月曜日, 4月 08, 2013

玉川上水散歩そのⅤ;境橋から独歩ゆかり武蔵野を下り、杉並の浅間橋の暗渠地点まで下る

千川上水との分岐点でもある境橋から武蔵野市・三鷹市を下る。国木田独歩が描く『武蔵野』ゆかりの故、その事跡が数多い。「武蔵野の俤(おもかげ)は今わずかに入間郡に残れり」ではじまる独歩の『武蔵野』であるが、同時に、「郊外の林地田圃に突入する処の、市街ともつかず宿駅ともつかず、一種の生活と自然とを\配合して一種の光景を呈している場処を描写することが、頗る詩興を呼び起こすも妙ではないか」、と描く。武蔵野市・三鷹市のあたりって、そのようなところだったのだろう。か。それはともあれ、上水に沿って緑道を下り、上水の開渠が消える杉並の浅間橋まで辿ることにする。


本日のルート;JR武蔵境駅>境橋>境水衛所跡>千川上水分岐>うど橋>独歩橋>桜橋>品川用水分水口>松美橋>みどり橋跡>大橋>欅(けやき)橋>三鷹駅>三鷹橋>太宰治の記念碑>むらさき橋>万助橋>ほたる橋>幸橋>新橋>松影端>井の頭橋>若草端>宮下橋>東橋・長兵衛橋>牟礼橋>久我山水衛所跡>兵庫橋>岩崎橋>浅間橋 JR武蔵境駅

JR武蔵境駅

先回散歩の終点、境橋に向かう。最寄りの駅はJR武蔵境駅。JR中央線の前身は甲武鉄道。既にメモしたように、玉川上水通船事業が2年で廃止となり、それに変わる「大量輸送」の手段として、玉川上水の堤の上を、馬車を走らす、とか、青梅街道にそって馬車鉄道走らす、といった計画もあったが、時は既に鉄道輸送の時代となっており、明治22年、新宿から立川を結ぶ甲武鉄道が開かれることになった。路線は青梅街道に沿って、といった案もあったようだが、機関車の煙による煙害を嫌う青梅街道筋の人々からの反対もあり、現在の新宿から立川まで、原野の中を一直線で進む路線となった。当初の駅は新宿・中野・境・国分寺・立川の5つの駅のみであった。
武蔵境って、武蔵と何処かの境が地名の由来かとも思っていたのだが、実際は境新田、から。出雲松江藩の屋敷奉行の境本氏が御用屋敷のあった場所を幕府より貰い受け新田を開発、その名を境新田開発とした。駅の南には境本公園も残る。工事中のため右往左往しながらも駅北口に下り、商店街を抜け成り行きで北に向かう。武蔵境通りと地図にあるが、商店街を抜けた辺りから70mほどを「独歩通り」と呼ぶ。この辺りは、国木田独歩が好んで散策したゆかりの地故の命名だろう。

境橋
仙川を越え、武蔵野第二小学校交差点を左に折れ、都道123号線・武蔵高校前交差点を北に進むと、都道7号杉並あきるの線に当たる。都道7号線は通称、「五日市街道」と呼ばれる。家康の江戸入府の後、秋川筋の五日市(現在、あきるの市)や檜原から木材や隅などを江戸に運ぶため整備された。都道123号線が五日市街道にあたるところに玉川上水に架かる境橋がある。千川上水は、境橋で玉川上水から分かれ、五日市街道に沿って北東へ向かう。
現在、羽村で取水された水は小平監視所まで流れ、そこからは東村山浄水場に送られる、と既にメモした。小平監視所から下流は1965年(昭和40年)の新宿・淀橋上水場の廃止とともに送水を停止し、しばらくは「空堀」状態ではあったが、1986年(昭和61年)、東京都の清流復活事業により再び水流が復活した。水流は復活した、とはいうものの、それは多摩川の水ではなく昭島の多摩川上流水再処理センターで高度処理された下水ではある。ここ境橋のあたりまで流れる水は、この清流復活事業として供給される水、ということだ。

境水衛所跡
橋のたもとに「史跡 玉川上水の碑」。そのすぐ下流には、境水衛所跡。明治32年(1899)、淀橋浄水場の竣工に先立ち、1894(明治27年)に浄水場管理のため、他の7衛所とともに設置。分水口の監理、塵芥の除去など、江戸の水番人が担当していた仕事を受け継いだ。昭和40年(1965)、淀橋浄水場の閉鎖にともない、小平監視所ヵら下流の水衛所は閉鎖・統合され、現在、境水衛所跡には、かつての塵芥除去に使われていた鉄柵が残る。

千川上水分岐

その鉄柵の手前、上水左岸には、1966(昭和41年)、上流の曙橋のところににあった千川上水の分水口がこの構内に移る。江戸の頃は曙橋の少し上流。明治4年には橋の下流に分水口が設けられた、とか。1980(昭和55年)にはその分水口も廃止され、現在は、その分水口跡が残る、のみ。
現在千川上水は境橋の上流200mほどのところで玉川上水から分水されている、とのこと。現在でも清流復活事業により玉川上水に流される水量の20%、おおよそ1万トン(1日)程度の水が分水される、と言う。1万トン、ってどの程度か想像もできないが、イラクでの自衛隊の給水のニュースで、1日70から80トンの水でほぼ2万人分とあった。ということは、おおざっぱに言えば200万人から250万人分の水量、ということだろう、か。

千川上水
千川上水は江戸六上水のひとつである。元禄9年(1696)徳川綱吉の時代、道奉行伊奈平八郎掛かりで開発が行われ、土木家河村瑞軒の設計のもと、多摩郡仙川村の徳兵衛、太兵衛が開削にあたった。

そもそもの目的は江戸の小石川御殿、湯島聖堂、上野東叡山、浅草寺に水を引くこと。お武家さま中心の計画ではある。そしてその余水を神田上水以東の小石川、本郷、湯島、外神田、下谷、浅草までの武家、寺社、そして町屋に飲料水として渡した。江戸の町の3分の1にあたる地域を潤した、という。その後、18世紀になると流域の村々の懇願を受け、灌漑用水として井草、中村、中新井、長崎、滝野川、巣鴨村等7個所の分水を設け、20ほどの村々の田畑を潤した。
享保7年(1722)には儒学者室鳩巣の提言を以てして、玉川上水、神田上水だけを残し、 千川上水をはじめ、青山上水、三田上水、本所上水(亀有上水)の4上水を廃止した。江戸の大火の原因が上水・用水開削による地下水脈の乱れによるとの理由からである。以後、一時的に上水として復活することもあったが、主として、村々の潅漑用水として使われた。
明治以降は、水車による精米・精麦、製粉が行われるようになったほか、紡績所や製紙会社、印刷局などの工業用水としても利用された。また、1880年(明治13年)には、岩崎弥太郎が設立した「千川水道会社」により飲料水としても使われた。その後、東京市の改良水道の普及で1908年(明治41年)、千川水道会社は解散。1970年(昭和45年)には東京都水道局板橋浄水場が上水からの取水を止め、1971年(昭和46年)には大蔵省印刷局抄紙部への給水も止み、千川上水はその長い歴史を終えた。
千川上水の歴史は大まかに以上の通りである。が、千川上水に関する興味・関心は歴史よりその地形にある。千川上水は標高64mの境橋から、標高28mの巣鴨まで30キロ弱を尾根筋に沿って武蔵野台地を下る。玉川上水・境橋の分水口から、石神井川水系と神田川水系(善福寺川・妙正寺川)の分水界でもある尾根筋を東に向かって進む水路は、東長崎の手前で北東にほぼ直角に曲がる。その先は谷端川や妙正寺川の谷筋となるので、谷に落ちないように、尾根に沿って曲がるのであろう。地形図を見ると、まさしくその通り、その後流路は尾根筋から外れないよう板橋に向かって進んでいる。一度でも下に落ちれば、自然流路としては上に戻れないわけであるから、精緻な測量技術を持って尾根から外れないように流路を決めていったのだろう。

うど橋
上水右岸の橋詰めに、碑文;「...今から180年位前より、この土地の人々は...落葉の温熱で軟化独活(なんかうど)を栽培して生活していた。近年栽培法がいろいろと改良されて早期に大量出荷され、 全国に東京独活特産地として有名になった。このたび由緒ある玉川上水への橋をかけるにあたって、特産地の名をとどめるため独活橋と命名されたものである」、と。このあたりは東京独活(うど)の特産地であった。昭和40年代には生産量3000トン。全国生産の四割を占めた、と言う。
うど橋の命名は、橋近くの独活農家・高橋米太郎(よねたろう)さんの発案。関東ローム層の柔らかい地質を利用し、地下の室(穴蔵)を使った栽培法を試行錯誤の末完成させ、独活栽培の発展に貢献した、とのことである。
独活の大木って諺がある。地下の若芽は食用となるが、大きくなると食用にもならず、といって、2mもあっても柔らかく、建材にもならない、ということが諺の由来。

独歩橋
橋を少し南に下ったところに、境山野(さんや;山野は字名)緑地がある。コナラやクヌギといった武蔵野本来の雑木林は、市内からほとんど姿を消し、今では境山野緑地が数少ない保存林となっている。
平成17年開園のこの公演の南半分は「独歩の森」とも呼ばれる。独歩の日記『欺かざるの記』には、「遂に櫻橋に至る。橋畔に茶屋あり。老婆老翁二人すむ。之に休息して後、境停車場の道に向かひぬ。橋を渡り数十歩。家あり、右に折るる路あり。此の路は林を貫いて通じる也。直ちに吾等此の路に入る。林を貫いて、相擁して歩む。恋の夢路!余が心に哀歓みちぬ」とある。その後に独歩と結婚することになる佐々木信子と共に歩いた「記憶して忘するる能はざる日々」の舞台ではあろう。

桜橋

通りを北に進むと境浄水場手前に玉川上水・桜橋があるが、その橋の袂に国木田独歩文学碑がある。「今より3年前のことであった。自分は或友と市中の寓居を出て三崎町の停車場から境まで乗り、其処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと櫻橋という小さな橋がある」、と、国木田独歩の『武蔵野』の一節が刻まれている。
「・・・小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向て「今時分、何しに来ただア」と問うた事があった。 自分は友と顔を見合わせて笑て、「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」と答えると、婆さんも笑って、それもばかにした様な笑いかたで、「桜は春咲くこと知らねえだね」と言った。・・・  茶屋を出て、自分等は、そろそろ小金井の堤を、水上の方へとのぼり初めた。ああその日の散歩がどんなに楽しかったろう。・・・』」(新潮文庫 『武蔵野』P 21ー22 原文の通り)。誠に、いい。
ところで、桜橋を通る武蔵境通り、って、中央線の前身・甲武鉄道に境停車場(現在の武蔵境駅)を設ける交換条件として、武蔵境から田無を結ぶ新道を開くことを求められた。明治34年には、境停車場と田無を結ぶ乗合馬車も走ったようである。

品川用水分水口
桜橋から少し下った武蔵野市立第六小学校のあたりに、品川用水の分水口があった。品川用水とは、旱魃に悩まされていた品川領2宿7カ村が、幕府に願い出て寛文9年(1669年)に完成した農業用水路。もとは、他の用水と同じく、大大名のお屋敷への導水がはじまり。品川用水は寛文3年(1663)、戸越にあった細川家の抱え屋敷の庭園への水の供給のため、玉川上水から仙川への養水を新川宿で分水した戸越用水をつくるも、寛文6年(1666)に廃止された。ぞの戸越用水を整備し直したのが、品川用水である。
境村(現在の三鷹市境3丁 目)、桜橋を少し下った第六小学校のあたりで玉川城址からで分水され、三鷹市、世田谷区、目黒区を通り、小山台1丁目で品川区に入る。用水は小山台2丁目(地蔵の辻)で二股に別れ、左手は百反坂方面に下り、桐ヶ谷、居木橋へ。右手は戸越から大井村までの田畑の灌漑に供していた。玉川上水から分水され用水の中では最長の水路であり、推量も第二位といった大きなものであり、流路にある多くの河川の養水としても使われたようである。
大正から昭和には急激に都市化が進み、排水路と変わり、昭和20年代後半あたりから、道路や下水道となっていった。品川用水は立会川散歩のとき、下流部から学芸大学、さらに、その少し北にある野沢水車跡あたりまで辿ったことがある。開渠はなにもなく、いかにも川筋跡といった道路を彷徨った。その時、玉川上水の分水口から下流部までの水路をチェックした。いかにも、川筋跡らしき道路を下る流路であった。

松美橋
昭和54年に架けられた橋。立派な赤松があったのが、橋名の由来、とか。橋の北には都水道局境浄水場が拡がる。境浄水場は近代水道事業を進めるべく、村山・山口貯水池の建設と平行しえ大正7年から建設がはじまり、大正13年に完成した。羽村第三水門から村山・山口貯水池に送られた水を地下の導水管で境浄水場に導水し、沈殿・濾過・殺菌処理をおこない、和田堀給水所を通して千代田・渋谷・世田谷、港区、目黒区の一部に給配水する。都の水道局全施設能力の5%、1日に31万5千立方メートルの水を供給している、とか。
ところで、境浄水場から渋谷を結ぶ井の頭通は、もとは境浄水場と和田堀給水所の間に水道管を敷設するための用地を道路に転用したもの。当時は水道道路と呼ばれていたが、後に、荻窪に私邸のあった近衛文麿氏が、官邸への往来に使った水道道路を井の頭街道と命名し、更に東京都によって井の頭通りと改められた。

みどり橋跡
松見橋を下ると上水南に緑道が南に続く。この緑道は、本村公園と呼ばれ、もとは境浄水場建設のとき、武蔵境駅から砂利を運搬するために造られた1.8キロの専用軌道跡。浄水場完成後は濾過砂運搬に使用されていた、と言う。砂利は現在の西武多摩川線を遣い、是政から武蔵境に運ばれていた、とか。上水にはみどり橋と呼ばれる軌道橋が架かっていたとのことだが、昭和46年軌道が廃止された後、人道橋となるも、現在はその橋も、ない。
ところで、本村公園の東に、掘合遊歩道が三鷹駅あたりから続く。この道も本村公園の緑道と同じく、軌道跡を整備したもの。戦前、現在の武蔵野中央公園あたりにあった中島飛行機武蔵工場などの軍需工場への引き込み専用線であり、戦後は工場跡のグランドへの専用線となっていた。グランドではプロ野球も行われたようである。なおまた、中島飛行機武蔵工場(現在のNTT武蔵野研究開発センター)から先、田無の中島金属エンジン工場(現在の住友重工田無製造所)にも簡易軌道があったようである。用水とか軌道という言葉に惹かれる我が身としては、このあたりの軌道跡を、近々、まとめて歩いてみようと思う。

大橋
上水記に「保谷橋」と記される古き橋。深大寺街道とも、大師道とも呼ばれる古道筋であり、もとは江戸の頃に架けられた。深大寺街道とは、小田原北条氏と相対する、関東管領上杉氏が整備した軍道。上杉氏の居城である川越城と、出城として築いた調布の深大寺城を結ぶ線を防御ラインとし、小田原北条に相対した。先日清瀬を歩いたとき、柳瀬川を見下ろす崖上に、川越城と深大寺城の中継地として築かれた滝の城があった。また、西武柳沢駅の少し西に六角地蔵尊があり、その脇道が深大寺街道と案内されていた。
この道は大師道とも呼ばれる。深大寺には関東で最も古い白鳳仏が佇むが、その仏像は元三大師堂に納められている。元三大師とは天台の僧良源(慈恵大師)、より。寛和元年小正月3日になくなったため、元三大師と称された。深大寺の白鳳仏もさることがら、この元三大師への信仰が深く、故に深大寺への道を大師道とも呼ばれていた。
深大寺道の大雑把なルートを清瀬の滝の城からトレースすると、滝の城を下り、柳瀬側を渡り、南下。志木街道を越え、米軍通信基地の東を下り、野火止用水を越え、黒目川に架かる神宝橋を渡り、更に南下。西武線のひばりが丘駅の西を越えて榎ノ木通を南下、西武柳沢駅西の六角地蔵尊脇を下り、武蔵野大学の東側を進み、玉川上水に架かる大橋を渡り、武蔵境通を南下。野崎八幡先で東八道路を越え南東にくだって深大寺へと至る。この道もそのうちに辿って見たい。

欅(けやき)橋
上水に沿って進むと、けやき橋西交差点。ここで上水は一時暗渠に潜る。暗渠はほどなく開渠おなり先に進むと欅(けやき)橋。元々は安政年間、と言うから19世紀の中頃、欅丸太を渡した、ささやかな橋であったようだが、その道筋を中央線を潜る立体交差の工事をおこない、橋も大きく様変わり。橋の前後が暗渠となり、「玉川上水公園」などが整備されているため、橋という感じはしない。橋の南詰めには「石造庚申供養塔」が残る。





三鷹駅
再び開渠となった緑道を進むと三鷹駅。ここでまたまた暗渠となり味三鷹駅下を潜る。中興線の駅のホーム下をのぞき込むと、水路が斜めに横切っているのが見える。

三鷹駅は昭和5年開業。みどり橋のところでメモしたように、戦後、ほんの1年程度、現在の武蔵野中興公園(戦前の中島飛行機武蔵工場)にあったグリーンパーク球場へと向かう武蔵野球場線という路線があった。現在は、玉川上水までは掘合(ほりあわい)遊歩道、その北はグリーンパーク遊歩道となっている。この路線は戦前中島飛行機武蔵工場への引き込み線を利用したものだろう、と思っていたのだが、中島飛行機への引き込み線は、境浄水場建設時の引き込み線とおなじく、始点は武蔵境駅であったようだ。

「独歩詩碑」
駅の北口交番裏には「独歩詩碑」。武者小路実篤の書による「山林に自由存す」と『武蔵野』の一節を抜き出した刻文がある。「山林に自由存す」の意味するところは定かではないが、『郊外の風景:樋口忠彦(教育出版)』によれば、古来、旅といえば歌枕の地、名所旧跡を辿ることであった。独歩は景物という枠から自由になるとともに、名所からも自由になっている。名所を巡る行楽は、道に迷うことを苦にしない、あてのないぶらぶら歩き、すなわち散歩に変わる、とある。
「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへ行けば必ず其処に見るべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩くことに由って始めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼,夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつき次第に右し左すれば随所に吾等を満足さするものがある」
「同じ路を引きかえして帰るは愚である。迷った処が今の武 蔵野に過ぎない。まさかに行暮れて困ることもあるまい。帰りもやはり凡そその方角をきめて、別な路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうる事がある。日は富士の背に落ちんとして未だ全く落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染まって、見るがうちに様々の形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖のような雪が次第に遠く北に走て、終は暗澹たる雲のうちに没し てしまう」。(国木田独歩『武蔵野』)。 こんな散歩を今後も続けたい。

三鷹橋
三鷹駅を横切った水路は三鷹橋より開渠となって下る。この橋は昭和36年架設されたもの。上水の北が武蔵野市、南が見三鷹市。三鷹の地名の由来は、明治22年、江戸の頃の十ヵ村が合併してひとつの村となった時、その十ヶ村が三領(府中領・世田谷領・野方領)にまたがる鷹場であった、との説がある。
鷹場広大なもので、徳川将軍家の鷹場は江戸から20キロ以内、さらにそれを囲むように徳川御三家(紀伊・尾張・水戸)や、田安・一橋家の鷹場があった。徳川将軍家の多摩郡における鷹場は34ヵ村に及ぶ;本郷村、阿佐ヶ谷村、上沼袋村、新井村、上井草村、下井草村、和田村、上荻窪村、下荻窪村、天沼村、田端村、成宗村、上鷺宮村、下鷺宮村、大宮前新田、松庵村、中高井戸村、久ヶ山村、和泉村、上高田村、片山村、高円寺村、馬橋村、江古田村、吉祥寺村、上連雀村、下連雀村、関前村、西荻村、境村、無礼村、中野村といったものである。三鷹から先、清瀬に至る地は尾張徳川家の鷹場。その雰囲気を求めて清瀬を彷徨ったことが思い出される。

太宰治の記念碑
三鷹駅から井の頭公園前の萬助橋までの上水にそった800mほどの道を「風の道」と呼ぶ。市民公募で命名された。むらさき橋の手前に、ポケットスペースがあり、そこに太宰治の記念碑と『乞食学生』の一節、そして玉川上水脇に佇む太宰の写真が石に組み込まれていた。「玉鹿石(ぎょっかせき)」も飾られているが、銘板には青森県北津軽郡金木町産とあった。故郷津軽の石である。太宰入水の地は、ここから少しむらさき橋に下ったあたり、とも言われる。現在の水量と異なり、昭和23年6月13日頃の水量は、「人喰らい川」と呼ばれるほどの急流であった、とのことである。

むらさき橋

武蔵野市と三鷹市を結ぶ橋。昭和29年、武蔵野市と三鷹市の合併の話があり、両市折半で架設した橋(合併は結局無かった)。橋名は公募。古今集「紫の一もとゆえに武蔵野の 草はみながらあはれとぞ見る」のもある、茜、藍と並ぶ武蔵野三染草の一つであるムラサキ(紫)が橋名に採用された。「鴨川の水でもできぬ色があり」と詠われたように、江戸紫は江戸の自慢のひとつであったことは、上流茜橋のところでメモした、とおり。紫橋を少しくだったところに。山本有三記念館。

万助橋
道を進むと、上水の北には井の頭自然文化園。こどもが幼い頃は、ここの動物園に足繁く通ったものである。先に進み、都道114号・吉祥寺通りに万助橋が架かる。安政年間、と言うから、19世紀中頃、下連雀の渡辺万助が架けたのが、橋名の由来。もとは、スギの大樹をふたつ割りにして架けたものであり、嫁入りの際は縁起が悪い、ということで、この橋を渡るのを避けた、とのことである。また、入水した太宰が発見されたのが、この橋の柵門あたりであった、とか(『玉川上水をあるく;武蔵野市教育委員会』)。
連雀新田のはじまりは、明暦3年(1657)の大火により類火した神田連雀町が御用地として召し上げられ、替わりにこの地が与えられ、住民が移り住んだ。連雀とは物を背負う背負子(しょういこ)のことであり、江戸の行商人は連雀を担いで行商を行った。そのころからもわかるように、神田連雀町に住んでいた人々は商人が多く、百姓仕事に不慣れで、この地の開墾に難儀したとのことである。

ほたる橋
先に進み、上水北側の深い雑木林、南の井の頭恩賜公園競技場を見やりながら歩くとほたる橋。橋からの景観はなかなか、いい。橋のすぐ下流に堰が見えるが、それは牟礼分水口。牟礼分水は玉川上水から分かれた後、公園を南下、明星学園の南で流路を東に向け、法政大学中学高等学校の南を更に東に進み、高山小学校の北で、再び流路を変え南に向かう。その後は、高山小学校の東で流路を変え、三鷹台団地の中を南東に弧をを描いて進み、往昔の「牟礼田圃」を潤していた。三鷹台団地が牟礼田圃跡である。

幸橋

幸橋の辺りで井の頭恩賜公園と離れる。井の頭公園を離れる前に、簡単に井の頭公園近辺のメモ;井の頭公園は東の池の部分と、西の台地部分に大きく分かれる。池は往昔、湧水が豊富で七つの湧水点があったため、七井の池とも呼ばれた。玉川上水以前に江戸の人々の口を潤した神田上水は、この井の頭の湧水を源流とし、自然河川を整備し直し、関口の大洗の堰まで水を送った。
東の台地上には御殿山遺跡が残る。縄文時代の住居跡や旧石器時代の石器が発見されている。井の頭公園のあたりの標高50mから55mあたり、と言うのは、武蔵野台地の湧水ポイントである。石器時代、縄文時代の人々は、崖下の豊かな水を飲み水として生活していたのであろう。ちなみに、井の頭の神田川に限らず、妙正寺川、善福寺川、石神井川といった武蔵野の水系の源流点はおおよそ標高50から55メートルといったあたりにある。

新橋

万助橋より新しいから新橋、と言われるが、万助橋は安政年間というから、19世紀の末ではあろうが、明治の頃の記録に新橋の記述がない。これでは万助橋との年代比較ができそうもない、と思うのだが。よくわからない。また、この橋は、一節には入水した太宰が流れついたところ、とも言われる。上に万助橋で見つかったとメモしたが、それは万助橋交番からふたりが発見の連絡が入ったことと混同しているのでは、とも。ともあれ、発見された6月19日は太宰の誕生日。現在、太宰は下連雀にある禅林寺で敬愛する森鴎外とともに、眠る。

松影橋
雑木林の中、松影橋あたりを進む。上水は深く、武蔵野台地の稜線部を素掘りで開削された当時が偲ばれる。上水の南は、もとは東京女子大学牟礼キャンパス(短期大学部・現代文化部。現在は法政大学中学高等学校となっている。

井の頭橋・若草橋

上水記では「稲荷橋」。明治の頃までは稲荷橋と呼ばれていたが、井の頭弁天参道が上水を渡るため、現在では「井の頭橋」と呼ばれている。人道橋の若草橋を見やりながら先に進む。竹林などもなかなか、いい。

宮下橋
牟礼の神明神社が南の丘の上にある。その宮の下、というのが名前の由来。明治初年には記載がないが、明治39年の記録には記載されているので、架橋は明治の前半だろう、か。橋名の由来ともなった、牟礼の神明神社の丘は、古くは高番山とも呼ばれ、そこには牟礼城があった、と言う。この城は小田原北条勢の出城。関東管領の本拠である川越城から清瀬の滝の城、そして深大寺城を防御ラインとする関東管領上杉に対峙すべく、小田原北条勢の北条綱種が築いた。神明宮は綱種が芝の神明宮を勧請したもの。

東橋・長兵衛橋宮下橋を先に進むと、上水は東橋のあたりで流路を東に変える。明治39年には記載されているので、結構古い橋ではある。その先、上水が人見街道と交差する手前に長兵衛橋。牟礼の長兵衛さんが自費で架けた作場橋、とのことである。

牟礼橋
人見街道に牟礼橋が架かる。「上水記」では「久我山橋」と呼ばれていた。また、久我山村では「牟礼橋」、牟礼村では「東橋」、とも。「東橋」は牟礼村の東の端にあった、から。現在の橋の上手に煉瓦造りの旧橋が残るが、その石柱には「どんどん橋」と刻まれていた、と記憶する。水流多く、水が橋の下で、どんどん鳴り響いた音を表したものであろう、か。橋の南詰、上水右岸に「石橋建立供養之碑」が残る。



人見街道は府中と杉並の大宮八幡社を結ぶ。「大宮街道」とも呼ばれる。昔は、府中街道(旧鎌倉街道)の旧久我山村(杉並区)と旧牟礼村(三鷹)を結ぶ、交通の要衝でもあった。人見街道は、小金井の人見村、とか、その地域の有力者・人見氏に由来するとか、あれこれ。人見街道を渡れば、杉並区に入る。
牟礼は三鷹市の中で最も古い地名。1559年(永禄2年)に編纂された『小田原衆所領役帳』には「無連」 とある。「牟礼」の語源は、古代朝鮮の言葉で「山」を意味する、との説もある。山と言われても、それらしきものは見当たらないのだが、牟礼神明社のある高番山が、それとも、言う。ちなみに、久我山の「くが」は「陸」のこと。窪とは反対の地形で、川などの近くで盛り上がった山のようなところを指すようである。

我山水衛所跡

牟礼橋を渡り、次の兵庫橋の手前に、久我山水衛所跡。かつて玉川上水に8カ所(熊川、砂川、小川、境、久我山、和田堀、代々木(余水吐際)、四谷大木戸)あったという水衛所の一つで、水路のゴミを除去する格子が残されている。太宰入水に際しては、この久我山水衛所まで捜索した。境水衛所の次が久我山水衛所跡であるので、少なくともここより下流に流れることはなない。結局、この水衛所で履き物が見つかり、ほどなく新橋付近で発見されたのは、上でメモしたとおり、である。



兵庫橋
橋の少し手前に「水難者慰霊碑」。現在は穏やかな水流ではあるが、「現役」の頃は日量30万トンの急流。一度落ちたら、深い壁面を這い上がる術もなく、水難が多発した。高井戸署の記録によれば、昭和28年に13件。34年に12件。昭和33年から5年間で、玉川上水でなくなった人は自殺者も含め90名に上った、と(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)兵庫橋は「上水記」記載の古き橋。名前の由来は大熊兵庫、から。小田原北条の家臣であったが、この地に土着した。

岩崎橋
松葉通りと交差するところに岩崎橋。明治39年の記録では「樋口橋」とある。橋の下流に烏山分水と北沢分水の取水口があったのが、名前の由来ではあろう。小作庄太郎が丸太橋を架けたのが橋としてのはじまりで、「庄ちゃん橋」と呼ばれていた、とも言われるが、いつの頃のことか定かではない。現在の岩崎橋となったのは1943年、この地に岩崎通信機が本社・工場を移してからのことである。


烏山分水
岩崎橋の南に柵で囲まれた庭園がある。昭和22年のGoo地図を見ると「岩通ガーデン」と呼ばれるこの庭園を南東に延びる水路らしきものが見える。これが烏山分水。岩崎橋の南にある烏山の高源院の湧水を源流点とする烏山川へ養水し、水量を確保し、地域の灌漑用水として利用した。

北沢分水
さらに、少し下流に分水口の遺構らしき樋口がある。これは北沢川の分水口。北沢川の源流点は京王線・上北沢駅南の松沢病院のあたりではあるが、この川も烏山川同様、水量確保のため、玉川上水より分水し、その養水とした。北沢川への養水のための分水口は三度、その分水口の場所を変えている。最初の分水口は17世紀の中頃、上北沢村あたりから分水した。二度目は18世紀の後半、上高井戸村、甲州街道中ノ橋交差点あたりから分水された。そして、岩崎橋下流の分水口は明治4年に設けられたものである。

浅間橋

先に進み浅間橋のところで上水は開渠が終わり、暗渠となる。「上水記」に記される古き橋。往昔、近くに富士浅間神社があった、からの命名だろうが、現在、近くに浅間神社は見あたらない。なお、往時の橋は、現在の暗渠口より東200mの、富士見ヶ丘小学校のあたりで、あったよう。
境橋から辿った本日の散歩も、暗渠化になるこの地で終了。次回は、大半が暗渠となっている玉川上水の流路跡を新宿の四谷大木戸まで下り、上水散歩の最終回としようと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿