月曜日, 4月 15, 2013

取手散歩そのⅡ:将門の旧跡を辿り、相馬の御厨と将門の母の実家・犬養家の防人トレーニングセンター跡を彷徨う

10数年に及ぶ京の都での御所の警備、禁裏滝口の衛士を終え、将門は京でのよき理解者である太政大臣・関白である藤原忠平から付託された相馬の御厨の下司として下総に戻る。相馬の御厨は取手の北西、関東常磐線・稲戸井駅近く米ノ井・高井戸辺りにあり、将門は館を取手の東、守谷に構えた、と。(ここで言う相馬の御厨とは千葉氏が元治元年(1124)その任を受けた正式な「相馬御厨」とは異なるが、便宜上「相馬の御厨」で以下メモする)。
そもそも、この地は将門一門・遠祖のゆかりの地。平将門の祖である桓武天皇の第四子葛原親王は9世紀の中頃、常陸の大守に。遥任であり任地に赴くことはなかったが、その孫の高望王は上総介となり東下。朝敵を平らげる、ことより「平」姓を賜る。高望王は任地である上総の四周を固めるべく、長子の国香は下総国境の菊間(鎮守府将軍)、二男の良兼は上総の東北隅の横芝、三男の良将は下総の佐倉に、四男良繇(よししげ)は上総東南隅の天羽に館を構える。
将門は三男の良将の子である。良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘と結ばれたが、犬養家は「防人部領士(さきもりことりつかい)」、簡単に言えば防人のトレーニングセンターの長といったものである。トレーニングセンターは関東常総線・新取手駅の南にある寺田の辺り。その館は先回の散歩で訪れた戸頭神社辺り、といった説のほか、本日歩く取手市本郷の東漸寺の辺りにあった、との説もある。
本郷地区に西には、「駒場」の地名も残る。戦士に必要な馬術を訓練した地の名残ではあろう。犬養氏の領地は将門が下司となった相馬の御厨の東隣り。利根川以北の相馬郡の東は犬養家の所領、西は御厨といったところである。将門が京より戻った頃、父・良将の旧領は、大半が叔父の国香や良兼らによって蚕食されていた、と言う。父の旧領を回復することもさることながら、伯父達の攻勢の中、私君・藤原忠平から付託された相馬の御厨の下司職を忠実に勤め、荒地・湿地を開墾し勢力を拡大するにも、傍に犬養氏が拠点を構えるのは、さぞかし心強かったことではあろう。


本日の散歩は、若き日々の将門が力を養った相馬の御厨や母の実家である犬養家の所領地であった一帯を辿ることになる。将門と言えば、その本拠は豊田郡鎌輪(下妻市)であり、猿島郡岩井(板東市)との印象が強いが、それは伯父達との争いに端を発する天慶の乱の展開により、本拠を移したことによる(天慶の乱のあれこれのメモはこちら)。成り行き任せで始めた下総相馬の将門ゆかりの地を巡る散歩も、守谷での散歩を含め5回にもおよぶと、散歩の前におおよそのテーマが見えるようになってきた。

本日のルート:関東常総線・稲戸井駅>神明遺跡>神明神社>慈光院>香取八坂神社>高源寺>東光寺>高井城址>妙見八幡宮>妙音寺>小貝川の堤防>水神宮>延命寺>岡神社・大日山古墳>仏島山古墳>白姫山>桔梗田>大山城址>とげぬき地蔵>東漸寺>春日神社>西取手駅

関東常総線・稲戸井戸駅
ささやかなる稻戸井駅で下車。米ノ井が、米が井戸から湧き出た、との伝説のように、稻戸井も稲が湧き出た伝説でもあるのかと思ったのだが、この地名は村の合併伝説でよくあるパターンでできたもの。明治22年(1889),戸頭村が米ノ井村、野々井村、稻村と合併した時に,それぞれの村の一字を採ってつくった地名であった。


神明遺跡
駅を下り、神明神社に向かうと神社手前の畑の脇に木標が立つ。案内を読むと神明遺跡、と。縄文後期の土器が発掘されたようだが、現在遺構は残らない。この辺りは小貝川から入り込んだ大きな谷津の奥にある、標高23mの台地。小貝川の水を避けながら、その水を利用できるロケーションに縄文の人々が生活をしていたのだろう、か。







神明神社
畑地の畔道とおぼしき小路を辿り鎮守の森に佇む神明神社に。この神社は長治元年(1104)、将門の後裔である相馬文国が伊勢神宮より勧請した、と。米ノ井神明神社と同じく、この地に神明神社があるということは、この辺り一帯が御厨の地であった、ということのエビデンスのひとつではあろうが、それよりなにより気になったのは、相馬分国って誰?
下総平氏の後裔である千葉氏の流れを汲む相馬氏にはそれらしき名前が見当たらない。チェックすると、相馬文国って、将門の子である平将国の子とのこと。将門敗死の時、幼少の将国は常陸国信太郡に落ち延びた、とか。信太の地は常陸国、現在の茨城県稲敷郡阿見町、美浦町の全域と土浦、稲敷。牛久市の一部である。将国は陰陽師の安部清明である、との説もある。

相馬文国はその将国の子供。江戸時代初期につくられた下総相馬氏の「相馬当家系図」には、「将門の子将国が信太郡に逃れて信太氏を名のり、その後、将国の子文国(信太小太郎)が流浪するものの、その子孫は相馬郡にもどり、相馬氏を名のった」とされる。
文国の流浪譚は中世の「幸若舞」のひとつである『信夫』のストーリーをとったもの、とも言われる。『信太』は、将門の孫である文国と姉千手姫の貴種流離譚。文国が姉千手姫の嫁いだ小山行重(将門を討った藤原秀郷の子孫とされる)から所領を奪われ、その後は人買い商人に売られ、塩汲みに従事させられるなど諸国を流浪しながらも、その貴種である素性が認められ小山行重を攻め滅ぼし、相馬郡で家系栄える、といったもの。どうみても、山椒大夫と将門伝説が合体して造られたものではあろう。
相馬分国については、将門敗死の後、その子孫は流刑に処せられたが、文国のときに赦されて常陸国に住み、さらに下総国相馬郡に帰った、との説もある。この神明神社を勧請したとされる相馬文国は、かくのごとき「歴史」を踏まえてこの地に名を残しているのであろう。



慈光院

神明神社を離れるとほどなく慈光院。境内、と言っても、これといった「境」があるわけでもなく、地域の集会所が本堂脇にある、といった素朴な風情のお寺さま。その「境内」には石碑、石塔が結構多く並ぶ。参道の右手には文政2年(1829)の「廻国塔」と昭和や平成に建てられた聖観音像、坂東33観音巡拝記念碑、秩父34観音霊場巡拝記念碑、西国33観音霊場巡拝記念碑が建つ。さらにその先には、参道の右側には石塔が並んでいる。六地蔵とその中央に馬頭観音像(造立年不明)、右端には寛政8年(1796)の光明真言百万遍供養塔が並ぶ。
境内左手の木の根元にはささやかな祠。中には貞享4年(1687)作の大日如来浮彫の十六夜塔が祀られる。本堂には阿弥陀如来が祀られる、とか。



香取八坂神社

慈光院を離れ、道を進むとT字路。右に折れ道脇に大きな敷地の(株)東京鉄骨橋梁取手工場を見やりながら進み、県道261号と合流し、県道が南に折れる辺りで県道を離れ道を北に進むと、取手市下高井の台地端に香取八坂神社がある。
鳥居手前にいくつかの石塔が並ぶ。庚申塔とか石尊大権現といった、よく見る石塔の中に、「尾鑿山大権現」と読める石塔があった。チェックすると、栃木県鹿沼市のある賀蘇山神社の鎮座する山の名前。尾鑿山(おざくさん)と読む。千年の歴史を秘めた賀蘇山神社は古くから尾鑿山」と呼び親しまれてきた、とか。
木々に覆われた参道を進む。


天満宮や三峰神社、琴平神社などの小祠が佇む。ささやかな拝殿にお参り。現在は香取八坂神社と呼ばれるが、明治の迅速測図には「香取祠」と記されている、と。因みに、迅速測図とは明治初期から中期にかけて作成された地図。明治政府は各地の反乱の鎮圧に際し、地図が無いことが作戦計画の障害となるため、短期間でつくられた簡易地図である。
ところで、神社は、香取八坂神社のある台地の傍、低地を隔てた東隣にある高井城の城主・相馬小次郎の氏神だといわれている。相馬小次郎は将門からはじまり、多数いるのだが、この場合の相馬小次郎とは、長治年間(1194-1106)、常陸国信太郡から移り住み相馬姓を名乗った信太小次郎重国のことではあろう。重国は上でメモした相馬文国から数えて2代後、文国の孫、ということであろう。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)




高源寺
香取八坂神社からすぐ東に「高源寺」がある。この寺は、承平元年(931)将門が釈迦如来の霊験によって建立したと伝えられる。開基は応安元年(1368)、相馬七左衛門胤継とその後裔がこの地を治め、鎌倉の建長寺より住職を招いたとの名刹ではある。慶安2年(1694年)には徳川三代将軍家光より三石二斗の朱印地を賜っている。
相馬胤継とは、相馬師常を祖とする下総相馬家の3代頃の人物。下総相馬家とは、上でメモしたように、将門の流れをくみ、常陸国信太郡から移り住み相馬姓を名乗った信太小次郎重国の2代後の師国に子がなかったため、平良文の流れをくむ下総千葉氏より師常が養子となってできたもの。平将門とその伯父であり、将門のよき理解者であった平良文の流れが合わさったブランドである。

境内には「地蔵けやき」がある。樹齢1600年と言われる巨大な欅の根元から数メートルほど幹の中が失われ、空洞となっており、そこにお地蔵さまが佇む。開口部の脇にも穴が開いており、昔はお地蔵様に安産のお参りをし、穴を通り抜ければ安産間違いなし、ということではあったが、現在は樹木保護のため、木の周囲は立ち入りが禁止され気の通り抜けはできなくなっている。



○広瀬誠一郎

高源寺には、この下高井の地に生まれ、利根運河実現に生涯をかけた広瀬誠一郎が眠る。いつだったか利根運河()を辿ったことがある。流山辺りで利根川と江戸川を直接結ぶために開削した人工の運河であるが、周辺に谷戸の景観が残る、誠に美しい運河であった。
利根運河は明治21年(1888)に起工式をおこない、2年の歳月をかけて完成した総延長8キロの運河ではある。利根川の東遷事業により、利根川と江戸川が関宿辺りで結ばれ、内川廻りと称されれる船運路が完成したわけだが、江戸末期には関宿当たりに砂州ができ、船運が困難となる。
結局、先回の散歩でメモした利根川の「七里の渡し」の辺りにある「布施河岸」荷を下し、陸路を江戸川筋まで運ぶことになるのだが、それを改善すべく企画されたのが「利根運河」。明治14年(1881)、当時茨城県議会議員(翌年北相馬郡長)であった広瀬誠一郎は茨城県令であった人見寧に利根運河の開削を提言。明治16年(1883)には内務省もオランダ人技師ムルデルに調査・計画書の立案を依頼するなど動きもあったが、財政上の理由もあり明治20年(1887)には政府事業を断念。明治19年(1886)に相馬郡長の職を辞し、利根運河に全精力を注ぐ予定であった広瀬氏は明治21年(1888)には株式を公募し民間の事業として工事を開始することになる。運河完成とともに、最盛時は年間3700余隻、1日平均100余隻の船が往来した運河も大正時代になると鉄道輸送などにその役割を譲りゆくことになった。





下高井薬師堂

高源寺から集落を少し南に進むと、火の見櫓の脇に下高井の薬師堂があった。境内と言った構えはないが、本堂脇にはささやかな太子堂、光音堂といった祠が建つ。光音堂は新四国相馬霊場を開いた光音禅師を祀る。薬師堂は新四国相馬霊場50番。愛媛県の繁多寺の移し寺、とのこと。
堂宇に祀られる薬師如来は文明11年(1479)の作、と言う。境内の庚申塔、廻国塔、日本廻国塔などを見やりながら次の目的地である高井城址へと向かう。



高井城址

道を成り行きで進むと、道標があり、道を左に折れる。道なりに進むと台地を下り、左右を台地で囲まれた谷戸の低地に。一帯は高井城址公園として整備されている。
かつての湿地の面影を残す公園の左手の台地が高井城址。成り行きで比高差10mほどの台地へと上る。台地上への途中には広場らしきものがある。昔の枡形なのか、腰曲輪といった名残であろう、か。




台地上の主郭部分はわりと広い広場となっており、周囲には土塁も残されていた。虎口あたりにある案内によると、小貝川の氾濫原に面した台地に立つこの城は、取手市内で最も大きいもの。築城の時期は不詳ではあるが、戦国時代後期の築城とされる。既にメモしたように、長治元年(1104)に将門の後裔・信太小次郎重国が、常陸信太郡からきてこの城を築き相馬家を称した、と。なお、重国の子の胤国、その子の師国に子が無きが故に、下総千葉氏より養子として相馬家を継いだ師常が下総相馬家の祖となった。流浪を重ねた将門の後裔が下総平家直系の千葉氏と結びつき、「下総相馬家」というブランド家系をなした、ことは上でメモしたとおり。
ところで、「高井城」という名称であるが、下総相馬家が当初、館をどこに設けたかは定かではない。定かではないが、鎌倉初期にはその主城を守谷城に移したようではある。で、高井城は下総相馬家の一族が守谷城の支城として詰めていたようではあるが、天正年間(1573から1592)の頃には高井の姓を名乗るようになっていた、と言う。永禄9年(1567)の「北条氏政書状写」には、高井氏が相馬氏の支配下に置かれてた、と記載されている、とか。
秀吉の小田原後北条征伐に際しては、高井氏は下総相馬家の一員として小田原後北条方に与し、相馬氏は滅亡し、高井城も廃城となった。その後の高井一族は、最後の高井城主の子は小田原藩大久保家に仕え相馬氏を称したり、家康の旗本として取り立てられたりしているようである。



妙見八幡宮

小貝川の氾濫原のあった台地下に下り、高井城の風情などを低地から眺め、再び台地に戻り高井城址脇の道を通り妙見八幡に。航空地図を見るに、主郭の広場のすぐ東といった場所ではある。
構えは素朴。相馬家の氏神、といったことではあったので、もっと大きなものかとは思っていたのだが、鳥居とささやかな社殿が建つのみではあった。境内には石祠や石塔、石仏群が多く建つ。秋葉大権現、水神宮、道祖神、雷神社、如意輪観音、三峰大権現、二十三夜塔、といったものである。地域内にあったものを合祀したものか、道路工事などの際にこの地に寄せ集められたものであろう、か。


○妙見信仰

妙見信仰といえば、秩父神社が思い出されるが、秩父神社は平良文の子が秩父牧の別当となり「秩父」氏と称し妙見菩薩を祀ったことがはじまり。平忠常を祖とする千葉氏はその秩父平氏の流れをくみ、妙見菩薩は千葉家代々の守護神であった。 千葉一族の家紋である「月星」「日月」「九曜」は妙見さまに由来する。 妙見信仰は経典に「北辰菩薩、名づけて妙見という。・・・吾を祀らば護国鎮守・除災招福・長寿延命・風雨順調・五穀豊穣・人民安楽にして、王は徳を讃えられん」とあるように、現世利益の功徳を唱える。実際、稲霊、養蚕、祈雨、海上交通の守護神、安産、牛馬の守り神など、妙見信仰がカバーする領域は多種多様。お札の原型とされる護符も民間への普及には役立った、とか。
かくして、妙見信仰は千葉氏の勢力園である房総の地に広まっていった。上でメモしたように、下総相馬氏は鎌倉時代、平良文の流れ(下総平氏)を継ぐ千葉宗家第五代常胤の二男・帥常が守谷に館を構え「相馬氏」を称したものであり、氏神として祀ったものであろう。



妙音寺

妙見八幡宮で休憩しながら地図を見るに、すぐ近くに新四国相馬霊場第52番妙音寺がある。ちょっと立ち寄りと、妙見八幡宮横の道を入るにお寺らしき建物は見当たらず、わずかに小高いところにふたつの小祠があった。太子堂と光音堂とある。光音堂とは新四国相馬霊場を開いた観覚光音禅師を祀るお堂。

○新四国相馬霊場

新四国相馬霊場とは宝暦年間(1751~1764)に江戸の伊勢屋に奉公し、取手に店をもった伊勢屋源六(光音禅師)が長禅寺にて出家し、四国八十八カ所霊場の砂を持ち帰り、近くの寺院・堂塔に奉安し札所としたのが始まり。利根川の流れに沿って、茨城県取手市に58ヶ所、千葉県柏市に4ヶ所、千葉県我孫子市に26ヶ所あり、合わせて88ヶ所の札所、このほかに番外として我孫子市に89番札所が存在する。江戸時代近在の農民や江戸町民が巡拝し賑わったという。光音禅師は取手市の長禅寺観音堂修築と取手宿の発展に尽力し、市内にある琴平神社境内に庵を結び余生を送った有徳の人である。



小貝川の堤防

大師堂、光音堂にお参りし、次の目的である小貝川の堤防へと鬱蒼とした木々の間の小道を進み台地を下る。台地を下ったところを流れる小貝川排水路を越え、堤防への道を探すに、眼前には畑地が広がるが、それらしき道筋は見当たらない。仕方なく、畑地の畦道を探し畑地を横切り小貝川の堤防に取りつく。小貝川は栃木県那須烏山市の子貝ケ池にその源を発し、市貝、益子、真岡、常総、つくば、つくばみらい、守谷、取手、竜ケ崎、利根のといった市町村を経て利根川に注ぐ。




堤防から遠くに見える印象的な山容は筑波山であろう、か。また、右手を見ると、南東へと下ってきた小貝川が北東へと流路を変えるその先に、小貝川の流れを堰止める岡堰も見える。小貝川が大きく流路を変え、水勢を抑えた「溜まり」のその先を選んで堰をつくったように思える。







岡堰
岡堰は江戸の頃、寛永7年(1630)に関東郡代である伊奈半十郎忠治によって新田開発を目的としてつくられた。堰をつくるに先立ち、伊奈半十郎忠治は現在のつくばみらい市寺畑のあたりで小貝川に乱流・合流していた鬼怒川を分離すべく大木丘陵を開削。鬼怒の流れを利根川(当時は常陸川)に落とし、水量の安定した小貝川の治水工事と並行し堰を設け、堰から引かれた用水によって小貝川の東、旧伊奈町を含む現在のつくばみらい市一帯の氾濫原を「谷原三万石」「相馬領二万石」とも称される新田となした。小貝川には岡堰の他、福岡堰、豊田堰があり、関東の三大堰とも称された。


現在の岡堰は明治19年(1886)に新式の水門をもつ堰となるも、洪水で流され明治31年から32年(1898-1899)にかけて大修理が行われ,また昭和になって水門や洗堰がつくられるなどの経緯をへて平成8年(1996)に完成したものである。因みに、平成の堰造成工事で結構伐採されたようではあるが、明治15年(1882)には高源寺で出合った当時の相馬郡長であった広瀬誠一郎によって桜の苗木が堤防沿いに植樹し桜の名所となっていたようである。


水神岬

堤防を進むと、小貝川の流路がU字型に変わる辺りに水神岬という100mほどの突堤があった。案内によれば、「溜まり部分」の中洲などと相まって、水流を分散させ堤防を護る役割を果たしている、と。岬の先端には水神宮が祀られていた。
「岡堰用水組合では水神宮のお祭りとともに、上州榛名神社に代参を立てたことが江戸時代の記録に残る。山岳信仰の通有性はあるにしても、特に榛名山を選んだのは山を水源と仰ぐ心であろう。水は二万石の命である」と案内にあった。それにしても何故榛名山?榛名山系の第二の高さをもつ山の名が相馬山と呼ばれるが、この山と相馬、将門に関するなにかの因縁でもあるのだろう、か。不詳である。




延命寺

小貝川の堤防を離れ、再び台地に戻る。小貝排水路を跨ぐ橋を渡り、成り行きで道を進むと公園脇に延命寺があった。山門はなく、広い境内入口にはお寺さまが住む家なのだろうか、今風の2階屋があり、なんとなく遠慮しながら境内に入る。
境内を住むと正面に本堂があり、地蔵菩薩が祀られる、と。境内右手には大師堂や水子子育地蔵菩薩像が安置される。寺宝も多く釈迦涅槃絵、三仏画、十三仏画、二十八仏画が昭和53年に取手市指定有形文化財に指定されているとのことである。古き趣は残らないが、落ち着いたお寺さまではある。
このお寺さまにも将門ゆかりの縁起が残る。12世紀の初めころ、紀州根来の高僧の夢枕に将門が信仰していた地蔵尊が現れ、東国に下り、我(地蔵尊)を祀り、将門ゆかりの者や衆生を済度すべし、と。その日から10年後がたったある日、再び地蔵尊が現れ同じお告げを。僧は決心し東国に下り、地蔵尊の場所を探しに将門ゆかりのこの地を訪れる。
その夜のこと、台地の麓に光が見えたため、その地を辿ると、草木が生い茂った島に塚がある。土人の言うに、「この地に将門の霊廟があった」、とのこと。それではと、その地を探すと目指す地蔵菩薩があった。根来の上人はその場所を「仏島山(ぶっとうさん)」と名付け、一寺を建立し「親王山延命寺」と名付けた。延命寺はその後台地下より現在の地に移った、と。


将門ゆかりの話といえば、延命寺の境内には、将門の愛馬を弔った「駒形さま」がある、と。少々遠慮しながら正面入ってすぐ左の老木の根元にささやかな石祠があった。それが駒形さまではあろう。また、本堂右手の小高い場所に三峰権現などの石祠と並んで元禄年間作の「将門大権現」の石祠もある、と言う。また、「七人武者塚」といわれている七基の石塔があるとのことだが、民家風の境内故、あれこれ彷徨うことを遠慮したため、将門大権現は見逃した。



○青麻神社

少し脱線。将門大権現の石祠のあるところに「青麻神社」の石塔もある、と言う。『将門地誌;赤城宗徳(毎日新聞社)』に以下のような記載があった:「東大寺にある養老5年(722)の戸籍に、「下総国倉麻郡億布(おふ)の郷」とある。倉は蒼の転化したものであり,「億布(おふ)」は「乙子」の地名でメモしたように、多くの麻布が産出された所の意味、と言う。つまりは、「下総国倉麻郡億布(おふ)の郷」とは、「青い麻が一望千里に植えられ、麻がたくさん取れる郷」のことである、と。
それはそれとして、「青麻」>「蒼麻」の読みは「そうま」ではあろう。当時はカナ文字が主体で漢字が思いつきであてられていたようである。元は「青い麻」の意味をもつ「そうま」という音に、下総の草原を駆ける馬を想起し、「相馬」の文字があてられたのではないだろう、か。なお、相馬の文字が最初に記されるのは『万葉集』、と言う。



岡不知

延命寺を離れ、県道251を渡り、台地を成り行きで岡神社へと向かう。畑地の脇の農道、竹林、林など本当に岡神社へ辿れるものかと、少々不安になりながらも進む。その昔、この辺りは「岡不知(しらず)」と呼ばれていた、と言う。いつだったか市川を散歩したとき、「八幡不知(やわたしらず)の森」に出合った。現在はささやかな竹林に過ぎないが、往昔「藪不知(やぶしらず)」ともよばれ、藪が深く祟りがあり、一度は入れば二度と出られない、といった森であった、とか。この「岡不知」の森も昔は深い森ではあったのだろう。
また、これは偶然の一致ではあろうが、市川の「八幡不知森」には、天慶の乱の時、将門の仇敵平貞盛にまつわる伝説が残り、この地に入るものには必ず祟りがあるとの言い伝えがあった、とか。この「岡不知」の森も将門ゆかりの「何か」を護るため、人の出入りを禁じる「岡不知」の言い伝えが残ったのであろう、か。とはいうものの、市川の八幡不知森は、その地が「入会地」であったため。祟りの伝説をつくって人の出入りを禁じた、というのが実際の話であった、とも。因みに、取手の地名である藤代は岡不知の「不知」からの説もある。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

岡神社・大日古墳
岡不知の森を進むと台地の端辺りの小高い塚の上に岡神社があった。 石段を上り神社にお参り。熊野権現、八幡、鹿島、天神、稲荷の各社を合祀する。神社の建つ塚の周囲には多数の石塔、石碑、祠、灯篭などが並ぶ。
神社脇にある案内によると、この神社の建つ塚は古墳との説がある、と。「この古墳は岡台地の先端に造営された古墳で、高さ約二・八メートル、底径十八メートルの美しい古墳である。この古墳は未発掘の古墳で副葬品等は不明である。かつてこの付近から各種玉類・鉄鏃等が発見されたが、築造年代は古墳時代後期でないかといわれている。中・近世になって大日信仰が盛んになると、この墳丘に種々の石碑や石造仏の類が建てられたので、大日山の名はそれによってつけられたものであろう。現在この墳丘上に岡神社が創建されている」と案内にあった。地元ではこの古墳は将門の墓とも伝えられている。
塚の脇は広場となっているが、そこには将門の愛妾桔梗の前が住む「朝日御殿」があり、毎朝、日の出を拝み、将門の武運を祈った、と。朝日遥拝の話はともあれ、この岡神社のある辺りは台地の東端。縄文時代は台地の下は一面の香取の海。将門の時代も、守谷から台地上を進んだ「郷州街道」も、この地から先は舟便となる。香取の海は、龍ヶ崎や江戸崎、印旛や成田などの対岸にある台地で囲まれた灘であり、対岸からの敵襲に備える軍事上の要衝ではあったのだろう。桔梗の前の朝日御殿はともかく、将門の軍事拠点となる館か取手はあったのではないだろう、か。



仏島山古墳

岡神社を離れ、延命寺の縁起にも登場した島仏山古墳に向かう。岡神社から急な石段を下り、台地の縁に沿って台地の北側に戻り、岡集落の中を進むと民家の脇に、塚と言うのも少々憚られるような一角があり、そこが島仏山古墳とのこと。古墳自体は明治28年(1895)、岡堰の築堤と道路工事に際に古墳が発掘された、とか。
案内をまとめると、「美しい円墳で墳丘も高かったと言われるが、過去二回に亘って古墳の土砂を採取し、その形状は不詳。が、周囲の状況等から判断すると、径約三十メートルの円墳と推定される。また、遺物の出土状況から判断してこの墳丘は埴輪円筒をめぐらし、その上を美しい埴輪で飾った古墳であった、よう。
古墳の築造年代は、六世紀のもの。なお、明治二十八年学校敷地造成のため、土砂を採取した際に、石かく・骨片・刀剣・曲玉・鉄鏃・埴輪・埴輪円筒等出土したが、この多くは現在の国立博物館に納入された。また、昭和八年岡堰改良工事のため土砂を採取した時に出土した埴輪(四)、円筒埴輪(七)等も国立博物館に納入。本古墳に仏島山の名称がつけられたのは、古墳の周囲には堀をめぐらし一大島状をなしていたが、その後、中世になって墳丘上に仏像や石塔等が建立されたため」と言う。古墳は以前はもっと大きく、高さもあったようだが、学校用地の造成、岡堰の築堤などに際して土砂が採取され、現在の姿見となった。古墳の頂きの祠は将門神社、とも。



白姫山

仏島山古墳から表郷用水に沿って少し北西に進むと白姫山がある、と言う。表郷用水は岡堰から引かれた用水ではある。名前に惹かれて白姫山の辺りまで進むと荒れ果てた薬師堂と「岡台地と平将門」の説明板があった。「この岡台地は一望千里と言われる平坦な水田地帯の広がる町にあって、唯一の台地で古い歴史を秘めたところで もある。特に承平の乱(935~940)を起した平将門にまつわる史蹟が散在し伝説が語継がれてきた。 『将門にまつわる史蹟』として大日山古墳、朝日御殿跡、延命寺、仏烏山古墳が存在する」、と。白姫山の由来である「白姫祠」も見当たらなかった。ここに桔梗の前が住み、墓もあったと伝えられている、とのこと。


桔梗田

白姫山を離れ岡の台地に沿って岡神社の下を抜け、台地南側に出る。低地を隔てて大山の台地が見える。低地は岡台地と大山台地に挟まれた谷戸の趣き。低地の中ほどに相野谷川が流れる。門敗死の報を受け、愛妾桔梗前(正妻の「君の御前(常陸国真壁郡大国玉の豪族・平真樹の娘)が誅された後、正妻になったとも言われる桔梗前が身を投げた桔梗沼は相野谷川の傍にある、という。
川に沿って上流へと進む。川の周囲は北岸には一部湿地の名残を残すも、南岸はほぼ耕地となっている。左右に注意をしながら進むも、相野谷川が「たかいの里汚水中継ポンプ場」辺りで地中に入ってしまう。再び下流に戻り進むと、川の北側、湿地の名残の葦の生い茂る一画に「桔梗田」の案内があった。
案内によると、「伝 桔梗姫入水の地 岡台地の現大日山古墳のあるところは、山高く樹木うっそうと茂り、前方の眺望よく要がいの地でした。平将門はこの地に城館を構え、最近まで堀や土塁の一部が残っていたといわれています。城館の隣に愛妾桔梗姫の御殿があったといわれ、周辺の人は旭御殿と呼んでいます。
当時、将門の最後を知った桔梗姫は、今やこれまでと、この城下の沼に入水して果てたと言われています。今は埋められて水田となっていますが、村人はこれを桔梗田と呼び、祟りがあると伝えられたため、村の共同管理地として受け継がれてきました(取手市教育「委員会)」、と。将門は、天慶三年(939)二月十四日、將門は茨城県猿島町幸嶋において敗死。桔梗が身を投げたこの沼はのちに田となり「桔梗田」と呼ばれたが、ここを耕作する農家の娘は嫁に行けないことが続き、現在は集落の共有地になった、とのことである。




大山城址

相野谷川を渡り、大山城址のある大山台地に向かう。台地に取りつき、上り口を探す。二度ほど直登を試み台地に取りつくも、藪や竹林に遮られ、結局は道なりに台地縁をなぞり、小道を上る。
道を上り切ると、大きな車道が開かれている。この大山の台地の南の、かつては谷戸であったと思われる一帯には宅地開発がなされており、その住宅地へと通す車道を建設したのではあろう。
で、大山城址であるが、台地上をしばし彷徨うも、それらしき場所はみあたりそうもなく、城址探しはやめとする。因みに、大山城址は中近世き築かれた城跡であり、二重の土塁と空堀によって後背の台地と隔離され、空堀の深さは2メートルほどあった、とか。現在その大半が個人の敷地であり、また宅地造成によって掘削されてしまっているようであった。
この城は、高井城の支城と考えられ、将門の臣・大炊豊後守の拠ったところ。豊後守は勇者として知られ、将門敗死と共に弟・丹後守と逃れて柴崎(現我孫子市)に土着した、と言われている。



とげぬき地蔵

宅地開発された新取手地区の大きな住宅街を次の目的地である駒場地区に向かって進む。この新しい新取手地区も昭和40年頃までは「「寺田字後山(うろやま)」や「寺田字大山」と字名が付いていた地域。のどかな一帯ではあったのだろう。
住宅街を抜け、関東常総線・新取手駅を越え、県道294号線を東へと進む。ほどなく、県道が関東常総線から離れ、南東へと下るあたりで左に分岐する小道萱がある。次の目的地である取手市本郷の東漸寺に向かうには、関東常総線を北に越えなければならないので、とりあえず県道から分かれ小道に入る。
ゆるやかな道を少し進むと千羽鶴に覆われた祠があり、とげぬき地蔵とあった。江戸の頃,正徳年間(1704~1715) に建てられたもの、と言う。もともとは茅葺の祠であったようだが、参詣者の失火により焼失し、戦後に現在の堂宇を再建した、とのこと。現在は大きな住宅街の広がる新取手一帯であるが、昔は近郊に農家70数戸しかなく、そのうちでも12軒で地蔵堂を護ってきた、と。
とげぬき地蔵には、その昔、棘抜き名人のお婆さんがこの地にいたのだが、亡くなるに際し、今後はお地蔵様が棘を抜いてくれる、と。で地蔵堂を建てると棘だけで苦労も抜いてくれると評判になり近郷から参詣に訪れるようになった、といった縁起が残る。また、江戸の頃、出雲からこの地に住むようになった医師が有徳の人であり、その人を供養すべく地蔵堂を立てたのが、とげぬき地蔵尊のはじまり、との話も残るようである。



駒場地区

とげぬき地蔵から成り行きで関東常総線を北に抜け、成り行きで進み県道130号に出る。地名は駒場と呼ばれる。往昔、この辺り一帯は、将門の母である犬養春枝の所領地。犬養家は「防人部領士」、簡単に言えば防人のトレーニングセンターの長といったものであり、武人に必要な馬に由来する地名ではあろう。その馬術トレーニングの名残が下総相馬家から分かれた福島相馬家に伝わる「相馬野馬追い」とも言われる。



県道327号

県道130号を少し南に下り、関東常総線・寺原駅手前を県道327号に沿って左に折れる。東漸寺までのルートを探すべく地図を見るに、県道327号は寺原あたりで切れている。チェックすると、この県道327号は「茨城県道327号寺原停車場線」と呼ばれ、起点が寺原駅。終点が駒場1丁目の県道130号常総取手線との交差点。距離わずか176号の県道である。因みに「寺原駅」の寺原とは
明治22年(1889)に北相馬郡寺田村と桑原村が合併するに際し、両村の1字を取ってつくった合成地名。市町村合併の際によくあるパターンである。




東漸寺

県道327号が切れるあたりの二差路を左に取り、ゆるやかなさかを下りおえたあたりの左手にある神明宮を見やり、車道を一筋北にはいった坂を少し上ると東漸寺があった。
茅葺の誠に美しい仁王門をくぐり境内に。先に進むと、これも誠に趣のある観音堂があった。案内によると、「市指定文化財 観音堂・仁王門;この堂宇は、寛文七年(一六六七)に創建されたもので、屋根は寄棟造りで向拝をつけ、木鼻(「木の端」)の型式は室町時代末期から江戸時代初期の雰囲気を止めている.
仁王門は、元禄三年(一六九〇)吉田村の清左衛門と称する篤信家の寄進によるものと伝えられ、単層八脚門となっており、市内唯一の建造物である。
観音堂には、聖僧行基の作と伝えられる観世音菩薩像が安置されており、家運隆昌、除災招福、特に馬の息災には霊験著しい尊像として古くから敬信を集めている。陰暦七月十日の縁日は俗に万燈といわれ、近郷近在の信者が境内をうずめ稀にみる賑わいを呈したものである。
昔乗馬のままお堂の前を通ると、落馬すると言われた為お堂と道路の中間に銀杏を植樹して見えないようにしたという。今に残る「目隠し銀杏」がそれである(取手市教育委員会)」、と。
このお寺さまは、江戸初期に関東十八檀林の1つとされた名刹。僧侶の学校である檀林となった東漸寺は、広大な境内に多くの堂宇が建ち並んだ、とか。大改修が成就した享保7年(1722)には本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他8つの学寮など、20数カ所もの堂宇を擁し、末寺35カ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展。明治初頭には、明治天皇によって勅願所となっている。
現在は仁王門と観音堂の他にはこれといって堂宇が見当たらないが、このふたつの建物だけでも疲れた体を癒すに十分な構えではあった。将門とのこのお寺さまの傍に犬養春枝の館があったとも伝えられ、将門がそこで生まれた、とも。また、観音堂の観音様は犬養氏か後世の下総相馬氏によって寄進されたものでは、とも伝わる。



春日神社

その犬養氏の館であるが、東漸寺の少し東、JA寺島支所の手前にある春日神社の辺りであったとの説がある。訪ねるに、誠にささやかな祠ではあった。因みに、犬養氏の館は先回の散歩で訪れた戸頭神社のあたりである、との説もあり、よくわからない。どちらであっても私個人としては一向に構わないわけで、とりあえず守谷から取手に点在する、将門ゆかりの地を訪ねたことに十分に満足し、散歩を終える。
因みに、地形図を見ると、東漸寺や春日神社のある辺りは香取の海を臨む台地端にある。改めて守谷から取手まで辿った将門の旧跡を地形図でみると、訪ね歩いた地域は、北は香取の海、南は常陸川、というか湖沼地帯に挟まれた台地上に続いていた。思わず知らず、東南端を取手宿とする下総の台地を辿ったようであった。

日曜日, 4月 14, 2013

取手散歩そのⅠ;将門の旧跡を辿り、取手の東部を小貝川から利根川に

 数年前のこと、旧水戸街道を取手宿からはじめ、藤代宿をかすめ藤代宿へと辿った。そのときは、若柴宿の静かな佇まい、そしてその集落の先にある「牛めの坂」の「森に迷い込んだような錯覚に」といった写真のキャプションに惹かれての散歩ではあったのだが、その散歩で思いがけなく将門ゆかりの旧跡に出合った。「将門」というキーワードにフックがかかり、あれこれチェックすると、守谷市から取手市にかけて、昔の下総相馬の地に将門ゆかりの旧跡が数多く残っている。それでは、ということではじめた将門ゆかりの旧跡を辿る散歩も守谷市域を終え、取手市域へと向かうことに。

 守谷市域では将門の旧跡だけでなく、小貝川と鬼怒川の分離、大木台地を掘り割っての鬼怒川の新水路を辿るといった水路フリークには避けて通れない散歩なども加わり、結局4回に渡っての散歩となった。守谷市の中央図書館でチェックした取手市域に残る将門の旧跡を見るに、旧水戸街道散歩で歩いた市域東部を除き、守谷市と境を接する西部と中央部の2回程度でおおよそカバーできそうである。
ということで、取手散歩の第一回は守谷市域からはじめ取手の西部地域に残る将門の旧跡を、北の小貝川から南の利根川まで、台地と低地の入り組む地形の変化も楽しみながら歩くことにする。


 本日のルート;成田エクスプレス・守谷駅>和田の出口>守谷市みずき野>取手市市之台>姫宮神社>香取神社>郷州小学校>取手市戸頭地区>永蔵寺>戸頭神社>利根川堤防>七里の渡し>米ノ井の神明宮>龍禅寺>桔梗塚>関東常総線・稲戸井駅 

成田エクスプレス・守谷駅
散歩のスタート地点は守谷からはじめる。はじめて守谷城跡を辿った頃から数カ月がたっており、守谷本城のあった平台山といった台地、その台地を囲む低地の景観の記憶が薄れてきており、ついでのことなら、守谷本城辺りの景観を見やりながら取手市域に進もうと思ったわけである。
駅を下り通いなれた道を進み台地に上り、左手に守谷本城のある台地や、その先の小貝川沿いに続く台地の景観を楽しみながら歩く。川沿いの台地は低地に分断されている。小貝川の水流により削られたものか、水流により堆積された台地なのか定かではないが、赤法花、同地、そしてこれから向かう市之台といった台地が断続して続く。

守谷市みずき野

守谷本城を右手に眺めながら台地端を進む。右手は、その昔、舟寄場があったと言われる「和田の出口」。その台地の下は低地が台地に切り込み、いまだに湿地の趣を残している。湿地に生える木々などを眺めながら、奥山新田の台地に上り、再び出合った奥山新田の薬師堂にお参りし、南へと台地を下り「みずき野十字路」に。その昔、「郷州原」とよばれ、樹木生い茂る一帯であった「みずき野」の低地帯も、現在は宅地開発された住宅街となっている。
みずき野十字路を左に折れ、最初の目的地である市之代の姫宮神社に向かう。みずき野の住宅街は台地を下った低地部に広がる。調整池(地)などもあるようだが、標高で見る限り、台地と低地の境あたりまで開発され尽くしているようである。因みに、調整「地」は国土交通省の使用名であり、調整「池」は農林水産省の使用名とのこと。

取手市市之台
みずき野の宅地が切れるあたりに奥山新田の台地端が舌状に突出している。この台地上に香取の社があるのだが、姫宮神社からの戻る時に寄ることにして、とりあえず姫宮神社に向かうことにする。
奥山新田地区の台地を下り、低地を進み小貝排水路を越え、先に見える市之代の台地へと進む。市之台の台地は取手市であり、南北を低地で囲まれた台地には集落がある。この集落だけではないのだが、守谷辺りを散歩して困るのは犬の放し飼い。放し飼いの犬に吠えられることなど都内ではないので、少々怖い思いをしながら、成り行きで集落を進み姫宮神社に。



姫宮神社
姫宮神社は将門の娘が祀られる、といったイメージと異なり、ピカピカのお宮さま。平成22年(2010)頃再建されたようである。境内には地域の集会所や消防の火の見櫓などがあり、古式豊かな、といった風情はどこにも残っていなかった。
それでも鳥居の左手前には、文化年間(19世紀初頭)に造られた弁財天、西国秩父坂東百観音、聖徳太子像、社殿裏手には文化年間建造の愛宕大権現、享保年間(18世紀前半)の大杦(大杉)大明神の石祠など、古き歴史をもつ社の名残を残す。

○将門の娘
ところで、この社、祭神は櫛稲田姫命。ヤマタノオロチの生贄になるところをスサノオに助けられ、その妻となった女神である。それはそれとして、上でメモしたようにこの社には将門の娘が祀られる、と言う。将門の娘と言えば、数年前に将門の旧跡を辿って坂東市の岩井にある国王神社を訪れたとき、その社秘蔵の将門の木造は、将門の三女(二女とも)である「如蔵尼」が刻んだものであり、その地に庵を結び父の冥福を祈った、とあった。その如蔵尼のことであろう、か。
とは言うものの、将門と伯父の良兼の争いにより将門の正妻とその子は悉く誅されたとも伝わるし,その時に共に捕縛された愛妾はその後解放され子をなした、とのことであり、ここで言う、将門の娘が誰を指すのかも定かではなく、また、如蔵尼が実在の人物かどうかも定かではないが、関東から東北にかけて如蔵尼の伝説が伝わっているようである。

その伝説にある如蔵尼の話は、一族滅亡の際に、一時は冥途の閻魔庁まで行くも、地蔵菩薩に罪なき身故と助けられ蘇生。その後出家し如蔵尼と称しひたすらに地蔵菩薩を信仰したといったもの。
ところで、将門の娘と言えば、滝夜叉姫の話も伝わる。滝夜叉姫の話とは、将門の娘「五月姫」は、父の無念を晴らすため貴船の神より授かった妖術をもって下総国の猿島を拠点に朝廷に背く。名も「滝夜叉姫」と名を変える。朝廷は勅命により陰陽博士大宅中将光圀を下総の国に派遣し、陰陽の秘術を以って滝夜叉姫を成敗。改心した滝夜叉姫は、仏門に入って将門の菩提を弔う、といったもの。この滝夜叉姫の話は江戸時代以降に芝居などで創作されたもの、と言う。ともあれ、人気者の将門故、その娘も伝説となって今に残るのであろう。

○市之台古墳群
境内を出たところに大師堂とおぼしき古きお堂があり、その脇には墓地がある。ここは元の西蔵寺のあったところ。姫宮神社は小貝川を見下ろすところにあったが、西蔵寺が廃寺になったときにこの地に移った、と。姫宮神社の元の地には今も「古姫さま」と呼ばれる小祠がある、と言う。
ところで、この市之台の小貝川に面する縁辺部、小貝川にかかる稲豊橋の南北にかけて1号から15号までの市之台古墳群が並ぶ。もう少し事前準備をしておれば、古姫様を訪ね、結果として市之台古墳群の辺りを彷徨えたのだが、例に拠っての「後の祭り」である。
また、稲豊橋の手前の交差点辺りには「将門土偶の墓」もあったようだ。取手市教育委員会・取手市郷土文化財調査研究委員会:昭和47年3月31日発行)の資料によれば、「明治7年11月道路改修の際破甕発掘。中に身に甲冑を纏たる如き粘土の偶像あり容貌奇異なり笑ふが如く怨むが如き一騎の兵士なり古考の口碑に徴するに西暦939年天慶2年平将門叛し島広山の支城て戦い平貞盛藤原秀卿(筆者注:「郷」の誤か)等に殺さる。爾後残卒の死屍を島広墟に葬ると雖も同装たる土偶を見るものなし。其一隅を島広山の北なる(市ノ代村)字古沼の所に埋没し霊魂の冥福を祈ると云う」、と。
この辺りで土偶や甲冑などが発掘されると、平将門由来の、といったことになるようであり、なんとなく市之台古墳群からの発掘物のようにも思えるのだが、門外漢故、真偽のほど定かならず。

香取神社
市之台の台地を離れ、県道328号を再び戻り、低地から奥山新田の台地に入った辺りで右に分岐する道に入る。市域は再び守谷市に入る。立派な門構えのある農家の手前あたりから左の細路を進むと、木々に囲まれた一角に香取の社があった。誠に香取の社が多い。
神社にお参りし、神社から直接県道328号に出るルートはないものかと、神社周囲を歩きルートを探す。神社裏手の竹林に入り込み藪漕ぎをするも、眼下に見える「みずき野」の宅地開発された住宅地区との間の崖を下る道はない。神社に戻り、畑の畦道といったルートから県道を目指すも、深いブッシュで遮られる。
国木田独歩は、『武蔵野』の一節で。「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへ行けば必ず其処に見るべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩くことに由って始めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼,夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつき次第に右し左すれば随所に吾等を満足さするものがある(中略)同じ路を引きかえして帰るは愚である。迷った処が今の武 蔵野に過ぎない。まさかに行暮れて困ることもあるまい。帰りもやはり凡そその方角をきめて、別な路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうる事がある。日は富士の背に落ちんとして未だ全く落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染まって、見るがうちに様々の形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖のような雪が次第に遠く北に走て、終は暗澹たる雲のうちに没し てしまう」、と言う。我もかくありたいのだが、結局は日和(ひより)、来た道を県道に折り返す。

郷州小学校
みずき野の住宅街に戻り、郷州小学校の裏手の台地部、現在の小山公民館のある辺りに将門の老臣・増田監物が砦を構え「古山」と称した、と。この辺り一帯だけが宅地開発から逃れ耕地を残す。なお。郷州小学校の「郷州」は上にメモしたように現在のみずき野地区の昔の地名。宅地開発される以前の「郷州原」と呼ばれる樹林地帯の名残を名前に残す。その昔、愛宕地区から取手市上高井地区をへて岡で台地を下り、取手の低地にある山王に向かう、郷州海道と呼ばれる古道もあった、とか。

取手市戸頭地区
みずき野の宅地街を抜け、関東常総線、国道294号・乙子交差点を越え、県道47号を南に下り乙子南交差点に。「乙子」は「億布(おふ)」が由来、とか。多くの麻布が産出された所の意味、と言う(「将門地誌:赤城宗徳(毎日新聞社)」)。 交差点脇にある駒形神社は守谷散歩の最初に訪ねた。その交差点の三叉路で県道を離れ、左手に進むと再び取手市の戸頭地区に入る。
宅地の中を成り行きで南東方向へ向かうと、思わず戸頭9丁目の台地端に出てしまい、眼下に広がる低地、そしてその向こうの利根川の眺めを楽しむ。戸頭公園を抜け、台地を少し下り戸頭8丁目から7丁目の宅地を進み、再び台地に上り永蔵寺へと向かう。戸頭の由来は「津頭」から。台地を下ったところに「七里の渡し」があり、その渡場=川湊=津に由来するのだろう。

永蔵寺
訪れた永蔵寺は赤いトタン屋根といったお寺さま。天慶4年(941)開山。創立時は守谷の高野にあり,往昔48ヶ寺もの門末と20石の朱印地を有した大寺院であったようだが、明治初めの廃仏毀釈令により衰退した。どうも、本堂と思った赤いトタン屋根の堂宇が薬師堂のようである。
この薬師堂は 新四国相馬霊場の札所三十四番。高知県本尾山種間寺の移し寺、と。将門の守り本尊と伝わる薬師如来(戸頭瑠璃光薬師)が祀られる。また境内には新四国相馬霊場四十五番札所もある。愛媛県の久万高原にある岩屋寺の移し寺である小祠には阿弥陀如来が祀られる。

○新四国相馬霊場
新四国相馬霊場とは利根川の流れに沿って、茨城県取手市に58ヶ所、千葉県柏市に4ヶ所、千葉県我孫子市に26ヶ所あり、合わせて88ヶ所の札所、このほかに番外として我孫子市に89番札所が存在する。
昔、宝暦年間(1751~1764)に江戸の伊勢屋に奉公し、取手に店をもった伊勢屋源六(光音禅師)が長禅寺にて出家し、四国八十八カ所霊場の砂を持ち帰り、近くの寺院・堂塔に奉安し札所としたのが始まり。江戸時代近在の農民や江戸町民が巡拝し賑わったという。光音禅師は取手市の長禅寺観音堂修築と取手宿の発展に尽力し、市内にある琴平神社境内に庵を結び余生を送った有徳の人である。

戸頭神社
古い家並みの旧集落を抜けると台地端に戸頭神社があった。創建は不祥だが元は香取の社と称されていた。「北相馬郡志」に「地理志料云、戸頭者津頭也、疑古駅址、観応二年(1351年)、足利尊氏、奉戸頭郷於香取神宮云々」とある。足利尊氏が所領地であった戸頭領を、武運長久を祈り下総一宮である佐原の香取神宮に寄進し創建された、とのこと。この社はその際に分祠されたのであろう、か。単なる妄想。根拠無し。で、戸頭神社となったのは明治45年のこと。同村の鹿島(村社)、八坂、面足、阿夫利各神社を合祀し改称された。
境内には天満宮や幾多の石祠がある。中には渡河仙人権現宮と称される石祠もある、と。どの石祠が「渡河仙人さま」の祠かよくわからないが、万治2年(1659)作のこの石祠は、神社のある台地端を下ったところにある「戸頭(七里)の渡」の安全祈願のためのもの、と言う。
ところでこの戸頭神社にの辺りに将門の外祖父である犬養春枝の館があったとの説もある。犬養家は「防人部領士」、簡単に言えば防人のトレーニングセンターの長といったもの。トレーニングセンターは関東常総線・新取手駅南の寺田の一帯。小字の「駒場」に名残を残す。この地に館を構えた犬養家は、乙子の由来でメモしたように、豊かな麻の産物を京に送り金に換え内証豊な家系として防人のトレーニングの任にあたったとのことである(「将門地誌:赤城宗徳(毎日新聞)」)。

利根川の堤防
台地を下り利根川の堤防に向う。この辺りの低地は、かつては藺沼と呼ばれた低湿地帯であり、道の周りに茂るのは藺=イグサなのだろうか、葦なのだろうか、よくわからないが、ともあれ堤防に上る。
七里もあるわけはないが、広大な利根の流れが眼前に広がる。堤防も現在立っている外堤防と内堤防があり、その間は調整池(地)となっている。堤防右手に新大利根橋が見えるが、七里の渡し跡の碑はその橋の辺りにあるようだ。



七里の渡し
「七里の渡し」は対岸の布施弁天で知られる布施や根所を結ぶ。「将門記」にある「大井の津」とも比される。幕末には流山から撤退した土方歳三も利根川をこの七里の渡しで渡り、戸頭-下妻-下館-白石-会津と下っていった。その七里の渡しは、享保15年(1730)に、土浦高津ー小張ー守谷ー戸頭ー布施と続く水戸街道の脇往還の完成とともに人馬の往来が多くなったようである。
また、陸路だけでなく、七里の渡しには「布施河岸」があり、江戸の中頃には船運も全盛期を迎える。利根川の東遷事業が完成し、銚子から利根川を関宿まで遡り、そこから江戸川に乗換えて江戸へと下る「内川廻り」とよばれる船運路が開かれたが、関宿辺りに砂州が堆積し船運に支障をきたすようになる。そこで、この地の布施河岸で荷を降ろし、江戸川の流山・加山河岸へと荷を運ぶことになった、とか。因みにこの陸路の物流ルートも流山での利根運河の開鑿により利根川と江戸川が直接結ばれることになり、主役の座を明け渡すこととなる。

米ノ井の神明神社
利根川の堤防を離れ、戸頭の台地に戻り次の目的地である米ノ井地区の神明神社にむかう。祭神は天照大御神。創建、由緒ともに不詳ではあるが、この辺りは伊勢神宮御料である相馬の御厨があったところ。将門は10数年に及ぶ京の都での御所の警備、禁裏滝口の衛士を終え、相馬の御厨の下司として下総に戻ってきたわけであり、その頃には伊勢神宮から天照大御神を分霊し神明の社を祀ったものか、とも。単なる妄想。根拠無し。
神明神社は米ノ井地区の北の上高井戸にも鎮座する。利根川の北の下総相馬の西のこの辺り一帯は相馬の御厨、そしてその西は犬養家の所領地。若き日の将門の拠点ではあったのだろう。戸頭地区には、御街道、館ノ越、宮の前、御所車、白旗、新屋敷、西御門、中坪、花輪、西坪、供平(ぐべ)など京の都を偲ばせる珍しい地名が残る。若き日々を京で過ごした将門が当時を思い起こして名付けた地名、とも。

○相馬御厨
ところで、この相馬御厨であるが、正式に成立したのは大治5年(1126),千葉常重が相馬郡司に任命され相馬郡布施郷を伊勢神宮に寄進してからと言う。千葉氏は将門の一門である下総平家の後裔であり、という事は、将門の時代には正式な相馬御厨は存在しないことになる。
どういうことかとチェックすると、『将門地誌:赤城宗徳(毎日新聞)』に、将門の父の良将の所領を伯父達に掠め取られた将門に対し、将門が京で仕えた大政治家である藤原忠平が、下総の伊勢の御厨に所領地を寄進することにより、その下司として安心して領地の開発に専念できるようにとの配慮であった、といった記事があった。将門が相馬御厨の下司云々の下りは、相馬の地にあった御厨の下司、といったことを簡略化して表現したものであろう、か。ともあれ、正式な相馬御厨は将門の取手市の米ノ井、高井戸一帯をといった御厨とは比較にならない、守谷、取手だけでなく、我孫子、柏一帯も包み込む広大ものであった、とか。

龍禅寺
道を進み米ノ井の舌状台地の端に龍禅寺。山門をくぐり本堂にお参り。寺の創建は延長2年(924)。承平7年(937)には将門が堂宇を寄進、と。慶長2年(1649)には三代将軍家光により十九石三斗の朱印状を受けている。境内には犬槇(イヌマキ)の大木が立つ。

○龍禅寺三仏堂
境内には取手市内に残る最古の建造物と言われる三仏堂がある。茅葺の重厚な美しさが誠に魅力的である。寺伝によれば、将門がここで生まれたとか、左甚五郎が一夜で作ったとの言い伝えがある。開創は不詳ではあるが、承平7年(937)に将門が修復したと「由緒書」に伝わる。三仏堂内の三仏とは本尊釈迦・弥陀・弥勒の三尊像。運慶の作とも伝わり、それぞれ過去・現在・未来の世を表す、と。
将門は父母の冥福を祈り、自らの守り本尊として三仏を崇敬したが、将門敗死の後は一時荒廃するも、源頼朝が建久3年(1251)国守千葉介常胤に命じて修理させた、と。現在の三仏堂は永禄12年(1569)に建てられたもので、茅葺の美しさとともに、正面に張り出された外陣、他の3方にも付けられたこし、といった独特な堂宇の姿が印象的。昭和51年に国指定重要文化財に指定されている。
寺に伝わる伝説によれば、将門が武運長久祈願のため、竜禅寺三仏堂に詣でたとき、堂前の井戸水が噴き上げて中から米があふれ出たと。境内に井戸は見あたらなかったが、この伝説が「米ノ井」の地名の由来、とか。もっとも、井とは堰のことで、これはかつて利根川沿いに堰を築き、水田を開拓した将門の功績を伝説として組み上げたものではあろう。

桔梗塚
次の目的地は本日の最後の目的地である「桔梗塚」。関東常総線の稲戸井駅近くの国道294号沿い、マツダ自動車販売の脇にあるとのこと。それらしき場所に着いてもマツダの看板などどこにも、ない。トヨタのディーラーはその付近にあったので、その生垣の中を覗き込んだりして塚を探す。結局トヨタの対面にその塚はあった。マツダのディーラーは店を移ったのか、その地には無かった。
国道脇のささやかなマサキの垣根の中に、将門の愛妾・桔梗の前の墓と伝えられる碑があった。案内によると「桔梗の前は秀郷の妹であり将門の愛妾となったが、戦が始まってから、将門側についたという兄の言葉に騙されて兄に情報を提供。秀郷はこれにより勝利を得たが、このことが暴露されると後世まで非難されると考え、この場所で桔梗の前を殺害した、と。里人おおいに哀れみ、塚を築いて遺骨を納めました。ここに植えられた桔梗に花が咲かなかったので、この辺りでは「桔梗は植えない、娘がいつまでも嫁に行けなくなるから。」と伝えられている(不咲桔梗伝説)。また、桔梗の前については、将門と共に岡(旧藤代町)の朝日御殿に住み、将門の死を聞いて、桔梗田といわれた沼に入水して果てた、とも。
桔梗の前のことはよくわかっていない。「将門地誌:赤城宗特(毎日新聞)」には香取郡佐原領内牧野郷の長者、牧野庄司の娘の小宰相、と記される。小宰相とは、素晴らしい女性との意味である。「将門記」にはその人物像を「妾はつねに貞婦の心を存し」と描く。竜禅寺に伝わる話では、桔梗の前は大須賀庄司武彦の娘で、将門との間に三人の子を設け、薙刀の名人であったと伝わる。
一方,その真逆の桔梗の前の人物像を伝える話しも多い。曰く「将門追討の将・秀郷に内通し、将門の秘密を教え、その滅亡の端緒をつくった」「桔梗は京の白拍子で、上洛中の将門に見染められとんを機縁に、秀郷の頼みで将門の妾となったが、将門の情にほだされて秀郷の命に背いたため、米ノ井の三仏堂に御詣りに行った途中、秀郷のによって殺された」といったものである。「将門地誌:赤城宗特(毎日新聞)」では、これらの伝説は、江戸時代に芝居で興味本位につくられたもの、とする。
上で承平7年(937)、将門と伯父の良兼戦いのにより芦津江の地で妻子ともに殺された、とメモした。この「妻」とは将門の正妻である真壁郡大国玉の豪族、平真樹(またて)の娘、君の御前である。桔梗の前も一緒に捕縛されたが、桔梗の前だけが解き放されている。義兼が桔梗の前に懸想した故との説もある。義兼が桔梗の前の父親である香取郡佐原領内牧野郷の長者、牧野庄司の勢力と敵対しないための政治的配慮との説もある(「将門地誌:赤城宗特(毎日新聞)」)。 桔梗の前については出自など、あれこれの伝説があり、門外漢には不詳であるが、記録に何も残らない正妻に比べての露出量を鑑みるに,さぞかしインンパクトをもった人物であったのだろう。

常総線・稲戸井駅
これで長かった本日の散歩も終了。関東常総線の稲戸井駅に向かい、一路家路へと。




(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

土曜日, 4月 13, 2013

草加散歩Ⅱ;草加宿から伝右川を下り足立区・花畑に

先回の散歩で東武伊勢佐木線・新田駅辺りから直線に下る綾瀬川の川筋は江戸の頃の河川改修の結果であり、元々の綾瀬川(古綾瀬川)は複雑に蛇行を繰り返す川筋であったことがわかった。古綾瀬川は外環道路より南にも下っていることも散歩を終えた後わかったのだが、その流路は蛇行を繰り返す外環道路の北の流路とは異なり、如何にも河川改修がなされたような流路となっている。それはともあれ、古綾瀬川と合流した綾瀬川は南に下り、足立区花畑のあたりで、綾瀬川と沿って南に下ってきた伝右川、東から流れくる毛長川と合流する。合流点から下流は、大きく緩やかなカーブを描いた後、南花畑の内匠橋辺りからは小菅に向かって一直線に進む。この流路は江戸初期に関東郡代・伊奈氏によって新たに開削された水路、とか。一雨毎に流路が変わったとも言われ、千々に乱れる往昔の綾瀬川下流域ではあるが、大雑把に言って、一筋は足立区花畑あたりから東へと向かい松戸の近くで江戸川に流れ込んでおり、そして、もうひと筋は水元公園の辺りから中川筋(といっても、開削される前の古利根川の細流)へと下ったようである。

草加散歩の第二回は、草加宿からはじめ足立区・花畑に向かって綾瀬川筋を下ることにする。先回の散歩でメモしたように大川図書が湿地を埋め立て、草加から越ヶ谷へと直線に進む道を開いた結果、多くの人がこの道筋を往還するようになり、越ヶ谷宿までの「間の宿」として草加宿の設置が図られた、と言われる。また、天和3年(1683年)、伊奈半左衛門が、九十九曲がりと称され千々に乱れる綾瀬川の流路の直線化工事を行った大きな要因も日光街道・草加宿の設置に伴うものと聞く。
散歩のルートは草加宿を巡った後、直線化工事の行われた綾瀬川に進み、草加松原に。その後は綾瀬川でなく、綾瀬川に沿って花畑に下る伝右川を辿ることにした。理由は特にないのだが、伝右川と言う川の名前に惹かれたから。ゴールは綾瀬川、伝右川、そして毛長川が合流する花畑の大鷲神社。数年ぶりに訪れることになる、「お酉さま」の本家本元の現在の姿を楽しみに、散歩に出かける。

本日のルート;東武伊勢佐木線・草加駅>歴史民俗資料館>旧日光街道・駅入口>回向院>浅古正三家>浅古家の地蔵堂>草加神社>葛西道>天満宮>三峯神社>葛西道>八幡神社>藤城家>大川本陣跡>清水本陣跡>氷川神社>おせん茶屋>東福寺>神明宮>河合曽良像>おせん公園・草加せんべい発祥の地>札場河岸公園>芭蕉像>草加松原遊歩道>矢立橋>谷古宇橋>甚佐衛門堰>古綾瀬川合流>谷古宇稲荷>樫の大木>シイの木稲荷>天満宮>日枝神社>伝右川>伝右川・綾瀬川・毛長川合流点>花畑・大鷲神社>東武伊勢佐木線・谷塚駅

歴史民俗資料館
東武伊勢佐木線・草加駅で下車。まずは駅近くにある歴史民俗資料館に向かう。建物は大正15年(1926)に建てられた草加小学校西校舎跡を活用したもの。埼玉県初の鉄筋コンクリート造りの校舎として、平成20年(2008)、国の登録有形文化財に指定されている。館内には板碑などと共に、金明町の綾瀬川から発掘された縄文時代の丸木船が展示されている。
実のところ、この資料館には数年前に訪れたことがあるのだが、結構雑然と置かれている、といった印象であった資料が、少し「展示」の姿になっていた。それでも、散歩の折々に訪れる幾多の郷土資料館と比べて、依然、少々寂しげな資料館ではある。時空散歩のヒントになるような資料も見つからず、結局は古本市で買い求めてあった『埼玉ふるさと散歩 草加市;中島清治(さいたま出版会)』を頼りの散歩となった。



地蔵堂
歴史民俗資料館を離れ、とりあえず草加宿の南端から散歩をスタートすべく、草加駅の東を少し下った草加市役所の敷地に残る地蔵堂に向かうことにする。そこが往昔の草加宿の南端とのことである。
この地蔵堂は江戸中期、草加の豪商である浅古半兵衛が創建した地蔵堂。ために、浅古家の地蔵堂とも称される。建築様式は本瓦葺(現在は銅板葺)宝形造りで、正面のみに後背をつけ、屋根を葺き下ろす。本尊の地蔵菩薩は赤掘用水に流れてきたものを拾い上げて祀ったもの(『埼玉ふるさと散歩 草加市;中島清治(さいたま出版会)』より)。草加宿の南端にあるため宿の境神(塞の神)として疫病など悪しきものから宿を護った。
浅古半兵衛は幕末から明治にかけて大和屋の屋号で全国二位とも言われる商いを誇った質屋、とか。草加16人衆の中でも最大の実力者であり江戸店も出していた、と言う。現在の市役所は浅古家の屋敷神であるこの地蔵堂を除く浅古家の屋敷跡を購入して建てたとのことである。

浅古家の蔵屋敷
旧日光街道を北に進む。草加宿は明治3年(1870)の大火で壊滅的な被害を受けており、僅かに旧家が残る、のみ。草加の町並みは新旧の建物が同居しており、ビルやマンションの間に旧家があると言う感じである。左手に見える蔵造りの商家は浅古家の建物。明治30年(1897)に建てられたもの。店舗と住居と蔵が連なる平面形式は町屋建築の基本、とか(『埼玉ふるさと散歩 草加市;中島清治(さいたま出版会)』より)。




回向院観音寺

地蔵堂から旧日光街道を北に少し進むと道の右側、奥まったところにこじんまりとした本堂。草加山観音寺と称する浄土宗のお寺さま。寺伝によると、回向院とも称されるこのお寺さまは承応2年(1653)、村民源右衛門が開基。元禄14年に開山とのことではあるが、大正11年(1922)の火災で焼失したため、詳細は不明。本堂には阿弥陀三尊、善導大師、法然上人が祀られる、とのことである。






草加神社の標柱

地蔵堂から北に向かって100mほど進むと、草加市役所北交差点に「草加神社」の標柱。大正4年(1915)に建立されたもの。地図を見るに、草加神社は結構西に離れてはいるのだが、草加宿に来て草加神社をパスするのも、なんだかなあ、ということで旧日光街道を離れ草加神社へと向かう。

草加神社
道を折れるとすぐに「おびんずる様」を祀る薬師堂がある、とのことだが、その場所は、コインパーキングの辺りだとは思うのだが、見つけることができなかった。オビンズルさまとは十六羅漢のひとつ。オビンズル様こと、ビンズル尊者には散歩の折々に出合った。撫で仏様として坐っていることが多かったように思う。赤ら顔の飲ん兵衛がキャラクターイメージ。放蕩の末、反省し仏弟子となった、はず。十六羅漢とは、仏を護持する16人の佛弟子のこと。

東武伊勢佐木線のガードをくぐり先に進むと草加神社があった。旧日光街道から400m強といった距離。石造りの鳥居には、「氷川神社」の旧名が掲げられている。参道に沿って公園があったり、SLが置いてあったりと、厳めしい社の雰囲気ではない。二の鳥居をくぐると拝殿。江戸末期の建立と伝えられる。境内の左右には明治に合祀された境内社が鎮座する。
二間社流造りの本殿は天保の頃の造営と伝わる。本殿を飾る多彩な絵様彫刻は宝暦年間(1751~1764)、江戸の名匠立川流の職人の手になるものである。
草加神社(当時・氷川神社)は、安土桃山時代(天正年間頃1573~1592)に、武蔵國一宮である大宮の氷川神社を分祀し小祠を祀ったのがはじまり。元は氷川神社と呼ばれ、南草加村の鎮守であったようだが、明治40年(1907)に草加市内の11の社を合祀し、同42年(1909)には氷川神社を改め草加神社とし、草加の総鎮守となした。

立川流彫刻
立川流彫刻とは江戸時代後期に栄えた伝統彫刻。伝統彫刻には仏像彫刻と神社・仏閣などの楼閣彫刻があるが、立川流は宮彫と称される楼閣彫刻の流派である。宮彫は当初は宮大工の棟梁がおこなっていたが、次第に宮大工と宮彫師と専門化することになる。宮彫には大隅流と立川流があり、江戸の前期は大隅流。後期は立川流が主流となる。
立川流も元は大隅流から分かれたもの。もとは江戸の本所立川掘りに居を構えたことから立川流と称されるようになった。これを江戸立川流と呼ぶ。が、一般的に立川流と呼ぶのは信州の諏訪立川流。もとは江戸立川流で修行するも、地元の諏訪に戻り、本家の江戸立川流を凌ぐ流派となった。そのきっかけとなったのは地元諏訪での大隅流とのコンペ。諏訪退社春宮を大隅流、秋宮を諏訪立川流が受け持ち、結果秋宮が圧倒。諏訪立川流の出世作となった。
大隅流の代表的な作品は日光東照宮や湯島の聖堂。立川流の代表的な作品は静岡浅間神社、長野善光寺、京都御所、静岡秋葉神社本宮、諏訪大社上社、豊川稲荷、山車では亀崎の山車、高山の山車などが代表的で、現在多くのものが国や県の文化財に指定されている。しかしながら、宮彫も、明治以降は時代の流れで衰退し、流派は途絶えた、と。

葛西道道標

草加神社道標のある交差点まで戻り。少し北に進むと、「埼玉りそな銀行」脇に「日光街道 葛西道」道標がある。この道はかつて草加宿と東京の葛西方面を結んでいた道で、千住宿・越谷宿間の日光街道の新道が敷かれる前から通じていた古道とのことである。江戸の頃には、赤山(川口市)にあった関東の幕府天領を納める関東郡代・伊奈氏の陣屋と、その支配地であった葛西地域(東京都葛飾区・江戸川区)を結ぶ道であった、とも。草加市の手代町の北を通り、八条村、潮止村(八潮市)にも通じる本道であったようでもある。






三峯神社

銀行脇を通る葛西道を辿り、県道49号線まで進む。県道の東に、如何にも葛西道の続きらしき道筋は見えるのだが、葛西道の雰囲気を感じるのはここまでとし、歩みを止める。葛西道の少し南に三峯神社。ささやかな祠にお参りし、草加宿の道筋に戻る。






高砂八幡神社
草加駅入口交差点の脇にある道路元標を見やり、交差点から70mほど北に進むと道の東側、商店街というか民家の続く路地の奥まったところに八幡神社があった。
八幡神社の創立年は不詳とされるが、「草加見聞史 全」には、享保年間(1716年~1736年)に稲荷神社として創建され、安永6年(1777年)ごろ神明宮に寄進された八幡像を稲荷社に合祀して八坂神社と称し、草加宿下(シモ)三町の鎮守となった、とある。新編武蔵風土記稿には「正徳(1711-1715)の頃神主長太夫なるもの、八幡の神体を稲荷社に合殿として祀った、となっている。どちらがどうなのか門外漢にはわからない。





当神社は明治42年(1909年)4月、草加神社に合祀されたが、現在も高砂2丁目町会によって管理されている、と。草加宿は南草加村、北草加村、吉笹原村、原島村、立野村、谷古宇村、宿篠葉村が集まって造られたとのことであるが、下(シモ)三町って、南草加、北草加、吉笹原の辺りだろう、か。拝殿には、昭和56年(1981年)に市の文化財に指定された獅子頭一対が社宝として所蔵されている、とのことであるが、もとより拝見すること叶わず。





藤代家道に沿って明治初期建築の旧商家藤代家。草加宿に残る数少ない町屋建築の建物である藤代家を見やりながら進むと道路元標識。明治44年(1911)建立。ここを起点に谷塚・千住・越谷・浦和・栗橋への距離が示される。千住町へ2町17丁53間三尺、越谷へ1里33丁30間2尺、などといった案配である。この道路元標がかつての問屋場があったところ。その先隣りが本陣清水家跡である。


本陣跡
本陣・清水家は現在堀川産業本社となっている。その先に脇本陣の松本家。脇本陣は松本家と丸山という旅籠が交代で務めていた、と。清水家本陣跡の旧日光街道を隔てたマンションが大川本陣跡。大川本陣は宝暦年間(1751-1763)まで。その後は明治まで清水家が本陣を務めたとのことである。
草加宿のはじまりは慶長11年(1606)に遡る。宿篠葉村(松江町)の大川図書が中心となり、瀬崎(草加市の南端。足立区との境をなす毛長川の北一帯)から谷古宇にかけての低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、千住~越ケ谷間をほぼ一直線に結ぶ新往還道を築き上げた。この草を重ね加えたことが草加の由来、とも言う。
新往還道が開かれる以前の千住~越ケ谷間は、沼地に遮られ花俣(現在の花畑)から八条(八潮市)に出て、古利根川と元荒川の自然堤防伝いに越ケ谷に出るという迂回ルートとなっていた。新往還道が完成すると旧来の迂回路を避け、新往還を利用する旅人が急増し、新道沿いに町場が形成されていった。そして新往還に旅人が増大していく中で、人馬を千住から越ケ谷まで長距離継立てすることが困難となり、寛永7年(1630年)、草加は千住宿に次ぐ2番目の宿、千住宿と越ケ谷宿の「間(あい)の宿」として取り立てられることになる。
当時、新道沿いには1つの村で宿を編成できるほどの大きな集落がなかったため、南草加、北草加、吉笹原、原島、立野、谷古宇、宿篠葉、与左衛門新田、弥惣右衛門新田の9か村(与左衛門新田、弥惣右衛門新田を除いた7新田とも)が組合立で草加宿を成立させたとされる。
開宿当初の規模は、戸数84軒、南北の距離685間、伝馬役人夫(人馬の継立て役)25人、駅馬25頭といわれ、旅籠屋の数5、6軒、他に豆腐屋、塩・油屋、湯屋、髪結床、団子屋、餅屋が1軒ずつ軒を並べる程度で、他はすべて農家だった、とか。
元禄2年(1689年)ごろになると戸数は120軒に増え、正徳3年(1713年)に草加宿総鎮守として神明神社が建てられ六斎市(毎月6回、定期的に開かれた市)が開かれるようになると、草加宿は近郷商圏の中心地として急速に発展した。

享保13年(1728年)には、伝馬役人夫が50人、駅馬が50頭となって開宿当初の2倍まで増加し、天保14年(1843)には、南北12町(およそ1.3キロ)、人口3,619名。家数723軒。本陣1,脇本陣1、旅籠67軒(大2軒、中30軒、小35軒)と飛躍的な規模拡大が見られ、「宿村大概帳」によれば、草加宿の街道沿いには余すところなく家々が軒を連ねた、と記す。日光街道の往還や綾瀬川の舟運の発達により、江戸の頃、草加は大宮や浦和より大きい集落ではあったわけである。草加宿の位置は、南は草加市役所の前に建つ地蔵堂付近から、北は神明一丁目の草加六丁目橋付近までと考えられている。

氷川神社

さらに先に進むと、道の西側、草加小学校のあたりにこれまたささやかな祠。氷川神社とある。この社には縁結びの神としての「平内さん」の縁起がある。平内さんとは江戸時代の実在の人物で、夜な夜な辻斬りなどの悪行を重ね、市それ故に自身の財業消滅を願って己の像を造り、通行人に「踏みつけ」させた。これが後に「踏みつけ>文付け」に転化され、縁結びの神として親しまれるようになった、とか。
とはいうものの、この「平内さん」は、この社だけに登場するわけでもない。いつだったか浅草の浅草寺を歩いたとき、そこに「久米平内堂」が祀られており、そこでもこの氷川の社の縁起とまったく同じストーリーで縁結びの神として祀られていた。
平内は実在の人物。江戸初期の津和野藩士、城下で津 和野小町といわれた呉服商の娘お里の危急を救い人を殺めて、江戸に出奔。剣の修行に努めた。その後は千人切りを目指し、夜ごと辻斬りを行い悪行を重ねたとか、も心ならずも喧嘩のあげく人を殺めたなど諸説あるようだが、ともあれ、その罪を償うために浅草寺内に住まいし禅の修行に励んだ。そして死後罪を償うために己の像を道下に埋め、人に踏み付けられることを求めた、とか。踏み付け>文付けの転化で、恋の仲立ち>縁結びの神として祀られた、と。この平内さんの話は滝沢馬琴が読み本にしたり、歌川豊国が浮世絵に描いたりした結果、この話がひろがり、この地にも伝わったのだろう。

おせん茶屋
八幡神社から500mほど、旧街道沿い右側におせん茶屋跡。草加せんべいの祖「おせんさん」に因んだ公園・休憩所となっていた。高札を模した掲示板などもあり、おせんべいの製造法などを見やりながら少々休憩。
草加せんべいのはじまりにはいくつかの伝説がある。代表的なものは、日光街道の草加松原に旅人相手の茶屋があり、おせんさんのつくる団子が評判だった、と。おせんさんは、団子が売れ残ると川に捨てていたが、ある日それを見た武者修行の侍だか、旅人が「団子を捨てるとはもったいない、その団子をつぶして天日で乾かして焼餅として売っては」とアドバイス。おせんさんが早速売りだしたところ、日持ちもいいし、携帯できる美味しい「堅餅」として大評判になり、日光街道の名物になった、とか。このような、穀粉をゆでてから焼いて(または揚げて)つくる菓子の製法は、遣唐使が中国から持ち帰ったものといわれる。

東福寺

おせん茶屋の少し北、道の東に東福寺参道入口がある。長い参道を進むと山門。四脚門切妻造りの山門は堂々として、いい。本堂にお詣り。欄間の龍の彫刻もなかなか、いい。境内にある鐘楼にも龍の彫り物が施されている。山門、本堂の欄間彫刻、鐘楼は市の文化財に指定されている。
東福寺は草加宿を開いた大川図書(ずしょ)が、慶長11年(1606年)に創建したと伝えられる。大川図書は、小田原北条氏に仕えていたが、天正18年(1590年)に小田原城が落城したことにより浪人となり岩槻に移る。その後、朋友の関東郡代・伊奈備前守忠次の計らいで草加の谷塚村、宿篠葉村に移り住む。

既にメモしたことではあるが、当時、草加より越ヶ谷間には一雨毎に流路が変わるとも言われた綾瀬川によってつくられた湿地・沼が広がり、越ヶ谷に行くには古利根川と元荒川の自然堤防伝い大廻り強いられる迂回ルートしかなかった。ために、慶長11年(1606年)に、宿篠葉村(松江町)に住んでいた大川図書が中心となり、瀬崎から谷古宇にかけての低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、千住~越ケ谷間をほぼ一直線に結ぶ新往還道を築き上げた。
この越ヶ谷を直線で結ぶ道が完成すると、大廻りの迂回路を避け、この新道の往還が急増。日光街道の千住と越ヶ谷の間の宿として草加宿ができることになる。草加宿を開く立役者となった大川図書はこの功績により幕府から「名字帯刀」を許され、草加宿で宿役人などの職が与えられた。図書はその跡も新田の開発や農業の振興などにも大きな功績を残している。現在の草加小学校は大川図書の屋敷跡、とか。
上で草加の由来は、湿地に草や葦を敷き加えたことによる、とメモした。異説もある。『草加宿由来』には「二代将軍徳川秀忠が鷹狩りを大原村(八潮市)で行い、舎人(足立区)の御殿で宿泊することとなったが、大原と舎人の間には草野が広がり沼もあって人馬が進みにくかった。ために、大川図書に道の補修を命ぜられた。図書は村人を集め、草を刈り、葦や柳を切って湿地を埋め立て新道をその日のうちに造った。そして、秀忠から「これは草の大功である。これからはここを草加と名付けよ」と上意があった、という記述がある、と。「草の功」が、草加の由来との説がこれである。

神明神社
旧日光街道を進み、右にカーブし県道49号足立・越谷線に合流する辺りに神明神社。祭神は天照大神で、そのほか御神霊石も祀られている、と。創建は与左衛門新田の名主吉十郎の祖先が、元和元年(1615)に、宅地内に小社を建立したことに始まる、と。「草加見聞史 」によれば、元和(1615年~1624年)の初め、一人の村人が宅地内に自然石を神体とする小社を建てたのが始まりとする。八幡神社の縁起と同じく門外漢にはどちらがどうとも詳らか成らず。それから約百年後の正徳三年(1713)に、この地へ移され、草加宿組9ヶ村の希望により草加宿の総鎮守となった。 その後、安永六年(1777)に、草加宿の一丁目から三丁目までが、二丁目稲荷社を八坂神社と改称したことから鎮守の分離が行われた。この稲荷社とは、先ほど訪れた高砂八幡神社のことではあろう。
天保年間(1830年~1844年)に社殿を焼失。弘化4年(1847年)に再建され、明治34年(1901年)と昭和52年(1977年)に修繕が施されて現在に至っている。上記の八幡神社と同じ明治42年(1909年)に草加神社に合祀された。

境内を眺めていると境内入口に「高低測量几号」の礎石がある。「神明宮鳥居沓石(礎石)の高低測量几号」の案内によると;石造物に刻まれた「(木の上が飛び出していない形」の記号は明治九(1876)年、内務省地理寮がイギリスの測量技師の指導のもと、同年八月から一年間かけて東京・塩釜間の水準測量を実施したとき彫られたものです。記号は「高低測量几(き)号」といい、現在の水準点にあたります。この石造物は神明宮のかつての鳥居の沓石(礎石)で、当時、記号を表示する標石には主に既存の石造物を利用していました。この水準点の標高は、4.5171mでした。
その後、明治十七年に測量部門は、ドイツ方式の陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われませんでした。しかし、このような標石の存在は測量史上の貴重な歴史資料といえます」とあった。

伝右川

神明神社の北側、県道49号と旧日光街道の合流点の交差点脇に「おせん公園」がある。公園には「草加せんべい発祥の地碑」が建つ。公園の北側を流れるのが伝右川である。
伝右川はさいたま市緑区高畑(もう少し北の見沼区膝子辺り、とも)を源とし、同区の大門に到る。大門地区からは綾瀬川に沿って川口市戸塚の低地を流れて草加市市に入る。新栄町で東に流路を変える綾瀬川と離れ、南東へと下り学園町の辺りで流路を東に変え、この地・おせん公園に下る。




この地から伝右川は再び綾瀬川と平行して流れ、札場河岸公園付近では綾瀬川と並行して流れ、足立区花畑で綾瀬川に注ぐ。川の名前は開削者の井手伝右衛門より。寛永5年(1628)関東郡代・伊奈半十郎忠治の家臣であった伝右衛門が低湿地の干拓を目的に開削したとされる。伝右衛門堀とも呼ばれた。 伝右川は川幅が狭いため洪水被害も多く、昭和3年(1928)には増水時に綾瀬川に水を流す「一の橋放水路」が掘られている。県道162号に沿って、新栄小学校の南を東西に貫く水路がそれであろう。



伝右川は綾瀬川の支流では最も水質が悪く、草加市の吉町の浄化施設や、埼玉高速鉄道のトンネルを使って荒川の水を伝右川に導水するといった水質改善が行われている、と。水面を眺めるに、臭気は無いものの、水質は依然として濁った状態ではある。

札場河岸公園
県道と旧日光街道の合流点脇に「河合曽良の像」。芭蕉の門人として「奥の細道」を共に辿った俳人である。「河合曽良の像」を見やり横断歩道を渡り、伝右川に架かる「草加六丁目橋」の先は「札場河岸公園」。綾瀬川の舟運華やかなりし頃の河岸跡を公園として整備している。公園に入ったところには芭蕉像や河岸の雰囲気を伝えるためか、望楼が造られている。用水フリークとしては、何をおいても河岸であり堰であるので、望楼や芭蕉を差し置いて、まずは公園の南端にある札場河岸跡と甚左衛門堰へと向かう。

札場河岸

望楼を見やり休憩所を越えて少し南に進むと綾瀬川に船着場らしき石段。札場河岸跡は綾瀬川災害対策事業の終了を記念し平成元年(1989)から3年にかけて整備されたもの。ぱっと見た目には、最近整備されたものとは思えなかった。船着場には柵があり下りることはできなかった。
札場河岸はもともと甚左衛門河岸と呼ばれ、野口甚左衛門の私河岸。札場河岸と呼ばれたのは、甚左衛門の屋号が「札場」であり、また、安政大地震により御店を河岸脇へ移転したため。
甚左衛門は年額12両の河岸使用料を請負業者から受け取る代わりに、この河岸から130mほど下流の谷古宇土橋までの堤防の修理を行うことを、その義務とした。
綾瀬川の舟運は、江戸時代の中期から、草加地区と江戸を結ぶ大切な運河として多くの船が行き交い、草加、越谷、粕壁(春日部)など流域各所に河岸が設置され、穀物等の集散地としてまちが発展した。この札場河岸では草加宿や赤山領(現・新田地区の一部)の年貢米を積み出し、そのほかさまざまな荷の船積み、荷揚げをおこない、舟運は、明治、大正に至るまで発展を続たが、鉄道の開通など陸上交通が急速に発展したことで衰退し、昭和30年代には姿を消した。

甚左衛門堰

札場河岸の右手には甚左衛門堰がある。建設当初の姿を留める煉瓦造りの堰は、用水フリークには誠に有り難い遺構。案内によれば、「明治二十七年から昭和五十八年までの約九十年間使用された二連アーチ型の煉瓦造水門。煉瓦は、横黒煉瓦(鼻黒・両面焼煉瓦ともいう。)を使用している。煉瓦の寸法は、約21cm×10cm×6cm。煉瓦の積み方は段ごとに長平面と小口面が交互に現れる積み方で、「オランダ積」あるいは「イギリス積」と呼ばれる技法を用いている。
煉瓦造水門『甚左衛門堰』は、古いタイプの横黒煉瓦を使用しており、建設年代から見てもこの種の煉瓦を使った最後期を代表する遺構である。また、煉瓦で出来た美しい水門は、周囲の景観に溶け込み、デザイン的にも優れたものであり、建設当初の姿を保ち、保存状態が極めて良く、農業土木技術史・窯業技術史上でも貴重な建造物である(草加市教育委員会)」、とあった。

望楼
河岸跡や堰でゆったり時間を過ごした後、今度は綾瀬川に沿って草加の松並木を少しだけ北に辿る。甚左衛門堰を離れるとすぐに先ほど通り過ぎた望楼閣。五角形の建物の高さは11mほどの見張り櫓。内部を上ることもできるとのことだが、パス。某建築設計事務所の作品としてこの望楼が記されていたので、造られたのはそれほど昔、というものではないようだ。
子規歌碑
望楼の隣りにある休憩所の後ろに正岡子規の歌碑。「梅を見て 野を見て行きぬ 草加まで 子規」。案内によれば、明治27年(1894)、東京郊外に梅を愛でる吟行のため高浜虚子とともに上野の根岸から歩きはじめ、草加に立ち寄った時に詠ったもの。

松尾芭蕉像

札場河岸公園の入口にあった芭蕉像まで戻る。この像は『おくのほそ道』旅立ち300年を記念して製作されたブロンズ像。友人や門弟たちの残る江戸への名残りを惜しむかのように江戸を見返る姿、とのこと。
綾瀬川に沿って続く松並木を辿ると、松尾芭蕉に関する説明が記載された看板が建っていた。解説板によると;「1689年(元禄2) 3月27日、46歳の松尾芭蕉は、門人の曽良を伴い.奥州に向けて江戸深川を旅立ちました。深川から千住宿ま舟で行き、そこで見送りの人々に別れを告げて歩み始めたのでした。この旅は、草加から、日光、白河の関から松島、平泉、象潟、出雲崎、金沢、敦賀と、東北・北陸の名所旧跡を巡り、美濃国大垣に至る600里 (2400km)、150日間の壮大なものでした。この旅を叙したものが、日本三大古典に数えられる「おくのほそ道』です・
 月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口をとらへて老をむかふる者は、日々旅にして、旅を栖とす・・・・

あまりにも有名なその書き出しは、「予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて漂泊の思ひやまず・・・」と続き、旅は日光道中第2の宿駅の叙述に進みます。
もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加(草加)といふ宿にたどり着きにけり

 芭蕉は、肩に掛かる荷物の重さに苦しみなから2里8町(8.8km)を歩き、草加にたどり着きました。前途多難なこの旅への思いを吐露したのが草加の条」です。「おくのほそ道」の旅は、この後草加から東北へと拡がっていくことになります)、とある。

日光街道の松並木
公園から北には綾瀬川に沿って松並木が続く。この松並木は先回の散歩でメモしたように、天和3年(1683年)に伊奈半左衛門がおこなった綾瀬川直線化工事の区間であり、綾瀬川に沿って日光街道が通る。松林は日光街道に沿っておよそ1.5キロ、江戸時代より「草加松原」「千本松原」と呼ばれる名所となっていた。松並木は天和年間の開削工事に合わせ日光道中を開削した時に植えた、とも言われるが、寛延4年(1751年)成立の『増補行程記』(盛岡藩士清水秋善筆)には松並木は描かれてはいない。寛政4年(1792年)に1230本の苗木を植えたということが記録に残り、文化3年(1806)完成の『日光道中分間延絵図』には街道の両側に松林が描かれている。
松並木の続く遊歩道には矢立橋、百代橋などという如何にも芭蕉を想わせるような橋が続く。日光街道の趣きを演出するためだろうか、橋の形も太鼓橋のようなものになっている。百代橋の南詰めには橋名の由来碑。碑面に「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」の文字を刻む。

松尾芭蕉文学碑
橋の北詰めんには「おくのほそ道」の草加の段を刻む松尾芭蕉文学碑。「ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと、定なき頼の末をかけ、其日漸早加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物、先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。また、その北隣りには奥の細道文学碑。「その日ようよう草加という宿にたどり着にけり」と刻する。

■伝右川を下る
草加の松並木を百代橋辺りで折り返し、再び南へと下ることにする。川筋は綾瀬川に沿って下るか、伝右川に沿って下るか少々迷ったのだが、結局は伝右川筋を歩くことにした。理由は特にないのだが、どうしたところで本日の最終目標地である花畑の大鷲神社の辺りで伝右川は綾瀬川に合流するわけで、それなら散歩をはじめるまで名前も知らなかった川筋を歩いてみよう想ったのではあろう、か。

谷古宇稲荷
甚左衛門橋まで戻り、神明排水機場を左に眺めながら伝右川を下る。八条小橋を越えて100mほど進んだところに谷古宇稲荷がある。創建は不詳。神体は自然石とのこと。神社の建物は18世紀後半から19世紀はじめの特徴を示すと言う。境内の眷属である狐の像は素朴な表情とともに、子狐をあやす姿が誠に、いい。眷属の台座には、草加宿商家の屋号と女性の名前が刻まれており、多くの人々の信仰をあつめた証しではあろう。

先回の散歩において、谷古田用水のところでメモしたが、谷古宇とはこの地だけに残る古い地名とのこと。江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿 足立郡之四』の谷古田領本郷村(現在の川口市本郷)の項に、「本郷村ハモト谷古田郷ト唱ヘシヨシ云伝フレバ、其本郷タルコト知ベシ。按ルニ鶴岡八幡宮ニ蔵スル古文書及ビ東鑑ニ武蔵国矢古宇郷ヲ鶴岡社領ニ寄進アリシ由載タルハ、則此邊ノコトナルベシ。今此領ニ属スル村ニ谷古宇ト称スル所アリ。是古ノ遺名ニシテ舊クハ此邊スベテ矢古宇郷ト唱ヘシヲ、後イカナル故ニヤ谷古田ト改メ、今ハ領名トナリシナラン」、と。また『東鑑』にも、承久3年(1221年)鎌倉の鶴岡八幡に寄進されという50町の矢古宇郷(草加市神明)の記述が残る。何故か後世、矢(谷)古宇が矢古田に改められた、とある。
鎌倉時代の谷古宇郷の地頭の名に谷古宇右衛門次郎の名が残る。また、谷古宇という姓は全国に1200ほどあると言うが、その40%から50%は埼玉にある、とのことである。
いつだったか足立区の北端を彷徨ったとき、草加の南を区切る毛長川流域・足立区の竹の塚に伊興遺跡があった。毛長川流域に古代栄えた一帯であり、埼玉古墳群の先駆けとなるような豪族の存在があった、とのことであるが、それよりなにより、この「伊興」は「伊古宇」であり、「伊古宇」も「矢(谷)古宇」も同じ意味、というかどちらか一方から音が変化したもの、との説がある。「い」も「や」も「湿地」を著す、とか。「古宇」は市川の国府台(こうのだい)に代表される「国府」とも。湿地にある国府のような政治の中心地の意味、と言う。その説が妥当か否か、門外漢には判断できないが、鎌倉時代の『東鑑』に伊興遺跡や伊興古墳群が存在する足立区伊興を管轄する地頭として「伊古宇又二郎」の名が登場する。伊古宇も矢古井戸も地元の有力者であったことは間違いないようだ。

椎の木稲荷
南へ下り、谷古宇新橋を越え、道脇の椎の大木を過ぎた少し南に椎の木稲荷。畑の脇に僅かに残った数本の大木の下に祠がかろうじて残るといった社である。境内などといった趣は何も、ない。落雷の被害に遭った、とか。

天満宮
椎の木稲荷を過ぎた頃より、伝右川の先に東京スカイタワーが見える。なかなか、いい眺めである。更に南へ200mほど進むと県道327号(鶴ヶ曽根・草加線)。この道を東に進めば草加駅にあたる。この県道沿い、裏手に伝右川を見下ろすように天満宮がある。創立は不詳とのこと。
県道327号に架かる東小橋、その南の地蔵橋を越え先に進む。地蔵橋の南100mほどのことろに灌漑用の水門であった手代堰跡がある、とのことだが、探すも、結局見つけることができなかった。
手代堰跡は見付けられなかったが、川沿いにいくつかの野仏、皇太子御降誕記念碑とともに「成田山」と刻まれた大きな石碑があった。成田山参詣を記念した石碑であろう、か。
手代の由来はこの辺りが古くから手代、手白、手城などと呼ばれており、大字吉笹原字手白と大字谷古字の一部を合わせて町とする時、手代町とした。

日枝神社

上山王橋、山王橋へと下る。山王橋の右手前に日枝神社。創立は不詳であるが、境内の手洗石や石灯籠、そして本殿の棟札に残された記録から19世紀の前半頃には社があったかと推測されている。彫刻の施された一間社流造りの本殿は市の文化財指定を受けている。
この橋と神社のように山王と日枝はペアで登場することが多い。その理由は、日枝神社は、日吉山王権現が明治の神仏分離令によって改名したもの。「**神社」って呼び方はすべて明治になってからであり、それ以前は「日吉山王権現の社(やしろ)」のように呼ばれていた(『東京の街は骨だらけ』鈴木理生:筑摩文庫)。その日吉山王権現という名称であるが、これって、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた、ということ。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということである。

吉町浄水場

南に下ると吉町浄水場。草加市にある5つの浄水場(新栄配水場、中根浄水場、吉町浄水場、旭浄水場へ、谷塚浄水場)のひとつ。草加市の上水は江戸川水系と荒川水系から(これを「県水」と呼ぶ)の水と地下水によってブレンドされてつくられている。ブレンド率は県水85%と地下水15%とのこと。江戸川水系の県水は庄和浄水場(春日部市)経由と、新三郷浄水場(三郷市)経由。荒川水系は、大久保浄水場(さいたま市)経由となる。庄和浄水場の水は中根浄水場とこの吉町に送られ市内へ、また中根浄水場(市内の北東側)を経由して旭浄水場(松原団地一帯)から市内へ、この吉町上水場を経由し谷塚浄水場(市内の東南部)から市内に送られる。新三郷浄水場からは新栄浄水場(市内の北西部)に送られ市内へ。一方荒川水系の水は大久保浄水場から新栄浄水場を経て市内へ送られる。
地下水と言えば、原発事故で放射能が問題になったとき、この草加では地下水を各家庭に配給したことでニュースになっていた。

吉原の地名は昔の地名である吉笹原の「吉」から採ってつくられた。吉笹原は江戸時代初期は吉篠原村と呼ばれ、その後、吉笹原村と改められた。1もともと芦や笹の繁る「芦篠原」と呼ばれていたが、「芦」という読みは「あし(悪)」につながるということで、「芦」をめでたい「よし(吉)」に変えたもの、とか。

伝右川浄化施設
県道54号を越えて先に進むと伝右川の流路は直角に曲がる。その角に伝右川浄化施設があった。伝右川浄化施設の上はテニスコートやグランドになっている。案内によれは、伝右川の水を取り込み、水質汚染の原因となる有機物等を浄加槽内に設置した球状砕石集合体に生息する微生物の代謝活動により分解し浄加し、再び伝右川に戻す。伝右川が直角に曲がるところに暗渠となった水路がある。これは赤堀用水とのことであるが、伝右川浄化施設からの水はこの赤堀用水を経て伝右川に流されているようである。
赤堀用水とは大門村差間(現在の川口市差間)に設けられた用水。関東郡代伊奈氏の赤山領を流れる灌漑用水。川口市の安行中学辺りから草加市の氷川町を経てこの地へと下っているのだろう。

伝右川排水機場
伝右川と赤堀用水の合流点で道は行き止まりとなる。右に折れすぐに左に折れ、瀬崎中学校脇を南東に下る。ガスタンクが見える手前で左に折れ、伝右川の川筋に出る。草加市記念体育館脇を進み成り行きで伝右川の橋を渡り「あやせ川清流館」にちょっと立ち寄り、伝右川排水機場に。
伝右川排水機場は、伝右川と綾瀬川、そして毛長川の合流部に位置し、草加市、八潮市に大きな被害をもたらした昭和56年(1981)の台風24号の激特事業の一環として、伝右川流域の洪水、内水被害の軽減を目的として建設。平成16年(2004)に完成した。

伝右川・綾瀬川・毛長川の合流部

伝右川排水機場の脇に立ち、左手から下る綾瀬川、右手から合流する毛長川、そして排水機場の水門から注ぐ伝右川の合流点を眺める。この伝右川排水機場のある三川が合流する三角州といった辺りは東京都足立区花畑。元は花俣(又)村。明治に近隣の村が一緒になるとき、もとの花又村の{花}と、近辺が畑地であったので「畑」を加え、「花畑」に。それはともあれ、もとの花又であるが、花 = 鼻 = 岬・尖ったところ。又 = 俣>分岐点。毛長川と綾瀬川、伝右川のが合流・分岐する三角洲、といった地形を美しく表した名前である。現在はこの三角州の部分だけが毛長川の北に飛び地といった案配で足立区となっているが、往昔、河川改修が行われる以前は流路がこの飛び地の北端辺りであったのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

毛長川
で、右から合流する毛長川であるが、埼玉県川口市東部(安行慈林辺り)に源流点をもち、市内を南へ下り、草加市と足立区の境を東流し、この地で綾瀬川に合流する。依然、足立区散歩の折り毛長川という名前に惹かれてその由来などを調べたことがある。そのときのメモ;毛長川を隔て、埼玉の新里すむ長者に美しい娘。葛飾・舎人の若者と祝言。婿殿の実家と折り合い悪く実家に戻ることに。その途中沼に身を投げる。その後、長雨が続くと沼が荒れる。数年後沼から長い髪の毛を見つける。娘のものではないかと、長者に届ける。長者感激。ご神体としておまつり。それ以降沼が荒れることがなくなる。その神社が現在新里にある毛長神社。沼を毛長沼と。
それと、毛長川流域に伊興遺跡などの有名な古墳がある、何故にこの地に、などと好奇心に駆られチェックした。そのときのメモによると:「毛長川は、古墳時代の入間川の流路跡、とか。そして古墳時代の入間川は利根川水系の主流で、熊谷>東松山>川越>大宮>浦和>川口>幡ヶ谷、と下り、現在の毛長川に沿って流れ足立区の千住あたりで東京湾に注いでいた、とのことである。葛飾・柴又散歩のとき、東京下町低地の二大古墳群は柴又あたりと毛長川流域とメモした。そのときは、それといったリアリティはなかった。が、千住あたりが当時の海岸線である、とすれば、この毛長川流域、って東京湾から関東内陸部への「玄関口」。交通の要衝に有力者が現れ、結果古墳ができても、なんら違和感は、ない」、と。
現在入間川は飯能辺りを源流都市、川越とさいたま市の境あたりで荒川に注ぐ。江戸の荒川西遷事業の頃は、現在の荒川・隅田川の流路を下っていた、というが、現在の元荒川・古利根川筋を流れていた荒川の流れを、西に流れる入間川に瀬替しする荒川西遷事業という大工事によって、入間川は荒川に「吸収」された、ということではあろう。

大鷲神社

毛長川を渡り本日の最終目的地である大鷲神社に。鬱蒼とした社の森に社殿が佇む。この神社を訪れたのはこれで3度目、か。はじまりは、このこの神社が「酉の市の発祥の地」らしい、ということで訪れた。そのときのメモ;「大鷲神社。大鷲神社はこの地の産土神。中世、新羅三郎源義光が奥州途上戦勝祈願。凱旋の折武具を献じたとか。
ここは酉の市の発祥の地。室町時代の応永年間(1394 - 1428年)にこの神社で11月の酉の日におこなわれていた収穫祭がお酉さまのはじまり。「酉の待」、「酉の祭り」が転じて「酉の市」になった、とか。
この地元の産土神さまのおまつりが江戸で有名になったのは、近隣の農民ばかりでなく広く参拝人を集めるため、祭りの日だけ賭博を公認してもらえたこと。賭博がフックとなり千客万来。江戸から隅田川、綾瀬川を舟で上る賭博目的のお客さんが多くいた、と。が、安永5年に賭博禁止。となると客足が途絶える。新たに浅草・吉原裏に出張所。これが大当たり。本家を凌ぐことになった。賭博にしても、吉原にしても、信仰といった来世の利益には、こういった現世の利益が裏打ちされなければ人は動かじ、ってことか。ついでに、参道で売られた熊手も、もとは近隣農家の掃除につかう農具。ままでは味気ないということで、お多福などの飾りをつけて販売した。
「大鷲」の名前の由来:この産土神さまは「土師連」の祖先である天穂日命の御子・天鳥舟命。土師(はじ)を後世、「ハシ」と。「ハシ」>「波之」と書く。「和之」と表記も。「ワシ」と読み違え「鷲」となる。ちなみに、天鳥舟命の「鳥」とのイメージから「鳥の待ち」に。この待ちは、庚申待の使い方に同じ。鳥の話、といえば、鉄道施設と鳥のかかわり。東武伊勢崎線はこの花畑地区を通る予定だったらしい。が、この「陸蒸気」、その轟音と煤煙でにわとりが卵を産まなくなる、とか、大鷲神社の「おとりさま」に不快な思いをさせるのは畏れ多い、ということであえなく中止。電車が通っていたら、この辺りの環境は今とは違った姿に、なっていたのでは、あろう」、と。大鷲神社を離れ、記念体館前まで北へと少し歩き、バス停で最寄りの駅まで進み、本日の散歩を終え一路家路へと。