日曜日, 2月 28, 2010

八王子散歩:湯殿川を上流端へと

久しぶりの川歩き。八王子南郊、南高尾の山陵を切り開いて流れる湯殿川を歩く。いつだったか、京王片倉にある片倉城址を訪れたとき、その脇を流れる湯殿川を眺め、そのうちに源流まで歩いてみたいと思っていた。また、高尾に向かう途上、京王線片倉駅を過ぎた辺りの車窓から見える景観、湯殿川の南に広がる小比企丘陵、時には遠景に富士を配したその景観に惹かれていた。
湯殿川の北には高尾の山稜から舌状に張り出した子安丘陵。南浅川との分水界となる。南には小比企丘陵。樹枝状の開析谷が入り組んだ丘陵は多摩丘陵へと連なる。丘陵や谷戸、河岸段丘面や段丘崖。地形のうねりの妙に惹かれて湯殿川を源流点へと辿ることにする。



本日ルート;京王線長沼駅>浅川・湯殿川の合流点>京王線北野駅>北野街道と野猿街道>兵衛川合流点>片倉城址>松門寺>小比企町>椚田遺跡公園>御嶽社>宝泉寺>龍見寺>浄泉寺>御霊神社>町田街道>湯殿川上流端(拓殖大構内)>鎌倉街道山の道>京王線高尾駅

京王線長沼駅
京王線長沼駅で下り、浅川と湯殿川の合流点に向かう。長沼の名前の由来には浅川の伏流水による大きな沼があったから、との説がある、また、武蔵七党・西党の長沼氏から、とも。京王線稲毛駅近くに長沼五郎宗政の館もあった、とか。五郎宗政は源頼朝に仕えた武将とも伝わるが、詳しいことは不明。

湯殿川と浅川の合流点
駅を出て湯殿川が浅川に合流する地点へと向かう。合流点に長沼橋。広々とした浅川流域の段丘面のその先に豊田の段丘崖が見える。崖線に沿って黒川の湧水を辿ったことがなつかしい。それにしても広々とした浅川の段丘面である。気の遠くなるような長い年月をかけて形作られたのであろう。
浅川は浅川水系の幾筋もの河川が合流してつくられる。水系は北から川口川、山入川・小津川を集めた北浅川、そして南浅川。これらの河川が八王子中央部で合わさり、浅川となり南東に下る。この長沼の地で湯殿川を合わせた川筋は、多摩丘陵に遮られ北西へと流路を変え、高幡不動辺りで多摩川へと合流する。

京王線・北野駅
浅川との合流点から湯殿川に沿って進む。ふたつの人道橋を見ながら進み都道174号線・春日橋に。北に進めば京王線八王子駅近くの明神町向かう道。京王線の高架下を進み都道173号線・北野街道に。先に進むと八王子バイパス・打越交差点。すぐ北に京王線・北野駅がある。北野の地名は北野天神から。横山党が京都の北野天満宮を勧請した。
この北野駅前・打越交差点には東西南北から道が集まる。東西に走る北野街道には都道160号線・野猿街道が南東から合流し、南北には八王子バイパスの高架橋が走る。地形での制約でもあるのかと、地形図をチェックする。 北東から進み南西に向かう浅川の川筋、開析された谷間を西へと延びる湯殿川の川筋、北西へと下る兵衛川の川筋。道は川筋に沿って延びるわけで、その交点が北野駅あたり、ということだろう。交差点の「打越」も、打=狭い谷・崖、越=ふもと・崖、といった意味もある。谷間からの川筋=道筋が、この地で合流・交差する所以である。



東橋で兵衛川が合流
打越大橋、時見橋、八幡橋をやり過ごしJR横浜線をくぐり打越橋で北野街道にあたる。北野街道はここから西は湯殿川の北を進むことになる。先にすすむと東橋。橋の少し西で兵衛川が湯殿川に合流。御殿峠近くの源流点から、南北に深く切れ込んだ谷筋を下る。合流点を越えると新山王橋。南に下ればJR横浜線片倉駅前に出る。

片倉城址
その先、住吉橋で東京環状16号線に。住吉橋は少し南の片倉城址に鎮座する住吉神社、から。片倉城は鎌倉幕府開幕時の重臣、大江広元の子孫・長井氏の築城、と。元は此のあたり一帯は、横山党の領地であったが、和田義盛と北条の抗争に際し、和田方に与力し敗北。その地を北条勝利に貢献した大広元に与えられもの。
住吉神社は室町期、城主長井氏が摂津の住吉社を勧請したとか、大江某が領地・長門の住吉社を勧請したとか、あれこれ。片倉城の鬼門除けとしてまつられた。住吉神社の祭神って、伊邪那岐大神の子供である底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命。神功皇后が三韓征伐の際、この住吉三柱の守護により無事に目的達成。摂津国西成郡田蓑島(現 大阪市西淀川区佃)におまつりしたのがはじまり、と。住吉神社は全国に2,100ほどもあるそうだ。

松門寺
片倉城址は先日の散歩で訪れたので今回はパス。住吉川を越えると川筋の南に公園。その南に片倉城址の丘。比高差20m程度だろう。道の先には寺の甍が見える。風原橋を越え時田大橋で南に折れ、台地上のお寺様に。松門寺(しょうもんじ)。15世紀末、八王子駅近くの子安町に開基し、16世紀末には寺町に移る。第二次世界大戦の八王子大空襲で焼失。1969年、八王子の区画整理にともないこの地に移る。元は密教系の寺院であったものが、下恩方・川原宿近くの心源院から高僧を請し、曹洞宗の寺院となった。参禅会が盛んに行われている遠因だろう、か。

由井
お寺を離れ川筋に戻る。先に進むとカタクリ橋。このあたりが片倉町と小比企町の境となる。稲荷橋の脇には稲荷神社の森。少し寄り道しお参り。神社の横には由井第三小学校。そういえば、このあたりに由井と名前の付いた学校が多い。京王片倉駅の北に由井中学校、南に由井第二小学校。片倉に何故、由井?調べてみると、南北朝の頃、このあたり一帯は由井郷(由比郷)と呼ばれた。後北条の頃、由井領(由比領)となり明治の頃は由比村であった。片倉町となったのは由比村が八王子市に合併されてから。 ちなみに、「ゆい」の語源は、湧水地帯、湿地帯、清らかな水辺、といった意味、と。湯殿川と兵衛川に囲まれた低湿地であったのだろう。

小比企町
稲荷橋に戻り先に進む。周囲は大きく開ける。湯殿川が流路定まらなく流れた往古、気の遠くなるような時間をかけて形づくられた河岸段丘であろう。このあたりの湯殿川の川筋は一直線に進む。河川改修の結果だろうが、それって蛇行し水害の多い一帯であった、ということの証でもあろう。
川の北は崖線が続く。湯殿川の段丘崖。この辺り、小比企町と呼ばれるが、「ヒキ」は「ハケ=崖」から、と言われる。言い得て妙なる地名である。ちなみに片倉の地名も「カタクラ=集落の片方が崖」とも。カタクリの群生する地、という地名の由来説より納得感が高い。
一直線の川筋を殿田橋、釜土橋と過ごし大橋に。大橋を越えると北野街道が接近。湯殿川もだいぶ細くなる。細くなるに従い、水の汚れが気になる。実際、湯殿川に生活用水が流されなくなったのは、それほど遠い昔のことではないようだ。河床の地質なのか、汚れなのか、もやっとした水の色がちょっと気になる、

椚田町
大橋を越えると小比企町から椚田町へ入る。白旗橋の先で寺田川が合流。寺田川の源流点は鍛冶谷戸。合流点を南西に下った寺田西交差点の奥にある。丘陵から浸み出した流れは谷戸奥に集まり、開析された谷筋を下ってくる。流れを囲む丘陵には東は「グリーンヒル寺田」、西は「ゆりのき台」といった今風の名前の宅地が開発され、のどかな、というか、のどかだった寺田町も少々様変わりしている、よう。

椚田遺跡公園
先に進み船橋、椚田橋へと。次の目的地は椚田遺跡公園。ちょっと川筋を離れることになる。椚田中学の東脇を進み北野街道を渡り成り行きで北に進み段丘崖を上る。比高差30m弱といったところ。現在の湯殿川では想像できないのだが、往古の湯殿川って、どういった規模の川であったのだろう。
いつだったか、津久井湖の近くの串川を歩いたことがある。この串川流域の発達した河岸段丘には誠に魅せられた。今ではささやかな川筋ではあるが、往古、現在の相模川の川筋をも集めた大きな規模の川であった、とか。湯殿川にはどのような地形のドラマがあったのだろう、か。
段丘崖を上る。椚田遺跡通りを越え椚田遺跡公園に。1975年、区画整理の時にこの地で縄文中期から古墳時代後期の遺跡が見つかった、と。現在は埋め返され公園となっていた。ここで発掘された土器や土偶は八王子の郷土資料館に展示されているとのこと。女性の土偶では、足や腕が意図的に欠けているものが多い、とか。豊穣や多産を祈った、との説がある。
ちなみに、椚=クヌギ、そのクヌギの実(ドングリ)は縄文時代の主食のひとつ。縄文土器もドングリの灰汁抜きにも使われた、とも言われる。往古、このあたりは椚田郷と呼ばれたわけで、クヌギの群生する一帯であったのだろう。八王子には北の加住丘陵のほうには椚谷遺跡もある。

館町
公園を離れ成り行きで段丘崖を下る。坂の途中に社の屋根。坂を下りきったところから石段をのぼり御嶽社に。お参りをすませ湯殿川・境橋に。この辺りから椚田町を離れ館町に入る。南の丘陵上にトヨタ東京自動車大学校。自動車整備の専門学校。
田中橋の先には横山第一小学校。なぜ、この椚田に横山が?チェックすると、明治の頃、この辺り一帯、北の散田、長房、椚田、南の館、寺田、大船地区は横山村であった。ということは、この小学校って、この地の明治の歴史を今に伝えるってこと、か。
新田中橋を越え新関橋に進むと、その先に殿入川の合流点。殿入谷戸から開析谷を下ってくる。殿入谷戸のもつ典型的な谷戸の景観が印象に残る。

龍見寺
新関橋の先に和合橋。この辺りには神社・仏閣が点在する。北野街道脇に宝泉寺。室町後期の開基、とか。本堂を街道から見やり、湯殿川に戻り南の龍見寺に進む。木々の茂る小さな丘を目安に道を進むと道脇にお堂に向かう小径。道を上ると龍見寺の大日堂前にでる。
雰囲気のあるお堂。中には都文化財、藤原時代末期の作と伝わる大日如来座像が鎮座する。寺伝によると、横山党の横山経兼が、前九年の役に源頼義に従い奥州に出陣。湯殿山で戦利品として持ち帰った、と。湯殿川の名前の由来も、ここにあると言う。大日堂を下った本堂前に池がある。その昔、大日堂付近にも湧水があり、そこが湯殿川の水源のひとつでもあった、とのこと。その名残であろう。
この龍見寺一帯は横山氏の館があった、とも。地名が館であるだけに、妙に説得力がある。実際、椚田、高尾、初沢、東浅川一帯は横山庄椚田郷と称し、横山党をその祖とする椚田氏が館を構えた、と。高尾駅近くの初沢城は椚田氏の城、といった説もある。もっとも、八王子であれば、どこを掘っても横山氏には出会うだろう、が。

浄泉寺
龍見寺を離れ民家の間の小径を縫って進む。丘の上に浄泉寺。寺域には平安末期、桓武平氏の末裔と伝わる鎌倉五郎影政の館があった、と伝わる。影正は前九年の役、源頼義に従い出陣、また、後三年の役では八幡太郎義家に従軍し討ち死にした、と。勇猛の士として知られる。なんだか、龍見寺に伝わる横山某の縁起と良く似た話である。
時代は下って戦国末期、八王子城主・北条氏照の家臣、近藤出羽守助実がこの地に館を構える。近藤砦とも呼ばれるのは、八王子城の出城でもあったのだろう、か。出羽守は八王子城合戦の時は城に籠もり討ち死にした、と。浄泉寺は近藤出羽守助実の開基、とも。

御霊神社

寺を離れ民家の間の小径を進み御霊神社に。鎌倉権五郎影政を祀る。天正時代、八王子城の南の外郭、御霊谷戸に祀られていた御霊神社を、近藤出羽守がこの地に勧請した、と。
御霊谷戸に祀られていた御霊神社って、鎌倉時代、梶原景時が鎌倉から勧請したわけで、その祭神は鎌倉権五郎。おや??鎌倉権五郎って、ひょっとして鎌倉の地名の由来ともなった、あの鎌倉氏?梶原氏、村岡氏、長尾氏、大庭氏とともに関東五平氏とも呼ばれた、あの鎌倉氏?とすれば館は鎌倉である。浄福寺が鎌倉権五郎の館址って話には大いなる疑問符。鎌倉権五郎館伝説は、近藤出羽守が勇猛・勝利の守り神として御霊神社をこの地に勧請した結果、いつしか祭神鎌倉権五郎が一人歩きし、館址といった話ができたのでは、と思う。

ついでのことながら、御霊神社って、全国にある。大きく分けて怨霊鎮護のものと、祖先神を祀るもののふたつ。鎌倉の御霊神社は祖先神系。





もともとは五霊神社と呼ばれていたように、関東五平氏の祖先神を祀っていた。その後、名前も御霊、祭神も武勇で知られる鎌倉権五郎ひとりとなった。梶原氏が御霊神社を勧請したのは、もとの祖先神を祀るためであろう。

湯殿川上流端
神社裏手から湯殿川に出る。西明神橋。現在工事中。この辺りは水路脇には道はない。道なりに進み民家の間を進むと湯殿川に。人ひとり通れる人道橋・地蔵橋を渡ると小さい公園。上館公園。公園先を成り行きで進むと町田街道に出る。
町田街道に掛かる橋・湯島橋で湯殿川をチェックし、町田街道を離れ拓殖大学に通じる道を進む。と、道を跨ぎ巨大な橋桁が建設中。南バイパス館高架橋。圏央道に繋げるようである。 拓殖大学の構内を少し進むと石橋。山王橋と呼ばれるこの橋の脇に「湯殿川上流端」の標識があった。石橋の先は地下水路。湯殿川は地下水路をくぐり拓殖大学の構内に導かれる。地図を見ると構内とその先に調整池がある。南の調整池の先に水路が見える。源流はその水路が切れるあたりだろう。ふたつの調整池の間は水路が切れている。キャンパス造成で水路が途切れたのだろうが、暗渠で繋がっているか、とも。

源流点へ行きたしと思えども、日暮れも近い。地図を見ると、調整池から辿るか、源流点東の権現谷戸とか西の初沢川経由でも源流点に行けるような、行けないような。
『流域紀行八王子;馬場喜信(かたくら書店。1982)』に「館のバス停から車のひんぱんに行き交う鎌倉街道を渡って旧道に入る。しばらくすると「一級河川湯殿川上流端」の木標があり、 そこからいよいよ水源への道となる。T大学敷地の造成工事中だった。しばらく歩くとその騒音も背後に去って、両側からおおいかぶさるような樹林の中を、 山道が川沿いに確実に続いていた。これなら水源の山を越えて、向こうの谷に抜けられると思った。ところが流れが狭まり谷が2つに分かれる所で、道はばったり途絶えていた」、とあった。結構厳しそう。薮漕ぎ承知で、そのうちに、ということで、本日の湯殿川散歩はこれでお終い

火曜日, 1月 19, 2010

2010年元旦 雪の石鎚に登る

2010年の元旦、雪の石鎚山に上った。天候はあまりよくない。大晦日には里にも小雪が舞っていた。石鎚山は西日本最高峰。標高1982mと言う。これはもう、雪山。凍える寒さではあろう。
何が悲しくて、はたまた、何が嬉しくて雪山に、とは思えども、本企画は弟二人の還暦記念登山でもある。数年前、赤いチャンチャンコならぬ、赤い登山用Tシャツをプレゼントしてもらい、還暦祝いに銅山峰に連れていってもらった我が身としては、お誘いに「諾」と頷く、のみ。

メンバーは弟二人とその山仲間のご夫妻、それと私の5人。他のメンバーは山歩きのベテラン。古道歩きが趣味で、成り行きで峠を超えることも、といった程度の山のアマチュアは私ひとり。それでも借り物とは言え、アイゼンなど、それなりのギアを装備し、それなりの山男の気分となって、実家のある愛媛県新居浜市から石鎚山に向けて出発した。



本日のルート;石鎚山ロープウェイ成就駅>石鎚神社成就社>八丁坂>前社ヶ森小屋>夜明峠>土小屋ルートとの合流点>二の鎖小屋>三の鎖小屋>石鎚山頂上(弥山)

西条
石鎚山には新居浜市のお隣の西条市から入る。国道11号線を西に、西条へと向かい加茂川に架かる加茂川橋の西詰めを南に折れ国道194号線に。加茂川に沿ってしばらく走り松山自動車道が見えるあたり、中野大橋手前で国道を離れ県道12号線に。黒瀬湖を見やりながら大保木、中奥地区を超えると三碧橋に。

河口
ロープゥエイ乗り場には橋を渡り左に折れ先に進む。が、その昔、石鎚への参道はこの三碧橋のある河口(こうぐち)地区から山麓の成就社に上っていった。ルートはふたつ。ひとつは今宮王子道、もうひとつは黒川道。今宮王子道は河口から尾根へと進む。尾根道の途中に今宮といった地名が残る。昔の集落の名残だろう。一方黒川道は行者堂などが地図に残る黒川谷を辿り、尾根へと上っていくようだ。どちらも成就社まで6キロ前後、3時間程度の行程、といったところ。今宮王子道にはその名の通り王子社が佇む。石鎚頂上まで三十六の王子社の祠がある、とのこと。数年前、熊野古道を歩いたことがある。そこには九十九王子があった。『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』によれば、熊野参拝道の王子とは、熊野権現の分身として出現する御子神。その御子神・王子は神仏の宿るところにはどこでも出現し参詣者を見守った。
王子の起源は中世に存在した大峰修験道の100以上の「宿(しゅく)」、と言われる。奇岩・ 奇窟・巨木・山頂・滝など神仏の宿る「宿」をヒントに、先達をつとめる園城寺・聖護院系山伏によって 参詣道に持ち込まれたものが「王子社」、と。石鎚の王子社の由来もまた、同様のものであったのだろう。

石鎚山ロープウェイ下谷駅
河口から加茂川に沿って進み下谷のロープゥエイ乗り場に。国道11号線からおおよそ18キロ、といったこころ。土産物屋の奥にある駐車場に車を止めロープゥエイ乗り場に向かう途中に「役(えん)の行者」の像。石鎚開山の祖とも伝えられる。

役の行者。本名は役小角(えんのおづぬ)。加茂氏(賀茂氏)をその祖とする役氏の出。修験道の開祖として知られる。役の「行者」という名前はその故をもって、後世に名付けられた。
万葉集に「藤原宮役民(えだち)作歌」がある。藤原宮の造営に従事した人々が詠んだ長歌、とか。役民とは全国各地から徴発され、造営に関わるさまざまな仕事に従事した作業員、といったところ。君(氏)とは、国津神系(天津神系=大和朝廷系ではない)の地方豪族に与えられた姓であるので、役君(氏)って、簡単に言えば土木作業員を束ねる長官、か。

いつだったか、黒須紀一郎さんの『役小角(作品社)』を読んだことがある。役小角その人のエピソードもさることながら、日本、朝鮮、そして中国を織り込んだ同時の東アジアの政治的・社会的ダイナミズムが誠に面白かった。それはそれとして、役小角は呪術を操り神出鬼没、日本全国に開山縁起をもつ。そのため、単なる伝説の人物と思っていた。が、平安初期に編纂された勅撰史書『続日本記』に「伊豆に流された」とある。飛鳥から奈良にかけて実在した人物のようである。また、勅撰史書に登場するくらいであるから、それなりの地位をもつ人物であったのだろう。

ウィキペディアなどを参考にまとめておく;634年、大和国葛城に生まれる。17歳のとき元興寺で学び、孔雀明王の呪法を学んだ。その後、葛城山で山岳修行を行い、熊野や大峰の山々で修行を重ね、金峰山(吉野)で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築く。
699年に謀反の疑いにより伊豆大島に流刑。701年に疑いが晴れるが、同年箕面の天上ヶ岳で入寂。平安時代に山岳信仰の隆盛とともに、「役行者」と呼ばれるようになる。奈良の天河神社や大峰山の龍泉寺など、ほとんどの修験の霊場は、役行者を開祖としたり、修行の地とするなど、役行者との結びつき伝える。
役氏(君)は加茂(賀茂)氏をその祖とする、と言う。西条を流れる加茂川って、石鎚山にその源を発する訳で、その石鎚開山は役の行者。とすれば、加茂川の名前の由来と役の行者って、なんらか関係があるのだろう、か。

石鎚山ロープウェイ成就駅
役の行者の像を離れ石鎚山ロープウェイ乗り場に。三本のワイヤーロープを用いた三線交差式ゴンドラ。51人乗り。開通は1968年のことである。ループウェイができるまでは、西之川口からのルートを上っていたようだ。下谷の少し先にある西之川の分岐あたりから登山ルートが地図にある。3時間弱の上りといったところ、か。
ロープウェイは標高450mの下谷駅から標高1300mの山麓の成就駅までの比高差850m、距離1800m強を7分30秒で上る。成就駅付近は一面の雪景色。下谷駅のあたりには雪などなかったのだが、標高1300mともなれば里の景色と一変。真冬に突入といった案配である。晴れていれば瀬戸の海が見渡せるかとも思うのだが、天候も悪く見晴らしはまるで、なし。駅でアイゼンをつけ、石鎚神社成就社へと向かう。ちなみにアイゼンって、ドイツ語のシュタイクアイゼンから。シュタイク(山の細路)+アイゼン(鉄)。如何にも鉄の爪。

石鎚神社参道
9時2分出発。緩やかな傾斜の雪道を進む。右手にはスキー場。上り道にも橇で滑り下りる家族がちらほら。9時28分、石鎚神社・成就社の一の鳥居をくぐる。標高は1408m。1キロ程度の距離を30分弱で100mほど上ったことになる。鳥居の先は参道の両側に宿や土産物店。関東の山岳信仰で名高い相模の大山や奥多摩の御嶽山に行ったことがある。参道の両側には「講中」の人が止まる御師の宿が連なるのだが、ここにはその面影はあまり、ない。ちょっと気になりチェックする。宿は黒川・今宮の集落にあった、とか。
『石鎚山と瀬戸内の宗教文化;西海賢二著(岩田書院)』によれば、『其の山高く嶮しくして凡夫は登り到ることを得ず。但浄行の人のみ登りて居住す』るしかなかった石鎚山に、一般の人びとが登拝するようになったのは、近世も中期以降のこと。講中が組織されるようになってから。お山の大祭の頃には、講を差配する先達に導かれ幟を立て、ホラ貝を鳴らし、愛媛県下ばかりではなく岡山、広島、山口県下一円からお山に上ってきた、とある。その宿泊の地は石鎚参詣道の集落である黒川や今宮。『備後国又八組』『安芸国忠海講中』『安芸国西山講中』『安芸橋本組』『備中鬼石組』『周防大島講中』『備後尾道吉和講中』『安芸大崎講』『阿波赤心講』『備後久井講社』などと書かれた常連講中への目印となるマネキが宿の入り口に打ち付けられていた、とか。昔は人々で賑わった黒川・今宮の集落は現在では廃屋となっているようだが、そのうちに歩いてみようと思う。

石鎚神社・中宮成就社
二の鳥居をくぐり正面にある石鎚神社成就社の拝殿にお参り。登山の安全を祈る。祭神は石土毘古神(いしづちひこのみこと)。伊邪那岐、伊邪那美の第二子、と言う。
本邦初の説話集である日本霊異記に「石鎚山の名は石槌の神が座すによる」とある。山そのものが神として信仰される山岳信仰の霊地であった。
そのお山を開いたのは先に述べた役小角、とか。そのお山を修験の地となしたのは寂仙という奈良中期の修験僧。石鎚山に籠もって修行に努め「菩薩」とまで称えられた。登拝路を開き、現在の成就社のもとである常住社(成就社)を建て、お山を石鎚蔵王大権現と称えた。

お山はその後、上仙(寂仙さんと同じ人、とも)、また、最澄の高弟でもある光定といった高僧が横峰寺(四国八十八番札所六十番)、前神寺(四国八十八番札所六十四番)を開き、神と仏が渾然一体となった神仏習合の霊地として明治の神仏分離令まで続く。
石鎚のお山を深く信仰した人々は桓武天皇、文徳天皇といった天皇から、源頼朝、河野一族、豊臣家といった武家など数多い。この成就社を造営したのは豊臣秀頼公とも伝えられる。江戸時代、西条藩主、小松藩主の篤い庇護があったことは言うまでも、ない。
現在、石鎚神社は国道11号線近くの「本社・口の宮」石鎚山頂の頂上社、土小屋遙拝殿、それとここ中宮・成就社の四宮からなる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

ところで、役の行者が感得したという蔵王大権現であるが、この神様、というか仏様は日本独自の創造物。権現って、「仮」の姿で現れる、ということ。神仏混淆の思想のひとつに本地垂迹説というものがあるが、日本の八百万の神は、仏が仮の姿で現れた権現さまである、とする。蔵王権現は釈迦如来、観音菩薩、弥勒菩薩という三尊が「仮」の姿で現れたもの、とされる。三尊合体の、それはもう強力な神様、というか仏様。吉野の金峰山、山形の蔵王山など、役の行者が開いた山岳信仰の地に祀られる。
現在はお寺と神社は別物である。が、明治の神仏分離令までは寺と神社は一体であった、神仏混淆とも神仏習合とも言われる。それは大いに仏教界の勢力拡大のマーケティング戦略、か。膨大な教義をもつが外来のものであり今ひとつ民衆へのリーチに乏しい仏教界。日本古来の宗教であり古くから民衆に溶け込んでいるが教義をもたない神道。共同でのブランドマーケティングを行えば、どちらも繁栄する、とでも言ったのではないだろう、か。で、その接点にあるのが権現さま、であろう。ちなみに、「神社」って名称も、明治以降のもの。それ以前は、社とか祠、などと呼ばれていた。

寄り道ついでに、寂仙菩薩にまつわる逸話。嵯峨天皇は寂仙菩薩の生まれ代わり、と言われる。「我が命終より以後、二十八年の間を経て、国王の御子に生まれて、名を神野(かみの)と為はむ」とは寂仙入寂の遺言。ために、桓武天皇の御子であり「神野の親王」と称された嵯峨天皇が、寂仙の生まれ変わりと、言われたのだろう。この神野縁起って、愛媛に多い神野姓と何らか関係があるのだろうか。チェックする。
往時、新居浜市や西条市あたりは伊予国神野郡と呼ばれていた。神野姓は、その地名故のものだろう。それはそれでよし、として、嵯峨天皇の神野縁起は新居郡という地名の由来に大いに関係があった。「神野」郡という地名は、天皇さまと同じ名前では畏れ多いと、「新居郡」と変えた、ということだ。疑問をちょっと深掘りすれば、いろんなものが出てくる、なあ。

見返り遙拝殿
拝殿の左に見返り遙拝殿。役小角が石鎚での修行を終えこの地に戻ったとき、石鎚山を見返し我が願い成就!と仰ぎ拝したところ。遙拝殿の奥の壁はガラスとなっており山頂を遙拝できる、とか。
雪の寒さに動作鈍く、つい見落としたのだが、本殿と見返り遙拝殿の角に王子の祠が佇む、と。第二十 稚子宮鈴之巫女王子。また、その横には八大龍王社もあった、よう。八大龍王って、仏法を守護する神のひとつ龍族の八王のこと。龍の名前のごとく水の神。観音菩薩をお守りする。奈良天河村の龍泉寺、秩父の今宮神社など役の行者ゆかりの地に、しばしば登場する。役の行者がイメージングした蔵王も、もとは、蛇王(じゃおう)から、といった説もあるが、それのプロトタイプは龍王からであろう、か。蛇王ではなく、象王といった説もあり、単なる妄想。根拠、なし。

八丁坂
境内を離れ石鎚山へ向かう。石鎚登山道の入り口に神門。お山への登山口、と言うより、石鎚山そのものがご神体であるわけで、ご神体へ向かう門、と言うべき、か。[標高1400m。午前9時25分]。
神門を越えると八丁坂。丁(町)は109m。八丁坂と言うから、おおよそ1キロ弱下ることになる。600mほど下りたところに鳥居がある。遥拝所であったのだろう。ということは、天気が良ければ石鎚のお山を仰ぎ見ることができる、という場所だろう。が、今回はなにせ、雪模様の天候。お山が見えるわけも、なし。
10時前、八丁坂を下りきり、西之川筋からの登山ルートの合流点に。といっても、雪の中、どこが合流点なのかチェックする余裕など、まるで、なし。[標高1300m。9時58分]。

前社ヶ森小屋
八丁坂を下り切ると、後は石鎚山頂への上りが続くことになる。天候は相変わらず良くない。時折強風に吹き飛ばされた雲の隙間から漏れる青空に一喜一憂。道々、下りの人達とで会う。大晦日から石鎚山頂に向かい、御来光を求めたのではあろう。が、この天候では、如何せん。八丁坂下から1キロほど歩き、午前11時頃、前社ヶ森小屋に到着。標高1564mというから、八丁坂下より比高差250mほどの上ったことになる。ここで成就社から山頂までのほぼ中間点。小屋にて小休止。水を飲もうと思えども、シャーベット状態、というか、氷結寸前、といったところ。こんな経験などなかったので、少々新鮮な驚きではあった。
驚きといえばバッテリー。消耗がやたらと激しい。携帯カメラもすぐに電池切れ。専用GPS端末も電池切れのサイン。「バッテリーは化学反応で電気を起こしているわけで、寒冷地ではその化学反応が鈍くなる、ということで、消耗が早いと言うわけではなく、電気に変えられない」、とのご託宣ではあるが、そうは言っても、結局は使えないってことには変わりなく、ひたすら電池交換にいそしむ、のみ。後でわかったのだが、対応は暖めること。人肌のぬくもりが、適温、だと。

雪山登山のため、そのときは話題にも上らなかったのだが、小屋の近くに前社ヶ森(ぜんじゃがもり)と言う山がある、ようだ。標高1592m。試しの鎖といった鎖場もあるようで、それがまた結構怖そうな岩場のようで、高所恐怖症の我が身としては、逆に冬山登山に感謝。季節が良ければ弟達は、それ行け、やれ行け、と鎖場に向かったことだろう。弟のホームページ『四国国の山に行こうよ;エントツ山から四国の山へ』の中で見つけた「前社ヶ森登山記」を見るにつけ、雪山故の幸運を感謝。

ちなみに弟のホームページに、「ぜんしゃがもり」は前社森、前社ガ森、前社ヶ森と記され、別名「禅定(ぜんじょう)ヶ森」或いは「禅師ヶ森」とも呼ばれている、とあった。禅定って、「精神集中により真理を求める」ということ。修験道の目指す境地、とか。禅定への境地に至るアプローチは宗派によってさまざま。禅宗は座禅、天台宗は止観(座禅)、真言宗は真言を唱え、時宗は踊り念仏、浄土宗・浄土真宗は南無阿弥陀仏、日蓮宗は法華教を唱える。真理に至る道は様々、って言うこと、か。

それにしても、それにしても、である。我が弟は登山愛好家には誠によく知られている、よう。一昨年末、娘共々伊予富士に連れて行ってもらったときも、行き交う多くの人たちと声を交わしていた。娘が、「叔父さん、って結構有名人」などと驚いていたほど。今回も同じ。お山から下りてくる何組もの人たちと声を交わしていた。人柄故の交誼であろう。

夜明峠
前社ヶ森小屋を離れ、先に進む。道は八丁から前社ヶ森小屋への上りに比べると少し緩やか。1キロ弱歩き、11時20分頃に夜明峠に到着。標高は1650m。前社ヶ森小屋からの比高差は100m、といったところ。天候がよければ雄大な石鎚の全景が姿を現す、とのことだが、本日は風次第。強風に吹き飛ばされ、雲の切れ目から顔を出す石鎚にメンバー一同、必要以上に盛り上がる。
夜明峠(よあかし)の名前の由来は、その昔、まだまだ石鎚登山が容易でなかった頃、この地で夜明けを待って頂上に向かったから、とか。

土小屋方面からの合流点
11時50分過ぎ、土小屋遙拝殿方面からの合流点に到着。夜明峠から500mの距離を30分ほど歩き100mの高度を上げたことになる。鳥居の根元が雪に埋まっている。これでも例年よりぐっと少ない、とか。
土小屋遙拝殿からのコースは一昨年だったか、弟に連れてもらってきたことがある。5キロ弱の尾根道を辿るのはどうということもなかったのだが、その土小屋に行くまでの寒風山からの瓶ヶ森林道ドライブが結構怖かった。東黒森~自念子ノ頭~瓶が森~子持権現山と四国の屋根を縫った稜線を走るわけで、絶景、それも稀に見る絶景ではあるのだが、足元の谷底を思うだに、一刻も早くこの尾根道林道から逃れたいと思ったものである。

二の鎖元小屋
12時頃、二の鎖元小屋着。標高1800m。ここからが山頂への最後の上りとなる。岩場には二の鎖、三の鎖と鎖場が山頂へと続く。さすがに雪山の鎖場を上る、といった人も見かけない。鎖場の迂回ルートに進む。
実のところ、迂回ルートにも戦々恐々としていた。一昨年の夏に石鎚に上ったとき、この迂回ルートを進んだのだが、断崖絶壁に鉄階段、と言うか桟道を取り付けた道。鉄階段の下は、なにも、ない。右手にも、なにも、ない。左手の断崖を縁(よすが)に薄目を開け、手すりを堅く握りしめながら先に進んだ。また、あの体験を、と怖れていたのだが、幸いにも鉄階段には雪というか氷が氷結し、下が見えなくなっている。
牛は橋を渡るとき、隙間から谷底が見えると怖じ気づき、その歩みを止めた、と言う。ために、谷に架けた木橋には、その上に筵(むしろ)を敷き、土を被して牛を渡した、とのこと。牛の気持ちが誠によくわかる。

三の鎖小屋
桟道が切れると山肌に沿った雪道を進むことになる。雪に足元を取られることも。少々へっぴり腰。無様な格好を見られないため、最後尾を歩く。こういった桟道・雪道のパターンを幾度か繰り返し三の鎖小屋に。小屋は閉まっているよう。もう頂上は指呼の間。右手が大きく開け、と言うか、足元右手がスッポリと消え去り、ジャンプひとつで断崖を谷へと一直線といった岩場の石段を上ると頂上稜線に到着。ほっと一息。

石鎚山頂(弥山)
12時42分。山頂(弥山)に到着。強風に煽られながら石鎚神社頂上社にお詣りする。石鎚神社山頂社のある岩場は弥山(みせん、標高1,974m)と呼ばれる。弥山とは仏教世界の中心にあると言う須弥山の別名、とか。奈良の大峰山、鳥取の大山など山岳信仰の霊地にその名が残る。安芸の宮島にも弥山がある。
それはそれとして、石鎚山の最高峰はこの弥山ではなく天狗岳(てんぐだけ、標高1,982m)。弥山からちょっとした鎖場を下り、左右が切り立った断崖の稜線を進むことになる。前回石鎚に来たときは天狗岳まで進んだ。天狗岳の中程までは怖々ついていったのだが、岩場から天狗岳北壁の絶壁を見た途端に迷うことなくギブアップ宣言。弟としてはその先に進み、天狗岳東稜をロープに括り付けてでも下ろす算段ではあったようだが、あまりの怖じ気ぶりに早々に撤退を了承。弥山へと戻った。今回は鎖場手前に通行止めらしき鎖が張られており、ひとり安堵のため息。

天狗岩が一瞬雲の切れ目から顔を出す。『熊野権現垂迹縁起』に、中国天台山の王子晋は八角形の水晶となり、北九州の彦山に下り、この石鎚から淡路の遊鶴羽岳に飛んで行き熊野の神と垂迹して熊野権現となった、とある。強風、荒れる雲、一瞬の雲間からの晴天に浮かぶ天狗岳。如何にも神々が飛び去りそうな景観である。神が宿る、と言う「神奈備山」に対する山岳信仰って、こういうことだろう、か
山岳信仰とか、山岳宗教とか、修験道とかややこしい。ちょっとまとめておく。神奈備山って、神が宿る美しい山ということ。往古、人々は美しい山そのものを信仰の対象とした。「山岳信仰」の時期である。その時期は平安時代に至るまで続く。南都の仏教では、山で仏教修行をする習慣はなかった。山に籠もり修行をした役小角などは「異端者」であったわけだ。伊豆に流されたということは、こういった時代背景もあったのだろう。
「山岳信仰」ではなく、所謂、「山岳仏教」が始まったのは平安時代。天台宗と真言宗が山に籠もって仏教修行をすることを奨励しはじめてから。深山幽谷、山岳でこそ禅定の境地に入ることができる、密教故の呪術的秘法体得ができる、とした。
「修験道」はこの天台宗や真言宗といった山岳仏教を核に、原初よりの山岳信仰、道教、そして陰陽道などを融合し独特の宗教体系として育っていく。修験者の本尊は蔵王権現。石鎚だけでなく、加賀白山、越中立山、大和大峯山、釈迦岳(一部では月山とも)、駿河富士、伯耆大山など、全国に霊地が開かれていったのもこのころだろう。
室町期にはいると修験道は天台系と真言系のふたつの組織として体系化する。天台系は本山派と呼ばれる。近江の園城寺が中心。一方の真言系は当山派と呼ばれる。伏見の醍醐寺が中心となる。近世の徳川期には修験者はこのどちらかに属すべしとなり、明治の神仏分離令まで続いた。

熊野などの山岳修験の地、秩父の観音霊場など、散歩の折々には園城寺系本山派の事跡に出会うことが多かった。役の行者の開山縁起は、この園城寺派の活発な布教活動に負うことが大、とされる。本山派が「このお山は役の行者が開山の。。。」といった縁起を創っていった、とか。役の行者の石鎚開山縁起ができたのも、この室町末期のころだろう。
園城寺派と言えば、石鎚から飛んでいったと言う『熊野権現垂迹縁起』にも関係がある。縁起では熊野権現は天台山から彦山(北九州)から、石鎚(愛媛)、遊鶴羽山(淡路)、切部山(和歌山)をへて神蔵山(熊野新宮)へとある。天台山は別として、実際はこのルートは逆方向だろう。園城寺系本山派と結びついた熊野修験勢は、後白河上皇とタッグを組み、その巧みな政治戦略とも相まって全国に勢力を広げていった。「税金をとられるくらいなら荘園を上皇へ寄進を」といったアプローチ。上皇をバックに巧みな節税対策を行う。実際、北九州の彦山には後白川院の荘園がある。一見荒唐無稽な縁起にも、いろんなシグナルが含まれている、ということ、か。

冬の石鎚は誠に寒かった。特に頂上弥山では凍える寒さであった。誠に冬山である。雲間が切れた青空に浮かぶ天狗岳の一瞬のシャッターチャンスをと、手袋を外す。手が切れそうに痛い。待避小屋に籠もり食事をとる。とはいうものの、水も凍り、おにぎりもパサパサ。雪山登山とはこういったものであったのだ。一昨年の夏に上った石鎚とはちょっと違った顔を見た。誠に、誠に新鮮な体験を感謝し、来た道を下山。弟二人の還暦記念石鎚登山を終える。

土曜日, 10月 31, 2009

日光街道 千住宿を歩く そのⅡ;北千住から竹の塚、そして毛長川まで

日光街道・千住宿散歩の2回目は北千住の千住本宿のあったあたりからはじめ、宿場を越えて昔の幕府天領・淵江領の村々を北に進み東京都足立区と埼玉の境を流れる毛長川に進もうと。途中関屋の里へと大きく寄り道をしたり、奥州古道の道筋をかすめたりと、ゆったりした散歩を楽しんだ。



本日のルート;北千住駅>森鴎外旧居橘井堂森医院跡>勝専寺>本陣跡>千住本氷川神社>伝馬屋敷跡>水戸街道分岐>甲良屋敷跡>西光院・牛田薬師>安養院>下妻道分岐>大川町氷川神社>千住新橋・荒川放水路>川田橋交差点>石不動>赤不動>梅田神明社>梅田掘>佐竹稲荷>環七交差>国土安穏寺>陣屋跡>鷲神社>増田橋跡>保木間氷川神社>十三仏堂>大曲>水神社>毛長川

北千住駅
北千住駅を西に下りる。駅前の商店や家屋が密集する一角に金蔵寺。三ノ輪の浄閑寺と同じく千住宿の遊女が眠る。千住宿はここ千住本宿と南千住近辺の小塚原・中村町といった千住新宿(下宿)を含め戸数350、住民数1700名弱。そのうち遊女(食売女)は50から70軒の食売旅籠に150人ほどいたと、言う。なんだか、なあ。

森鴎外旧居橘井堂森医院跡
日光街道へと道なりに進む。と、都税事務所脇に案内。見ると、「森鴎外旧居橘井堂森医院跡」。偶然出会った。鴎外旧居とはいうものの、正確には鴎外の父の家。維新後、津和野より上京し向島の小梅村をへて、この地に居を構えた。東大医学部を卒業し、軍医官となった鴎外が、ドイツ留学するまでここから陸軍病院に通ったところ。鴎外の家って、本郷団子坂の観潮楼が知られるが、それはドイツから帰国後のことである。

勝専寺
旧日光街道跡に戻り、少し東に進み勝専寺に。赤い三門ゆえに、「赤門寺」とも。この寺の千手観音が、千住の名前の由来、とか。13世紀とも14世紀とも定かではないが、ともあれ隅田川から拾い上げられたもの。浅草・浅草寺の観音縁起もそうだが、観音さま、って、川から拾い上げられるのが、有難いパターンであったのだろう、か。
境内にある閻魔堂の「おえんま様」は、その昔、藪入りで休みをもらった小僧さんで賑わった、と。閻魔って梵語で「静息」の意味。地獄さえ安息する、ということから、藪入休日と結びついた信仰だった、と(『足立の史話』)

本陣跡
再び旧街道筋に戻り北に進む。駅前の賑やかな商店街である。北に進み、北千住駅から西に、先回の散歩で訪れた千住龍田町交差点へと進む道筋を越えたあたりに本陣跡がある、と言う。ちょっと辺りを見渡すが、それっぽい案内は見つからず。
本陣って、なんとなく有難そうではあるが、身入りは良くなかった、と。そもそもが、御大名の参勤交代は、食料什器、寝具から風呂おけ、漬物樽に至るまで、すべて持参。本陣は宿賃をもらうだけ。その宿賃も安く、中には無料で宿を供することもあり、準備の割には身入りが少なかった、と言う(『足立の史話』)。

千住本氷川神社
千住3丁目へと。街道筋を少し東に入ったところに氷川神社。千住本氷川神社。この神社、

元々は北千住の東、墨堤通りを東に進み京成牛田駅、関屋駅あたり、牛田薬師で知られる西光院の近くにあった、よう。で、江戸時代に牛田氷川神社あたりの地域がこの千住3丁目に移転。ために、この地に分社。荒川神社と呼ばれた、と。その後、荒川放水路建設のため
牛田にあった氷川神社がこの地に移り合祀された。境内の古い社がそれ。新しい社殿は昭和45年に建てられたもの。

伝馬屋敷跡
北に進み千住4丁目に入る。このあたりまで来ると商店街も途切れ、ちょっと静かな屋並みとなる。と、いかにも昔風の家屋。家の前に案内板。横山屋敷、と。昔の伝馬屋敷跡。伝馬とは、幕府の公用の往来に供する人馬のこと。伝馬屋敷は、その宿役である、伝馬役、歩行役(人足役)を担った家のこと。一定の税を免除されるかわりに、その宿役を行った、と言う。この横山家は地紙問屋であった、とか。

水戸街道分岐
横山家の筋向いに人だかり。「かどやの槍かけだんご」とある。つつましやかなお店ではある。街道からちょっと東に入り、長円寺とその隣の氷川神社におまいりし、街道に戻る。十字路脇に石碑。「水戸海道」とある。日光街道はこのまま先に進むが、水戸街道はここで日光街道と分かれ東に折れる。交差点を東に進む細路が、それ。葛飾の新宿、松戸、小金をへて国道6号線筋を水戸に向かう。
荒川放水路を前にし、水戸街道分岐点で少々迷う。このまま日光街道を先に進むか、水戸街道を折れ北千住駅の東側の風景を眺めるか。とくに、先ほど千住本氷側神社で「出会った」、牛田の西光院が気になった。そこには石出帯刀の墓がある、と言う。伝馬町牢屋敷の長官。また、牛田の地は関屋の里。京成関屋駅、東武牛田駅がそのあたりだと。西光院も駅の近くにある。江戸の散歩の達人、村尾嘉陵も西光院・牛田薬師を訪ねている。それは行かずば、と言うことで、少々大回りとはなるが、関屋の里と石出帯刀ゆかりの地を巡るにことにする。

甲良屋敷跡
水戸街道跡の細路を東に向かう。ほどなく地下鉄千代田線、そして東武伊勢崎線のガードをくぐり、北千住駅の東側に。道なりに牛田・関屋の駅へと南に下る。足立学園の東を進む。と、南に巨大な空き地。JTの跡地。東京電機大学のキャンパスができるよう。北千住西口の東京芸大、東口の電機大と、北千住は大きく動いている。
電機大学キャンパス予定地の東に千寿常東小学校。このあたりに甲良屋敷があった、とか。甲良氏とは江戸城や日光東照宮の造営をおこなった江戸幕府の作事方大棟梁。その別荘がこの地にあった。一万坪といった大規模なお屋敷。現在は殺風景な工事現場のシールドが続くが、往古、風光明美なところであったのだろう。

西光院・牛田薬師
道なりに進み東武伊勢崎線の牛田駅、そしてすぐ隣の京成線関屋の駅に。周辺は北千寿住駅周辺の再開発とは別世界の「昭和」の雰囲気が色濃く残る。ちょっと前までの千住地区って、こういう街並みであった、かと。
東武線と京成線の間の道を進み、京成線のガードをくぐり、都道314号線を越え東武伊勢崎線堀切駅方面に。住宅の密集する一角に西光院・牛田薬師があった。
お江戸の散歩の達人、村尾嘉陵の『江戸近郊道しるべ』に「牛田薬師・関屋天神手向けの尾花」という記事がある。この牛田薬師や、今は千住仲町に移った関屋天神を訪ねている。風光明媚な地に遊んだのだろう。
悠々自適の隠居のお坊さん・十方庵がたっぷりの余暇を生かし江戸近郊を散策し表した『遊暦雑記』には、牛田を愛でる記事がある。「此の双方の堤(掃部堤、隅田堤)の眺望風色言わん方なく、なかんづく遥かに南面すれば綾瀬川のうねりて、右に関屋の里を見渡す勝景、天然にして論なし(『足立の史話』)」、と。想えども、描けども、その景観は現れず。 
西光院は山号・千葉山。本尊薬師は千葉介常胤の守護仏、と。千葉介常胤、って上総権介広常とともに源頼朝の武蔵侵攻の立役者。頼朝は常胤を「師父」と称した、ほど。由緒あるお寺さまである。
で、石出帯刀。常胤の流れ、と言う。小伝馬町牢屋敷の牢屋奉行。明暦の大火のおり、牢屋を開け放ち、猛火から収監者を救った。囚人の戻りを信じてのこと、と言う。牢屋奉行と言うので、結構強面の人を想像していたのだが、国学者としても有名で、晩年はこの地で著作に没頭した、と(『足立の史話』)。

養院
荒川を目前に、なんとなく気になった牛田・関屋の地もカバーし、早足で水戸街道分岐点まで戻る。分岐点を北に進む前に、分岐点の少し西にある安養院に。根拠はないのだが、板橋にしろ、鎌倉にしろいままで訪ねた安養院って、雰囲気いいお寺様であった。で、このお寺は鎌倉時代、北条時頼によって創建。千住で最古のお寺様。元はこの地の西、元宿(千住元町)にあり長福寺と呼ばれていたが、この地に移り安養院となった。

下妻道分岐
分岐点に戻り、街道跡を北に。ほどなく道は二つに分かれる。接骨で名高い名倉の総本家の少し手前である。分岐点を直進する道は昔の下妻道。北に進み、五反野の駅から流山を経て水戸徳川家ゆかりの地・下妻に続く。
日光街道は左に折れる道。西北に大きくカーブし千住新橋をクロスし、荒川に架かる千住新橋の少し上流、川田排水機場あたりに続く。現在、荒川が流れているが、この川は人工放水路。明治からはじまり昭和5年に完成したわけで、日光街道の往還賑やかなりし頃は、その姿、影もなし。

大川町氷川神社
道を進み荒川堤防手前に。川を渡る前に少し西、堤防脇にある氷川神社に。ここは、いつだったか、竹の塚から奥州古道に沿って下ったときに訪れたことがある。西新井橋を渡り、軒先をかすめるがごとく、って有様の千住元町を通り、元宿神社におまいりし大川町のこの氷川神社を訪ねた。
もとは現在地より北にあったものが、荒川放水路工事のため大正4年(1915年)現在地に移された。境内の浅間社も同じあたりから移されたもの。ちなみに、元宿の元宿神社も同じく荒川放水路工事のために移された。土手下で、なんとなく窮屈な感じがする。
浅間社脇には富士塚も残る。富士信仰の名残り。富士山は古来神の宿る霊山として信仰の対象となっていた。富士山参詣による民間の信仰組織がつくられていたのだが、それが富士講。とは言うものの、誰もが富士に行ける訳でもない。で、近場に富士山をつくり、それをお参りする。それが富士塚である。
散歩の折々で富士塚に出会う。葛飾(南水元)の富士神社にある「飯塚の富士塚」や、埼玉・川口にある木曾呂の富士塚、狭山の荒幡富士塚など、結構規模が大きかった。富士講は江戸時代に急に拡大した。「江戸は広くて八百八町 江戸は多くて八百八講」とか、「江戸にゃ 旗本八万騎 江戸にゃ 講中八万人」と。
境内に「紙漉歌碑」。足立区は江戸時代から紙漉業が盛ん。地漉紙を幕府に献上した喜びの記念碑。浅草紙というか再生紙は江戸に近く、原材料の紙くずの仕入れも簡単、地下水も豊富なこの足立の特産だった。

千住新橋・荒川放水路
大川町氷川神社を離れ、千住新橋に戻り荒川を渡る。この荒川は人工の川である。昔、荒川の本流は隅田川へと下る。が、隅田川は川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水を防ぐ ことができなかった。江戸の頃、上流で荒川の流路を西に移し、入間川の川筋に流すようにしたためである。ために、暴れ川・荒川の水が入間川をへて下流の隅田川へと押し寄せる。
これを避けるため、明治44 年から昭和5年にかけて、河口までの約22km、人工の川(放水路)を作る。大雨のとき、あふれそうになった水をこの放水路(現在の荒川)に流すことにした、わけだ( 上で、現在の隅田川の名前を荒川と言うべきか、入間川というべきか、ということで、「隅田川(荒川・入間川)」といった表記にしたのは、こういった事情である)。

放水路建設のきっかけは明治43年の大洪水。埼玉県名栗で1,212mmの総雨量を記録。荒川のほとんどの堤防があふれ、破堤数十箇所。利根川、中川、荒川の低地、東京の下町は水没した。流出・全壊家屋1,679戸。浸水家屋27万戸、といったもの。
荒川放水路の川幅は500m。こんな大規模な工事を、明治にどのようにして建設したのか、気になり調べたことがある。その時のメモ;第一フェーズ)人力で、川岸の部分を平 らにする。 掘った土を堤防となる場所へ盛る。第二フェーズ)平らになった川岸に線路を敷き、蒸気掘削機を動かして、水路を掘る。掘った土はトロッコで運ばれて、堤防 を作る。第三フェーズ)水を引き込み、浚渫船で、更に深く掘る。掘った土は、土運船やポンプを使い、沿岸の低地や沼地に運び埋め立てする。浚渫船がポイン トのような気がした。
荒川放水路工事でもっとも印象に残ったのは青山士(あきら)さん。荒川放水路工事に多大の貢献をした技術者。明治36年、単身でパナマに移 り、日本人でただひとり、パナマ運河建設工事に参加した人物。はじめは単なる測量員からスタート。次第に力を認められ後年、ガツンダムおよび閘門の測量調 査、閘門設計に従事するまでに。明治45年、帰国後荒川放水路建設工事に従事。旧岩淵水門の設計もおこなう。氏の設計したこの水門は関東大震災にも耐えた 堅牢なものであった。
業績もさることながら、公益のために無私の心で奉仕する、といった思想が潔い。無協会主義の内村鑑三氏に強い影響を受けたと される。荒川放水路の記念碑にも、「此ノ工事ノ完成ニアタリ 多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル 我等ノ仲間ヲ記憶セン為ニ 神武天皇紀元二千五百八十年 荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ」と、自分の名前は載せていない。2冊ほど伝記が出版されているよう。晩年の生活はそれほど豊 かではなかった、と。ちなみに、日露戦争において学徒兵として最初に戦死した市川紀元二はお兄さん、とか。

川田橋交差点
千住新橋北詰を左に折れ、堤防上を進む。右手下に川田橋排水場を見ながら、善立寺あたりで堤防を降りる。川田橋交差点。川もなにもない。昔の千住掘本流が流れていた名残り、かと。見沼代用水を水源とする千住掘はここから大川町の氷川神社のあたりに下り、中居掘となる。そこからは元の区役所前を流れ牛田で隅田川に落ちていた。旧日光街道は川田橋から千住掘にそって北に進む。

梅田
荒川を渡れば千住から梅田となる。昔は淵江領梅田村。現在は荒川の堤防が聳え、家屋が軒を連ねる住宅街ではあるが、昔は野趣豊かな一帯であった。「のどかさや 千住曲がれば野が見える」とは正岡子規の句。新編武蔵野風土記稿には「当村(梅田村)は往古は海に沿えたる地。後寄洲となりて開けし故、淵江村と唱えり」と。湿地や深田が目立つ一帯であった、と(『足立の史話』)。

石不動
湿地中の縄手(田圃の中の一本道)といった街道を想いながら先に進む。縄手とはいいながら、街道は5間と定められていたようだし、そうであれば幅9m。結構広い。ともあれ、街道を北に。ほどなく道脇に小祠。石不動。まことにつつましやかなお堂。耳の病に効能あった、とか。お堂の扉にかかる竹筒は、願が成就したときにお礼にお酒を入れてここに奉納した、と。

赤不動
お堂の脇にある「八彦尊道」の道標を目印に左に折れ、八彦尊のある赤不動・明王院に向かう。道なりに西に向かって500mほどすすむと赤不動。境内に八彦尊の祠。子育てと咳病みに効能あり、と。赤不動の由来は、本尊であるお不動様のある不動堂が赤く塗られていた、から。で、このお不動さんは弘法大師の作とする。縁起は縁起、とはいうものの、回向院で出開帳(でがいちょう)が開けたくらいだから、まことに有難い仏様であったのだろう。幕府の御朱印寺でもあった。
この寺の歴史は古い。源頼朝の叔父である志田先生(せんじょう)義広が源家の祈願所として一宇を立てたことにはじまる。志田三郎義広はその後、木曽義仲に従い転戦、宇治川の合戦で敗れ伊賀に敗走、その地で果てる。
その後、義広の子孫がこの地に戻り、寺脇に天神様を勧請。紋所である「梅」ゆえに、梅田の姓に改めた。梅田の地名の由来、と言う。
ちなみに、赤不動が出開帳をおこなった回向院は墨田区両国にある。全国のお寺の秘仏を公開する出開帳(でがいちょう)の寺院として大いに賑わったお寺。幕末までの200年間に計160回の出開帳(でがいちょう)を実施。出開帳を主催する寺・「宿寺」として日本でナンバーワンの実績。あと、深川永代寺、浅草・浅草寺と宿寺ランキングが続く。ちなみに、江戸出開帳の中でも、圧倒的集客を誇ったお寺・秘仏は京都・嵯峨清涼寺の釈迦如来、善光寺の阿弥陀如来、身延山久遠寺の祖師像、成田山新勝寺の不動明王の四つと『観光都市江戸の誕生:安藤優一郎(新潮新書)』に書いていた。出開帳はビッグビジネスでもあった、とか。

梅田神明社
赤不動を離れ道なりに北に向かう。ほどなく東西に神明通り商店街の道が通る。この昔の王子道に沿って梅田神明神社。江戸時代、禊教の祖、井上正鉄(まさかね)が神明社の神職をしていた。天保の頃、と言うから19世紀のはじめのことである。「吐菩加美神道」という名前ではじまったこの神道は、一般庶民から幕閣の中にまで大きな影響を与える。その勢いに幕府は、倒幕運動のおそれあり、と。井上正鉄は三宅島に流罪、その地で病没した。

梅田掘
王子道を西に進み遍照院や稲荷神社におまいり。稲荷神社の先を北に折れる。この通りは昔の梅田掘の跡。梅田掘を西掘とも呼ぶるのは、梅田の西の端、関原との境を流れていた、から。道脇に立つマンションの敷地も、もとは池であった、とか。梅田の低湿地帯を思い描く。道の西は関原。先回、竹の塚から奥州古道を南に下ったときに訪れた関原の関原不動尊大聖寺は目と鼻の先。オビンズル様が懐かしい。

佐竹稲荷
道なりに先に進み、成り行きで右に折れ旧日光街道筋へ戻る。旧街道の少し手前に佐竹稲荷神社。構えはささやかではあるが、小さな鳥居の連なりは、それなりの趣が残る。この地は往時、一万坪にも及ぶと言われる秋田藩・佐竹氏梅田抱屋敷跡。抱屋敷とは上屋敷や下屋敷といった幕府から拝領された屋敷ではなく、秋田藩が私的に購入したもの。上屋敷って、上野の近く、元の三味線掘のところにあったわけで、場所も比較的近い。ここで野菜などをつくっていたのだろう、か。
もっとも、足立のこのあたりって、佐竹氏と縁のある地ではある。足立の北東、花畑の大鷲(おおとり)神社が、それ。つながりは平安の昔、佐竹公の遠祖と言われる新羅三郎の伝説まで遡る。後三年の役で戦う兄、八幡太郎義家を助けるために奥州に向かう途中、この社に立ち寄り戦勝祈願。凱旋の折には武具を献じた。これがきっかけとなり、その後、遠祖ゆかりの神社ということもあり、改築などを佐竹藩が行っている。神社の紋も佐竹氏と同じ「扇に日の丸」と言う。
この大鷲神社は浅草の「お酉さま」発祥の地。お殿様も屋形船に乗り綾瀬川を遡り、お酉さまに詣でた、と。「常はかじけたる貧村といへども、霜月の例祭の日は諸商人五七町の間畷側に居ならび天地もなく振ふ様は、市といへど左ながら町続のごとし、依て酉の市を転語して酉の町といひならはせしもしるべからず(『十方庵遊歴雑記』)」、といった雑踏の中、佐竹のお殿様も縁日を楽しんだのだろう。こういった縁もあり、この地に抱え屋敷をもったのだろう、か。空想では、ある。ちなみに、酉の市の賑わいの一因、というか主因は「賭博」公認にある、と。賭博が禁止されると、この地のお酉さまは急速に元気を失った、とか。

環七交差
旧日光街道筋に戻る。先に進むと東武伊勢崎線・梅島駅。このあたりの地名、梅島は梅田と島根に挟まれた地故に、「梅」田+「島」根>梅島、と。地名でよくある、足して弐で割る、といったもの。
先に進むと道脇に「大正新道記念碑」。千住で鴎外の書いた「大正道記念碑」もそうだが、道づくりの記念碑が目につく。大正の頃、低湿地に新道がつくられ、このあたりが開かれていったのだろう、か。記念碑から100mほどで環七にあたる。

国土安穏寺
環七を越えると島根に入る。島根の由来。古くは島畑村と。島畑とは水田の中に点在する畑のこと。また、文字通り、島、というか微高地の根っこ・水際、とも。先に進むと、「将軍家御成橋」の碑。日光街道はこのあたりでは、道の西側は千住掘、東側は竹の塚掘りが流れていたわけで、この橋は千住掘にかかる橋。左に折れると、葵の紋を許された御朱印寺・国土安穏寺への御成り道となる。
もとは妙覚寺。将軍の鷹狩り・日光参詣の御膳所。葵の御紋を授けられたきっ かけは、あの宇都宮の釣り天井事件。三代将軍・家光、日光参拝の折りこの寺に立ち寄る。住職の日芸上人より、「宇都宮に気をつけるべし」。で、家光、宇都 宮泊を取りやめる。公儀目付け役が宇都宮城チェック。将軍を押しつぶすべく仕掛けられた釣天井を発見。宇都宮城主は二代将軍秀忠の第三子国松(駿河大納言 忠長)の後見役・本多正純。家光を亡きもの にして国松を将軍にしようと陰謀をはかったといわれている。日芸上人によって九死に一生を得た家光は、妙覚寺に寺紋として葵の御紋を。寺号を「天下長久山 国土安穏寺」とした。ちなみに、釣り天井事件の真偽の程不明。本多正純を追い落とす逆陰謀、といった説も。
落ち着いたいい雰囲気のお寺様。これで2度目ではあるが、今回は本堂の建て替え工事の最中であった(2009年9月)。

陣屋
国土安穏寺を西に進む。T字路に。直ぐ南に立派な枝ぶりの松が門前にある御屋敷。もと名主の御屋敷。陣屋跡と言うことで、どこの旗本の陣屋かと、などと思ったのだが、どうも八幡太郎義家が陣を置いたところ、とか。
それにしても今回歩いた道筋には義家とその父・頼義親子ゆかりの地が多い。荒川区南千住1丁目の円通寺>南千住6丁目の若宮八幡>南千住8丁目の熊野神社>足立区千住宮元町の白旗八幡>島根の陣屋。そして、ここから北は先回、といっても数年前の散歩で出会った六月3丁目の炎天寺>竹の塚6丁目の竹塚神社>伊興の白旗塚と実相院>花畑の大鷲神社、などなど。その時は、なんと同じ類の伝説が現れるものよ、などとメモした覚えがあるが、よくよく考えれば、このゆかりの地を繋げば、これって奥州古道の道筋、かと。伝説も見方を変えれば、違った世界が見えてきた。

鷲神社
陣屋から北に進む。古の奥州古道跡を歩いていると、思い込む。成り行きで東に進み旧街道に戻る。島根鷲神社の看板。街道から少し西に寄り道。文保2年(1318年)武蔵国足立郡島根村の地に鎮守として創建され、大鷲神社と唱えたと伝えられる。島根村は現在の島根・梅島・中央本町・平野・一ツ家などの全部または一部を含む大村。村内に七祠が点在していたが、元禄の頃、 このうち八幡社誉田別命、明神社国常立命の二桂の神を合祀し三社明神の社として社名を鷲神社に定めたという。花畑の大鷲神社も立派だったが、鷲の宮町の鷲神社がいかにも鷲神社の本家本元といった風情があった。この鷲神社もそこから勧請されたものであろう、か。

六月
鷲神社を越えると昔の淵江郷島根村を越え淵江郷六月村に入る。六月村と言えは、日光街道の西に炎天寺や八幡さま、西光院、常楽寺、万福寺といった神社仏閣が連なる。奥州古道沿いに集落が開けていたのだろう。この寺町は以前歩いたことがあるので、今回はパス。日光街道を一路北に進む。昔は六月村の街道のどこかに一里塚があった、はず。「一里塚。日光海道の左右に対して築けり。塚上に榎を植置けり」と風土記にある一里塚も、今はその場所不明。

増田橋跡
南北に短い元の六月村を越えると次は元淵江郷竹の塚村。竹の塚3丁目交差点に。ここから西北に続く道は赤山街道。川口の赤山にある関東郡代・伊奈氏の陣屋・赤山陣屋に続く道。散歩の折々に出会う名代官の家系の陣屋跡を訪ねたのは数年前。緑に囲まれた赤山城址は落ち着いた、いい雰囲気であった。
竹の塚3丁目交差点は往古、増田橋のあったところ。赤山街道に沿って南側を千住掘、北側を竹の塚掘が流れていた。どちらも赤山の先から続く見沼代用水を水源とする用水である。千住掘はこの交差点で道なりに曲がり、日光街道の西側を下る。竹の塚掘は日光街道を横断し、一部はそのまま東に、残りは街道の東側を南に下る。街道を横断する竹の塚掘にかかっていたのが増田橋であった。五差路となっている竹の塚3丁目交差点には、その面影は、今は、ない。

江郷保木間村
北に進む。竹の塚駅一帯は以前の散歩で歩いた。竹の「塚」の地名の由来でもある、伊興の古墳跡も印象に残る。寺町、見沼代用水跡に造られた親水公園など思わぬ見どころも多く、再び廻ってみたいのだが、今回はパス。
北に進む。ほどなく旧竹の塚村を離れ淵江郷保木間村に入る。地名の保木間は、もともとは「堤や土地の地滑りを防ぐ柵」のこと。一面の湿地帯を開拓し集落をつくったときに、集落を護るこの柵のことを地名とした、のだろうか。「ほき」は「地崩れ」、「ま」は「場所」、と。

保木間氷川神社
竹の塚5丁目交差点を越えると淵江小学校。その手前に東に折れる細路。流山道とも成田道とも呼ばれる古道跡。東には花畑の大鷲神社や成田さん、西には西新井のお大師さんに続く信仰の道。少し歩くと氷川神社と宝積院。同じ境内といった風情。いかにも神仏習合といった名残を残す。点前の境内を進み氷川神社に。
保木間地区の鎮守さま。もと、この地は千葉氏の陣屋跡。妙見社が祀られていた。妙見菩薩は中世にこの地で活躍した千葉一族の守り神。千葉一族の氏神とされる千葉市の千葉神社は現在でも妙見菩薩と同一視されている。菩薩は仏教。だが、神仏習合の時代は神も仏も皆同じ、ってこと。
後に、天神様をまつる菅原神社、江戸の頃には近くの伊興・氷川神社に合祀。この地で氷川神社となったのは明治5年になってから。本殿の裏手に富士塚。鳥居には「榛名神社」。ということは、富士は富士でも榛名富士?お隣の宝積院は氷川神社の別当寺。山号は北斗山。妙見様は北斗七星のことであるので、神仏渾然一体を名前で示す。
氷川神社と宝積院の一帯は足尾鉱毒事件のゆかりの地。鉱毒被害を訴えるため東京へと向かう栃木・渡良瀬の農民3,000余名を田中正造が制止したのがこの地。境内を埋め尽くす農民に正造が自重を促す演説。この懇請を受け、農民は渡良瀬へと引き返した。
十三仏堂
旧街道に戻り北に。淵江小学校を越えてすぐ、道脇に十三仏堂。堂宇には十三仏信仰のよすがとなる十三の仏様が安置していたのであろう。現在は数体欠ける、とか。
十三仏信仰は、平安末期の十王信仰からはじまる。人は没後、閻魔大王など十王の裁きを受ける。で、その十王は同時に仏の化身であり(閻魔大王=地蔵菩薩なと)、生前にその十王・十仏を祀ることにより、その裁きを軽くしてもらおう、というのが十王信仰。
その後室町に三王・三仏が加わり十三仏信仰となった、とか。風土記には「行基の作れる虚空蔵の木像を案す」とあり。結構古い御堂なのだろう、か。

大曲
北に進む。西保木間3丁目交差点に。バス停に「大曲」、と。道は右にカーブする。現在はありふれた街並みが続くが、往古、旧街道を作る時はこのあたり一帯に湿地が広がり、大きく曲がるしか術はなかった、と(『足立の史話』)。実際、直ぐ北に毛長川の流れがあるわけで、毛長川流域の湿地が一帯に広がっていたのだろう。

水神社
往古、湿地帯であったろうところに建て並ぶ小学校、清掃工場、スポーツセンターなどを眺めながらカーブを大きく曲がり先に進む。ほどなく国道4号線バイパス。国道を越え都道・県道49号線に合流する手前に水神社。風土記稿に「今社傍に二畝許の沼あり、土人水神ガ池と云う。此辺の水殊に清冷にして、煎茶の売家あり、人これを水神カ茶屋と云」とある(『足立の史話』)。] 今となっては沼もないし、ましてや茶屋などあるわけもないのだが、この沼には水神伝説が残る。
昔、このあたりに小宮某という元北面の武士が住んでいた。ある日、釣りをしているとき、森より蛇が襲う。腕に自信の小宮某は蛇を切り殺す。が、毒臭に冒され日ならずしてなくなる。小宮某を祀るために榎が植えられ、蛇の霊を祀って水神社とした、と。もとより、この小宮榎、現在は跡かたも、なし(『足立の史話』)。

毛長川
水神社から元国道4号線である都道49号線を北に。直ぐ毛長川に。この川は東京都と埼玉県の境。川に架かる毛長橋を渡れば埼玉

県草加市。道も県道49号線となる。南千住からはじめた日光街道散歩も、これでお終い、とする。成り行きで北千住駅まで戻る。ありふれた街並みも『足立の史話』のおかげで少々の想像力とともに時空散歩が楽しめた2日でありました。

日光街道 千住宿を歩く そのⅠ;南千住から北千住に

荒川区の南千住と足立区の北千住。散歩の折々に「顔を出す」地名である。浅草を歩き、仕上げにと吉原遊女の投げ込み寺である浄閑寺を訪ねたときなど、散歩の終点として南千住に辿り着いた。東京と埼玉の境を流れる毛長川周辺の伊興遺跡や、その昔お酉さまで賑わった鷲神社を訪ねる散歩のスタート地点として北千住を訪ねたこともある。散歩の始点、終点として北千住・南千住を「かすめた」ことは数限りない。
南千住から北千住にかけ江戸四宿のひとつである千住宿があったことも知ってはいた。が、なんとなくそこを歩いてみようといった気持ちはあまり起こらなかった。どうせのこと、なんということのない街並みが続くだけであろう、といった想いではあった。むしろ、日光街道の少し東、隅田川の自然堤防の上を走る奥州古道のほうが面白そう、ということで、足立区・竹の塚から南千住まで歩いたことがある。前九年・後三年の役の奥州征伐に進む八幡太郎義家のゆかりの地や武蔵千葉氏の居城のあった淵江城跡(中曽根神社)などそれなりに時空散歩が楽しめた。関原不動尊で見た「オビンズル様」も記憶に残る。
? ことほど左様に、どうもねえ、といった塩梅であった日光街道・千住宿を歩いてみようと思ったきっかけは、古書展示会で偶然手に入れた『足立の史話:勝山準四郎(東京都足立区役所)』。副題は「日光街道を訪ねて」とある。足立区内の日光街道周辺のガイドでもあるので、千住宿だけでなく、荒川を越えて竹の塚から埼玉県境までの日光街道のあれこれが紹介されている。この本があればありふれた商店街の風景の中にも、なんらかの「古きノイズ」を感じられるかとも思い、『足立の史話』を小脇に抱え、と言うか、リュックのサイドポケットに差しこんで散歩に出かけることにした。



本日のルート;南千住駅>回向院>小塚原刑場跡>鰻屋「尾花」>浄閑寺>三ノ輪>三ノ輪橋跡>百観音・円通寺>スサノオ神社>誓願寺>熊野神社>千住大橋>芭蕉・奥の細道出立の地>やっちゃ場跡>掃部堤跡(墨堤通り)>関屋天神>源長寺>大正記念道碑>お竹の渡し>熊谷堤跡>問屋場跡>北千住駅

日比谷線南千住駅
南千住駅で下車。北口駅前にわずかに昭和の風情が残るが、周辺は都市開発がどんどん進んでいる。駅も新しくなっていた。空き地と迷路のような下町の街並みが広がると言われた南千住も次第に様変わりしている。駅を離れ小塚原の回向院と刑場跡に向かう。

回向院
駅の直ぐ隣り、吉野通りと常磐線が交差する手前に回向院。鉄筋のお寺。イメージとは大いに異なる。このお寺は本所回向院の住職が行き倒れの人や刑死者の供養のために開いたお寺。安政の大獄で刑死した橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎ら多くの幕末の志士が眠る。毒婦・高橋お伝も。明和8年(1771年)、蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原の刑死者の解剖に立会ったところでもある。

小塚原刑場跡
小塚原刑場は線路のど真ん中。常磐線を越え、日比谷線のガードをくぐり、隅田川貨物線の線路を跨ぐ陸橋手前、右手にささやかな入口。そこが小塚原刑場跡(延命寺)。正面には大きな首切り地蔵。刑死者をとむらうため寛保1年(1741年)につくられた、と。ともあれ、刑場跡は常磐線と隅田川貨物線の線路群に囲まれた「三角州」に、かろうじて残っていた、という状態であった。 小塚原刑場跡は現在延命寺となっている。これは回向院の境内が常磐線建設で分断されたとき、分院独立した、と。
刑場は諸説あるが、大きくても間口100m程度、奥行き50m程度。刑場自体はそれほど広くない。とはいうものの、明治期に刑場が廃されるまでに埋葬された受刑者数はおよそ20万人にのぼるといわれる。刑場を含めた一帯は結構な広さがあったのだろう。現在では、線路に挟まれた、まことに「無機質」な一帯ではあるが、往時、周囲は荒涼とした風景が広がっていたのだろう。

昔の風景を想う。戦国期の南千住のあたりの地図を眺めてみると、浅草から橋場・石浜など、隅田川(当時は、荒川とも入間川とも)に沿って砂州・微高地がある。同様に、現在の千住大橋・素盞雄(スサノオ)神社近辺にも砂州が認められる。が、その内側、千住大橋から三ノ輪を結ぶ線より東は入り江状態。南千住駅の東一帯を「汐入地区」と呼ぶ所以である。その線より西は三河島のあたりまでは泥湿地帯となっている。源頼朝が浅草・石場から王子へと平家討伐軍を進めるに際し、小船数千を並べて浮橋とした、というのも大いにうなずける。江戸以前、南千住の一帯は、入間川・荒川(隅田川)沿いに堆積した砂州を除き、ほとんどが水の中・湿地帯であった、ということだ。刑場の周囲は「荒涼」といった乾いた風情、と言うよりも、低湿地・泥湿地帯と言ったほうがよさそう、だ。
この小塚原もそうだが、品川の鈴が森の刑場も、昔の刑場跡は線路や道路に挟まれた狭隘な場所として残る。これら刑場は日光街道や東海道といた主要街道脇にあったわけで、それって見せしめのためには人目の多いところがよかろう、といった考えもあったのだろうが、それが都市化が進むに際し、道路拡張などのためイの一番に潰されていったのだろう、か。もっとも、何十万もの受刑者が眠る地の再利用は、道路にするか、この小塚原のように操車場にするしか、術はないかもしれない。

鰻屋「尾花」
刑場跡を離れ、回向院脇の道を常磐線に沿って西に進む。先回このあたりを歩いたとき、とほうもない行列のつづく店があった。あまり食べ物に興味がないため、さてなんのお店であったのだろう、とは思いながらも先に進み日光街道に出た。あとで調べてみる

と、「尾花」という有名な鰻屋さんであった。今回はどうだろう、と前を通る。休日でお店は閉まっていた。いかにもお店を探している、っぽい一団が、お店の前で途方に暮れていた。

浄閑寺
日光街道に出る前に、ちょっと浄閑寺に。明治通りと日光街道の交差点を一筋北に。地下鉄入口の丁度裏手あたりにある。浄土宗のこのお寺さん、安政2年(1855年)の大地震でなくなった吉原の遊女が投げ込み同然に葬られたため「投込寺」と。川柳に「生まれては苦界 死しては浄閑寺」と呼ばれたように、吉原の遊女やその子供がまつられる。
このお寺に向かうのは、「投げ込み寺」へのおまいり、もさることがら、往古、このあたりを流れていた川筋に想いをはせる、ため。石神井川から分水された水路である「音無川」が王子から京浜東北線に沿って日暮里駅前に。そこからは台東区と荒川区の境、昔の根岸の里を経て三ノ輪に。水路はそこで二手に分かれ、ひとつは「思川」となり明治通りの道筋を進み、泪橋をへて隅田に注ぐ。もう一方は、山谷掘となる。いまはすべて暗渠ではある。

三ノ輪
浄閑寺を離れ三ノ輪交差点に。明治通り、元の山谷掘筋からの道筋、昭和通り、そして国際通りがこの地で合流し日光街道となり北に向かう。「三ノ輪」は「水の輪」から転化したもの。往時この地は、北の低湿地・泥湿地、東・南に広がる千束池に突き出た岬といった地形であった。

三ノ輪橋跡
交差点道脇に「三ノ輪橋跡」の碑を確認。昔、音無川に架かる橋。現在は暗渠となっている。先にメモしたように、王子から流れてきた音無川は、この先浄閑寺前でふた手わかれ、一筋は「思川」、あと一筋は「山谷堀」となり、ともに隅田川に流れこむ。

百観音・円通寺
三ノ輪橋跡より日光街道を北に、千住大橋に向かって進む。道の左手に百観音・円通寺。延暦10年(791年)、坂上田村麻呂の開創とか。また、源(八幡太郎)義家が奥州平

の際、討ち取った首を境内に埋めて塚を築く。これが小塚原の由来、とも。江戸時代、下谷の広徳寺、入谷の鬼子母神、簔輪の円通寺、この三つのお寺を下谷の三寺と呼ぶ。秩父・坂東・西国霊場の観音様を百体安置した観音堂があったため、「百観音」とも。
境内に上野寛永寺の黒門が。上野のお山でなくなった彰義隊の隊士をこのお寺の和尚さんが打ち首覚悟で供養した。官軍に拘束されるも、結局埋葬・供養を許される。京都散歩のとき、黒谷金戒光明寺に会津小鉄のお墓があった。鳥羽伏見の戦いでなくなった会津の侍を命がけで埋葬。坊さんと侠客と、少々キャラクターは異なるが、その話とダブって見える。

素盞雄(スサノオ)神社
少し先に、素盞雄(スサノオ)神社。「てんのうさま」とも。この神社、石神信仰に基づく縁起をもつ。延暦14年(795年)、石が光を放ち、その光の中から素盞雄命と事代主命・飛鳥大神(ことしろぬしのみこと)が現れて神託を告げる。その石を瑞光石と呼ぶ。光の中から出現した二神が祭神。
江戸名所図会には「飛鳥社小塚原天王宮」と書かれている。「てんのうさま」と呼ばれる所以である。素盞雄(スサノオ)神社は明治になって作られた名称だろう。そもそも「神社」って名称は明治になってから。「天王」さまでは、音読みで「天皇」と同じ。それでは少々不敬にあたるだろう。で、何かいい名称は?そうそう、朝鮮半島の牛頭山に素盞雄(スサノオ)が祀られており、スサノオのことを牛頭天王(ごずてんのう)とも呼ばれる。であれば、ということで、「天王宮」を「素盞雄(スサノオ)神社、としたのではないだろう、か。単なる空想。根拠なし。
瑞光石と言えば、散歩の折々、石を神として祀る神社も時々出会う。石神井神社、江東区亀戸の石井神社、葛飾立石の立石様、といったもの。石といえば、この素盞雄(スサノオ)神社の石は、千葉県鋸山近辺の「房州石」であり、この石材は古墳の石室に使われる。よって、素盞雄(スサノオ)神社って古墳跡では、とも言われている。隅田川の自然堤防上、周囲低湿地・泥湿地帯に囲まれた砂州に古墳がつくられていたのだろう。

誓願寺
神社の裏手に荒川ふるさと文化館。ちょっと立ち寄った後、千住大橋の袂の誓願寺に。奈良時代末期、恵心僧都源信の開基と伝えられる。源信といえば、『往生要集』(985年)。地獄・極楽を描き出し、ゆえに極楽浄土への往生をすすめる浄土教基礎を確立した人物。恵心は叡山で学んでいたときの道場名である。
境内には親の仇討ちをした子狸の「狸塚」。お寺の隣にあった魚屋の魚が無くなる。不審に思った近所の人たちがウォッチ。古狸の仕業。で、打ち殺す。その夜から、魚屋の魚が宙に浮く。祈祷師に見てもらうと、子狸が親の敵討をしていた、といった按配。隅田散歩での多門寺にも狸塚が、あった。狸塚って、結構多い。

熊野神社
誓願寺の近く、民家に囲まれたところに熊野神社。入口に門があり鍵がかかっているような、いないような、ということで中に入るのは遠慮し、外からちょいと眺める。創建は永承5年(1050年)。源義家の勧請によると伝えられる。千住大橋を隅田川にかけるにあたり、関東郡代・伊奈忠次が成就祈願。橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行う。以後、大橋のかけかえ時に社殿修理をおこなうことが慣例となった。
神社のあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並ぶ川岸であった。奥州道中と交差して川越夜舟、高瀬舟がゆきかい、秩父・川越などからの物資の集散地としてにぎわった。秩父の材木は筏に組んで流され、千住大橋南詰めの山王社(日枝神社)前で組み替え、深川方面に運ばれた。ために、このあたりは材木屋が立ち並んでいた、とか。
川越夜舟は急行、鈍行取り混ぜての船運であるが、川越を午後4時に出発し、翌朝千住河岸に着く便が多いので、こう呼ばれたのだろう。新河岸川を川越からはじめ和光まで下ったことが懐かしい。

千住大橋
千住大橋に。荒川ふるさと文化館で購入した「常設展示目録」をもとに、メモする:文禄3年(1594年)、家康の命により、伊奈忠次が総指揮を執る。万治3年(1660年)に両国橋が架けられるまでは「大橋」と。奥州・日光方面への入口として交通・運輸上の要衝。橋を渡ると足立区。 千住大橋の南北に広がる千住宿は、江戸四宿のひとつ。日光道中の最初の宿駅。参勤交代や将軍の日光参詣など公用往来の重要な継立地。橋の南の小塚原町、中村町は「千住下宿」として諸役人の通行や荷物搬送のため人馬を提供。奥州方面への玄関口として街道筋がにぎわい、荒川を上下する川舟の航行が盛んになると、さまざまな職業の店が立ち並ぶ宿場町を形成」、と。
千住大橋建設のスポンサーは仙台伊達藩。参勤交代でこの街道を通ることになる64の諸侯のうちでも最大の大藩ゆえ、受益者負担といったことで幕府から下命があったのだろう。その見返りに、帰国の際にこの橋の上で火縄50発の空砲を撃つことが許されていた、とか。「立つときに雀大きな羽音させ(仙台藩の紋章は竹に雀)」といった川柳が残る(『足立の史話』)。

松尾芭蕉・奥の細道出立の地
橋を渡り足立区に。橋の北詰めの護岸に少々無粋なペイント。よくよく見ると松尾芭蕉・ 奥の細道旅立ちを記念する文言。「弥生も末の七日、千じゅという云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに泪をそそく。行春や鳥啼 魚の目に泪」。世に知られる出立の章である。元禄2年、と言うから1689年、芭蕉46歳の春のこと。

やっちゃ場跡
日光街道に戻る。このあたりは千住橋戸町。文字通り橋の戸口といった意味であろう。日光街道の東に中央卸売市場足立市場。橋戸町の北、河原町にあった青物市場(やっちゃ場)と大橋を少し上った尾竹橋の北にあった魚市場を統合しできたもの。
足立市場交差点で日光街道は国道4号線と離れる。このあたりは千住河原町。道の両側に往時の「やっちゃ場(青物市場)」の名残をとどめるいかにも問屋っぽい建屋が点在する。
やっちゃ場の歴史は古い。小田原北条氏の頃に遡る、とも。とはいってもそのころは朝市といった程度。本格的に市場っぽくなったのは、千住大橋ができ、人馬の往来が盛んになった江戸の中頃、とのことである。
『千寿住宿始末記 純情浪人 朽木三四郎;早見優(竹書房)』の中に、幕府から定市場として公認された見返りの冥加金(税)として、江戸城に青物・川魚をおさめる行列を描く場面があった。この行列を横切ることは無礼にあたる、といった「お行列」である。このお行列の上納品からもわかるように、やっちゃ場・青物市場、とは言うものの、扱うものは野菜だけでなく川魚、米穀も含まれていたようである。ちなみに、やっちゃ場の由来
は、掛け声から。せりの場で「やっちゃ やっちゃ」と叫んでいた、と言う。

掃部堤跡(墨堤通り)
京成線のガードをくぐり、先にすすむと「墨堤通り」に当たる。この通りは江戸の頃、「掃部堤」と呼ばれた隅田川、と言うか、昔の荒川・入間川の堤防があった。名前の由来は、この堤を築いた石出掃部介(かもんのすけ)、より。
石部掃部介は小田原北条の遺臣。江戸時代にこの地に移り、新田を開発。場所は、元の隅田川・荒川の堤であった熊谷堤(現在の区役所通りにあたる)と掃部堤に囲まれた一帯。掃部堤もその新田・掃部新田を水害から防ぐため築かれたものであろう。
往時は高さ4mもあったと言われる掃部堤であるが、現在は墨堤通り。堤の名残などなにもない、とは思いながらも、往古の堤上を歩こう、と。やっちゃ場のある河原町や橋戸町も文字通り堤外の「河原」にあったわけで、そう思えば、街並みも少々違った風景に見えるかも、といった思いであった。


関屋天神
日光街道と掃部堤の交差点・千住仲町交差点で右に進むか、左に進むか少し迷う。が、なんとなく関屋天神の名前に惹かれ右に折れる。少し進むと千住仲町公園。隣に氷川神社。石出掃部介が勧請したもの。関屋天神は氷川神社の境内にある。
関屋天神は、もともとは関屋の里に祀られていたものがこの地に移されたもの。関屋の里って、源頼朝の命を受け、江戸太郎重長が奥州防備のため関所を設けたところ。が、いまひとつ場所が特定されていない。とはいうものの関屋の里って、このあたりではあろう。ということで、切手にもなった、北斎の「富嶽三十六景 隅田川関屋の里」が描く土手の景色に昔を想う。

源長寺
関屋天神から掃部堤を引き返し、千住仲町交差点に戻る。そのまま直進し、掃部堤跡を西へと向かう。墨堤通りを進めば千住桜木町。そのあたりには「おばけ煙突」跡がある。東京電力の発電所の4本の煙突が、方向によってその見える本数が変わった、と言う。今となっては煙突もないのだが、なんとなく雰囲気を感じ、そこから熊谷堤跡を再び日光街道に戻るコースを思い描く。 ほどなく源長寺。石出掃部介が眠る。で、このお寺さま、石出掃部介が関東郡代・伊奈忠次の菩提をとむらうため建てたもの。源長は忠次の法号。そういえば、川口市赤山に伊奈氏の陣屋跡を訪ねたとき、そこにも源長寺という伊奈家の菩提寺があった。

大正記念道碑
掃部堤跡・墨堤通りを進む。千住宮元町交差点で国道4号線に交差。交差点脇の河原稲荷にちょっとお参りし、先に進む。土手の趣など何も、なし。ひたすらに車の往来が激しい、だけ。
先に進み、千住緑町3丁目交差点に。道脇に「大正記念道碑」。荒川脇・千住大川

町にある氷川神社からまっ直ぐに宮元町に下る道。元の西掃部掘を埋め立ててつくったもの。掘を埋め立ていくつもの道路をつくったろうに、何故この大正道のみがフィーチャーされるのか、ということだが、どうも、この碑文を書いたのが森鴎外であることにその因があるよう、だ。とはいえ、「父が千住に住んでいたので、馴染みがあり辞退もできず碑文を書いた」といったトーン、ではある。鴎外の父が居を構え、医院を開いていたところは北千住駅の近くらしい。後から寄ってみる。

お竹の渡し跡
千住龍田町交差点に。北千住駅からまっすぐ西に延び、北に走る墨堤通りと交差する地点。この道筋と墨堤通りの間を、斜めに下るのが熊谷堤跡の道筋である。はてさて、交差点で思い悩む。先に進むか、熊谷堤跡を戻るか。
結局、交差点を左に折れ、隅田川の堤防に出ることにした。隅田川の風景を見たかったこともさることながら、このあたりって、お竹の渡しがあったところ、と。尾竹橋の400程度下流にあった、ということだから場所としてはそれほど違いなないだろう、と。千寿桜小学校の脇を堤防に。隅田川が大きく湾曲する姿は、なかなか、いい。それなりに船泊まり、って雰囲気を勝手に思い込む。 上流を眺め、見えない「お化け煙突」を思い描く。大正15年に建設された煙突は83.5m。当時東京で最も高い建造物であった。これまたそれなりの感慨に浸り、再び千住龍田町交差点に戻る。ちなみに、お竹の渡しは、近くにあったお茶屋の看板娘の名前、から。尾竹橋も、お竹から、とも言われる。

熊谷堤跡
千住龍田交差点から南東に一直線に延びる道、これが熊谷堤跡。これがもともとの隅田川(荒川・入間川)の堤防である。天正2年、と言うから、1574年、北条氏政により築かれたもの、と言う。埼玉県の熊谷から墨田の吾妻橋あたりまで、自然堤防をつないで土手とした。完成に数年を要した、と。
熊谷堤跡の道は大師道とも呼ばれる。西新井の御大師さんへの道筋、と言うことであろう北斎の「関屋の里」の土手を想い描きながら国道4号線を越え、区役所通りを東に進む。途中、道を離れ立葵の紋を持ち、城北鎮護寺であった慈眼寺や不動院を訪ねた後、旧日光街道の道筋へと戻る。

問屋場跡
熊谷堤跡と旧日光街道の交差点あたりに、一里塚の跡とか高札場の跡がある、と言う。あたりをちょっと見渡したのだが、それっぽい案内も見当たらず交差点を北に。このあたりは千住宿の中心地といったところ。
交差点の直ぐ北に、ちょっとした公園。そこに問屋場の案内。千住宿の事務センターといったところ、か。千住宿が正式に宿場と定められたのは寛永2年、と言うから1625年。三代将軍家光の頃である。公用の往来の便宜を図るため、毎日人足50人と馬50疋を用意し、差配した。千住宿は参勤交代だけでなく、日光東照宮参詣のお世話もあるわけで、4月など参勤交代だけでなく家康の命日に向け日光東照宮に向かう将軍の直参・代参、御供の諸侯のお世話も重なり、結構大変であったろう。

北千住駅
はてさて日も暮れた。後は次回に廻し本日の散歩はこれでお終いとし、北千住駅に向かう。向かいながら、区役所通り、とは言うものの、それっぽい建物が見つからない。かわりに、東京芸術センターとか東京芸術大学千住キャンパスと言った建物が目に付く。区役所は1996年に千住から足立本町に移転したようで、その跡地に東京芸術センターが入った、と。芸大は千寿小学校跡地、とか。?

日曜日, 10月 04, 2009

日原往還;奥多摩・日原から仙元峠を越えて秩父・浦山に

「日原往還を歩きませんか」と友人S君のお誘い。奥多摩の日原から東京・埼玉県境の尾根道を進み、仙元峠から秩父の浦山に下るルート。日原は東京の秘境、浦山は秩父の秘境と呼ばれていたところ。秘境と秘境を峠で結ぶ山の道である、と言う。峠歩きフリークとしては、一も二もなく「諾」、と。

いつだったか古本屋で手に入れた、『多摩の山と水 下;高橋源一郎(八潮書店)』の中に、高橋源一郎さんの日原と浦山の記事があった。浦山は大正4年、日原は大正15年の紀行文であるが、そこには着るもの食べるものといった習俗習慣すべてが平地と異なる僻地、いかにも「毛物」が住む、と言われる辺僻未開の地へと辿る記事があった。紀行文には「探検」といった言葉を使っている。「探検」の結果は、日原も浦山も秩父の他の村落とそれほど変わることのない、とのまとめではあったが、それにしても、大正の頃は、山間の僻地であったことにかわりはない。その「秘境」を結ぶ道をその昔、夥しい人々が往来した、と言う。
日原往還を歩く。とは言いながら、この「日原往還」って言葉が定着しているわけではない。なんとなく、古道っぽい雰囲気がするので、勝手に名づけただけである。で、この往還、その往来の流れは奥多摩から秩父へと、といったものが主流と勝手に思い込んでいた。奥多摩の秘境より、当時の大都市・秩父への流れが主流と思っていた。秩父観音巡礼、三峰参拝へと辿る道かとも思っていた。が、実際はどうもそれだけではない。秩父・北関東からこの奥多摩へと向かう大きなベクトルがあった。「信仰」の道があった。
日原は鍾乳洞で有名である。で、この鍾乳洞、一石山大権現とも称されるように、一帯のお山全体を大日如来の浄土とする中世以来の一大霊場。一石山参拝の人々で賑わった。また、日原は北関東から富士山を目指す富士講の通り道。仙元峠を越え日原を経て小河内を進み、富士へと向かった、と言う。秋のとある週末、その信仰の道・日原往還を歩くことにした。




本日のルート;奥多摩:8時28分>東日原 8時58分,標高630m>尾根道到着 標高973m、9時53分>滝入りの峰 標高1249m、10時25分>倉沢分岐標高1275m、10時40分>天目山分岐 標高1433m,11時15分>一杯水 標高1458m,11時34分>仙元峠着 標高136m,12時18分_出発;12時36分>大楢 標高1152m,13時4分>送電線鉄塔下 標高902m,13時46分>道に迷った地点標高893m,13時55分>引き返し点 標高896m,13時57分>原点復帰;13時59分>大日堂 標高452m,14時35分>日向バス停 標高434m,16時2分


奥多摩駅
S君と立川で待ち合わせ。午前7時6分発の奥多摩行きで一路奥多摩駅に向かう。8時28分奥多摩着。駅前から東日原行きのバスに乗る。東日原行きのハイカーも多く、バスは2台続けて走る。日原川を渡り、県道204号線・日原街道を北に進む。
日原川の東側に山肌に張り付く工場が見える。宇宙基地といった風情。S君の説明によると奥多摩工業の石灰工場とのこと。昔は下流の二俣尾あたりでも採掘していたようだが、現在は日原に採掘場がある、と。そこから4キロ弱の距離をこの地までワイヤで曳かれたトロッコで石灰を運んでいる。現在ではハイカーで賑わう奥多摩駅もつい最近、1989年頃まで石灰の積み出し駅であった、という(1999年貨物業務停止)。

奥多摩工業曳鉄線

日原川に沿ってバスは進む。大沢、小菅を過ぎ、川乗谷からの川筋が日原川に合流する手前、白妙橋を越えた道路の上にちょっとした「鉄橋」が見える、とS君の言。 先ほどの奥多摩工業の石灰運搬トロッコ、奥多摩工業曳鉄線の鉄橋が道を跨いでいる。曳鉄線はほとんど山中のトンネルを進むが、数箇所地表に出たところがあり、ここはそのひとつ。残念ながら、見落とした。

日原トンネル

川乗(苔)谷に架かる川乗橋バス停で、半分以上の人が降りる。川苔山を目指す人たちだろう。バスは進み倉沢谷の谷筋を越えると日原トンネル。昭和54年(1979年)完成。全長1107m。トンネルを覆う山塊は氷川鉱山の採掘とか。昔はここに「トボウ岩」という、幾百尺、幾千尺ともいわれる絶景の巨大岩があった、と前述の高橋源一郎氏は描く。トボウは「入り口」の意味。その昔、日原の集落への入口であったのだろう。が、現在は、その姿は大崩落やトンネル工事、鉱山採掘などにより、消え去った。それらしき姿、なし。

日原
トンネルを抜けると日原の集落。今をさる500年の昔、天正というから16世紀後半、戦乱の巷を逃れ原島氏の一族が武蔵国大里郡(埼玉県熊谷市原島村のあたり)よりこの地に移り住む。原島氏は武蔵七党、丹党の出。日原の由来は、新堀、新原といった、新しい開墾地といった説もあるが、原島氏の法号「丹原院」の音読みである「二ハラ」からとの説もある。
東日原バス停で下車。時刻は9時前。おおよそ30分弱でついた。道脇から日原川の谷筋を見下ろす。誠に深い。川の向こうに日原のシンボル「稲村岩」とS君。「イナブラ」とも呼ばれていた。稲を束ねてぶら下げた形と言えなくも、ない。石灰岩でできた砲弾型の奇峰。トボウ岩って、こういったものであったのだろう、か。で、日原鍾乳洞であるが、ここから20分ほど小川谷筋を歩くことになる。大日如来の浄土信仰の霊地に行ってみたいとは思えども、本日は先を急ぐ、ということで鍾乳洞行きは、なし。
バス停よりあたりを見渡す。四方は山、前面は深く刻まれた谷。トンネルにより山塊を穿ち道が通じるまでは山間の僻地ではあったのだろう。秘境とも呼ばれていた。とはいうものの、秘境っていつの頃から呼ばれたのだろう。この秘境って、いかにも大都市東京からの視点。また、発達した車社会からの始点。日原が浄土信仰の霊地として賑わっていた頃、東京など影も形もなく、一面の芦原であった、はず。車の通る道が無く、交通不便をもってそれが「秘境」と呼ばれても、歩くのが移動の基本であった時代、峠を越え、山道を歩くのが往来の基本であった時代、山間の僻地がそれほど他の地域と違っていたとも思えない。
その昔、車が往来の主流となる以前、日原は東西南北から多くの人の往来があった。日原は仙元峠を越えてくる北関東からの道者の往来があった。また、秩父・北関東だけでなく、瑞穂、青梅筋からの往来も多かった、よう。瑞穂、青梅に「日原道」の道標が残る。日原は江戸との交流も多かったようだ。
信仰の霊地・日原鍾乳洞は上野の東叡山寛永寺の支配下にあり、運営は輪王寺宮の下知に従っていた。と言う。江戸との交流が頻繁であっても不思議ではない。実際、日原の特産品であった白箸は江戸市民の必需品。正月三が日、その白箸を必ず使うといった仕来りになっていた、と。輪王寺宮の御用箸師が日原の木でつくった白箸を幕府柳営で使うようになったため、柳箸と名前を変え、次第に一般市民が使うようになった。ちなみに、柳営の語源は中国から。匈奴征伐の漢の将軍が軍営を置いたところが「細柳」であった、から。
ことほどさように、日原は江戸との結びつきが濃かったわけで、「秘境」なんで呼ばれる筋合いはさらさらない、といった堂々たる「山間の僻地」であったわけ、だ。はてさて、イントロが長くなってしまった。とっとと日原往還を辿ることに。


尾根道へ
バス停を離れ、登山道に。道成りに少し先に進むと道脇に道標。「一杯水を経て天目山 酉谷山登山口」の案内。案内に従い、民家前の細い坂道を上る。土手に沿って進む。いくつかの民家の脇を越えると舗装も切れる。20分程度歩くと道脇の林の中に貯水槽。山の水を集落へ送っているのだろう、か。標高は700mを越えている。日原が610mほどなので、100mほど上った。このあたりから、杉の植林帯に入っていく。

杉林の中の道は傾斜を増す。ジグザグの道を進む。結構きつい。道の前方にフェンス。石灰採掘場だろう。フェンスに沿って進む。フェンスから離れ、植生も自然林となるあたりでやっと尾根道に。標高973m。時刻は9時53分。1キロ弱の距離を400m弱上ったことになる。GPSのデータをチェックすると斜度40度といったものが数箇所あった。このデータがどこまで正確かは別にして、実感でも少々きつい上りであった。

ヨコスズ尾根

尾根道を進む。道はトラバース気味に巻き道を通っている。「昔道は、尾根のピークを通る道ですよ」とS君。昔の人たちの気持ち追体験の散歩ではあるけれど、そこまでの厳密性を求めるわけもなく、迷うことなく巻き道を選ぶ。
ところどころに痩せ尾根。倉沢谷と小川谷に削られ細くなっている。この尾根道をヨコスズ尾根と呼ぶ。スズ=鈴、ということで、なんと妙なる名前かと思ったのだが、この尾根筋に横篶山(よこすず)というピークがあるようで、とすれば、スズ=篶>篠竹、と言うこと。鈴ならぬ竹の茂る道と、少々無粋な名前と相成った(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

倉沢への分岐
滝入ノ峰を巻いて進む。時刻は10時25分。標高1249m。1時間以上歩いたことになる。このあたりまで来ると傾斜もほとんどなく、ゆったりとした尾根道を楽しめることになる。
10時40分、倉沢への分岐 。標高1275m。ここを下ると倉沢谷に下る。この谷筋にも大きな鍾乳洞があるようで、その鍾乳洞も日原鍾乳洞と同様に信仰の霊地。倉沢山大権現と呼ばれ、東叡山寛永寺の支配下にあった。
倉沢の倉は、岩を意味すると言う。また、くら=えぐられたような崖地や渓谷、といった説もある。どちらにしても、岩場ではあるのだろう。

両替場のブナ
分岐点を少し進んだあたり、尾根道に堂々としたブナが聳える。姿が如何にも美しい。両替場のブナと呼ばれたブナがこれだろう。往古、日原の鍾乳洞の一石大権現、倉沢鍾乳洞の倉沢山大権現への信仰篤き頃、秩父や北関東からの参詣者への両替の便宜をはかったところ。大権現たる鍾乳洞では、先達の松明に導かれ、参詣者は唱名念仏をとなえお賽銭の小銭を撒きながら洞内を進んだ、と。ここはその小銭の両替場。旅に小銭は荷物となるので、金銀の粒をこの場で両替していたわけだ。

一杯水
両替場のブナを過ぎ、倉沢谷とカロー谷に削られた痩せ尾根などを歩き、11時15分、天目山との分岐点、一枚水避難小屋に到着。標高1275m。結構立派な山小屋。山が好きな人は、こういった小屋に寝泊りして山を歩くのだろう。
カロー谷は、賀廊谷と書く。かろう>唐櫃からの当て字という。お櫃のように聳え、切り立った谷があるのだろう。カロー大滝といった滝もあるようだ。先ほど滝入リ峰脇を通ったが、この滝って、こういった大滝と関連した地名のように思のだが、真偽の程不明。
小屋の前のベンチで小休止し、先を急ぐ。11時34分、一杯水に。沢からの水をホースで集めている。ほんの少ししか水は出ていない。足らなければ沢を少し下りなさい、とのこと。
一杯水と言えば、下関・壇ノ浦の「平家の一杯水」が知られる。また、熱海の石橋山での挙兵に一敗地にまみれた頼朝ゆかりの「頼朝の一杯水」もある。地を離れての源平の「一杯水」。奇しき因縁なのか、どちらかが真似たのか、はてさて。

長沢脊稜
一 杯水を離れ先に進む。日原から一杯避難小屋にかけて南北に走るヨコスズ尾根このあたりで終わり、ここからは東西に走る別の尾根道となる。長沢脊稜と呼ぶ。 最初、長沢背稜、かと思っていた。「脊」ではなく「背」かと思っていた。たまたま、「背」稜って、どういう意味だろうとチェックして、どうも背中ではなく脊髄である、ということが分かった。長沢山って、この稜線上、西のほうにある。名前はそこから来ているのだろう。尾根道を進み12時18分、標高1436mの仙元峠に到着した。ここで大休止。

仙元峠
峠って、通常は稜線の鞍部にある。が、この仙元峠は稜線のピークにある。この峠は富士浅間詣の御旅所。足腰に自信のない人は、ここから富士浅間さまを遥拝し、引き返す。元気な人は、ここから両替場、大茶屋、道者道を進み日原の御師である原島右京、淡路の家に泊まり一石山の御岩屋(日原鍾乳洞)に参詣、山越に小河内を経て富士参りをした、と言う(『奥多摩風土記;大舘勇吉(有峰書店新社)』)。峠の由縁表示板には、「仙元」=「水の源」とあったのだけれども、仙元は「浅間」からきているのではないか、と思う。
峠に佇む祠も浅間神社。この祠が浦山の人たちによって建てられたのは大正の頃、と言う。浦山の人たちが建てたわりには、祠は奥多摩に面している。それは、大正のころには浦山から仙元峠へのルートは、細久保谷から一杯水に上り稜線を仙元峠に至る道が開かれていた、ため。林道でも通ったのだろう。ために、上った正面は奥多摩向きとなった、とか。休憩20分弱。12時38分、

大楢
浦山に向かって峠を下りはじめる。誠に険しい急坂。尾根を下りているには違いないのだろうが、はっきりとした尾根道といった雰囲気とは違う。崖を下っている雰囲気。ちょっと一息といったポイント・大楢まで水平距離で1キロ弱。到着時刻は13時4分。標高は1152mであるので、300mほどを30分程度で一気に下る。大楢って何か由来でもと思ったのだが、大楢=ミズナラのこと、だろう。
大楢の道標のところに、明治神宮からの森のマナーのお達し。このあたりは明治神宮の御料地なのだろう。「明治神宮+秩父+森林」で想い起こすのは本多静六博士。林業・造園の専門家。日比谷公園など多くの公園をつくったが、その中に明治神宮がある。現在は鬱蒼とした森となっている明治神宮の森であるが、元々は単なる荒地。そこに植樹を行い、人工の森をつくり、年月を経て自然の森のようになった。で、その造園計画の中心人物の一人が本多博士。
この造園の専門家は貯蓄の才能も豊か。巨万の富を築き、この秩父にも広大な森林を所有した。場所は浦山から秩父湖のほうに入った大滝村のあたり。その森は退官の折にすべて寄付したとのこと。この明治神宮の御料地もひょっとして、などと、ちょっと夢想。

送電線鉄塔下
少し緩やかになった坂を下り、13時46分、東京電力の鉄塔下(新秩父線56号鉄塔)につく。標高902m。40分かけ250mほど下ったことになる。直線距離は2キロ弱なので、傾斜はそれほどでもない。
送電線下で少し休憩。西の長沢脊稜や、東の武甲山から有馬山に続く山稜が見渡せる。その山稜の向こうが名栗の谷であろう。高尾からいくつかの峠を越え、名栗の谷を経て妻坂峠から秩父に入った、鎌倉街道山ノ道散歩が懐かしい。ちなみに、新秩父線とは新秩父開閉所(埼玉県小鹿野)~新多摩変電所(八王子市上川町)間の49Kmを結ぶ500KV送電線である。

道に迷う
小休止の後、浦山に向かう。鉄塔下から直進。次第に道が消えてゆく。木立に行く手を阻まれる。それでも少し進むが、どう見てもオンコースとは思えない、とS君。元に引き返すことに。「新秩父線57号に至る」と書かれた東京電力の黄色の道標のあたりまで戻る。かろうじて直進をダメだしする小ぶりの丸太が道に置かれていた。見落としていた。とは言うものの、これではほとんどの人は気づかないだろう、と思う。いくつかのホームページにも、この地で道に迷ったことが書かれていた。
黄色の道標を左に折れる。整地された道が続く。一安心。今回は二人なので心強かったのだけれど、迷い道で一人だったら、と釜伏峠・日本水で道に迷いパニックになったときを思い出した。山はやはり怖い。

急坂
鉄塔と高圧線につかず離れず尾根を下る。57、58、59、60と続く。60号を離れたあたりから坂は急勾配となる。ジグザグ道をどんどん下る。直線距離2キロ弱を30分で450mほど下ることになる。GPSのデータで斜度40度といったレコードも残っていた。14時35分、浦山大日堂前に下りてきた。標高452m。仙元峠から一気に1000m近くも下ったことになる。逆コースでなくてよかった。

浦山大日堂
お堂の前にリュックを下ろし、しばし休憩。お堂は新しい。近年改築されたのだろう。堂脇に寄付者の一覧がある。浅見さんという名前が多かったのが記憶に残った。浅見さん、って名前は秩父の古くからある名前と聞いたことがある。現在でも秩父市で最も多い名前と言う。
それはともあれ、このお堂、歴史は古い。江戸の頃、名栗の谷から鳥首峠を越えてこのお堂に参詣来る人も多かった、と。昭和50年に地元の人により立てられた大日堂記念碑には「此の地に大日如来尊が勧請されたのは今を去ること四百五十余年前の秋、麻衣藤杖翁形の丹生明神の仙元越えに依ると伝わる」とある、と。 丹生明神、って日原の中心にある神社。日原を拓いた原島氏の祖先である武蔵七党の丹党の祖神である。日原から仙元峠を越えてこの地に勧請されたもの、のよう。峠を越えて日原の大日如来の浄土まで行くことのできない人のため、便宜をはかったのだろう、か。この地に伝わる伝統の獅子舞も日原から伝わったもの、と言うし、往古、日原って結構な存在感のある大日如来の霊地であったことを改めて実感。

日向バス停
休憩終了。大日堂の浦山川を隔てたところにバス停が見える。事前のチェックによればバスは14時25分に浦山を出る、と。大日堂に下りたときには30分過ぎ。次は5時頃までない。どうにもならない、とは思いながら、大日堂を離れ、バス道に出て、気休めに時刻表をチェックする。なんと、浦山発は14時、それと16時頃にもあった。チェックした時刻表って一体、とは思いながらも少し嬉しい。それにしても1時間以上時間もある。近くにお休み処があるわけでもない。ということで、浦山ダム方面に向かい、行けるとこまで歩くことに。
『新編武蔵風土記稿』によれば、「浦山村は郡の南にして多摩郡に続き武光山(ママ)を後ろにして深く山谷に囲まれ、遠く四隣を隔てし一方口の僻地にて一区の別境ない」とある。道路の状況は「路経を云わば、或いは高く或いは低く、又は険しく、足の止まらぬ所あり。又は狭く荊棘の左右より生ひ塞がる所あり。木を横へ桟道もあり。独木を架せる橋もあり」とある(『多摩の山と水 下;高橋源一郎(八潮書店)』)。もとより浦山ダム工事の完成した現在、かくの如き趣き、あるわけもなし。静かで落ち着いた、どこにでもある山村であり山間の道である。
5キロほど歩き、浦山ダムの畔にある日向バス停でバス到着時間。谷間に響き渡る「証城寺(しょうじょうじ)の狸囃子(たぬきばやし)」. だったか、なんだったか忘れてしまったが、ともあれ数キロ先からその接近が分かる童謡を鳴らしながら
接近するコミュニティバスに乗り、西武秩父に行き、本日のお散歩を終える。童謡はダムを離れ交通頻繁な国道140号に合流いたときに、即、音が消えたことは言うまでもない。

峠を越えての秩父入りはこれで五つ目。寄居からの釜伏峠越え、小川からの粥仁田峠越え、吾野・高麗川筋の旧正丸峠越え、名栗の谷からの妻坂峠越、そして今回の奥多摩からの仙元峠越え。S君のお誘いにより、次回は信州からの十文字峠越えとなりそう。大いに楽しみである。 



水曜日, 9月 02, 2009

足柄峠越え;古代の箱根越えの古道を辿る

先日、江戸時代の旧東海道・箱根八里を湯本から三島まで歩いた。鎌倉・室町には箱根越えの道として湯坂路がある。このふたつは箱根峠を越える道である。
石畳の道を歩きながら箱根路の案内板などを読んだ。と、古代には箱根路を越えるルートは別にあった。最古のルートは日本武尊も帰路に越えたと言う碓氷峠道。 御殿場より乙女峠を越え仙石原から宮城野の碓氷峠を上り、明神ヶ岳を越えて足柄平野に下る道と言う。次いで、奈良・平安の頃の足柄道。御殿場から足柄峠を越え坂本(関本)に下る道である。
碓氷道は、いつだったか明神ヶ岳を歩いたこともあり、なんとなく、歩いたつもりになっていた。で、今回、足柄峠越えの道を歩くことにした。古代箱根越えの魅力もさることながら、足柄=金太郎、といった足柄峠のもつ語感に惹かれてのことである。

古代、足柄峠を多くの人が歩いたのだろう。「足柄の八重山越えていましなば誰をか、君と見つつ偲はむ」。万葉集に歌われる足柄はこの歌のほかにも10以上ある。東国から防人として西国に赴く農民は、この峠を越えていったことだろう。
更科日記には「ふもとのほどだに、そらのけしき はかばかしくも見えず。えもいはず しげりわたりて いと おそろしげなり」、とある。足柄峠を越えて駿河に出たときにも「まいて山のなかの おそろしげなる事 いはむかたなし」と書いている。よっぽど怖い山であったのだろう、か。駿河の国司が足柄の坂本(関本)を拠点に跋扈する党類をして「坂東暴戻(ぼうれい)の類(たぐい)、地を得て往反し 隣国、奸猾の徒(ともがら)、境を占めて栖集(せいしゅう)する」と、表現しているほどだから、結構治安も悪かったのだろう。はてさて、どういった風景が現れてくるのか、ともあれ散歩に出かける。

本日のルート;関本>矢倉沢バス停>家康の陣場跡>定山城跡>地蔵堂>見晴台>柄峠一里塚>足柄の関>足柄城址>六地蔵>赤坂古道>銚子ヶ淵>戦ヶ入り>竹之下



関本
自宅を離れ、小田急に乗り小田原に。そこで箱根登山鉄道大雄山線で終点の大雄山駅に向かう。車窓からは箱根外輪山の雄大な姿。最高峰は明神ヶ岳だろう。稜線が左右に広がる。先日金時山方面から明神ヶ岳に向かって歩いたが、思いのほかきつい尾根道であった。山容を見て、結構納得。
大雄山駅で下車。大雄山の駅名は名刹大雄山最乗寺・道了尊、から。駅の地名は足柄市関本である。古代の足柄道の宿駅・坂本、と言われる。足柄道は横走駅(御殿場との説もあり)から足柄峠を越え、坂本駅に下り、ついで小総駅(おぶさ;国府津)、箕輪(伊勢原)、そして武蔵へと続く。坂本駅は駅馬22足、伝馬25足を備え、交通の要衝として栄えた。江戸時代は東海道の裏街道としての矢倉沢往還の宿場として栄えた。

矢倉沢バス停
大雄山駅の関山バス停から地蔵堂行きのバスに乗る。10分ほどで矢倉沢バス停に。バス停の近くに矢倉沢関所跡がある、と言う。といっても、案内もなにも、ない。とりあえずバス道を離れ旧道っぽい道に入る。ちょっと探す。道脇に小さな祠。その後ろに道祖神。わら屋根で保護されている。そこから狩川の方へ少し戻るように集落の道に入っていく。民家の前に関所跡の説明。それ以外とりたてて何があるわけでも、ない。
矢倉沢関とは、東海道の脇往還・矢倉沢往還に設けられた関。日本武尊が東征する時、このルートを通った、との伝説があるように、このルートは古くから人や物が行き交う道。ために、天正18年(1590)徳川家康が関東に入国するに際し、箱根の関所の脇関所のひとつとしてこの地に関所を設けた。
こういった裏というか脇関所はこの矢倉沢のほか、根府川(小田原)、仙石原、河村(山北町)、谷蛾(山北町)にも設けられえている。矢倉沢往還はこの関所の名前から。寛文年間(17世紀後半)に人夫・馬を取り替える継立村が置かれ、東海道の脇往還のひとつとなった。
この関所跡は「矢倉沢表関所跡(末光家)」とのこと。車道を北へ内川を渡り左折して200m程度歩いた地点に「矢倉沢裏関所跡(石村家)」の案内板と碑がある、と言う。裏関所・脇関所の中にも「表」と「裏」がある、と言うのも、なんとなく面白い。関所は明治2年まで続いた。

矢倉沢往還のルート;江戸城の「赤坂御門」を起点にして多摩川を二子で渡り、荏田・長津田、国分(相模国分寺跡)を経て相模川を厚木で渡り、大山阿夫利神社の登り口の伊勢原に行く。さらに西に善波峠を経て秦野、松田、関本、矢倉沢の関所に行く。その後足柄峠を越え、御殿場で南に行き、沼津で東海道と合流。大山参詣道や富士参詣、そして東海道の脇往還として賑わった。江戸から直接大山に繋がっているため、大山道とも呼ばれる。
現在は、ほぼこの往還に沿って国道246号が通っている。

家康の陣場跡
さきほど見た道祖神の脇を少し上ると「足柄古道」の標識。右に折れに上っていくと先ほどのバス通りに突き当たる。道の向こう側に街道らしき細路が続く。振り返ると狩川方面の眺めもなかなか、いい。 旧道を進むと、まもなく再度バス通りに合流。先に進むと道脇に「家康の陣場跡」の標識。天正18年(1560)秀吉の小田原攻めの際に家康が陣を敷いたところ。ということは、家康も箱根峠ではなく足柄峠を越えてきた、ということ、か。

定山城跡
家康の陣場跡を、500mほどで左に旧道が分かれる。そばにバス停があり、その名も「足柄古道入口」。脇に石仏も佇む。 本格的な古道、などと思う間もなくに車道脇の歩道のような道に出る。歩道を進むと「定山城跡」の説明。大森信濃守氏頼の城跡である。城山(じょうやま)が定山(じょうやま)となった、とか。
大森信濃守氏頼は大田道灌と同じく扇谷上杉の家臣。知勇兼備の名将として知られる。道灌が主家により謀殺された後、主家上杉定正を諌めた「大森教訓状」が名高い。小田原に築いた城は。さしもの北条早雲も、氏頼在世中は手出しができなかった、と。
城跡があるとも思えないような案内でもあり、なにより大森氏頼のことをまったく知らなかったので城跡へと辿ることはパスしたのだが、こんな素敵な武将の足柄古道を抑える山白に行ってみたかった。後の祭り。

足柄山の金太郎
先に進むと「ひじ松」の説明板。頼朝が月を見るのに邪魔になると伐った松ノ木があるらしい。これまた、道があるようにも見えないのでパスし車道の脇道を進む。先に石段。コンクリートの急な坂道で下り、路傍に佇む石仏を見かけると大きな車道に合流。狩川の谷から尾根を越え内川の谷に続く道。
車道を右へ戻るように下る。内川に架かる橋を渡り右折。左に進めば「夕日の滝」に進む。ほどなく金太郎の生家や「かぶと石」。足柄山の金太郎ゆかりの地である。
この地は金太郎の母親の故郷。都に上り宮中勤務の坂田蔵人と結婚し金太郎懐妊。この地で金太郎を産むが、坂田蔵人がなくなったためこの地に残り金太郎を育てことに。
伝説によれば、熊と相撲をとりながら、金太郎は主と仰ぎ得る武将を待つ。天延4年(976年)、源頼光が足柄峠に差し掛かる。頼光の父は鎮守府将軍源満仲。清和源氏の三代目、といった貴種である。源頼光の家来と力比べ。その力量が認められ家来となる。名前を坂田金時と改名。渡辺綱、卜部季武、碓井貞光とともに頼光四天王のひとりとなる。頼光主従による丹波の国、大江山(京都府福知山市)に棲む酒呑童子(しゅてんどうじ)、いわゆる、大江山の鬼退治が有名。とはいうものの、酒呑童子を知っているのは団塊の世代以上かもしれない。『酒呑童子;平凡社選書』を読み直してみよう、か。

地蔵堂
矢倉岳が美しい。坂を下るとほどなく地蔵堂の横に出る。バス停やお休みどころもあり、結構な人で賑わっている。 地蔵堂には、南北朝時代から室町時代にかけて作られたとされる寄木造の地蔵菩薩が祀られている。地蔵菩薩が安置されている厨子とともに県重要文化財。
地蔵堂を左に曲がりゆるやかな坂を進む。道脇に「万葉うどん」の店。ネットで「足柄古道」と入力すると、やたらに登場するお店。SEO 対策、ネットマーケティングとしては万全なのだろう。が、足柄古道の情報を知りたいわが身とすれば少々...、の思いもあり。

見晴台
道は山の斜面を進む。道の下にはバイパスが走る。ほどなく旧道はバイパスと合流。大きくカーブするバイパスを上っていくと古道入口の標識。山道を進むとバイパスに合流。峠までにバイパスを横切ることが数回あるが、これが最初。二度三度とバイパスを横切り先に進むと「見晴台」に出る。東屋とバス停がある。見晴台とはいうものの、見晴らしがそれほどいいわけでもない。

足柄峠一里塚
車道に沿って石畳が少しある。少し進み、車道を横切り石畳の道に入る。割と整備された石畳道を進み車道と合流。先に峠が見えてくる。地蔵堂からおよそ1時間程度で上ってきた。
道脇に「足柄峠一里塚」の案内。一里塚は慶長九年(1604年)江戸幕府が日本橋を起点として一里(約四キロ)毎に塚を盛り上げ 榎(えのき)の木を植えたもので 道中の里程と旅人達が駕籠かきや馬方と運賃をきめる手段とした。

足柄の関
一里塚のすぐ先は足柄の関跡。「古代の足柄の関」は、昌泰2年(899年)、足柄坂に出没する強盗団を取り締まるために設置。 上にメモした駿河国司の苦情にあるように、治安は悪かったようだ。通行には、相模国の国司の発行する過書(関所手形)が必要であった、と言う。 当時関が設けられた場所は定かではない。
「源平盛衰記」に治承四年(1180年)のこととして、土屋宗遠(むねとう)が甲斐に越える時「見レハ峠ニ仮屋打テ、(中略)夜半ノ事ナレハ、関守睡テ驚カス」とあり、源平の動乱の時代に、足柄峠に臨時の関が設けられ、鎌倉時代初期にも、その残骸が残っていた、のだろう。現在残る関、というか柵は昭和60年、黒澤明監督の「乱」の撮影で使われた城門のセットを足柄関伝承地に移築したものである、と。

足柄城址
関所跡から足柄城址へと続く遊歩道に入る。道の下に聖天様が見える。あれあれ、残念ながら今回はパス。尾根道を先に進み切通しの上に架かる橋を渡る。橋の名 は「あずまはや橋」。ヤマトタケルが東征よりの帰途、身代わりとなって東京湾に身を投げた妻を想っての有名な台詞・「我が妻よ」。とはいうものの、この「あずまはや」、散歩の折々に登場する。先日も秦野の弘法山の尾根道を歩いているときも出会った。
橋の下が現在の峠。標高759m。昔の峠はこの尾根道を通り足柄城址へと抜けていたようだ。橋を渡り足柄城址公園に。この地は古代からの交通の要衝。奈良時代、都を出、東海道を坂東へ向かう旅人は、この足柄峠を越えていた。中世になると、この交通の要衝の地に大森信濃守氏頼が足柄城を築く。大森信濃守氏頼は峠道の途中、定山城で出会った武将。その後小田原北条により小田原本城の出城として築城されるも、天正18年(1590)秀吉の小田原攻めの後廃城となる。
足柄城址本丸の一角に小さな池。玉手ケ池と呼ばれる。この池は底知らずの池、又は雨乞い池と云われ、常時水をたたえ、池に雨乞いをすれば必ず雨が降った、とか。井戸の跡との説もある。池の名前は、足柄峠の守護神、足柄明神姫、玉手姫からつけられたもの。芝生の上でしばし休憩。富士山の眺めが誠に素晴らしい。御殿場市外を眼下に見下ろし、なにひとつさえぎるもののない雄大な山容である。

六地蔵
足柄峠を離れ、足柄駅へと下る。車道を進むとほどなく六地蔵。釈迦入滅後、弥勒菩薩が現れるまで仏不在の時期が続くとされるが、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)を彷徨う、迷える衆生を救済する六人の菩薩さま、である。
その先にもお地蔵さま。先のお地蔵様は「上の六地蔵」。このお地蔵様は「下の六地蔵」と呼ばれる。六地蔵とは言うものの八体ほどあった、よう。江戸本所の人たちが建てたもの、と。ちなみに上の六地蔵は相模の国、足柄平野の人たちが建てた、とか。
お参りをすませ、歩を進める。旧道への入り口あたりには芭蕉の句碑もある。先日、箱根西坂を三島まで歩いたときにも途中の富士見坂に芭蕉の句碑があった。ヤマトタケルではないけれど、有名人は「忙しい」。実際。この碑は、地元の俳人が芭蕉の『芭蕉翁行状記』よりピックアップしたもの;「目にかかる ときやこととさら 五月富士」。おもいがけなく目にした富士に感激、もの。

赤坂古道
旧道に折れる。赤坂古道と呼ばれる。土が赤かった、から。足柄駅まで60分との案内。5分ほどで車道に出る。道を横切り再び古道に入る。石畳もある。古代の道には石畳はないだろうし、はてさて、いつ頃造られたのだろう。
石畳が切れ、草の道を歩き、またまた石畳を進むと車道に出る。出口のところに石仏。安永三年というから、1774年、今から230年以上前のもののようである。
車道合流点のあたりに「水飲沢」の標識。昔の水場の跡だという。どれくらい古いものかわからないが、更級日記に「水はその山に三所ぞ流れたる」(足柄越えの条)とある。そのひとつであろう、か。

銚子ヶ淵
沢、というか地蔵堂川に沿って車道をしばらく進む。少し開けたところに「湧水花園」といった公園。東海道400年祭りを記念して湧水地帯を公園とした、と。先に進むと右に入る砂利道。この道を進むと道脇に古滝と呼ばれるちいさな滝がある。かつては修行の場でもあった、よう。
道を進み再び沢に戻ると「銚子ヶ淵」。地蔵堂川がちょっとした滝状のようになっている。銚子ヶ淵と呼ばれるのは、滝というか、水の落ち口が滝壺・淵のようになっているから、だろう。
銚子ヶ淵の由来。案内板によると、結婚式の時に嫁がおならをしてしまい、みんなに嘲笑され、銚子を抱いてこの淵に身を投げる。その後娘の履いたわらじが浮いてくる。地蔵を建て供養したところ浮いてこなくなった、とか。その地蔵は、今は、ない。

戦ヶ入り
金太郎と源頼光が対面した、と伝えられる「頼光対面の滝」の案内を見やり先に進むと道脇に「戦ヶ入り」の案内。足利尊氏軍と新田義貞軍の合戦の地。世に言う、「箱根竹之下合戦」の地である。
建武2年(1335年)8月、足利尊氏は「中先代の乱」を鎮圧するため、鎌倉へ下向。中先代の乱とは、北条高時の遺児が起こした反乱。先代の北条と、その後の鎌倉幕府の支配者である足利氏の間にあって、一時的にでも鎌倉を占拠したため、「中先代」と呼ばれる。
擾乱鎮圧。が、尊氏は鎌倉に留まる。朝廷の帰京命令に従わず、鎌倉で独断で施策実施。朝廷は新田義貞を尊氏追討大将軍、尊良親王を上将軍として軍勢を発する。奥州の北畠顕家は背後から鎌倉を攻めることに。
足利方の防御ラインは岡崎の矢矧川。この防御ラインを破られ、鷺坂(磐田市匂坂)、手越河原(安倍川)でも破れ、足利直義の率いる足利軍は箱根水飲峠まで退く。この水飲峠は山中新田の山中城の岱崎出丸跡あたりとも、元山中のあたり、とも。
尊氏、鎌倉より出陣。新田軍が足柄路、箱根路に軍勢を分けて進軍することを想定し、尊氏自らは足柄峠に向かい迎撃態勢を整える。新田義貞は足利直義の守る箱根水飲峠に向かう。弟の脇屋義助が尊氏の守る足柄峠の攻撃に。この足柄峠の西麓で行われた足利尊氏軍と脇屋義助の合戦を竹之下の合戦と呼ぶ。詳細はよくわかっていない。が、結果的には尊氏軍が完勝。新田軍は京都に退却。一方の尊氏は勢いそのままに京都に進撃を果たす。こんな狭いところで本当に合戦が行われたのだろう、か。なんとなく?

竹之下
ほどなく馬蹄石の案内。馬の蹄の跡のような窪みが残る岩がある、とか。建久4年(1193年)、富士の巻き狩りに向かう源頼朝がこの地に駒を止めた。里人は岩の窪みを頼朝の馬蹄の跡とした。
橋を渡って左岸に変わると神社。真新しい神社。嶽ノ下神社とある。手水場の奉納書きに平成十九年九月とあるので、まだ半年ほどしか経っていないのだろう。拝殿の前からは、かたちの良い富士山が正面に見える。
地蔵堂川を再び渡ると竹之下の集落に。ここは矢倉沢往還の宿があったところ。足柄峠から西に下るルート・西坂ルートは今回歩いたルート以外にいくつもあるのだが、どのルートもすべて竹之下集落に下る。駿河や甲斐を結ぶ交通の要衝の地であったのだろう。

足柄西坂
足柄西坂のルートチェック。今回歩いたコースは「直路ヶ尾ルート」と「地蔵堂川林道ルート」。芭蕉の句碑あたりから地蔵堂川に出るあたりまでが直路ヶ尾ルート。その先の竹之下集落までが地蔵堂川林道ルート。地蔵堂川林道ルートは地蔵堂の東を進むが、西を進むルートもある。竹之一里塚も地蔵堂西岸ルート上にあるので、これが昔の矢倉沢往還でないか、とも。
足柄峠から地蔵堂川源流に沿って下り直路ヶ尾ルートに合流するのが「地蔵堂川源流ルート」。芭蕉の句碑から尾根道を進み、途中から尾根を下り地蔵堂川林道ルートに合流するのが「虎御石ルート」。尾根道を北に進み直接竹之下に下りるのが「大曲ルート」、「向方ルート」と呼ばれる。
どのルートが古代の足柄道西坂かよくわからない。が、少なくとも本日歩いた地蔵堂川林道ルートは古代のルートではないよう、だ。建設技術の発達していない古代において、土砂崩れの危険の多い沢沿いに街道をつくることはあまりないようだし、そもそも大正時代の地図にはこのルートは載っていない、とか。とはいうものの、あれこれ史跡、これも本当のところは「後付け史跡」のような気もするのだが、ともあれ、いくつかの史跡を見やりながら足柄西坂を下ったことで大いに満足。踏切を渡り足柄駅に到着。本日のお散歩を終了する。