火曜日, 4月 09, 2013

玉川上水散歩そのⅥ;浅間橋跡より和泉水圧調整所まで

今回の散歩は浅間橋跡より和泉の和泉水圧調整所まで。羽村の取水堰よりおおむね開渠として流れていた玉川上水は、これより下流は終点の四谷大戸まで、一部を除いて暗渠となる。浅間橋跡から和泉水圧調整所までの、導水管が敷設された上水路跡の暗渠は、高速道路や緑道・公園となっている。今となっては少々味気ない高速道路脇の上水路跡も、郷土館などで手に入れた明治・大正・昭和の上水や橋の写真を参考に、往昔の玉川上水の面影を想い描きながら進むと、それなりに昔の風景が「見えて」くる。
高速道路脇の上水路跡を離れ、高井戸近辺の緑道・公園は、ほとんど我が地元。メモをしながら、地元のあれこれが見えてくる。宮本常一さんの「歩く・見る・聞く」ではないけれど、「歩く・見る・書く」といった、お散歩のポリシーを改めて想い起こすことになった。
なお、今回と次回の散歩メモのうち、橋の記録は『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』の中になる「橋の移り変わり」を参考にした。『上水記』とは寛政3年(1791)に幕府の普請奉行が編纂した高川上水に架かる橋の記録としては最も古い資料である。橋の記録で明治3年(1870)とあるのは、玉川上水通船計画時に作成された『玉川上水掘筋渡橋取り調』記載のデータである。また、明治39年(1906)の記録とは、東京市水道局まとめた『玉川上水路実測平面図』による。

本日のルート;浅間橋>天神橋>中の橋>庚申橋>八幡橋>加藤橋>玉橋>玉川第三公園>下高井戸橋>明大橋>井の頭線>九右衛門橋>井の頭通り>和泉水圧調整所>和田堀給水所

浅間橋跡
羽村の取水堰より開渠が続いた玉川上水も、ここ浅間橋跡より下流は一部を除いて暗渠となる。浅間橋は『新編武蔵風土記稿』にある浅間神社から。浅間神社は現在、高井戸天神社の境内末社となっている。浅間橋から先の暗渠は、昭和41年(1966)に工事がはじまり、浅間橋から和田堀水衛所(和泉水圧調整所)まで4.9キロ、地下に2条の配水管が敷設された。その理由はふたつ、とも。そのひとつは浅間橋まで開渠できた上水路余水の排水路確保。そしてもうひとつは、東京の水不足を補うための利根川水系の水の供給ラインの確立ではなかろう、か。

明治31年(18989)、淀橋浄水場が新宿に建設されるにともない、従来の玉川上水の水路(旧水路)とは別に、和泉水圧調整所(旧和田堀水衛所)から新宿の淀橋浄水場に向かって一直線に進む新水路が開かれた。現在の都道431号角筈和泉線、通称、水道道路と呼ばれる道がその水路跡である。
昭和40年(1965)、淀橋浄水場を廃止し、その機能を東村山浄水場に統合・移転することになる。この施策にともない、羽村で取水された多摩川の水は小平監視所より、東村山浄水場に送られることになり、小平監視所より下流には玉川上水の水は一部維持水を除いて流れることがなくなった。配水管の一条は、この余水対策ではなかろう、か。これがひとつの理由。なお、昭和61年(1986)には、東京都の「玉川・千川上水清流復活事業」がはじまり、小平監視所下流、浅間橋跡までの18キロ、都多摩川上流処理場の処理水を日量23,200トン流している。それにともない、境浄水場からの維持用水は廃止されたが、浅間橋まで下った「復活清流」は浅間橋からの配水管を通り、現在、神田川の佃橋(環七交差)右岸下から排水されている、とのことである。また、清流事業復活に際し、事前に水を流したところ、水は四谷大木戸まで流れたとのこと。逆に言えば、清流復活事業によって、小平監視所から下流に流した水を、浅間橋からの暗渠内を堰止め神田川に流すことにより、江戸の頃より羽村から江戸の四谷大木戸まで続いていた玉川上水がはじめて「分断」された、ということだろう、か。
もうひとつは、東京の水不足への対策。昭和33年(1958)には玉川水系の渇水が激しく、城南地区15万世帯が、また、昭和39年(1964)には玉川水系に大渇水が起き、都心部60万世帯が水不足に見舞われている。ために、東村山浄水場には多摩川水系だけでなく、武蔵水路の開削や、原水連絡管をとおして利根川水系と結ばれることになり、東村山浄水場から利根川水系の水を和田堀給水所(世田谷)を経由し、都内に給水されることになった。経路は東村山浄水場から上井草給水場(上井草3-22)を経由し、道路下の埋設鋼管を南下し浅間橋付近で玉川上水路敷に下り、埋設された、あと一条の送水管を通し和泉水圧調整所(旧和田堀水衛所)に送られることになる。

首都高速4号新宿線
浅間橋から遊歩道を進むと首都高速4号新宿線にあたる。昭和39年(1964年)に開催予定の東京オリンピックに備え、首都高速の建設が進められる。中央高速は昭和37年(1962年)に着工。全線開通が昭和57年(1982年。20年の歳月をかけて完成した。このあたりの高井戸から永福までの2.5キロは昭和48年(1973)に完成。昭和38年のGoo地図には、現在の高速道路の道筋に、緑に囲われた水路らしき連なりが見て取れる。この水路も、上でメモしたように、暗渠となってしまう。また、web site 「毎日昭和」にあるphoto bankには、昭和49年(1974年)、サンデー毎日に掲載された「玉川上水(東京都) 玉川上水と緑地を分断して建設中の中央自動車道(高井戸インター付近)」の写真があった。かくして、上水は暗渠と化していった。

浴風会
高速道路に沿って進むと、北側に浴風会の施設。ぱっと見には、高級ケアハウスかと思ったのだが、はじまりは大正12年(1923)の関東大震災に罹災した老廃疾者や扶養者を失った人々の救護のため、御下賜金や一般義援金をもとに設立。現在は社会福祉法人浴風会として老人保健・福祉・医療の総合福祉施設となっている、と。建物は平成に成って建て直したものが多いが、本館は安田講堂の設計を手がけた内田祥三の手になるもの。都の歴世的建造物の指定を受けたこの建物は、その趣き故、テレビや映画の舞台として数多く使用されている。とか。

天神橋
先に進むと『上水記』の第六天橋跡。北にある第六天神社が名前の由来である。第六天神社とは、第六天の魔王を祭る社。第六天魔王と言えば、信長の信仰篤き社。こまかいことはさておき、その魔王のもつ破壊的部分が気に入り、常識や既存の価値観を破壊する己の姿をもって、第六天魔王と称した、と。中部・関東に多く、西日本にほとんどみかけないのは、その強力な法力を怖れた秀吉が廃社に追い込んだ、とか。それはともあれ、神仏混淆の続く江戸の頃までは第六天神社においては、仏教の「第六天魔王」が祭られていた。それが、明治の廃仏毀釈の際、仏教色の強い第六の天魔を避け、祭神を神道系の神々に書き換えたり、第六+天神、を分解し、本来関係のない、天神様を前面に出したりもした。橋名が天神橋となっているのは、その故であろう、か。前述『杉並の川と橋』に天神橋の写真がある。鬱蒼とした第六天、対岸の雑木林、豊かな上水に架かる木橋とおぼしき天神橋。穏やかな風景が美しい。

環八・中の橋

環八の「中の橋交差点」に進む。江戸の頃には「佃橋」が架かっていた、と『上水記』に記載されている。現在、中の橋と呼ばれるのは、高井戸村字中久保にあったため、明治39年(1906)の記録では「中之橋」となっている。

環八
現在交通の大動脈となっている環八であるが、この幹線道路は昭和2年(1927)の構想から全面開通まで、80年近くかかっている。戦前も、戦後も昭和40年(1965)代までは、それほど交通需要がなく、計画は遅々として進むことはなかった、。が、その状況が一変したのは、昭和40年(1965)の第三京浜の開通、昭和43年(1968)の東明高速開通、昭和46年(1971)の東京川越3道路(後の関越自動車道路)昭和51年(1976)の中央自動車道の開通などの東京から放射状に地方に向かう幹線道路の開始。が、幹線道路は完成したものの、その始点を結ぶ環状道路がなく、その始点を結ぶ環八の建設が急がれた。しかしながら、地価の高騰や過密化した宅地化のため用地取得が捗らず、全開通まで構想から80年、戦後の正式決定からも60年近くという、長期の期間を必要とした。最後まで残った、練馬区の井荻トンネルから目白通り、練馬の川越街道から板橋の環八高速下交差点までの区間が開通したのは平成18年(2006)5月28日、とか(「ウィキペディア」より)

高井戸堤碑

交差点から100mほど下ったところ、現在の上水保育園あたりに「高井戸堤碑」があった。昭和33年(1958)、地元の地元高井戸の福祉団体が未だ開渠であった高井戸堤に50本の桜の苗木を植えたときの記念碑である。終戦直後まで桜の名所であった、とか。上水保育園の正面に、と探したのだが、現在は工事忠なのか、構内に転がっていた(平成23年9月)。

庚申橋
上水保育園から少し東に進んだところに首都高速4号の走る都道14号を跨ぐ陸橋がある。陸橋には「こうしんばしりっきょう」とあった。明治39年(1906)の記録に残る庚申橋の跡であろう。橋の近くに延宝2年(1674))建立の庚申塔があったのが、その名の由来。江戸の『上水記』には「堂之下橋」とある。地名の字名にも、堂之上、堂之下がある。明治3年の記録には、「堂下橋」とある。が、現在、近くに庚申さまも、お堂も見あたらない。
『杉並の川と橋;杉並区郷土資料館』に庚申橋の写真が掲載されていた。昭和35年(1960)頃の写真には、開渠に架かる小橋と、土手近くまで達する豊かな上水の流れが見て取れる。この流れも数年後の昭和41年(1966)には暗渠となるわけである。

下高井戸分水
「こうしんばし陸橋」を超え、先に進むともうひとつ陸橋がある。この陸橋の少し下流から下高井戸分水が分かれていた、よう。分水は、北に流れ、永福通りそばにある都立中央ろう学校の西端あたりで神田川に注いでいた、とのこと。

高速4号と分岐・玉川第二公園
高速4号に沿って先に進むと、上北沢駅入口交差点で甲州街道と合流する。上水跡はその地で甲州街道・高速4号と分かれ、甲州街道の一筋北を緑道となって東進する。緑道はこの先の玉橋までが「玉川第二公園」として整備されている。
その起点、造成された植え込みの中に「玉川上水の変遷」碑。その碑文の中に「昭和41年、水不足の東京へ利根川から水を引く送水管を埋設するため、区内ではその姿を消しました」、とある。この説明がきっかけとなり、何故に、この地に利根川の水が、とチェックした結果が、上の浅間橋のメモで、浅間橋から和泉水圧調整所(旧和田堀水衛所)までの暗渠化・地下導水管埋設の理由に、東京の水不足のバックアップのため、利根川水系の水を東村山浄水場・上井草給水所経由で和泉給水所へ送られた、とした、とのメモである。この記念碑には記されていなが、あと一条、旧玉川上水の余水対策の配水管も埋設されている、のではなかろう、か。
ところで、この地、上北沢って、小田急線の下北沢とちょっと離れすぎている。その理由は如何なるものかとチェック;京王線上北沢駅の南西に松沢病院がある。北沢川を辿ったことがあるが、このあたりが北沢川の源流点。北沢川は、この地を源流点に日大桜ヶ丘高脇を南東に下り、小田急線手前で東進し、小田急線豪徳寺、梅ヶ丘駅に進み、梅ヶ丘で小田急線を越え、下北沢の南を東進し、三宿の先で烏山川と合流し、池尻大橋で目黒川となる。
この北沢川の流域は世田谷の北側にある沢ということで、江戸の頃は北沢と呼ばれ、上北沢村と下北沢村に分かれていた。上北沢村は明治22年(1889)、松原村、赤堤村と合わさり松沢村上北沢となり、その後、桜浄水地域を分け、現在に至る。一方、下北沢村は明治22年、世田谷区下北沢となり、昭和7年(1932)、世田谷区ができたときには北沢となった。現在でも駅名には下北沢が残るが、下北沢という地名は、ない。
それはともあれ、結論としては、元々は上北沢村と下北沢村であった地域に、後から松原とか赤堤といった地名が入ってきたので、下北沢(実際に地名はない)と上北沢が離れたように見える、ということであろう。

鎌倉街道・旭橋

玉川第二公園を先に進むと、ほどなく車道に当たる。甲州街道・鎌倉街道入口より浜田山方面へと進む古の鎌倉街道の道筋であろう。『武蔵名所図合会』には「上高井戸の界にあり。古えの鎌倉街道にて(中略)いまは農夫、樵者の往来道となりて、野径の如し」とある。往昔、鎌倉・室町の頃は東国御家人が鎌倉へと往来したのであろうが、江戸の頃には廃れ、「野径の如し」といった状態となっていたようである。街道に架かる橋は旭橋。その由来は不明。




八幡橋・昭和橋・加藤橋
玉川第二公園を進む。緑道は左右の側道より50㎝ほど高くなっている。それは、埋設された2条の配水管のひとつ、玉川上水の余水用水管は自然流下の方式をとっているため勾配を設ける必要があったのだろう。緑道はよく整備されている。
八幡橋は『上水記』にある中之橋。明治39年(1906)に八幡橋の記録が残る。下高井戸八幡への参道故の命名であろう。昭和橋は高井戸第三小学校に渡る橋。同校は下高井戸で最も古い学校。明治34年(1901)設立。もとは甲州街道沿い、覚蔵寺の東隣にあったとのことであるから、そもそもは寺子屋からのスタートであろう、か。昭和5年(1930)に橋名の記録が残る。昭和天皇即位の大典を記念しての橋名とも。加藤橋は向陽中学西側(昭和31年;1956年、には下高中とある)にあった、三代将軍家光の御馬預役二百俵取りの旗本加藤家(『杉並の川と橋』)に門前にかかっていた、から。と、一応メモしたが、残念ながらどの橋も遺構は見つけることができなかった。橋名および、その場所はweb site「毎日昭和」にある昭和の地図(人文社発行「1956年版東京都地図地名総覧の23区」)をもとにメモしたものである。
高井戸宿
加藤橋の南、甲州街道を少し南に入ったところに京王線・桜上水の駅がある。杉並区下高井戸と世田谷区桜上水に跨るこの駅のあたりが、往昔、甲州道中の2番目の宿場・高井戸宿の下宿・下高井戸の中心であった。高井戸宿は下宿と上宿に分かれ、上宿・上高井戸は京王線八幡山の先となる。慶長5年(1601)、徳川幕府により江戸と甲府を結んだ甲州道中に設けられた高井戸宿では、月の前半を下高井戸村、後半を上高井戸村が助郷を務め、伝馬25頭、人足25人が常置していた、とか。江戸を立った旅人の最初の宿場でもあったため、24軒の旅籠が軒を連ね結構な賑わいであったようだが、新宿に宿が開かれるに及び、次第に廃れていった、と言う。いつだったか、杉並区郷土資料館を訪れたとき、甲州道中高井戸宿あたりのジオラマが展示されていたが、街道に沿って建つ農家の厠はすべて甲州道中に面したところにあった。街道を往来する人々に、当時、肥料として貴重なリソースを「提供」してもらうための工夫であろう、か。
なおまた、高井戸の地名の由来であるが、16世紀の中頃、この地に住んだ御家人高井家の土地、ということで、「高井土」が高井戸へ、との説と、その高井家が開いた高井山本覚院にあった不動堂より、「高井堂」が高井戸に転化したなど、例によって諸説ある。なお、高井山本覚院は明治の廃仏毀釈の時、明治44年、宗源寺(下高井戸4-2)に移された。

玉橋
荒玉水道道路に架かる橋が玉橋。昭和2年(1927)の架橋。荒玉水道とは大正から昭和の中頃にかけて、多摩川の水を砧(世田谷区)で取水し、野方(中野区)と大谷口(板橋区)の給水塔に送水するのに使われた地下水道管のこと。荒=荒川、玉=多摩川、ということで、多摩川・砧からだけでなく、荒川からも水を引く計画があったようだ。が、結局荒川まで水道管は延びることはなく板橋の大谷口で計画中止となっている。なお、現在ではどちらの給水塔も本来の給水塔としての役割を終え、大谷口の給水塔は取り壊され、野方の給水塔は防火用水の「予備タンク」として使われている。
玉橋から北の荒玉水道道路を見るに、結構な勾配の坂となっている。坂を下りきったところには神田川が流れる。少々極端に言えば、崖上の尾根道を玉川上水が走っているように思える。なんとなく「危うい」気もするのだが、このルートが最適であったのだろう。

「玉川第三公園」・美宿橋・小菊橋
玉橋を超えると下高井戸橋までは「玉川第三公園」となる。美宿橋は『上水記』にある孫兵衛橋。美宿橋は大正5年(1916)の記録に残る。橋名の由来は、当時のこの地の小字である「蛇場美」と「下高井戸宿」の美+宿、から。
赤煉瓦のレトロな小菊橋は大正の末、小菊橋の少し東につくられた吉田園という娯楽庭園に渡るために架けられたもの。吉田園は小菊橋の龍泉寺近くにあり、池と花菖蒲の庭園、そして湧水を利用したプールなどを設けた娯楽庭園を吉田甚五郎がつくった。また、このあたりは淀橋上高井戸水爆布線上にあり湧水点が高く、数m掘ればすぐに湧水が出た、と言う(『杉並の川と橋』)。このあたりは下高井戸宿から崖下の神田川を見渡せる景勝の地であった、とのことである。
小菊橋のあたりから、上水第二公園にあったような盛土の緑道はなくなり、幅10 m ,深さ2mほどの「開渠」公園となる。二条の送水管は堀底下に埋設されているのであろう。

永泉寺橋
永泉橋は現在の下高井戸橋の少し西に架けられた橋。橋の北には亨保4年(1719)、建立の永泉寺があった。『杉並の川と橋』によれば、安永6年(1777 )、高山彦九郎が「丁酉春旅」に「細道大宮八幡の前に出づ、(中略)、龍光寺所に見ゆ、是れ泉みと云う所の永福寺を上りて永泉寺という小寺脇へ出づ、前へぬけて甲州道也」とある。現在住んでいるところに近く、馴染みの寺が記されているので転記した。

永泉寺には「玉川上水の玉石伝説」が伝わる。『玉川上水 橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』によると、二度の取水口選択の失敗などにより、下高井戸あたりまで掘り進んだところで資金難に陥った玉川兄弟が、資金繰りも万策尽き、下高井戸の工事現場で途方に暮れていると、工事現場に白く輝くところがある。何事かと掘ってみると10cmほどの玉石が出てきた。その玉石が怪我や眼病に霊験あらたかと、江戸市中の評判を呼び、工事への強力が相次ぎ、資金繰りもよくなり、工事が無事再開された。玉川兄弟は、これは日頃信仰の薬師如来のおかげであると、薬師堂を建て、玉石薬師と。
で、前述の如く、亨保4年(1719)、玉石薬師を護るため永泉寺を建てた。お供えの赤飯が、これまた万病に効くとのことで、赤飯を握って玉にしたものを干して丸薬とし、「玉石薬師の玉薬」として売り出した、とも。明治になるとお寺は廃れ、四谷塩町の永昌寺に合併。明治43年(1910)、永昌寺はこの地に移って現在に至る。

永泉寺公園・下高井戸橋・託法寺橋

下高井戸橋は昭和6年(1931)、永福寺道に架けられた。北に進むと京王線永福町駅に出る。この橋は旧下高井戸村の一番下流にあったので、「下の橋」とも呼ばれた、と。この下高井戸橋から託法寺跡までを「永泉寺公園」と呼ぶ。
託法寺橋は大正11年(1922)、四谷から移転してきた託法寺に因んでの命名。大正12年、鉄筋コンクリート橋として架けられた。下高井戸橋の北に、東西に走る道がある。この道に沿って永昌寺や託法寺など7つのお寺さまが明治から大正、昭和にかけこの地に移り、寺町を形成している。
託法寺橋までは緑豊かであった上水路跡の公園も、託法寺橋を超えると公園も消え去り、甲州街道、そしてその上を走る高速道路脇に沿った少々味気ない道となる。

塩硝蔵地跡

永泉寺公園を過ぎ、道の北に築地本願寺和田堀廟所を見やり、先に進むと明治大学の敷地となる。道の北側には土盛が見られるが、そこには二条の送水管が埋設されているのだろう。土盛りの中を想いやりながらすすむと明治大学和泉校舎。その門近くに「塩硝蔵地跡」の案内。現在、明治大学と和田堀廟所となっている一帯は、江戸の頃、幕府の塩硝蔵(鉄砲弾薬の貯蔵庫)であった。当初は、多摩郡上石原宿(現調布市)にあったと伝えられ、宝暦年中(1750年代)に「和泉新田御塩硝蔵」としてこの地に設置された。幕末には新政府軍に接収され、その弾薬は上野の彰義隊や奥羽列藩同盟の平定に使われた、と。なお、この弾薬庫は兵部省を経て、陸軍省和泉新田火薬庫として再開され、大正末期に廃止されるまで、麻布の歩兵連隊が警備の任にあたった。塩硝蔵や陸軍の火薬庫があったときには御蔵御通行橋、とも黄引橋とも呼ばれる橋が架かっていた、と『杉並の川と橋』にある。ちなみに、黄色は黄燐等の火薬を表す色とのこと、のよう。

「玉川上水公園」・明大橋

明大和泉校舎の入口に明大橋の碑が残る。明大がこの地に予科校舎を建設した昭和9年に架けられた。明大前から上水は甲州街道を離れ、北東へと弧を描くように進む。現在は自転車置き場となっている。自転車置き場を進むと巨大なコンクリートボックスが現れ、そこから上下二条の導水管が現れる。その先は京王・井の頭線を跨ぐ橋となる。

京王井の頭線
二条の導水管が京王井の頭線の走る切り通しを渡る。おおよそ25mはあるだろう、か。どちらかひとつが利根川の原水連絡管を通し和泉水圧調整所に向かう送水管。あと一方は、旧来の玉川上水の流路を繋ぐ。玉川上水が浅間橋から下流が

暗渠となる前は、この切り通しの上を開渠の水路となって流れていたのであろう。
切り通しの橋の下を井の頭線が走る。京王井の頭線東松原から明大前までは谷筋を進んできた井の頭線であるが、明大前から永福町へと抜ける路線は、台地を切り開き神田川の谷に進んでいる。切り通しを跨ぐ跨線橋の下をよくよく見ると複線の線路の他、もうひとつ複線、複々線が通れるような橋の構造になっている。これは、京王井の頭線の誕生の元になった、第二山手線計画の遺構とのことである。




大正14年(1925)、山手線が環状運転を開始。東京から放射線状に延びる路線を結ぶこの路線が好評であったため、その山手線の外側を走る環状路線の計画が大正15年(1926)に持ち上がる。当初の計画では大井町から自由丘(東横線)、梅ヶ丘(小田急線)をへて明大前に進み、その後は、中野から江古田、下板橋、田端、北千住、曳舟、大島、南砂(都営新宿線)、東陽町(地下鉄東西線)を結ぶものであった。この第二山手線計画は難航したが、あれこれの経緯は省くとして、この計画の経営者でもあった人物が渋谷から吉祥寺への路線免許をもつ鉄道会社を合併し、現在の井の頭線を先行して開業した。その際、計画では明大前で第二山手線と交差するため、現在に残る複々線のスペースだけを確保した、ということである。


「玉川上水公園」・九右衛門橋

井の頭線の跨線橋を渡ると二条の導水管は再びコンクリートボックスに入り、地表から消える。その先は水路に沿って公園が続く。公園を進むと九右衛門橋。明大橋から九右衛門橋までを「玉川上水公園」と呼ぶ。『上水記』には九左衛門とあり、九右衛門橋と記されるのは明治3年(1870)以降である。九右衛門とは、和泉村の有力者ではあろう、か。

和泉水圧調整所
九右衛門橋を過ぎると井の頭通りにあたり、その先には和泉水圧調整所のふたつのタンクが見える。浅間橋から送られてきた二条の導水管のひとつ、利根川水系の原水連絡管経由の水がこのタンクに向かっているのだろう。なおまた、この給水タンクは、甲州街道の南にある和田堀給水所の第二号配水池と結ばれているようである。
それはともあれ、和泉水圧調整所はかつての玉川上水和田堀水衛所があったあたり。明治31年(1898)、新宿の淀橋浄水場建設にともない、旧来の玉川上水の水路とは別に、この和田掘水衛所から淀橋浄水場までの4.3キロの間、幅6mの新水路が一直線に開かれた。
新用水路は、当初、淀橋浄水場の掘削土で盛り土した8-10mの築堤上に水路が造られた。しかしながら、この水路は大正10,12年(1921、1923年)の地震で決壊したこともあり、昭和12年(1937)には、甲州街道拡張に合わせ、送水管敷設に変更。新水路跡は現在、都道角筈和泉線、通称水道道路という名称で甲州街道と平行して新宿に向かっている。
なお、淀橋浄水場が建設された最大の目的は、明治19年(1886)、東京とその近郊にコレラが大流行。ために、従来の堀割の玉川上水に変わる水道網建設が必要とされたためである。

「井の頭街道碑」
井の頭通りを渡り、和泉給水所に沿って甲州街道方面へ向かう。甲州街道の少し手前、和泉給水所脇に「井の頭街道碑」が建つ。井の頭街道は、もとは境浄水場から和田堀給水所に至る水道専用道路。二条の導水管が埋設されていた。道路として一般に開放されたのは昭和12年(1937)になってから。また、一般開放されても、無名の道筋であったが、荻窪の私邸から官邸に向かうために往来した近衛文麿が「井の頭街道」と命名した、と。その後、東京都により「井の頭通り」と改められた。

和田堀給水所
和泉給水所の南、京王線の踏切を越えたところに和田堀給水所がある。境浄水場から井の頭通り(水道道路)を通り、ここまで送られてきた水が、二つの配水池に貯められて、世田谷、渋谷方面に給水されている。
二つの配水池のうち、2号配水池は第一水道拡張事業(第一期工事)の一環として、大正13年(1924年)に完成。上でメモした、玉川上水新水路、淀橋浄水場の建設の後、急激に都市化が進み水の需要が拡大し、村山貯水池の建設、境浄水場の完成をもって、村山-境間、境-和田堀間の送水管敷設がこの第一期工事によって行われた。和泉水圧調整所はこちらの配水池と結ばれているのだろう。
もうひとつの、1号配水池のほうは、昭和9年(1934年)のもの。こちらは山口貯水池からの給水を確保する第二期工事の一環として建設された。境-和田堀間の二つ目の送水管設置を含むこの工事は、昭和12年(1937年)に完成した。
このあたりは我が地元。本日の散歩は少々短い、とは思いながらも、我が家への「帰心矢の如し」、ということで、散歩は終了。一路家路へと。  たて

0 件のコメント:

コメントを投稿