木曜日, 7月 28, 2005

日暮里台地・本郷台地;


日暮里台地・本郷台地;京浜東北線だったか、山手線だったか、ともかく、田端に近づくあたりから上野にかけて、線路沿いに続く丘というか崖が気になっていた。あのむこうはどうなっているのだろう。

今年の春のある日曜日、そこに散歩に出かける事にした。とりあえずJR田端駅で降り、崖の上を歩いてみようと思った。そのころは「カシミール3D」を使った地形図もつくっていなかったし、というか、ここの散歩がきっかけとなって立体地形図探し・つくりを始めたわけで、地形図のナビゲーションもなく、とりあえず歩いてみることにした。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


JR田端駅で降り、上野に向かって進行方向最後部の改札からで出る。で、尾根道というか、単に丘の上、日暮里台地上の住宅街であるのだが、崖に沿った道沿いに歩いていく。低地への見晴らしはよい。そろそろ日暮里というあたりで下り坂となり、降りきったところには開成高校があった。

開成高校近くの歩道橋を渡り、再び丘というか崖を上ると道灌山。昔は秋田佐竹藩の抱え屋敷(幕府からもらった拝領屋敷ではなく、私的に購入した屋敷のこと)があったこの地は、今は西日暮里公園となっている。眺めのいいこの一体は昔から行楽地だったようだ。公園を少し進むと諏訪神社。日暮里・谷中の総鎮守であるこの神社は諏訪台地のもっとも高い位置にあるとのこと。

尾久、日暮里の街並みの眺めを楽しんだ後、京浜東北線とは逆の谷中方面、富士見坂に向かう。富士見坂上からは、低地をはさんで向かいの本郷台地が見える。富士見坂を降り、妙隆寺・修性院・青雲寺(花見寺)、南泉寺(遠山の金さんの遠山家に縁がある?とか。団十郎不動)とかあれこれお寺巡り。再び富士見坂道を登り、丘の上を日暮里駅まで。丘からの眺めなど、「荒川日暮の里」というホームページが参考になった。

日暮里駅前では、本行寺(月見寺) 浄光寺(雪見寺)など、いくつかのお寺にお参りし、その後、住宅街の軒先ぶらぶらと坂を下りていくと谷中銀座に偶然行きついた。「ゆうやけだんだん」と言う階段からはじまるこの商店街を下りて行き、谷中銀座を通り抜け、不忍通りに。あとは一路、根津神社に。

由緒ただしきこの神社にお参りした後は、脇の坂道を登り、本郷通りに。新坂とも権現坂とも呼ばれるこの坂は森鴎外の小説「青年」にS坂として登場する。

本郷通りを東大に沿って歩き、赤門の辺りから本郷通りを外れ、本郷菊坂方面に民家の軒先を下っていく。啄木の下宿跡「赤心館跡」とか樋口一葉、坪内逍遙、宮沢賢治、そして徳田秋声など、明治から昭和にかけてこのあたりに住んだ文人のゆかりの地が数多くある。名だたる(?)坂道の多いことよ。
菊坂界隈を巡ったあと、春日通から水道橋に。これで散歩はおしまい。

冒頭にも書いたが、この散歩のあと、しきりに足元が気になり、地形図をつくりはじめることになった。自分にとってはエポックメーキングな散歩だったわけ。
で、作成した地図とルートマップをつけておく。地図をご覧のとおり、荒川方面の低地、京浜東北線にそって上野台地につづく日暮里台地。向かいの本郷台地とその間の根津の低地がくっきりと色分けされている。大昔はこの台地の下の低地は海であり、入り江であったのだろう。

気になることがあった。上野の山は「忍が岡」と言う。それがなぜ「不忍通り」であり、「不忍(しのばず)池」と呼ぶのか?忍?不忍?
調べてみた。いくつかの説があるようだが、「萱、すすきが生い茂り、道のさかいも分けざるに、池ばかりはあらわれみえたれば、忍ぶこともあたわずの意とする説(『江戸名所記』)。つまりは、東京湾の入り江の原野の中に、はっきり見えるたので「不忍」と言った」とか。この説で一応納得。
ちなみに、「根津」。忍が岡、向ヶ岡と海との付け根にあり、船泊りであったことから港の意味を持つ「津」をあわせ地名になったとか。

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