日曜日, 9月 09, 2018

埼玉 古利根川散歩;姫宮から大落古利根川を下り、往昔の利根川の主流であった古隅田川筋を元荒川に

利根川東遷事業以前の旧利根川の流路を辿る散歩も、会の川からはじめ大落古利根川筋を南埼玉郡宮代町の姫宮まで下った。今回は姫宮から少し下ったところで大落古利根川筋から離れ、往昔利根川の主流であったと言われる古隅田川筋らしき水路を辿り元荒川へと歩く。
さて散歩のメモを、という段になったのだが、先回の散歩から少々時間が過ぎてしまい、ここに至る旧利根川流路の記憶も曖昧になってしまった。記憶を呼び起こすため、ちょっと整理;

利根川東遷事業以前の旧利根川流路を辿る散歩は、往昔の利根川主流であった会の川筋()、浅間川筋からはじめ、このふたつの旧利根川主流が合わさる旧川口溜井のあった川口分水工(加須市川口)に進んだ。
その地で旧利根川筋の主流はふたつに分かれる。ひとつは旧渡良瀬川筋とも称され、東へと流れる現在の中川筋。この流路は結構昔になるが既に歩いていたこともあり、今回は南に下るもうひとつの旧利根川筋、現在の葛西用水に乗り換え、東に大きく弧を描く葛西用水の流路を辿り琵琶溜井を経て青毛堀川との合流点へと歩いた。その合流点は葛西用水の流路の一部に組み込まれた大落古利根川の起点でもあった。
大落古利根川はその名の示す如く、源頭部を締め切られた当初は低湿地の内水や農業用水の悪水落しであったのだろう。利根川東遷事業でその流れを締め切られ、水源を絶たれ泥川となった旧利根川の流路は、大河であったが故に深く刻まれ、その川床の水位は低く、流域の悪水落としとして使い勝手がよかったのだろう。
その悪水落しとしての旧利根川筋は、新田開発のために開削された葛西用水の一部に組み込まれることにより本格的に農業「用水路」となる。また、旧利根川筋の主流のひとつである旧渡良瀬川筋の河川を繋ぎ地域一帯の農業用水路として開削された人工河川・中川の「排水」落としとして整備されることになる。地域一帯のさまざまな用排水路を合せることになった旧利根川筋を「大落古」と冠する所以でもあろう。
先回は、この葛西用水の流路の一部に組み込まれた大落古利根川の起点から南埼玉郡宮代町の姫宮まで下ったわけである。

頭の整理はこのくらいにして、話を戻す。
今回の散歩では大落古利根川を離れ、往昔の利根川の主流であったとされる古隅田川筋へと乗り換え、西に進み元荒川筋へと進んだ。古隅田川筋が主流と言うことは、この地より下流は枝流であったということだろう。
地図を見ると、現在ではこの地より下流の大落古利根川は堂々とした本流となっている。その因について、未だちゃんと調べたわけではないが、万治3年(1660)から1760年代にかけて実施された葛西用水の送水路として整備されていったのではあろうが、本格的な河川改修は上述した中川の排水落整備事業と平行して、大正7年(1918)から昭和3年(1928)が行われたのではないだろうか。
上流部で島川・庄内古川筋を繋ぎ、農業用水水路として開削された中川の排水は当初江戸川に落とされていた。が、水はけが悪く、結果江戸川より2mも水位が低かったと言われる大落古利根川に水を落とすべく、松伏町大川戸から下赤岩までの37キロを堀り抜き、大落古利根川と繋いだとのことである。大正7年(1918)の頃と言う。

現在の古隅田川は大落古利根川に注いでいる。往昔の流路は大落古利根川から元荒川筋へと流れていた、という。源頭部を締め切られ、水位の低くなった大落古利根川に古隅田川流域一帯の水が逆流したのだろうか。
元荒川も利根川の西遷事業で瀬替えが行われ、当然水位が下がっただろうし、何故元荒川ではなく大落古利根川へと逆流したのだろう。これもきちんと調べたわけではないが、元荒川の締切は1629年、利根川の締切である会の川の締切は1594年。このタイムラグがその一因でもあろうか。

それはともあれ、この古隅田川はいつだったか岩槻散歩で偶然出合った。業平橋などもあり、有名な在原業平の都鳥云々の歌詠み地として、墨田区の業平橋と本家はどちら、の論争があるようだ。

それはそれとして、当日は特段の事前準備もなく、とりあえず成り行きで辿った川筋が、メモの段階で「古隅田川」筋ではなく、「旧古隅田川」と称される川筋であったり、川筋に沿って残る緑の帯は自然堤防だろうとは思ったのだが、対岸にも残ると言う自然堤防については、当日は知る由もなく、その両岸幅からして往昔の古隅田川が現在の細流では想像できないくらいの大河であったことを実感することなく散歩を終えた。常のことではあるが、後の祭りの想いの大きい散歩となってしまった。


本日のルート;東武伊勢崎線・姫宮駅>大落古利根川に>隼人堀川>古隅田川・大落古利根川合流点>十文橋>女体神社>国道16号・隅田橋(古隅田橋とも)>豊春用水(黒沼用水)が左岸から合流>古隅田川緑道・古隅田川の旧流路>城殿宮(きどのみや)橋>古隅田公園>上院落が合流>古隅田川公園にやじま橋>古隅田川・旧古隅田川合流点>「旧古隅田川」バス停>業平橋>香取神社>旧古隅田川と古隅田川・西流水路筋との分岐点>大光寺堤>南平野排水機場と南平野調整池>国道16号西に増野川用水>大堀池・小池>元荒川に

東武伊勢崎線・姫宮駅
先回のゴール東武伊勢崎線・姫宮駅に向かう。先回は葛西用水・大落古利根川管理起点から大落古利根川下り、姫宮駅の東から「笠原沼落」の流路に沿って姫宮の駅に戻った。
で、地図を見ると、駅の西側に水路が見える。これって何?チェックすると、この水路は笠原沼用水の支流・百間(もんま)用水の末であり、姫宮駅近くで笠原沼落に合わさるとのことである。合流部分は暗渠となっているのか地図では確認できない。
百間用水(もんまようすい)
姫宮駅付近の百間用水
百間用水(もんまようすい)は、埼玉県白岡市、宮代町を流れる江戸時代中期に開削された灌漑農業用水路である。 かつては笠原南側用水とも呼ばれていた。百間用水は笠原沼用水の支線用水路である。笠原沼用水から宮代町西粂原地区にある中須百間分水堰で中須用水と分水し、姫宮駅付近で笠原沼落右岸に至る用水路である。(中略)主にかつての笠原沼や姫宮落川の南側地域(旧百間村)を灌漑している。流域は主に水田地域で、末端区間は住宅地となっている。水幅は中須用水より広い」とある。
笠原沼用水と笠原沼落
でこの百間(もんま)用水と中須用水を分ける笠原沼用水と、先回の散歩で出合った上述、笠原沼落とは文字面は似ているが別ものである。

中島用水分水工
除堀調節堰

Wikipediaによれば笠原沼用水とは「1728年(享保13年)に開削された中島用水の支線用水路である。中島用水(黒沼笠原用水)として見沼代用水から分水し(私注;中島分水工)、久喜市江面地区にて黒沼用水と笠原沼用水とに分水(私注;除堀分水工)し南東方向へ流下する。途中庄兵衛堀川、姫宮落川、備前堀川の3つの河川が交差し、姫宮落川は架け樋、庄兵衛堀川・備前堀川は伏せ越ししている。宮代町西粂原地区にある中須百間分水堰で中須用水と百間用水とに分水し、終点となる。笠原沼用水は久喜市内においては笠原用水(かさはらようすい)と称される」とある。
笠原沼落
Wikipediaに拠れば、「この笠原沼落は江戸中期に井沢弥惣兵衛為永が中心となり笠原沼を掘り上げ田形式にて新田開発した際、沼の中央部からの排水のために開削・整備された排水路である。
笠原沼落[川端橋)
このため、起点付近の流路はかつての笠原沼のおおよそ中央部を横断するような流路となっている。今日においては起点付近では東武動物公園の園内を流下し、園内に所在している多くの池とも接続する。新しい村や宮代町立図書館周辺付近より下流から東武伊勢崎線橋梁付近までの流域周辺は水田などの農地となっており、東武伊勢崎線橋梁より下流域の流域周辺は一部農地などもみられるが、主に宅地などの市街地となっている」とある。

笠原沼落は、白岡市爪田ヶ谷の水田などの農地(かつての笠原沼の西部)からの農業排水を集めながら東北東へ流下し、東武動物公園内を蛇行しながら進み、東武動物公園を出ると姫宮落川の南側に並行し流下。東武伊勢崎線を越えるとS字に弧を描き、姫宮駅前を進み大落古利根川に合流する。
昔は、笠原沼の水を抜くため姫宮落に繋がれたこともあったようだが、水捌けが悪く享保14年(1729)には排水先を大落堀に付け替えたようである。
中須用水
Wikipediaに拠れば、「中須用水(なかすようすい)は、埼玉県南埼玉郡宮代町を流れる灌漑農業用水路である。かつては笠原北側用水とも呼ばれていた。
中須百間分水堰
中須用水は笠原沼用水の支線用水路である。笠原沼用水から宮代町西粂原地区にある中須百間分水堰で百間用水と分水し、姫宮落川の左岸沿いを流れ、宮代町川端地区で姫宮落川左岸に合流する(私注;宮原町道佛で姫宮落川左岸に合流する箇所までしか確認できない)用水路である。笠原沼の干拓に際して用水を供給するために開削された用水路で、主にかつての笠原沼や姫宮落川の北側地域(旧百間中島村・須賀村・蓮谷村)を灌漑している。 流域は主に水田地域で、東武動物公園駅付近は住宅地となっている。水幅は自転車1台分ほどで非常に狭い。また、用水路沿いに桜が植栽され、水と緑のふれあいロード(遊歩道)が整備されている。

大落古利根川に
大落古利根川と笠原沼落合流点
大落古利根川
先回歩いた「笠原沼落」の流路に沿って南東に進み、川端4丁目交差点で県道85号に乗り換える。少し県道に沿って進み成り行きで左に折れて大落古利根川に出る。
川に沿って道は無く、一度県道に戻り、成り行きで川筋の道に入る。

隼人堀川
大落古利根川に沿って少し下ると水路が大落古利根川に注ぐ。「隼人堀川(はやとほりかわ)」である。
隼人堀川と大落古利根川合流点
隼人堀川
Wikipediaに拠れば、「隼人堀川(はやとほりかわ)は、埼玉県北東部を流れる河川である。1594年(文禄3年)に利根川の本流であった会の川を仕切り流路が変更されたため、利根川から分流する日川の水量が減少した。これに伴い後背湿地を開発する事が可能になり備前堀、庄兵衛堀、姫宮堀、三ヶ村落堀などと共に農業排水路として開削された。また、上流部は1728年(享保十三年)に井澤弥惣兵衛為永による「栢間(かやま)沼の干拓の際に排水路として開削された。
以前は庄兵衛堀川の合流地点より下流を隼人堀川、上流側を栢間堀と呼んでいたが、現在は河川行政上、管理起点より下流を通して隼人堀川と呼ばれている。1919年(大正8年)から野通川伏越から下流にかけての河川改修工事が行なわれ、1930年(昭和5年)に完成している。
三十六間樋管
久喜市菖蒲区域より流下する農業排水路の栢間堀川(中落堀)が三十六間樋管(昭和初期竣工)を流れ、野通川・埼玉県道5号さいたま菖蒲線・見沼代用水の下部を横断し、白岡市柴山の三十六間樋管の吐口が隼人堀川の管理起点となる。主として水田地域の中を流れ、白岡市・宮代町・春日部市を流下し大落古利根川へと至る。途中、白岡市篠津地区にて星川と交差する箇所を伏越している。
栢間堀(かやまほり)
栢間堀(かやまほり)は、埼玉県久喜市菖蒲区域を流れる河川であり、庄兵衛堀川の合流地点より上流を指す(下流は隼人堀川)。中落堀(なかおとしぼり)とも称される。行政上は隼人堀川の一部である。
弁天沼
かつて、現在の流路周辺に存在していた栢間沼において新田開発をする際、井沢弥惣兵衛為永により1728年(享保13年)に栢間堀(中落堀)とし、この一帯に開発した掘り上げ田からの排水路として整備された。このため、流路はおおよそかつての栢間沼の中央部を流下している。また今日の栢間沼は栢間堀川の調節池としての機能も果たしている。現在、流域周辺はほぼ全域水田などの農地の中を流下する。流末は隼人堀川へと至り終点となる。
この川は隼人堀川の庄兵衛堀川との合流地点までの流路においても栢間堀川と称されていた」とある。

地図をチェックすると、隼人堀川が東北道を越えた西に庄兵衛堀川との合流点が見える。上流へと辿ると、流路は西へと方向を変え伏せ越しでクロスする黒沼用水を越え、その西で今度は隼人堀川が伏せ越しで星川を潜る。
水路は更に西に延び、柴山沼の北を進み圏央道手前で見沼代用水、野通川を伏せ越で潜る。伏せ越しで見沼代用水を越えて開渠となった部分が、上述三十六間樋管の吐口であり、隼人堀川の管理起点となっている。
水路は圏央道に沿って続き、上述の栢間沼の南東端を進んだ先で北西に折れ、県道12号を越えた先の弁天沼に至る。この弁天沼が栢間堀(かやまほり)の源流点とされる。
かつての栢間沼は菖蒲町下栢間から小林(おばやし)をカバーとのことであり、現在の栢間沼とは比較にならないほど大きな沼ではあったのだろう。 同じく現在の柴山沼もかつては下大崎~荒井新田にあった沼地・皿沼の周囲を干拓された名残ではないだろうか。
日川
羽生市砂山で会の川と分かれた日川は加須市、久喜市、白岡市と下り蓮田市とさいたま市岩槻区の境界の蓮田市笹山で元荒川に合流していたようである。結構長い流路だが、現在は明瞭な水路跡は残っておらず、その大雑把な流路は、後世開削された古川落、見沼代用水、新川用水(騎西領用水)と進み白岡市の中心を南に下り、元荒川に合流したようだ。
白岡市内の流路ははっきりしないが、現在白岡市内を流れる一級河川の備前堀川・姫宮落川・庄兵衛堀川・隼人堀川・野通川、普通河川の高岩落川・三ケ村落堀などは東遷事業により低湿地化した日川跡を新田とするため開削された排水路とのことである。

古隅田川・大落古利根川合流点
隼人堀川を越える。川に沿って道は無く、少しの間県道85号を進み小淵橋の袂から川沿いを進み春日部大橋を越え、成り行きで川沿いに入り、少々草深い堤防を進み古隅田川・大落古利根川合流点に到着する。
古隅田川は大落古利根川に南東方向に向かって合流する。現在古隅田川の水は大落古利根川に注ぐわけで、この「出口形状」に違和感はないのだが、往昔古隅田川が大落古利根川から元荒川へと流れた時の「入り口形状」としては少々違和感がある。いつの時か現在の「形」に開削されたのだろう。
現在の古隅田川の流れ
地図を辿って現在の古隅田川の流路をチェックする。蓮田市の黒浜沼にその源を発し、南東に流れ元荒川に接近。さいたま市岩槻区上野で元荒川の水を取水し更に南下し東武野田線を越えた先で流路はふたつに分かれる。この地点が古隅田川の管理起点となっている。管理起点から上流は山城堀と呼ばれる農業用水路とのことである。
管理起点でふたつに分かれる流路は、東に向かうのが「古隅田川」、南に弧を描き東武野田線・豊春駅の北で古隅田川と再び合流するのが「旧古隅田川」と称される。合流し、ひとつの流れとなった古隅田川は北上した後、向きを東に変え、大落古利根川に合流する。

十文橋
古隅田川・大落古利根川合流点から県道85号に戻る。そこに架かる橋は十文橋と呼ばれる。往昔の十文橋はこの橋の少し上流、東流してきた流路が南東へと流れを変える辺りに鎮座する女体神社(下に記す)付近に明治23年に架けられた、という。
春日部と鴻巣を結ぶ菖蒲往還(ルート不詳)への道筋であった此の地には橋が無く、渡し場となっていたようだが、上流に浜川戸橋(現在の梅田橋;後述)が石橋に架け替えられた。結果、渡し場が廃止され付近住民は迂回を余儀なくされ、この不便を解消すべく岩松氏が個人で賃取橋を架け、その橋銭が十文であったことが橋名の由来である。

女体神社
古隅田川右岸を少し進むと女体神社がある。社殿は参道を進み少し奥まったところにある。境内にあった案内には「日光街道粕壁宿の北に位置し、周囲を大落古利根川と古隅田川に囲まれた低湿地である。この梅田の地名は「埋田」の意である。梅田東、梅田西、新田に分かれており、当社はそのうちの梅田東の鎮守である。
醍醐天皇の延喜元年(901)の創立で、当時梅田に住んでいた綾部という人が、村内の子供が幼くして亡くなることが多かったことを憂い、子供が健やかに育つようにと天神に祈願し国生みの神である伊邪那美(イザナミ)尊を産土神として祀ったのが当社の起源。古隅田川の最も高地に当たる場所(現在地)に神殿を造営し、祭事を行うようになったと言う。
また、元和八年(1622)に二代将軍徳川秀忠が、はじめての日光社参に際し、街道筋の由緒ある社寺を訪ねた時、当社にも金百疋(私注;一貫=1000文・銭)の寄付があり、以来近隣の信仰を集め大いに栄えたと伝えられる。
当地の土壌は牛蒡の栽培に適し、太くて味の良い「梅田牛蒡」ができることで知られている(後略)」とあった。
社は低湿地の微高地に建てられたのだろうが、低湿地を形成した因は、大落古利根川から古隅田川が分かれた地にあり、大落古利根川から流された大量の土砂が堆積した。そのため古隅田川が氾濫し流路定まることなく周辺に水や土砂を運んだ故であろう。

国道16号・隅田橋(古隅田橋とも)
東武伊勢崎線の鉄橋を潜り、前述の梅田橋、下川戸橋、国道16号に架かる隅田橋(古隅田橋とも)を過ぎる。
左岸の国道16号沿いに雷電神社がある。「雷電神社の由来 当雷電神社は、古代武蔵国太田庄百間領梅田村古隅田川の河畔に鎮座し、別雷神を祭祀とし、その創立は詳かならざりしも古老の伝承によれば今を去る壱阡有余年の古から鎮守の神として信仰をあつめたり、と。また当神社境内前南側には「神池」と称する小池あり農作物の枯死せんとする時、直ちに池より水を汲み当神社に供えて祈願するや忽ちにして雷雲と共に慈雨をみ、霊験あらたかなり、と。以来、先人より神徳を崇め益々篤き信仰のお社と奉る。
境内地に樹齢五百余年の老杉木等あり神社風致上伐採するに忍びざるも、保存の手段もなく、止むなく昭和二十七年十月、伐採された。四十年代に神社前に国道十六号が開通、これに伴ない区画整理事業も推進されて社殿周辺にも住宅街が現出するに至った(後略)」とある。
Wikipediaに拠れば、「雷電神?(らいでんじんじゃ)は、関東地方を中心に日本全国に点在する神社。一様に雷除けの神とされるが、祭神や由緒は必ずしも一定ではない。群馬県邑楽郡板倉町板倉にある板倉雷電神社が関東地方の「雷電神社」「雷電社」の事実上の総本社格とされている」とあった。

豊春用水(黒沼用水)が左岸から合流
国道16号・隅田橋、栄橋、さらにふたつの名称不詳の橋を越えると左岸から黒沼用水の支流である豊春用水が合流する。豊春用水は見沼代用水から別れた中島用水の支流である黒沼用水から更に別れた枝流といったものである。




中島用水
中島用水分水工
黒沼用水は中島用水路の支流である。Wikipediaに拠れば、「中島用水路は見沼代用水路の支線用水路である。 埼玉県久喜市菖蒲町菖蒲にある中島用水分水工にて見沼代用水(星川)より分水し、星川の北側を並行し東へ流下する。久喜市江面地区の除堀にある除堀調節堰にて黒沼用水路と笠原沼用水路(笠原用水)とに分水し、終点となる。流域は主に水田地域である。
中島用水とは菖蒲区域での名称である。これは起点付近の小字である「上中島」並びに「下中島」に由来する。久喜区域では黒沼笠原用水(くろぬまかさはらようすい)と称される」とある。
中島用水は黒沼用水と笠原沼用水に分かれる
除堀調節堰
久喜市江面地区の除堀にある除堀調節堰にて中島用水は黒沼用水路と笠原沼用水路(笠原用水)とに分水される。笠原沼用水については姫宮駅東で見た中須用水の項でメモした。
黒沼用水
で、黒沼用水は、「1728年(享保13年)に黒沼干拓のために井澤弥惣兵衛為永によって開削された見沼代用水路の支線用水路である。黒沼笠原用水として見沼代用水から分水された水路は、久喜市江面地区にて黒沼用水と笠原沼用水(笠原用水)に分水し南東方向へ流下し、白岡市の太田新井にて黒沼の北側を流れる内牧用水と南側を流れる豊春用水とに分水し終点となる、延長9 kmの用水である。
三ヶ村落堀交点
隼人掘川交点
流域は主に水田地域で、白岡駅付近は住宅地となっている。途中三ヶ村落堀が架け樋で、隼人掘と新堀排水路(通称、新堀)の二つの河川が伏せ越しで立体交差を形成している。また、用水路を改修した際に生じた用地を活用し水と緑のふれあいロード(遊歩道)が流路沿いに整備されている(Wikipedia)」とある。
黒沼用水は内牧用水と豊春用水に分かれる
内牧・豊春用水分水堰付近
白岡市の太田新井にて黒沼の北側を流れる内牧用水と南側を流れる豊春用水に分かれた用水のうち、豊春用水はこの地で古隅田川に落ちて終点となる。もうひとつの内牧用水は最終的に隼人堀川に落ちて終点となる(とあるが地図で流路を特定することはできなかった)。



古隅田川緑道・古隅田川の旧流路
合流点から南に、如何にも流路らしきカーブを描く道筋があり古隅田川緑道と呼ばれる。昭和20年代の河川改修以前の古隅田川は国道16号を越えた栄橋辺りから南に下り、弧を描いてこの古隅田川緑道を流れていたようである。


八幡公園の富士塚
栄橋
当日訪れたわけではないのだが、国道16号の東にある春日部八幡に隣接する八幡公園には高さ12mもの富士塚があるようだが、これは川の氾濫により蛇行部に上流から流された砂が堆積し、それが冬の季節風によって吹き集められた河畔砂丘を利用し江戸時代に造られたもの。往昔の古隅田川が国道16号を越えた栄橋辺りから八幡神社近くを大きく蛇行しながら流れていたエビデンスでもある。

城殿宮(きどのみや)橋
黒沼用水(豊春用水)が左岸から合流するその先は畑地となっており、道はない。水路に沿って成り行きで進むと城殿宮橋に出合う。嘗て内牧村にあったと言われる城殿明神社がその名の由来とのことである。
城殿宮(きどのみや)橋を越えた古隅田川は南に向かうが、その川筋に沿って歩くことはできそうもない。橋から南に下る道を進む。

古隅田公園
城殿宮(きどのみや)橋から南に道を進むと前方に緑の林が見え、微高地となったその林は南に続く。この微高地はかつての古隅田川の土手であったようだ。元来は自然堤防であったものを洪水被害から護るため人工的に盛り土し築堤とした、とのこと。現在の古隅田川の西にも築堤跡が残ると言い、その幅300mほどにもなる、と。古隅田川が利根川の主流としての大河であった名残と言える。この築堤を新方領囲堤(古隅田堤)と称する。衛星写真で見ると、緑の帯は上述古隅田緑道の緑の帯と続いている。
新方領囲堤
西を元荒川、東を大落古利根川に囲まれた地域を新方領と称す。水路の西側に明瞭な築堤跡を見るのは少し難しそうだが、東側のこの古隅田公園はその名残を留める。

上院落が合流
古隅田川の築堤跡の林に沿って南に下ると宮川小学校に当たり、築堤はここで一時分断される。道なりに川筋に向かうと対岸から上院落の水が落ちる。
上院落
上院落は慈恩寺沼の排水路として開削されたもので、途中、古隅田川の旧堤防を樋管で横断して流れて来る。古隅田川の右岸側が、自然堤防の発達した低地なのに対して、左岸側は侵食され、谷が発達した台地(慈恩寺台地)となっている。
地図で彩色してみると、なるほど左岸は浸食された台地となっている。ついでのことながら、上述隅田公園や春日部八幡当たりの微高地も確認できた。

古隅田川公園にやじま橋
川沿いの道から宮川小学校によって分断された古隅田川の築堤跡である古隅田公園に戻る。築堤に石橋が残る。元文2年(1737)に構築された埼玉県内でも最古の石橋の一つ。古隅田川と旧古隅田川(後述)の合流点の上流(現在の矢島橋)に架かっていたものを移したとのことである。公園の南には香取神社が建つ。

古隅田川・旧古隅田川合流点
川筋に戻る。地図を見ると下流から辿ってきた川筋がほぼ1対1で二つに分かれている。川筋に戻ったところに架かる橋は矢島橋とあり、更にひとつ上流の名称不詳の橋の袂にバス停があり、そこには「旧古隅田川」とあった。矢島橋の少し下流で西から合わさるのが「古隅田川」であり、矢島橋を南に向かうのが「旧古隅田川」であったのだが、事前準備なしの散歩を身上とする我が身は、当日その事実も知らず、単にバス停の名前だろうと何も迷うことなく「旧古隅田川筋」に向かうことにした。

いつだったか岩槻を歩いたとき、知らずこの川筋の業平橋に出合ったことがあるのだが、その時、この川筋が「古隅田川」とメモしたことが刷り込まれていたのも一因でもあり、また、往昔大落古利根川から西流し元荒川に注いだという古隅田川の流路としては南流し、南平野へと向かう流れが「本流」であろうと思ったわけである。

古隅田川筋
山城堀・古隅田川管理起点
当日辿ることなく終わった矢島橋の少し下流で西から合わさる「古隅田川」筋をチェックすると、合流点から南東に向かい上院調整池の南端を掠め、東武野田線を越えた先で直角に曲がる。この交点が「古隅田川」の管理起点とのことであり、北から直角に合わさる水路は山城堀と言う。
山城堀
元来は蓮田市黒浜の黒浜沼から下る農業用水の落しとして開かれた排水路ではあったが、昭和初期に新堀が開削され、黒浜沼は隼人堀川に落ちており、山城堀は現在都市下水路となっている。
古隅田川管理起点で古隅田川・旧古隅田川に分かれる
古隅田川管理起点付近の暗渠
古隅田川管理起点辺りを地図で見ていると、少し南の「こばと南公園」の先から南に水路が見える。Google street Viewで管理起点辺りをチェックすると公園に向かって暗渠が見える。また、明治の頃の古隅田川の流路も、この管理起点から東流・南流している。黒浜沼からの水路は、途中元荒川の水を取水しこの管理起点から東と南に分かれて流れていたようである。
地図を見ると、古隅田川・旧古隅田川合流点から別れた旧古隅田川と思われる水路は大きく弧を描き「こばと南公園」から南の水路に繋がっている。ということは「こばと南公園」の南で開渠となる水路は旧古隅田川ということだろうか。

「旧古隅田川」バス停
古隅田川・旧古隅田川合流点から旧古隅田川を辿る。西から合わさる上豊川を見遣り、「旧古隅田川」と記したコミュニティバス停のあった名称不詳の橋から上下流の水路の姿をチェックする。上述の如く、「旧古隅田川」とは何だろう?とは思ったのだが、水路名とも思わず、この川筋が古隅田川と思い先に進んだ。 ひとつ上流に架かる川面橋を越える。水路の両側にはぎっしりと民家が並んでおり、水路に沿って辿ることはできない。成り行きで先に進み、東武野田線の踏み切を渡って南に進む。

業平橋
上述の如く、いつだったか岩槻から春日部を歩いた時、知らずこの橋に出合った。またその折、橋の銘板に「古隅田川」と書かれており、この水路が古隅田川と思っていた。正確には「旧古隅田川」と称されるようだが、総称として「古隅田川」としているのだろう。
それはそれとして、この業平橋は「名にしおわばいざ言問わん都鳥、わが思ふ人はありやなしやと」と呼んだ在原業平ゆかりの地と言う。前述春日部八幡神社の境内には「都鳥の碑」が建ち、都鳥云々の歌について、「この歌は在原業平が奥州に旅したとき、武蔵国と下総国との境にある隅田川の渡しで読んだものである。往古神社の当りが両国の境になっており、奥州への通路にもなっていました。この石碑は、その故事を後世に伝えんと、江戸末期嘉永6年(1853年)粕壁宿の名主関根孝□(ことえりでは無理)が千種正三位源有功に依頼し由緒をあらわしたものです」とある。
「古隅田川」と記される
また、前述古隅田緑道に立つ満蔵寺には「梅若伝説と梅若塚」もあり、案内板には「今からおよそ千年前、京都の北白川に住んでいた吉田少将惟房卿の一子梅若丸は七歳の時父に死別し、比叡山の稚児となった。十二歳の時、宗門争いの中で身の危険を思い下山したが、その時に人買いの信夫(現在の福島県の一地域)の藤太にだまされて東国へ下った。
やがて、この地まで来た時、重病になり、藤太の足手まといとなったため、隅田川に投げ込まれてしまった。
幸いに柳の枝に衣がからみ、里人に助けられて手厚い介抱を受けましたが、我身の素姓を語り、「尋ね来て 問わば答えよ 都鳥   隅田川原の 露と消えぬ」という歌を遺して息絶えてしまった。
時に天延2年(974)3月15日であった。里人は、梅若丸の身を哀れと思い、ここに塚を築き柳を植えた。
これが隅田山梅若山王権現と呼ばれる若梅塚である。一方、我が子の行方を尋ねてこの地にたどり着いた若梅丸の母「花子の前」は、たまたま若梅丸の一周忌の法要に会い、我が子の死を知り、出家してしまった。
名を妙亀(みょうき)と改め、庵をかまえて梅若丸の霊をなぐさめていたが、ついに世をはかなんで近くの浅芽が原の池(鏡が池)に身投げてしてしまったという。これが有名な謡曲「隅田川」から発展した梅若伝説であるが、この梅若丸の悲しい生涯と、妙亀尼の哀れな運命を知った満蔵寺開山の祐閑和尚は、木像を彫ってその胎内に梅若丸の携えていた母の形見の守り本尊を納め、お堂を建てて安置したという。これが、安産、疱瘡の守護として多くの信仰を集めてきた子育て地蔵尊である」とする。

もっとも、東京都墨田区を流れる隅田川にも業平橋が架かり、「言問橋」も架り、墨田の墨堤に建つ木母寺には梅若伝説が残る。どちらが「本家」か不詳である。

香取神社
道順川戸橋を豊春小学校側に移り、流路を南東から南西に変えた川筋に沿って進む。H形鋼で補強された水路を左に見遣りながらしばらく進むと、川沿いの道は行き止まりとなる。
住宅街を成り行きで進み、下蛭田に架かる名称不明の橋を渡り、水路の南側に移る。橋の上流も川に沿って道はない。水路一筋南の道を西に進むと、春日部市富増に香取神社がある。上述古隅田公園の南にも香取神社があった。香取神社について少し深堀りする。
香取神社
香取神社は下総国の一ノ宮の分祀。香取神社は武蔵国にはほとんど見られない。武蔵国は氷川神社が一ノ宮であり、祭祀圏がはっきりと分かれている。
埼玉は基本武蔵国である。何故武蔵国のこの地に香取神社が?チェックすると、埼玉ではあるがこの辺りでは一部下総葛飾郡が入り込んでいる。吉川市にある平方新田と深井新田地区と北葛飾郡松伏町、金杉、築比地、魚沼地区、更に杉戸町の中川より東側と共に、春日部市の古利根川の東側、現在は春日部市となっているが旧庄和町領の全域がそれである。この地に香取神社が祀られるのはこういった事情ではあろう。
香取神社と氷川神社の祭祀圏
鈴木理生さんの『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラリー)』に拠れば、古利根川から東は香取神社。古利根川の西の大宮台地・武蔵野台地部には氷川神社。この香取・氷川の二大祭祀圏に挟まれた元荒川の流域に80近い久伊豆神社が分布する、とある。
香取神社は、下総の国、つまりは隅田川の東、川筋で言えば大落古利根川に沿って数多く分布しているが、隅田川の西、つまりは武蔵国にはまったく無いといってもいいほど。一方、武蔵の国、つまりは隅田川の西、埼玉県や東京を中心におよそ230社も分布しているのが氷川神社。本社は大宮にある武蔵一ノ宮の氷川神社。川筋でいえば少々大雑把ではあるが荒川・多摩川水系といってもいいだろう。
これほどきっちりと分かれているということは、それぞれの地域はまったく別系統の人々によって開拓されたといってもいいかと思う。香取神宮の神様は経津主(フツヌシ)。『日本書紀』によるとフツヌシとはアマテラスの命を受け天孫降臨の尖兵として、タケミカヅチ神とともに出雲の国へ行き、大国主命に国譲りをさせた神様。沼を隔てて鎮座する茨城県鹿島市の鹿島神宮の祭神・タケミカズチの神と同神とされる。アマテラスの尖兵といったことであるから、大和朝廷系・有力氏族とかかわりの深い神さまの系統であるのだろう。
本来は物部系の氏神とのことだが、物部氏の勢力が衰えて以降は中臣・藤原氏が氏神とした、と。

一方の氷川神社。祭神はスサノオノ命。考昭天皇の代に出雲大社から勧請された。「氷川」とは出雲の「簸川(ひのかわ)」に由来するとも言われる。大和朝廷に征服された部族の総称=出雲族系統の神様である。
○久伊豆神社
ついでのことながら、東西にくっきり分かれる氷川神社と香取神社の祭祀圏の間に分布する神様がいる。つまりは、そういった神様を祭る部族がいる、ということ。その神様は「久伊豆神社」。元荒川と古利根川の間に100社近くが分布している。祭神はスサノ須佐之男直系の「大己貴命」というから氷川系に近い部族であるのだろう。この「久伊豆神社」の祭祀圏はほとんどが河川の氾濫によりできた沖積地帯。台地上の立地は既に氷川さんとか、香取さんに占拠されている、ということであろから比較的新しい時代の開拓民の集団であったのだろう。本社は不明である。

旧古隅田川と古隅田川・西流水路筋との分岐点
旧古隅田川筋
元荒川方面からの水路

香取神社の少し先で旧古隅田川がふたつに分かれる。ひとつは北西へと弧を描き、県道2号を越えて、前述「こばと南公園」の南の開渠に繋がる。当日は知る由も無かったのだが、この水路が旧古隅田川ではあろう。
で、もうひとつの水路は南西に向かう。現在は西から東に流れているが、この水路は往昔大落古利根川から西流し元荒川に流れた古隅田川の川筋ではないだろうか。当日は、如何にも自然な「西流」筋のように思え,迷うことなくこの水路筋を進んだのだが、メモの段階で地図をしっかり見ると面白いことが見えてきた。
面白いこととは、北西と南西に二つに分かれた水路筋が春日部市と岩槻市の境となっている、ということ。つまりは、ふたつに分かれた水路筋は武蔵国と下総国の境となっている、ということだ。ふたつの水路の間に割り込んでいる岩槻市平野地区が自然というか、不自然で誠に面白い。

大光寺堤
往昔古隅田川が西流していた時の川筋跡とも思える水路に沿って春日部市と岩槻市の境を南西に進む。水路の南に林が続く。如何にも自然堤防跡の趣である。 衛星写真を見ると、水路に沿って緑が続く。チェックすると、旧古隅田川と古隅田川の西流水路筋との分岐点から南西へと元荒川近く、国道16号脇の大光寺を越え、元荒川近くまで続いている。それもあってか、この緑の帯は大光寺堤と称される築堤とのことである。この緑の帯が往昔西流時の古隅田川の流路に沿った自然堤防跡と考えてもいいかと思う。
因みに、現在は、宅地で分断れてはいるが往昔は、前述新方領囲堤へと繋がっていたとのことである。

南平野排水機場と南平野調整池
往昔古隅田川が西流していた時の川筋跡とも思える水路に沿って、春日部市と岩槻市の境を南西に進む。開渠が一瞬暗渠となるも直ぐに開渠となって進むが、南平野排水機場手前で暗渠となる。
暗渠は南平野排水機場の南を進む。南平野排水機場の西には南平野調整池が見える。地域の排水対策として20mほど掘り下げた池に溜まる水は、大雨時に備えて常時ポンプで排水しているとのこと。今歩いて来た水路の水は南平野公園につくられた調整池の水を排水機場でポンプアップし旧古隅田川筋へと流しているのだろうか。

国道16号西に増野川用水
南平野排水機場南の如何にも暗渠らしき道を進むと、暗渠の趣はないのだけれど、水路跡を想起させるような緩やかな曲線を描く道に出る。道の左手には大光寺堤の緑が続く。往昔の水路跡ではないだろうか。
大光寺堤は国道16号で一瞬分断されるが、国道を渡った先で大光寺を取り囲むように先に続いている。地図を見ると一筋東に水路がある。大光寺堤と思える緑の帯も水路の東に続いているように見える。道を開渠で流れる水路・増野川用水に乗り換える。
増野川用水
元荒川から引水された用水である。用水の始まりは不明であるが、国道16号が元荒川を渡る岩槻大橋から3キロほど下った永代橋の直ぐ北にある末田須田堰、往昔の末田須賀溜井が形成された頃、およそ400年前には引水されていたようである。
末田須田堰により堰上げされた水を岩槻大橋の少し下流から取水し新方領の北部(現在の春日部市、岩槻市、越谷市)へと引水する。末流は複雑に水路が巡り、どこが終点なのかトレースすることはできなかった。
また用水路も国道16号辺りまでは往昔の古隅田川の流路と重なるのではないだろうか。

大堀池・小池
増野川用水に沿って南西へ進む。左手に大きな池、右手に小さな池の間を水路が抜けて行く。大きな池は大堀と地図にある。周囲200m強。おっぽり沼・岩槻押堀(いわつきおっぽり)・摺鉢池・大光池とも称され、元荒川が決壊した際の跡地とのことである。
右手の周囲120m強のこの池は小池と称されるようだ。大堀池と同じく護岸工事もされておらず、これも元荒川決壊時の名残であろうか。

元荒川へ
水路に沿って進むと県道80号にあたる。県道の元荒川側にはフェンスが張られ、その先に進むことはできない。フェンス越しに元荒川に向かう増野川用水を眺め、国道16号に架かる岩槻大橋から増野川用水の取水口を確認し、東武野田線・東岩槻駅に向かい本日の散歩を終える。

今回の散歩は、全くの事前準備なしで、往昔大落古利根川から元荒川へと西流したという流れ跡らしき水路を成り行きで辿った。結果的には、ほぼその流路を辿ったことになったように思う。
何時だったか歩いた足立区と葛飾区の境を流れる古隅田川と繋ぐ日はまだまだ遠い。



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