日曜日, 4月 07, 2013

玉川上水散歩そのⅣ:玉川上水駅から千川用水との分岐・境橋まで

今回は玉川上水駅からはじめ、玉川上水と千川用水の分岐点あたりまで進む。このルートは幾度となく歩いている。散歩のルートが何処も想い浮かばない時、夏の暑い日の散歩で木陰が欲しいとき、雨の日の散歩で雨水が直接当たるのを避けたいとき、などなど。木立に蔽われた誠に気持ちのいいルートである。
ルートの途中には野火止用水や小川用水、田無用水、鈴木用水への分水口があった。野火止用水は、このルート散歩をきっかけに、平林寺を越え、志木まで辿った。また、陣屋橋など、新田開発の功労者である代官・川崎平左衛門のファンとしては、その橋の名前だけでも、結構、惹かれるところも多い。ともあれ、木立の中を上水に沿って下ってゆく。

本日のルート;玉川上水駅>小平監視所>野火止用水分岐点>上水小橋>西中島橋>新堀用水>小川橋>小川用水>東小川橋>くぬぎ橋>寺橋>いこい橋>栄光橋>水車橋・新小川橋>鷹の橋>西武国分寺線>東鷹の橋>九右衛門橋>玉川上水立抗>鎌倉橋>小松橋>小川水衛所跡名勝境界石>商大橋>一位橋>西武多摩湖線>八左右衛門橋>山家橋>喜平橋>小平小桜橋>田無用水>鈴木用水>茜屋橋>貫井橋>小金井橋>陣屋橋>新小金井橋>関野橋>梶野橋>新橋>曙橋>くぬぎ橋・もみじ橋>境橋

玉川上水駅

JR立川駅より多摩モノレールにのり、玉川上水駅下車。駅前に架かる橋は清願院橋。現在は駅前広場と橋が一体化し、南からのぼる芋窪街道は地下を潜り立体交差となっているが、その昔、芋窪街道が線路を渡る踏切の南に端があったようだ。いまひとつ、お洒落ではない「芋窪」は、元は「井の窪」、とか。狭山丘陵の南、芋窪の地には、奈良橋川とか空堀川が流れており、なんとなく納得。清願院橋の名前の由来は不明。近くに、それらしきお寺さまも見あたらない(駅近くに佼成霊園はある)。
玉川上水駅を少し東に進んだ上水の北に東大和南公園がある。その公園の一角に旧日立航空機立川変電所跡が残る。この地の軍需工場は三度の空襲を受けたが、この変電所跡には、すさまじい機銃掃射の痕跡が残る、という。写真でみるだけでも、将に、蜂の巣状態といった有様である。一度訪れてみたい。

小平監視所

西武拝島線に沿って先に進む。道は少し上りとなっており、清願院橋あたりでは3mほどであったと思うが、小平監視所に近づくにつれ上水面までは次第に深くなる。羽村の堰で取水され河岸段丘を進んできた玉川上水が、国分寺崖線を上りきり、武蔵野台地の稜線部・馬の背に取り付いた感を強く感じる。
水道局・小平監視所。現在は、ここが玉川上水の終端施設。羽村の取水堰から取り入れられた多摩川の水は、ここで塵芥を取り除き、沈殿槽を通り、導水管で東村山浄水場に送られる。つまりは、ここから下流には多摩川からの水は流れていない。小平監視所から下流の玉川上水、また野火止用水は昭島の水再生センターからパイプで送られてきた高度処理下水が流れている。「清流復活事業」といった環境整備のために作られた流れとなるわけだ。
事情はこういうこと;昭和48年(1973)、玉川上水とつながっていた新宿・淀橋上水場が閉鎖、また、昭和46年には千川用水が廃止、昭和49年には三田用水も停止されたため、玉川上水の水を下流に流す必要がなくなった。実際は維持用に小平監視所から境浄水所に日量2000トン送水されていたようだが、その程度の水量では流路途中で吸収され、実際は空堀状態となっていた。
が、その後、昭和59年(1984)、東京都のマイタウン構想が発表され、玉川・千川上水の清流復活事業計画がはじまる。復活区間は、小平監視所から久我山浅間橋までの18キロ。玉川上水の水は、既に、村山浄水場に送られ都民の上水となっているため、水源は昭島の都多摩川上流水再生センターの処理水に求め、日量23,200トン(玉川上水に1,320トン,千川1,000トン放流することになった)の水を流すことにした。昭和61年9月着工。長期の空堀状態のため、当初1週間程度の予定が、7月15日試験開始、通水は8月27日となった。
ところで、何故、「小平」監視所?地図をチェックすると、ここは小平市。西武拝島線と玉川上水に囲まれる舌状地域が小平市の西端となっている。小平の地名の由来は、昔のこのあたりの地名であった「小川村」の「小」と、平な地形の「平」を合わせて「小平」と。

野火止用水分岐点
小平監視所を少し先に進むと、木々に蔽われた緑道の入口に。ここが玉川上水と野火止用水の分岐点。左に進めば野火止用水。右が玉川上水の緑道である。いつだったか、野火止用水を下流まで辿ったことがあるが、この分岐点から西武拝島線東大和駅あたりまでは暗渠の緑道となっていた。小平監視所は玉川上水から野火止用水の分岐点とはなっているようだが、実際は小平監視所から暗渠区間は埋め立てられ、昭島の水再生センターからパイプで送られてきた高度処理水は、東大和駅前あたりから放流されているようである。

野火止用水
武蔵野のうちでも野火止台地は高燥な土地で水利には恵まれていなかった。川越藩主・老中松平伊豆守信綱は川越に領地を拝領して以来、領内の水田を灌漑する一方、原野のままであった台地開発に着手。承応2年(1653年)、野火止台地に農家55戸を入植させて開拓にあたらせた。しかし、関東ローム層の乾燥した台地は飲料水さえ得られなく、開拓農民は困窮の極みとなっていた。承応3年(1654年)、松平伊豆守信綱は玉川上水の完成に尽力。その功労としての加禄行賞を辞退し、かわりに、玉川上水の水を一升桝口の水量で、つまりは、玉川上水の3割の分水許可を得ることにした。これが野火止用水となる。
松平信綱は家臣・安松金右衛門に命じ、金3000両を与え、承応4年・明暦元年(1655年)2月10日に開削を開始。約40日後の3月20日頃には完成したと、いう。とはいうものの、野火止用水は玉川上水のように西から東に勾配を取って一直線に切り落としたものではなく、武蔵野を斜めに走ることになる。ために起伏が多く、深度も一定せず、浅いところは「水喰土」の名に残るように、流水が皆、吸い取られ、野火止に水が達するまで3年間も要した、とも言われている。
野火止用水は当初、小平市小川町で分水され、東大和・東村山・東久留米・清瀬、埼玉県の新座市を経て志木市の新河岸川までの25キロを開削。のちに「いろは48の樋」をかけて志木市宗岡の水田をも潤した、と。寛文3年(1663年)、岩槻の平林寺を野火止に移すと、ここにも平林寺掘と呼ばれる用水掘を通した。
野火止用水の幹線水路は本流を含めて4流。末端は樹枝状に分かれている。支流は通称、「菅沢・北野堀」、「平林寺堀」「陣屋堀」と呼ばれている。用水敷はおおむね四間(7.2m)、水路敷2間を中にしてその両側に1間の土あげ敷をもっていた。
水路は高いところを選んで堀りつながれ、屋敷内に引水したり、畑地への灌漑および沿線の乾燥化防止に大きな役割を果たした。実際、この用水が開通した明暦の頃はこの野火止用水沿いには55戸の農民が居住していたが、明治初期には1500戸がこの用水を飲料水にしていた、と。野火止用水は、野火止新田開発に貢献した伊豆守の功を称え、伊豆殿堀とも呼ばれる。
野火止用水は昭和37年、38年頃までは付近の人たちの生活水として利用されていたが、急激な都市化の影響により、水は次第に汚濁。昭和59年(1984)から東京都と埼玉県新座市で復元・清流復活事業に着手し本流と平林寺堀の一部を復元した。(日曜日, 11月19, 2006のブログを修正)

上水小橋

野火止用水の分岐点を右に入り、玉川上水に進む。ほどなく開渠となる。緑の木立に囲まれた上水の流れを見る開渠。ここは上水で唯一、水際まで下りることができる。下りきったこころに上水小橋。開削当時の素掘りの赤土の壁面、その規模感を感じることができる。掘りは深く、清願院橋あたりに川底にあった砂利はないのは、ローム層の素掘りの面影を今に残しているのだろう、か。
上水小橋のあたりの自然岩の間から水が放流されているが、この水は昭島の水再生センターから送られてきた高度処理水。近くに「玉川上水清流の復活碑」がある。

西中島橋
緑道を進む。上水の北は中島町。南は砂川八番から九番あたり。江戸の頃の、砂川村の東端であり、亨保年間、八代将軍吉宗の新田開発奨励策によって、更に東へと開発された往昔の砂川新田も、現在では畑地の間に宅地が増えてきている。

新堀用水雑木林の中を進むと、上水北側に水路が現れる。この水路は新堀用水と呼ばれる。明治3年(1870)、上水通船が行われることになったとき、上水北側にあった七つの分水口(小川、大沼だ、野中、鈴木、田無、関、千川)を整備し、上水に沿って開削したもの。どこかで写真で見たことがあるが、取水口は玉川上水から野火止用水が分岐する、すぐそばに造られた。その場所は、現在は小平監視所となっており、痕跡は既に、ない。
開削は一部、胎内掘り、とも、「たぬき掘り」とも呼ばれる地下トンネルが掘られている。開渠にするにはコストがかかるため、ではあろう。小川橋の近くに、轍柵で囲まれた大穴が四つある。新堀用水開削時の胎内掘りの工事跡、とか。なお、胎内掘りは、現在、一部を除いて埋められているということであるので、小平監視所あたりから、地下の導水管で開渠部辺りまで送水されているのだろう。
ちなみに、上水通船に関連して、上水北側の分水口を新堀用水として整理統合したように、上水南側も、砂川用水を延長し、11の分水口を付け替えた。

小川橋
胎内掘りより流れ出した水路を左に、上水を右に進むと小川橋。昭和29年3月架設。別名小川上ノ橋。立川街道、山口通り(青梅街道)が交差する。このあたりが砂川村、砂川新田の東の境。橋名の由来は、小川村に架かる、から。
小川橋、と言えば、江戸の頃、玉川上水より分水され、「原江戸道」とも呼ばれた青梅街道に沿った地を開発するために開削された小川用水の分水口のあったところである。砂川用水は五日市街道に沿って砂川新田が開発されたのに対し、小川用水は青梅街道に沿って小川新田が開発されていった。

小川用水
明暦2年(1656)、岸村(武蔵村山)の小川九郎兵衛が玉川上水の分水を得て小川新田を開く許可を得た。地域は大雑把に言って、野火止用水より東の、青梅街道沿いの地である、16世紀の中頃には五日市街道に沿った砂川新田の開発ははじまっていたのだが、武蔵野台地のほぼ中央部にあるこの地は、往昔、「逃げ水の里」と呼ばれるような、川もなく水の乏しい荒漠たる原野であり、開発は手つかずの状態であった。
当時、江戸の街つくりのために、漆喰の材料となる青梅の石灰への需要が高まっており、青梅街道では人馬の往来が盛んになってきていた。が、田無と箱根ヶ崎の間、20キロは水の乏しい全くの荒野であり、馬継ぎの宿を必要としていた。このような社会情勢もあり、小川九郎兵衛は田無と箱根ヶ崎の中間点、鎌倉街道と交差する青梅街道に馬継場を設け、青梅街道に沿った地を開発する、といった申請を行い、分水が許可された。
分水口は東小川橋近くにあった、と言う。が、明治の新堀用水開削時、新堀用水の分水口と統合された。流路は、開削当時は、東小川橋から、小平第十二小学校通りを北上し、青梅街道に上ったが、現在の流路は小川橋から立川通にそって、北東に進み、青梅街道に当たると、街道の南北を二流に分かれて流れ、JR新小平駅前あたりまで進み、少し東で一流にまとまり、北に向かい、途中、クランク状に西武新宿線・小平駅を越え、小平霊園方面へと向かう。

小川村・武蔵野新田
小川村:明暦の頃開かれた新田は、砂川新田のケースと同じく、後に小川村と呼ばれることになるが、その範囲は、東は西武多摩湖線、北は西武新宿線の荻山・八坂駅、西は八坂から南西に西武拝島線の東大和に向けて線を引いた線に囲まれた一帯である。現在の小川西町、小川東町、栄町、中島町、小川町、津田町といった辺りではあろう。

この用水をもとに、亨保年間(18世紀前半)、八代将軍吉宗の新田開発奨励時、小川新田(明暦の小川新田とは別)・大沼田新田・野中新田・鈴木新田・廻り田新田などが開発される。各新田はあまり馴染みがないので、大雑把な場所だけでもチェックしておく。

小川新田
享保9年(1724)。小川村の東。北は青梅街道、南は玉川上水。東端は大雑把に言って、都道248号線、といった範囲。現在の仲町、喜平町、学園東町、学園西町と上水本町の一部、上水新町

大沼田新田:享保9年(1724)。武蔵野新田の中央北部。小川新田の北、西は荻山、北は新青梅街道あたり、だろうか。東は小金井街道の手前で囲まれた一帯。現在の大沼町・美園町あたり。

野中新田:
享保9年(1724)。武蔵野新田の北東端。小金井街道の東西一帯に拡がる。西は青梅街道、北は大沼田新田、南は小川新田を境とする。東は小金井街道の東を細長く延びている。鈴木新田の飛び地の東、玉川上水の南に開かれた辺り、また、国分寺の鳳林のある、並木町あたりが飛び地となっている。野中新田は広く、かつ分散した新田であったため、亨保17年(1732)、北野中、通野中、南野中の三組に分割され、それぞれ、名主の名前をとり、「野中新田善左衛門組」。「野中新田与右衛門組」、「野中新田六左衛門」となった。
現在の花小金井が「野中新田善左衛門組」。天神町・上水南町(以上、小平市)が野中新田与右衛門組」、そして国分寺市の並木町あたりが「野中新田六左衛門組」、かと思う。

鈴木新田:
享保9年(1724)。武蔵野新田の南東端。この新田も小金井街道の東西に拡がる。西は小川新田、北はたかの街道(一部青梅街道まで)、南は玉川上水に接する。一部、玉川上水の南も、府中街道から西武多摩湖線の囲まれたあたり、は鈴木新田の飛び地となっている。現在の鈴木町・御幸町・上水本町

廻り田新田:
享保9年(1724)。野中新田より買い求めた地。現在の回田町。いつだったか、砂川分水を辿ったとき、立川と国分寺市の境、妙法寺、鳳林寺の少し西で五日市街道を挟んで南北に分かれ平行に進む水路があり、それは、もともとは、小川新田地先の玉川上水樋口から分かれた野中新田分水の流れであった、とのこと、さらに、その水路が国分寺市並木町辺りで合わさり、一流となり、鈴木新田分水に接続されている、ということではあった。その時は、通常の野中新田とはあまりに距離が離れており、いまひとつ、納得はできていなかったのだが、今回、そこが野中新田の飛び地・野中新田六右衛門新田、であり、鈴木新田の飛び地であることがわかり、なんとなく納得ができた。新堀用水と同様、明治3年の上水通船計画にともなう分水大改正により、玉川上水南の分水はすべて砂川分水に統合され、野中新田分水も、その先の鈴木分水も砂川用水として整備されていった。

東小川橋
緑道を進むと東小川橋。開削当時は、このあたりに小川用水の分水口があったようだ。上水の南は立川の砂川十番を越え、国分寺あたりではあろう。

くぬぎ橋
次の橋はくぬぎ橋。クヌギは、ナラ武蔵野の雑木林を代表する樹木、と言うことだが、タンポポと菜の花の違いも、つい最近までよくわからなかった情感乏しき団塊男には、いまひとつ、どれがどれだかはっきり、せず。また、くぬぎ橋のところに「コゲラ」の説明:コゲラは小さなキツツキです。都会にコゲラが増えたと言われています。玉川上水のように連続した緑地は、一度に遠くまで飛べないコゲラにとって大切な移動の通路となっています、とある。が、コゲラのくき声が、どれだか、わからない為体(ていたらく)の我が身である。

寺橋
先に進むと、上水の北に東京朝鮮学園。その北には武蔵野美大がある。橋の名前の由来は、小川九郎兵衛開基の小川寺の南方に架かる、から。昭和4年8月架設。てっきり、橋の南西にある、野中新田開発の発願者でもある、大堅和尚が建てた鳳林寺に由来する、と思い込んでいたのだが、完全に推論間違いであった。
ちなみに、野中新田、当初はこの大堅和尚の生家である、上保谷の「矢沢」家の名をとり、矢沢新田とする計画であったそうだが、資金不足で冥加金を治めることができず、江戸の商人野中屋善左衛門に援助を求め、新田も「野中新田」となった、とか。また、鳳林寺は元、大堅和尚開基の小平にある円成院よりの引き寺である。

いこい橋・栄光橋
上水北に流れる新堀用水の北側、北に白梅学園、東に創価高校に挟まれた三角地に「上水公園」やテニスコート。橋は、公園への往来の便のため設けられたのだろう、か。昭和50年に架設されたこの橋の名前は、市民の公募による。この橋の南、五日市街道に沿った妙法禅寺には、「川崎・伊奈両代官感謝塔」がある。栄光橋は、創価学園専用の橋。同学園のモットーでもあるのだろう。

水車橋・新小川橋

昭和50年、新小川橋に平行して架けられた人道橋。明治39年に、名主の小川家から譲り受け、精米店が昭和25年頃まで使っていた製粉精米用の水車があった、ようだ。店の名前をとり、小島水車と呼ばれたこの水車は、新堀用水から分水し、その北側の水車小屋へと水を引いた、とか。そのすぐ隣に新小川橋が架かる。











鷹の橋

西武国分寺線の手前に鷹の橋。すぐ北に鷹の台駅がある。橋は玉川上水と新堀用水を跨ぐ。西武国分寺線、と言うか、西武鉄道って、現在の「西武鉄道」になるまでの経緯は、なかなか複雑。所沢散歩のとき所沢駅への西武池袋線の不自然なアプローチが気になりチェックすると、以下のような西武鉄道誕生の歴史が現れてきた。

西武国分寺線
西武国分寺線の前進は川越鉄道と呼ばれ、明治22年(1889)に新宿と八王子間に開通した甲武鉄道の支線として国分寺から、当時の物流の拠点であった川越へと結ばれた。川越鉄道は大正9年(1920年)、武蔵水電に吸収され、その後西武軌道と合併。大正11年(1922年)には西武鉄道(旧)という社名になり、昭和2年(1927年)には村山線(東村山~高田馬場)を開通していた。
とはいうものの、これが現在の西武鉄道では、ない。1932年(昭和7年)に武蔵野鉄道が、1945(昭和20)年には西武鉄道(旧)が、1928(昭和3)年、国分寺~萩山を開通させた多摩湖鉄道の親会社である箱根土地(現コクド)に吸収合併され、西武農業鉄道となり、その1年後、名称も西武鉄道となった。これが現在の「西武鉄道」である。
別会社が吸収合併された矛盾が端的に表れているのが、所沢駅。先日の所沢散歩でメモしたように、西武池袋線の所沢駅へのアプローチは、如何にも不自然なカーブであるし、それよりなにより、同じホームで西武新宿線の新宿方面行と、西武池袋線池袋方面行が真逆の方向にホームを出て行く。「ノイズ」をチェックすると、「ノイズ」を起こした要因が、ちょっと見えてくる。

東鷹の橋
北の小平市中央公園は、元の、大日本蚕糸会蚕糸科学研究所の跡地。昭和52年に開園した。研究所は新宿百人町に移る。養蚕・蚕糸業は明治初期から、戦前まで輸出の花形であり、生糸・絹織物・絹製品といった養蚕・蚕糸関連製品だけで35,000トン、全輸出の半分を占めた、と言う。全盛期の昭和4年には国内農家600万戸のうち、およそ4割に相当する220万戸で養蚕が行われていたが、平成20年には養蚕農家はおよそ1000戸、繭生産で380トン(生糸2トン;平成18年)となっている(財団法人世界平和研究所より)。時代変われば、とは言うものの、変われば変わるものである。

九右衛門橋
府中街道と交差する地点に九右衛門橋が架かる。橋の名前は、このあたりの名主・九右衛門さん、より。この橋の下流50m辺りの南岸が、少々抉られたようになっているが、そこは「久保河岸」跡。玉川上水が明治になって2年間だけ許された舟運の荷の集荷場であった。この久保河岸跡が最も原型に近い姿を留めている、ということであるが、法面もだれており、河岸のイメージは伝わらない。
橋の北には津田塾大学。その前身である女子英学塾がこの地に移ったのは昭和6年のこと。女子英学塾は、明治33年(1900年)、津田梅子により、当時の、東京府東京市麹町区(千代田区)に開校した。

玉川上水立抗

上水北側に少々無粋な建物。扉に「玉川上水立抗 列車通過中扉の開閉注意」とある。一見、倉庫のようではあるが、この建物は直下を走るJR武蔵野線のトンネルの作業口。また、武蔵野線トンネル内から汲み上げた水を建物の裏側からパイプを通して新堀用水へ流している。

鎌倉橋
4先に進むと鎌倉橋。昭和52年3月に架設されたもの。この橋筋が鎌倉街道、と言うわけではなく、この辺りを鎌倉街道上ノ道が通っていたため、架設時にその名前を使ったもの。鎌倉街道の中でも、この辺りを通るのは鎌倉街道上ノ道ではあろう。この近辺のルートは、西国分寺、それから鎌倉武士の鑑である畠山重忠と遊女・夙妻太夫 (あさづまたゆう)の恋物で知られる恋ヶ窪をへて、この鎌倉橋辺りを経て久米川、所沢、入間川へと進み、苦林から大蔵へと向かう。久米川や所沢散歩で、折りにふれて登場した鎌倉街道、苦林の近くの毛呂山歴史民俗資料館あたりの鎌倉街道、笛吹峠から木曽義仲ゆかりの大蔵への鎌倉街道など、断片的にではあるが辿った鎌倉古道の風景が想い起こされる。高尾から秩父まで四つの峠を越えて辿った鎌倉街道山ノ道も懐かしい。とはいうものの、「鎌倉街道」といった街道をつくったわけではなく、昔からあった道筋を整備し、鎌倉へと結んだ道は、すべからず、鎌倉街道ではあった、よう。

小松橋
鎌倉橋からほどないところに架かる人道橋。かつて上水の北側には赤松の林がひろがっていたようで、松ヶ丘と呼ばれていた、と。橋の名前に由来は、この地名故のことだろう。

小川水衛所跡

小松橋から少し下流に小川水衛所跡が残る。江戸時代の水番所の代わりに、羽村~大木戸間に設けられた八カ所(熊川、砂川、小川、境、久我山、和田堀、代々木(余水吐際)、四谷大木戸)の水衛所のひとつ。水衛は水路の下流から上流に向かって、各水衛所間の受け持ち区域を毎月10回以上巡視。また上水路の各分水口樋口の鍵は、水衛が保管していた、とのことである。昭和38年、小平監視所の開設にともない、水衛所は廃止されたが、ゴミを除去する鉄柵は残っている。

名勝境界石
水衛所跡地に「名勝境界石」。国の名勝に指定された小金井桜堤の西端。東端は境橋あたりまでの6キロ。境橋付近の両岸にも「境界石」が残る、とのこと。小金井桜は、元文2年(1737)、武蔵野新田開発の推進役である代官川崎平右衛門が幕命により、大和吉野山や常陸桜川から山桜の苗木を1000本取り寄せ、この小金井橋を中心に東西6キロにわたって植樹をおこなった。五日市街道を往来する人たちの評判にもなり、18世紀末から、19世紀初頭にかけて次第に江戸の名所ともなり、葛飾北斎や歌川広重によって、小金井堤の桜が描かれてもいる。
元々は松並木であった、堤を桜としたのは、桜の上水への解毒作用を期待したとも、花見客の往来による堤の強化など、諸説あるも、不詳である。玉川上水の堤は、この名勝指定地域に限らず、桜の名所が多い。そして、その種類は、江戸末期から明治にかけ、江戸の染井村の植木職人によって育てられた「ソメイヨシノ;染井吉野」が多くなってきている。山桜とソメイヨシノは、全く異なる種の桜であり、都の方針としては、「桜の景観は将来的にも維持する。ソメイヨシノを中心とする現状の桜は保全し、活力が低下(寿命50年)したものは、将来的には玉川上水の桜の特徴でもある、山桜に変えていく」といった方針であるようだ。
山桜がどれほど、ありがたいものか良くわからない。文芸評論家の小林秀雄の講演の原稿に、山桜の有り難さの下りを述べた箇所がある。引用する:敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花(本居宣長の歌)
宣長は非常に山桜が好きな人だった。遺言に、自分の墓には山桜を植えてくれと書いたそうだ。山桜でも一流のやつを。
山桜を知らない人にはこの宣長の歌のあじわいがわからない、と小林秀雄は言う。
山桜は花と葉が一緒に出る。しかし今の人はソメイヨシノばかり見ているから桜は花が先に出ると思っている。ソメイヨシノは明治に出来た桜で、日本の桜の80%を占めている。
なぜソメイヨシノが流行ったかというと、植木屋が育てやすかったからだ。苗がすぐそろい栽培しやすいのだ。そしてその流行を後援したのが文部省。文部省と植木屋が結託して小学校にソメイヨシノを植えた。小学校の先生は俗悪な花を咲かせるソメイヨシノを桜だと教える。だから今の人はソメイヨシノが桜だと思っているので、宣長の歌がわからないのだ。
「朝日に匂う」の「匂う」という言葉のもともとの意味は色が染まるということ。照り輝くという意味にもなる。香りの意味にもなる。
「朝日に匂う」は、朝日がさしたとき、山桜がいかにも匂うということで、この歌がわかるには、「匂う」という言葉を知らなくてはならないし、山桜のあじわいがわからなくてはならないのだ」とのころ。それでも情感乏しき我が身には、有り難みは。実感できてはいない。

玉川上水と五日市街道が接近
小川水衛所跡のフェンス南側あたりで、玉川上水と五日市街道が接近し、平行に進む。五日市街道が上水に当たるあたりに「上鈴木不動尊」。鈴木新田の飛び地に佇む。赤いトタン屋根のお不動さまの境内には庚申塔(寛政13年)や馬頭観世音(安政4年)、石橋供養塔(寛政3年)などがある。不動前の道は旧五日市街道ではあるが、は250メートルほど西で直角に折れて五日市街道と合流。その折れ曲がる地点は『まがりとう』と呼ばれている。

商大橋

小川水衛所から50~60m程進むと商大橋。名前の由来は、上水の北側に一橋大学の前身である東京商科大学予科、から。箱根土地会社(西武、というか、国土開発というか、とりあえず西武グループの前身)による小平学園都市構想への誘致により、津田塾大学に次いで、この地に移る。昭和8年のことである。
昭和12年架設の旧橋は、平成2年に拡張の上、掛け替えられた。商大橋の近くには、一橋大学だけでなく、独立行政法人大学評価学位授与機構もある。

一位橋
商大橋下流200mにイチイの並木。橋名の由来は、この北海道や長野に自生の常緑針葉樹、から。とはいうものの、どれがイチイだが、わかるはずも、なし。もっとも、近年、ほとんど枯れてしまった、とも。先に進むと上水は、西武多摩湖線と交差する。手前に架かるのが小平桜橋。

西武多摩湖線
西国分寺駅から西武遊園地までのわずか9.2キロの路線であるが、この路線が西武ホールディング発祥の路線。元は、堤康次郎の箱根土地(後にコクド。現在はプリンスホテル)が小平学園都市構想の交通を確保すべく設立したもの。昭和3年、国分寺から荻山間を開通。その後、村山貯水池あたり(現在の西武遊園地駅)まで路線を延ばし、旧・西武鉄道(現在の西武新宿線)や武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)を吸収合併し、現在の西武鉄道となったのは、すでにメモした通り、である。

八左右衛門橋
玉川上水の北は、西武多摩湖線の少し西から江戸の頃の小川新田である。八左右衛門橋は、小川新田の名主であった滝沢八左右衛門が架けた橋。明治初年に玉川上水通船が行われたときの小川船持五軒のひとりでもある(小川村組頭10隻、野中新田船持総代2隻、廻り田新田名主3隻、鈴木新田船持総代2隻)。有力者であったようで、小川新田は八左右衛門組とも呼ばれていたようである。

山家橋
小川新田のことを八左右衛門組とも呼ばれたが、また、小川新田山家組とも呼ばれたようである。滝沢八左右衛門さん達が住む、警察学校の敷地辺りを山家集落とも呼ばれていた、とのことである。東京・新宿の若松町にあった陸軍経理学校が昭和17年(1941年)、小平市(当時の小平村)に移ったとき、「小川新田山家(おがわしんでんさんや=いまの同市喜平町)の、ほとんどが陸軍経理学校の用地に買収された」、と言った記述もあるので、結構最近まで使われていた地名のようである。

喜平橋
喜平橋で五日市街道は玉川上水の右岸から左岸に位置を変える。江戸の頃は、留(とめ)橋と呼ばれていた。喜平橋の名前は、野中新田の掘野中(喜平町の辺り)の組頭であった喜平さんの家の傍にあった、ため。現在の喜平橋は昭和46年の建設。明治の頃は、石積のアーチの橋であった、とか。







小平小桜橋
喜平橋を越え、上水北側の小平第三小学校前に小平小桜橋。新堀用水からの田無用水分水口は、このあたりにあった、とか。とはいうものの、肝心の新堀用水は西武多摩湖線の手前、小平桜橋のあたりで暗渠となっているので、現在の正確な分水口は不明ではある。ともあれ、田無用水はこのあたりで新堀用水から分かれていたようである。

田無用水
小平桜橋あたりで、新堀用水(現在は暗渠)から別れた田無用水は、小平第三小学校裏から鈴木小学校の北に向かって進む道・氷川通りを進む。地名を見ると回田町とある。これって、その昔、享保9年(1724)、野中新田より買い求めた廻り田新田であろう。それはともあれ、氷川通りを進むと都道248号にあたる。地図を見ると、その先に、県道132号の鈴木町交差点に向かって北東に進む水路が見て取れる。その先は、鈴木交差点から県道132号・鈴木街道を北東に向かい、田無の橋場交差点へと進む。
田無宿を潤した用水は青梅街道の南北二流に分かれ、田無宿(田無駅)の東で青梅街道を越え、石神井川に余水を注いだ。また、田無用水は、田無市内で田柄用水に分水し、練馬の光が丘付近からはじまる田柄川と繋がれ、これまた、最終的には石神井川へと注ぐ。明治の頃、石神井川下流にあった富国強兵のための工場群に水を供給するための水路網整備なのであろう、か。

鈴木用水
田無用水から分岐し、田無用水の流路である氷川通りの北、県道132号線に沿って北東へと向い、県道248号・鈴木町一丁目交差点あたりで鈴木街道を挟んで、南北二流に分かれ、東へ進む。南流は鈴木街道・鈴木交差点の手前で田無用水とクロスし、鈴木用水は田無用水の下を潜り、さらに東進。花小金井1丁目と2丁目の間の道を東に進み、石神井川へと注ぐ。一方、北流は小平第八小学校あたりで水は涸れ、花小金井を南流と平行して進み、花小金井南町で大門橋緑道を経て北に向かい、小平市を離れると完全に暗渠となって消えてしまう。

茜屋橋

小平市から小金井市に移る。新小金井街道と玉川上水、そして玉川上水に沿って進む五日市街道と交差するところに茜屋橋。このあたりが、小金井市と小平市の市境。付近にかかっている現在の橋は、昭和54年(1979)に架設されたもの。元は、明治初年、橋の南側で藍玉の集荷をおこなっていた島田家が、対岸の五日市街道に渡るためにつくったもの。丸太3本の橋であった、とか。
名前の由来は、島田家の屋号である「あかね屋」、から。島田家は付近で栽培された茜(あかね)の元締めでもあった。茜は、紫、紅花とともに、武蔵野の三大染草のひとつ。この橋は明治初年に、橋の南側で藍玉の集荷、また、茜(あかね)の買い入れを家業としていた島田家が、対岸の五日市街道へ渡るために玉川上水に3本の材木をかけたのがはじまり。島田家の屋号が『あかね屋』であったことが、橋の名前の由来。
茜はムラサキ(紫)と藍に並ぶ武蔵野三染草の一つで、付近に自生もしていたようだ。「鴨川の水でもできぬ色があり」と詠われたように、江戸紫は江戸の自慢のひつとで、あった、よう。島田家は享保年間の武蔵野新田開発が奨励された頃、五日市の檜原村より野中新田(上水南町)島田家は享保年間の武蔵野新田開発促進で、桧原村から堀野中新田(野中新田善左衛門組の一部。現在の小平市上水南町)に移住した出百姓である。

貫井橋鈴木新田開発の鈴木利左衛門が貫井村の本家から通うためにつくったもの。『上水記』にも記載の古き橋。鈴木利左衛門は貫井村草分けのひとり。熊野出身。小田原北条滅亡後、この地に土着し小平の新田を開発。ためにもとは、鈴木橋とも呼ばれた。
現在はケヤキを中心とした落葉樹が茂り、枝葉が水路を覆い、水面はあまり見下ろせないが、昭和30年頃までは水路の下草もきれいに刈り取られ、現在とは全く趣の異なる景観であった、とか。

小金井橋

小金井街道、玉川上水、そして玉川上水に沿って進む五日市街道と交差するところに小金井橋。橋は『上水記』(寛政3年・1791年、幕府の普請奉行により作成)にも記載される古い橋である。橋の名前の由来は、近くに武蔵七井のひとつ、とはいうものの、武蔵七井がどれとどれかって、わからないのだが、ともあれ、武蔵七井のひとつである名水黄金井(こがねい)、より。小金井市の名前の由来でもある。
小金井橋左岸北詰に『名勝小金井桜』の碑。桜の名所として名が広まるにつれ、人馬の往来により橋の損傷も激しく、安政3年(1256)、元の木橋から石橋に掛け替えられた。さすがの桜の名勝も、明治の中頃には木々の衰えが目立ち、大正13年(1924)には保護の意味もかねて、国の名勝指定となった。戦後は、米軍の立川・横田基地への兵站輸送の便のため、五日市街道の拡張により、往昔の堤は削られ、また、昭和40年の淀橋浄水場への上水停止もあり、水路や桜並木の荒廃がはじまり、ケヤキなどの雑木林が茂り、桜や雑木の混在した景観を呈している。橋の上流に明治天皇の行幸松の碑。明治16年のことである。

陣屋橋

陣屋橋の北に陣屋(関野町2-6)があったのが、橋名の由来。陣屋橋の説明板によれば、「江戸時代前期の承応3年(1654)、江戸の水道である玉川上水が完成した後、武蔵野の原野の開発が急速に進み、享保年間(18世紀前半)ころに、82か村の新田村が誕生しました。この新田開発には、玉川上水からの分水が大きな役割を果たしました。この時、上水北側の関野新田に南武蔵野の開発を推進した幕府の陣屋(役宅)が置かれ、「武蔵野新田世話役」に登用された川崎平右衛門定孝の手代(下役)高木三郎兵衛が常駐していました。
この陣屋から南に真っ直ぐ小金井村方面に通じる道が「陣屋道」、玉川上水に架かる橋が「陣屋橋」です。今の橋は、昭和48年に新設されたものですが、元の陣屋橋は、ここから数十メートル下流にありました。
また、玉川上水両岸の小金井桜は、新田開発が行われた元文2年(1737)頃、幕府の明によって川崎平右衛門等が植えたものです」、とある。
陣屋は東・北・西の三方を土塁、南を用水堀で囲まれた構え。高木三郎兵衛は、川崎平右衛門と同じ押立村の出身。平右衛門により取り立てられ、この陣屋を任されたのをはじめとして、岐阜、石見銀山と、代官となった平右衛門の有能な補佐役として一生涯をともにした。今日、川崎平右衛門を研究するときに欠かせない『高翁家録』も三郎兵衛の手になるものである。

川崎平右衛門
川崎平右衛門は、もとは府中押立村の名主。農民を保護し、農営指導するその力量を評価され、享保年間、大岡越前とともに武蔵野の新田開発、というか立て直しに尽力した。
武蔵野の新田開発は享保年間以前、明暦の頃より始まった。武蔵野に82の開拓村ができた、と言う。とはいうものの、入植した1320余戸のうち生活できたのはわずかに35戸しかなかった、と言う。こういった村の状況を更に悪くしたのが元文3年(1738年)の大飢饉。村は壊滅的状況になった。
その窮状を立て直すべく大岡越前守に抜擢されたのが川崎平右衛門。時の代官上坂安左衛門(この人物も何となく魅力的)の助力のもと、農民救済に成果を示し、名字帯刀を許され、1743年(寛保3年)、大岡越前守の支配下関東三万石の支配勘定格の代官になった。また、不手際・職務怠慢ということで水元役を解かれた玉川兄弟に代わり、玉川上水の維持管理にも深く携わる。桜の名所とし有名な小金井堤の桜を植えたのも川崎平右衛門である。後には美濃や石見銀山にも代官として派遣され仁政を行った(『代官川崎平右衛門の事績;渡辺紀彦(自費出版)』、より)。誠に魅力的な人物である。

名代官と称された川崎平右衛門であるが、中野散歩の時、新田開発とは全く関係のないコンテキストで現れたことがある。中野長者・鈴木九郎ゆかりの寺、中野・成願寺を訪れたとき、そのすぐ脇の朝日が丘公園(中野区本町2-32)に象小屋跡の案内があった。亨保の頃、タイより象が長崎に到着。街道を歩き、京都で天皇の天覧を拝した後、江戸に下り将軍・幕閣にお目見え。その後13年ほどは幕府が飼育するも、維持費が大変、ということで払い下げ。希望者の中から選ばれたのが川崎平右衛門。縁故者の百姓源助が象を見せ物とし、大いに賑わった、とか。また川崎平右衛門は象の糞尿にて丸薬をつくり、疱瘡の妙薬として売り出した。幕府の宣伝もあり、大いに商売は繁盛し、観覧料や丸薬の売り上げで上がった利益で府中・大国魂神社の随神門の造営妃費として寄進された、と(『代官川崎平右衛門の事績;渡辺紀彦(自費出版)』より)。

新小金井橋
新小金井橋の北に真蔵院。川崎平右衛門供養塔がある。今までの散歩で出合っただけでも、国分寺の鳳林寺、観音寺に平右衛門を顕彰する碑があった。人々に敬愛された人物であったわけだ。
真蔵院は、延享2年(1745年)、関野新田の開拓者である関勘左衛門が、西多摩郡御岳山中の廃寺世尊寺の塔頭を引寺し菩提寺とした。現在は山門も本堂もコンクリートつくり。境内の古代ハス(大賀ハス)で知られる。
先に進み小金井公園入口の歩道橋下に「名称小金井桜碑」。上水堤の桜は桜見物で賑わい、明治22年(1889)、新宿・立川間に開業した甲武鉄道(後の中央線)も、その賑わいに抗しきれず、観桜の時期だけは、武蔵境駅と国分寺駅の間に仮の乗降場が設けられたほど。その駅が、小金井公園を南に下ったところにある武蔵小金井駅の前身である。
武蔵野公園の南に「浴恩館公園」がある。戦前の青年団運動の施設跡。昭和8年から12年まで作家である下村湖人が所長であった。『次郎物語』で知られる。「浴恩館公園」の近くを仙川が流れる。仙川を上流端から世田谷で野川に注ぐところまで辿ったことを思い出す。

関野橋
『上水記』にも記載される古き橋。亨保9年(1724)、下小金井村の名主・関勘右衛門が上水の北、現在の関野町一帯を開拓し、関野新田を開いた。橋の名前は、往昔、関野新田橋と呼ばれていたようであるが、後に関野橋となった。
関野橋から少し下った辺りの緑道に「桜樹接種碑」。天保15年(1844)、十三代将軍家定が世子の頃、観桜御成を名誉とした、当時の代官大熊善太郎の命により、上水の両岸の桜の補植を命じた。桜も歳を経て、だいぶ弱ってきていたのだろう。で、上水北岸の桜の補植を熱心におこなったのが、田無地区41ヵ村の惣名主・下田半兵衛。この碑はその半兵衛が建てたもの。表には「桜折るべからず 槐字道人」とある。 槐字道人とは下田半兵衛のこと。裏面には補植の経緯を記した、桜樹接種記が刻まれ、「老いたるには培ひ、朽たるには種継(中略)万々年もつぎつぎに植え継ぎて...」と、後生にも接種を求めている。
大田蜀山人の『調布日記』には、関野橋を描いた下りがある:酔心地にたち出て、猶関前新田のかたにあゆみゆけば、関野橋という橋あり。此所より左右をみるに花はさかりにして、雲のごとく、上水の流はねりぎぬを引たらんごとし」、とある。『調布日記』は蜀山人・大田南畝こと大田直次郎が幕府の役人(玉川通普請掛り勘定方)として、四ヶ月に渡り、多摩川の治水状況を見聞したときの記録。蜀山人・大田南畝って、狂歌師として知られるが、幕府の人材登用試験である学問吟味で、お目見得以下の身分での主席合格者、といった有能な役人でもあった。もっとも、それは、田沼意次の時代に狂歌師として活躍した自身を、一転、寛政の改革、質素倹約の時代に転換した時勢に合わせた自己を護る手段であった、とも。改革に対する政治批判の狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」が蜀山人・大田南畝の作と目されるなど、状況は厳しいものがあったが、以降狂歌から離れ、幕府の役人として難局を切り抜けた。

梶野橋

『上水記』に記載の古い橋。亨保年間の武蔵野新田開発奨励時、上小金井村の名主である梶野藤左衛門により開墾された梶野新田に架けられた。梶野新田は現在の小金井市梶野町の一丁目から四丁目あたり。新田開発にともない亨保17年(1732)には梶野分水も認められた。分水は梶野新田だけでなく、染谷新田、南関野新田、境新田、井口新田五郎左衛門組、井口新田権三郎組、野崎新田、上仙川村を潤した。
梶野分水は明治3年(1870)の上水通船計画にともなう分水統合策により、上流の小金井分水、またその先の砂川分水とつながり、下流は深大寺村まで結ばれた。砂川用水が深大寺用水とも呼ばれる所以である。上水通船計画と言えば、梶野橋際に、境新田の船持ちの荷揚げ場があった、とのことである。

新橋
この橋も『上水記』に記される古き橋。現在はコンクリート擬木の造りであり、自転車は通れそうな人道橋である。現在、上水の南側は桜堤と呼ばれるが、江戸の頃は境新田と呼ばれていた。
梶野橋と同じく、この橋際に、境新田の船持ちの荷揚げ場があった。上流の小松橋あたりから続いた小金井桜も、この辺り、梶野橋・新橋辺りが東端。『玉花勝覧(文化元年;1804)』には、「新橋 この橋よりはじめて南岸桜なり」、「梶野橋 ここより両岸桜なり」、と。また、『江戸名所花暦;文政10年(1827)』には、「新橋、このはしより両岸に桜つらなる。梶野橋・関野橋より花に添て行」とある(『玉川上水をあるく;武蔵野市教育委員会』)。

曙橋
桜堤団地建設の資材運搬のため造られた橋。明治の頃には、この橋のあたりに千川用水の分水口があり、玉川上水と五日市街道の間を下る路があったようである。江戸の頃は曙橋の少し上流。明治4年には橋の下流に分水口が設けられた、とか。当初は胎内掘りであったようだが、明治16年の頃は開渠となり、先に進んでいた、とのこと。

ともに、自転車程度は通れるにしても人道橋。ともに、周辺にくぬぎや紅葉が多く茂っていたからの橋の名前ではあろう。ところで、クヌギやコナラといったドングリの木を中心とする武蔵野の雑木林であるが、これって自然林ではない。元は草の生い茂る、荒漠たる原野を開いた人々によって薪や炭に仕えそうな木々として植えられたもの。クヌギは、とくに炭としての利用価値が高かった。江戸の街が拡大するにつれ、生活燃料としての薪炭が大量に必要となり、元々の草原が雑木林と変わっていった。武蔵野といえば雑木林、と言われるほどの「存在」ではあるが、もとは、燃料確保のために植えられた木々ではあった。







境橋
さきに進み境橋。名前の由来は保谷との境、旧境村から、とか、江戸時代武蔵境には出雲松江城主松平公の屋敷があり、そこを管理していた境本氏が関東郡代に開墾を願い、長百姓となった、その「境本」から、とも言われる。
この境橋から千川用水が玉川上水から分かれ、五日市街道に沿って北東へと向かう。日も暮れてきた。本日の散歩はここで終了。次回、この境橋から三鷹・吉祥寺方面に下っていこうと思う。

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