綾瀬川も歩いた、古綾瀬川も辿った、草加宿も訪ねた。その他にどこか見所はと、地図を眺めていると、草加市の南西部、毛長川脇に毛長神社が目にとまった。いつだったか、足立区花畑の大鷲神社や毛長川に沿った伊興遺跡跡を彷徨い舎人へと向かったとき、毛長神社にまつわる伝説に出合った。美しき娘の入水自殺の伝説とその娘の髪を祀る神社に惹かれたのだが、如何せん時間がなく神社を訪れることができなかった。先回の散歩でも草加宿から伝右川を毛長川との合流点まで下ったのだが、毛長神社へと辿る気力は失せていた。
草加散歩の第三回は毛長川を訪れる。ルートは草加宿を離れ草加市域の南の谷塚辺りからはじめ、毛長川の北の瀬崎地区を彷徨う。その後、西へと折り返し辰井川を毛長川へと下り毛長神社へと進むことに。谷塚にしても、瀬崎にしても、如何にも「湿地」をイメージする地名である。もとより現在では湿地の痕跡など残るとも思えないのだが、往昔低湿地に覆われていたとされる草加の原風景の名残などないものかと、行き当たりばったりの散歩を楽しむことにした。
本日のルート;東武伊勢佐木線・谷塚駅>宝持院>大正実科学校跡>東武東上線と交差>浅間神社>善福寺>火あぶり地蔵>東武東上線と交差>辰井川>うさぎ田稲荷>山王社>大日堂>柳島氷川神社>辰井川>常福寺>細井家>毛長川と合流>毛長神社>泉蔵院>むじな大尽>いぼ地蔵>徳性寺>新里氷川神社>天王神社>西願寺>毛長川>見沼代用水親水公園>舎人諏訪神社>日暮里・舎人ライナー見沼代用水公園駅
東武伊勢佐木線・谷塚駅
」草加駅のひとつ手前の谷塚駅で下車。大正14年(1925)に開設。開設当時、付近は一面の湿地帯であったようであるが、昭和37年(1962)、地下鉄日比谷線の乗り入れが始まると、都心に30分という地の利故に開発が進み、現在駅周辺に「谷塚」の示す湿地の面影はなにも、ない。
谷塚の由来は、谷=湿地+塚、より。湿地に塚がある一帯、ということだろう。実際、毛長川に沿った谷塚から瀬崎にかけては往昔多くの古墳があったようで、江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』や絵地図の『日光道中分間絵図』には古墳とおぼしき塚が記される。「旧跡 加賀屋敷 村の南の方畑中にあり。何人の住せしと云ことを知らず、ここに古塚あり、先年此塚下より古刀勾玉及白骨など掘出せしと云(『新編武蔵風土記稿』;瀬崎村(現草加市瀬崎町))、「小名 弁慶塚 此所の田間にかく唱ふる小塚あり。故に是を土地の小名とす(大日本地誌大系『新編武蔵風土記稿』;遊馬村(現草加市遊馬町)」、「小名 富貴塚 此所に古塚あり、来由詳ならず、塚上に稲荷を祀れり(『新編武蔵風土記稿;上谷塚村(現草加市谷塚上町)』、などとある。
足立区竹の塚の伊興古墳遺跡と毛長川を隔てた北の一帯は谷塚古墳群と称されるが、江戸末期の頃までにはすでに塚は切り崩されていたようで、現在発掘調査で古墳の存在が確認されたのは瀬崎にある蜻蛉遺跡だけであり、古墳群とは言うものの、ほとんどその名残をとどめない、とのことである。
先回の散歩でもメモしたように、毛長川は、古墳時代の入間川の流路跡、と言う。そして古墳時代の入間川は利根川水系の主流で、熊谷>東松山>川越>大宮>浦和>川口>幡ヶ谷、と下り、現在の毛長川に沿って流れ足立区の千住あたりで東京湾に注いでいた、とのことである。葛飾・柴又散歩のときにも、東京下町低地の二大古墳群は柴又あたりと毛長川流域とメモしたが、千住あたりが当時の海岸線である、とすれば、この毛長川流域は東京湾から関東内陸部への「玄関口」。交通の要衝に有力者が現れ、結果古墳ができても、なんら違和感は、ない。
宝持院
駅を下りてどこか散歩の手掛かりを探す。地図を見ると、西口を少し南西に200mほど下ったところに宝持院というお寺さまがある。文久4年(1864)に建てられた山門を、頭上の彫刻を見やりながら境内に入ると六地蔵。その先、参道の左右にお堂。右手が閻魔堂。左手が護摩(不動)堂。本堂にお詣り。真言宗のこのお寺様の創建葉不詳だが、江戸初期に建てられた、とのこと。手水舎の横に「谷塚小学校発祥の地」の案内。明治6年(1873)、谷塚小学校の前身である「下谷塚学校」が開校した。
大正実科学校跡
宝持院の前、現在は東武ストアの駐車場となっている辺りに、その昔、大正実科学校があった、とか。創立者は関藤十郎。各地で教鞭を執るも、大正6年(1917)、故郷である谷塚に戻り、村人の実務能力を養成する学校を設立した。修業年限は中学部・女学部が3年、専修化1年であった。
思うに、この大正実科学校は農家経営教育をおこなったのではなかろうか。どこかの学校での関藤十郎の祝辞に、「小生は貴校を辞して岐阜県の女子教育に従事し、在職満十年を同一学校に送り、郷里の事情と自己の素願とにより、断然退隠、大正四年故山に帰臥し、自家経営の傍ら私学を創設し」とある。また、あの「有名」なりし思想家・陽明学者である安岡正篤の日本農士学校の見学先に「北足立郡谷塚村 関藤十郎氏農家経営」、「大正護国農場設立稟吉 昭和2年 大正護国農場長 埼玉県北足立郡谷塚村大字下谷塚 正七位 関藤十郎」などとある。関藤十郎は自ら農場を経営しながら、農業経営のための学校を開いたのではなかろう、か。
この大正実科学校は昭和2年(1927)、財団法人松寿実業学校に併合される。この松寿実業学校とは大正7年(1918)、現在の谷塚上町に開校した私立中等学校である。辰井川が毛長川に合流する手前、氷川橋の辺りに跡地がある、と言う。
創立者は細井為五郎。私塾を開いていた細井は、大正6年(1917)に開校した男女別学の大正実科学校に刺激を受けたのか、切敷善吉氏とともに男子中等教育機関である松寿学館を設立。修業年数は普通科にあたる正科が3年、夜間科にあたる別科が8か月であり、定員は各50人であった。その後、公立の実業補習学校などの開設に影響を受け入学者が減少し、昭和2年(1927)には財団法人松寿実業学校と改称して大正実科学校を併合し、昭和6年(1931)年の廃止まで、近隣の中等教育を担った、と。
瀬崎
大正実科学校跡から、次はどちらへと考える。西へ進み草加バイパスを越えればすぐに辰井川につくのだが、本日はかつて湿地帯であった草加南部を辿るのも目的のひとつ。谷塚駅の東の「瀬崎」という、如何にも「水」のイメージの強い地区へと折り返すことに。因みに瀬崎の由来は、「瀬」は「流れ」、「崎」は「突き出た地形」。微高地が低湿地帯に西から東へと鏃のように突き出ていたから、とか。実際、瀬崎の境界を見るに、現在もその形状を残す。
富士浅間神社
浅間神社とは富士山を霊山として祀る山岳信仰の社。江戸時代、冨士講が盛んになった頃、此の地の布晒業者と地元の農民の協力で建てられた、とか。富士講とは霊峰富士への信仰のための講社。 講(こう)とは、同一の信仰を持つ人々による相互扶助組織、といったもの。御師のガイドで富士への参拝の旅にでかける。境内にはいくつかの社が祀られるが、それは明治の末に、周辺の九つの社を合祀したもの。
上で、この社は布晒業者の協力によって建てられたとメモした。この草加は「ゆかた」で知られる。県の伝統的手工芸品にも指定され、「東京本染ゆかた」のブランド名でも販売されている。草加のゆかたは江戸時代中期、大火で焼け出されてこの地に移り住んだ染色業者が草加近郊で紺屋を営み始めたときに遡る。江戸に近く、舟運に恵まれかつ豊富な水が手に入るこの地に、ゆかた生産に関わる晒業、形付業、白張業、運送業者が集まり栄えた、とのことである。
手洗石の高低測几号
鳥居の右手の境内に手水舎。慶応元年(1865)の銘の入った手水舎の石には、高低測几号(水準点)が刻まれる。案内によれば、「内務省地理寮が明治9年(1876)8月から一年間、イギリスから招聘した測量技師の指導のもと、東京塩釜間の水準測量を実施したとき、一の鳥居際(現在、瀬崎町の東日本銀行草加支店近く)の境内末社、下浅間神社の脇に置かれていた手洗石に、この記号が刻まれました。
当時、測量の水準点を新たに設置することはせず、主に既存の石造物を利用していました。市域でも二箇所が確認されています。この水準点が刻まれた時の標高は、三・九五三メートルです。測量の基準となったのは霊巌島(現在の東京都中央区新川)で、そこの平均潮位を零メートルとしました。
その後、明治17年(1884)に、測量部門はドイツ仕込みの陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われることはありませんでした。
以後、手洗石も明治40年代(1907~1912)と昭和7年(1932)に移動し、記号にも剥落が見られますが、この几号は、測量史上の貴重な資料であるといえます(草加市教育委員会)」とあった。そういえば、先回散歩した草加宿の北端にあった神明社にも同様の高低測几号があった。
富士塚
本殿裏手に広場があるが、ここはもと「ひょうたん池」があったところを埋め立てた跡。今となっては低湿地の面影はなにも、ない。広場の先に浅間神社ならではの富士塚がある。
散歩の折々で富士塚に出会う。葛飾(南水元)の富士神社にある「飯塚の富士塚」や、埼玉・川口にある木曾呂の富士塚など、結構規模が大きかった。富士講は江戸時代に急に拡大した。「江戸は広くて八百八町 江戸は多くて八百八講」とか、「江戸にゃ 旗本八万騎 江戸にゃ 講中八万人」といった言葉もあるようだ。
富士塚は富士に似せた塚をつくり、富士に見なしてお参りをする。富士信仰のはじまりは江戸の初期、長谷川角行による。その60年後、享保年間(17世紀全般)になって富士講は、角行の後継者ふたりによって発展する。ひとりは直系・村上光清。組織を強化し浅間神社新築などをおこなう。もうひとりは直系・旺心(がんしん)の弟子である食行身禄。食行身禄は村上光清と異なり孤高の修行を続け、富士に入定(即身成仏)。この入定が契機となり富士講が飛躍的に発展することになる。
食行身禄の入定の3年後、弟子の高田藤四郎は江戸に「身禄同行」という講社をつくる。これが富士講のはじめ。安永8年(1779)には富士塚を発願し高田富士(新宿区西早稲田の水稲荷神社境内)を完成。これが身禄富士塚のはじまり、と伝わる。その後も講は拡大し、文化・文政の頃には「江戸八百八講」と呼ばれるほどの繁栄を迎える。食行身禄の話は『富士に死す:新田次郎著』に詳しい。
善福寺
富士浅間神社から谷塚駅からの道筋を挟んだ北側に善福寺。創建年代は不詳。明治の神仏分離令により神と仏が分離されるまでは、この真言宗のお寺さまは富士浅間神社の別当寺であった。『新編武蔵風土記』には「本尊弥陀は運慶の作、長一尺八寸許り」とある。
現在はお寺と神社は別物である。が、明治の神仏分離令までは寺と神社は一体であった、神仏混淆とも神仏習合とも言われる。それは大いに仏教界の勢力拡大のマーケティング戦略、か。膨大な教義をもつが外来のものであり今ひとつ民衆へのリーチに乏しい仏教界。日本古来の宗教であり古くから民衆に溶け込んでいるが教義をもたない神道。共同でのブランドマーケティングを行えば、どちらも繁栄する、とでも言ったのではないだろう、か。
で、その接点にあるのが権現さま、であろう。権現って、「仮」の姿で現れる、ということ。神仏混淆の思想のひとつに本地垂迹説というものがあるが、日本の八百万の神は、仏が仮の姿で現れた権現さまである、とする。因みに、「神社」って名称も、明治以降のもの。それ以前は、社とか祠、などと呼ばれていた。
火あぶり地蔵
旧日光街道を北に進み瀬崎町と吉町との境・吉町5丁目交差点脇に、「火あぶり地蔵」と呼ばれる地蔵堂がある。案内によれば、「昔、瀬崎の大尽の家に千住の孝行娘が奉公していた。母親の大病を聞いて帰宅を願い出たが許されず、悩んだ娘は奉公先が火事になれば暇がもらえると思って火をつけ、捕まって火あぶりの刑に処せられた。村人は娘を供養するため地蔵堂を建立した。『武蔵国郡村誌』によれば、明治初期には敷地面積が36坪程度あったという。お堂は瓦葺き・宝形造りの形式で、1956(昭和31)年に県道松戸草加線の拡張により改築された。堂内には2体の石造地蔵立像があり、1体には1776(安永5)年の年銘がある。毎月24日の縁日には堂が開帳され、参拝者がお参りにくる。かつては近くの河内堀に火あぶり橋という橋もあった」とある。また、この地は昔の処刑場跡とも伝えられる。
先回の散歩でもメモしたが、この地、吉原の地名は昔の地名である吉笹原の「吉」から採ってつくられた。吉笹原は江戸時代初期は吉篠原村と呼ばれ、その後、吉笹原村と改められた。1もともと芦や笹の繁る「芦篠原」と呼ばれていたが、「芦」という読みは「あし(悪)」につながるということで、「芦」をめでたい「よし(吉)」に変えたもの、とか。
河内掘
吉町5丁目交差点の西に用水路が開く。これが河内掘であろう。あれこれチェックするも、正確なことはわからないが、吉町5丁目交差点を東西に走る道路(交差点から東は県道5号、西は東武伊勢佐木線から西は県道104号とある)に沿って、西は新里町の毛長川から、東は八潮市の柳之宮橋辺りの綾瀬川まで続いているようである。 辰井川用水路は東武伊勢佐木線の手前で暗渠となる。県道104号・川口草加線に沿って西に進み国道4号・草加バイパスを越えると辰井川にあたる。川に架かる辰井橋の東西には排水口が見えるが、それは辰井川で分断された河内掘ではあろう、か。
兎田稲荷神社
辰井橋で、次はどちらへ、と考える。このまま辰井川を下るのも少々芸がない。地図をチェックすると、北東に500mほどのところに兎田稲荷神社がある。名前に惹かれて訪れることに。
で、気になっていた「兎田」の名前の由来であるが、周辺に野兎が居たとの説と、此の地が旧谷塚村の飛び地であったため、との説があるようだ。飛び地>兎が跳ねる、ということ、か。少々想像力過多とも思うが、よくわからない。
柳島治水緑地
山王社
柳島治水緑地を離れ、次はどこへと考える。『埼玉ふるさと散歩 草加市;中島清治(さきたま出版会)』に県道103号沿いに三王社がある、とあった。川筋から少し東に離れ県道103号を少し北に進み、草加スカイハイツと呼ばれるマンション(草加市柳島町525-1)手前の角にささやかな山王社の祠があった。雨屋の中には明暦2年(1656)の庚申塔と寛文4年(1664)の供養塔が安置されている、とか。
大日堂
県道103号(吉場・安行・東京線)を南に下り中柳島バス停脇に享保18年(1733)の青面金剛、天保12年(1841)の出羽三山権現など3基の石塔。その奥に享保6年(1721)の六体の地蔵と文政10年(1827)の馬頭観音が並ぶ大日堂があった。大日堂とは言うものの、雨露をしのぐ屋根があるだけではある。
柳島氷川神社
■辰井川を下る
氷川神社・天満宮
氷川橋の西詰めにささやかな社。氷川神社・天満宮とあった。
常福寺
氷川神社の南にお寺様。創立は天正7年(1575)と伝わる。入口右手に青面金剛、参道の突き当たりに六地蔵。境内にはそのほか地蔵堂や鐘楼堂が並ぶ。市内唯一の曹洞宗のお寺さまである。
細井家の屋敷林
常福寺の南に鬱蒼とした緑。細井家の屋敷林とのころ。屋敷林を成り行きで辰井川筋に戻る。川沿に耕地が残るが、このあたりはかつて私立松寿実業学校があったところ。
大正実科学校のところでメモを繰り返す;松寿実業学校は大正7年(1918)、現在の谷塚上町に開校した私立中等学校。創立者は細井為五郎。私塾を開いていた細井は、大正6年(1917)に開校した男女別学の大正実科学校に刺激を受けたのか、切敷善吉氏とともに男子中等教育機関である松寿学館を設立。修業年数は普通科にあたる正科が3年、夜間科にあたる別科が8か月であり、定員は各50人であった。
その後、公立の実業補習学校などの開設に影響を受け入学者が減少し、昭和2年(1927)には財団法人松寿実業学校と改称して大正実科学校を併合し、昭和6年(1931)年の廃止まで、近隣の中等教育を担った。
辰井川排水機場
草加にはこの辰井川排水機場(平成13年;2001年完成との記録がどこかにあった、よう)だけでなく、伝右川の神明排水機場(昭和58年;1983年完成)、古綾瀬川の古綾瀬排水機場(平成17年;2005年完成)、綾瀬川放水路(平成8年;1996年完成)の南北水門と八潮排水機場(八潮市)などの治水対策施設があるが、きっかけは昭和54年(1979)の台風20号による浸水被害。その被害をもとに、「激特事業=河川激甚災害対策特別緊急事業」が施行され平成7年(1995)まで河川の大規模改修工事がなされた、とか。
毛長川
あれこれと草加の南部を彷徨い、やっと毛長川に。毛長川は埼玉県川口市東部(安行慈林辺り)に源流点をもち、市内を南へ下り、草加市と足立区の境を東流し、大鷲神社近くの花畑で綾瀬川に合流する。
毛長川を訪れたのはこれで何度目だろう。はじめは、花畑の大鷲神社を訪れたとき。綾瀬川・伝右川・毛長川の合流点から毛長川を西に進んだ。その時は毛長川南岸にある伊興古墳遺跡、そして毛長川の一筋南を下る見沼代用水の親水公園に惹かれ、途中から毛長川を離れてしまい、毛長川の名前のと由来ともなった毛長=長い髪にまつわる伝説の残る毛長神社を訪れることができなかった。また、先日も伝右川を下り、綾瀬川・毛長川との合流点から大鷲神社まで下ったのだが、このときも毛長神社を訪れる気力・体力は失せていた。今回の散歩の目的のひとつは毛長神社を訪れること。毛長川の北岸を進み新里地区の毛長神社へと向かう。
この毛長川は、古墳時代の入間川の流路跡、そして古墳時代の入間川は利根川水系の主流で、熊谷>東松山>川越>大宮>浦和>川口>幡ヶ谷、と下り、現在の毛長川に沿って流れ足立区の千住あたりで東京湾に注いでいた、と上でメモした。千住あたりが当時の海岸線などとは、埋め立てが進んだ現在の東京下町区域の拡がりからすれば想像もつかないつかないたが、古墳時代には東京湾から関東内陸部への「玄関口」であったこの毛長川、古代の交通の要衝の地に有力者が現れ、伊興古墳遺跡や谷塚古墳遺跡などを残したであろうことを想い先に進む。
毛長神社
谷塚地区から両新田東町(昔の市左右衛門新田)を経て新里地区に入る。『地誌材料稿』によれば、新里の地名の由来は「俚伝云、本村ハ古時入海ノ地ニシテ泥沼多ク村落ナシ、常ニ水溢ノ患アリシカ何年頃ニカ此ノ地ヲ開墾シテ一ノ村落ヲ為ス。故ニ新タニ里ヲ開クヲ以テ新里村ト名ヅケシト云ウ」とある。毛長川の堤を離れ、宅地の中を成り行き進むと毛長神社があった。創建年度は不詳ではあるが、享保年間辺りとされる。御影造りの鳥居は元水戸家の屋敷内にあったもの。出入りの商人が譲り受け、隅田川・綾瀬側・毛長川を遡り境内地に建立された、とのことである。
で、この毛長神社に伝わる伝説であるが、毛長川を隔て、埼玉の新里すむ長者に美しい娘がいた。葛飾・舎人の長者の息子と祝言をあげるも婿殿の実家と折り合い悪く実家に戻ることに。その途中沼に身を投げる。その後、長雨が続くと沼が荒れる。数年後沼から長い髪の毛を見つける。娘のものではないかと、長者に届ける。長者感激。ご神体としておまつり。それ以降沼が荒れることがなくなる。その神社が現在新里にある毛長神社。沼を毛長沼と。
この話には例によって、いく通りものバリエーションがある。祝言の前に新里で疫病がはやり、破談となりそれを悲しみ身を投げたとか、娘は須佐之男命の妹と言ったものである。須佐之男命の妹は武蔵一宮が氷川神社、つまりは出雲の簸川の神からもわかるように、出雲文化圏であったが故のストーリーではあろう。
また江戸時代の地誌である『新編武蔵風土記稿』には、「毛長明神社 祭神詳ナラズ。稲荷雷神ヲ合祀ス。此社毛長沼ノ辺リニアリ。沼ヲ隔テテ舎人町ニ祀レル諏訪社ヲ男神ト称シ、当社ヲ女神ト称セリ。古ハ髪毛ヲ箱ニ納メテ神体トセシガ、何ノ頃ニヤカカル不浄ノ物ヲ神体トスルハアルマジキコトナリトテ、毛長沼ニ流シ捨シト云伝フ。神号モ是ヨリ起リシニヤ。又毛長沼ノ辺ニ鎮座アルニヨルカ」とある。手長沼を隔てた舎人の諏訪神社の男神に対し、この社は諏訪神社の女神であり、その女神は出雲の簸川に住まいする翁嫗の夫婦神の手名椎(男神は足名椎。八人の娘を八俣大蛇に奪われた夫婦神である)とする。手名椎>手長、ということであろう、か。
さまざまな説の是非などもとより門外漢にはわからないが、沼や川、そして湖を隔てた男女の神、男女の悲恋の話は散歩の折々に出合う。荒川区の「あらかわ遊園」の西隣の船方神社には、この地域の荘園主 豊島清元(清光)が、熊野権現に祈願してひとりの娘を授かる。その娘、足立少輔に嫁ぐことに。が、 心ない仕打ちを受け、荒川に身を投げる。姫に仕えていた十二人の侍女たちも 姫に殉じる、といった伝説があった。
この話は足立区側では敵役が足立氏ではなく豊島氏になっていたように思うが、それはともあれ、このような悲しみのあまり入水自殺を、といったお話のベースとなるのは市川の真間で出合った手児奈(てこな)姫の伝説ではないだろうか。『万葉集』にも詠われる絶世の美女・手児奈。ために幾多の男性から求婚される。が、誰かひとりを選べば、その他の人を苦しめることになると思い悩み、入水自殺したとされる。先日、流山の江戸川台辺りを散歩したとき、香取神社の中に手児奈塔があった。万葉の頃から都にまで知られる手児奈の話は当然武蔵の各地に伝わっていたのだろうし、そのバリエーションとして毛長の伝説ができたのかもしれない。単なる妄想。根拠なし。
泉蔵院
毛長神社を離れ、成り行きで泉蔵院に向かう。鎌倉時代後期に草創されたと伝わるこのお寺さまは江戸時代に中興され、草加で最も古い歴史をもつ、とか。明治20年(1887年)に編集された「地誌材料稿」には、「毛長沼の辺りに昔からの万石長者が住んでいたが、ある時、天、突然として黒雲を起こし天地鳴動して長者の家宅・家族 全て悉く巻き上げられ、毛長沼に埋没してしまった。後に残ったものは御幣1箇、阿弥陀如来1尊であった。村民はこれを見て昨日まで万石長者といわれしも、一朝の天災のために、かくも無惨な状態に至れりと痛く嘆き、長者の酒造蔵跡に一字を創り残されたものを安置し、御幣山阿弥陀寺泉蔵院と名付け、長者の菩提を祈った」と、草創の縁起を説く。また、同じく「地誌材料稿」には毛長神社の縁起として「長者が天災害を受けた後、毛長沼の岸辺に毛髪数尺なるものが漂い、村民がいかに流そうとしても流れないので、これは長者の娘の毛髪に違いないとして稲荷社に合祀し神社とした」とある。泉蔵院が毛長神社の別当寺とのエビデンス強化のストーリーであろう、か。
新里むじな公園
家人が盗賊にあった時にかわいがっていたムジナがご主人様を助けたという「むじなの恩返し」伝説も残されている。戸締まり厳重にしたにもかかわらず、盗賊に襲われ屋敷外に逃れようにも厳重な戸締まり故に逃げ道無し。と、あら思議や、門が開きご主人さまが逃れ得た。盗賊はらんらんと光りご主人様を護る目に立ちすくんだ、とか。
いぼ地蔵
徳性寺
新里氷川神社
遊馬
氷川神社を越えると新里地区を離れ、遊馬地区に入る。遊馬(あすま)の地名の由来は、奈良時代(710~784)舎人親王がこの地に別館を持ち、時々飼い馬を放畜した、との説がある。また、中世期にこの地の開発領主となった横山党の矢古宇氏の牧場があったためという説もある。
遊馬東交差点
西願寺
交差点の少し北東の西願寺に。入口参道の松並木を通り元和元年(1615)創立のお寺さまにお詣り。この西願寺は芝増上寺の流れ。それもあってか、あの二代将軍・徳川秀忠が、舎人村、遊馬村にお鷹狩に来ていた」とか。『舎人西門寺書上』に『遊馬村に鷹狩に参る』と記されていいる、と言う。遊馬の由来で、「奈良時代(710~784)舎人親王がこの地に別館を持ち、時々飼い馬を放畜した」、とメモしたが、放牧は江戸の頃も行われたようで、『新編武蔵風土記稿』には「徳川家康・駅伝馬の制を定めた1601年頃より放牧され、約70年続く」との記載がある。
見沼代親水公園
いつだったか大宮台地の下に広がる見沼田圃を歩いたことがある。そのときはじめて見沼代用水に出合った。沼と田圃、そして用水、しかも代用水とある。この遠いような近いような単語の集まりに少々混乱し、我流で筋が通るように整理した。その時のメモ;「見沼と見沼田圃。沼と田圃?相反するものである。これって、どういうこと。それと見沼代用水。代用水って何だ?沼や田圃との関係は?
見沼というのは文字通り、沼である。昔、大宮台地の下には湿地が広がっていた。芝川の流れが水源であろう。その低湿地の下流に堤を築き、灌漑用の池というか沼にした。関東郡代・伊奈氏の事績である。堤は八丁堤という。武蔵野線・東浦和駅あたりから西に八丁というから870m程度の堤を築いた。周囲は市街地なのか、畑地なのか、堤はどの程度の規模なのだろう、など気になる。その堤によって堰き止められた灌漑用の池・沼、溜井は広大なもので、南北14キロ、周囲42キロ、面積は12平方キロ。山中湖が6平方キロだから、その倍ほどもあった、と。
見沼田圃とは水田である。見沼の水を抜き水田としたものである。伊奈氏がつくった「見沼」ではあるが、水量が十分でなく灌漑用水としては、いまひとつ使い勝手がよくなかった。また、雨期に水があふれるなどの問題もあった。そんな折、米将軍と呼ばれる吉宗の登場。新田開発に燃える吉宗はおのれが故郷・紀州から治水スペシャリスト・伊沢弥惣兵衛為永を呼び寄せる。
為永は見沼の水を抜き、用水路をつくり、沼を水田とした。方法論は古河・狭島散歩のときに出合った飯沼の干拓と同じ。まずは中央に水抜きの水路をつくる。これはもともとここを流れていた芝川の流路を復活させることにより実現。つぎに上流からの流路を沼地の左右に分け、灌漑用水路とする。この水路を見沼代用水という。見沼の「代わり」の灌漑用水、ということだ。
見沼代用水は上流、行田市・利根大橋で利根川から取水し、この地まで導水する。で、左右に分けた水路のことを、見沼代用水西縁であり、見沼代用水東縁、という。上尾市瓦葺あたりで東西に分岐する」、と。この地に下った見沼代用水は地図を辿るに、見沼代用水東縁の流路のように思える。
諏訪神社
見沼代親水公園を先に進むと親水公園脇に諏訪神社。ささやかな祠と尺の少々アンバランスアンバランスに低い鳥居があった。案内によれば、 「舎人諏訪神社本殿は、一間社、流造千鳥破風付、向拝正面に軒唐破風が着く社殿形式である。屋根は総柿葺で、現在は覆舎によって囲われている石組基壇上に建立されている。身舎の大壁、小脇壁、脇障子、柱上組組物、縁腰組の間が彫刻で飾られ、竜の彫刻は見事である。牡丹の彫刻を施した手挟、向拝柱の獅子鼻、象鼻など、江戸時代末期の神社建築の特徴が如実に現れている。 身舎内部に、天保7年(1836)の建立である棟札がある。江戸時代末期の神社建築の手法を知る遺稿として注目される」、とある。
日暮里・舎人ライナーの見沼代親水公園駅
これで本日の散歩を終える。日暮里・舎人ライナーの見沼代親水公園駅から一路家路へと。
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