草加散歩の第二回は、草加宿からはじめ足立区・花畑に向かって綾瀬川筋を下ることにする。先回の散歩でメモしたように大川図書が湿地を埋め立て、草加から越ヶ谷へと直線に進む道を開いた結果、多くの人がこの道筋を往還するようになり、越ヶ谷宿までの「間の宿」として草加宿の設置が図られた、と言われる。また、天和3年(1683年)、伊奈半左衛門が、九十九曲がりと称され千々に乱れる綾瀬川の流路の直線化工事を行った大きな要因も日光街道・草加宿の設置に伴うものと聞く。
散歩のルートは草加宿を巡った後、直線化工事の行われた綾瀬川に進み、草加松原に。その後は綾瀬川でなく、綾瀬川に沿って花畑に下る伝右川を辿ることにした。理由は特にないのだが、伝右川と言う川の名前に惹かれたから。ゴールは綾瀬川、伝右川、そして毛長川が合流する花畑の大鷲神社。数年ぶりに訪れることになる、「お酉さま」の本家本元の現在の姿を楽しみに、散歩に出かける。
本日のルート;東武伊勢佐木線・草加駅>歴史民俗資料館>旧日光街道・駅入口>回向院>浅古正三家>浅古家の地蔵堂>草加神社>葛西道>天満宮>三峯神社>葛西道>八幡神社>藤城家>大川本陣跡>清水本陣跡>氷川神社>おせん茶屋>東福寺>神明宮>河合曽良像>おせん公園・草加せんべい発祥の地>札場河岸公園>芭蕉像>草加松原遊歩道>矢立橋>谷古宇橋>甚佐衛門堰>古綾瀬川合流>谷古宇稲荷>樫の大木>シイの木稲荷>天満宮>日枝神社>伝右川>伝右川・綾瀬川・毛長川合流点>花畑・大鷲神社>東武伊勢佐木線・谷塚駅
歴史民俗資料館
東武伊勢佐木線・草加駅で下車。まずは駅近くにある歴史民俗資料館に向かう。建物は大正15年(1926)に建てられた草加小学校西校舎跡を活用したもの。埼玉県初の鉄筋コンクリート造りの校舎として、平成20年(2008)、国の登録有形文化財に指定されている。館内には板碑などと共に、金明町の綾瀬川から発掘された縄文時代の丸木船が展示されている。
実のところ、この資料館には数年前に訪れたことがあるのだが、結構雑然と置かれている、といった印象であった資料が、少し「展示」の姿になっていた。それでも、散歩の折々に訪れる幾多の郷土資料館と比べて、依然、少々寂しげな資料館ではある。時空散歩のヒントになるような資料も見つからず、結局は古本市で買い求めてあった『埼玉ふるさと散歩 草加市;中島清治(さいたま出版会)』を頼りの散歩となった。
地蔵堂
歴史民俗資料館を離れ、とりあえず草加宿の南端から散歩をスタートすべく、草加駅の東を少し下った草加市役所の敷地に残る地蔵堂に向かうことにする。そこが往昔の草加宿の南端とのことである。
この地蔵堂は江戸中期、草加の豪商である浅古半兵衛が創建した地蔵堂。ために、浅古家の地蔵堂とも称される。建築様式は本瓦葺(現在は銅板葺)宝形造りで、正面のみに後背をつけ、屋根を葺き下ろす。本尊の地蔵菩薩は赤掘用水に流れてきたものを拾い上げて祀ったもの(『埼玉ふるさと散歩 草加市;中島清治(さいたま出版会)』より)。草加宿の南端にあるため宿の境神(塞の神)として疫病など悪しきものから宿を護った。
浅古半兵衛は幕末から明治にかけて大和屋の屋号で全国二位とも言われる商いを誇った質屋、とか。草加16人衆の中でも最大の実力者であり江戸店も出していた、と言う。現在の市役所は浅古家の屋敷神であるこの地蔵堂を除く浅古家の屋敷跡を購入して建てたとのことである。
浅古家の蔵屋敷
旧日光街道を北に進む。草加宿は明治3年(1870)の大火で壊滅的な被害を受けており、僅かに旧家が残る、のみ。草加の町並みは新旧の建物が同居しており、ビルやマンションの間に旧家があると言う感じである。左手に見える蔵造りの商家は浅古家の建物。明治30年(1897)に建てられたもの。店舗と住居と蔵が連なる平面形式は町屋建築の基本、とか(『埼玉ふるさと散歩 草加市;中島清治(さいたま出版会)』より)。
回向院観音寺
地蔵堂から旧日光街道を北に少し進むと道の右側、奥まったところにこじんまりとした本堂。草加山観音寺と称する浄土宗のお寺さま。寺伝によると、回向院とも称されるこのお寺さまは承応2年(1653)、村民源右衛門が開基。元禄14年に開山とのことではあるが、大正11年(1922)の火災で焼失したため、詳細は不明。本堂には阿弥陀三尊、善導大師、法然上人が祀られる、とのことである。
草加神社の標柱
地蔵堂から北に向かって100mほど進むと、草加市役所北交差点に「草加神社」の標柱。大正4年(1915)に建立されたもの。地図を見るに、草加神社は結構西に離れてはいるのだが、草加宿に来て草加神社をパスするのも、なんだかなあ、ということで旧日光街道を離れ草加神社へと向かう。
草加神社
道を折れるとすぐに「おびんずる様」を祀る薬師堂がある、とのことだが、その場所は、コインパーキングの辺りだとは思うのだが、見つけることができなかった。オビンズルさまとは十六羅漢のひとつ。オビンズル様こと、ビンズル尊者には散歩の折々に出合った。撫で仏様として坐っていることが多かったように思う。赤ら顔の飲ん兵衛がキャラクターイメージ。放蕩の末、反省し仏弟子となった、はず。十六羅漢とは、仏を護持する16人の佛弟子のこと。
東武伊勢佐木線のガードをくぐり先に進むと草加神社があった。旧日光街道から400m強といった距離。石造りの鳥居には、「氷川神社」の旧名が掲げられている。参道に沿って公園があったり、SLが置いてあったりと、厳めしい社の雰囲気ではない。二の鳥居をくぐると拝殿。江戸末期の建立と伝えられる。境内の左右には明治に合祀された境内社が鎮座する。
二間社流造りの本殿は天保の頃の造営と伝わる。本殿を飾る多彩な絵様彫刻は宝暦年間(1751~1764)、江戸の名匠立川流の職人の手になるものである。
草加神社(当時・氷川神社)は、安土桃山時代(天正年間頃1573~1592)に、武蔵國一宮である大宮の氷川神社を分祀し小祠を祀ったのがはじまり。元は氷川神社と呼ばれ、南草加村の鎮守であったようだが、明治40年(1907)に草加市内の11の社を合祀し、同42年(1909)には氷川神社を改め草加神社とし、草加の総鎮守となした。
立川流彫刻
立川流彫刻とは江戸時代後期に栄えた伝統彫刻。伝統彫刻には仏像彫刻と神社・仏閣などの楼閣彫刻があるが、立川流は宮彫と称される楼閣彫刻の流派である。宮彫は当初は宮大工の棟梁がおこなっていたが、次第に宮大工と宮彫師と専門化することになる。宮彫には大隅流と立川流があり、江戸の前期は大隅流。後期は立川流が主流となる。
立川流も元は大隅流から分かれたもの。もとは江戸の本所立川掘りに居を構えたことから立川流と称されるようになった。これを江戸立川流と呼ぶ。が、一般的に立川流と呼ぶのは信州の諏訪立川流。もとは江戸立川流で修行するも、地元の諏訪に戻り、本家の江戸立川流を凌ぐ流派となった。そのきっかけとなったのは地元諏訪での大隅流とのコンペ。諏訪退社春宮を大隅流、秋宮を諏訪立川流が受け持ち、結果秋宮が圧倒。諏訪立川流の出世作となった。
大隅流の代表的な作品は日光東照宮や湯島の聖堂。立川流の代表的な作品は静岡浅間神社、長野善光寺、京都御所、静岡秋葉神社本宮、諏訪大社上社、豊川稲荷、山車では亀崎の山車、高山の山車などが代表的で、現在多くのものが国や県の文化財に指定されている。しかしながら、宮彫も、明治以降は時代の流れで衰退し、流派は途絶えた、と。
葛西道道標
三峯神社
実のところ、この資料館には数年前に訪れたことがあるのだが、結構雑然と置かれている、といった印象であった資料が、少し「展示」の姿になっていた。それでも、散歩の折々に訪れる幾多の郷土資料館と比べて、依然、少々寂しげな資料館ではある。時空散歩のヒントになるような資料も見つからず、結局は古本市で買い求めてあった『埼玉ふるさと散歩 草加市;中島清治(さいたま出版会)』を頼りの散歩となった。
地蔵堂
歴史民俗資料館を離れ、とりあえず草加宿の南端から散歩をスタートすべく、草加駅の東を少し下った草加市役所の敷地に残る地蔵堂に向かうことにする。そこが往昔の草加宿の南端とのことである。
この地蔵堂は江戸中期、草加の豪商である浅古半兵衛が創建した地蔵堂。ために、浅古家の地蔵堂とも称される。建築様式は本瓦葺(現在は銅板葺)宝形造りで、正面のみに後背をつけ、屋根を葺き下ろす。本尊の地蔵菩薩は赤掘用水に流れてきたものを拾い上げて祀ったもの(『埼玉ふるさと散歩 草加市;中島清治(さいたま出版会)』より)。草加宿の南端にあるため宿の境神(塞の神)として疫病など悪しきものから宿を護った。
浅古半兵衛は幕末から明治にかけて大和屋の屋号で全国二位とも言われる商いを誇った質屋、とか。草加16人衆の中でも最大の実力者であり江戸店も出していた、と言う。現在の市役所は浅古家の屋敷神であるこの地蔵堂を除く浅古家の屋敷跡を購入して建てたとのことである。
浅古家の蔵屋敷
旧日光街道を北に進む。草加宿は明治3年(1870)の大火で壊滅的な被害を受けており、僅かに旧家が残る、のみ。草加の町並みは新旧の建物が同居しており、ビルやマンションの間に旧家があると言う感じである。左手に見える蔵造りの商家は浅古家の建物。明治30年(1897)に建てられたもの。店舗と住居と蔵が連なる平面形式は町屋建築の基本、とか(『埼玉ふるさと散歩 草加市;中島清治(さいたま出版会)』より)。
回向院観音寺
地蔵堂から旧日光街道を北に少し進むと道の右側、奥まったところにこじんまりとした本堂。草加山観音寺と称する浄土宗のお寺さま。寺伝によると、回向院とも称されるこのお寺さまは承応2年(1653)、村民源右衛門が開基。元禄14年に開山とのことではあるが、大正11年(1922)の火災で焼失したため、詳細は不明。本堂には阿弥陀三尊、善導大師、法然上人が祀られる、とのことである。
草加神社の標柱
地蔵堂から北に向かって100mほど進むと、草加市役所北交差点に「草加神社」の標柱。大正4年(1915)に建立されたもの。地図を見るに、草加神社は結構西に離れてはいるのだが、草加宿に来て草加神社をパスするのも、なんだかなあ、ということで旧日光街道を離れ草加神社へと向かう。
草加神社
道を折れるとすぐに「おびんずる様」を祀る薬師堂がある、とのことだが、その場所は、コインパーキングの辺りだとは思うのだが、見つけることができなかった。オビンズルさまとは十六羅漢のひとつ。オビンズル様こと、ビンズル尊者には散歩の折々に出合った。撫で仏様として坐っていることが多かったように思う。赤ら顔の飲ん兵衛がキャラクターイメージ。放蕩の末、反省し仏弟子となった、はず。十六羅漢とは、仏を護持する16人の佛弟子のこと。
東武伊勢佐木線のガードをくぐり先に進むと草加神社があった。旧日光街道から400m強といった距離。石造りの鳥居には、「氷川神社」の旧名が掲げられている。参道に沿って公園があったり、SLが置いてあったりと、厳めしい社の雰囲気ではない。二の鳥居をくぐると拝殿。江戸末期の建立と伝えられる。境内の左右には明治に合祀された境内社が鎮座する。
二間社流造りの本殿は天保の頃の造営と伝わる。本殿を飾る多彩な絵様彫刻は宝暦年間(1751~1764)、江戸の名匠立川流の職人の手になるものである。
草加神社(当時・氷川神社)は、安土桃山時代(天正年間頃1573~1592)に、武蔵國一宮である大宮の氷川神社を分祀し小祠を祀ったのがはじまり。元は氷川神社と呼ばれ、南草加村の鎮守であったようだが、明治40年(1907)に草加市内の11の社を合祀し、同42年(1909)には氷川神社を改め草加神社とし、草加の総鎮守となした。
立川流彫刻
立川流彫刻とは江戸時代後期に栄えた伝統彫刻。伝統彫刻には仏像彫刻と神社・仏閣などの楼閣彫刻があるが、立川流は宮彫と称される楼閣彫刻の流派である。宮彫は当初は宮大工の棟梁がおこなっていたが、次第に宮大工と宮彫師と専門化することになる。宮彫には大隅流と立川流があり、江戸の前期は大隅流。後期は立川流が主流となる。
立川流も元は大隅流から分かれたもの。もとは江戸の本所立川掘りに居を構えたことから立川流と称されるようになった。これを江戸立川流と呼ぶ。が、一般的に立川流と呼ぶのは信州の諏訪立川流。もとは江戸立川流で修行するも、地元の諏訪に戻り、本家の江戸立川流を凌ぐ流派となった。そのきっかけとなったのは地元諏訪での大隅流とのコンペ。諏訪退社春宮を大隅流、秋宮を諏訪立川流が受け持ち、結果秋宮が圧倒。諏訪立川流の出世作となった。
大隅流の代表的な作品は日光東照宮や湯島の聖堂。立川流の代表的な作品は静岡浅間神社、長野善光寺、京都御所、静岡秋葉神社本宮、諏訪大社上社、豊川稲荷、山車では亀崎の山車、高山の山車などが代表的で、現在多くのものが国や県の文化財に指定されている。しかしながら、宮彫も、明治以降は時代の流れで衰退し、流派は途絶えた、と。
葛西道道標
草加神社道標のある交差点まで戻り。少し北に進むと、「埼玉りそな銀行」脇に「日光街道 葛西道」道標がある。この道はかつて草加宿と東京の葛西方面を結んでいた道で、千住宿・越谷宿間の日光街道の新道が敷かれる前から通じていた古道とのことである。江戸の頃には、赤山(川口市)にあった関東の幕府天領を納める関東郡代・伊奈氏の陣屋と、その支配地であった葛西地域(東京都葛飾区・江戸川区)を結ぶ道であった、とも。草加市の手代町の北を通り、八条村、潮止村(八潮市)にも通じる本道であったようでもある。
三峯神社
銀行脇を通る葛西道を辿り、県道49号線まで進む。県道の東に、如何にも葛西道の続きらしき道筋は見えるのだが、葛西道の雰囲気を感じるのはここまでとし、歩みを止める。葛西道の少し南に三峯神社。ささやかな祠にお参りし、草加宿の道筋に戻る。
高砂八幡神社
草加駅入口交差点の脇にある道路元標を見やり、交差点から70mほど北に進むと道の東側、商店街というか民家の続く路地の奥まったところに八幡神社があった。
八幡神社の創立年は不詳とされるが、「草加見聞史 全」には、享保年間(1716年~1736年)に稲荷神社として創建され、安永6年(1777年)ごろ神明宮に寄進された八幡像を稲荷社に合祀して八坂神社と称し、草加宿下(シモ)三町の鎮守となった、とある。新編武蔵風土記稿には「正徳(1711-1715)の頃神主長太夫なるもの、八幡の神体を稲荷社に合殿として祀った、となっている。どちらがどうなのか門外漢にはわからない。
高砂八幡神社
草加駅入口交差点の脇にある道路元標を見やり、交差点から70mほど北に進むと道の東側、商店街というか民家の続く路地の奥まったところに八幡神社があった。
八幡神社の創立年は不詳とされるが、「草加見聞史 全」には、享保年間(1716年~1736年)に稲荷神社として創建され、安永6年(1777年)ごろ神明宮に寄進された八幡像を稲荷社に合祀して八坂神社と称し、草加宿下(シモ)三町の鎮守となった、とある。新編武蔵風土記稿には「正徳(1711-1715)の頃神主長太夫なるもの、八幡の神体を稲荷社に合殿として祀った、となっている。どちらがどうなのか門外漢にはわからない。
当神社は明治42年(1909年)4月、草加神社に合祀されたが、現在も高砂2丁目町会によって管理されている、と。草加宿は南草加村、北草加村、吉笹原村、原島村、立野村、谷古宇村、宿篠葉村が集まって造られたとのことであるが、下(シモ)三町って、南草加、北草加、吉笹原の辺りだろう、か。拝殿には、昭和56年(1981年)に市の文化財に指定された獅子頭一対が社宝として所蔵されている、とのことであるが、もとより拝見すること叶わず。
藤代家道に沿って明治初期建築の旧商家藤代家。草加宿に残る数少ない町屋建築の建物である藤代家を見やりながら進むと道路元標識。明治44年(1911)建立。ここを起点に谷塚・千住・越谷・浦和・栗橋への距離が示される。千住町へ2町17丁53間三尺、越谷へ1里33丁30間2尺、などといった案配である。この道路元標がかつての問屋場があったところ。その先隣りが本陣清水家跡である。
本陣跡
本陣・清水家は現在堀川産業本社となっている。その先に脇本陣の松本家。脇本陣は松本家と丸山という旅籠が交代で務めていた、と。清水家本陣跡の旧日光街道を隔てたマンションが大川本陣跡。大川本陣は宝暦年間(1751-1763)まで。その後は明治まで清水家が本陣を務めたとのことである。
草加宿のはじまりは慶長11年(1606)に遡る。宿篠葉村(松江町)の大川図書が中心となり、瀬崎(草加市の南端。足立区との境をなす毛長川の北一帯)から谷古宇にかけての低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、千住~越ケ谷間をほぼ一直線に結ぶ新往還道を築き上げた。この草を重ね加えたことが草加の由来、とも言う。
新往還道が開かれる以前の千住~越ケ谷間は、沼地に遮られ花俣(現在の花畑)から八条(八潮市)に出て、古利根川と元荒川の自然堤防伝いに越ケ谷に出るという迂回ルートとなっていた。新往還道が完成すると旧来の迂回路を避け、新往還を利用する旅人が急増し、新道沿いに町場が形成されていった。そして新往還に旅人が増大していく中で、人馬を千住から越ケ谷まで長距離継立てすることが困難となり、寛永7年(1630年)、草加は千住宿に次ぐ2番目の宿、千住宿と越ケ谷宿の「間(あい)の宿」として取り立てられることになる。
当時、新道沿いには1つの村で宿を編成できるほどの大きな集落がなかったため、南草加、北草加、吉笹原、原島、立野、谷古宇、宿篠葉、与左衛門新田、弥惣右衛門新田の9か村(与左衛門新田、弥惣右衛門新田を除いた7新田とも)が組合立で草加宿を成立させたとされる。
開宿当初の規模は、戸数84軒、南北の距離685間、伝馬役人夫(人馬の継立て役)25人、駅馬25頭といわれ、旅籠屋の数5、6軒、他に豆腐屋、塩・油屋、湯屋、髪結床、団子屋、餅屋が1軒ずつ軒を並べる程度で、他はすべて農家だった、とか。
元禄2年(1689年)ごろになると戸数は120軒に増え、正徳3年(1713年)に草加宿総鎮守として神明神社が建てられ六斎市(毎月6回、定期的に開かれた市)が開かれるようになると、草加宿は近郷商圏の中心地として急速に発展した。
享保13年(1728年)には、伝馬役人夫が50人、駅馬が50頭となって開宿当初の2倍まで増加し、天保14年(1843)には、南北12町(およそ1.3キロ)、人口3,619名。家数723軒。本陣1,脇本陣1、旅籠67軒(大2軒、中30軒、小35軒)と飛躍的な規模拡大が見られ、「宿村大概帳」によれば、草加宿の街道沿いには余すところなく家々が軒を連ねた、と記す。日光街道の往還や綾瀬川の舟運の発達により、江戸の頃、草加は大宮や浦和より大きい集落ではあったわけである。草加宿の位置は、南は草加市役所の前に建つ地蔵堂付近から、北は神明一丁目の草加六丁目橋付近までと考えられている。
氷川神社
さらに先に進むと、道の西側、草加小学校のあたりにこれまたささやかな祠。氷川神社とある。この社には縁結びの神としての「平内さん」の縁起がある。平内さんとは江戸時代の実在の人物で、夜な夜な辻斬りなどの悪行を重ね、市それ故に自身の財業消滅を願って己の像を造り、通行人に「踏みつけ」させた。これが後に「踏みつけ>文付け」に転化され、縁結びの神として親しまれるようになった、とか。
とはいうものの、この「平内さん」は、この社だけに登場するわけでもない。いつだったか浅草の浅草寺を歩いたとき、そこに「久米平内堂」が祀られており、そこでもこの氷川の社の縁起とまったく同じストーリーで縁結びの神として祀られていた。
平内は実在の人物。江戸初期の津和野藩士、城下で津 和野小町といわれた呉服商の娘お里の危急を救い人を殺めて、江戸に出奔。剣の修行に努めた。その後は千人切りを目指し、夜ごと辻斬りを行い悪行を重ねたとか、も心ならずも喧嘩のあげく人を殺めたなど諸説あるようだが、ともあれ、その罪を償うために浅草寺内に住まいし禅の修行に励んだ。そして死後罪を償うために己の像を道下に埋め、人に踏み付けられることを求めた、とか。踏み付け>文付けの転化で、恋の仲立ち>縁結びの神として祀られた、と。この平内さんの話は滝沢馬琴が読み本にしたり、歌川豊国が浮世絵に描いたりした結果、この話がひろがり、この地にも伝わったのだろう。
おせん茶屋
八幡神社から500mほど、旧街道沿い右側におせん茶屋跡。草加せんべいの祖「おせんさん」に因んだ公園・休憩所となっていた。高札を模した掲示板などもあり、おせんべいの製造法などを見やりながら少々休憩。
草加せんべいのはじまりにはいくつかの伝説がある。代表的なものは、日光街道の草加松原に旅人相手の茶屋があり、おせんさんのつくる団子が評判だった、と。おせんさんは、団子が売れ残ると川に捨てていたが、ある日それを見た武者修行の侍だか、旅人が「団子を捨てるとはもったいない、その団子をつぶして天日で乾かして焼餅として売っては」とアドバイス。おせんさんが早速売りだしたところ、日持ちもいいし、携帯できる美味しい「堅餅」として大評判になり、日光街道の名物になった、とか。このような、穀粉をゆでてから焼いて(または揚げて)つくる菓子の製法は、遣唐使が中国から持ち帰ったものといわれる。
東福寺
おせん茶屋の少し北、道の東に東福寺参道入口がある。長い参道を進むと山門。四脚門切妻造りの山門は堂々として、いい。本堂にお詣り。欄間の龍の彫刻もなかなか、いい。境内にある鐘楼にも龍の彫り物が施されている。山門、本堂の欄間彫刻、鐘楼は市の文化財に指定されている。
東福寺は草加宿を開いた大川図書(ずしょ)が、慶長11年(1606年)に創建したと伝えられる。大川図書は、小田原北条氏に仕えていたが、天正18年(1590年)に小田原城が落城したことにより浪人となり岩槻に移る。その後、朋友の関東郡代・伊奈備前守忠次の計らいで草加の谷塚村、宿篠葉村に移り住む。
既にメモしたことではあるが、当時、草加より越ヶ谷間には一雨毎に流路が変わるとも言われた綾瀬川によってつくられた湿地・沼が広がり、越ヶ谷に行くには古利根川と元荒川の自然堤防伝い大廻り強いられる迂回ルートしかなかった。ために、慶長11年(1606年)に、宿篠葉村(松江町)に住んでいた大川図書が中心となり、瀬崎から谷古宇にかけての低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、千住~越ケ谷間をほぼ一直線に結ぶ新往還道を築き上げた。
この越ヶ谷を直線で結ぶ道が完成すると、大廻りの迂回路を避け、この新道の往還が急増。日光街道の千住と越ヶ谷の間の宿として草加宿ができることになる。草加宿を開く立役者となった大川図書はこの功績により幕府から「名字帯刀」を許され、草加宿で宿役人などの職が与えられた。図書はその跡も新田の開発や農業の振興などにも大きな功績を残している。現在の草加小学校は大川図書の屋敷跡、とか。
上で草加の由来は、湿地に草や葦を敷き加えたことによる、とメモした。異説もある。『草加宿由来』には「二代将軍徳川秀忠が鷹狩りを大原村(八潮市)で行い、舎人(足立区)の御殿で宿泊することとなったが、大原と舎人の間には草野が広がり沼もあって人馬が進みにくかった。ために、大川図書に道の補修を命ぜられた。図書は村人を集め、草を刈り、葦や柳を切って湿地を埋め立て新道をその日のうちに造った。そして、秀忠から「これは草の大功である。これからはここを草加と名付けよ」と上意があった、という記述がある、と。「草の功」が、草加の由来との説がこれである。
神明神社
旧日光街道を進み、右にカーブし県道49号足立・越谷線に合流する辺りに神明神社。祭神は天照大神で、そのほか御神霊石も祀られている、と。創建は与左衛門新田の名主吉十郎の祖先が、元和元年(1615)に、宅地内に小社を建立したことに始まる、と。「草加見聞史 」によれば、元和(1615年~1624年)の初め、一人の村人が宅地内に自然石を神体とする小社を建てたのが始まりとする。八幡神社の縁起と同じく門外漢にはどちらがどうとも詳らか成らず。それから約百年後の正徳三年(1713)に、この地へ移され、草加宿組9ヶ村の希望により草加宿の総鎮守となった。 その後、安永六年(1777)に、草加宿の一丁目から三丁目までが、二丁目稲荷社を八坂神社と改称したことから鎮守の分離が行われた。この稲荷社とは、先ほど訪れた高砂八幡神社のことではあろう。
天保年間(1830年~1844年)に社殿を焼失。弘化4年(1847年)に再建され、明治34年(1901年)と昭和52年(1977年)に修繕が施されて現在に至っている。上記の八幡神社と同じ明治42年(1909年)に草加神社に合祀された。
境内を眺めていると境内入口に「高低測量几号」の礎石がある。「神明宮鳥居沓石(礎石)の高低測量几号」の案内によると;石造物に刻まれた「(木の上が飛び出していない形」の記号は明治九(1876)年、内務省地理寮がイギリスの測量技師の指導のもと、同年八月から一年間かけて東京・塩釜間の水準測量を実施したとき彫られたものです。記号は「高低測量几(き)号」といい、現在の水準点にあたります。この石造物は神明宮のかつての鳥居の沓石(礎石)で、当時、記号を表示する標石には主に既存の石造物を利用していました。この水準点の標高は、4.5171mでした。
その後、明治十七年に測量部門は、ドイツ方式の陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われませんでした。しかし、このような標石の存在は測量史上の貴重な歴史資料といえます」とあった。
伝右川
神明神社の北側、県道49号と旧日光街道の合流点の交差点脇に「おせん公園」がある。公園には「草加せんべい発祥の地碑」が建つ。公園の北側を流れるのが伝右川である。
伝右川はさいたま市緑区高畑(もう少し北の見沼区膝子辺り、とも)を源とし、同区の大門に到る。大門地区からは綾瀬川に沿って川口市戸塚の低地を流れて草加市市に入る。新栄町で東に流路を変える綾瀬川と離れ、南東へと下り学園町の辺りで流路を東に変え、この地・おせん公園に下る。
この地から伝右川は再び綾瀬川と平行して流れ、札場河岸公園付近では綾瀬川と並行して流れ、足立区花畑で綾瀬川に注ぐ。川の名前は開削者の井手伝右衛門より。寛永5年(1628)関東郡代・伊奈半十郎忠治の家臣であった伝右衛門が低湿地の干拓を目的に開削したとされる。伝右衛門堀とも呼ばれた。 伝右川は川幅が狭いため洪水被害も多く、昭和3年(1928)には増水時に綾瀬川に水を流す「一の橋放水路」が掘られている。県道162号に沿って、新栄小学校の南を東西に貫く水路がそれであろう。
伝右川は綾瀬川の支流では最も水質が悪く、草加市の吉町の浄化施設や、埼玉高速鉄道のトンネルを使って荒川の水を伝右川に導水するといった水質改善が行われている、と。水面を眺めるに、臭気は無いものの、水質は依然として濁った状態ではある。
札場河岸公園
県道と旧日光街道の合流点脇に「河合曽良の像」。芭蕉の門人として「奥の細道」を共に辿った俳人である。「河合曽良の像」を見やり横断歩道を渡り、伝右川に架かる「草加六丁目橋」の先は「札場河岸公園」。綾瀬川の舟運華やかなりし頃の河岸跡を公園として整備している。公園に入ったところには芭蕉像や河岸の雰囲気を伝えるためか、望楼が造られている。用水フリークとしては、何をおいても河岸であり堰であるので、望楼や芭蕉を差し置いて、まずは公園の南端にある札場河岸跡と甚左衛門堰へと向かう。
札場河岸
望楼を見やり休憩所を越えて少し南に進むと綾瀬川に船着場らしき石段。札場河岸跡は綾瀬川災害対策事業の終了を記念し平成元年(1989)から3年にかけて整備されたもの。ぱっと見た目には、最近整備されたものとは思えなかった。船着場には柵があり下りることはできなかった。
札場河岸はもともと甚左衛門河岸と呼ばれ、野口甚左衛門の私河岸。札場河岸と呼ばれたのは、甚左衛門の屋号が「札場」であり、また、安政大地震により御店を河岸脇へ移転したため。
甚左衛門は年額12両の河岸使用料を請負業者から受け取る代わりに、この河岸から130mほど下流の谷古宇土橋までの堤防の修理を行うことを、その義務とした。
綾瀬川の舟運は、江戸時代の中期から、草加地区と江戸を結ぶ大切な運河として多くの船が行き交い、草加、越谷、粕壁(春日部)など流域各所に河岸が設置され、穀物等の集散地としてまちが発展した。この札場河岸では草加宿や赤山領(現・新田地区の一部)の年貢米を積み出し、そのほかさまざまな荷の船積み、荷揚げをおこない、舟運は、明治、大正に至るまで発展を続たが、鉄道の開通など陸上交通が急速に発展したことで衰退し、昭和30年代には姿を消した。
甚左衛門堰
札場河岸の右手には甚左衛門堰がある。建設当初の姿を留める煉瓦造りの堰は、用水フリークには誠に有り難い遺構。案内によれば、「明治二十七年から昭和五十八年までの約九十年間使用された二連アーチ型の煉瓦造水門。煉瓦は、横黒煉瓦(鼻黒・両面焼煉瓦ともいう。)を使用している。煉瓦の寸法は、約21cm×10cm×6cm。煉瓦の積み方は段ごとに長平面と小口面が交互に現れる積み方で、「オランダ積」あるいは「イギリス積」と呼ばれる技法を用いている。
煉瓦造水門『甚左衛門堰』は、古いタイプの横黒煉瓦を使用しており、建設年代から見てもこの種の煉瓦を使った最後期を代表する遺構である。また、煉瓦で出来た美しい水門は、周囲の景観に溶け込み、デザイン的にも優れたものであり、建設当初の姿を保ち、保存状態が極めて良く、農業土木技術史・窯業技術史上でも貴重な建造物である(草加市教育委員会)」、とあった。
望楼
河岸跡や堰でゆったり時間を過ごした後、今度は綾瀬川に沿って草加の松並木を少しだけ北に辿る。甚左衛門堰を離れるとすぐに先ほど通り過ぎた望楼閣。五角形の建物の高さは11mほどの見張り櫓。内部を上ることもできるとのことだが、パス。某建築設計事務所の作品としてこの望楼が記されていたので、造られたのはそれほど昔、というものではないようだ。
子規歌碑
望楼の隣りにある休憩所の後ろに正岡子規の歌碑。「梅を見て 野を見て行きぬ 草加まで 子規」。案内によれば、明治27年(1894)、東京郊外に梅を愛でる吟行のため高浜虚子とともに上野の根岸から歩きはじめ、草加に立ち寄った時に詠ったもの。
松尾芭蕉像
札場河岸公園の入口にあった芭蕉像まで戻る。この像は『おくのほそ道』旅立ち300年を記念して製作されたブロンズ像。友人や門弟たちの残る江戸への名残りを惜しむかのように江戸を見返る姿、とのこと。
綾瀬川に沿って続く松並木を辿ると、松尾芭蕉に関する説明が記載された看板が建っていた。解説板によると;「1689年(元禄2) 3月27日、46歳の松尾芭蕉は、門人の曽良を伴い.奥州に向けて江戸深川を旅立ちました。深川から千住宿ま舟で行き、そこで見送りの人々に別れを告げて歩み始めたのでした。この旅は、草加から、日光、白河の関から松島、平泉、象潟、出雲崎、金沢、敦賀と、東北・北陸の名所旧跡を巡り、美濃国大垣に至る600里 (2400km)、150日間の壮大なものでした。この旅を叙したものが、日本三大古典に数えられる「おくのほそ道』です・
月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口をとらへて老をむかふる者は、日々旅にして、旅を栖とす・・・・
あまりにも有名なその書き出しは、「予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて漂泊の思ひやまず・・・」と続き、旅は日光道中第2の宿駅の叙述に進みます。
もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加(草加)といふ宿にたどり着きにけり
芭蕉は、肩に掛かる荷物の重さに苦しみなから2里8町(8.8km)を歩き、草加にたどり着きました。前途多難なこの旅への思いを吐露したのが草加の条」です。「おくのほそ道」の旅は、この後草加から東北へと拡がっていくことになります)、とある。
日光街道の松並木
公園から北には綾瀬川に沿って松並木が続く。この松並木は先回の散歩でメモしたように、天和3年(1683年)に伊奈半左衛門がおこなった綾瀬川直線化工事の区間であり、綾瀬川に沿って日光街道が通る。松林は日光街道に沿っておよそ1.5キロ、江戸時代より「草加松原」「千本松原」と呼ばれる名所となっていた。松並木は天和年間の開削工事に合わせ日光道中を開削した時に植えた、とも言われるが、寛延4年(1751年)成立の『増補行程記』(盛岡藩士清水秋善筆)には松並木は描かれてはいない。寛政4年(1792年)に1230本の苗木を植えたということが記録に残り、文化3年(1806)完成の『日光道中分間延絵図』には街道の両側に松林が描かれている。
松並木の続く遊歩道には矢立橋、百代橋などという如何にも芭蕉を想わせるような橋が続く。日光街道の趣きを演出するためだろうか、橋の形も太鼓橋のようなものになっている。百代橋の南詰めには橋名の由来碑。碑面に「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」の文字を刻む。
松尾芭蕉文学碑
橋の北詰めんには「おくのほそ道」の草加の段を刻む松尾芭蕉文学碑。「ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと、定なき頼の末をかけ、其日漸早加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物、先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。また、その北隣りには奥の細道文学碑。「その日ようよう草加という宿にたどり着にけり」と刻する。
■伝右川を下る
草加の松並木を百代橋辺りで折り返し、再び南へと下ることにする。川筋は綾瀬川に沿って下るか、伝右川に沿って下るか少々迷ったのだが、結局は伝右川筋を歩くことにした。理由は特にないのだが、どうしたところで本日の最終目標地である花畑の大鷲神社の辺りで伝右川は綾瀬川に合流するわけで、それなら散歩をはじめるまで名前も知らなかった川筋を歩いてみよう想ったのではあろう、か。
谷古宇稲荷
甚左衛門橋まで戻り、神明排水機場を左に眺めながら伝右川を下る。八条小橋を越えて100mほど進んだところに谷古宇稲荷がある。創建は不詳。神体は自然石とのこと。神社の建物は18世紀後半から19世紀はじめの特徴を示すと言う。境内の眷属である狐の像は素朴な表情とともに、子狐をあやす姿が誠に、いい。眷属の台座には、草加宿商家の屋号と女性の名前が刻まれており、多くの人々の信仰をあつめた証しではあろう。
先回の散歩において、谷古田用水のところでメモしたが、谷古宇とはこの地だけに残る古い地名とのこと。江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿 足立郡之四』の谷古田領本郷村(現在の川口市本郷)の項に、「本郷村ハモト谷古田郷ト唱ヘシヨシ云伝フレバ、其本郷タルコト知ベシ。按ルニ鶴岡八幡宮ニ蔵スル古文書及ビ東鑑ニ武蔵国矢古宇郷ヲ鶴岡社領ニ寄進アリシ由載タルハ、則此邊ノコトナルベシ。今此領ニ属スル村ニ谷古宇ト称スル所アリ。是古ノ遺名ニシテ舊クハ此邊スベテ矢古宇郷ト唱ヘシヲ、後イカナル故ニヤ谷古田ト改メ、今ハ領名トナリシナラン」、と。また『東鑑』にも、承久3年(1221年)鎌倉の鶴岡八幡に寄進されという50町の矢古宇郷(草加市神明)の記述が残る。何故か後世、矢(谷)古宇が矢古田に改められた、とある。
鎌倉時代の谷古宇郷の地頭の名に谷古宇右衛門次郎の名が残る。また、谷古宇という姓は全国に1200ほどあると言うが、その40%から50%は埼玉にある、とのことである。
いつだったか足立区の北端を彷徨ったとき、草加の南を区切る毛長川流域・足立区の竹の塚に伊興遺跡があった。毛長川流域に古代栄えた一帯であり、埼玉古墳群の先駆けとなるような豪族の存在があった、とのことであるが、それよりなにより、この「伊興」は「伊古宇」であり、「伊古宇」も「矢(谷)古宇」も同じ意味、というかどちらか一方から音が変化したもの、との説がある。「い」も「や」も「湿地」を著す、とか。「古宇」は市川の国府台(こうのだい)に代表される「国府」とも。湿地にある国府のような政治の中心地の意味、と言う。その説が妥当か否か、門外漢には判断できないが、鎌倉時代の『東鑑』に伊興遺跡や伊興古墳群が存在する足立区伊興を管轄する地頭として「伊古宇又二郎」の名が登場する。伊古宇も矢古井戸も地元の有力者であったことは間違いないようだ。
椎の木稲荷
南へ下り、谷古宇新橋を越え、道脇の椎の大木を過ぎた少し南に椎の木稲荷。畑の脇に僅かに残った数本の大木の下に祠がかろうじて残るといった社である。境内などといった趣は何も、ない。落雷の被害に遭った、とか。
天満宮
椎の木稲荷を過ぎた頃より、伝右川の先に東京スカイタワーが見える。なかなか、いい眺めである。更に南へ200mほど進むと県道327号(鶴ヶ曽根・草加線)。この道を東に進めば草加駅にあたる。この県道沿い、裏手に伝右川を見下ろすように天満宮がある。創立は不詳とのこと。
県道327号に架かる東小橋、その南の地蔵橋を越え先に進む。地蔵橋の南100mほどのことろに灌漑用の水門であった手代堰跡がある、とのことだが、探すも、結局見つけることができなかった。
手代堰跡は見付けられなかったが、川沿いにいくつかの野仏、皇太子御降誕記念碑とともに「成田山」と刻まれた大きな石碑があった。成田山参詣を記念した石碑であろう、か。
手代の由来はこの辺りが古くから手代、手白、手城などと呼ばれており、大字吉笹原字手白と大字谷古字の一部を合わせて町とする時、手代町とした。
日枝神社
上山王橋、山王橋へと下る。山王橋の右手前に日枝神社。創立は不詳であるが、境内の手洗石や石灯籠、そして本殿の棟札に残された記録から19世紀の前半頃には社があったかと推測されている。彫刻の施された一間社流造りの本殿は市の文化財指定を受けている。
この橋と神社のように山王と日枝はペアで登場することが多い。その理由は、日枝神社は、日吉山王権現が明治の神仏分離令によって改名したもの。「**神社」って呼び方はすべて明治になってからであり、それ以前は「日吉山王権現の社(やしろ)」のように呼ばれていた(『東京の街は骨だらけ』鈴木理生:筑摩文庫)。その日吉山王権現という名称であるが、これって、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた、ということ。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということである。
吉町浄水場
南に下ると吉町浄水場。草加市にある5つの浄水場(新栄配水場、中根浄水場、吉町浄水場、旭浄水場へ、谷塚浄水場)のひとつ。草加市の上水は江戸川水系と荒川水系から(これを「県水」と呼ぶ)の水と地下水によってブレンドされてつくられている。ブレンド率は県水85%と地下水15%とのこと。江戸川水系の県水は庄和浄水場(春日部市)経由と、新三郷浄水場(三郷市)経由。荒川水系は、大久保浄水場(さいたま市)経由となる。庄和浄水場の水は中根浄水場とこの吉町に送られ市内へ、また中根浄水場(市内の北東側)を経由して旭浄水場(松原団地一帯)から市内へ、この吉町上水場を経由し谷塚浄水場(市内の東南部)から市内に送られる。新三郷浄水場からは新栄浄水場(市内の北西部)に送られ市内へ。一方荒川水系の水は大久保浄水場から新栄浄水場を経て市内へ送られる。
地下水と言えば、原発事故で放射能が問題になったとき、この草加では地下水を各家庭に配給したことでニュースになっていた。
吉原の地名は昔の地名である吉笹原の「吉」から採ってつくられた。吉笹原は江戸時代初期は吉篠原村と呼ばれ、その後、吉笹原村と改められた。1もともと芦や笹の繁る「芦篠原」と呼ばれていたが、「芦」という読みは「あし(悪)」につながるということで、「芦」をめでたい「よし(吉)」に変えたもの、とか。
伝右川浄化施設
県道54号を越えて先に進むと伝右川の流路は直角に曲がる。その角に伝右川浄化施設があった。伝右川浄化施設の上はテニスコートやグランドになっている。案内によれは、伝右川の水を取り込み、水質汚染の原因となる有機物等を浄加槽内に設置した球状砕石集合体に生息する微生物の代謝活動により分解し浄加し、再び伝右川に戻す。伝右川が直角に曲がるところに暗渠となった水路がある。これは赤堀用水とのことであるが、伝右川浄化施設からの水はこの赤堀用水を経て伝右川に流されているようである。
赤堀用水とは大門村差間(現在の川口市差間)に設けられた用水。関東郡代伊奈氏の赤山領を流れる灌漑用水。川口市の安行中学辺りから草加市の氷川町を経てこの地へと下っているのだろう。
伝右川排水機場
伝右川と赤堀用水の合流点で道は行き止まりとなる。右に折れすぐに左に折れ、瀬崎中学校脇を南東に下る。ガスタンクが見える手前で左に折れ、伝右川の川筋に出る。草加市記念体育館脇を進み成り行きで伝右川の橋を渡り「あやせ川清流館」にちょっと立ち寄り、伝右川排水機場に。
伝右川排水機場は、伝右川と綾瀬川、そして毛長川の合流部に位置し、草加市、八潮市に大きな被害をもたらした昭和56年(1981)の台風24号の激特事業の一環として、伝右川流域の洪水、内水被害の軽減を目的として建設。平成16年(2004)に完成した。
伝右川・綾瀬川・毛長川の合流部
伝右川排水機場の脇に立ち、左手から下る綾瀬川、右手から合流する毛長川、そして排水機場の水門から注ぐ伝右川の合流点を眺める。この伝右川排水機場のある三川が合流する三角州といった辺りは東京都足立区花畑。元は花俣(又)村。明治に近隣の村が一緒になるとき、もとの花又村の{花}と、近辺が畑地であったので「畑」を加え、「花畑」に。それはともあれ、もとの花又であるが、花 = 鼻 = 岬・尖ったところ。又 = 俣>分岐点。毛長川と綾瀬川、伝右川のが合流・分岐する三角洲、といった地形を美しく表した名前である。現在はこの三角州の部分だけが毛長川の北に飛び地といった案配で足立区となっているが、往昔、河川改修が行われる以前は流路がこの飛び地の北端辺りであったのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。
毛長川
で、右から合流する毛長川であるが、埼玉県川口市東部(安行慈林辺り)に源流点をもち、市内を南へ下り、草加市と足立区の境を東流し、この地で綾瀬川に合流する。依然、足立区散歩の折り毛長川という名前に惹かれてその由来などを調べたことがある。そのときのメモ;毛長川を隔て、埼玉の新里すむ長者に美しい娘。葛飾・舎人の若者と祝言。婿殿の実家と折り合い悪く実家に戻ることに。その途中沼に身を投げる。その後、長雨が続くと沼が荒れる。数年後沼から長い髪の毛を見つける。娘のものではないかと、長者に届ける。長者感激。ご神体としておまつり。それ以降沼が荒れることがなくなる。その神社が現在新里にある毛長神社。沼を毛長沼と。
それと、毛長川流域に伊興遺跡などの有名な古墳がある、何故にこの地に、などと好奇心に駆られチェックした。そのときのメモによると:「毛長川は、古墳時代の入間川の流路跡、とか。そして古墳時代の入間川は利根川水系の主流で、熊谷>東松山>川越>大宮>浦和>川口>幡ヶ谷、と下り、現在の毛長川に沿って流れ足立区の千住あたりで東京湾に注いでいた、とのことである。葛飾・柴又散歩のとき、東京下町低地の二大古墳群は柴又あたりと毛長川流域とメモした。そのときは、それといったリアリティはなかった。が、千住あたりが当時の海岸線である、とすれば、この毛長川流域、って東京湾から関東内陸部への「玄関口」。交通の要衝に有力者が現れ、結果古墳ができても、なんら違和感は、ない」、と。
現在入間川は飯能辺りを源流都市、川越とさいたま市の境あたりで荒川に注ぐ。江戸の荒川西遷事業の頃は、現在の荒川・隅田川の流路を下っていた、というが、現在の元荒川・古利根川筋を流れていた荒川の流れを、西に流れる入間川に瀬替しする荒川西遷事業という大工事によって、入間川は荒川に「吸収」された、ということではあろう。
大鷲神社
毛長川を渡り本日の最終目的地である大鷲神社に。鬱蒼とした社の森に社殿が佇む。この神社を訪れたのはこれで3度目、か。はじまりは、このこの神社が「酉の市の発祥の地」らしい、ということで訪れた。そのときのメモ;「大鷲神社。大鷲神社はこの地の産土神。中世、新羅三郎源義光が奥州途上戦勝祈願。凱旋の折武具を献じたとか。
ここは酉の市の発祥の地。室町時代の応永年間(1394 - 1428年)にこの神社で11月の酉の日におこなわれていた収穫祭がお酉さまのはじまり。「酉の待」、「酉の祭り」が転じて「酉の市」になった、とか。
この地元の産土神さまのおまつりが江戸で有名になったのは、近隣の農民ばかりでなく広く参拝人を集めるため、祭りの日だけ賭博を公認してもらえたこと。賭博がフックとなり千客万来。江戸から隅田川、綾瀬川を舟で上る賭博目的のお客さんが多くいた、と。が、安永5年に賭博禁止。となると客足が途絶える。新たに浅草・吉原裏に出張所。これが大当たり。本家を凌ぐことになった。賭博にしても、吉原にしても、信仰といった来世の利益には、こういった現世の利益が裏打ちされなければ人は動かじ、ってことか。ついでに、参道で売られた熊手も、もとは近隣農家の掃除につかう農具。ままでは味気ないということで、お多福などの飾りをつけて販売した。
「大鷲」の名前の由来:この産土神さまは「土師連」の祖先である天穂日命の御子・天鳥舟命。土師(はじ)を後世、「ハシ」と。「ハシ」>「波之」と書く。「和之」と表記も。「ワシ」と読み違え「鷲」となる。ちなみに、天鳥舟命の「鳥」とのイメージから「鳥の待ち」に。この待ちは、庚申待の使い方に同じ。鳥の話、といえば、鉄道施設と鳥のかかわり。東武伊勢崎線はこの花畑地区を通る予定だったらしい。が、この「陸蒸気」、その轟音と煤煙でにわとりが卵を産まなくなる、とか、大鷲神社の「おとりさま」に不快な思いをさせるのは畏れ多い、ということであえなく中止。電車が通っていたら、この辺りの環境は今とは違った姿に、なっていたのでは、あろう」、と。大鷲神社を離れ、記念体館前まで北へと少し歩き、バス停で最寄りの駅まで進み、本日の散歩を終え一路家路へと。
藤代家道に沿って明治初期建築の旧商家藤代家。草加宿に残る数少ない町屋建築の建物である藤代家を見やりながら進むと道路元標識。明治44年(1911)建立。ここを起点に谷塚・千住・越谷・浦和・栗橋への距離が示される。千住町へ2町17丁53間三尺、越谷へ1里33丁30間2尺、などといった案配である。この道路元標がかつての問屋場があったところ。その先隣りが本陣清水家跡である。
本陣跡
本陣・清水家は現在堀川産業本社となっている。その先に脇本陣の松本家。脇本陣は松本家と丸山という旅籠が交代で務めていた、と。清水家本陣跡の旧日光街道を隔てたマンションが大川本陣跡。大川本陣は宝暦年間(1751-1763)まで。その後は明治まで清水家が本陣を務めたとのことである。
草加宿のはじまりは慶長11年(1606)に遡る。宿篠葉村(松江町)の大川図書が中心となり、瀬崎(草加市の南端。足立区との境をなす毛長川の北一帯)から谷古宇にかけての低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、千住~越ケ谷間をほぼ一直線に結ぶ新往還道を築き上げた。この草を重ね加えたことが草加の由来、とも言う。
新往還道が開かれる以前の千住~越ケ谷間は、沼地に遮られ花俣(現在の花畑)から八条(八潮市)に出て、古利根川と元荒川の自然堤防伝いに越ケ谷に出るという迂回ルートとなっていた。新往還道が完成すると旧来の迂回路を避け、新往還を利用する旅人が急増し、新道沿いに町場が形成されていった。そして新往還に旅人が増大していく中で、人馬を千住から越ケ谷まで長距離継立てすることが困難となり、寛永7年(1630年)、草加は千住宿に次ぐ2番目の宿、千住宿と越ケ谷宿の「間(あい)の宿」として取り立てられることになる。
当時、新道沿いには1つの村で宿を編成できるほどの大きな集落がなかったため、南草加、北草加、吉笹原、原島、立野、谷古宇、宿篠葉、与左衛門新田、弥惣右衛門新田の9か村(与左衛門新田、弥惣右衛門新田を除いた7新田とも)が組合立で草加宿を成立させたとされる。
開宿当初の規模は、戸数84軒、南北の距離685間、伝馬役人夫(人馬の継立て役)25人、駅馬25頭といわれ、旅籠屋の数5、6軒、他に豆腐屋、塩・油屋、湯屋、髪結床、団子屋、餅屋が1軒ずつ軒を並べる程度で、他はすべて農家だった、とか。
元禄2年(1689年)ごろになると戸数は120軒に増え、正徳3年(1713年)に草加宿総鎮守として神明神社が建てられ六斎市(毎月6回、定期的に開かれた市)が開かれるようになると、草加宿は近郷商圏の中心地として急速に発展した。
享保13年(1728年)には、伝馬役人夫が50人、駅馬が50頭となって開宿当初の2倍まで増加し、天保14年(1843)には、南北12町(およそ1.3キロ)、人口3,619名。家数723軒。本陣1,脇本陣1、旅籠67軒(大2軒、中30軒、小35軒)と飛躍的な規模拡大が見られ、「宿村大概帳」によれば、草加宿の街道沿いには余すところなく家々が軒を連ねた、と記す。日光街道の往還や綾瀬川の舟運の発達により、江戸の頃、草加は大宮や浦和より大きい集落ではあったわけである。草加宿の位置は、南は草加市役所の前に建つ地蔵堂付近から、北は神明一丁目の草加六丁目橋付近までと考えられている。
氷川神社
さらに先に進むと、道の西側、草加小学校のあたりにこれまたささやかな祠。氷川神社とある。この社には縁結びの神としての「平内さん」の縁起がある。平内さんとは江戸時代の実在の人物で、夜な夜な辻斬りなどの悪行を重ね、市それ故に自身の財業消滅を願って己の像を造り、通行人に「踏みつけ」させた。これが後に「踏みつけ>文付け」に転化され、縁結びの神として親しまれるようになった、とか。
とはいうものの、この「平内さん」は、この社だけに登場するわけでもない。いつだったか浅草の浅草寺を歩いたとき、そこに「久米平内堂」が祀られており、そこでもこの氷川の社の縁起とまったく同じストーリーで縁結びの神として祀られていた。
平内は実在の人物。江戸初期の津和野藩士、城下で津 和野小町といわれた呉服商の娘お里の危急を救い人を殺めて、江戸に出奔。剣の修行に努めた。その後は千人切りを目指し、夜ごと辻斬りを行い悪行を重ねたとか、も心ならずも喧嘩のあげく人を殺めたなど諸説あるようだが、ともあれ、その罪を償うために浅草寺内に住まいし禅の修行に励んだ。そして死後罪を償うために己の像を道下に埋め、人に踏み付けられることを求めた、とか。踏み付け>文付けの転化で、恋の仲立ち>縁結びの神として祀られた、と。この平内さんの話は滝沢馬琴が読み本にしたり、歌川豊国が浮世絵に描いたりした結果、この話がひろがり、この地にも伝わったのだろう。
おせん茶屋
八幡神社から500mほど、旧街道沿い右側におせん茶屋跡。草加せんべいの祖「おせんさん」に因んだ公園・休憩所となっていた。高札を模した掲示板などもあり、おせんべいの製造法などを見やりながら少々休憩。
草加せんべいのはじまりにはいくつかの伝説がある。代表的なものは、日光街道の草加松原に旅人相手の茶屋があり、おせんさんのつくる団子が評判だった、と。おせんさんは、団子が売れ残ると川に捨てていたが、ある日それを見た武者修行の侍だか、旅人が「団子を捨てるとはもったいない、その団子をつぶして天日で乾かして焼餅として売っては」とアドバイス。おせんさんが早速売りだしたところ、日持ちもいいし、携帯できる美味しい「堅餅」として大評判になり、日光街道の名物になった、とか。このような、穀粉をゆでてから焼いて(または揚げて)つくる菓子の製法は、遣唐使が中国から持ち帰ったものといわれる。
東福寺
おせん茶屋の少し北、道の東に東福寺参道入口がある。長い参道を進むと山門。四脚門切妻造りの山門は堂々として、いい。本堂にお詣り。欄間の龍の彫刻もなかなか、いい。境内にある鐘楼にも龍の彫り物が施されている。山門、本堂の欄間彫刻、鐘楼は市の文化財に指定されている。
東福寺は草加宿を開いた大川図書(ずしょ)が、慶長11年(1606年)に創建したと伝えられる。大川図書は、小田原北条氏に仕えていたが、天正18年(1590年)に小田原城が落城したことにより浪人となり岩槻に移る。その後、朋友の関東郡代・伊奈備前守忠次の計らいで草加の谷塚村、宿篠葉村に移り住む。
既にメモしたことではあるが、当時、草加より越ヶ谷間には一雨毎に流路が変わるとも言われた綾瀬川によってつくられた湿地・沼が広がり、越ヶ谷に行くには古利根川と元荒川の自然堤防伝い大廻り強いられる迂回ルートしかなかった。ために、慶長11年(1606年)に、宿篠葉村(松江町)に住んでいた大川図書が中心となり、瀬崎から谷古宇にかけての低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、千住~越ケ谷間をほぼ一直線に結ぶ新往還道を築き上げた。
この越ヶ谷を直線で結ぶ道が完成すると、大廻りの迂回路を避け、この新道の往還が急増。日光街道の千住と越ヶ谷の間の宿として草加宿ができることになる。草加宿を開く立役者となった大川図書はこの功績により幕府から「名字帯刀」を許され、草加宿で宿役人などの職が与えられた。図書はその跡も新田の開発や農業の振興などにも大きな功績を残している。現在の草加小学校は大川図書の屋敷跡、とか。
上で草加の由来は、湿地に草や葦を敷き加えたことによる、とメモした。異説もある。『草加宿由来』には「二代将軍徳川秀忠が鷹狩りを大原村(八潮市)で行い、舎人(足立区)の御殿で宿泊することとなったが、大原と舎人の間には草野が広がり沼もあって人馬が進みにくかった。ために、大川図書に道の補修を命ぜられた。図書は村人を集め、草を刈り、葦や柳を切って湿地を埋め立て新道をその日のうちに造った。そして、秀忠から「これは草の大功である。これからはここを草加と名付けよ」と上意があった、という記述がある、と。「草の功」が、草加の由来との説がこれである。
神明神社
旧日光街道を進み、右にカーブし県道49号足立・越谷線に合流する辺りに神明神社。祭神は天照大神で、そのほか御神霊石も祀られている、と。創建は与左衛門新田の名主吉十郎の祖先が、元和元年(1615)に、宅地内に小社を建立したことに始まる、と。「草加見聞史 」によれば、元和(1615年~1624年)の初め、一人の村人が宅地内に自然石を神体とする小社を建てたのが始まりとする。八幡神社の縁起と同じく門外漢にはどちらがどうとも詳らか成らず。それから約百年後の正徳三年(1713)に、この地へ移され、草加宿組9ヶ村の希望により草加宿の総鎮守となった。 その後、安永六年(1777)に、草加宿の一丁目から三丁目までが、二丁目稲荷社を八坂神社と改称したことから鎮守の分離が行われた。この稲荷社とは、先ほど訪れた高砂八幡神社のことではあろう。
天保年間(1830年~1844年)に社殿を焼失。弘化4年(1847年)に再建され、明治34年(1901年)と昭和52年(1977年)に修繕が施されて現在に至っている。上記の八幡神社と同じ明治42年(1909年)に草加神社に合祀された。
境内を眺めていると境内入口に「高低測量几号」の礎石がある。「神明宮鳥居沓石(礎石)の高低測量几号」の案内によると;石造物に刻まれた「(木の上が飛び出していない形」の記号は明治九(1876)年、内務省地理寮がイギリスの測量技師の指導のもと、同年八月から一年間かけて東京・塩釜間の水準測量を実施したとき彫られたものです。記号は「高低測量几(き)号」といい、現在の水準点にあたります。この石造物は神明宮のかつての鳥居の沓石(礎石)で、当時、記号を表示する標石には主に既存の石造物を利用していました。この水準点の標高は、4.5171mでした。
その後、明治十七年に測量部門は、ドイツ方式の陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われませんでした。しかし、このような標石の存在は測量史上の貴重な歴史資料といえます」とあった。
伝右川
神明神社の北側、県道49号と旧日光街道の合流点の交差点脇に「おせん公園」がある。公園には「草加せんべい発祥の地碑」が建つ。公園の北側を流れるのが伝右川である。
伝右川はさいたま市緑区高畑(もう少し北の見沼区膝子辺り、とも)を源とし、同区の大門に到る。大門地区からは綾瀬川に沿って川口市戸塚の低地を流れて草加市市に入る。新栄町で東に流路を変える綾瀬川と離れ、南東へと下り学園町の辺りで流路を東に変え、この地・おせん公園に下る。
この地から伝右川は再び綾瀬川と平行して流れ、札場河岸公園付近では綾瀬川と並行して流れ、足立区花畑で綾瀬川に注ぐ。川の名前は開削者の井手伝右衛門より。寛永5年(1628)関東郡代・伊奈半十郎忠治の家臣であった伝右衛門が低湿地の干拓を目的に開削したとされる。伝右衛門堀とも呼ばれた。 伝右川は川幅が狭いため洪水被害も多く、昭和3年(1928)には増水時に綾瀬川に水を流す「一の橋放水路」が掘られている。県道162号に沿って、新栄小学校の南を東西に貫く水路がそれであろう。
伝右川は綾瀬川の支流では最も水質が悪く、草加市の吉町の浄化施設や、埼玉高速鉄道のトンネルを使って荒川の水を伝右川に導水するといった水質改善が行われている、と。水面を眺めるに、臭気は無いものの、水質は依然として濁った状態ではある。
札場河岸公園
県道と旧日光街道の合流点脇に「河合曽良の像」。芭蕉の門人として「奥の細道」を共に辿った俳人である。「河合曽良の像」を見やり横断歩道を渡り、伝右川に架かる「草加六丁目橋」の先は「札場河岸公園」。綾瀬川の舟運華やかなりし頃の河岸跡を公園として整備している。公園に入ったところには芭蕉像や河岸の雰囲気を伝えるためか、望楼が造られている。用水フリークとしては、何をおいても河岸であり堰であるので、望楼や芭蕉を差し置いて、まずは公園の南端にある札場河岸跡と甚左衛門堰へと向かう。
札場河岸
望楼を見やり休憩所を越えて少し南に進むと綾瀬川に船着場らしき石段。札場河岸跡は綾瀬川災害対策事業の終了を記念し平成元年(1989)から3年にかけて整備されたもの。ぱっと見た目には、最近整備されたものとは思えなかった。船着場には柵があり下りることはできなかった。
札場河岸はもともと甚左衛門河岸と呼ばれ、野口甚左衛門の私河岸。札場河岸と呼ばれたのは、甚左衛門の屋号が「札場」であり、また、安政大地震により御店を河岸脇へ移転したため。
甚左衛門は年額12両の河岸使用料を請負業者から受け取る代わりに、この河岸から130mほど下流の谷古宇土橋までの堤防の修理を行うことを、その義務とした。
綾瀬川の舟運は、江戸時代の中期から、草加地区と江戸を結ぶ大切な運河として多くの船が行き交い、草加、越谷、粕壁(春日部)など流域各所に河岸が設置され、穀物等の集散地としてまちが発展した。この札場河岸では草加宿や赤山領(現・新田地区の一部)の年貢米を積み出し、そのほかさまざまな荷の船積み、荷揚げをおこない、舟運は、明治、大正に至るまで発展を続たが、鉄道の開通など陸上交通が急速に発展したことで衰退し、昭和30年代には姿を消した。
甚左衛門堰
札場河岸の右手には甚左衛門堰がある。建設当初の姿を留める煉瓦造りの堰は、用水フリークには誠に有り難い遺構。案内によれば、「明治二十七年から昭和五十八年までの約九十年間使用された二連アーチ型の煉瓦造水門。煉瓦は、横黒煉瓦(鼻黒・両面焼煉瓦ともいう。)を使用している。煉瓦の寸法は、約21cm×10cm×6cm。煉瓦の積み方は段ごとに長平面と小口面が交互に現れる積み方で、「オランダ積」あるいは「イギリス積」と呼ばれる技法を用いている。
煉瓦造水門『甚左衛門堰』は、古いタイプの横黒煉瓦を使用しており、建設年代から見てもこの種の煉瓦を使った最後期を代表する遺構である。また、煉瓦で出来た美しい水門は、周囲の景観に溶け込み、デザイン的にも優れたものであり、建設当初の姿を保ち、保存状態が極めて良く、農業土木技術史・窯業技術史上でも貴重な建造物である(草加市教育委員会)」、とあった。
望楼
河岸跡や堰でゆったり時間を過ごした後、今度は綾瀬川に沿って草加の松並木を少しだけ北に辿る。甚左衛門堰を離れるとすぐに先ほど通り過ぎた望楼閣。五角形の建物の高さは11mほどの見張り櫓。内部を上ることもできるとのことだが、パス。某建築設計事務所の作品としてこの望楼が記されていたので、造られたのはそれほど昔、というものではないようだ。
子規歌碑
望楼の隣りにある休憩所の後ろに正岡子規の歌碑。「梅を見て 野を見て行きぬ 草加まで 子規」。案内によれば、明治27年(1894)、東京郊外に梅を愛でる吟行のため高浜虚子とともに上野の根岸から歩きはじめ、草加に立ち寄った時に詠ったもの。
松尾芭蕉像
札場河岸公園の入口にあった芭蕉像まで戻る。この像は『おくのほそ道』旅立ち300年を記念して製作されたブロンズ像。友人や門弟たちの残る江戸への名残りを惜しむかのように江戸を見返る姿、とのこと。
綾瀬川に沿って続く松並木を辿ると、松尾芭蕉に関する説明が記載された看板が建っていた。解説板によると;「1689年(元禄2) 3月27日、46歳の松尾芭蕉は、門人の曽良を伴い.奥州に向けて江戸深川を旅立ちました。深川から千住宿ま舟で行き、そこで見送りの人々に別れを告げて歩み始めたのでした。この旅は、草加から、日光、白河の関から松島、平泉、象潟、出雲崎、金沢、敦賀と、東北・北陸の名所旧跡を巡り、美濃国大垣に至る600里 (2400km)、150日間の壮大なものでした。この旅を叙したものが、日本三大古典に数えられる「おくのほそ道』です・
月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口をとらへて老をむかふる者は、日々旅にして、旅を栖とす・・・・
あまりにも有名なその書き出しは、「予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて漂泊の思ひやまず・・・」と続き、旅は日光道中第2の宿駅の叙述に進みます。
もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加(草加)といふ宿にたどり着きにけり
芭蕉は、肩に掛かる荷物の重さに苦しみなから2里8町(8.8km)を歩き、草加にたどり着きました。前途多難なこの旅への思いを吐露したのが草加の条」です。「おくのほそ道」の旅は、この後草加から東北へと拡がっていくことになります)、とある。
日光街道の松並木
公園から北には綾瀬川に沿って松並木が続く。この松並木は先回の散歩でメモしたように、天和3年(1683年)に伊奈半左衛門がおこなった綾瀬川直線化工事の区間であり、綾瀬川に沿って日光街道が通る。松林は日光街道に沿っておよそ1.5キロ、江戸時代より「草加松原」「千本松原」と呼ばれる名所となっていた。松並木は天和年間の開削工事に合わせ日光道中を開削した時に植えた、とも言われるが、寛延4年(1751年)成立の『増補行程記』(盛岡藩士清水秋善筆)には松並木は描かれてはいない。寛政4年(1792年)に1230本の苗木を植えたということが記録に残り、文化3年(1806)完成の『日光道中分間延絵図』には街道の両側に松林が描かれている。
松並木の続く遊歩道には矢立橋、百代橋などという如何にも芭蕉を想わせるような橋が続く。日光街道の趣きを演出するためだろうか、橋の形も太鼓橋のようなものになっている。百代橋の南詰めには橋名の由来碑。碑面に「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」の文字を刻む。
松尾芭蕉文学碑
橋の北詰めんには「おくのほそ道」の草加の段を刻む松尾芭蕉文学碑。「ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと、定なき頼の末をかけ、其日漸早加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物、先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。また、その北隣りには奥の細道文学碑。「その日ようよう草加という宿にたどり着にけり」と刻する。
■伝右川を下る
草加の松並木を百代橋辺りで折り返し、再び南へと下ることにする。川筋は綾瀬川に沿って下るか、伝右川に沿って下るか少々迷ったのだが、結局は伝右川筋を歩くことにした。理由は特にないのだが、どうしたところで本日の最終目標地である花畑の大鷲神社の辺りで伝右川は綾瀬川に合流するわけで、それなら散歩をはじめるまで名前も知らなかった川筋を歩いてみよう想ったのではあろう、か。
谷古宇稲荷
甚左衛門橋まで戻り、神明排水機場を左に眺めながら伝右川を下る。八条小橋を越えて100mほど進んだところに谷古宇稲荷がある。創建は不詳。神体は自然石とのこと。神社の建物は18世紀後半から19世紀はじめの特徴を示すと言う。境内の眷属である狐の像は素朴な表情とともに、子狐をあやす姿が誠に、いい。眷属の台座には、草加宿商家の屋号と女性の名前が刻まれており、多くの人々の信仰をあつめた証しではあろう。
先回の散歩において、谷古田用水のところでメモしたが、谷古宇とはこの地だけに残る古い地名とのこと。江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿 足立郡之四』の谷古田領本郷村(現在の川口市本郷)の項に、「本郷村ハモト谷古田郷ト唱ヘシヨシ云伝フレバ、其本郷タルコト知ベシ。按ルニ鶴岡八幡宮ニ蔵スル古文書及ビ東鑑ニ武蔵国矢古宇郷ヲ鶴岡社領ニ寄進アリシ由載タルハ、則此邊ノコトナルベシ。今此領ニ属スル村ニ谷古宇ト称スル所アリ。是古ノ遺名ニシテ舊クハ此邊スベテ矢古宇郷ト唱ヘシヲ、後イカナル故ニヤ谷古田ト改メ、今ハ領名トナリシナラン」、と。また『東鑑』にも、承久3年(1221年)鎌倉の鶴岡八幡に寄進されという50町の矢古宇郷(草加市神明)の記述が残る。何故か後世、矢(谷)古宇が矢古田に改められた、とある。
鎌倉時代の谷古宇郷の地頭の名に谷古宇右衛門次郎の名が残る。また、谷古宇という姓は全国に1200ほどあると言うが、その40%から50%は埼玉にある、とのことである。
いつだったか足立区の北端を彷徨ったとき、草加の南を区切る毛長川流域・足立区の竹の塚に伊興遺跡があった。毛長川流域に古代栄えた一帯であり、埼玉古墳群の先駆けとなるような豪族の存在があった、とのことであるが、それよりなにより、この「伊興」は「伊古宇」であり、「伊古宇」も「矢(谷)古宇」も同じ意味、というかどちらか一方から音が変化したもの、との説がある。「い」も「や」も「湿地」を著す、とか。「古宇」は市川の国府台(こうのだい)に代表される「国府」とも。湿地にある国府のような政治の中心地の意味、と言う。その説が妥当か否か、門外漢には判断できないが、鎌倉時代の『東鑑』に伊興遺跡や伊興古墳群が存在する足立区伊興を管轄する地頭として「伊古宇又二郎」の名が登場する。伊古宇も矢古井戸も地元の有力者であったことは間違いないようだ。
椎の木稲荷
南へ下り、谷古宇新橋を越え、道脇の椎の大木を過ぎた少し南に椎の木稲荷。畑の脇に僅かに残った数本の大木の下に祠がかろうじて残るといった社である。境内などといった趣は何も、ない。落雷の被害に遭った、とか。
天満宮
椎の木稲荷を過ぎた頃より、伝右川の先に東京スカイタワーが見える。なかなか、いい眺めである。更に南へ200mほど進むと県道327号(鶴ヶ曽根・草加線)。この道を東に進めば草加駅にあたる。この県道沿い、裏手に伝右川を見下ろすように天満宮がある。創立は不詳とのこと。
県道327号に架かる東小橋、その南の地蔵橋を越え先に進む。地蔵橋の南100mほどのことろに灌漑用の水門であった手代堰跡がある、とのことだが、探すも、結局見つけることができなかった。
手代堰跡は見付けられなかったが、川沿いにいくつかの野仏、皇太子御降誕記念碑とともに「成田山」と刻まれた大きな石碑があった。成田山参詣を記念した石碑であろう、か。
手代の由来はこの辺りが古くから手代、手白、手城などと呼ばれており、大字吉笹原字手白と大字谷古字の一部を合わせて町とする時、手代町とした。
日枝神社
上山王橋、山王橋へと下る。山王橋の右手前に日枝神社。創立は不詳であるが、境内の手洗石や石灯籠、そして本殿の棟札に残された記録から19世紀の前半頃には社があったかと推測されている。彫刻の施された一間社流造りの本殿は市の文化財指定を受けている。
この橋と神社のように山王と日枝はペアで登場することが多い。その理由は、日枝神社は、日吉山王権現が明治の神仏分離令によって改名したもの。「**神社」って呼び方はすべて明治になってからであり、それ以前は「日吉山王権現の社(やしろ)」のように呼ばれていた(『東京の街は骨だらけ』鈴木理生:筑摩文庫)。その日吉山王権現という名称であるが、これって、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた、ということ。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということである。
吉町浄水場
南に下ると吉町浄水場。草加市にある5つの浄水場(新栄配水場、中根浄水場、吉町浄水場、旭浄水場へ、谷塚浄水場)のひとつ。草加市の上水は江戸川水系と荒川水系から(これを「県水」と呼ぶ)の水と地下水によってブレンドされてつくられている。ブレンド率は県水85%と地下水15%とのこと。江戸川水系の県水は庄和浄水場(春日部市)経由と、新三郷浄水場(三郷市)経由。荒川水系は、大久保浄水場(さいたま市)経由となる。庄和浄水場の水は中根浄水場とこの吉町に送られ市内へ、また中根浄水場(市内の北東側)を経由して旭浄水場(松原団地一帯)から市内へ、この吉町上水場を経由し谷塚浄水場(市内の東南部)から市内に送られる。新三郷浄水場からは新栄浄水場(市内の北西部)に送られ市内へ。一方荒川水系の水は大久保浄水場から新栄浄水場を経て市内へ送られる。
地下水と言えば、原発事故で放射能が問題になったとき、この草加では地下水を各家庭に配給したことでニュースになっていた。
吉原の地名は昔の地名である吉笹原の「吉」から採ってつくられた。吉笹原は江戸時代初期は吉篠原村と呼ばれ、その後、吉笹原村と改められた。1もともと芦や笹の繁る「芦篠原」と呼ばれていたが、「芦」という読みは「あし(悪)」につながるということで、「芦」をめでたい「よし(吉)」に変えたもの、とか。
伝右川浄化施設
県道54号を越えて先に進むと伝右川の流路は直角に曲がる。その角に伝右川浄化施設があった。伝右川浄化施設の上はテニスコートやグランドになっている。案内によれは、伝右川の水を取り込み、水質汚染の原因となる有機物等を浄加槽内に設置した球状砕石集合体に生息する微生物の代謝活動により分解し浄加し、再び伝右川に戻す。伝右川が直角に曲がるところに暗渠となった水路がある。これは赤堀用水とのことであるが、伝右川浄化施設からの水はこの赤堀用水を経て伝右川に流されているようである。
赤堀用水とは大門村差間(現在の川口市差間)に設けられた用水。関東郡代伊奈氏の赤山領を流れる灌漑用水。川口市の安行中学辺りから草加市の氷川町を経てこの地へと下っているのだろう。
伝右川排水機場
伝右川と赤堀用水の合流点で道は行き止まりとなる。右に折れすぐに左に折れ、瀬崎中学校脇を南東に下る。ガスタンクが見える手前で左に折れ、伝右川の川筋に出る。草加市記念体育館脇を進み成り行きで伝右川の橋を渡り「あやせ川清流館」にちょっと立ち寄り、伝右川排水機場に。
伝右川排水機場は、伝右川と綾瀬川、そして毛長川の合流部に位置し、草加市、八潮市に大きな被害をもたらした昭和56年(1981)の台風24号の激特事業の一環として、伝右川流域の洪水、内水被害の軽減を目的として建設。平成16年(2004)に完成した。
伝右川・綾瀬川・毛長川の合流部
伝右川排水機場の脇に立ち、左手から下る綾瀬川、右手から合流する毛長川、そして排水機場の水門から注ぐ伝右川の合流点を眺める。この伝右川排水機場のある三川が合流する三角州といった辺りは東京都足立区花畑。元は花俣(又)村。明治に近隣の村が一緒になるとき、もとの花又村の{花}と、近辺が畑地であったので「畑」を加え、「花畑」に。それはともあれ、もとの花又であるが、花 = 鼻 = 岬・尖ったところ。又 = 俣>分岐点。毛長川と綾瀬川、伝右川のが合流・分岐する三角洲、といった地形を美しく表した名前である。現在はこの三角州の部分だけが毛長川の北に飛び地といった案配で足立区となっているが、往昔、河川改修が行われる以前は流路がこの飛び地の北端辺りであったのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。
毛長川
で、右から合流する毛長川であるが、埼玉県川口市東部(安行慈林辺り)に源流点をもち、市内を南へ下り、草加市と足立区の境を東流し、この地で綾瀬川に合流する。依然、足立区散歩の折り毛長川という名前に惹かれてその由来などを調べたことがある。そのときのメモ;毛長川を隔て、埼玉の新里すむ長者に美しい娘。葛飾・舎人の若者と祝言。婿殿の実家と折り合い悪く実家に戻ることに。その途中沼に身を投げる。その後、長雨が続くと沼が荒れる。数年後沼から長い髪の毛を見つける。娘のものではないかと、長者に届ける。長者感激。ご神体としておまつり。それ以降沼が荒れることがなくなる。その神社が現在新里にある毛長神社。沼を毛長沼と。
それと、毛長川流域に伊興遺跡などの有名な古墳がある、何故にこの地に、などと好奇心に駆られチェックした。そのときのメモによると:「毛長川は、古墳時代の入間川の流路跡、とか。そして古墳時代の入間川は利根川水系の主流で、熊谷>東松山>川越>大宮>浦和>川口>幡ヶ谷、と下り、現在の毛長川に沿って流れ足立区の千住あたりで東京湾に注いでいた、とのことである。葛飾・柴又散歩のとき、東京下町低地の二大古墳群は柴又あたりと毛長川流域とメモした。そのときは、それといったリアリティはなかった。が、千住あたりが当時の海岸線である、とすれば、この毛長川流域、って東京湾から関東内陸部への「玄関口」。交通の要衝に有力者が現れ、結果古墳ができても、なんら違和感は、ない」、と。
現在入間川は飯能辺りを源流都市、川越とさいたま市の境あたりで荒川に注ぐ。江戸の荒川西遷事業の頃は、現在の荒川・隅田川の流路を下っていた、というが、現在の元荒川・古利根川筋を流れていた荒川の流れを、西に流れる入間川に瀬替しする荒川西遷事業という大工事によって、入間川は荒川に「吸収」された、ということではあろう。
大鷲神社
毛長川を渡り本日の最終目的地である大鷲神社に。鬱蒼とした社の森に社殿が佇む。この神社を訪れたのはこれで3度目、か。はじまりは、このこの神社が「酉の市の発祥の地」らしい、ということで訪れた。そのときのメモ;「大鷲神社。大鷲神社はこの地の産土神。中世、新羅三郎源義光が奥州途上戦勝祈願。凱旋の折武具を献じたとか。
ここは酉の市の発祥の地。室町時代の応永年間(1394 - 1428年)にこの神社で11月の酉の日におこなわれていた収穫祭がお酉さまのはじまり。「酉の待」、「酉の祭り」が転じて「酉の市」になった、とか。
この地元の産土神さまのおまつりが江戸で有名になったのは、近隣の農民ばかりでなく広く参拝人を集めるため、祭りの日だけ賭博を公認してもらえたこと。賭博がフックとなり千客万来。江戸から隅田川、綾瀬川を舟で上る賭博目的のお客さんが多くいた、と。が、安永5年に賭博禁止。となると客足が途絶える。新たに浅草・吉原裏に出張所。これが大当たり。本家を凌ぐことになった。賭博にしても、吉原にしても、信仰といった来世の利益には、こういった現世の利益が裏打ちされなければ人は動かじ、ってことか。ついでに、参道で売られた熊手も、もとは近隣農家の掃除につかう農具。ままでは味気ないということで、お多福などの飾りをつけて販売した。
「大鷲」の名前の由来:この産土神さまは「土師連」の祖先である天穂日命の御子・天鳥舟命。土師(はじ)を後世、「ハシ」と。「ハシ」>「波之」と書く。「和之」と表記も。「ワシ」と読み違え「鷲」となる。ちなみに、天鳥舟命の「鳥」とのイメージから「鳥の待ち」に。この待ちは、庚申待の使い方に同じ。鳥の話、といえば、鉄道施設と鳥のかかわり。東武伊勢崎線はこの花畑地区を通る予定だったらしい。が、この「陸蒸気」、その轟音と煤煙でにわとりが卵を産まなくなる、とか、大鷲神社の「おとりさま」に不快な思いをさせるのは畏れ多い、ということであえなく中止。電車が通っていたら、この辺りの環境は今とは違った姿に、なっていたのでは、あろう」、と。大鷲神社を離れ、記念体館前まで北へと少し歩き、バス停で最寄りの駅まで進み、本日の散歩を終え一路家路へと。
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