丸山教として現在に至る。
で、その庚申塔だが、説明に拠ると「三峰形の富士が描かれ左右に日月、その下に「庚申塔」と彫られ、上座の台石には三猿が刻まれ、その下の台座に丸山講の講紋である「丸に山」と富士登山の登山口を表す「北口」という文字が書かれています。なお、富士講の一講社である丸山講が庚申塔を建立したのは、富士山の御縁年に因んでいると思われます。孝安天皇九十二年庚申の年、「雲霧が晴れ、一夜にして富士山が現れた」という言い伝えから、庚申の年を御縁年と呼び、この年に一度富士山に登れば六十回登ったのと同じ御利益があると信じられるようになりました。富士信仰もこのように庚申と深く結びついていることから、登戸の地にも庚申塔が建立され、また、三猿も彫られているのでしょう」とあった。
上の説明で「登戸の地にも庚申塔が建立され」とあるが、「NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」によれば、これは「登戸のこの地に明治3年(注;丸山講が出来たのは明治6年とあるので、明治3年は??)、庚申塔が建てられたのは、この地が富士登拝する時の習合場所であったため。この庚申塔に参拝し出発した」とあった。
また三猿云々に関しては、説明に「庚申の本尊の青面金剛の従者は猿、であり、また庚申の「申」が「さる」であり猿に例えられることによる」とあった。
●富士講
富士信仰のはじまりは江戸の初期、長谷川角行による。その60年後、享保年間(17世紀全般)になって富士講は、角行の後継者ふたりによって発展する。ひとりは直系・村上光清。組織を強化し浅間神社新築などをおこなう。もうひとりは直系・旺心(がんしん)の弟子である食行身禄。食行身禄は村上光清と異なり孤高の修行を続け、富士に入定(即身成仏)。この入定が契機となり富士講が飛躍的に発展することになる。
食行身禄の入定の3年後、弟子の高田藤四郎は江戸に「身禄同行」という講社をつくる。これが富士講のはじめ。安永8年(1779)には富士塚を発願し高田富士(新宿区西早稲田の水稲荷神社境内)を完成。これが身禄富士塚のはじまり、と伝わる。その後も講は拡大し、文化・文政の頃には「江戸は広くて八百八町 江戸は多くて八百八講」「江戸にゃ 旗本八万騎 江戸にゃ 講中八万人」と称されるほどの繁栄を迎える。食行身禄の話は『富士に死す:新田次郎著』に詳しい。
富士塚は富士に似せた塚をつくり、富士に見なしてお参りをする。散歩の折々で富士塚に出会う。散歩をはじめて最初に出合ったのが、狭山散歩での「荒幡富士」と称される富士塚であった。また、葛飾(南水元)の富士神社にある「飯塚の富士塚」や、埼玉・川口にある木曾呂の富士塚など、結構規模が大きかった。
●庚申信仰
庚申信仰って、あれこれ説があってややこしいが、60日に一度、庚申の日、体内にいる「「三尸説(さんしせつ)」という「なにもの」かが、寝ている間にその者の悪しきことを天帝にレポートする。そのレポートの結果寿命が縮むことになるので、寝ないで夜明け待つ、という。日待ち、月待ち信仰のひとつ、と言う。信仰もさることながら、娯楽のひとつであったのだろう。
上の説明で庚申の年に一度富士登拝をすれば60回登拝したと同じ御利益がある、といった「六十」はこの60日に一度との関連だろうか。単なる妄想。根拠なし。
小田急線と交差
現在の五ケ村堀取水口
●五ヶ村堀のルート
五反田川が合流
現在の五ケ村堀取水口からほどなく、五反田川が合わさる。川崎市の資料によれば、五反田川は、麻生区細山地内を源とし、細山調整池を経て小田急線に沿って蛇行しながら流下し、東生田地内で二ヶ領本川に合流する流路延長4.8km、流域面積8.0km2の都市河川。
この川は、洪水時には、下流まで約20分で流下する高低差の著しい河川であり、五反田川の下流部及び二ヶ領本川との合流部では、急激な水位上昇により、度重なる水害を繰り返してきた。そのため河道の改修が必要とされるが、五反田川下流の二ヶ領本川は、高度に都市化された地域を貫流しており、河道拡幅や掘削による河道改修が困難な状況となっている。
●五反田川放水路
その対策として計画されているのが五反田川放水路。五反田川の洪水を直接多摩川に放流する地下トンネルの建設である。 五反田川放水路は、洪水時には五反田川の洪水全量(150m3/s)を延長2,025mの地下トンネルに流入させ、直接多摩川へ放流させる。五反田川と多摩川の水位差を利用して洪水を流下させる自然流下圧力管方式のこの地下河川事業完成時期は平成32年(2020)の予定とのことである。
前川堀分岐
川崎市の制作した用水マップに拠れば、二ヶ領本川に五反田川が合流する地点辺りから東に前川堀(中田堀?)が分岐している。水路は小田急線・向ヶ岡遊園前の南、登戸地区と宿河原2丁目地区の境を東に向かい、宿河原小学校の二筋手前の道を、S字を描いて進み紺屋堀に合流。合流した水は宿河原堰で取水した堀に注いでいたようである。
明治の地図を見ると、水路に沿って中田、富士塚、橋本といった地名が見える。中田堀の呼称でいいかと思うのだけれども、前川堀は何を由来に呼称されているのだろう。その根拠は不明である。
五ケ村堀緑地
新開橋
それはともあれ、「川崎歴史ガイド 二ヶ領用水」に拠れば、川崎で地酒がつくりはじめられたのは天保年間(1830-1844)。当時は濁酒(どぶろく)であったが、大正10年(1921)頃から清酒の需要が増大した、と言う。長野で収穫された酒専用米と地下30mを流れる多摩川の伏流水で造られていた醸造所も、今はないようである。
向ヶ岡遊園跡
府中街道に沿って流れる本川を進む。左手丘陵上には、昭和2年(1927)に開園し、平成14年(2002)まで営業を続けた向ヶ岡遊園があった。今は社会人となった子供を連れて遊んだ頃が懐かしい。現在は丘陵下の道路脇に藤子・F・不二雄ミュージアムが開いている。平成23年(2011)に開館したとのことである。
長尾橋
長尾の天然氷
「川崎歴史ガイド 二ヶ領用水」によれば、明治20年(1887)頃から、山かげには水田のような水溜がいくつも並んでいた、と言う。夏になると馬車で神田・龍閑町や八丁堀、芝・明舟町などの販売所へ、後には玉川電車を使って渋谷の天然氷販売所などに卸された。長尾の天然氷は、信州・諏訪湖、北海道五稜郭の氷にひけをとらない質のよい氷として重宝され、機会氷が出回るようになる大正10年(1921)頃まで続いた、とある。
●天然氷
「主のこころと夏くる氷 解けるととけぬで苦労する」。明治13年(1880)ごろの「開化都都逸(どどいつ)」の一節だが、この天然氷は五稜郭の「函館氷」とのこと。Wikipediaに拠れば、世界で初めて天然氷の採氷、蔵氷、販売事業を起こしたのは、米国人フレデリック・テューダー(英語版)で、文化2年(1805年)とある。この天然氷がアメリカ合衆国ボストンから世界中に輸出され、日本では横浜港に陸揚げされた。輸入品であり高価で、しかも融解率が高いために、国内でも天然氷の製造が始まり、中川嘉兵衛の製氷会社が、函館・五稜郭で採取した氷が横浜まで輸送・販売され、明治5年(1872年)以降は輸入氷を凌駕していった、とのことである。
宿河原堰からの宿河原線と合流
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