常の如く遍路道は、「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」に記される遍路道標を目安に歩くことになるのだが、仙遊寺から国分寺まではふたつの遍路道があるとのこと。今治市新谷(にいや)の吉祥禅寺前を経由する道、そしてかつての越智郡朝倉村(現今治市古谷)にある竹林寺を経由する道がそれである。 どうせのことならと、今回は吉祥寺経由と竹林寺経由のふたつの遍路道をカバーする。
本日のルート;仙遊寺・国分寺道分岐点>五郎兵衛坂>両手印の道標 >吉祥寺道と竹林寺道の分岐点
■吉祥寺をへて国分寺へ■
手印だけの道標>里道とのT字路に2基の道標>小堂と舟形地蔵道標>吉祥寺の道標>新谷集落の手印だけの道標>池田池前の道標>大野の道標2基>新谷の静道道標>旧県道155号交差箇所の道標>旧朝倉街道交差箇所の道標>松木の道標と舟形地蔵>県道156号合流点の道標>JAおちいまばり富田>頓田川・国分寺橋南詰の道標>国分の道標2基>国分の境界石>境界石傍の2基の道標 >境界石傍の2基の道標
■竹林寺をへて国分寺へ■
吉祥寺道と竹林寺道の分岐点に>険路>舗装された道に>舟形地蔵道標>土居上池の道標>八幡神社傍・三差路の道標>牛神古墳>竹林寺>旧県道155交差箇所の道標>宮ヶ崎の道標>登畑の道標>県道156号に合流>五十九番札所・国分寺
仙遊寺・国分寺道分岐点
国分寺へ向かうふたつの遍路道は丘陵を下り切る手前まで共通のルートである。
石燈籠・五郎兵衛坂
この大きな音に魚が逃げて漁ができないと、五郎兵衛という漁師が大層怒り、仙遊寺に上り、包丁でその大太鼓を破った上に、仏様に悪口雑言をあびせました。
その帰り道、この坂でころんで腰を打ち、その時の怪我がもとで亡くなったそうで、それ以来この坂を五郎兵衛坂と呼び、この坂を歩くときは、気をつけてゆっくり歩くようになったといわれています」とあった。
●舟形地蔵と石灯籠
五郎兵衛坂の由来はそれとして、「えひめの記憶」には「坂の途中右側に舟形地蔵の道標がある。やや下ると道の左右に一対の文化年間(1804~1814)建立の石灯ろうがある」と記す。この記事に従えば、五郎兵衛坂は舟形地蔵があったところであり、石灯籠の手前ということになる。
石灯籠から先はそれなりに傾斜のある坂だが、その手間はなんということもない坂である。五郎兵衛坂って実際はどのあたりか、ちょっとわからなくなってしまった。
両手印の道標
吉祥寺道と竹林寺道の分岐点
一方、右を指す「日本三霊場 四国霊場番外 智慧文殊尊道」と刻まれた道標は竹林寺経由の遍路道である。竹林寺を地元では「智恵の文殊さん」と呼ぶ故のことである(「えひめの記憶」)。この分岐点を左に折れ、まずは「吉祥寺経由の国分寺への遍路道」を辿ることにする。
■吉祥寺をへて国分寺へ■
手印だけの道標里道とのT字路に2基の道標
三島神社側、仙遊寺を示す「しこくの道」の木標下には手印だけの丸石の道標、逆側は結構大きな道標であり、「遍んろ道」の文字とともに手印が刻まれる。仙遊寺方向への手印の下には「され山」らしき文字が読めた。「されやま;佐礼山」とは仙遊寺のことである。
国分寺方向を示す手印に従い道を左に折れ谷の集落へと入る。
●三島神社
当神社ハ乎致守興 同玉澄ニヨリ神亀五年、大三島ノ大山祇神社を勧請・創建シタ後、父守興ノ霊ヲ合祀シ河野大明神トモ称サレル」とあった。
大山積大神のことは古事記と日本書記でその誕生記述が異なるなど、門外漢にはややこしくてよくわからない。御祭神に大山積大神とともに上津姫 下津姫と記されているのは、日本書記にイザナミが亡くなる因となった火の神が、大山祇神、雷神(上津姫)、高籠神(下津姫)の三神に分かれた故のことだろう。 「乎致」は「越智」のこと。玉澄は系図には河野氏初代当主とあるが、何度かメモしたように河野氏に関する記録は平安末期、頼朝に呼応し平氏打倒に挙兵した22代当主通清以前は確とした記録はない。
小堂と舟形地蔵道標
吉祥寺前の道標
道標には手印とともに「是より佐礼山」、また手印と「遍んろ道」文字とともに国分寺への道を指していた。道標から仙遊寺のある佐礼山を眺めると、仙遊寺の堂宇らしき建物が見えた(ように思えた)。
●吉祥寺・鷹取殿
石段を上る。右手の堂宇には三島の神紋があった。更に石段を上りお堂にお参り。お堂の欄間は波形に彫られ、そこに注連縄がかかっていた。また赤ちゃんの前垂れや絵馬が多数奉納されている。チェックすると、このお堂は秀吉の四国征伐の折、このお堂のある鷹取山で小早川勢に敗れ自害した正岡氏、またその妻子を祀るお堂とのこと。
「殿」との関連は不詳だが、なんだかおもしろい話に出合った。
新谷集落・手印だけの道標
池田池前の道標
「えひめの記憶」には「池田池の前」とあるのだが、道は池から離れている、というか、民家に遮られており、「池の前」の文字面をあまり気にしないほうがいいかとも思う。
大野の道標2基
また、その道標のすぐ東、生垣前に道標が立つ。「へんろみち」と共に、この道標も国分寺方向を指す手印が刻まれる。
新谷の静道道標
ちょっと混乱。現在の県道155号は吉祥寺から池田池に向かう途中にあった。とりあえず道なりに進むと道の左手に大きな道標があった。水路脇に立つが、記事にある「畑の奥隅」とはなっていない。県道も「えひめの記憶」を作成した当時の旧県道のことだろう。周辺の景観も変わってしまったのだろう。
手印と「へんろみち」の文字は読めるが、側面に「雪」らしき文字を認めるほかは門外漢には読むこと能わず。
●静道
旧県道155号交差箇所の道標
旧朝倉街道交差箇所の道標
●朝倉街道
朝倉街道の詳細は不詳だが、旧朝倉村は世田薬師から世田山城を抜け朝倉に抜けたときに出合った。北は今治平野に向かって開けるが、三方を山地で囲まれた朝倉で知らず幾多の古墳に出合った。古墳が三百以上も現存する、と。実際、地名は、斉明天皇に由来するとの説もある。斉明天皇が百済救援への出兵に際し、この地に滞在の後、九州の朝倉に兵を進めた故である。ともあれ古くから開けた地であったのだろう。
因みに「不動殿」だが、満願不動とも称される朝倉の万願寺のことだろうか。
●松木と弘法大師
「えひめの記憶」には「ここ旧松木村(現今治市松木)には弘法大師にまつわる伝説が『今治夜話』に残っている。それによると、大師がけちで欲ばりな老婆を懲らしめるため井戸を金気(かなけ)水にしたという」という話が残る。全国各地に弘法大師の法力により井戸、清水などを湧出したという話が残るが、同じく、悋気の村人を懲らしめるべく清水を錆び気(金気)のある水に変えてしまったという話も多く残るようだ。この松木の伝説もそのひとつだろう。 弘法大師も有名人故に、全国各地に忙しい。いつだったか信州の千国を越えて塩の道を日本海へと抜けた山道にまで弘法水があった。
松木の道標と舟形地蔵
県道156号合流点の道標
JAおちいまばり富田
道標を探したのだが、川筋は道路工事中。あちことさまよったのだが道標らしきものを見付けることはできなかった。
●南海道・越智駅
南海道とは都と南海道諸国(紀伊国・淡路国・阿波国・讃岐国・伊予国・土佐国)の国府を結ぶ古代の官道。古代官道は古代朝廷が飛鳥時代から平安時代前期にかけて計画的に整備・建設され、7世紀中期頃に全国的に整備が進んだが、8世紀末から9世紀初頭の行政改革により次第に衰退し、10世紀末から11世紀初頭に廃絶した。
で、この南海道の愛媛のルートは、讃岐からおおよそ現在の国道11号に沿っており、30里(16キロ)毎に駅馬を配した駅家としては、近井(愛媛県四国中央市土居町中村)、新居(愛媛県新居浜市中村松木)、周敷(愛媛県西条市)、越智(愛媛県)があった、とのことである。
なお、伊予の国府の所在地は諸説あり、今治市上徳、現在の富田小学校あたりとの説が有力とのことだが未だ確定していないようだ。
頓田川・国分寺橋南詰の道標
●頓田川
川名の由来は不詳だが、富田川の転化ではあろう。「えひめの記憶」によれば、「今治平野南部には五葉ヶ森に水源を発した頓田川は大きく蛇行をしながら白地を経て上朝倉に出る。上朝倉で北流する黒谷川と合流した後、大きく湾流しながら朝倉村のやや中央部を貫流した後、進路を霊仙山西方で北進して多伎川と合流して今治平野の南部を東北に流れ唐子山独立丘陵の北山麓部を巡り燧灘に注ぎ唐子浜なる砂浜海岸を形成している。
だが現在の頓田川は宝永四年(一七〇七)に河道の付替工事を行っており、幕府領である登畑村・宮崎村への許可願いが出されていることでも明らかなごとく、河川の増水によりしばしば氾濫し町谷・本郷・高井・徳森・久積は頓田川による扇状地で形成された地域と推定される。
これら扇状端部に伏流水を集め流れる竜登川及び銅川はかつては、頓田川の旧河道と見るべきであり、頓田川の開析作用で大きく自然堤防を造りだしたと見られる町谷の堤防があり、ちなみにこの自然堤防上には弥生前期から古墳時代に及ぶ文化層が確認されている。
頓田川はかつては、霊仙山の西山麓宮崎より直進して楠谷山(六八・六メートル)の東山麓をうがって流れた後、水力は衰え扇状地を形成したが、今治平野のやや中央部を流れる蒼社川の開析作用と相まって、沖積平野や扇状地形の進行とともに頓田川の流路は次第に変化縮約されて東北へと流路を取りながら、今治平野南部での堆積作用はなされたものと見られ、これらによる旧河道が、前述の銅川、竜登川である」とあった。
国分の道標2基
また、この角から少し南の民家前にも少し小振りな道標が見える。「えひめの記憶」にはこの道標は真念道標とのこと。「喜代吉榮徳氏の『四国遍路 道しるベー付・茂兵衛日記』によると、この真念道標は、源五郎地川の橋げたにしていたものを昭和58年(1983)春の河川工事の際に地元の人たちが見つけ、再建したそうである。それを喜代吉氏らが今治市内の道標調査の際、全く偶然に見い出したというもの」とあった。
なんとなく立つ場所に違和感を持ったのだが、上述記事で経緯がわかり納得。こちらも「左 へんろ道」らしき文字が読める。
国分の境界石
ここでちょっと疑問。是より西は今治領とのことだが、それでは東は?いつだったか丹原辺りを歩いているとき、松山領とあった。松山藩かとチェックすると、この地の東、越智郡桜井村、孫兵衛作村、登畑村、旦村、宮ケ崎村、朝倉下村、朝倉上之村、長沢村は松山藩預領地の幕府領であった。そういえば、上述頓田川のメモで「幕府領」と記してあった。
境界石傍の2基の道標
「へんど」かどうか定かではないが、我々が子供の頃に「遍路;へんろ」と言った記憶はなく、「へんど」と呼んでいた。「へんど」とは「辺地・辺土」のことである。
●へんど・辺土
四国遍路の始まりは、平安末期、熊野信仰を奉じる遊行の聖が「四国の辺地・辺土」と呼ばれる海辺や山間の道なき険路を辿り修行を重ねたことによる、と言われる。『梁塵秘抄』には、「われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負ひ、衣はいつとなくしほ(潮)たれ(垂)て、四国の辺地(へち)をぞ常に踏む」とある。
「辺地」が「遍路」と成り行くプロセスは、辺地を遊行する道ということから「辺路」となる。熊野の巡礼道が大辺路、中辺路と呼ばれるのと同じである。そして、辺路が「遍路」と転化するのは室町の頃、高野聖による四国霊場を巡る巡礼=辺路の「遍照一尊化」の故ではないだろうか。
「遍照一尊化」とは特定の宗派に統一されたものでなく、様々な信仰・聖地から成っていた四国霊場が、平安末における大師信仰の一般化にともない、弘法大師空海を核としたものとなっていったことを指す。
「へんど」から少々話が広がったが、何度かメモしたように子供時代の我々にとって「へんど」とは物乞い・乞食と同義であった。悪戯をすると「へんどにやるぞ(連れて行ってもらうぞ)」と言われると、ピタッと悪戯を止めたものである。そんな「へんど」も社会が豊かになり社会福祉が整備されるとともに姿を消したように感じる。
国分寺駐車場入口の道標
吉祥寺経由の国分寺までの遍路道は一応ここまでとし、もうひとつの遍路道に移る。
■竹林寺をへて国分寺へ■
吉祥寺道と竹林寺道の分岐点に
「日本三霊場 四国霊場番外 智慧文殊尊道」と刻まれた道標に従い、竹林寺経由の遍路道へと分岐点を右に折れる。
険路
舗装された道に
舟形地蔵道標
土居上池の道標
八幡神社傍・三差路の道標
T字路を右に折れ、八幡神社の前を過ぎると宮下池にあたる。
「えひめの記憶」に拠れば、ここからの遍路道は、「かつての遍路道は、この池の土手を通り、山の中の道を通ったものと思われるが、今はこの道はほとんど使用されておらず、宮下池から先の道は草木が生い茂り通れる状態ではない。
地図を見ても、土手から丘陵へと実線が描かれているが、山頂手前で切れている。藪漕ぎでも、と一瞬思ったのだが、台風直後のグズグズ道に躊躇い、宮下池の先に見える丘陵を眺め、歩いた気になってお終いとした。
●八幡神社
◆河野通清
河野氏の系図では、四面楚歌の中、頼朝の平氏打倒に呼応し挙兵した河野通清(第22代当主)の祖父・親経が伊予守・源頼義の四男・親清を養子に迎え第21代当主としたとされる。とはいうものの。河野氏の記録に通清以前の正確なものは残っておらず、この養子説も源氏挙兵に呼応した通清と源氏との強固な関係性を正当化するためのもの、といった説もある。実際頼義に親清という子がいるという記録もないようだ。縁起は縁起として置いおくべし、ということだろう。
牛神古墳
県道を少し下ると道の右手に牛神古墳がある。竹林寺へは、この牛神古墳から右に分岐する道に入るようだ。
牛神古墳にちょっと立ち寄り。案内には「古墳の里 あさくら 朝倉村の古墳は5世紀から7世紀にかけて千数百年前に造られた古墳である。かつては村内に300基以上もあったと言われるが、現在では訳50が見学可能なものとして確認される。
出土物は、朝倉村ふるさと美術古墳館に展示されている」とある、その地図とともに牛神古墳、多岐宮古墳、樹之木古墳、野々瀬古墳群、野田古墳群、禰宜屋敷古墳群、清水寺古墳群などの説明があった。
古墳へのアプローチには展示館が設けられており発掘当時の写真や土器が多数展示されていた。古墳にはコンクリートの開口部が設けられており、石室内部を見ることができた。
●牛神古墳
古墳の造営は遺構や副葬品が6世紀後半の時代と推定される。
内部主体は横穴式の石室で、全長6メートルで玄室全長4メートル、奥壁幅2メートル、天井高2.5メートルの両袖式の石室である。
1基は全長2メートル、幅1メートル~1.3メートルの竪穴式石室であった。石室の主軸方向は北35度東と北25度東をとる。副葬品としては装飾具の他に須恵器や鉄器である」とあった。
これら多数の古墳造営の要因は蒼社川や頓田川の扇状地として形成された沖積平野による稲作の発展、それに伴う富裕豪族の出現、さらには瀬戸の開運の船泊としての立地が挙げられるようだ。来島海峡といった海の難所を乗り切る寄港地として今治の桜井あたりが古代の海運要衝の地であったのだろう。
竹林寺
境内を彷徨うと右手に石段が見え、その先に堂宇が建つ。石段を上ると古き趣のお堂があった。智慧の文殊様の本堂はここだろう。お堂から眺める今治平野の眺めはなかなか、いい。
寺伝に拠れば、今から約千三百年前、天武天皇(在位672~686)の時代に、越智大領小千守興(おちもりおき)が願主となり地元出身の三論宗の僧観量大徳が御堂を建立し、毘盧遮那仏を本尊とし、真如坊と号したのがこの寺の始まり、と言う。
後の天平七年(735)、行基が巡化の際に文殊菩薩を刻み本尊として、中国の五台山に模し五台山文殊院竹林寺と改めた。
以後、寺は鎌倉時代を通じて次第に整備され、竹林寺7坊を管理した。戦国時代に、吉祥寺の箇所で既にメモした鷹取山城主正岡家の祈願寺となるも、秀吉の四国征伐で正岡氏が討ち死にし、寺領も没収された。
江戸時代には今治藩寺社奉行方の支配下となり、また小松藩一柳氏の厚い信仰を受け、『智慧の文殊さん』として庶民にも親しまれた。
境内には四季桜と呼ばれる、毎年10月頃から翌年の4月頃までの長期間にわたり、次々と花を咲かせるという珍しい木も立っていた。
旧県道155交差箇所の道標
更に、この記事に続けて「えひめの記憶」には、「三差路を左折し、多岐川に沿った遍路道を北東へ進む。川の土手を約1km行くと、県道155号と交差する。この四つ角の北西側に道標がある」とする。
県道まで1キロ?竹林寺から下りた多岐川筋から県道155号まで200mもない。考えらえることは、この県道は新しく通されたもので「えひめの記憶」の記述は旧県道のことではないか、ということ。そう言えば、上述新谷の静道道標の箇所でも県道155号に関する混乱があった。
地図でチェックすると多岐川が頓田川に合わさる手前に南北に道が通る。この道のことでは?とあたりをつけて進むと多岐川沿いの道がT字に合わさる箇所に道標があった。道標は摩耗し、文字も手印もわからなかった。
宮ヶ崎の道標
記事に従い頓田川に架かる栄橋を渡り、記事にある少し下流の三差路辺りを彷徨うも道標を見つけることはできなかった。
三差路を右折し、正面に三島神社の鎮座する丘陵に向かって進み田圃の中の道を左折すると道標があった。三差路の道標はみつからなかったが、この道筋が遍路道のようだ。
「えひめの記憶」に既述の如く、山型鋼と針金で補修されている。側面の文殊道の文字と手印は読めるのだが、正面は摩耗文字も手印も読めなかった。
登畑の道標
県道156号に合流
道を北東に進み、国道196号を越え先に進み、予讃線の踏切を渡ると県道156号にT字で合流する。場所は吉祥寺経由の遍路道で出合った「従是西今治領」と刻まれた境界石の傍であった。ここで吉祥寺経由の遍路道と合流する。
五十九番札所・国分寺
吉祥寺経由の道で記した境界石、その傍の2基の道標から南東に少し進み、国分寺駐車場入口の道標脇の道に入ると国分寺の石段前に出る。
石段を上り境内に。本堂、大師堂に御参り。
「えひめの記憶」には「境内には、武田徳右衛門が建てた小さな大師堂がある。これは国分寺を第一番として今治周辺の21か寺を1日で巡拝する「府中二十一ヵ所霊場」の開創と「四国八十八箇所道丁石」建立成就記念の大師像を祀(まつ)る小堂である」とあった。徳右衛門道標で知られる武田徳右衛門は旧越智郡朝倉村の生まれである。
●国分寺
長宗我部元親の侵攻の際に焼き討ちにあって荒廃したが、後に再興される。焼き討ちの際に焼失を免れた多くの古文書によって律令制衰退後に国分寺の多くが荒廃していく中で同寺が伊予における仏教信仰の中心地として曲がりなりにも維持されてきたことが明らかになっている。
現在の境内は伊予国府のあった所とされ、かつての境内は東へやや離れた位置にあったとされる。寺の東方100メートルほどのところに塔の礎石が残されており、かつての国分寺東塔跡と認められている」とある。
●石段上の徳右衛門道標
●鐘楼脇の石碑
脇屋義助の伊予下向の経緯はこういうことである;南北朝争乱期、伊予の河野氏は武家方に与する総領家と宮方に与する庶家の得能・土居氏など、一族が分裂。中央では、延元3年(北朝建武5年;1338)、南朝の重臣である北畠顕家、新田義貞の相次ぐ戦死により武家方が優勢になるも、九州西征府を反撃の拠点とし、そのためにも瀬戸内の制海権を支配せんとする宮方は伊予を重視。新田氏をその祖とする大館氏明氏を伊予の守護として下向させ、新田義貞と共に北陸に散った伊予の宮方である得能通綱・土居通増の後を継いだ忽那・土居氏と共に伊予を一時宮方の拠点とした。
伊予の更なる体制強化のため脇屋義助(新田義貞の弟)を伊予に送った宮方であるが、脇屋義助の病死、阿讃両国を掌握した武家方細川氏の伊予侵攻による大舘氏明の世田城での戦死などにより、伊予での宮方優勢が次第に崩れることになる。
●裏参道の道標
このT字路は国分寺の裏参道とのこと。T字路角に道標が立つ。「左 脇屋公御御廟處 是より二丁」、手印と共に「国分寺」と刻まれる。
●脇屋義助公廟堂の跡
T字路を左に曲がり、道の左手に見える緑の小丘に向かう。石段を上がり御廟に御参り。脇にあった案内には「延元元年(1336)5月、楠木正成、新田義貞らの連合軍を摂津国湊川に打ち破った足利軍は、戦勝の余勢をかって、京都に攻め入った。同年6月、京都の東寺に入った尊氏は、持明院統の光明天皇を皇位につけて政権の合法化をはかり、後醍醐天皇を洛中の花山院に幽閉して、北朝中心の体制をかためた。そこで、天皇はひそかに花山院を脱出し、大和国吉野に潜幸して吉野朝廷をひらいた。
興国3年(1342)5月、義助の一行は、塩飽水軍(佐々木信胤)の船団に護送されて、今張(今治)の浦に到着した。しかし義助は不運にもその直後に病に倒れ、国分寺に急逝した。薨年(こうねん)は38歳であった。 この報せをうけた阿波の守護細川頼春は、義助の死を好機とみて、総勢7千の大軍をひきいて伊予に侵入、南朝方が最後の砦とたのむ世田・笠松城を七方から包囲した。
熾烈な攻防40有余日、南朝方は衆寡敵せず、ついに世田城は落ち、大館氏明ら十七士は山中で壮烈な自刃を遂げた。
現在の義助公の廟堂は寛文9年(1669)今治藩士町野政貞らが再建したものである。また、廟堂の脇には、今治藩の儒学者佐伯惟忠が建てた表忠碑があり、貝原益軒の讃文を刻んでいる」とあった。
中央での武家方・宮方の騒乱に伊予の河野一族も分裂し、敵味方に分かれに分かれる。河野総領家は武家方に与するも、四国制覇を目する同じ武家方の細川氏対策に苦慮し、宮方に帰順、さらには武家方に復帰と御家存続のための河野氏の動向は7回に分けて歩いた河野氏ゆかりの地散歩をご覧ください(そのⅠ、そのⅡ、そのⅢ、そのⅣ、そのⅤ、そのⅥ、そのⅦ)
●国指定 史跡 国分寺塔跡
これで西予市卯之町の四十三番札所・明石寺から五十九番札所・国分寺までをつないだ。次は、六十一番札所・香園寺から六十番札所・横峯寺へと逆打ちで歩いた遍路道との間を繋ぐため、今治市から西条市へと向かうことにする。