月曜日, 5月 14, 2007

関宿散歩:利根川東遷事業の地を辿る

平将門のゆかりの地を訪ねる散歩メモの第三回。将門の営所のあった岩井を離れ、最後の目的地・関宿城跡に向かう。国道354号を北西に古河方面に。利根川に架かる「境大橋」を渡るとすぐ、関宿城博物館。 利根川と江戸川の分岐点の近くにある。本当に、まっこと、本当に来たかったところ。利根川東遷事業ってどんな規模のものだったのだろう、江戸川と利根川の分かれるところってどんな風景であるのだろう、舟運の要衝っていうけれど、大河を遡るわけで、どの程度の流量なのであろう、などとあれこれ想像していたわけだ。やっとのこと関宿の地に来ることができた。

関宿城博物館

到着時間が4時半を過ぎ。関宿城博物館は既に閉館していた。ここに来た目的は、利根川東遷、というか、利根川の瀬替えに興味があったから。関宿城自体がどういった歴史をもつものか、なにもしらなかった。
関宿の歴史との唯一の接点は千葉・市川散歩のとき。市川市・国府台にある総寧寺に関宿城主であった小笠原氏の墓所があった。これは総寧寺自体がもともとは関宿にあったものが、国府台に移ったため、とか。
小笠原氏をきっかけに江戸期の関宿城主をチェックすると、牧野氏・板倉氏・久世氏といった老中格の譜代大名が城主となっていた。奥州の外様大名への備えとして重要な地であったわけだ。利根川・江戸川の分岐点、ということは、舟運に限らず交通・物流の要の地であったわけで、当たり前といえば当たり前のことではあった。で、散歩のメモをきっかけにあれこれ調べると、関宿から、まことに波乱万丈の歴史が現れてきた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



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本日のルート;古河市>古河歴史博物館>高見泉石記念館>利根川>古河総合公園>古河公方別邸>・・・>境歴史民俗資料館>逆井城址公園>岩井・国王神社>岩井営所跡>関宿城

関宿時空散歩:「空」の巻
当初関宿については、その地理的なところにフォーカスを充ててのメモと思っていた。が、その歴史も結構のもの。「時空散歩」がたのしめそう、である。まずは「時空散歩」の「空」、空=関宿の地理、からはじめる。当然のこととして、此処に来た最大の理由、利根川東遷事業の視点からメモしてみたいと思う。

利根川と江戸川の分流点
とりあえず歩きはじめる。向かう場所は利根川と江戸川の分流点。別にこれといって道があるわけではない。葦が生い茂る低地を「力任せ」に進む、のみ。背丈以上もあるような葦原。とてものことひとりでは心細くて歩けたものではない。また、こんなところを歩く酔狂な者など居るはずもない、だろう。周囲に塵芥が散見する。水量が増したとき流れ着いた浮遊物であろう、か。葦原の踏み分け道を進む。葦原が切れ、川筋近く、テトラポットが幾重にも積まれている。足元を気にしながら、突端に進む。利根川と江戸川の分岐点に到着。結構時間がかかった。30分ほど歩いたような気がする。川面に手を入れ、思わず満足の笑み。わけの分からない達成感ではある。
利根川と江戸川の分岐点と書いた。が、正確には、昔からここに利根川・江戸川が流れていたわけではない。目の前に流れるこれらの川筋は、人工に開削された水路である。現在「利根川」と呼ばれている水路は、「赤堀川」と呼ばれる人工水路であった。また、現在「江戸川」と呼ばれる水路は、これもまた「逆川」と呼ばれる人工水路であった。

赤堀川は元和7年(1621年)に開削。関宿から上流の栗橋まで掘り進められたわけだが、これはおなじく元和元年、赤堀川の上流、佐波地区から栗橋までの8キロを開削し、利根川と渡良瀬川を合流させた「新川通り」とよばれる直線河道の延長上につくられたもの。
この赤堀川は関東ローム層台地を掘り割り、江戸に流れ込んでいた利根川・渡良瀬川を常陸川筋とつなぎ、銚子から太平洋に流す、いわゆる、利根川東遷事業の第一歩といってよい。とはいうものの、開削された当時は工事のミスか、それとも計画通りなのか定かには知らねども、通常殆ど水はながれていなかった、よう。「新川通り」からあふれる洪水時対策用水路であった、ともいわれる。で、工事を繰り返し、幅50m、深さも9mといった「大河」となり、ちゃんと水が流れ始めたのは元禄11年(1691年)の頃。が、水深・川幅などを勘案すると、常陸川水系にインパクトを与えるほどの水が流れ始めたのは、江戸時代後期の文化6年(1809)年ころになってから、とも言われる。

一方、現在江戸川と世ばれている川筋は、このあたりは当時「逆川」と呼ばれていた。関宿の少し南、江川の地まで開削されてきた江戸川と、赤堀川、というか、常陸川水系をつなぐものであった。『日本人はどのように国土をつくったか;学芸出版社』によれば、この逆川は複雑な水理条件をもっていた、と。普段は赤堀川(旧常陸川)の水が北から南に流れて江戸川に入る。が、江川で「江戸川」と合流する川筋・「権現堂川」の水位が高くなると、江戸川はそれを呑むことができず、南から北に逆流し、常陸川筋に流れ込んでいた、と言う。

この江戸川も上流部は人工的に開削されたものである。寛永11年(1635年)に起工し寛永18年(1641年)通水。下流・野田橋の近く、金杉あたりから18キロにわたって関東ローム層の台地を掘り割ってきた。江戸川の開削も洪水対策のため、と言われる。瀬替え、堰の締め切りなどにより、権現堂川から庄内古川に集中することになった、利根川・渡良瀬川水系の水を、江戸川に集めることにしたわけだ。沖積低地上の庄内古川筋を流れていた利根川の水を、関東ローム台地の中に導水し治水につとめた、ということ、である。

利根川の河道の変遷
利根川の河道の変遷をまとめておく。上でいろいろメモしながらも、やっぱりこの複雑な水路を整理しないことには、少々混乱してしまいそう。派川は省略し、主道をまとめる。
利根川は群馬県の水上にその源を発し、関東平野を北西から南東へと下る。もともとの利根川は大利根町・埼玉大橋近くの佐波のあたりで現在の利根川筋から離れる。流れは南東に切れ込み、高柳・川口方面へと続いていた。浅間川とよばれていたようだ。地図を見ると、現在は「島中(領)用水」が流れている。が、これは昔の浅間川水路に近いのだろうか。で、ここから流れは現在の「島川」筋を五霞町・元栗橋に進む。ここで北方から古河・栗橋・小右衛門と下ってきた渡良瀬川(思川)と合流し、現在の権現堂川筋を流れる。そして上宇和田から南へ下る。昔の庄内古川、現在の中川筋と考えてもいいだろう。水は下って江戸湾に注いでいた。これがもともとの利根川水系の流路である。

この流路を銚子へと変えるのが利根川東遷事業。狭義では江戸開府以前に行われた「会の川」の締め切り工事から「赤堀川」通水までを指す。もっとも、広義には、江戸初期から昭和初期までの400年に渡る河川改修プロジェクトを指す、とも。ともあれ、文禄3年(1594年)、忍城の家老小笠原氏によって羽生領上川俣で「会の川」への分流が締め切られる。これが「会の川」締め切り。
ついで、元和7年(1621年)、浅間川の分流点近くの佐波から栗橋まで一直線に進む川筋を開削。これが先にメモした「新川通り」とよばれるもの。この「新川」開削に合わせて、高柳地区で浅間川が締め切られる。そのため、それまでの島川への流れが堰止められ、川筋は高柳で北東に流れ伊坂・栗橋に。そこから渡良瀬川筋を下り、権現堂川から庄内古川へと続く流路に変更された。

「新川通り」は開削されたものの、利根川の本流とはなっていない。この人工水路が本流となったのは時代をずっと下った天保年間(1830年―44年)頃と言われる。この新川の延長線上に開削されたのが上でメモした「赤掘川」である。 この赤堀川も当初はそれほど水量も多くなく、新川の洪水時の流路といったものであったようだが、高柳・伊坂・中田へと流れてきた利根川水系の水と、北から下り、中田あたりで合流した渡良瀬川の水をあつめ、次第に東に流すようになったのであろう。

利根川の瀬替えにより、利根川水系・渡良瀬川水系の水が権現堂川筋から庄内古川に集まるようになった。結果、沖積低地を流れる庄内古川が洪水に脅かされることになる。その洪水対策として関東ローム層の台地を開削したのが「江戸川」。この江戸川とつなぐため、上宇和田から江戸川流頭に位置する江川までの権現堂川が整備される。権現堂川から庄内古川への流水は閉じられ、この結果、栗橋で渡良瀬川に合流した利根川本流は、栗橋・小右衛門・元栗橋をとおり権現堂川を下り、関宿から江戸川に流れることになった。また、江戸川の通水をみた寛永18年(1641年)に江戸川流頭部と常陸川を結ぶ逆川が開削されたのは、上でメモしたとおりである。

利根川・江戸川の分流地点を離れ、江戸川に沿って歩く。道などなにもない。本当に先に進むことができるのか、少々不安になるほど。なんとか、難路を切り抜け堤防をよじ登る、といった有様で、中ノ島公園に到着。関東一と言われるこぶしの大樹がある、という。しばし休憩し、長い橋を歩いて関宿城博物館に戻る。

関宿時空散歩:「時」の巻

関宿の時空散歩の前半、「空」=地理について、利根川流路の変遷をまとめた。今度は「時」=歴史。戯れに、といった軽い気持ちでチェックしたのだが、これがとんでもないことになった。簗田氏の登場。関宿の地を舞台に、小田原・北条、上杉謙信、武田信玄を相手に丁々発止。常に古河公方の側に立ち、戦国期を乗り切った、まことに「とんでもない」一族がこの地にいた。少々長くなるが、梁田氏および関宿を巡る戦国騒乱をまとめておく。

簗田(やなだ)氏

まずは、簗田(やなだ)氏の出自について。桓武平氏の流れをくむ、とか、源義家に従い「前九年の役」で活躍し、その恩賞で下野・簗田御厨に土着した、とか、例によってあれこれ。定かにはわからず。が、出自はともあれ、簗田氏は関東公方の家来であったことは間違いない。公方よりのおぼえもめでたく、側近中の側近であったようで、公方から名前の一字を頂戴したり、息女を鎌倉公方・足利持氏に輿入れするほどの強い結びつきになっていた。

「永享の乱」の勃発。先にメモしたように、鎌倉公方・持氏と京都の将軍&関東管領上杉家の争い、である。乱は持氏の死をもって終わる。先にメモしたように、持氏の遺子は各地に逃れる。で、第四子・永寿王丸を鎌倉から逃したのがこの簗田氏である。簗田氏にとって、永寿王丸は孫にあたるわけで、当然といえば当然、か。その後紆余曲をへてこの永寿王丸が古河公方・足利成氏となる。持氏に従った簗田氏は領地を下河辺荘、本拠は下総猿島郡水海(総和町)に移すことになる。
さて、関宿城のはじまり、であるが、それは結城合戦のころ。幾筋もの河川が交錯するこの地に下河辺氏が砦をつくる。これが、関宿城のはじまり、と言われる。 で、件(くだん)の簗田氏が関宿城に入ったのは長禄元年(1457年)の頃。足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことから勃発した、古河公方と関東管領上杉家の騒乱「享徳の乱」の真っ最中のことだ。簗田氏は、持氏に息女を嫁したように、代々古河公方に息女を嫁していた。当然のことながら、両者強い結びつきを保っていた。古河と関宿という強力なフォーメーションによって、舟運・交通の要衝を押さえていたわけだ。

とはいうものの古河公方も簗田氏も常に一枚岩であったわけではない。二代古河公方・足利政氏のとき、政氏と嫡男・高基と不和。簗田氏も古河政氏方、高基方に分かれて対立。足利高基が簗田高助の関宿城に移り、古河城の足利政氏・簗田政助と対峙することになったことも。最後は、足利政氏は太田氏をたより岩槻城に移り、出家。最後は足利高基も、政氏と和解した、ということだ。

もうひとつややこしい問題が起きる。それは子弓公方の問題。足利義明。二代古河公方・足利政氏の次男である。義明は、はじめは兄の高基と結び、父・政氏を排除する。が、上総武田氏や里見氏の助力を得て力をつけると、今度は、公方の座を兄の高基と争うことになる。上総・安房の勢力を集め、足利高基を支持する下総・千葉一族の領地に侵入。古河を目指す。この対抗策として、古河公方高基は小田原北条・二代氏綱と結ぶ、ことに。足利高基の嫡子・晴氏に北条氏綱の娘を嫁する、という婚姻政策をとることになる。敵の敵は味方、ということ、ではあるが、古河公方と小田原・北条のアライアンス、というか、小田原・北条氏の勢力下に組み込まれる第一歩、といえよう。

が、事はそれほど簡単ではない。古河公方・足利高基の死。高基の嫡子・晴氏は北条を嫌い、簗田高助の女を正室に迎えようとする。父への反抗か、はたまた、北条氏の影響を排除しようとしたのか。実際は影響力の低下を恐れた簗田氏の暗躍の結果、ではないか、とも言われている。
そうした状況下で起きたのが、天文7年(1538年)の「国府台合戦」。古河公方足利晴氏をたてる北条氏綱・氏康と子弓公方・足利義明率いる安房・上総軍勢の戦い。市川・国府台散歩でメモした通り、安房・上総勢力の足並みが揃わず、子弓公方・義明は単騎突撃で討ち死に。古河公方・足利晴氏が勝利。結果的に、北条氏の古河公方に対する影響力が強まることになる。北条氏の「威圧」もあったのか、晴氏は心ならずも、氏綱の女を正室に迎えざるを得なくなった。晴氏心穏やかならざること、このうえなし。

で、そんな状況下で起きたのが「日本三大夜戦」と呼ばれる「川越夜戦」。天文14年(1545年)、北条勢が立て籠もる川越城が上杉の軍勢に包囲される。背後に今川義元の脅威があるため北条氏康は動けず。北条方は絶望的状態。このような状況下、北条氏に不満を抱く足利晴氏は上杉軍に与する。ここでおきたのが「川越夜戦」。北条勢は十倍の上杉方に夜襲。上杉方敗退。古河公方・足利晴氏は古河に逃げ帰ることになる。

川越夜戦の勝利により北条氏の武蔵支配は完了したといっても、よい。さて、北条氏を「裏切った」古河公方の仕置きであるが、このときは穏便にすませている。古河公方の利用価値は、まだあったのだろう。滅ぼすことはせず、北条氏正室の子・義氏を古河公方の跡継ぎとすることで決着している。ということで、簗田高助の息女の子、晴氏の本来の嫡子である藤氏は廃嫡。古河公方同様、簗田氏もその利用価値ゆえに、厳しい仕置きをすることはなく、引き続き関宿の城を任している。

北条氏が完全に古河公方を「乗っ取った」のは天文23年(1554年)。北条に不満を抱く晴氏・藤氏親子は古河城で挙兵。が、あっという間に北条氏が平定。晴氏は幽閉される。 この事件を契機に北条氏は北関東への本格的進出を決定。永禄元年(1558年)、北条の血を継いだ足利義氏を古河公方とした。居城は関宿城。で、代々関宿を治めてきた簗田氏を古河城に移す。関宿の舟運を握る簗田氏の勢力解体の試みの第一歩、ということだろう。舟運の要の地・関宿をわが手にという、北条の戦略でもあろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

ここで、北条の古河公方権力の完全支配に対し、危機感を抱いたのが安房の里見、常陸の佐竹氏など。これら反北条方武将の要請で上杉謙信が関東に攻め入ることになる。永禄3年(1560年)のことである。関東討ち入りに際し、謙信は北条に不満を抱く簗田高助に帰順求める。条件として、外孫・藤氏を古河公方とする約束。謙信の関東進出に対し、関宿城の足利義氏は謙信を恐れ、高城氏の小金城、本佐倉城などを転々とし最終的には鎌倉に逃げてしまう。謙信の小田原攻撃。城は落ちず、謙信鎌倉に赴き、山内上杉氏の家督と氏関東管領職を引き継ぐことになる。越後に引き上げ。足利藤氏を古河城に、簗田氏を関宿に置き越後に帰る。

謙信が越後に引き上げた後、北条氏の反撃開始。要衝の地である関宿城、古河城奪還を図る。永禄5年(1562年)古河城攻略。足利藤氏捉えられ伊豆に幽閉・殺害される。簗田氏のこもる関宿城が一挙に緊張。ここからが、この地関宿を舞台にした、三度におよぶ関宿合戦となる。
第一次関宿合戦;北条氏が古河公方の解体を目指し関宿城の攻略戦を開始。武蔵を手中におさめ下総の大半を掌握した北条氏は常陸・上野・下野への進出を図る。水陸の要衝の地である関宿を手に入れることが必須であったのだろう。永禄8年(1565年)、北条氏康は北条に内通した大田氏資の岩槻城と江戸城を拠点に関宿攻略開始。先鋒は大田氏資。簗田氏それを撃退。越後勢来襲の報。氏康撤収。上杉謙信も臼井城攻撃の失敗や足利藤氏の死などもあり簗田と北条は和睦。これが第一次関宿合戦。

第二次関宿合戦;永禄11年(1568年)、八王子・滝山城主・北条氏照が野田氏の栗橋城を接収し関宿攻略を図る。このとき政治状況が大きく変化。「甲相駿三国同盟」を破り信玄が駿河に侵攻したわけだ。そのため北条氏は上杉謙信との同盟を結ぶことになる。結果、関宿を巡る戦線も解消。北条氏照は関宿から兵を退く。謙信としても古河公方にすると約定した藤氏も既になく、北条の血を継ぐ義氏を古河公方にすることに異議はなし。結果として、簗田氏は孤立。

孤立した簗田氏がとった戦略は予想をうわまる大胆なもの。その戦略とは藤氏の弟・藤政の擁立、そして武田信玄との同盟を結ぶこと。信玄は厨橋城付近まで進出する。北条方に緊張。そんなとき、元亀2年(1571年)北条氏康の逝去。遺言として後継者の氏政に、「相越同盟の破棄と相甲同盟の復活」を指図。北条氏政は信玄と和睦。その結果簗田氏、武田氏とも敵対すること、に。

第三次関宿合戦;天正元年(1573年)、北条氏照は関宿城を夜襲し失敗。翌年再度出兵。簗田藤政は佐竹・上杉謙信に救援求める。上杉謙信は武蔵羽生まで出兵。背後の敵や利根川の増水で積極的後詰できず。その機に乗じて、北条氏政は関宿攻略に。謙信、春日山より出兵。佐竹氏・宇都宮氏に出陣求める。謙信は北条の後詰を断つべく忍城、騎西城、菖蒲城の城下焼き討ち。藤岡まで進出。が、足並みに乱れ。佐竹が謙信との同陣を拒む。昔、勝手に北条と結んだことへの反感、か。「幸島(猿島)口」に越軍現る、の報を受け、氏政は飯沼・逆井あたりの防衛を命じている。先にメモした逆井城を拠点としたのであろうか。ともあれ、北条軍は越軍の足並みの乱れに乗じ、関宿攻撃へ大包囲戦。総攻撃。簗田氏は佐竹氏の仲介を頼み関宿城開城。水海城へ退去。これにより、簗田氏の関宿支配が終わり、関宿は北条直轄の軍事拠点となる。

関宿合戦の結果、古河公方領は北条に組み込まれる、天正10年(1582年)古河公方・足利義氏がなくなる。が、既に古河公方の権威を必要としなくなっていた北条氏は、後継ぎをつくることはなかった。古河公方の事実上の断絶ということである。
古河公方係累のその後;天正18年(1590年)小田原の陣で北条滅亡。義氏の死。息女・氏姫は秀吉の命により、古河城を退去。鴻巣御所に移る。秀吉に子弓公方義明の孫国朝との婚姻を命じられる。こういった「優遇」処置は、国朝の姉が秀吉の側室であった、ため、と言われる。名門足利家の血を絶やさない、との強い意地、であった、とも。が、国朝は子をなさないまま逝去。氏姫は秀吉の命で国朝の弟と再婚、子をもうける。義親。これが喜連川氏の祖。下野(栃木県さくら市)に立藩され、明治まで続いた足利の子孫である。で、氏姫は元和元年(1620年)鴻巣御所でなくなる。鴻巣散歩のときにみた義氏・氏姫の墓所がこれである。江戸期にはいると関宿には譜代の重臣クラスを配置。関宿の重要性は変わらず、老中クラスが城主。「出世城」と呼ばれた、と。

関宿を訪れ、気になっていた利根川・江戸川分流点を実感し、その実感を忘れないうちにと、利根川東遷についてまとめた。また、思いがけなく簗田氏という、北関東の戦乱を影で動かすフィクサーといった一族のことを知った。古河公方の古河からはじめ、将門の岩井、そして、この関宿。利根川の瀬替えだけが興味・関心ではあったのだが、あまりに古河公方と深く結びついた簗田氏のことを知るにつけ、古河と関宿はまさに文字通り、一衣帯水、であったことを大いに実感。時空散歩を終え,助手席NAVIをガイドに一路家路につく。

土曜日, 5月 12, 2007

岩井散歩:平将門ゆかりの地を歩く

岩井を歩く
平将門のゆかりの地を訪ねる散歩メモの第二回。古河を離れ次の目的地、平将門ゆかりの地、坂東市・岩井に向かう。途中どこか見どころがないかと地図をチェック。東仁連川、飯沼川、西仁連川といった川筋が集まる逆井の地に、逆井城跡公園。どういった由来のお城かわからない。それよりも、この城跡の北を流れる飯沼川が気になった。これって、昔の飯沼の跡地ではなかろうか、と。
将門ツアーをいい機会と、いくつか将門に関する本を読んだ。どこかの古本屋で求めた『将門地誌:赤城宗徳(毎日新聞社)』と『全一冊 小説平将門;童門冬二(集英社文庫)』などである。ちなみに、赤城宗徳さんは農林大臣などを歴任した政治家。最近、こういった、「格好のいい」政治家がいなくなった、なあ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

ともあれ、本の中に飯沼が登場していた。将門の妻子がこの沼地東岸に隠れていたのだが、敵である伯父の良兼の軍が去ったと勘違いし出て行ったところを見つけられ、惨殺された場所である、とか。古河から17キロ程度であり、岩井への道筋からそれほどはなれてもいない。携帯カーナビ・EZ助手ナビをセットし、逆井に向かう。カーナビのガイドゆえに、経路わからず。(土曜日, 5月 12, 2007のブログを修正)


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逆井城跡公園
逆井城跡公園に。周囲を低地で囲まれた台地上にある。戦国期の城郭が再現されている、と。どうせのこと、おもちゃのような、味もそっけもない城郭もどきのコンクリート建築であろう、と思っていた。が、予想に反し、時代考証をきちんとした城郭がつくられている。近づくにつれ、台地上に城を囲む土塀と井楼(井桁状に骨組みを組み合わせた高層の櫓)と望楼が見える。当時、井楼があったのかどうか、はっきりしないようだが、ともあれ戦国の雰囲気を感じることができる。
大手門でもある西二ノ曲輪にかかる木の橋を渡り城内に。大手門下には入江。飯沼からの荷を運ぶ舟入跡であろう。大手門横に二層の望楼が。城郭内部から見た土塀もなかなかリアル。城内には関宿城から移した門や戦国期の本丸殿社をもとにした御殿、観音堂などもある。一ノ曲輪のあたりには櫓門と木の橋。櫓門の周囲には土塁も残っている。木橋下の空掘りも結構深い。
この城は、逆井氏の築城と言われる。逆井氏は、豪族・小山氏の係累。逆井の地を領したため逆井氏、と。その後、小田原北条氏によって落城。ちなみに、城内にある「鐘掘り池」は落城時、城主の息女か妻女か、どちらか定かはないようだが、ともあれ先祖代々伝わる鐘をかぶって身を投げた池、と言われている。
この城を落とした小田原・北条氏はこの城を、佐竹氏、多賀谷氏といった常陸勢力、また越後の上杉謙信に対する拠点として整備。現在残っている城の構えになったのも北条氏による大規模な縄張りの結果誕生したものであろう。

飯沼
城の端から飯沼方面を眺める。いかにも沼であったかのような、低地が広がる。台地下に西仁連川が流れる。不自然なほど直線の川筋。こういった川筋はほぼ、人工的に開削されたもの、と考えてもいいだろう。実際、この川は江戸期に飯沼の水を抜き、新田とするための水路であった。地形大好き人間としては、この飯沼の変遷が気になった。ちょっと調べる。
現在この地には東仁連川、飯沼川、西仁連川がそろって流れている。そしてこれらの河川は下流でひとつになって、利根川に注ぐ。西仁連川は栃木県南部が源流。三和町で東仁連川と別れる。飯沼川はその少し下で東仁連川から分かれている。西仁連川と飯沼川は坂東市幸田新田で合流。東仁連川は水街道市を経て、飯沼下流部で飯沼川と合流。そしてこの飯沼川は野田市で利根川に合流することになる。
はてさて、これらの河川は飯沼の水を抜き、新田を開発するために工事がなされた。最初の工事は飯沼の水を利根川に逃がすため、飯沼下流部から利根川まで川筋を開削。これが飯沼川のはじまり。
次におこなわれた工事は、更に飯沼の水を落とすため、沼の中央に水路を通し、下流部の飯沼川と繋ぐ。その次の工事は、飯沼に流れ込んでいた川筋を東西に分岐。ふたつの川筋とした。西が西仁連川、東が東仁連川。これは、新田に灌漑用水を供給するための川である。このとき、西仁連川は飯沼の南端まで掘り進め、飯沼川と合流させた。東仁連川は現在とは異なり、鬼怒川に流れるようにしていたようである。このように、飯沼の水を利根川や鬼怒川に流すことにより、新たな新田を開発していった、ということである。

飯沼は将門の妻子が殺されたところ
この飯沼であるが、将門の関連としては、上にメモしたように、将門の妻子が殺されたところである。このときの将門は勇猛なる武将とは程遠い行動をとっている。京において、庇護者とも頼む太政大臣・藤原忠平より、「もう少々おとなしくしなさい」などと諭されていたことも一因かもしれない。その遠因となったのが、「野本合戦」。前常陸大掾源護の息子が将門を討つべく待ち伏せ。が、逆に返り討ちとなる。将門はこの「野本合戦」で息子をうしなった源護の訴えにより京都に召還される。結局無罪ではあったのだが、その際に忠平に自重を求められていた、ということだ。ちなみに、野本合戦のおこなわれたのは下妻市の東、明野町赤浜である。
この赤浜からすこし西に小貝川にかかる子飼渡(小貝大橋のあたりか)がある。この渡での「奇計」も将門の戦う気力を削いだといわれる。その奇計とは、良兼(伯父)と貞盛(伯父である国香の息子)が、子飼渡の渡河に際し軍の先頭に「高望王と将門の父・良将の像」を押し立てて進んできた、ということ。将門は尊敬するふたりに弓矢を向けることができなかった、などとも言われる。当時将門は子飼渡から南西に降りた鬼怒川沿いの千代川村鎌庭に館を構えていたようだが、戦う意欲のない将門を見て、良兼軍は更に第二波の攻撃をおこない、鎌庭の対岸・仁江戸のあたりまで攻め込んだ。で、件(くだん)の飯沼の芦原へ逃れ、結局妻子を失うことに、なるわけである。
飯沼と将門の関係をもうひとつ。正確には将門というより父の良将と菅原道真の三男景行の関係。景行が常陸介として羽鳥の地、現在の真壁町というか、筑波山の西の麓ってところに館を構えた。が、飯沼の開拓に励むため大生郷に移る。現在の坂東市の東、鬼怒川沿いの場所にある。当時の大生郷は飯沼に臨んだ高台であった、よう。飯沼は周囲十数理におよぶ大湖水。大小17の入江があり、まわりは鬱蒼たる森林に囲まれていた。南北22キロ。東西1.5キロ。景行と良将のコンビで下総の開拓につとめた、という。

逆井は将門終焉への闘いの舞台
飯沼というかこの逆井と将門の関連を更にひとつ。先ほどの子飼渡のエピソードの時期からは少し下るが、この地は、将門終焉への闘いの舞台でもある。関八州の国府を制圧した将門は宿敵貞盛・為憲を求め常陸北部の掃討作戦を進める。が、貞盛、為憲の所在つかめず。一時軍を解散。そのとき、秀郷4000の兵を集め将門討伐に立ち上がる。将門にとっては予想外のことであった、よう。仲間とも、よき理解者とも思っていたようだ。老獪なる秀郷ならではの行動、か。とまれ、その報に接した将門は1000人の兵を率いて秀郷の本拠・田沼(佐野市)に進軍。敵軍見つからず。後続部隊が岩舟町(佐野市の東側)の北西の小野寺盆地に敵軍発見。全軍一致の軍令に背き、個別攻撃。戦上手の秀郷軍に包囲され敗れる。
岩船で敗れた将門軍、東に逃れ結城から本拠地岩井へと逃れる。将門軍は水口村(八千代町・猿島町の北)に陣を張る。ここは結城から岩井に通じる要衝の地。戦闘。緒戦は将門軍有利も、次第に貞盛・秀郷軍優勢に。将門軍、猿島の広江(飯沼)に退却。沼地に常陸軍をおびきよせ、討ち破る計画。が、貞盛はその手にのらず、猿島郡と結城軍の境、いまの逆井に到着。将門をおびき出すため村落を焼く。そうして、最後の決戦地、将門が討ち取られた地、国王神社あたりに続くことになる。

さしま郷土館ミューズ
逆井、飯沼でちょっと寄り道が過ぎた。岩井の国王神社に向かうことにしよう。県道135号線を南東に下る。途中坂東市市山にある「さしま郷土館ミューズ」に立ち寄り、猿島資料館で猿島の歴史などをちょいと眺め、沓掛あたりで県道20号・結城岩井線を南に折れる。江川を越えると国王神社。江川は猿島町から菅生沼までの14キロ程度の川。飯沼川とか仁連川といった江戸時代に新田開発のためつくられた川ではなく、昔からの水路を改修してできたもの。で、やっと当初の目的地・国王神社に到着。

国王神社
茅葺の国王神社拝殿。道路脇にあり、神さびた、という社ではなかった。読みは「くにおう」と。説明文のメモ;「祭神は平将門である。 将門は平安時代の中期、この地を本拠として関東一円と平定し、剛勇の武将として知られた平家の一族である。天慶三年(九四〇)二月、平貞盛、藤原秀郷の連合軍と北山で激戦中、流れ矢にあたり、三十八才の若さで戦死したと伝えられる。その後長い間叛臣の汚名をきせされたが、民衆の心に残る英雄として、地方民の崇敬の気持は変わらなかった。本社が長く地方民に信仰されてきたのも、その現われの一つであろう。本社に秘蔵される将門の木像は将門の三女如蔵尼が刻んだという伝説があるが、神像として珍しく、本殿とともに茨城県文化財に指定されている」と。
ここは将門が陣没したところと伝えられる。将門の二女が出家し如蔵尼と称し、この地に庵を結び父の冥福を祈る。この庵が後にこの国王神社となった、とも。上で将門終焉の地へのエピローグともいう合戦を逆井まで下った。将門は飯沼の地に隠れ、戦いの時期を待っていた。援軍を待っていた、とも。援軍は伯父の良文の軍である。良文は他の伯父とは異なり、常に将門の理解者であった、よう。が、良文の援軍が来ることはなかった。
願い叶わず。飯沼の隠れ家を出て、菅生沼を渡り、岩井の北山に陣を張る。貞盛・秀郷軍と矢合わせ。緒戦将門軍勝利するも、将門軍400対貞盛・秀郷軍3000の勢力差はいかんともしがたく、国王神社の地で矢にあたりあえなく討ち死に、となる。

平将門のあれこれ
平将門って、名前はよく聞くのだが、実のところあまり詳しく知らない。関東に独立国をつくろうとした、とか、所詮は伯父と甥の身内の勢力争いである、といった程度のことしか知らない。いい機会なので概要を整理した。参考にしたのは、赤城宗徳さんが書いた『将門地誌』である;

平将門について; 桓武天皇の第四子に葛原親王という人がいた。東国に荘園をもち、9世紀には常陸の太守にもなっている。といっても任地に赴任することはなく、いわゆる遙任として京に留まっていた。この葛原親王の子が高見王であり、その子が高望王。この高望王が「平」姓を賜り上総介として東国に下ることになる。朝敵を"平らげたる"ゆえに、「平」ということだ。
当時の上総の地は、騒然としていた。大和朝廷に征服され、帰順した「えぞ」・俘囚が反乱を起こしていたわけだ。ということで、高望王の仕事は国内の治安維持ということであった、よう。ということもあり、高望王は息子を国内要衝に配置。長男・国香は下総国境の市原・菊間。鎮守府将軍の任にあたる。二男の良兼は上総東北隅の横芝。三男の良将は下総の佐倉。この人が将門の父。四男は上総の東南隅の天羽。この四男はあまり登場しないので、名前は省略。上総の四周の要衝を息子で占める。五男の良文は京都に留まっていた。
高望は地元の有力者との婚姻政策も進める。 良兼と国香の子である貞盛には常陸大掾源護源護の女、良将には下総相馬の犬養氏の女、といった具合である。良兼は源護から婿引出として常陸国真壁郡羽鳥(筑波山西麓)の荘園をもらっている。良将は事実上の下総介、鎮守府将軍として一族の中で重きをなしていた。こういった中、高望の死。朝廷は藤原利仁を上総介・鎮守府将軍に。平一族の勢威を快く思っていなかった朝廷の平氏牽制の政策、か。国香の不満大いに高まった、とか。
といったところでの良将の死。一族のバランスが一挙に崩れる。良兼が良将の遺領の切り崩しをはじめたわけだ。そのころ、将門は京にあり太政大臣藤原忠平のもとに仕える。滝口の武士、といった武勇にすぐれた衛士として認められていたよう。忠平の覚えもめでたかった、とも。
将門帰国。相馬御厨の下司として戻る。場所は取手市上高井のあたり。将門の居館は「守谷」にあった。後に、本拠を豊田郡鎌輪に移した、と。その当時の父良将の旧領の状況は、成田以東の利根川沿いは良兼に、千葉から東は国香、千葉以西、利根川以南は印旛沼周辺を覗いて良文の領地となっていた。
ここで登場した良文は高望王の五男。38歳まで京に留まる。下総に下ったのは高望が死んで12年。良将が死んで5年。将門が京に出て3,4年のこと。相模の村岡郷(現在の大船付近)や、秩父にも領地をもつ。ために、村岡五郎と呼ばれた、と。良将がなくなり、将門が上京したあと、国香や良兼が、良将の旧領を侵蝕。波瀾含みの遺領を安泰ならしめる対策として、良文に内命が下り、東国に差し遣わされた、と。で、下総は安泰。帰国した将門は利根川以北の下総経営に専念できることになる。この良文は国香とも争っている。国香を上総から常陸に移したのはこのため、とも言われる。この良文は他の伯父とはことなり将門の味方であった。

野本合戦
京より戻った将門は相馬御厨の下司として、また、北総の地の開拓をおこない国土経営につとめるが、争いが突然やってくる。荘園拡張を計画する源護の息子が将門を待ち伏せ。殺すつもりななく、単に脅しのためだけであった、とも言われるが、結果的に将門の反撃により源護の息子3人戦死。源護を助けた国香も傷がもとでなくなる。これが先にメモした「野本合戦」である。場所は明野町赤浜である。国香の館は明野町東石田。赤浜の直ぐ近くにあり、源護は息子貞盛の義理の親でもあり、国香自身も源護の後をつぎ常陸大掾となっていたり、といった関係もあり、援軍に出向いたのであろう。
平良正(扶らの姉・妹婿)が将門への復讐戦をはじめる。が、力不足のため良兼に助け求める。戦は将門有利。下野国分寺(栃木県下野市;小金井駅の近く)まで良兼を追い詰める。最後は見逃す。ここからが一族が相い争う「天慶の乱」のはじまりとなる。

天慶の乱
源護が将門に非ありと、京に訴える。が、非は己にあり、ということで将門は無罪。帰国となる。途中、近江・甲賀での貞盛の待ち伏せの噂。争いをさけるため、海路をとる。京都より大阪に下り、海路紀州灘より伊勢湾にはいり、名古屋に上陸。そのあとは、中山道が危険ということで、東海道に沿って、道なき道を進むことに。当時宿などもなく、まして食べ物なども自給自足しかない、艱難辛苦であった、よう。

青梅の将門伝説
東海道を東に進み、富士山麓をとおり、大月に。その後、佐野峠をへて青梅渓谷にはいる。青梅では二俣尾の海禅寺にはいった、との伝説がある。それから、秩父にでるか青梅にでるかということだが、当時青梅には国府の大目(だいさかん)にあたるものが派遣されており、土着し、大目(おおめ)という名で里正(さとおさ)をつとめていた。この大目氏は将門を快く受け入れた。ために、青梅に入る。高峯寺を宿所とした、と。
高峯寺に留まり、下総か武蔵の状況を偵察。武蔵の郡司・武蔵武芝が将門に敵対しないこと、そしてその人となりを知り、武蔵を無事通れることを確信。後年、この武蔵武芝が窮地に陥ったとき、頼まれもしないのに調停に赴いたのは、このときの恩義、か。また、有名な青梅伝説ができたのも、このとき。大目氏の邸宅に梅の老木。将門、この梅の枝を杖とし、金剛寺に。寺の境内に枝をさし曰く「梅 樹となり、東風を得て花を咲かせよ、わが運命もかくのごとく開けん」。開花結実するも、霜雪の候にいたって、なお実青く枝に残る。 以降、大目氏は青梅と名を改めた、と。

子飼渡
ともあれ、京都から4カ月をかけて故郷にもどる。故郷に戻った将門は忠平の訓戒を守り、自重。それに乗じた良兼が仕掛けたのが、上でメモした「子飼渡」からはじまる闘い。武力放棄していた、といった将門であるが、妻子を殺戮され、しかも財宝すべて奪い取られ、怒りの報復戦をおこなうことになる。良兼が羽鳥に来ているのを知り、攻撃。略奪の限りをつくす。が、良兼をとらえることなく引き揚げる。将門が朝廷に告訴状。良兼追討の官符。次いで、良兼から将門への告訴状。将門追討の官符。朝廷の無定見このうえなし。
羽鳥を破壊尽くされた良兼の報復戦がはじまる。当時の将門の本拠地は鎌輪の地。鎌輪は羽鳥にあまりに近く、危険ということで、猿島の石井(岩井)に移る。岩井への良兼の夜襲計画。未然にこれを防ぎ、良兼負け戦。この戦を機に良兼は闘争心を失い、翌年にはこの世を去る。
貞盛、将門謀反を唱える。朝廷にその旨訴えるべく、京に向かう。その貞盛を追って千曲川まで駒を進めたのもこのころ。将門謀反を唱えるものがもうひとり現れる。武蔵介・源経基である。このきっかけは武蔵国・郡司との紛争。武蔵権守興世王、介である源経基と武蔵郡司・武蔵武芝との紛争。頼まれもしないのに将門が調停を買って出る。将門・興世王・武芝の交渉。調停不調と勘違いした武芝の軍勢が源経基を包囲。経基、京都に逃げ帰り、「興世王、将門謀反」と虚言を呈す。おめおめ逃げ帰った己の保身のため、といわれている。

常陸国府石岡の攻撃
こういった、将門謀反の噂の中で起きたのが、常陸国府石岡の攻撃。将門の生涯での一大転機となる。それまでは一族間の、いわば内輪揉めであったものから、国府という国の機関、その関係者との戦いになった、ということ。
常陸国府石岡の攻撃にいたる経緯はこういうこと。常陸介・藤原維幾は国香の妹婿。その息子・為憲が将門の領土を得んものとして、伯父の平貞盛と共謀。国司である父の力を利用し、国の兵器・軍備を使って将門戦の準備をしたわけである。
この報に接した将門は先手を打って国府を攻撃した。自衛手段として、といっても国府の攻撃。叛乱とみなされても仕方なし。で、将門の結論は、「一国をとるも誅せられ八国をとるも誅せられる。誅は一なり。如かず八国をとらんには」、ということで下野(栃木)、上野(群馬)、武蔵(埼玉・東京)、相模(神奈川)の国府を攻撃。国司を追放。「新皇」を称する。
京都にショック。天位を覆す企てと。全国に檄をとばし、大規模な征討軍の派遣決。が、征討軍が到着する前に、貞盛と藤原秀郷の連合軍のため、石井(岩井)で戦死。この間の経緯は上にメモしたとおり。

岩井営所
なんとなく平将門、およびその騒乱についてわかってきた。散歩を続ける。国王神社を離れ、岩井営所に。国王神社のすぐ近く。ショートカットで畑の畦道を進む。直ぐに島広山の岩井営所跡に。「昭和のはじめまでは老杉亭々として空にそびえ、けやきの大木と友に水天宮の祠をおおい、清水を湧出して、一ひろの清水をたたえていた」、と『将門地誌』に書いてあったが、現在は民家の庭先といったところ。実際、見過ごして歩いてしまった、ほどである。ここが将門の政治・経済・軍事の中心地であった、といわれても、現在は、のんびりとした田園風景が広がるのみ、であった。

延命寺
島広山の台地を下り、道なりに進み延命寺に。ここは、国王神社の別当寺。将門の守り本尊であった薬師如来をまつり、別名、「島の薬師」とも呼ばれる。寺の由来書によれば、石井営所の鬼門除けとして設立。貞盛・秀郷により石井営所一帯が焼かれたとき、薬師如来は移し隠され、世が落ち着いてから現在の低湿地に移された、と。カシミール3Dでつくった地形図をみると、なるほど、江川によって開析された谷戸が深く切り込まれている。昔は、東に菅生沼、西に鵠戸沼、南は小さな沼が点在した低湿地であったのであろう。。
散歩の距離の割りに予想通り、メモに結構手間取った。これで将門巡りは終了。次の目的地、関宿へと向かう。

水曜日, 5月 09, 2007

古河散歩;古河公方ゆかりの地を歩く

古河を歩く
平将門のゆかりの地を訪ねることになった。会社の同僚のお誘い。坂東市の岩井に「国王神社」がある、という。いかにも「新皇」を称した将門に相応しい名前の神社。実際のところ、平将門にそれほど興味・関心があるわけではないのだが、持ち前の好奇心のなせる業、男3名での道行き、となる。
ところで、坂東市って一体何処だ?聞きなれない地名。チェックする。平成の市町村合併で誕生した。岩井市と猿島町が平成17年に一緒になった、と。場所は茨城。利根川を挟んで千葉県・野田市と境を接する。予想に反して、結構近くにあった。
今回は車を使ったカー&ウォーク。せっかく機動力があるのだから、坂東市の近辺でどこか見どころは、と地図をチェック。東北道・久喜インターから東へ利根川へと目をやる。坂東市を探す。久喜市、幸手市をへて、江戸川と利根川の分岐点。そこから利根川沿いに南に下ると坂東市があった。あれ?途中の江戸川・利根川分岐点にあるのは「関宿」。そしてその少し上に「古河」がある。
関宿は、利根川の東遷事業、つまりは、古来江戸湾に流れ込んでいた利根川を、銚子へと瀬替えする際の分岐点として登場する地。前々から行ってみたかったところ。古河はいうまでもなく、古河公方の館があった地。なぜこの地に古河公方が館を構えたのか、この地でなければならなかったのか、気になっていた。
思いがけなく、前々から気になっていた場所が、突然「登場」した。であれば、ということで, コースは古河市・古河公方館跡からはじめ、坂東市岩井の将門ゆかりの地を巡り、締めは千葉県野田市関宿の江戸川・利根川分岐点へ、という段取りとした。
将門をきっかけにはじまった今回の散歩というかツアーではあるが、平安中期の将門だけでなく、室町期の古河公方、そして江戸期の利根川瀬替えの地・関宿と、時空を巡り楽しむ1日となった。メモは結構手ごわそう。(水曜日, 5月 09, 2007のブログを修正)


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本日のルート;古河市>古河歴史博物館>高見泉石記念館>利根川>古河総合公園>古河公方別邸>・・・>境歴史民俗資料館>逆井城址公園>岩井・国王神社>岩井営所跡>関宿城

久喜インター
久喜インターを降り、利根川に架かる利根川橋に進む。今回はカーNAVIの誘導であるため、経路はよくわからず。渋滞を避けてガイドしてくれる。正確には帯電話のカーEZ助手席ナビ。話は後先逆になるが、黒目川・落合川散歩のとき携帯のNAVIウォークの有料サービスを使い始めたとメモしたが、それはこのときの携帯カーNAVI・助手席ナビのあまりのパフォーマンスのよさに感激したため。音声ガイドで車でもちゃんとガイドしてくれる。であれば、歩きなど問題もなかろう、と使い始めたわけである。

国道4号線
国道4号線を進む。この国道、東京の日本橋から青森まで続く。陸上距離が最も長い、とか。743.2キロもある。大雑把に言って、昔の日光街道・奥州街道(江戸から白河)、仙台道(白川から仙台)、松前道(仙台から函館)を進む、という。


古河歴史博物館
国道4号線を古河駅前近くで西に折れ、最初の目的地・古河歴史博物館に。あれこれ資料を手に入れる。この博物館の敷地は古河城の一郭。12世紀頃は下河辺氏の居城。江戸期は小笠原・松平・小笠原・奥平・永井そして、土井・堀田・松平と続く。中世・15世紀の頃は、古河公方の居城。本来の目的である古河公方のメモをはじめる前に、下河辺氏と土井氏のことをちょっとまとめておく。

下河辺氏
12世紀のころの文書には下河辺の名前がしばしば登場する。下河辺荘という地名も登場する。この下河辺荘って、八乗院御領の寄進系荘園。北は古河・渡良瀬遊水地あたりから、南は葛西、東は下総台地・江戸川から西は元荒川あたりまで含む広大なもの。下河辺氏ってこの荘園の荘司から興った氏族であろう。治承4年(1180年)、以仁王の平家追討の令旨を受け源頼政が挙兵。下河辺は頼政に従軍。が、平家軍に敗れる。で、自害した頼政の首をこの地まで持ち帰り、菩提をとむらった、と。記念館の北西に頼政神社がある。何故かと思っていたのだが、こういう所以かと納得。

土井氏
最初の大老・利勝から前後150年あまり、この地を領する。利勝は家康の子であった、とも。開幕時の重鎮。その他に有名な人物は15代・利位(としつら)。雪の殿様と呼ばれる。雪の結晶を観察し日本で最初の雪の科学書『雪華図説』を著す。大阪城代のとき、大塩平八郎の乱を鎮定。その功を認められ京都所司代、老中、老中首座に。

古河城
古河城のあれこれについて、ちょっとまとめておく。館内に古河城の模型。また歴史館で手に入れた資料によれば、古河公方がこの地に入城したころは、城というより「御陣」といった程度のものだった、よう。その後改修が続けられ、御座所から「古河城」へとなってゆく。小笠原氏、松平氏、奥平氏、永井氏と城郭の改修と城下の整備にあたった、と。古河城の天守に相当する御三階櫓が完成したのは、土井利勝が城主となった翌年、寛永11年(1634)のこと。博物館のあたりは、諏訪曲輪と呼ばれる出城。渡良瀬川堤防のあたりにあった本丸を中心とする城との間には「した掘り」と呼ばれる大きな堀が描かれている。諏訪曲輪と本丸・丸の内は「御成道」と呼ばれる土手で繋がる。将軍が日光東照宮におまいりするときに通る道、であるとか。本丸も二の丸も丸の内も周囲すべてが掘で囲まれた「水城」である。

古河公方
はてさて、露払いは終わり、本命である古河公方のメモに進む。古河に来た最大の理由は、何ゆえ、古河公方がこの地に館を構えたのか、を知りたかったから。先日、伊豆・韮山で偶然掘越公方の館跡に出会い、あれこれ調べ、韮山・掘越の地に館を構えたのか、なんとなくわかった。同様に、古河を歩くことをきっかけに、「古河」でなければならなかった所以を把握しようと思う。
上杉禅秀の乱
「古河」の地であるべき所以の前に、そもそもの古河公方について、ちょっとまとめておく。はじまりは鎌倉公方・足利持氏。管領である上杉家と対立。クーデター(上杉禅秀の乱)により駿河に追放されるも、最後は幕府の助力でクーデター勢力を鎮圧。その後、5代将軍義量の死。持氏は将軍になれるとおもっていた。が、管領畠山満隆らの策謀によりその願い叶わず。結局、義教が還俗し6代将軍に。


永享の乱
鎌倉府・持氏と幕府との対立が激化。関東管領・上杉憲実が融和に努めるも、挫折。憲実は故郷・上野国に退く。持氏は追討軍派遣。それに対抗し、将軍・義教は持氏追討軍派遣決定。1438年、幕府軍が鎌倉攻撃。上杉憲実が幕府側につき、持氏敗れる。持氏は出家し助命を願うが、義教それを許さず。持氏自害。これを「永享の乱」、という。

結城合戦
持氏の3人の遺児は鎌倉を逃れる。次男・三男のふたりは日光、四男の永寿王丸(後の成氏)は信濃に。流浪の身となった持氏の遺児に対し、結城城の結城氏朝が救いの手。室町幕府に対し結城城にて挙兵。これが「結城合戦」。南原幹夫さんの『天下の旗に叛いて:新潮文庫』に詳しい。主君の遺児を擁し、「義」によって挙兵した氏朝に対し、利根川以東の豪族が集結。この結城合戦って、簡単に言えば、管領上杉家と東関東の豪族の対決と読み解けばいい、かも。
この動きに対し将軍義教は追討軍派遣。十万の大軍が結城に結集。結城軍1万。1年の攻防の末結城城は落城。持氏の遺児次男・三男のふたりは京への護送の途中、美濃・垂井で義教の命で殺される。四男の永寿王丸(後の成氏)は沙汰を待つ。その間に義教が赤松満祐に暗殺される(嘉吉の変)。永寿王丸は混乱に乗じ助かる。
この永寿王丸が後の古河公方・成氏。文安4年(1447年)、越後守護上杉房定の斡旋で永寿王丸を奉じて鎌倉幕府復興。鎌倉公方・足利成氏、となる。しかし関東管領・上杉憲忠と対立。親同士の宿敵の因縁が子の代まで、といった図式。成氏が憲忠邸を襲撃し殺害。「享徳の大乱」が勃発。成氏勢は府中・高安寺に陣。

古河公方
いつだったか高安寺にでかけたことがある。藤原秀郷の開基で館であった、とか。秀郷って平将門を討ち取った人物。俵藤太って、我々の世代では「むかで退治」で有名なわけだけど、そんなこと知っている人も少なくなっているよう。ともあれ、高安寺に陣を張った成氏であるが、分倍河原の合戦で勝利するなど緒戦は有利に展開。が、駿河守護今川範忠の鎌倉制圧を受け、康正元年(1455年)、古河に本拠を移す。これが古河公方。最初に住んだのが古河城の南にある「鴻巣の御所」。2年後、下河辺氏の居館であった、古河城を改修し、ここを本拠とする。

掘越公方
長禄2年(1458年)、幕府は足利政知を鎌倉公方に。とはいうものの、鎌倉に入ることも叶わず伊豆の韮山・掘越に館。掘越公方、と呼ばれる。このあたりの経緯は伊豆韮山散歩のときにメモしたとおり。文明14年(1483年)、幕府と成氏の和議成立。「都鄙合体」と「呼ばれる。掘越公方が北条早雲に滅せられるまでふたりの公方が存在することになる。
古河公方のその後。成氏の子孫が古河公方を世襲。16世紀前半、家督争い。足利義明が子弓公方として分裂。天文15年(1546年)、足利晴氏が川越の戦い(日本三大夜戦)で北条氏康に破れ、実質的に古河公方が滅ぶ。

古河公方がなんたるか、についてのメモ終了。ついで、本題の何ゆえに「古河」かについて。偶然のことではあるが、高円寺の古本屋で『日本人はどのように国土をつくったか;学芸出版社』という本を手に入れていた。その中に「古河公方の天と地、あるいは乱の地文学」という箇所がある。以前読んではいたのだが、如何せん土地勘とか問題意識が希薄であり、まったく頭に入っていなかった。が、今回実際に歩き、その気になって読むと、なんとなくポイントがつかめた。以下そのメモである。
古河の地に館を構えた理由:第一にこのあたり、下河辺荘を中心とした現在の利根川以東の地が成氏の御料地であった、ということ。また、その御料地とも関係あるかもしれないが、利根川以西が管領・上杉の領地であったのに対し、御料地のある利根川・渡良瀬川、太日川以東の関東北部、あるいは東部の上総・下総・下野の豪族は鎌倉公方・持氏の遺児にシンパシーを寄せていた。宇都宮氏・小山氏・結城氏・野田氏・簗田(やなだ)氏・千葉氏などである。勿論、力を増した管領上杉に対し、快く思わず、足利家嫡流という盟主を擁し失地回復を図ろうといたことも否めない。ともあれ、古河を含む一帯は、成氏にとって友軍の中の「安全地帯」であった、ということ。
では、その安全地帯の中で、何故「古河」であったか、ということだが、それは、この古河の地が舟運・陸運の交通の要衝であった、ということ。常陸川(ひたち)水系(現在の利根川水系)、渡良瀬川から古利根川水系(大雑把に言って、現在の江戸川)といった水系が入り乱れ、つながり、迷路状に絡み合う、一種の「運河地帯」であったのだろう。現在からはなかなか想像できないが、往古の舟運というのは商品流通の手段としては重要であったようで、各川筋には数多くの河岸がある。利根川水系では高崎に近い倉賀野など江戸時代、物流の一大集散地であった、とか。実際、関宿合戦に勝利し、梁田氏から関宿(現在の江戸川と利根川の分岐点)の支配権を奪い取った北条氏照など「一国にも値する」と大喜びしたほどである。津料、ひらたくいえば通行料も結構なものであったのだろう。関宿合戦については、後ほどメモする。
船運の要の地であった古河は、陸路の要衝・クロスロードでもあった。舟運は便利ではある。が、大軍の移動といった大規模物流・機動性には少々難がある。それを補うのは陸路。その点からしても、古河は幸手、元栗橋をへて古河に通じる奥州本道とも呼ばれる鎌倉街道、東山道武蔵路の途中から北東へ分岐し、鷲宮をへて渡良瀬川を越え古河に至る奥州便路といった鎌倉を結ぶ当時の幹線道路が交差していた。

鷹見泉石記念館
さてさて、やっと散歩に出かける。歴史博物館を離れ、道を隔てて南隣に鷹見泉石記念館。鷹見泉石って、渡辺崋山の描く国宝「鷹見泉石像」が有名(東京国立博物館所蔵)。土井利位の家老として活躍。幕府中枢の要人を補佐する立場であった泉石の残した膨大な日記は、当時の重要事件を記録してあり、その高い資料性ゆえに、国の重要文化財に指定されている。
「ダン・ヘンドリック・ダップル」という西洋の名前をしばしば用い、洋学界にも貢献した。韮山代官、江川太郎左衛門とも親交あったようである。韮山散歩のイチゴ狩りが思い出される。この記念館は水戸天狗党の乱に巻き込まれ、幕府にくだった水戸藩士100名を収容したところでもある。

長谷寺
泉石記念館を離れ、渡良瀬川の堤に向かう。西に向かう道は昔の御成道、か。往古、左右は水をたたえるお濠であったのであろう。道の南には長谷寺。日本三大長谷のひとつ、とされる。鎌倉から勧請されたもの。これまた鎌倉の長谷寺から名越の切通しへの散歩が懐かしい。
ともあれ、歴史館で手に入れた資料では、濠の端に見える。これは江戸になってからのことであろう。中世のころは、お城も整備されていなく、入り江の対岸に鬼門除けとして鎮座されていた、とか。

渡良瀬川の堤防
成行きで進み、渡良瀬川の堤防に。すぐ北には渡良瀬川遊水地が広がる。現在の土木・治水技術をもってしても、こういった調整池・遊水地が必要な「あばれ川」であったとすれば、昔はこのあたり一帯は幾多の細流が入り乱れる、大湿地帯が広がっていたのであろう。
遊水池の南には利根川が流れる。が、これは江戸の利根川の東遷事業で掘削された水路。「新川通り」などと呼ばれていたよう。昔は栗橋あたりを源流とする常陸(ひたち)川が銚子に向かって流れていたのであるが、利根川の東遷以前には江戸湾へと流れこんでいた渡良瀬川も、時として常陸川へ流れ込んでいた、と。この遊水池の規模を見るにつけ、大いに納得。

古河城址

渡良瀬川の堤防を歩く。ひょっこり、「古河城址」の案内。昔の本丸のあったあたり、とか。渡良瀬川の河川改修で取り壊されたのであろう。それにしても、結構大きな構え。南北1800m、東西550mにも及んだ、と。資料を見ると、本丸あたりに頼政神社が。現在は歴史博物館の北西にある。この神社も河川改修工事のときに移されたものであろう。

古河総合公園・古河公方館跡
新三国橋まで下り、東に折れ古河総合公園に。郷土物産展といったイベントで人が集まっていた。なにがうれしかった、といって、秩父で買った「田舎饅頭」がここでも手にはいったこと。祖母の味を堪能する。
公園を南に進む。池、というか、沼にかかる橋を渡り、池に挟まれた下状台地の雑木林の中に。ここに古河公方館跡がある。足利成氏が古河に移り、最初に館を構えたところ。鴻巣御所と呼ばれた。ちょっとした堀切や虎口付近には土塁らしきものも残る。義氏と氏女の墓所があった。義氏って、秀吉の頃の古河公方。氏女って、義氏の息女。秀吉により、子弓公方・足利義明の孫に嫁ぎ、下野・喜連川に。あれこれの有為転変の末、この地でなくなった、と。

古河の地形
カシミール3Dでつくった地形図で古河城、古河公方館跡を取り巻く地形をチェック。さきほどの『日本人はどのように国土をつくったか;学芸出版社』を参考にする。歩いているときにはそれほど地形のうねりを感じることはできなかったのだが、あらためて地形図をみると、古河城・館の地は下総台地の西端・猿島台地と呼ばれる低い台地上にある。
この台地は東西、そして南を川・湿地で囲まれている。西は渡良瀬川。東は昔、大山沼と呼ばれる沼地があった。明治に干拓され現在は向掘川と呼ばれる細流が残すだけである。が、昔はこの川は渡良瀬川上流にあたる思川の派川であり、水量豊かな流れであった、とか。ちなみに、鴻巣御所を取り巻く、御所沼であるが、これは向掘川の豊かな地下水流というか伏流水が台地下をくぐり、この御所沼の谷戸の奥に湧き出たものではないか、と言われている。
この向掘川、昔は大山沼に入り、その先、栗橋のちょっと東あたりで利根川に流れ込んでいた。利根川といっても、江戸期に東遷事業で開削された「赤堀川」と呼ばれた流れではある。
で、開削以前はどうか、というと、このあたりは、南に進み江戸湾に流れる渡良瀬川水系と、栗橋あたりを源流点とし、東へと進む常陸川(ひたちがわ)を隔てる、曖昧なる「分水嶺」といったところ、と『日本人はどのように国土をつくったか』では指摘する。つまりは、大山沼の水も渡良瀬川水系に流れることもあれば、逆に渡良瀬川の水が常陸川に流れこむこともあったのでは、と。猿島台地の両端は、流れの向きの不安定で滞りやすい湿地を成していたため、古河は西・東・南の三方を水に囲まれた要害の地であった、という。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

『日本人はどのように国土をつくったか』の記述を続ける。「渡良瀬川を望む、この猿島台地の西縁に、流れと平行して深く北方へ切れ込む谷戸がある。それと行き違うように低い台地が南に向かって細長く突き出していた。立崎と呼ばれるその岬の先端に古河公方は城を構えた。いわゆる水城である。そこから少し南に、やや太い谷戸が東に向かって、台地へ切れ込んでいる。八つ手の葉のように分かれたその先端は、台地の分水嶺の近くまで貫入して、反対側の向掘川から延びた伏流水が音を立てて湧き出していた。八つ手になったその谷戸状の沼に三方を囲まれた舌状台地が突出している。
疎林に覆われたその眺めの良い場所に、公方の居館・鴻巣御所があった。沼はいまでも御所沼と呼ばれている。古河公方の居城と館はこうした湿地の迷路の奥にあった」、と。つまりは、古河の地は、猿島台地という水に囲まれた要害の地であった、ということだ。
なぜ、古河なのか、という疑問も、地政学的、および地形学的に自分なりに納得。散歩の距離の割りにメモに時間をとられた。が、長年の疑問も解消し、次の目的地に、心も軽く向かうことにする。

金曜日, 4月 20, 2007

落合川散歩;清流・落合川を黒目川の合流点まで歩く

黒目川を歩いていたとき東久留米市が朝霞市に接するあたりで川が合流。これが落合川。この川も水量も豊かな美しい川であった。あれこれ調べてみると、湧水でまかなわれている川である、とか。いくつかの湧水点をもち、自然豊かな流れが楽しめそう、ということで落合川の源流を巡って歩くことに。
今回からは強力な散歩ツールが登場。携帯電話にあるNAVIウォークって機能。行きたいところに音声でガイドしてくれる。いままで1年以上、NAVIウォークの無料メニューで ある「GPS・現在地確認」だけを使っていたのだが、今回、月額315円の有料メニューを申し込む。テストもかねて、大体のルートを決め、目的地を事前に登録。その地に向かって音声ガイドに従って歩くことに。登録地は「北原公園」「白山公園」「多門寺」「向山緑地」「竹林公園入口」。前回歩けなかった黒目川の支流や湧水点を確認し、落合川の源流に向かう、という段取り、とした。

本日のルート;西武多摩湖線・萩山駅>西武拝島線・池袋線平走箇所>小平霊園東口>霊園内・さいかち窪>小平霊園北口>柳窪緑地地域・天神社>天神橋>北原公園>東久留米十小学校>新山通り>にいやま親水公園>新所沢街道・西団地前>新所沢街道>白山公園>新所沢街道>氷川神社>都大橋>西妻川・黒目川合流点>所沢街道>新小金井街道>前沢交差点>小金井街道>八幡町・落合川との交差点>落合川筋>氷川神社>南沢緑地保全公園>向山緑地公園・立野川源流点>氷川神社>落合川筋>毘沙門橋>多門寺>立野川・笠松橋>自由学園>西武新宿線交差>立野川筋>落合橋>黒目川との合流>西武池袋線・東久留米駅

西武多摩湖線萩山駅

自宅を離れ、京王井の頭線で吉祥寺。JRに乗り換え中央線で国分寺。西武多摩湖線に乗り換え萩山駅に。萩山駅から小平霊園。携帯には事前に登録はしていなかったので、携帯での地図上で目的地を霊園入口あたりに決め音声ガイドスタート。西武新宿線と西武拝島線が分岐するあたりを越え、霊園入口に。特に問題もなく目的地に案内してくれた。

小平霊園「さいかち窪」

小 平霊園に来たのは、通り道ということもあるが、霊園内にある黒目川の源流点「さいかち窪」をもう一度見ておこう、と思った次第。霊園内を歩き、北口近くの雑木林の中に分け入る。前回歩いた、いかにも川床といった窪みを歩く。先回見落とした、排水溝をチェック。相変わらず水はなかった。


霊園・北口を離れ、新青梅街道に。黒目川の川筋を確認。相変わらずごく僅かな水が流れている、だけ。排水といった程度のもの。北に進み再度、天神社に。湧水点を再度チェックするも、これまた、これといって水が滾々と湧き出ている、といった印象なし。森の中の道を天神橋のところまで下る。ここでNAVIスタート。「北原公園」にNAVIしてもらう。

北原公園

北原公園は黒目川に水を注ぐ湧水点と言われる。柳窪5-6辺り。公園というものの、調整池といったつくり。が、水はまったくなし。水路はほとんど暗渠となっているよう。どこで黒目川に合流しているのか確認すること叶わず。もっとも、天神橋から久留米西団地あたりまでは川筋を歩くことができないので、どうしたところで合流点は確認できない、かと。

白山公園
北原 公園から次の目的地・白山公園に向かう。NAVIのガイドに従って道を進む。下里3丁目あたりを進み、公園に。結構大きな公園。公園というか、これも調整池といった雰囲気。このあたり調整池が目に付く。湧水点を探す。公園は南北ふたつの公園に別れている。湧水点は北側の公園の端の湿地からごく僅か湧き出していた。これが黒目川の支流・西妻川の源流点。

公園を離れ新所沢街道から流れをチェック。僅かな流れが見える。川筋を歩くことはできそうにない。新小金井街道を北に。西妻川が交差する。先に進み所沢街道との交差点。所沢街道を東に折れ進む。ふたたび西妻川が交差。川は北に流れ、都大橋の下流で黒目川と合流する。


西妻川筋から離れ、落合川に向かう。所沢街道を東に進み前沢交差点で小金井街道と交差。交差点を北に折れる。しばらくすすむと川筋と交差。これが落合川。それほど水量か多くない。湧水点は、小金井街道の西、八幡町2丁目。最初、地図でチェックした時には、白山公園の直ぐ近くでもあり、白山公園が落合川の源流かとも思っていたのだが、どうもそうではないよう。住宅地の草むらに僅かに水が湧きでている、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

氷川神社の森
落合川の川筋に沿って東に折れる。しばらくは川筋を歩けたり、あるけなかったり。河川工事が行われている。旧川筋と新川筋が分かれたところもある。「湧水公園」といった場所もあった。



氷川神社
更に下ると氷川神社の森が見えてくる。そのあたりは、自然の流れを活かした河川整備がおこなわれている、よう。コンクリートの護岸がないだけで、結構心和む。氷川神社におまいり。「南沢緑地保全地域」に鎮座し、境内の東西を落合川の本流と支流に囲まれた高台にある。近くから土器なども出土するということだから、古くから人が住みついていた場所で、あろう。




緑地の中に湧水点
神社鳥居の先に川筋。これが落合川の支流。南沢浄水場あたりから流れ出る湧水である。極めて美しい。水量も多く、いかにも美しい水。川に沿った緑地の中に「東京名湧水」の案内。緑地の中に道があり湧水点まで続いている。ごく僅かな湧水が見られた。中に入ることはできなかったが、南沢浄水場あたりで湧き出る水は1日1万トン、と案内に書いてあった。いかにも湧水の里、といった場所である。





何ゆえ、この落合川あたりに湧水が多いのか、ということであるが、地下水を貯める砂礫層(武蔵野砂礫層)の上端が落合川に沿うようにあり、かつまた、黒目川とか落合川の南に分布する粘土層が落合川流域には、ない。つまりは、地表から浸透した地下水は粘土層を避け、落合川流域の砂礫層に十分に溜まり、その水が湧き出ている、ということ、らしい。
xそのためか、湧水は湧水点ばかりではなく、川床からも湧き出ている、と。その比率は半々、ということ、らしい。ちなみに南沢浄水場では地下300mの水源からポンプで汲み上げている、とか。

向山緑地公園

次の目的地は向山緑地公園。氷川神社の南。台地になっており、ぐるっと迂回して台地の南から回りこむ。野趣豊かな公園。自然のまま、といった雰囲気。
川筋を探すと、崖下に流れが見える。台地を下り、川筋に。ほとんど道なき道。極々僅か水が湧き出る場所を確認。
下るにつれ、小川っぽくなってゆく。これが落合川の支流・立野川。住宅街を崖線に沿って下り、自由学園の内をとおり、西武池袋線を越え、新落合橋のあたりで落合川に合流する。

多門寺
向山緑地公園を離れ、氷川神社のところに戻る。落合川にかかる毘沙門橋の袂に多門寺。鎌倉時代に開山。江戸時代につくられた山門が美しい。それにしても、多門寺という名前のお寺って、結構雰囲気のいいお寺が多い。中でも墨田区5丁目の多門寺が最も、いい。





竹林公園
落合川筋を「竹林公園」に向かって歩く。川筋の崖上に続く竹林を越えたあたりを南に下る。この崖線沿いの竹林は目的の公園ではなかった。道を進み、「竹林公園入口」を東に入る。ここも落合川の湧水地のひとつ。この竹林は新東京百景に選ばれている。公園内で湧水点は確認できず。台地を下る。北からの小さい水路を確認。水路に沿って歩く。西武池袋線の手前で黒目川と合流。

立野川を落合川との合流点まで歩く

さて、本日の予定終了としようか、とは思いながらも、どうせのことなら、先ほど向山緑地公園から流れる立野川を落合川との合流点まで歩いてみよう、ということに。NAVIで向山緑地公園の東、川筋が地図に確認できるところをチェックし、音声ガイドに従って歩く。

自由学園
川筋がはじまるところは住宅街の真ん中。先ほど確認した湧水点から台地下を流れてきているのだろう。川筋に沿って下る、とはいうものの、川筋に道はない。川筋をつかず離れず進む。まっこと、崖下に沿って流れている。たわむれに、台地上に廻ってみたが、直ぐに下りることもできず、といった按配でもあった。なんとか坂道を見つけ下る。
川筋は自由学園の敷地内に入る。学園脇を進むと西武池袋線。袋小路。NAVIで線路を越えて現れる川筋をチェックし、道を探してもらう。これは結構便利。

西武池袋線・東久留米
西武池袋線を越え、再び川筋近くまで。相変わらず川筋は歩けない。しばらく歩くと浅間神社。ちょっとおまいり。川筋はここで西に向かい、新落合橋の直ぐ下で落合川に合流する。あとは、落合川と黒目川の合流点まで進み、本日の予定終了。西武池袋線・東久留米に向かい、家路を急ぐ。

木曜日, 4月 19, 2007

黒目川散歩 Ⅱ;黒目川を新河岸川へと下る

黒目川散歩の2回目。前回は、思わぬ展開で出水川から黒目川源流点へと歩くことになった。今回は、出水川と黒目川の合流点から黒目川を下流に向かい、新河岸川との合流点へと向かうことにする。途中、ちょっと野火止用水の走る台地に登り、地形のうねりを少々実感したい、とも思う。



本日のルート:平成橋付近(出水川と黒目川の合流)>黒目川>東京コカコーラ・ボトリング多摩工場>上落馬橋・小金井街道>中橋>曲橋>大円寺>子の神社>小山台遺跡公園>小山緑地保全地域>野火止用水>西武池袋線>氷川台緑地保全地域>黒目川筋>厳島神社>門前大橋>浄牧院>門前大橋>黒目川筋>平和橋>神山大橋>宝泉寺>昭和橋>黒目橋>落合川との合流>栗原橋>貝沼橋>馬喰橋>川筋を離れ36号・保谷志木線>新座市歴史民俗史料館>産業道路交差>関越自動車道交差>黒目川筋に戻る・大橋>市場坂通り>市場坂橋>山川橋>陸上自衛隊朝霞演習場の台地下>川越街道と交差・新座大橋>川越街道>朝霞警察署前交差点>幸町3丁目>朝霞中央公園入口>青葉台公園脇>朝霞市役所前交差点>東武東上線・朝霞駅


西武・多摩湖線の荻山駅
西武・多摩湖線の荻山駅。例によって、出発時間が遅く、到着は1時過ぎ。合流点までの時間をセーブするためバスを探す。が、それらしき路線は、なし。ということで、合流点近くの「都大橋」までタクシーに。都大橋から少し下り、新小金井街道との交差手前の合流点に。ここから本日の散歩スタート。

平成橋下に「黒目川雨水幹線」の合流部
平成橋の下に開口部。先回の散歩でメモした「黒目川雨水幹線」の合流部、とか。川と野火止台地の間には下里本邑遺跡公園がある。結構大きな公園。旧石器から奈良・平安までの遺跡が残る。降馬橋を越えると川の東側に東京コカコーラ・ボトリングの多摩工場。ここからも浄化処理された水が排水される。黒目川の水源のひとつ、と言ってもいい、か。

大円寺
小金井街道に架かる上落馬橋を越える。中橋、曲橋を越えると大円寺。落ち着いた、いいお寺さま。馬頭観世音塔で知られる。道標も兼ねており、板橋・八王子・四谷・川越へとそれぞれ5里の距離にあるので、「ゴリゴリ馬頭」とも呼ばれる。

子ノ神社
大円寺を離れ、小山台遺跡公園に向かう。途中に「子ノ神社」。小山1丁目。黒目川の河岸段丘崖といったところ。以前、目黒区の立会川を散歩していたとき、碑文谷八幡近くの高木神社(第六天)で「子の神」に出合った。「子の神」と呼ばれた付近の集落の守護神であった、とか。その名前故、なんとなく気になりながらも、そのままにしておいたのだが、ここで再び出合ってしまった。

神社前に「子ノ神社略記」:「小山村の鎮守。文禄元年(1592)8月、領主矢部藤九郎により本地仏は地蔵の勧請と伝えられ(中略)神社名はもと「根神明神」と称したが、後世にいたり十二支の子(ね)を用い「子ノ神社」と変更された。子は大黒天の神使いであり、縁日を甲子祭として子の日を選ぶなどの故事から習合されたものと思われる。祀神大国主命は出雲大社の祭神と同一神にして国土開発の神であると共に、縁結び・子孫繁栄・五穀豊穣の神とされている。(中略)創立者矢部氏は相模三浦氏の子孫で、小田原北条氏に仕えていたが、徳川時代の始め、三百石を賜り小山村の地頭となった」、と。


略記をきっかけに、あれこれ調べてみる。子の神、って、もともとは、「根ノ上社・根上明神・根之神社」、などと呼ばれていた、と。祭祀圏は南関東から東海にかけて集中的に分布。川崎というか昔の相模には4箇所ある、という。武蔵野線・矢部駅の近くにもある、とか。これって小田原・北条期の矢部氏の所領、との説も。矢部駅の近くには現在も小山という地名もあり、氏神さまも地名も一緒にこの地にもってきたのだろう、か。

もともと「根の神」など呼ばれていた「子の神」であるが、神社の由来・縁起も「根」に関連したものが目に付く。海上に突き出た大岩の「根」の部分に舟が乗り上げており、その中に神さんがいた、とか、やんごとなき君が放った矢の「根」をおまつりした、といったものだ。が、なんとなく、本当になんとなくだが、この「根」って「根の国」、黄泉の国のことではないだろうか、と想像する、というか、してみた。理由は単純。子の神社の祭神が大己貴(オオナムチ)命=大国主命であるから、だ。

神話に、「オオナムチ命はスサノオ命(須佐之男命)のいる地下界(根之堅州国)に逃れ、将来の妻となるスサノオ命(須佐之男命)の娘・スセリ姫(須勢理毘売)と出会う。夫婦となるために、スサノオ命から与えられた四つの試練を乗り越え、スセリ姫とともに「根の国」からの脱出を図る。スサノオ命も最後にふたりを祝福しはオオナムチ命を「大国主命」と命名する」、とある。スサノオ命曰く;「その汝が持てる生太刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟は坂の御尾に追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて、おれ大国主神となり、また宇津都志国主神となりて、その我が女須世理毘売を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天原に氷椽たかしりて居れ。この奴。」、と。この神話から、根の神「根」って、根の国=根之堅州国、の「根」と関係あるのではない、かと、想像。神社の縁起にでてくる、岩とか矢なども、上にメモしたスサノオ命の台詞に散りばめられている。と考える。


少し横道に。諏訪大社の御柱祭の話である。「御柱道」沿いに「子之神」という地があり、そこに御旅「寝神社」がある。御柱を曳き下ろすときに、ここで「寝る」ために「寝神社」と呼ばれる、と。これもオオナムチ命の神話に、四つの試練のうち、初めての夜は蛇のいる室(ムロ)に「寝かされ」、次の夜にはムカデと蜂がいる室に「寝かされる」、といったエピソードと大いに関係があるのでは、と想像。諏訪神社の祭神・タケミナカタ命(建御方命)は、大国主命の第二子であるので、まんざらでもない解釈では、と思い込む、ことに。
根の国は「黄泉の国」=死者の国、ではある。が、同時に、オオナムチ命が大国主命に成長する、再生のプロセス、でもあろう。ということは、五穀豊穣と結びつく。また、根の神が子の神となった由来は「子は大黒天の神使いであり、縁日を甲子祭として子の日を選ぶなどの故事から習合されたもの」という。この神社略記からもあきらかなように、大国主命=大黒様、との関連から神仏習合の時に「根>子」となったのであろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

想像の拡がりついでに、もう少し寄り道。大己貴(オオナムチ)命=大国主命、ということは、出雲系。武蔵の地はもともと出雲族の支配地、であった。出雲から信州を経て、武蔵の地に進んできたのだろう。古事記の上巻の大国主命の国譲りの条に、諏訪神社の由来が書かれている:「コトシロヌシの子のタケミナカタ神は国譲りに反対し、タケミカズチ神と力比べして破れ、科野国(しなの)の州羽海(すわの)に逃れて殺されようとしたところを命乞いして、「此処以外他所に出ず、また父の大国主の命に背かないことを約束して許された」、と。
こうして武蔵に入った出雲族の痕跡は南関東=荒川以西に多く分布する氷川神社の存在によっても明らか。氷川神社が出雲の「簸川(ひのかわ)」からきているし、武蔵一ノ宮が大宮にある氷川神社である、ということからも、武蔵における出雲族の力の程が偲ばれる。
子の神も南関東が祭祀圏である。また、祭神は大己貴(オオナムチ)命=大国主命。ということは、子の神=根の神は、大和朝廷の「尖兵」として物部氏が国造として武蔵支配する以前にこの地に住んでいた出雲系の氏族が信仰していた神さまであった、のだろう。と、あれこれ、自我流の解釈で空想・想像・を楽しむ。真偽の程定かならねども、自分としては十分に納得。このあたりで矛を収めて先に進む。

小山台遺跡公園
野火止用水が走る尾根道へと坂を登る。途中に小山台遺跡公園。縄文時代中期の住居跡が発掘されている。東南に傾斜した斜面にあるこの高台からは東久留米市を望むことができる。斜面下には黒目川が流れ、縄文の人々にとっても、暮らしやすい場所であった、ことだろう。

尾根道に「野火止用水」が流れる
公園を離れ「小山森の広場」を抜け尾根道へ。水道道路に沿って「野火止用水」が流れる。この水路を平林寺まで歩いたのは昨年の初冬であったろう、か。


と ころで、「野火止」って野焼き、というか焼畑の火を止める塚のようなものを指すのだろう。伊勢物語に「武蔵野は今日はな焼きそわか草のつまもこもれり我もこもれり」って歌がある。武蔵野には焼畑の伝統が昔からあったのだろう。草茫の地といわれる武蔵野だが、これは、夏まえに林の木々を伐採し、秋には西北からの風を利用し一帯を焼き尽くし、そのあとを畑とし、数年し地味が衰えると一旦お休みし草地とし、牧草にあてる。この繰り返しのなせる業であったのかもしれない。

氷川台緑地公園
西武池袋線を越えると、直ぐに台地を下りる。途中に、氷川台緑地公園・成美森の広場。東京都には43の緑地保全地域がある。そのうち東久留米には7箇所。先回歩いた柳窪もそうだが、この小山台緑地公園もそのひとつ。思わず足を踏み入れたくなる、美しい雑木林である。フェンスで囲まれているようでもあり、行き止まりになるか、などと少々気になりながらも、林の中を歩く魅力に抗えず先に進む。うまく台地下に下る 通路があり、緑地を抜ける。台地中腹の氷川神社におまいりし、台地を下り黒目川に戻る。門前大橋に

浄牧院
このあたり、門前大橋とか大門とか、由緒あるお寺がありそうな地名。地図をチェックすると近くに浄牧院というお寺さま。たぶんこのお寺さま故であろう、と門前大橋を渡り、大門1丁目にある浄牧院に。曹洞宗の立派なお寺様。
文安元年(1444年)、大石顕重によって創建、堂宇は最近になって建てかえられたように見える。お寺の前を浄牧院通りが走るが、これは1997年に都市計画によって浄牧院の敷地を分断してできたもの。ということは、堂宇の再建はその補償費でなされているもので、あろうか。つくりは安っぽくない。立派に造り直されている、よう。ここには南沢の領主・旗本の神谷家九代の墓所がある。

大石顕重
大石顕重が気になった。ひょっとして、あの大石一族?チェックする。八王子の滝山城を築いた大石定重などといった、あの大石氏の一統、であった。大石氏は木曽義仲の後裔と称し、戦国時代に武蔵で活躍した氏族。信濃国大石郷(佐久地方)に居を構え「大石氏」と。後に功あって足利氏より入間・多摩(八王子から秋川、村山、東久留米)に領地を拝領。あきるの市二ノ宮に居を構える。大石顕重は本拠を二宮から高月城に移した人物、である。

ちょっと脱線。高月城は秋川と玉川の合流点・加住丘陵にある。まだ行ったことがない。前々から気にはなっている。尾根続きといった滝山城には足を踏み入れた。とはいっても、到着したのが冬の午後6時過ぎ。あたりは真っ暗。ヘッドランプを頭につけ、城山に登った。枯れ葉の騒ぐ音に、身震いしたものである。もう1年以上前のこと。近々、昼間の滝山城から高月城へ行ってみよう、と思う(追記;その後、高月城も滝山城にも訪れた)。

厳島神社
浄牧院を離れ、門前大橋・黒目川筋に戻る。厳島神社。全国に500ほどある、という。田舎の愛媛には境内社も含めると300ほどある、とか。祭神は宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)。「いつくしま」は市杵島姫命=イツキシマヒメ、からきているのだろう。「イツキシマヒメ」は水の神という。
数日前京都に出張に出かけた。週末、京都御所に寄ったとき、京都御苑に厳島神社が鎮座していた。また、脱線。祇園女御が三女神に加えて祭神となっていた。これは、安芸の厳島神社を祟敬していた平清盛が母・祇園女御を合祀したもの。もともと神戸にあったものが、この地・九条家の邸宅に移した、と。直ぐ近くに、宗像神社もありました。

宝泉寺
厳島神社の近くの台地には「金山森の広場」。ここも東京都の緑地保全地域。先に進み、平和橋、神山大橋へ。台地中腹に宝泉寺。東久留米の七福神ひとつ。弁才天がまつられている。東久留米の七福神はそのほか、米津寺の布袋尊、多門寺の毘沙門天、大圓寺の恵比寿・福禄寿・寿老人、浄牧院の大黒天、となっている。

落合川との合流点
神山大橋に戻り、先に進む。昭和橋を越えると、落合川との合流点。美しい流れである。この川の源流へも歩いてみたい。
合流点の三角地には下谷ポンプ場、そして東久留米スポーツセンター。これらの施設の下は調整池となっていた。黒目川雨水幹線といい、白山公園の調整池といい、北原公園の調整池といい、そしてこの調整池といい水防対策が盛んになされている。豊かな湧水地帯も大雨時には、洪水地帯であったのだろう。

新座市歴史民俗資料館

落合川との合流点を離れ神宝大橋に。このあたりから埼玉県。護岸のスタイルも東京都とは心持ち異なっている。栗原橋、貝沼橋、馬喰橋と進む。馬喰橋からは川筋を離れ、片山にある新座市の歴史民俗資料館に。しばし展示資料を眺め、先に進む。

妙音沢
しばらく歩くと関越道と交差。道は関越道・新座料金所のすぐ下あたりを進む。しばらくすすみ、大橋で黒目川と再会。再び川筋を進む。市場坂通り。台地に登る市場坂橋の手前で南から川が合流している。妙音沢と呼ばれる、とか。新座高校近く、ふたつの水源から豊富な湧水が湧き出ている、と。

川越街道・新座大橋
山川橋を越え、東の台地に陸上自衛隊朝霞駐屯地・演習場。先にすすむと川越街道・新座大橋に。日もとっぷり暮れてきた。新河岸川合流点にはいけそうもない。方針変更し、川越街道を東武東上線・朝霞駅に向かうことに。

東武東上線・朝霞駅に
以前、白子の宿から平林寺へと下った坂道を上る。膝折公団前、朝霞警察署前と進み、第四小前で川越街道を離れ、北に折れる。幸町3丁目を越え、朝霞西高、青葉台公園に沿って歩く。このあたりはキャンプドレーク跡地。米国の第一騎兵師団が駐留した基地。朝鮮戦争、ベトナム戦争に出動した部隊でもある。本町1丁目で東に折れる。朝霞市役所前をとおり、東武東上線・朝霞駅に。本日の予定終了。

火曜日, 4月 17, 2007

黒目川散歩 Ⅰ;出水川から黒目川に

新河岸川を歩いた時のことである。黒目川との合流点で行き止まりとなり、結構辛い思いをしたことがある。そのとき以来、その黒目川が気になっていた。いつか源流点から新河岸川との合流点まで歩こうと思っていた。また、ひさしぶりに、何も考えないで、ぶらぶら歩きたい、とも感じていた。
最近の散歩は「歌枕巡り」、というか、名所旧跡・神社仏閣巡りの趣がちょっと強い、かも。秩父観音霊場にしても、千葉の国府台・真間散歩にしても、時空散歩、というか、時=歴史メモが続いている。本来は、気楽に、行き当たりばったりで歩くのが好きなわけである。で、「そうだ、黒目川を気ままに歩こう」ということに。



本日のルート;西武多摩湖線・萩山駅>多摩湖自転車道>萩山町>西部新宿線交差>水道道路>新青梅街道>小平霊園西端>出水川>恩多町>公園橋(東村山運動公園下)>下里地区・ごみ処理施設・リサイクルセンター>新所沢街道>東久留米卸売市場>所沢街道>黒目川合流・新小金井街道>都大橋>新宮前通り>氷川神社>新宮前通り>西団地前交差点>にいやま親水公園>柳窪野球広場(東久留米十小学校の東)>柳窪緑地遊歩道>天神橋>天神社・長福寺>新青梅街道>西武多摩湖線・萩山駅


西武・多摩湖線萩山駅
黒目川の源流点は小平霊園内の「さいかち窪」とか。中央線で国分寺駅。西武・多摩湖線に乗り換え、萩山駅に。
駅前に「多摩湖自転車道路」が走る。何度かメモしたように、多摩湖近くの村山浄水場から武蔵境近くの境浄水場まで、一直線に続くサイクリングロード。自転車道路を過ごし、萩山地区を成行きで進む。西武新宿線を越えると野火止用水にあたる。
昨年野火止用水を歩いた。歩いているときはわからなかったのだが、用水の流路は台地の尾根道といったところを走っていた。カシミール3Dで地形図をつくってはじめてわかった。黒目川はその台地の下、崖線の下を流れている。今回は台地上を流れる野火止用水、そして崖線を形づくる台地を「意識」しながら、黒目川散歩を楽しもうと、気持ちも弾む。新青梅街道を西に、小平霊園に向かう。

武蔵野線

ちょっと脱線。地図をチェックしていると、野火止用水と西武新宿線が交差するあたり、「武蔵野線」のルートが描かれている。地上にはなにもないわけであるので、これって地下のトンネルを走っている、ってこと。
路線を辿ると、新小平駅で一瞬地上に顔を出し、またすぐ地下に潜る。そういえば、多摩の稲城を散歩しているとき、トンネルの入口に出会い、出口を探すと川崎・宮前区の梶ヶ谷操車場まで続いていた。これも武蔵野線の一部。武蔵野南線とか、武蔵野貨物線と呼ばれる。土・休日の臨時列車以外は貨物専用線となっている、とか。
武蔵野線ができるきかっけは、1967年の新宿駅での山手貨物線・列車転覆炎上事件。その列車が米軍の燃料輸送列車であったため、そんな危険な貨物が都心部を走るのは好ましくない、ということで都心を遠く離れたこの郊外に路線計画がなされた、と。本来であれば貨物専用でいいわけであるが、住民の理解を得るために旅客営業もおこなわれることに、した。住宅開発が進むベッドタウンに貨物だけでは具合が悪かったのだろう、というまことしやかな説も。
とは言うものの、この武蔵野線が最初に計画されたのは1927年というし、戦中の中断を経て1964年頃には工事がはじまったようではあるので、こういった話は「都市伝説」のひとつ、かも。

武蔵野線は横浜市鶴見駅から千葉県西船橋駅までが路線区間である。が、定期での旅客営業を行っているのは府中本町から西船橋方面だけ。武蔵野線に「寄り道」したのは、この路線開設が湘南新宿ラインとか埼京線のサービス開始に繋がっている、から。これらの路線は昔の山手貨物線を使っているわけで、埼京線や湘南新宿ラインを多用する我が身としては武蔵野線に「感謝」というわけである。寄り道が長くなった。散歩に戻る。

小平霊園の西端
小平霊園の西端に。新青梅街道から北にコンクリート護岸の川筋が現れる。これが黒目川?源流点は小平霊園内の「さいかち窪」ということであるので、霊園西端に沿って南に進む。塀というかフェンスに遮られ中には入れない、それらしき場所を眺めるが、それらしき水源などなにもなし。新青梅街道下からの突然の水が湧き出るはずもない。どこから水が流れてきているのか??小平霊園に沿った道が、いかにも川筋といった雰囲気。暗渠下というか道路下に川筋が続いている、とは思うのだが確認するすべもなし。ということで、源流探しをあきらめ、川筋を北に進むことにする。

出水川


この川筋、実のところ黒目川ではなかった。それがわかったのは、ずっと下って、本物の黒目川に合流する地点でのこと。この川は「出水川」であった。ともあれ、川筋に沿って恩田町を下る。典型的な都市型河川といった雰囲気。昔は生活排水などで河川汚染が結構大変であったように思える。
公園橋を交差すると西に東村山公園。リサイクルセンターを越えると新所沢街道。東久留米卸売市場の脇を進む。下里地区の新宮橋のあたりではコンクリート蓋水路。所沢街道の手前はコンクリート蓋に覆われた遊歩道となっている。下里団地のあたりもコンクリート蓋水路が続く。先に進み本村小学校を超えると水量豊かな川筋と合流。水草も美しく生い茂り、川筋の両側に遊歩道が整備されている。これが黒目川、であった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

黒目川の水源に向かう

少々迷った。このまま先に進むか否か。段取り優先であれば、そのまま先に、ということではあるが、黒目川の美しく・豊かな水量が、如何せん、気になった。水源がどのようなものか見たい、と思った。また、なによりも、豊かな水量が気になった。源流点はすぐ近くの小平霊園。深山幽谷でもあるまいし、これほどの水量が湧水だけから生まれているとは思えない。どこかの水処理センターで高度処理された下水が流されているのでは、などと、「豊かな水量」の原因を確かめたい、と思った。で、合流点から黒目川を源流点に向かい遡ることに、した。

こういった、気楽な散歩がいい。段取りも何もなく、成行きで歩くのがいい。道に迷えば、迷ったなりに 進めばいい。興味が向けば、それに向かってきままに進めばいい。国木田独歩の『武蔵野』の一節を思い出す:「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへ行けば必ず其処に見るべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩くことに由って始めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼,夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思 いつき次第に右し左すれば随所に吾等を満足さするものがある」
「同じ路を引きかえして帰るは愚である。迷った処が今の武蔵野に過ぎない。まさかに行暮れて困ることもあるまい。帰りもやはり凡そその方角をきめて、別な路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうる事がある。日は富士の背に落ちんとして未だ全く落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染まって、見るがうちに様々の形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖のような雪が次第に遠く北に 走て、終は暗澹たる雲のうちに没してしまう」。(国木田独歩『武蔵野』)。

都大橋で 西妻川が合流
合流点から新小金井街道に沿って流れる黒目川の川筋を上流に向かう。遊歩道が整備されて多くの人達が散歩を楽しんでいる。新宮前通りと交差する「都大橋」のあたりで別の川筋が合流。これは白山公園から流れてくる支流・西妻川。白山公園は滝山団地の水害防止のための調整池の役割も果たしている、とか。

氷川神社
都大橋を越えると遊歩道はなくなる。一時川筋から離れ新宮前通りを進む。少し歩くと氷川神社。新宮前通りの南を流れてきた黒目川は神社前で新宮前通りと交差し、神社の台地の下をぐるっと迂回する。
自然豊かな小川の雰囲気。台地下を少し川筋に沿って歩いたが直ぐに行き止まり。畠の中を新所沢街道まで続く。川筋から離れ、新宮前通りに戻り新所沢街道まで進む。

久留米西団地
新所沢街道を越えると久留米西団地。ここからしばらく川筋を歩ける。川の両側に芝生が植えられ、親水公園として整備されている。河川敷が広いのは増水時対策のための調整地も兼ねているのだろう。
この地域は大雨時の浸水常襲域であった、とか。ために、都市型水害に強い公共下水道雨水幹線の整備を行った。黒目川・出水川雨水幹線と呼ばれる。堤防の下を5キロ以上管が通っており、降雨時に一定以上増水した雨水は、この管を流れ、下流部平成橋のあたりで黒目川に合流することになる。これにより1時間当たり50mmの降雨に対しての安全が確保されることになった、とか。この親水公園は、この工事に際し、地表部分をコンクリート造りの護岸ではなく自然岸としてつくられたもの。
久留米西団地を越えると遊歩道が消える。川筋を歩くこともできない。水量もぐっと減っている。ということは、親水公園でなんらか人工的に水を「補給」しているのであろう。「豊かな水量」の源のひとつは、ひょっとしてこの辺り、かも。

再び川筋から離れて歩く。川から離れないように意識しながら先に進む。川は東久留米第十小学校をぐるりと迂回するように流れる。黒目川には柳窪5丁目にある 北原公園の湧水が、このあたりに流れ込んでいる、とか。とはいうものの、水量が増えているわけでもないので、それほどの湧水、というわけでもないのだろう。川筋を歩けないので合流点はわからない。


柳窪緑地
道は小学校の東を南に下る。柳窪野球場のあたりを西に折れ、川筋に出会う。このあたりから森・柳窪緑地自然公園がはじまる。深い森の中に散歩道が整備されている。とても東京とは思えないような自然が残る。

天神社
森の小道を進み天神橋に。橋のあたりから天神社への参道が続く。森の小道を進む。このあたりになると水量は極めて少なくなっている。ちょっとさびしい小川といった趣き。天神社前に湧水点がある。東京名湧水57に選ばれた、とか。とはいうものの、どこから湧き出しているのかもよくわからない、ほど。黒目川の貴重な水源と言われるとすれば、目には定かに見えねども、川底から湧き出ているのだろうか。

天神社にお参り。梅ノ木の脇に、「柳窪梅林の碑」。;西面に「柳窪里梅林之記」:、東面に「菅公(菅原道真)の碑」。「柳窪里梅林之記」は安政4年(1857年)、大国魂神社の宮司・猿渡盛章が書いたもの。久留米の地名が「来梅」とか「来目」とかかれている。東側には「ちとせとて まつはかぎりのあるものを はらだにあらば はるはみてまし」という菅原道真の歌が書かれている」、と。久留米の地名は「黒目川」に由来する、とされる。が、そもそも、黒目川の由来が何か分からないとことにはどうもしっくりこない。「来梅」ってなんとなく納得感が高いようには、思うが(追記;その後、この天神さまを数回訪れた。工事の最中であり、野趣豊かな雰囲気が少々損 なわれていたように見えた。さて、現在はどうなっているのだろう)。

新青梅街道脇
天神社から新青梅街道脇までは川筋は歩けない。川筋のとおる竹林を眺めながら川筋の西を平行に進み新青梅街道に。黒目川が新青梅街道に当たるあたりを確認。ほとんど
水はない。ということは、天神社あたりの湧水は黒目川の水源としては重要っていうこと、か。

小平霊園内の「さいかち窪」
小平霊園内に入る。なんとなく川筋っぽい地形を探す。雑木林が霊園入口近くに残っている。雑木林に向かう。木の生えていない窪んだ川床があった。ここが川筋だろう。水はないのだが、なんとなく、土が「ふわふわ」している、よう。適当に歩く。結局「さいかち窪」、ってところは確定できなかったが、なんとなくこの辺りであろう、というだけで十分に満足。

黒目川の水源は?
黒目川を一応源流まで辿る。あれほど豊かな水量の源はいまひとつわからない。なんとなく久留米西団地あたりの親水公園で供給される水が「源流」のひとつ、か。それから、あれこれチェックすると、天神橋の下流あたりで山崎製パン武蔵野工場からの浄水処理されたきれいな水が黒目川を潤している、とか。川筋は歩けないので、実際の合流点は見たわけではないのだが、天神社のあたり極めのて少ない水量が、氷川神社のあたりではそれなりの水量になっているわけで、ということは、その間でなんらかの給水がなされたわけで、湧水でもなければ、人工的に造水するしかないであろう。ということで、黒目川の源流は親水公園からの水と、パン工場からの水?どちらにしても、人工造水、と自分としては十分に納得。本日の散歩を終える。

月曜日, 4月 09, 2007

千葉 小金の牧散歩 ; 「小金の牧」と「小金城跡」を辿る

「小金の牧」と「小金城跡」を辿る
いつだったか、週末の午後、1時頃からフリーとなった。はてさて、何処へ。とはいうものの、それほど時間もない。気にはなりながら、行きそびれているところにヒットエンドランで駆け抜けよう、と。
それでは、と思いついたのは「小金の牧」と「小金城跡」。先日、松戸から市川に歩いたときにちょっと気になっていた。 小金の牧は下総台地に広がる野馬の放牧地。小金城は下総屈指の中世城郭跡とか。当時の姿など今に留めるわけなどない、とは思いながらも、なんとなく気になる以上、とっとと行くべし、といった心持ちであった。


本日のルート:常磐線・南柏駅>野馬除土手>常磐線・北小金駅>根木内歴史公園>富士川の氾濫原>本土寺>大谷口歴史公園・小金城址

常磐線・南柏駅

常磐線・南柏で下車。水戸街道を越えたあたりに「野馬土手」がある。「小金の牧」を歩こう、とはいうものの、柏や松戸といった都市に放牧場が残っているわけでもないだろう。牧の名残としては実際のところ、なにがあるのだろう、と思っていた。偶然のことながら、先回散歩のとき、松戸の駅で手に入れた観光パンフレットに、南柏の「野馬土手」が案内されていた。野馬土手は野馬除土手とも呼ばれる。野馬が牧の外に出て、人家や田畠を荒らさないようにと、つくられたもの。牧の名残りの一端でも感じることができれば、と南柏にやって来た。
「小金の牧」のことを知ったのは件(くだんの)の書・『江戸近郊ウォーク』。「小金の牧道くさ 下総国分寺」散歩随想の箇所があった。大江戸の散歩の達人・村尾嘉陵が、わざわざ訪ねきた「小金の牧」ってどんなところなのか気になっていた。文化14年(1817)の早朝に屋敷を出て小金牧を訪ねた、とある。 「松戸渡し、向ひにわたれば松戸宿、人家四五百戸...」 と、江戸川の松戸の渡しより松戸宿へ。さらに、馬橋村(まばしむら・松戸市)などを経て向小金村(むこうこがねむら・流山市)の小金牧に歩いてきたわけだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

『江戸近郊ウォーク』より小金牧の箇所をちょっとまとめる;「牧が7つある。水戸街道の北を上の牧。ヘイビ(蛇?)沢原、高田台(柏市高田辺り)、大田原。水戸街道の南を下の牧。日ぐらし山(松戸市日暮:白子についで多く馬100頭ほど)、五助原(船橋の台地)、平塚(印旛郡白井町)、白子(松戸の宿の東にあたり;500頭ぐらいの馬がいる)。西は船橋、中山、国府台、松戸、馬橋辺りの山を境にする。東南は下総佐倉の手前辺りを境として馬を放しているのだろう。上の牧は下の牧に比べてやや小さいと思われるが、確かなことはわからない。(中略)野馬は宵から暁にかけては、街道近くまで来て、人に馴れているような仕種を見せるが、昼間は人の近くには来ない。下の牧の中には、東北の果てに木立の茂っている山が見えるが、昼はその山に集まっている。この辺りには狼もいないので、馬が食われる心配はない。下の牧には追い込みの枡が3箇所。毎年11月15日過ぎに、江戸から吉川摂津守が来て、馬狩りをおこなう。牧師は全員ここに滞在し、毎日牧を見廻って損馬を改め、頭数を調べて台帳に記す。上・下合わせて1500、1600頭程度馬がいる。牧の入口に木戸がある。土居を築いて土に竹を植えて、里の牧との境としている。木戸に入ると小金の牧。」、と。南柏のこの野馬土手って柏市豊四季。千葉県流山市松ヶ丘との境界でもあるので、だいたいこのあたりを訪ねてきたのではなかろう、か。

野馬除土手

駅から北西に向かって進む。水戸街道の北に緑地が見える。そこが豊四季緑地。駅から500m程度だろう、か。なんとなくそのあたりだろう、と成行きで進む。緑地公園といった雰囲気。緑地の北端に掘・土塁といった「構え」が北に向かって続いている。何処にも案内板もなく、これが野馬土手だろうか、と思い悩みながらも土塁に沿って歩いていく。
土塁の北には住宅街が続いている。比高二重土塁。牧側が小土手、外側が大土手。堀底からの比高は大土手で3m、小土手で2m程度。小土手は馬の脚を痛めないようにと、少々なだらかにつくられている。こういった土手は柏市内に10箇所程度残っている、とか。
北にしばらく進むと土塁が終わる。その先にも小川に沿って土塁のような土手が続くのだが、野馬土手かどうかよくわからない。一応、野馬土手の雰囲気を感じることができたので、気持ち豊かに駅に戻る。ともあれ、豊四季緑地に残るこの野馬土手は規模・保存状態でもっともいい状態のものである、という。

野田市立図書館・電子資料室のHPなどを参考に小金牧についてのまとめておく;小金牧とは下総台地上、現在の野田市から千葉市にかけて点在していた放牧場の総称。もともとは、周辺の村から逃亡した馬などが原野で育ち、自然発生的につくられた牧場といったもの。平安時代にはすでに5つほど牧があった、とか。 徳川幕府は、馬牧の経営や馬の育成に力を入れ2つの牧をつくった。「佐倉牧」とそしてこの「小金牧」。江戸初期、小金牧には7牧あった。庄内牧(野田市。新田開発のため消滅)、高田台牧(柏市)、上野牧(柏市)、中野牧(松戸市・鎌ヶ谷市)、一本椚牧(享保8年に中野牧に吸収)、下野牧(船橋市)、印西牧(白井市)。今日歩いた牧は、上野牧だろう。柏にはそのほか十余二に高田台牧があった。市の5分の1は小金牧であった、とも言われる。

牧では、幕府の役人・牧士(もくし)が管理し、時期がくれば捕込(とっこみ)に野馬を追い込んで捕らえ、良馬は軍馬に、それほどでもない馬は近郊農民達にも売り払ったりしていた、と。とはいうものの、馬は野で育てて、野で捕まえる、といったもので、計画的に馬の飼育が行われていたわけでなかったようだ。 牧の中には村が点在。そのため、野馬は村や畑に侵入して耕作物などを荒らした。 各村々は、村境に野馬除土手をつくり被害を防ごうとしたわけだが、完全に防ぎきれず被害に大変苦しんだ、という。野田市中里の愛宕神社には「野馬除感恩塔」があるという。それは、農民に被害を与えていた野馬の里入防止に尽力した岩本石見守に感謝した村人が、その善政をたたえ記念碑をつくったほど、わけである。 村々の被害は馬だけではなかったようだ。野に繁殖する鹿や鳥獣による被害も多大なものとなった。ために年貢が減るといった状況にもなり、その対策として鷹狩が行われている。八代将軍吉宗を始めとして、3人の将軍が4回にわたって鹿狩りをおこなっている。

牧は徳川幕府の終結と共に廃止される。その後、新田開発を目的として、牧野が開拓されることになる。これは、新政府の最初の事業とも言われる。江戸というか東京に集まった旧武士8000人をこの地に移し、入植・開墾に従事させることにする。社会不安の根を摘む施策でもあった、よう、である。明治2年のこと。結局この事業は失敗に終わったようだが、そのときできた13の開墾集落の名前は今に残っている。今回歩いた豊四季もそのひとつ、である。
13の開拓地区名;1番目 初富(はつとみ)(鎌ヶ谷市)-小金牧内・中野牧>2番目 二(ふた)和(わ)(船橋市)-小金牧内・下野牧>3番目 三咲(みさき)(船橋市)-小金牧内・下野牧>4番目 豊(とよ)四季(しき)(柏市)-小金牧内・上野牧>5番目 五(ご)香(こう)(松戸市)-小金牧内・中野牧>6番目 六(むつ)実(み)(松戸市)-小金牧内・中野牧>7番目 七(なな)栄(え)(富里市)-佐倉牧内・内野牧>8番目 八街(やちまた)(八街市)-佐倉牧内・柳沢牧>9番目 九(く)美上(みあげ)(佐原市)-佐倉牧内・油田牧>10番目 十倉(とくら)(富里市)-佐倉牧内・高野牧>11番目 十余一(とよいち)(白井市)-小金牧内・印西牧>12番目 十余二(とよふた)(柏市)-小金牧内・高田台牧>13番目 十余三(とよみ)(成田市)-佐倉牧内・矢作牧(野田市市立図書館の資料より)

牧といえば、先日会社の同僚と平将門の営所のあった、石井に出かけた。現在の坂東市である。で、この際と、将門の資料をいくつか読んだのだけど、その中に、牧の話がしばしば登場した。相馬御厨だったか、どこかの御厨で馬、それも半島渡来の馬を飼育し、実績を上げていた、とか。実績の話はともかく、その資料の中で、馬の放牧の話があった。はっきりとは覚えていないが、馬は自由に放っていた。それは、沼地や台地で遮られ、馬が逃げることができなかった、と。現在の開発された下総台地からは、いかにしても想像するのは難しい。そのうちに、昔の姿を想像しながら下総の台地を巡ってみよう、と思う。

常磐線・北小金駅
野馬土手より南柏駅に戻り常磐線・北小金駅に戻る。郊外の小さな駅舎といった風情を創造していた。が、予想とは大きく異なり、駅前には大きなショッピングセンターが建てられている。 東漸寺 駅を南に下る。しばらく進むと東漸寺。江戸初期には広大な境内・多くの堂宇を抱える大寺院。末寺35を数えたとか。関東18壇林のひとつ、壇林とは僧侶の学校のこと、である。
このあたりは昔の小金の宿。江戸時代、江戸と水戸を結ぶ重要な街道が水戸道中として整備された。小金は松戸~我孫子間の宿場町として繁栄。東漸寺を中心に、上宿、中宿、下宿、横宿がつくられ、本陣・脇本陣・問屋場 をはじめ、旅籠(はたご)が設けられていた。

『江戸近郊ウォーク』にも、このあたり・お寺さんのことが描かれている。「曲がりくねった道を行くと、小金の宿(水戸街道の宿、松戸市小金)である。人家300戸ほどの宿で、松戸に比べると家のたたずまいからしてやや貧しそうに思える。宿の入口が二ツ木村(松戸市)で、その先が上総内村(松戸市小金清志町辺り)である。西側に黒観音福昌寺道があり、宿の中ほど西側に仙法山一乗院(東漸寺)という寺がある。関東18壇林のひとつである。寺中にみるべきほどのものはない」、と。みるべきほどのものはない、とはいうものの、現在でも結構長い参道がつづく、堂々とした構えのお寺さんである。

根木内歴史公園
東漸寺を離れ、根木内歴史公園に進む。お寺から東に進み水戸街道にあたる。公園は水戸街道に沿った台地にある。この公園は中世の城郭跡。寛正3年(1462年)、高城胤吉の築城と言われる。天文6年(1537年)に大谷口城(小金城)に移るまでこの城を居城とした。空掘、土塁、土橋が残る。
高城氏は千葉氏の重臣・原氏の寄騎として軍事力を誇っていた。その所領は流山から船橋に至る広大なもの。太日川、船橋そして市川真間といった舟運の要衝を押さえていた。また、中山法華寺、真間弘法寺、平賀本土寺といった大寺をその支配下におき、その覇をとなえた、と。千葉宗家にとっても高城氏は重要な存在であり、千葉介昌胤は妹を高城胤吉の妻としている。
小田原北条氏の下総攻略時には、原氏とともに北条氏の他国衆(直接支配)として活躍。国府台合戦のときは、北条方として戦っている。天正18年(1590年)の秀吉による小田原征伐に際しては小田原城に入城し秀吉と戦う。小田原開城とともに、居城・大谷口の小金城を開城し下野。江戸時代は700石の旗本、御書院番士そして小普請として続くことになる、と。
高城胤吉は千葉宗家・千葉介昌胤の妹を妻とした、とメモした。あれ?高城胤吉は16世紀前半期の人物??どういうこと?千葉宗家は康正元(1455)年、というから15世紀の中頃には、小弓城主・原胤房や馬加城主・馬加康胤の攻撃により既に滅んでいる。で、その後、馬加康胤が千葉宗家を継いだ、というか、詐称(?)したわけである。ということは、高城胤吉の妻の実家・千葉宗家って、「本家」滅亡後のいわゆる後期千葉氏であろう。

あとひとつ?が。国府台合戦では小弓公方足利義明・上総武田氏・里見氏と、古河公方・北条氏・千葉氏・原氏らの勢力が戦った、とメモした。小弓公方って、小弓城を居城としたから、そう呼ばれるのだが、小弓城って原氏の居城では?また、千葉氏って原氏に滅ぼされたのでは?調べてみた。
永正十四(1517)年、真里谷城主武田信保は古河公方に対抗するため、足利義明を擁立し原氏の居城・小弓城を攻撃・奪取。足利義明は翌年に小弓城に移り、「小弓公方」と呼ばれることになる、と。つまりは、原氏はこの時期に小弓城を追い出されたわけだ。
国府台合戦でどうして千葉氏・原氏といった「千葉県勢」が小弓公方とか里見勢といった「千葉勢」に寄騎しないで、小田原・北条勢に加勢したか、これで納得。 城を追われた原氏と、千葉宗家とはいうものの、原氏に滅ぼされた本家・千葉氏ではなく、本家・千葉氏を滅ぼした馬加氏が「継いだ」(後期)千葉氏ということ、か。納得。ちなみに、ここに古河公方が登場しているのは、長尾景信によって古河城が陥落し、古河公方・足利成氏は(後期)千葉氏を頼んでこの地に逃れてきた、から。
なお、都内で幾度か出会った武蔵千葉氏、千葉実胤・自胤は、原氏らにより滅ぼされた千葉宗家の遺児。武蔵に逃れていたため、武蔵千葉氏と呼ばれることになった。経緯から見れば、本家筋といえるだろう。

富士川の氾濫原
台地の裾を歩く。東には湿地が公園として保存されている。昔の富士川の氾濫原であったところだろう。木でつくられた通路を歩き、富士川脇に。川に沿って進むと水戸街道と交差。道路下をくぐる通路があり、先に進む。川の西の方角には台地が見える。平賀地区を成行きで進む。北西に走る如何にも参道といった風情の道に。先に進むと本土寺が見える

本土寺
正式には長谷山本土寺。池上長栄山本門寺,鎌倉長興山妙本寺と並ぶ日蓮宗「朗門の三長三本」のひとつ。開創は,鎌倉時代の建治3年(1277),領主曽谷教信が,源氏の名門・平賀左近将監忠晴の屋敷跡に地蔵堂を移して法華堂としたのが始まりと伝えられる。 

中世,この地を支配した千葉氏の信仰を得て大いに栄えた。水戸光圀公が寄進したと伝わる古い杉並木の参道や,朱塗りの仁王門,回廊,五重の塔がある。「あじさい寺」として知られるが、それだけでなく四季折々の花が有名とか。拝観料500円、ってなんだかなあ、と思ってはいたのだが、境内を歩き、花々の手入れを見るにつけ、維持費としても結構なお金がかかりそうである。拝観料も納得。
平賀氏って、源平争乱期、源義家の孫が信濃国佐久平・平賀郷を拠点とし、平賀氏を名乗る。鎌倉初期、平賀義信、源頼朝に従い活躍、鎌倉幕府の重鎮となる。平賀朝雅など、北条時政に推され将軍職をねらったりもする。あと延々と続くが、このくらいにしておく。ともあれ、源氏の流れをくむ一族。讃岐の出身・平賀源内もその流れ、とか。

大谷口歴史公園・小金城址
台地を下り、ちょっと大きな通り・まてばしい通りに。通りの南に緑豊かな台地が迫る。大谷口歴史公園。ここに戦国の時代、下総西部を領有した高城氏の居城があった。南北600m、東西800mという大きな構えをもつ城。下総屈指の城郭であった、と。現在は外曲輪の虎口であった達磨口と金杉口が残るだけ。あとはすべて宅地なっている。台地東端の達磨口から入る。すぐに行き止まりとなる。おおきな土塁が残っている。引き返し、公園入口を探す。台地上にあるお寺の西に公園入口。金杉口の虎口。障子掘や畝掘が。畝掘など、いかにも畠の畝って感じ。粘土質の地ならではのつくり。武者も脚をとられたことであろう。
既にメモした経緯をへて、高城氏が築いた小金城は北条方の西下総の拠点であった。永禄3年(1560年)、長尾景虎こと上杉謙信が関東攻略のため、古河城に進出。ために古河公方の足利義氏はこの小金城に逃れ来る。高城氏は謙信の関東侵攻時は、一時謙信に属したとか、いや、謙信の攻城を篭城戦で乗り切ったとか、ともあれ、謙信が越後に戻ると再び北条氏に属する。永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦では、市河付近で兵糧調達を試みた里見義弘、大田資正を妨害するなど、北条軍の勝利に貢献。その後の経緯は上でメモしたとおり。城跡を離れ、北小金駅に戻り、一路家路を急ぐ。

月曜日, 3月 26, 2007

千葉 市川散歩; 元八幡から大町の谷津に遊ぶ

本八幡の「真間の入り江」から大町の「谷津」を辿る

真間、国府台に惹かれはじまった市川散歩、今回は中山、本八幡、そして、北に進み大町へと歩みを進める。中山はいうまでもなく日蓮宗の大本山・法華経寺、八幡は葛飾八幡、そして「八幡不知」がある、という。「八幡不知」は一度迷い込めば二度と出られない、といった薮であった、とか。大いに惹かれる。で、その先はどういったコースを取るか、とチェック。北の大町には深く入りこんだ谷津があるという。地形フリークとしては、これは外すべからず、ということで、このルートに決定。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


本日のルート:本八幡駅から中山駅に>中山・法華経寺>八幡不知森>葛飾八幡宮>永井荷風終焉の地>真間川>真間川から大柏川に>武蔵野線>駒形大神宮>大町自然観察園

本八幡駅から中山駅に
都営新宿線・本八幡駅に下りる。いつものように、家を出るのが少々遅いため、中山までの行きかえりを歩くと、どうしても時間が足りない。京成線・八幡から京成・中山まで往復し、時間をかせぐことに。京成線に乗り換え京成・中山に向かう。途中の駅の名前が気になった。鬼越え、と。鬼が出没するので「鬼子居」と呼ばれていたのが後世になって、鬼越となった、と。
別の説によれば、地形に由来する、と。「おおきく崩れた崖」を意味する「オークエ」とか、「鬼のようなおおきな者が崩した崖」を意味する「オニクエ」が由来、とか。鬼が居たよりは地形からの由来のほうがしっくりくる、のは言うまでもない。このあたりも昔は少々の台地であったのが、崩落を繰り返し現在の地形になったのであろう。

中山・法華経寺
京成線・中山で下車。こじんまりした駅舎。駅前から続く参道を進み黒門に。法華経寺の総門。山門の朱塗りに対し、黒塗りのため、この名前がついた。江戸時代の中ごろに作られた、と。朱塗りの山門・赤門をとおり境内に。祖師堂、法華堂、五重塔、四足門といった堂々とした堂宇が並ぶ。法華経寺は日蓮上人の遺品が多く残されていることで知られる。

この寺は、日蓮に帰依した若宮の領主・富木(とき)常忍が館内に立てた法華寺と、中山の領主・大田乗明の子・日高がおなじく館内に建てた本妙寺を合体してひとつの寺、としたもの。常忍は日蓮入滅後、出家し「日常」と号し、開山上人となる。祖師堂は特徴的な屋根をもつ大堂。ふたつ並べた比翼入母屋造りが印象的であった。このお堂は、いい。法華経寺の直ぐ傍にある塔頭のひとつ、浄光院に訪れ中山を後にする。

八幡不知森
京成電車に乗り、本八幡に戻る。駅を南に進み、千葉街道・国道14号線に。東に進み市川市役所の手前に「八幡不知森」。「やわたしらずのもり」と呼ばれ、ここに入れば再び出ること叶わず、とか、祟りがある、といわれていた。広辞苑にも「八幡の薮知らず」として「出口のわからないこと」の意味で使われている、とか。とはいうものの、現在では、街道沿いに、こじんまりとした竹薮として残るだけ。
「薮知らず」は「八幡知らず」が転じたのだろう、と言われる。

あれこれ由来はあるが、最も有名なものは、平将門の祟りがあり、この地に入るべからず、という言い伝えを馬鹿げたもの、とこの地に入った光圀公が薮に入ったところ、白髪の老人が現れ、戒めを破ることなかれ、と戒めた、とか。この話が錦絵となり、この地が一躍有名になった。
『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』にも「八わたしらず」の記述がある;「道の南側に、八わたしらずという木立がある。四方に垣根をめぐらして、人が立ち入れないようにしてある。中に少し窪んだ所がある。ここに入った人は必ず死ぬという。時として、瘴気を発することがあるためであろう。上総にもここと同じような所があり、酢を熱く煮立てて、それを藁に沁み込ませ、それを撤き散らしんがら行けば、なんの問題もないという」、と。瘴気とは、本来、熱病などを引き起こすと考えられていた毒を帯びた空気のこと。言い伝えはそれとして、人々は合理的な解釈をしていたようだ。こういった言い伝えができたのは、この地が行徳の入会地であり、そのため八幡の住民はみだりに入ることが許されず、八幡不知として、祟りに話を広めたのであろう。

葛飾八幡宮
「その道の北側に八幡宮がある。宮居を朱に塗り、神さびた雰囲気があって尊い感じがする。社頭の左に古木の銀杏の樹がある。かつてここを詣でた時にはこずえが高く立ち伸びていて、雲にかかるほどであった(中略)。石の鳥居、そして楼門がある。その東に小社がある。その傍らに桜が一本あり、春にはさぞかし華やかであろうと思われる」と『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』に描かれているのが葛飾八幡宮。
寛平年間というから、9世紀末、宇多天皇の勅願によって京都・岩清水八幡宮を勧請したもの。頼朝、道潅、家康など武人の祟敬を受けた。神木である巨樹「千本公孫樹木(せんぼんイチョウ)」は国指定の天然記念物。これて、村尾嘉陵がメモした古木の銀杏のことであろう。「江戸名所図会」には「この樹に小蛇がすみ、毎年8月15日の祭礼のとき数万の小蛇が現れる」と。はてさて。

永井荷風終焉の地
八幡不知を離れ、京成・八幡駅に向かう。駅の北、菅野の地に、永井荷風終焉の地がある、とか。それらしきところを探し回ったが結局見つけることはできなかった。散歩大好き人間としては、散歩エッセーとして有名な『日和下駄』の作者でもあるので、少々残念であった。昭和21年の借家住まいからはじまり、友人宅の間借り、そして昭和34年、買い求めた古屋で独り寂しくなくなるまでこのあたりに住まいした。浅草の歓楽地に「日参」したのも、この地からであろう。また、この菅野の地にはほかに幸田露伴などの文士が居住した、と。

真間川
市川市北部の台地と千葉街道の間は、かつては真間の入り江であったところ。この菅野も、文字とおり、「スゲ」などが一面に密生した湿地帯、だったのだろう。明治末期に、排水が悪く、すぐ氾濫するこの地を耕地に変える事業がおこなわれた。そのため、真間川の流路を改修し、原木から東京湾に流れるようにし、大いに排水が促進されるようになった、とか。
実のところ、真間川の流れに「当惑」していた。地図を見ると、西は江戸川につながり、南は東京湾に繋がっている。堀でもなければ、こんな川、って有り得ない。散歩・散策を好み、この真間川を愛した荷風も同じ思いを抱いたようだ。



数ヶ月前池袋・雑司が谷近く、明治通り沿いの古本屋で見つけた『永井荷風の東京空間;松本哉(河出書房新社)』の中にこうった記述がある;「この流のいづこを過ぎて、いづこに行くものか、その道筋を見きわめたい」とずっと辿っていった、という。そのときの有様を晩年の最高傑作と言われる随筆『葛飾土産』に書いている。「片側(東端)は江戸川に注ぎ、もう一方(南端)は海に注ぐ真間川はいったいとっちに向いて流れているのか、ボクが抱いた興味はそれでした。どちらも水の出口。北の方から流れ込んでくる支流の水を双方に流していることに気づきます。しかし、実際に辿ってみると、予想通り、そんな簡単なものではありませんでした。支流との合流点でもなんでもないところで突如流れの向きを変えているのです。やはり「川は生きもの」。こういう不思議な流れ方を見届けたのがボクの「葛飾土産」でした(『葛飾土産』)」。 荷風も疑問を抱いた、北も南も、どちらも水の出口、っていうのは、改修工事の結果であった。昔は、国分川とか大柏川といった流れを集めて江戸川に流れ込んでいたのだが、排水をよくし洪水を防ぐため、海沿いの砂州を切り開き東京湾に流れる人工の法水路をつくったわけだ。その結果、川の流れが西ではなく東と言うか南というか、ともあれ逆に流れるようになったわけだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

真間川から大柏川に
はてさて、名所・旧跡巡りは終了。あとはのんびりと北の野趣豊かな谷津に向かうことにする。八幡地区を成り行きで北に進み真間川と交差。川に沿って東というか南に進むと大柏川と合流。真間川は南に下る。これが改修工事でつくられた放水路であろう。散歩は大柏川に沿って北に進む。
大柏川は鎌ヶ谷市の二和川、中沢川、根郷川といった支流を集め真間川に合流していた。市川学園を過ぎたあたりに大きな調整池がある。真間川流域では市街化の進行により、洪水被害が頻発したよう。この都市型水害を防ぐため、真間川水系には調整池が目につく。支流のひとつ国分川流域にも調整池があった。国分川の支流といった春木川には地下貯水池もある。
春木川がふたたび国分川の合流するところに春木川排水機構。北に目をやると、春木川と紙敷川が合流した国道464号の北で国分川分水路が西に進み坂川に合わさる。坂川が江戸川と合流するところには柳原排水機構。真間川と江戸川の合流点には根本排水機構。真間川が東京湾に合流するところには真間川排水機構。下総の台地にこれほどの排水施設があるとは想像外。自然に抗って人が住まいするようになった、そのための自然との戦いの結果だろう、か。

武蔵野線

さらに進む。武蔵野線の高架が目にはいるあたりから、西の台地が接近してくる。曾谷・宮久保・下貝塚・大野地区。台地上には曾谷城跡、安国寺、曽谷貝塚などがある。曽谷城は日蓮に帰依し安国寺を開いた、曽谷教信一族の城、と。
宮久保は台地が宅地開発で切り取られ弥生時代の宮久保遺跡は姿を消したが、縄文時代の遺跡とその周囲に貝塚が残っている。武蔵野線と交差するあたりは、東からの台地も迫ってくる。このあたりから樹枝状台地と谷津(戸)が複雑に交差する。


駒形大神宮

武蔵野線を越えると北というか西に迫る台地に大野城跡。平将門が下総西部を制圧するためにつくった出城との言い伝えはある。が、実際は戦国時代のものではないか、とも。台地上には浄光寺、法蓮寺、礼林寺といった日蓮宗、そして曽谷教信ゆかりの寺が集まる。曽谷教信って、日蓮に深く帰依し、富木常忍や大田乗明などとともに日蓮の初期の壇越として熱狂的なる支持者となった曽谷の領主。富木常忍と大田乗明は中山・法華経寺でメモしたとおり。
曽谷教信は、はてさて、どこかで聞いた覚えがあるのだが、どこだったか?そうそう、松戸の名刹・本土寺を開いた人だった。
台地を進む。殿台遺跡。縄文と弥生期の住居跡、さらには先史時代の石器もみつかった。その先に駒形大神宮。一度台地を下り、その先の台地の端に鎮座する。大野には将門伝説が多い。大野城もそのひとつだが、この神社も経津主命(ふつぬしのみこと)とともに、将門がまつられている。

大町自然観察園

成行きで先に進む。市川動植物園に。目的の大町自然観察園はこの敷地内にあるようだ。よくわからないながら先に進むと大町自然観察園に。市川で一番深く切り込まれた長田谷戸(津)の最奥部にあたる。2キロ弱の谷津のうち700mが、湧水・湿地・谷・斜面林という下総台地の典型的な自然を残す観察園として保全されている。隣接してバラ園やせせらぎ園なども整備されている。台地上は梨畑などの農地となっている。
現在は蛍の群生地もある自然観察園として保全されているこの大町自然観察園ではあるが、ここにいたるまでは、それなりの「歴史」を経ている。谷津の入口は市川北高のあたりであるが、S字形に曲がる2キロ弱のこの谷津は、昭和42年頃までは田圃が広がっていた。昭和46年頃には休耕地が目立つようになり、自然公園開設の準備が始まった。

最奥部には養魚場があった、とか。昭和56年頃には、S字形の中央の湾曲部から下流は霊園が整備され、上流部は孤島のような湿地帯として取り残されることになる。つまりは下流の水系から切り離された、ってこと。
昭和60年ころには動物園といった観光開発が進められる。平成元年には動物園開園。そのほかバラ園とか池が整備される。平成5年には鑑賞植物園開園。養魚場は半分湿地帯に戻ってしまう。平成13年頃には養魚場は完全に湿地帯に戻ってしまう。つまりは、田んぼや休耕地が広がっていた時期があり、ついで、S字形の屈曲点から下流が開発された時期があり、そして、観光開発が始まり、自然公園が自然観察園として現在に至る。大町自然観察園に「歴史あり」ってことか。とはいうものの、結果的に、湧き水の流れが網の目のように広がる湿地帯となり、野趣豊かな自然観察園となったのは素晴らしいことではあった。谷戸の北端から台地にのぼるとすぐに北総開発・大町駅。本日の予定はこれで終了。一路自宅へと。