金曜日, 2月 25, 2022

予土往還 土佐街道・松山街道 ;久万高原町の三坂峠から越ノ峠を繋ぐ①

昨年だったろか、土佐の高知と伊予の川之江を結ぶ予土往還、土佐藩の参勤交代道でもある土佐北街道をすべて歩き終えた。で、ついでのことでもあるので、昨年予土往還のもうひとつのルートである伊予の松山と土佐の高知を結ぶ土佐街道・松山街道を歩くことにした。
どこからはじめよう、と少々考え、結局まずは伊予と土佐を隔てる山間部からクリアしようと伊予の久万高原間の越ノ峠(こしのとう)から歩きはじめることとした。越ノ峠は久万川とその支流である有枝川の分水界。峠とは言い条、整備された県道153号が抜ける小高い丘陵部といったところである。
越ノ峠より山入りし面河川の谷筋に下り、再び山入りし通称高山通りと称されるルートを辿り、予土国境の黒滝峠を越え土居川の谷筋に下りる。そこからまた山入りし鈴ヶ峠を越え仁淀川筋の越智の町へと抜けた。
越ノ峠から面河川筋までは藪も多いが、踏まれた道もありそれほど苦労せず抜けることができたのだが、それから先、予土国境の黒滝峠を越え水ノ峠を越えて山間の集落である寄合に下りるまで踏み込まれた道はほとんどなく、ほぼ藪漕ぎ。一度など下山途中で日没。頃は夏であり寒さの危険はなかったが、夜は沢水で渇きを癒すも夜があける頃には水も切れ、脱水症状なのか「幻覚」を見るといった結構危ういこともあった。

それはともあれ、予土往還の難関部をクリア。当初の目的は達成。その後の高知までは比定された旧土佐街道のルートもないため、どうしたものかとは思ったのだが、結局高知の城下までそれらしき道を辿ることになった。

で、高知まで繋いだのであれば、松山から先回スタート地点である久万高原町の越ノ峠までをも繋ぐべしと、伊予から見れば土佐街道、土佐から見れば松山街道とも呼ばれる松山と高知を結ぶ往昔の予土の主要往還の全ルートをカバーすることにした。
本来であればスタート地点である松山からはじめたいのだが、なにせこのコロナ禍。松山から始めるのは躊躇われ、まずは四国山地が松山のある道後平野へと落ちる片峠である三坂峠から久万高原町の越ノ峠へと向かうことにした。

ルートの目安は先回も予土国境までの頼みの綱とした久万高原町遊山会(以下「遊山会」)作成のトラックデータとその関連資料。データをGPSにプロットしチェックすると国道33号改修前の道筋なのだろうか、国道から逸れた箇所も結構多い。明らかに里道だろうと想定できる箇所も多いが、三坂峠からの スタートから直ぐは地図で見る限り、如何にも道無き藪といった中を進むよう。
藪はもうこりごりなのだが、時は冬。夏ほどは酷くないだろうし、藪とはいえ、国道の傍であり気持は楽。
ということで三坂峠からスタート。実際藪も冬枯れでそれほどのことはなかったが、一部危険個所は国道に迂回し里道に繋いだ。その先快適に歩きはじめたのだが、雪がパラツキはじめてたこともあり、三坂峠の下り道で雪で立ち往生は勘弁と越ノ峠まで繋ぐことなく途中撤退。距離は4キロほど。常の如く単独車行であり、国道440号の三坂峠傍の車デポ地まで往復8キロほどの散歩となった。残りは次回のお楽しみとする。


赤は実行トラックログ。青は「遊山会」の土佐街道トラックログ
本日のルート;
国道440号・三坂峠>旧三坂峠へ>地蔵尊>旧三坂峠
旧三坂峠から越ノ峠へ
駒繋ぎ石>駒つなぎの杉>国道合流点手前に遍路標石>3基の遍路墓>土佐街道標識>土佐街道標識>馬道?>徳右衛門標石>土佐街道標識と廻国供養塔>堰堤を渡る>国道に出る>土佐街道標識>六里の里程標石と常夜灯>河内神社の社碑と注連縄石>遍路標石と地蔵尊>常夜灯

三坂峠から越ノ峠前半部;赤は実行トラックログ、緑は「遊山会」のトラッゥログ


国道440号から旧三坂峠へ

国道440号・三坂峠
国道33号線を走り、途中当日は道路情報にチェーン装着規制とある旧国道33号(現在の国道440号)を避け、三坂道路(現国道33号)を久万高原町の東明神まで進み、そこから国道440号を折り返し三坂峠に。かつての伊予鉄研修所跡地ともドライブイン跡とも言われる平地前のスぺ―スに車をデポする(地図には国道440号の三坂峠は正式にはもう少し北にピンが立つ)。
桧垣翁顕彰碑
車デポ地右手には桧垣翁顕彰碑。明治期の上浮穴郡郡長。地域の発展に道路整備が不可欠と、三坂峠開削に尽力し所謂四国新道の一環として明治24年(1891)三坂峠道の開削が実現。

さらに郡長退任後も松山と土佐の佐川を結ぶ四国横断鉄道建設計画を推進するも志半ば大正13年(1924)に没した、といったことが刻まれていた。 
■旧国道33号(現国道440号)の歴史
その後、大正9年(1920)には県道松山―高知線として認定され、昭和27年(1952)には国道33号に昇格した。昭和初期には運搬主体が馬車からトラックに代わり、昭和9年(1934)には省営バス(国鉄、JRバスの前身)が松山と久万を結んだとのことである。
しかしながら、この国道は明治時代の運搬の主力である「荷馬車規格」であり、自動車道としては狭く、特に三坂峠付近の天狗鼻の険路は安全な交通の障害ともなっていた。そのため、昭和34年(1959)から国道の大改修が始まり、昭和42年(1967)には幅員も6mから6.5m、全線舗装の道に改修された。
この改修時、それ以前のルートも変更されている。当初のルートは大体は現在の旧国道33号(現国道440号)と同じではあるが、360度回転の塩ヶ森トンネル(全長152m)付近は、塩ヶ森トンネル開通以前、トンネル北側に道があり、そこから大友山の西麓を現在の砥部町総合公園の東側を通って砥部町の宮内へ出ていた、という。また、三坂隧道が開削され、現在も残る三坂隧道の付近、ヘアピンカーブから旧国道33号に沿って続き三坂隧道辺りで突起する天狗鼻を通るルートは変更され、新しいルートが開かれ、天狗鼻部分は開削され現在の三坂隧道を抜けるルートとなった、と言う。
斯くして改修された旧国道33号であるが、依然峠付近の急カーブの連続や冬の積雪、また240mm以上の雨が降れば通行止め、といった状況であり、それを解決する事業として三坂峠を回避する計画が昭和60年(1985)にはじまり、平成8年(1996)に事業化決定、着工平成11年(1999)、三坂第一トンネル(延長3,097m)と三坂第二トンネル(延長1,300m)の2本のトンネルと9本の橋梁によって、三坂峠を回避する自動車専用道路である「三坂道路」が開通した。構想から実現まで30年を有した事業であった(「えひめの記憶」より)。
現在は三坂道路が国道33号となり旧国道33号は国道440号となっている。
四国新道
上に、「上浮穴郡長に赴任した桧垣伸氏は、上浮穴の発展は道路の整備にあると四国新道(三坂新道)建設に尽力し」とメモした。正確には、四国新道の御坂峠道周辺の建設に尽力した、と言うことではある。
四国新道とは、香川出身の政治家である大久保諶之丞の構想によるものである。明治17年(1884)に「四国新道構想」を発表。そのルートは当初、丸亀、多度津から琴平、阿波池田、経て高知へ至る計画であったが、後で高知から佐川、須崎へ至る路線、更にそこから松山に至る計画も追加された。総延長は約280km。 1886年(明治19年)に起工。起工から8年後の1894年(明治27年)に四国新道は完成した(「Wikipedia)より)。

旧三坂峠へ
今回のスタート地点と決めた国道開削以前の旧三坂越えの険路にある三坂峠に向かう。ここは四国遍路道を辿る折、既に歩いており勝手知ったるところ。旧峠も国道から数分といったところにある。
三坂峠は所謂「片峠」。四国山地の北端、松山のある道後平野に向かって山地が落ちてゆくものであり、松山方面からは上りだけ、高知方面からは下りだけの峠ではある。その下り口となる旧三坂峠へ進む。
研修所跡(ドライブイン跡?)地の南端に左に逸れる簡易舗装の道があり、地図には「松山街道」と記される。入り口には「46番浄瑠璃寺 8.5km」「45番大宝寺 46番岩屋寺」と記された木の標識が立つ。その対面にあるコンクリートブロックはかつてこの地を訪れた時、バスから降りた停留所があったところ。バス停の案内標識もなくなっており、バス停はなくなったのだろうか。

地蔵尊
森の小径を進むと、三坂峠から札所46番浄瑠璃寺、47番八坂寺の先辺りまでの今回の「あるき遍路」のルート案内がある。また道の右手一段高いところに地蔵尊が祀られる。
さらに先に進むと、道脇に「四国八十八カ所へんろの旅」の案内。「四国八十八カ所へんろの旅;四国八十八カ所へんろの旅は、阿波の発心の道場(1-23)に始まり、土佐の修行の道場(23―39番)を経て、伊予の菩提の道場(40-65番)に入り、讃岐の涅槃の道場(66-88番)を巡って結願となります、全行程約1440km、なだらかなみちもあれば、険しいみちもあり、あかたもわたしたちの人生に似ているようです」とあった。
阿波で悟りの心を思い立ち、土佐の海岸線に沿った長丁場で修行の心を鍛え、伊予の山懐を辿る遍路みちで煩悩を解き悟りの心を養い、讃岐であらゆる煩悩から解き放たれた境地に至るってことだろうか。
発心・修行・菩提・涅槃と四国四県
この発心・修行・菩提・涅槃を四国四県と関連付けたのはいつ、誰なのだろう。 発心・修行・菩提・涅槃は仏道修行の「四門思想」に由来するとのことであり、お釈迦さまが「東方」で発心し、「南方」で修行を行い、「西方」で菩提をて、「北方」で涅槃の境地に入るとのこと。位置関係も四国四県に一致している。見事なブランド戦略を立案したのは誰なのか結構気になる。

旧三坂峠
国道から5分強土径となった土佐街道・遍路道を歩くと三坂峠の案内。「標高720メートル 久万高原町 伊予と土佐を結ぶ土佐街道にある急峻な峠です。江戸初期に久万の商人山之内仰西によって拓かれました。明治27年に三坂新道(国道33号)ができるまで、この道が松山と久万を結ぶ主要道でした。峠からは松山市内が一望でき、茶屋もあり、久万山馬子や四国遍路をはしめ多くの旅人が行き交ったことが絵図からわかります」とあった。
峠は切り通しとなっており、切り通しの上にはお地蔵様が佇むとのこと(「えひめの記憶」)。常光寺(松山市恵原町)の僧が文政9年(1826)、四国・西国霊場巡拝記念に造立したものと言うが見逃した。
で、人馬や遍路や往還したこの三坂峠、藩政時代には要害の地として幕末動乱期には砲台を据え付け、備えを固めた、と。松山藩は親藩ゆえ討幕派の土佐藩に対するものであろうか。とはいえ、土佐藩の松山藩征討軍に対し松山藩は抵抗することなく開城した。
久万の商人山之内仰西
三坂峠を拓いたとの案内のあった山之内彦左衛門翁(仰西は仏門に入ってからのもの)であるが、久万高原町に今も残る「仰西渠」でも知られる。久万川との川床の格差が10mもあり、豊かな久万川の水を耕地に引くことができず困っていた村人のため、私財を投げ打ち、農業用水路を開削した。岩盤を穿ち幅1.2メートル、深さ1.5メートル、途中約12メートルの隧道を通し全長さ57メートルの水路を3ヶ年の歳月をかけてつくった、と。仰西渠は越ノ峠への途次出合うことになる。

旧三坂峠から越ノ峠へ

駒繋ぎ石
駒繋ぎ石?
旧三坂峠を「タッチ」し、本日の散歩をスタートする。国道440号へと戻る途次、標識はないのだが、なんとなく気になる道が左に逸れる。先へと進むと民家の前を道が進むのだが、その庭にこれも何だか気になる石がある。案内はないのだが、「遊山会」の資料にある「駒つなぎの石」に似ているようにも思える。
駒つなぎの石
「遊山会」の資料には「三坂峠前後の道は、「土佐街道」であると同時にへんろ道でもあり、国道が開通するまでは大変にぎわったようである。次に紹介する三坂馬子唄に歌われる「馬子」は賃金をもらって、物を目的のところへ運搬する人で、「駄賃持ち」と呼ばれ、「馬追い」「なかせ」「馬方」とも呼ばれていたという。
三坂越えすりゃ雪降りかかる戻りゃ妻子が泣きかかる
むごいもんぞや久万山馬子は三坂夜出て夜戻る
わしも若いときゃ城下まで通うた高井の川原で夜が明けた
馬よ歩けよ沓買うて履かそもどりゃとうきび煮て食わそ
馬による物資輸送は、当時、最大最良の方法だったようで、多くの「駄賃持ち」がいたらしいが、道の幅員が狭いので、振り分け荷物を満載した馬と馬との行き違いは困難を極めたようで、馬の首に鈴をつけて往来し、鈴の音を聞けば手前の広い場所で待って離合するようにしたのだという。人馬往来の多さを物語るように、今も峠の近くには、「駒つなぎの杉」「駒つなぎの石」残っている」とあった。
駒つなぎの杉
では「駒つなぎ」の杉とはどれ?民家前を右に折れ国道に向かう道筋に杉の木立が並ぶ。「遊山会」資料の写真と見比べると、如何にもそれっぽい。案内はないがこの杉の子立が駒つなぎの杉なのだろう。




国道合流点手前に遍路標石
民家の前を右に折れる駒つなぎの杉へと向かうことなく、そのまま先に進むと国道に出る手前に遍路タグ、国道合流点右手には古い遍路標石が立ち、左手には真新しい標石も立つ。
古い遍路標石には「右 へんろみち 左 松山道 浄るり寺へ二里 明治廿三年六月建立 鈴木覚蔵」、左手の新しい標石には、「南無大師遍照金剛 浄瑠璃寺八.二粁」と刻まれる。
どうもこのルートが旧土佐街道・遍路道のようだ。
また、「遊山会」の資料には「三坂峠について述べた文献には、必ず「鈴木の茶店」が登場するが、その鈴木の子孫の家の前を通り国道三三号へ出る手前にへんろ標があり」と記される。とすれば途次、庭に「駒つなぎの石」らしき石のあった民家が鈴木の茶屋があったところだろう。
南無大師遍照金剛
「南無」は「帰依する」。「大師」は高僧没後、朝廷より賜る尊称。「遍照金剛」は空海が唐で真言密教の正式な継承者としての儀式(潅頂)時に賜った潅頂名。光明があまねく照らし、金剛(ダイヤモンド)のように壊れることなく不滅である、の意。

3基の遍路墓
国道を右に逸れると
直ぐ道の左手に遍路墓3基
国道合流点の遍路標識から少し国道を南に進むと民家があり、その手前から西に逸れる道がある。道を進むと民家の裏手、生垣というか木立の中に3基の石仏。「遊山会」の資料には遍路墓とあった。
「遊山会」のトラックログは国道を横切り、その後しばらく国道の西を進む。地図には、国道から逸れる辺りに道筋が見えるが、トラックログはほどなく道筋から離れ国道に沿って進んでいる。そこには道筋は描かれてはいないため、この辺り藪漕ぎとなりそうな予感がしたが、予感敵中。今回も出だしから藪漕ぎとなった。

笹原に土佐街道標識
敷地を抜けると山裾に小川。先は笹原
「遊山会」の資料には遍路墓からの先は「ここから道は怪しくなるが細い谷の右岸に出て小さなせせらぎを渡る手前にまたへんろ墓がある。さらに進むと、堀切のような景観をした典型的な馬道を通り、古い木製の小さな橋を渡って左岸に移る」とあり、トラックログも地図記載の道から離れ国道33号に沿ってしばらく進んだ後で国道に合流している。
トラックログに従い道を左に逸れると一帯は切り開かれ広い敷地となっている。国道筋にあった土地分譲 住宅建設企業の敷地のようだ。敷地の西は山裾、南は藪。その境界には幾多の大きな岩が置かれている。住宅建設時の庭石なのだろうか。 敷地を抜け成り行きで進むと小川があり、小川に沿って進むと山裾を流れる小川と合流する。「遊山会」の言う小川がどちらか分からない。ふたつの小川の右岸を彷徨ったが上述遍路墓を見付けることはできなかった。
笹原に土佐街道標識

が、ふたつの小川が合わさる少し先、山裾の木々と笹原の境あたりに円柱のポールが見える。近づくと「土佐街道」と期されていた。なんとなく土佐街道を辿ってはいるようだ。
標識から先は笹原、そして冬枯れの藪。時に木立に括られたリボンを目安に藪を進むと、踏み込まれた道に出る。



土佐街道標識と馬道
踏み込まれた道に土佐街道標識
標識の先に掘り切り風の道。馬道?
山裾の踏み込まれた道を少し進むと再び土佐街道の標識。オンコースを辿っている。
踏み込まれた道はその先、藪に消えるが、藪の手前に掘り切りと言えばそうとも見える箇所がある。それほど深い堀切ではないが、それが「遊山会」の資料に「さらに進むと典型的な堀切の景観を示す「馬道」なのだろうか。
馬道?の先は藪
国道から見た土佐街道筋。藪漕ぎで進む

が、その先、「遊山会」のトラックは山裾を離れ国道33号の一段低いところを南進し国道に合流している。トラックログに従い山裾を離れ冬枯の藪の中を成り行きで進む。「遊山会」の資料には「馬道を通って古い木製の橋を渡り左岸に移る」とあるが背丈より高いい草藪、幾筋も流れる細流など泥濘に落ち込まないよう足元だけが気になり、特段「古い木製の橋」を意識することもなく、草藪の中をしばらく進みトラックログに従いガードレールの間から伸びるステップを上り国道に出る。

徳右衛門標石
ステップを見つけ国道に出る
徳右衛門標石
国道に出て少し三坂峠方面に戻ると、国道東手に徳右衛門標石が立つ。「是より浄るり寺へ二里」「東明神村中」と刻まれる。「遊山会」の資料には四国新道開通後に旧道から移されたとあった。
武田徳右衛門
徳右衛門こと武田徳右衛門は越智郡朝倉村(現在の今治市)、今治平野の内陸部の庄屋の家系に生まれる。天明元年(1781)から寛政四年(1792)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失い、ひとり残った娘のためにも弘法大師の慈悲にすがるべし、との僧の勧めもあり、四国遍路の旅にでる。
その遍路旅は年に3回、10年間続いた。で、遍路旅をする中で、「道しるべ」の必要性を感じ、次の札所までの里数を刻んだ丁石建立を思い立ち、寛政6年(1794)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807)に成就した。その数は102基に及ぶとのことである(「えひめの記憶」を参考に概要をまとめる)。 因みに、幾多の遍路道標を建てた人物としては、この武田徳右衛門のほか、江戸時代の大坂寺嶋(現大阪市西区)の真念、明治・大正時代の周防国椋野(むくの)村(現山口県久賀町)の中務茂兵衛が知られる。四国では真念道標は 三十三基、茂兵衛道標は二百三十基余りが確認されている。

土佐街道標識と廻国供養塔
国道を逸れ簡易舗装の道を下る
直ぐ道の右手に土佐街道標識
徳右衛門標石から「遊山会」のログに従い国道を進み、トラックログが再び国道から逸れる皿ケ嶺登山口休憩所まで歩く。と、メモの段階で「遊山会」の資料を読むと、徳衛門標石から先も「さらに藪漕ぎを続けて小川の左岸に下ると、文政八年の供養唐の前に出る」とある。この供養塔の場所は皿ケ嶺登山口休憩所の南を下る澤の手前にプロットされている。トラックログは国道を辿るように見えるが、土佐街道は国道に出ることなくそのまま皿ケ峯登山口休憩所の西斜面下まで進むのかも知れない。
土佐街道標識の裏手に回国供養塔
ともあれ、当日は皿ケ峯登山口休憩所から国道を逸れ斜面に下る場所を探す。と、簡易舗装のされた道が国道から斜面を下る。そこを下りていくとすぐ「土佐街道」の円柱標識が立っていた。
土佐街道の標石の直ぐ裏手、杉の木に隠れるように供養塔が立つ。「遊山会」の資料には「天下泰平 九州筑後久留米 奉納神社仏閣回国供養塔 日月清明 光厳大徳 文政八乙酉七月 施主同行妻さよ 同娘とも」とある。

崖下の土佐街道を戻るも鉄柵でブロックされる
崖道を進む
ほどなく前面が鉄柵で完全ブロック

「さらに藪漕ぎを続けて小川の左岸に下ると、文政八年の供養唐の前に出る」と「遊山会」の資料にあったため、藪道を繋いでみようと土佐街道標識から国道下の崖道を沢に沿って折り返してみた。杉林の中をしばらく戻ると鉄柵が国道から沢筋まで設置されそれ以上進めない。獣除なのだろうか。どこか入り込める箇所はないかと探したが、完全にブロックされておりそれ以上進むことは止めにした。国道に出ることなく藪や崖道を進んできてもここで行き止まりとなる。
回国供養塔
大乗妙典回国(廻国)供養塔。六十六部供養塔と、略して六部供養塔とも言われるもの。日本各地の66の代表的寺院(国分寺など)に写経した大乗妙典(法華経)を各一部奉納すべく全国各地を巡礼してまわる。通常、祈願成就の折建立するものではあるが、この供養塔は「九州筑後久留米」とあり在地ではないため祈願成就ではないだろう。供養塔は祈願成就だけでなく、回国途次なんらかの縁ができた地、または途次倒れた地に建立することもあるとのこと。
文政二乙酉(きのととり)
回国供養塔に刻まれた「文政八乙酉」の銘。文政は元号、乙酉(きのととり)は干支(えと)。乙酉(きのととり)は干支と呼ばれる60を周期とする数詞の22番目。古代中国にはじまる暦法上の用語であり、暦を始めとして、時間、方位、ことがらの順序などに用いられる。
干支は十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類)と十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類)の組み合わせよりなり、甲子よりはじまり、乙丑 ,丙寅,丁卯,戊辰,己巳,庚午,辛未,壬申,癸酉,甲亥、、と十干と十二支がひとつずつずれる組み合わせで進み、、60番の癸亥で一巡する。ぱっと見には10と12であれば120のようにも思えるが、61番は最初の組み合わせに戻るため60通り。そういえば10と12の最少公倍数は60だ。
で、前々から干支が元号(この場合は文政)とペアで並ぶのは?と思っていたのだが、よくよく考えればお上の都合でころころ変わる元号では経年がわからない。 例えば、文政の三つ前の元号は寛政だが、例えば、寛政五年と文政八年までは何年あるかこれだけではわからない。
が、干支と合わせると、寛政五年(1793)は癸丑(みずのとうし)で干支の50番目。文政八年(1825)は乙酉(きのととり)は干支で22番目。60-50 +22=32。1825-1793=32。これなら商人も10年でいくらといった利子をつけた商いも安心してできるかも。なんとなく納得。
因みに、干支は通常十二支とするが、本来は十干と十二支の組み合わせであり上述の60の組み合わせを言う、また還暦を61とするのは干支(暦)が一巡し元に還ることに拠る、と。

堰堤を渡る
堰堤を渡り久万川左岸に
堰堤先の水路を進むと砕石場への道に出る
「遊山会」のトラックログは沢を渡る。特段橋はない。沢に設けられた堰堤を渡り左岸に出る。その先堰堤手前から引かれた水路に沿って進みむと道にでる。先を進むと大きな採石場前の三差路に出る。
「遊山会」のトラックログに従い、三差路にある橋を左折し一旦国道方向へ向かう。

国道に出る
土佐街道は国道手前で採石置き場右手を進む
直ぐ藪となり、先は危険そう。国道に出る
土佐街道は国道手前で右折。採石場の西側を進むと砕石場から離れ草藪に入る。
草藪を少し進むが、久万川と国道が接近する辺りに近づくと、その先はちょっと危険そう。国道と久万川の間は急斜面となっており、また、「遊山会」のトラックログもこの辺り点線表示されており、道筋も比定されていないようでもあるため、国道を歩き迂回することにした。
辺りを見廻し、成り行きで藪から国道に出る。

土佐街道標識
鉄柵の切れ目から下る
土佐街道標識。その先に三坂道路が走る
レストパーク明神まで国道を歩く。レストパーク明神から川筋を見ると結構開けている。前面には三坂道路が見え、川はその下を潜る。川筋まで結構比高差はあるが、安全に下りることができそう。
下り口を探すと鉄柵の切れたところから下に下りるステップがあった。ステップをを下りると久万川の谷筋に幾段もの段差があり、そこに桜の木が植えられている。レストパーク明神にあった桧垣伸翁の顕彰碑にあった「桧垣佐倉公園」がこれなのだろうか。
橋を渡り、三坂道路の高架を潜り里道に出る
この段差をジグザグと谷筋へと下ると土佐街道の標識が立っていた、その先で久万川支流に架かる橋を渡り舗装道へ。そこから三坂道路の高架を潜り畑の間の農道をGPSにプロットしたトラックログに従い先に進む。




桧垣伸翁の顕彰碑
「久万地域の発展を願って明治14年第2代の上浮穴郡長となった桧垣伸さんは、上浮穴郡の発展には道路を整備することが重要だと考え、各方面に熱心にはたらきかけ、郡民の先頭に立って多くの困難を乗り越え、7年間の歳月をかけて、国道33号の開通を成し遂げました。
そのほか、久万凶荒予備組合結成の基礎をつくったり、また、植林や三椏の栽培を進めるなど、上浮穴郡の発展に大きな力を注がれました。
垣伸さんの業績をたたえる、道路開通の記念碑は、現在も三坂峠に建てられています。
伸さんのお孫さんで東京にお住まいだった、桧垣端さんは、おじいさんの素晴らしい業績に強く心を打たれ、久万地域の人々が、地域を大切にする心を一層強め、久万の地域がますます栄えることを願い、平成13年、久万町に3,000万円というたくさんのお金を寄付されました。
桧垣伸さんの尊い業績と、桧垣端さんのご意志に深く感謝し、そのご意志を受け継ごうとの強い決意で、桧垣端さんの寄付金をもとに、ここに「桧垣桜公園」をつくり記念碑を建てて記念します。平成24年3月吉日 桧垣伸翁を顕彰する会」。 三坂峠に建てられた記念碑とは上述の顕彰碑もの。

六里の里程標石と常夜灯
舗装された里道を進むと
右手土径に常夜灯が見えた
舗装された農道を進むと右手、舗装道から外れたところに常夜灯が見えた。「遊山会」の資料にある常夜灯であろうと、舗装された農道を右に逸れ常夜灯へと向かう。その対面には「遊山会」の資料にある里程標石も立っていた。里程標石には「松山札の辻から六里」と刻まれる。
里程石
常夜灯
常夜灯の対面に六里の里程標石
松山城下、現在の市電本町三町目停留所近くのお濠そばに松山藩の高札場があり、その札の立つ場所より土佐街道を予土国境の黒滝峠まで一里ごとに里程石が立つ。


越ノ峠から黒滝峠までの里程石
越ノ峠からすぐ八里里程標石、有枝川の谷筋へと向かう色ノ峠手前に九里里程標石、七鳥かしが峠を越え面河川の谷筋に出ると十里の里程標石、面河川を渡り高山通りの尾根筋手前に十一里の里程標石、黒滝峠へ向かう尾根道の猿楽岩傍に十二里、黒滝峠には十二里十六丁の里程標石は、昨年の土佐街道歩きですでに確認済。 この先越ノ峠までに七里の里程標石があると言う。また遍路歩きの途次、八坂寺の北の遍路道に三里、一遍上人修行の場として知られる窪寺に四里の里程標石に出合っている。

河内神社の社碑と注連縄石
六地蔵
高山寺
六里の里程標石を離れ先に進むとすぐ舗装された農道・生活道に出る。トラックログに従い道なりに進むと六地蔵。更に進むと高山寺。その直ぐ先に河内神社がある。「遊山会」の資料には河内神社には三輪田米山の揮毫になる社碑と「大順成徳」の文字を刻んだ注連縄石が見えるとある。道脇のある社にお参り。
三輪田 米山(みわだ べいざん)
    河内神社の注連縄石。
社碑
文政4年1月10日(1821年2月12日)- 明治41年(1908年)11月3日)は江戸末期から明治にかけての書家。僧明月、僧懶翁とともに伊予三筆と並び称される。 伊予国久米郡(現在の愛媛県松山市)の日尾八幡神社神官三輪田清敏の長男に生まれる。嘉永元年(1848年)、父死去、神官を嗣ぐ。
国学、漢学、和歌を国学者大国隆正に学ぶ。また書を日下陶渓(字・伯巌)を手本に学び、僧明月、細井広沢、王羲之の書法を研究。
明治4年(1871年)、旧松山県より日尾八幡神社祠官に任命。
明治13年(1880年)、隠居。愛媛県中予地方を中心に約3万の揮毫を残す。酒が入らぬと良い書は書けぬと二、三升の酒を浴びるように飲み、倒れる寸前まで飲んでおもむろに筆を取るのが常であったという。書風は豪放磊落にして気宇壮大、雄渾にして天衣無縫、何物にも捉われない破格の書体は、近代書の先駆としていまなお独自の輝きを放つ。また明治天皇の侍候を務め書の訓導にあたった」とWikipediaにあった。

遍路標石と遍路墓
河内神社の先、土佐街道のトラックログは国道へと向かう。国道に出る直ぐ手前に遍路標識。その横の小祠に地蔵立像と石仏。「遊山会」の資料には遍路墓とある。 遍路標石は風雨に摩耗し文字は読めない。
地蔵
地の蔵。生きとし生けるものを涵養する大地。釈迦(仏陀)滅後、はるかな年月をへて次の仏陀(弥勒菩薩)が現れるまで、仏陀にかわり六道輪廻を巡る衆生を救済するのが地蔵菩薩と言う。六地蔵はこの六道(仏教の輪廻(りんね)思想において、衆生がその業に従って死後に赴くべき六つの世界。 地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道をいい、六趣ともいう)の衆生を救済する菩薩さま。

常夜灯
遍路標石から左に折れ国道に出る。その角には大きな常夜灯。天、金、石の文字が刻まれる。天は天照皇大神宮を指し伊勢神宮の伊勢信仰、金は金毘羅神宮・金毘羅信仰、石は石筒神社・石鎚信仰を指す。慶応三年三月吉日 組中の銘も刻まれる 慶応三年(1867)の建立。組中はこのあたりは中組と称される地区。中は講中といった風に使われるのを見かける。(中)組中とのことだろうか。
この頃には四国の石鎚巡礼、金毘羅巡礼だけでなくこの地よりお伊勢参りに出かける人も多かったのだろうか。逃散を畏れ、村を離れることが許されなかった庶民も、江戸の頃になるとより当局の許しを得れば神社・仏閣への参拝の旅は許されるようになった、とか。
江戸期には宗教礫・経済的相互扶助組織の講が組織され、進行と娯楽を兼ねた神社仏閣参拝が盛んに行われたと言う。
先ほどより雪がパラツキ始める。三坂峠で車の立ち往生もかなわんと、今日はここで打ち止め。車デポ地へと戻る。



月曜日, 1月 03, 2022

浅草散歩 浅草七福神巡り;そのⅢ

吉原神社・鷲神社
石浜神社を離れ、少々遅いお昼をとる、一息いれ、墨田川を見てみようと堤防に進む。少し雨模様。立派な遊歩道となっている。対岸は向島。往古、このあたりが、橋場の渡し・白髭の渡し。古代、鳥越から砂州に沿って石浜のあたりまで東海道が通り、この渡しを超え市川の下総国府につながる。武蔵野台地と下総台地のもっとも接近したところであり、交通の要衝であったのもムベなるかな。交通の要衝というだけではない。浅草観音の門前には集落もできる。人も集まる。浅草寺の北にある、今戸・橋場・石浜の村落も水陸交通の要衝としてだけでなく、多くの寺院も集まる。今回の散歩ではスキップしたが、橋場1丁目の保元寺には踊念仏・時宗の「石浜ノ道場」があった。日蓮宗も石浜道場もあった。文学作品にもこのあたりの地が登場する。『伊勢物語』然り、『更級日記』然り、また墨田散歩のときにメモした梅若伝説の梅若の母・妙亀尼がまつられている「妙亀塚」もこの地にある。言わんとするところは、平安のころには、このあたりは都の人たちにも知られた場所となっていた、ということ。
ともあれ、このあたり一帯は中世、交通・商業・宗教そして軍事上でも重要な地であった。坂東八カ国の大福長者・江戸太郎重長の治める地。当時この浅草湊は海運の一大拠点。江戸時代に江戸湊が開かれるまでは、海から、また内陸の川筋からの船が多数この地に集まっていた。その富を一手に握っていたのが江戸太郎重長。その力あなどりがたく、頼朝がこの地に上陸するまで、市川の地で待機を余儀なくされた程。石浜神社のあたりに江戸氏の出城・石浜城があったとも。最終的には一族の葛西氏、豊島氏などの説得により江戸氏も頼朝に与力した。『義経記』に;石浜と申すところは、江戸の太郎が知行なり。折柄節西国舟の着きたるを数千艘取寄せ、三日が内に浮き船を組んで江戸の太郎は合力す」、とある。で、墨田の隅田宿・寺嶋あたりから隅田川を渡り、この石浜あたりの砂州・微高地に取り付き、その先の低湿地帯は船を並べた「船橋」を渡り、三ノ輪(水の輪)から王子で武蔵の台地に上陸したわけだ。

本日のルート;大黒天(浅草寺)>恵比寿(浅草神社)>毘沙門(待乳山聖天)>福禄寿(今戸神社)>布袋尊(橋場不動院)>寿老人(石浜神社)>弁財天(吉原神社)>寿老人(鷲神社)



石浜神社を離れ三ノ輪に向かう。雨が降ってきたこともあり、三ノ輪にはバスで移動。三ノ輪にある吉原遊女の投げ込み寺・浄閑寺におまいりしよう、となった次第。明治通りを西に。この道筋は昔の「思川」の川筋。吉野通りと明治通りの交差点に「泪橋」の地名が残るほか、川筋はすべて埋められており、川の面影は何もなし。思川は「音無川」の支流。王子あたりで石神井川というか石神井用水から分流され、京浜東北線に沿って日暮里駅前に。そこから先は台東区と荒川区の境を三ノ輪まで続き、三ノ輪でこの思川と山谷掘に分かれる。

バス停の少し先の道を一筋程度南に入ったところに、平賀源内の墓がある、という。昔はこの地に曹洞宗総泉寺があり、そこにあったわけだが、この総泉寺は板橋に移り、源内のお墓だけが残っている。散歩をはじめて源内先生のゆかりの地にもよく出会う。大田区・六郷用水散歩のとき、源内先生が考案した破魔矢がはじめて売られたという新田神社、はじめて住まいをもった神田加治町などなど。江戸のダヴィンチとも、奇人変人の代名詞とも言われる。が、二人を殺傷し獄死した、という話もあるし、その場合、このお墓って、とは思いながらも、とりあえず「土用の丑の日」に鰻を食べるって習慣をはじめた人物、というあたりで矛を収めておく。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

昭和通・国際通りが合流し日光街道となり北に向かう三ノ輪に。「三ノ輪」は「水の輪」から転化したもの。往時この地は、北の低湿地・泥湿地、東・南に広がる千束池に突き出た岬といった地形であった。浄閑寺に。明治通りと日光街道の交差点を一筋北に。地下鉄入口の丁度裏手あたりにある。浄土宗のこのお寺さん、安政2年(1855年)の大地震でなくなった吉原の遊女が投げ込み同然に葬られたため「投込寺」と。川柳に「生まれては苦界 死しては浄閑寺」と呼ばれたように、吉原の遊女やその子供がまつられる。

浄閑寺を離れ、「日本堤通り」を吉原大門に向かう。日本堤通り、って、昔の山谷堀に沿ってつくられた土手道跡。昔の「日本堤」跡、というわけだ。日本堤は元和6年(1620年)、二代将軍・家光の命により、下谷・浅草の地を隅田川の洪水から護るため築かれた。幅8m、高さ4m。今戸から三ノ輪まで続く。土は待乳山を切り崩した。日本堤の名前は、「日本全国」の諸大名が分担して工事にあたったから、とか、当時奥州街道も吉野橋から千住小塚原にかけて土手になっており、これって多分「砂尾堤」だったと思うが、ともあれ二つ目の堤=二本堤>日本堤、であったからとか、諸説あり。歌川広重の江戸名所百景『吉原日本堤』には茶屋が並び、吉原への遊客で賑わう堤が描かれている。昭和の初期に日本堤が取り崩されて道となった。
日本堤通り吉原大門交差点に。旧吉原名所のひとつ「見返り柳」とその碑が、ガソリンスタンド脇に。吉原帰りの客が、後ろ髪をひかれながら、このあたりで遊郭を振り返ったところから、この名前が。「後朝(きぬぎぬ)の別れに見返る柳かな」「もてたやつばかり見返る柳なり」「見かぎりの柳とわびる朝帰り」「見返れば意見か柳顔をうち」といった川柳も。昔は山谷掘脇の土手にあったのだが、道路や区画整備のためにここに移された。

弁財天;吉原神社
吉原大門交差点を左折。吉原地区に向かう。いわゆる風俗街ってどのあたりにあるのか、千束4丁目あたりを眺める。このあたりは昔の吉原のメーンストリート・仲之町あたり。はてさて現在の吉原、新宿の歌舞伎町っぽい雰囲気を想像していたのだが、少々さびれた感じ。客引きの黒服さんが手持ち無沙汰な感じ。規制があるためなのか、声をかけるような、そうでないような、微妙なスタンス。
千束3丁目に吉原神社。明治5年、吉原遊郭の四つの隅にあった神社など、近辺の稲荷社を合祀してできた。中でも、九朗助稲荷の創建は古く、和銅4年(711年)、白狐黒狐が天下るのを見た千葉九朗助さんの手で元吉原の地に勧請されたのがはじまり、と。元吉原って、日本橋葦町あたり。明暦3年、廓がこの地に移る。新吉原と呼ばれた所以。それにともない、神社も移ってきた。弁天さまをお祀りしている。

少し先に進むと吉原弁財天。境内の「新吉原花園池(弁天池)跡」によれば、吉原遊郭はこのあたり一帯の湿地帯、いくつもの池が点在湿地帯を埋め立てて造成したわけだが、造成に際して池の一部が残った。で、誰からともなく、いつからともなくその池、花園池というか弁天池のあたりに弁天様をおまつりする。それが吉原弁財天のはじまり、と。
境内には「花吉原名残碑」や関東大震災の時に溺死した遊女のために作られた吉原観音がある。「花吉原名残碑(台東区千束三丁目二十二番 吉原神社)」:吉原遊郭は、江戸における唯一の幕府公許の遊里で、元和三年(1617) 葺屋町東隣(現中央区日本橋人形町付近) に開設した。吉原の名称は、はじめ 葭原 と称したのを縁起の良い文字にあらためたことによるという。
明暦三年(1657) の明暦の大火を契機に、幕府による吉原遊郭の郊外移転命令が実行され、同年八月遊郭は浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを 「新吉原」 と呼び、移転前の遊郭を 「元吉原」という。新吉原は江戸で有数の遊興地のとして繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが昭和三十三年売春防止法の成立によって廃止された。(中略)昭和四十一年の住居表示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などの町名が残っていた」。

弁才天
大黒・恵比寿さまに続く三番目のメンバー。古代インドのサラスパティという名の豊かな川の女神。水の流れる音にちなんで音楽を司る神、弁舌さわやかな女神として知られ、妙音天とも大弁才功徳天、とも。
琵琶を弾く弁天さまの姿は、市杵島姫命(いちきしまのひめのみこと)の姿と習合した結果とも言われるが、それ以前は同系の女神・吉祥天と結びついていた。が、この吉祥天は美女ながら、少々怖い女神でもあり、吉祥天は弁才天に合体した、と(『江戸の小さな神々;宮田登(青土社)』)もともとは弁説の才と音楽を司る神。が、日本ではどうせなら金銀財宝をと、「才」が「財」にとって変わる。弁才天も弁財天と書かれるようになる。財産の神としての性格が強まった、ということだ。

寿老人;鷲神社

少し西に進み鷲神社(おおとり神社)に。下町を代表する神社。酉の市、お酉さまで知られる。祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)と日本武尊(やまとたけるのみこと)。天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸から現れるとき、鷲がどこからともなく飛び来る。八百万の神はその光景を瑞祥(いいしらせ)として、鷲の一字を入れて天日鷲命、と。
開運・開拓の神として当地に鎮座。これが天日鷲命の縁起。東征の帰途、戦勝を記念してこの神社の松に熊手をかけて御礼。その後、日本武尊をしのんで、命日におまつり。その日が11月の酉の日。ということが日本武尊、そして酉の市の由来。江戸時代には江戸っ子の篤い信仰を受けていた、と。

江戸期は鷲大明神。鷲神社となったのは明治になってから。が、少々疑問が。お酉さまって、新宿花園神社にもあるし、渋谷でも毎年お酉さまに集まれ、って義理の母から召集がかかる。ということは、お酉様の本家本元って何処だ?調べてみた;
その起源は、武蔵野国南足立郡花又村(今は足立区花畑町)にある鷲神社のよう。祭神は日本武尊(ヤマトタケル)。東征の帰路に花又地に立ち寄り、戦勝を祝した。これが縁となり尊が伊勢の能褒野(ノボノ)で亡くなった後、神社を作りお祀りしたと伝えられる。中世になると新羅三郎義光が戦勝を祈願したことから武神として尊崇されるようになる。江戸時代になると、日本武尊の命日といわれる11月の酉の日に、武家は綾瀬川を船で、町人は徒歩か馬を使ってこの地に詣でる。が、如何せん、少々遠すぎる。ということで、千住の赤門寺に「中トリ」、浅草竜泉寺(江戸初期の古刹。現在は不明)で「初トリ」が行われることに。結果、吉原を背景とする浅草の大鳥さま、大鷲神社、そしてと隣接する鷲在山長国寺が繁昌するようになった、と。なんとなく納得。もっとも、足立の鷲神社に人が集まった理由は、当時ご禁制であった、賭場が酉の市のときだけ許されていたから、とも言われる。賭博が禁止になると、だれも足立まで行かなくなり、これは大変と浅草に出店をひらき、新人なのか吉原なのか、その動機は知らねども、浅草の大鷲神社が半畳した、と。足立の鷲神社に行ってみなければ。

矢先神社;
福禄寿が残る。が、日も暮れてきた。一応七福神を巡った、ということで、本日の予定はこれにて終了。鷲神社から成行きで道を進み、浅草ロック、というか六区を通り浅草寺方面に。浅草花屋敷脇を抜け浅草寺の西に繁華街歓楽街通称「六区」に。正確には「公園六区」というべきか。明治17年(1884年)浅草寺が「浅草公園」と指定されたとき、7つに分けられた区画のひとつ。1区...浅草寺本堂周囲。浅草神社、二天門、仁王門、五重塔、淡島堂境内2区...仲見世3区...伝法院の敷地4区...公園中の林泉地。大池、ひょうたん池のあった付近。5区...奥山と呼ばれたところで公園の北部。花屋敷から本堂にかけてのあたり。6区...見世物の中心地。旧ひょうたん池跡をのぞく現在の六区ブロードウェイ。7区...公園の東南部。浅草馬道町明治17年、田圃を掘り起こし人造の池をつくる。それが「ひょうたん池」。掘り起こした土で整地したところが6区の繁華街。1951年には今度は、「ひょうたん池」を埋め立てる。浅草寺観音本堂再建の資金調達のため。埋め立て跡地は総合娯楽センター「新世界」となった、という。今はない。

ところで、七福神といえば宝船、ってことになる。いつの頃からか船に乗るようになったのかは定かではない。が、18世紀の初めころには乗船していた、とか。この宝船&七福神のペアは上方より江戸で盛ん。もっとも、将軍家とかお公家さんとか、武家の宝船には七福神は乗船していないようであり、七福神って庶民の間に広まった信仰であったのであろう。

それと浅草七福神、よくよく数えると九社ある。これは中国の列子の宇宙論、というか故事からきている、とか。曰く;「一変じて七となり、七変じて九となる」から、とか。だから、七も九も同じ、ってこと?少々こじつけっぽいのだが、なんのことやら、よくわからん;もう少し前後をメモする;
「子列子曰く、昔者聖人、陰陽によって以て天地を統(す)ぶ。夫れ有形の者は無形に生ず、即ち天地安(いづ)れより生ずるや。故に曰く、太易有り、太初有り、太始有り、太素有り。太易は、形の始めなり。未だ気を見ざるなり。太初は、気の始めなり。太始は、形の始めなり。太素は、質の始めなり。気形質具はって未だ相離れず、故に渾淪(こんろん)という。渾淪は、万物相渾淪して、未だ相離れざるを言うなり。視れども見えず、聴けども聞こえず、循(したが)えども得ず。故に易(い)と曰ふなり。易は形埒(けいれつ)無し。易変じて一と為り、一変じて七となり、七変じて九となる。九変は究するなり。乃ち復(また)変じて一と為る。一は、形変の始めなり。清軽なる者は、上って天と為り、濁重なる者は、下って池と為る。冲和の気なる者を、人と為す。故に天地精を含み、万物化成す」。列子の宇宙論では無から気が生じ、気は形を得て万物を生じる、と。「九変」はさまざまに変化すること。

浅草七福神巡りのメモもこれで終了。恋愛強化年間の皆様のガイドとして、ひたすら歩いたことがお役に立てたのであれば少々の幸せ。

日曜日, 1月 02, 2022

浅草散歩 浅草七福神巡り;そのⅡ

待乳山聖天・今戸神社・橋場不動・石浜神社
浅草花川戸を離れ、待乳山聖天、今戸神社、橋場不動、石浜神社と、これから先は、白髭橋のあたりまで隅田川に沿って歩く。今戸、橋場、石浜といった地名は、江東区や墨田区を含めた東京下 町低地の地形や歴史を調べるときに、幾度となく目にしたところ。地形としては、白髭橋のあたりから浅草、そして鳥越あたりまで隅田川にそって砂州というか自然堤防として形つくられた微高地となっていた。それ以外はというと、浅草の西というか北というか、入谷・竜泉寺・千束一帯は「千束池」、その南上野駅の東一帯、下谷・浅草・鳥越一帯は「姫が池」が広がり、これらの池は小川でつながっているわけだから台東区一帯は沼地といったところであろう。これらの低湿地帯が埋め立てられ、現在の姿に近い地形になるのは徳川の時代になってからである。



本日のルート;大黒天(浅草寺)>恵比寿(浅草神社)>毘沙門(待乳山聖天)>福禄寿(今戸神社)>布袋尊(橋場不動院)>寿老人(石浜神社)>弁財天(吉原神社)>寿老人(鷲神社)


毘沙門;待乳山聖天
隅田川に沿った江戸通りを北に進む。吾妻橋西詰めから松屋の脇を進み、東武伊勢崎線のガードをくぐる。墨田公園を右手に眺めながら言問通り・言問橋西詰めを越え、微高地ルートの最初の目的地、待乳地山聖天(まつちやま・しょうでん)に。小高い丘になっている。昔は鬱蒼とした森であった、とか。推古3年というから595年。この地が一夜のうちに盛り上がる。推古36年の浅草観音出現への瑞兆と伝えられている。同時に龍が舞い降り、この丘を守護した、と。待乳山本龍院の由縁か。で、この「待乳山」って名前、少々艶かしい。が、もともとは「真土山」。本当の土といった意味。沖積低地部には珍しい洪積層=本当の土、の台地であるからだろう。いつのころからか、真土が待乳に変わった訳だが、聖天さまというのは夫婦和合の神様である。それはそれでなんとなく納得。

毘沙門;
毘沙門。もともと暗黒界の悪霊の主。が、ヒンズー教ではクベーラと呼ばれ財宝福徳を司る神に。で、仏教の世界では、仏教の守護神に。サンスクリット語でベイシラバナと呼ばれる。夜叉、羅刹を率いて帝釈天に従う四天王のひとり、となる。説法をよく聞いたということから、別名、多聞天とも呼ばれた、とか、同系の神として多聞天と習合された、とか諸説あり。知恵の神様としても信仰された、よう。日本では戦いの神様としても名高く、武将達の信仰が厚かった。鞍馬寺の毘沙門天が庶民の信仰を集め、七福神のメンバーとなった、とか。

聖天さまを離れ、江戸通り(昔の奥州街道)を北に進む。道路の左手には山谷掘跡。道脇に今戸橋跡。隅田川との合流点・山谷堀水門跡地一帯は、現在は埋め立てられ公園になっている。山谷堀は王子から流れる音無川の下流部。というよりも、明暦2年(1656年)浅草裏の田圃の中に生まれた新吉原に向かう川筋というか掘として知られる。猪牙舟という小さな舟を仕立て、浅草橋あたりから隅田川を上り、山谷堀を吉原に進むのが「カッコ良い」吉原通いであったよう。

福禄寿;今戸神社

今戸1丁目の今戸神社に。今戸神社は1063年、奥羽鎮守府将軍・源頼義、義家親子が勅令により奥州の安倍貞任・宗任討伐のとき、鎌倉の鶴ケ丘と浅草今之津(今戸)に京の石清水八幡宮を勧請したのがはじまり。今戸八幡と呼ばれる。その後1081年、清原武衡・家衡討伐のため源義家がこの地を通るにあたり、戦勝を祈願。勝ち戦に報いるため社殿を修復した、とか。戦火にあうたび再建が繰り返された。江戸時代には三代将軍家光も再建に尽力している。境内に沖田総司終焉の地の碑。京の地から江戸に引き上げた総司は松本良順の治療を受ける。官軍の江戸入りに際して、この地に居を構えていた良順のもと、今戸八幡に収容され治療にあたった。が、その甲斐もなくこの地で没した、と。
境内には「今戸焼」発祥の地の碑。また、この地は「招き猫」発祥の地でもある。商売繁盛の「招き猫」の登場は江戸になってから。人形の招き猫はこの地の今戸焼での人形がはじまり。浅草に住まいする老婆、その貧しさゆえに、可愛がっていた猫を手放す。夢枕に猫が現れ、「吾が姿を人形にすれば福が来る」と。で、つくった人形を浅草寺参道で売り出すと大評判になった。目出度し目出度し、ということで先に進む。

福禄寿
道教の神様、とか。が、正体は不明。星の神様であったり、仙人であったり、と諸説あり。頭が長い独特の風貌が絵柄として面白く、絵の「モデル」として室町時代に人気があった、とか。福(幸福)・禄(富)・寿(長寿)と、名前がいかにも縁起がよさそうなので、庶民の信仰の対象となり、七福神におさまった、とも。とはいうものの、あまり日本に馴染みのない神であり、七神とするための「添え物」的なものである、と『江戸の小さな神々;宮田登(青土社)』にコメン トあり。納得。

布袋尊;橋場不動院

明治通り手前、橋場2丁目に砂尾山・橋場寺不動。道からちょっと入った奥まったところにある。うっかりすると見逃しそう。こじんまりしたお不動さん。が。天平宝字四年(760)というから長い歴史をもつ古刹。江戸時代に描かれた図を見ると、おなじく道から奥まったところに本堂、いかにも草堂といった雰囲気のお堂がある。

布袋さま
三神に次いで加わった毘沙門天の後、五番目にリスティングされたのが布袋さま。布袋尊とも呼ばれるように、お坊さん。神様ではない。9~10世紀頃の中国唐代の禅僧契此(かいし)。常に大きな布袋を担いで各地を放浪し、吉凶を占い、福を施した、と。弥勒菩薩の化身とも言われ、聖人として、神格化され崇められてきた。日本には禅画の中で竹林の七賢人という図柄で伝わった、と(『江戸の小さな神々;宮田登(青土社)』)。

寿老人;石浜神社

明治通りを越え、白髭橋西詰めのちょっと先に石浜神社。後ろには大きなガスタンク。周りは広々とした公園に整備されている。お宮も予想と異なり、都市計画で整備された中にたたずむお宮さんといった雰囲気。歴史は古い。聖武天皇の神亀元年(724)勅願によって鎮座。文治5年(1189)、源頼朝が奥州・藤原泰衡征討に際して戦勝を祈願し「神風や 伊勢の内外の大神を 武蔵野のここに 宮古川かな」と詠む。で、戦に勝利しそのお礼に社殿を寄進。境内にはいくつもの神社が集まっている。
「麁香神社(あらかじんじゃ)」は家つくり、ものつくりの神様。職人さんの信仰を集める。「日本大工祖神の碑」があるのもうなずける。「江戸神社」はこの地を治める江戸太郎重長が勧請した「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」がはじまり。鈴木理生さんの『江戸の町は骨だらけ;筑摩文庫』に牛王天についての興味深い記事があった。どこかで牛王天のことをきちんとメモしようとは思うが、今日のところは、橋場の鎮守さまであったが、後に江戸神社となった、ということで止めておく。「北野神社」は言わずもがな。そのほか、妙義八幡神社とか寿老神とか。富士塚といった富士遥拝所もある。また「名にし負わば」の「都鳥歌碑」もある。

この神社には「真先神社」もある。天文年間に石浜城主となった千葉之介守胤が「真っ先駆けて」の武功を祈願した真先稲荷がはじまり。もとは隅田川沿岸にあり、門前は吉原豆腐でつくった田楽を売る茶屋でにぎわった、とか。吉原への遊びの客がこの地を訪れ詠んだ川柳;「田楽で帰るがほんの信者なり」。大正時代に石浜神社と一緒になりこの地に。この地、とはいうものの、石浜神社も真先神社も別の場所にあった。石浜神社の西隣にある大きなガスタンク・東京ガス千住整圧所。石浜神社はこの整圧所の北の方にあったらしい。真先神社は東の方墨田川寄りにあった、とか。で、工場建設に伴い現在の地に移転した、ということだ。お宮を離れる。あれ、神社の裏にお墓がある。「お申し込みは石浜神社に」、といった文句。神社にお墓ってなんとなく違和感。が、どうも都内唯一の神社霊園であるとか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

寿老人

福禄寿と同様、正体不詳。道教の祖・老子が神格化されたもの、との説も。福禄寿、寿老人を生み出した中国でもしばしば二人の仙人は混同されている。ともあれ、名前のとおり、長寿の神様として信仰された、よう。福禄寿と同様、七神とするための「添え物」的なものである、と『江戸の小さな神々;宮田登(青土社)』に書いてあった。

本日はここまで