木曜日, 4月 14, 2022

伊予 歩き遍路道;久万高原町から三坂峠へ ① 久万高原町の中心部から千本峠越え遍路道合流点まで

過日、伊予の松山と土佐の高知を繋ぐ予土往還、伊予から見れば土佐街道、土佐から見れば松山街道を辿り、松山と高知を繋いだ。
その途次、四国山地が道後平野へと落ちる片峠・三坂峠から久万高原町の中心部を繋いだのだが、その道筋遍路標石の残るは往昔の遍路道でもあった。
いつだったか、久万高原町にある第四十四番札所大宝寺から第四十五番札所岩屋寺を打ち、三坂峠を下った久谷の里に建つ第四十六番札所への遍路道を辿ったことがある。その時は岩屋寺より有枝川の谷筋の集落である河合まで打ち戻り、そこから千本峠を越えて高野、槻の沢の集落を経て久万川筋の仰西渠辺りに下りたのだが、そこから先は国道440号(三坂道路辿ると国道33号と併用)を三坂峠まで辿ると思い込み、その旨お気楽にメモした。
また一度は河合の集落から有枝川の谷筋を上流へと詰め、六部堂越えへと向かった。六部堂越えへの上りは林道は茨、倒木、峠近くでは道も消え、とてもではないが、歩くことをお勧めできるルートではなかったが、六部堂越えからの下山道は皿ヶ嶺への登山ルートのためか整備されていた。六部堂越えからの下りは時間が無くパスしたが、皿ヶ峰登山休憩所の辺りまで下り、そこから先の遍路道は国道440号を三沢峠まで歩くとメモした。
が、上述の如く過日辿った土佐街道(松山街道)は、現在の国道建設のため分断されてはいるが、往昔の遍路道でもある。ルートも国道を逸れて進むところも多い。
また、久万高原町の中心部に立つ遍路標石には「当町へ打ち戻り」との文字も刻まれていた。岩屋寺を打った後、再び久万高原町の町並みまで戻り、そこから遍路道(土佐街道・松山街道)を三坂峠へと辿ったお遍路さんもいたように思える。実際、町並み近くの旧土佐街道(松山街道)には遍路標石も残っていた。
ということで、今回は久万高原町の町並みに入る辺りから三坂峠までの遍路道(土佐街道・松山街道)をメモする。途中千本峠、六部堂越えの合流点から先も、三坂峠へと国道を歩くことなく往昔の遍路道(土佐街道・松山街道)をトレースする。
ルート概要は前半は町中、耕地の畦道といったものだが、千本峠を下ってきた遍路道との合流点から先の後半部は、行き止まり、藪道など快適な道ではなかった。歩き疲れたお遍路さんにお勧めできるルートではないのだが、とりあえず旧遍路道ということで二回に分けてそのルートメモすることにする。
第一回は上述前半部、久万高原町の町並みに入るあたりから千本峠を越えてきた遍路道との合流点までをメモする。一部藪道はあるものの、基本、町中の路地、田圃の畦道といったものであり距離は5キロ強といったところ。のんびりゆったりの遍路道である。
尚、この記事は過日メモした三坂峠から久万高原町の越ノ峠を繋ぐメモをもとに「逆再生」で編集した「旧遍路道」バージョンである。

本日のルート;
越ノ峠越え岩屋寺道分岐点の遍路標石>牛市場跡と市場開祖碑>旧国道と合流
越ノ峠越え岩屋寺遍路道
久万川手前の民家軒下の遍路標石>県道左手、石垣の前に遍路標石
第四十四番札所大宝寺・三坂峠への遍路道
旧国道の東を進み一旦旧国道に出る>旧国道を東に逸れ久万小学校の手前で旧国道に出る>四つ辻を右に逸れ遍路標石の直ぐ南で旧国道に出る>旧国道に嘉永五年建立の遍路標石
第四十四番札所大宝寺への遍路道
第四十四番札所大宝寺への遍路標石
三坂峠への遍路道(土佐街道・松山街道)
嘉永五年の遍路標石を左折、直ぐ右折し旧国道一筋西の道を進む>水路を渡り右折し県道12号を越えて北進する>伊勢大神宮>七里の里程標石>遍路標石と久万新四国七十二番>国道33号に出る>国道を逸れ藪道に>溝に落ちる水路にあたる>水路は国道33号に沿って溝となって流れ国道を潜る>国道33号を潜った水路は開渠・暗渠となり沢にあたる>水路は沢水が流れる鉄板下を潜る>千本峠越えより下った遍路道にあたる>水路脇に仰西渠の案内>仰西渠>仰西渠之碑>高殿神社>国道33号に出る>新大橋北詰めに千本峠遍路道合流点の遍路標石

久万高原町の町並みから千本峠越え遍路道合流点の遍路標石まで


越ノ峠越え岩屋寺道分岐点の遍路標石
遍路標石。右の横長い石が馬墓?

 真弓峠から農祖峠を越え馬酔谷、下野尻へと下った遍路道は、国道33号を越え、かつての牛市場跡の南側の小径にはいると、道の右手に遍路標石がある。
「久万高原遊山会(以下、「遊山会)」の資料には、「牛市場跡の少し南にへんろ標がある。「嘉永四年(一八五一)二月」と「右いはやじ江二リ 左すがは山道二十五丁」の銘があり、大宝寺道と岩屋寺道の分岐点であり、松山藩と大洲藩の境界点でもある。隣には倒れた馬の供養をしたと思われる馬墓がある」とする。
標石をよく見ると、案内方向が岩屋寺、大宝寺共に合わない。右にグルリと180度回転すれば方向は合いそうだ。事情は不明。また、分岐点とはいうものの、今は分岐道ははっきりしない。
遍路道
遍路標石にある「すがは山道」の「すがは」とは第44番札所大宝寺の山号である菅生山のこと。「すがは山道」とは大宝寺への遍路道を指す。道筋はそのまま旧国道まで進み、その先旧国道の右手、左手と町並みの中を抜ける道(旧土佐街道・松山街道)を進み旧国道に出る。その先少し、三坂峠へと向かう遍路道(旧土佐街道・松山街道)が旧国道から逸れる地点に立つ遍路標石をそのまま直進。次の四つ辻に立つ遍路標石に従い右折し久万川を渡り、総門を潜り大宝寺に至る。
「右いはやじ江二リ」は、久万川を渡り、予土往還山入り部のスタート地点であった越ノ峠を越え有枝川谷筋の中野に下り、有枝川左岸を少し下った後、槇谷川の谷筋へと左に折れ、槇谷の集落から尾根筋に上り茶屋跡に出る。そこは大宝寺から河合、狩場、そして八丁坂を上りきったところ。両遍路道の合流点からは尾根道をアップダウンを繰り返し岩屋寺へ向かう。所謂越ノ峠越えの遍路道である。
牛市場跡と市場開祖碑
顕彰碑南の広場。牛市場跡だろうか

遍路標石の北側、今は広い空地となっているところが牛市場跡。広場の北側、いかにも国道33号と改修工事の行われた県道153号を繋ぐために通されてたような道の右手(北側)、国道33号に出る手前に大きな石碑が立っていた。
石碑には「市場開祖 高野幸治氏頌德碑 大正十三年六月十五日建之 建設企者 上浮穴郡畜?組合 同郡 牛馬商組合野市場後援会」との銘文が刻まれる。
「遊山会」の資料には「碑の石は牛の角を表し、台座は牛の面を造形しているといわれる。
高野幸治は天明年間に生まれ明治六年(一八七三)に没しているが、商才に富んだ人だったようで、一二歳で近所の馬喰白石新七に弟子入りし、十三歳で独立、一人前の馬喰となり、現場の牛や馬を引いて農家を回り個別交渉をするこれまでのやり方を改め、当地の三島神社の秋祭りに「市」を開く方法を採り大盛況を博し、「幸治市」とよばれるようになった。
高野幸治氏頌德碑
その後郡内はもとより中国・九州からまで集まるようになり、「幸治市」は「野尻市」に変わっていった。
開設当時から明治の中頃までは馬市が全盛をなしていたが、搬出、輸送、交通の一切が売から車に塗わり始め、日清・日露戦争後の交通機関の発達、道路改良と相まって、明治の末期から牛が大半を占めるようになった。最盛況時は一二〇〇頭の出頭があり開西一を誇るようになった。昭和三〇年代の高度成長期から下火になり、境在は開設されていない」と記される。「野尻市」の野尻はこの辺りの地名。

旧国道と合流
遍路道は旧国道合流点で右に逸れる

上述遍路標石は札所岩屋寺への分岐点とはいうものの、はっきりした分岐道もみあたらないため、取敢えず「高野幸治氏頌德碑」前に通された広い道をクロスし、旧国道に出る。そこは越ノ峠へと上り有枝川の谷筋の中野集落を繋ぐ県道153号の上り口と札所大宝寺・三坂峠方面への遍路道分岐点。大宝寺への遍路道(土佐街道・松山街道)はここから旧国道を右に逸れ久万の町並みの中を進む。



越ノ峠越え岩屋寺遍路道■

この合流点の一筋南の道、民家の軒下に越ノ峠を越えて岩屋寺へと向かう遍路道の標石がある。所謂越ノ峠越えの遍路道である。

久万川手前の民家軒下の遍路標石
県道153号を越えて直ぐ左に逸れる道に入り直進すると久万川手前の民家軒下に遍路標石が残る。はっきりしないが「左 いわや 七十二丁」と刻まれているように見える。
その先は「遊山会」の資料に記されるように橋はなく久万川を渡ることはできない。
県道153号まで一度戻り、標石のあった民家対岸あたりまで入り、そこからそれらしき道を進み県道153号に合流する。

県道左手、石垣の前に遍路標石
県道153号を先に進み、「えひめの記憶」に宮の前集落の外れにあると言う道標に向かう。集落端に県道153号から左に入る土径があり、その分岐点に石垣と同化したような道標が立っている。
これから先、岩屋寺までの遍路道は、仮称越ノ峠越えの遍路道の記事をご覧ください。


第四十四番札所大宝寺・三坂峠への遍路道


旧国道の東を進み一旦旧国道に出る
三界萬霊を見遣り路地を進む

久万木材市場への道をクロスし
旧国道合流点より旧国道を右に逸れ民家の間の道を進むと右手に三界萬霊の祠。その先右手が開けた辺りよりコンクリート蓋に覆われた水路を北進し、久万川傍に広がる久万木材市場への道に出る。久万川傍に広がる久万木材市場への道に出る。
草に覆われた休耕田の藪道、

ここで旧国道に出る
久万木材市場への道を越えると水路は草に覆われる。足元を注意し先に進むと畦道に出る。その先、砂利の生活道を進みブロック塀に沿った細路を抜けると旧国道に出る。

旧国道を東に逸れ久万小学校の手前で旧国道に出る
旧国道を逸れ民家の間を進む

久万小学校の少し手前で旧国道に出る
一旦旧国道に出た遍路道(土佐街道・松山街道)は、直ぐ先で旧国道を左に逸れ、旧国道の一筋西の道を北進。久万小学校の少し手前で旧国道に出る。



四つ辻を右に逸れ遍路標石の直ぐ南で旧国道に出る
旧国道より再び家並の中を進み

ここで旧国道に出る
久万小学校の少手前で旧国道に出た遍路道は後述する仰西渠の開削で知られる山之内仰西、また四国新道の建設など久万地域の発展に貢献した貢献した桧垣伸翁が眠る真光寺墓地傍の四つ辻まで旧国道を進み、四つ辻より旧国道を右に逸れ旧国道の一筋東を進み、遍路標石の立つT字路の少し手前で旧国道に出る。

旧国道に嘉永五年建立の遍路標石
旧街道に遍路標識。「左へんろ道」の文字も
旧国道に立つ遍路標石には「左 へんろ道 岩屋寺江九十一丁」「右ぎゃくへんろ道」「當町江うちもどり 嘉永五壬子春二月吉日」と刻まれる。ここが大宝寺と三坂峠への遍路道分岐点であり、または鶸田峠・下坂場峠からの遍路道が合流する場所でもある。
「左 へんろ道 岩屋寺江九十一丁」が指す方向は直ぐ近くにある第四十四番札所大宝寺とは真逆。この文字が刻まれる面を目にするのは三坂峠、また、鶸田峠・下坂場峠からの遍路道より久万高原町に入るお遍路さん。そのお遍路さんに大宝寺ではなく岩屋寺江九十一丁(約109m/丁)をガイドするのは何故だろう?

「右ぎゃくへんろミち」
またここに「右 ぎゃくへんろミち」とあるのは?あれこれと頭を巡らす。と、この地を右折し直ぐに右折し三坂峠へと向かう遍路道(土佐街道・松山街道)に入ることなく、そのまま国道33号を越えると、鶸田峠・下坂場峠への遍路道に繋がる。この峠越えは内子、大洲を経て第四十三番札所明石寺に繋がる遍路道。逆打ちで明石寺へ向かうお遍路さんの標石かとも思う。
「當町江うちもどり嘉永五壬子春二月吉日」」
旧街道面に刻まれるこの文字。最初はちょっと混乱。「うちもどり」は「札所を打って戻ってくる」との意。第四十五番札所岩屋寺を打った後、戻るということ。それはそれでいいのだが、「當町江」がわからない。
あれこれ悩んでいると、後述七里の里程石の案内に「久万町村」とあったことを思い出した。藩政期この地は久万町村と呼ばれたようだ。チェックすると、この場合の町は現在の市町村制度の町ではなく、所謂宿場町、市場町、門前町と呼ばれた「町」のこと。この地は街村(がいそん)と呼ばれる、街道に沿い両側あるいは片側に細長く密集して形成された列状村落であり、それは宿場町、市場町、門前町のように街路への依存度が大きく、また商業的機能が高い村落を指すとあった(「えひめの記憶」)。それ故の「久万町村」ではないだろうか。
とすれば、「當町江うちもどり」とは、第四十四番札所大宝寺を参拝し、第四十五番札所岩屋寺を打った後、當町(この久万町村)へ(江)一旦戻ることを意味するように思える。
この「當町江うちもどり」と組み合わせると「左 へんろ道 岩屋寺江九十一丁」のモヤモヤはちょっと解消。
打ち戻りの遍路道
第四十五番札所岩屋寺は第四十四番札所大宝寺より峠を越え、河合の集落より有枝川の支流の源頭部へと東に進み分水界を越えた面河川支流の谷筋にある。第四十六番札所浄瑠璃寺は大宝寺のずっと北、三坂峠を下ったところ。四国山地に阻まれ、岩屋寺から直接浄瑠璃寺に向かう道はない。岩屋寺を打った後は、遍路道を兼ねた土佐街道筋まで戻り三坂峠を下りることになる。
通常の遍路道は岩屋寺を打った後、久万町村まで戻ることなく、途中の河合の先より千本峠を越えて高野の集落を経て槻ノ沢から上述、「仰西渠」の北の遍路標石の辺りに下り、土佐街道(遍路道)を三坂峠へと向かう(千本峠越え前半千本峠越え後半)。
また、河合から有枝川に沿って北に進み六部堂越えを経て、皿ヶ嶺登山口休憩所に出る遍路道もある(有枝川筋から六部堂越えまでは道は消え現在は藪漕ぎ道となっている)。
いずれにしても、久万町村迄戻ることなく北に進むことが多かったようだが、この遍路標石にあるように、久万町村まで戻り、三坂峠へと土佐街道(遍路道)を北へと進むお遍路さんも多くいたのだろう。
実のところ、この標石に出合う前は、札所浄瑠璃寺遍路道は千本峠越え、六部堂越えのルートでよし、としていたのだが、この遍路標石を見てしまったばかりに、久万高原町の中心部から三坂峠までの遍路道も書かずばなるまいと、このメモをはじめた次第である。

第四十四番札所大宝寺への遍路道■

第四十四番札所大宝寺への遍路標石
「右 へんろ道」の先に総門が見える
右折すると直ぐT字路があり、そこに弘化五年(一八四八)建立の遍路標石があり、「右 へんろ道」と刻まれる。
ここを右折し久万川を渡り総門を潜ると、その先に44番札所大宝寺が建つ。




三坂峠への遍路道(土佐街道・松山街道)■


嘉永五年の遍路標石を左折、直ぐ右折し旧国道一筋西の道を進む
土径を進むと
川を渡り
嘉永五年建立の遍路標石を左折し、直ぐT字路を右折し旧国道の一筋西の道を進む。右折することなく国道33号へと進むと下坂場峠・鶸田峠経由の遍路道と繋がる。右折した道は民家の間の土径を進むと水路にあたる。


水路を渡り右折し県道12号を越えて北進する
コンクリート護岸の川を少し上流に

民家の軒下を進み県道12号に向かう
コンクリートで護岸工事された水路に架かる小さな橋を渡り、少し上流へ進んだ後、道なりに水路から分かれ北進する民家の軒先の道を進む。ほどなく道の右手に県久万高原土木事務。

県道12号の先も民家の間を進む

畦道を南進し伊勢大神宮にあたる
その先に県道12号。河合の集落、更には第四十五番札所岩屋寺を繋ぐ。
県道12号を越えた遍路道は民家の間の道を進むと耕地の畦道に出る。耕作地を踏まないように畦道を進むと伊勢大神宮にあたる。

伊勢大神宮
「遊山会」のトラックログは七里の里程標石の先で国道を逸れる。国道左手、スチール柵手前より砂利道の細路に入ると直ぐ舗装された道となり、民家の間を道なりに進むと前面は社の境内に阻まれる。
「遊山会」の資料に「七里石が建っているのに出会う。このあと、伊勢神宮の裏を通っていたという道は塞がってしまって通ることはできない。いちど旧国道に戻り...」とある箇所であろう。

畦道を抜けた遍路道は伊勢大神宮の社の境内に当たる。右折し一度旧国道に出て社に参拝。
伊勢大神宮
Webにあった社のデータには「祭神 天照皇大神(あまてらすおほかみ) 豊受大神(とようけのおほかみ)
摂内社 金刀比羅神社(大物主神、山家公頼之霊)
由緒
中世、伊勢神宮崇敬の念が昂って諸国各地に「御師」が滞在し神宮と国民の間を執 持し、祈祷を取次ぎ、神札の頒布を行っていた。
当社は御師の久万山に於ける滞在所であり、明治初年神宮教の久万山布教所となり、同15年あらためて伊勢より天照皇大神、豊受大神の分霊を勧請した。同32年9月本教の解散によって、神宮奉斎会久万支部として発足し、昭和21年神宮奉斎会は解散。同27年宗教法人久万伊勢大神宮として新発足した」とあった。
後述する国道33号脇の大きな石の常夜灯に「天」「金」「石」と刻まれていた。金は金毘羅信仰、石は石鎚信仰、そして「天」は天照皇大神宮を指し伊勢神宮の伊勢信仰を示す。金毘羅巡礼、石鎚巡礼はそれとして、この地よりお伊勢参りへのリアリティがあまりなかったのだが、この社がお伊勢参りの先達である御師の滞在所であるとのこと。この地より御師に引きられた伊勢講中が伊勢参りに向かう姿が想起し得る。
摂内社金毘羅神社
それはそれとして、説明には「摂内社金毘羅神社(大物主神、山家公頼之霊)」とある。大物主神は神仏混淆の頃の祭神であった金毘羅大権現に替わり、明治期の神仏分離令以降金毘羅さんの祭神になったのでわかるのだが、ここになにゆえ山家公頼之霊が登場するのだろう。
山家公頼
山家(私注;やんべ)公頼(通称 清兵衛)は宇和島藩家老。宇和島の和霊神社の主祭神。家老が神となった経緯は菅原道真を想起する。
公頼は伊達政宗の家臣であったが、元和元年(1615年)政宗の長男・秀宗が宇和島に移封されるのに従い、その家老として藩政を支えた。宇和島はそれまでの領主(私注;戸田勝高)の悪政により疲弊していたが、公頼は租税軽減や産業振興を行い、効果を上げた。しかし、元和6年(1621)、藩主秀宗は公頼を嫉妬する藩士による讒言を信じ、公頼とその息子らを殺害させた(和霊騒動)。
公頼を慕う領民たちは、密かに城北森安の八面荒神の境内に小祠を設けて公頼一族の霊を祀った。その後、公頼殺害に関与した者が落雷・海難などにより次々と変死し、また公頼の無実も判明したため、承応2年(1653年)、秀宗は公頼を祀る神社を創建し、山頼和霊神社と称した。享保20年(1735年)に宇和島市街地の北端、鎌江城跡に遷座した。
和霊信仰
和霊神社に祀られる非業の死をとげた山家清兵衛公頼が和霊信仰として拡がる過程について「えひめの記憶」には、次のように記される。
 「清兵衛が和霊大明神になる過程は、我が国に古くからあった御霊(ごりょう)信仰のひとつの典型である。御霊信仰とは、恨みを呑んで死んでいった者の怨霊(おんりょう)がこの世に崇るという信仰で、……代表的御霊には、藤原氏の陰謀の犠牲になった菅原道真や、反乱を起こして敗死した平将門などがある。
またタタリをしずめるためにその怨霊・御霊を祭祀(さいし)し、祭礼をくりかえす結果、怨霊・御霊は荒ぶる霊からやがて平和な恵みをもたらす守護神すなわちニギミタマ(和霊・和魂)に変化し、かえって霊験あらたかな神となる。この御霊から和霊への変質も、御霊信仰のいま一つの特色である。
この御霊から和霊への変質を経て、祭神山家清兵衛もまた霊験あらたかな神、和霊大明神として広く人々に信仰されるようになったと考えられる。
信仰圏
また信仰圏について「和霊信仰の広がりは、四国、九州、中国地方一円に及び、各地に和霊神社(独立社、境内社)が建てられたり、和霊神社の祭神が合祀されたりした。このように信仰圏が拡大したことについては、①四国巡礼、②宇和島との交易・交通(特に海上交通)の発達、③各地を巡業した人形芝居などが重要な役割を果たしたと思われる(「えひめの記憶」)」とある。
と、山家公頼之霊、和霊信仰についてはちょっとわかったが、Webの資料では「摂内社 金毘羅神社(大物主神、山家公頼之霊)」と金毘羅神社に括られており、金毘羅神社との関連は不明のままである。
和霊様は航海安全や産業振興などさまざまな功徳があるようだが、主に農業・漁業の神様として、瀬戸内海沿岸で金毘羅様に次いで庶民の信仰を集めているという。金毘羅さんと和霊様の瀬戸内沿岸の民間信仰の二強が集えば、怖いものなし、ということだろうか。

伊勢大神宮を迂回し舗装された道を進む

石垣とフェンスに挟まれた土径を抜け国道に
伊勢大神宮の境内を迂回した遍路道(土佐街道・松山街道)は、境内北端で旧国道を左折、直ぐ右折し舗装された道を北西に進む。ほどなく道は土径となり、フェンスと石垣の間を抜けると国道33号に出る。


七里の里程標石
合流した国道33号の直ぐ右手に里程標石、「松山札の辻から六里」と刻まれる。里程石傍に土佐街道の案内板。
「近世土佐街道(三坂越え)
名称;土佐街道というのは、伊予国から土佐へ向かう街道のことである。時代によって地域によっていろいろな街道がある。この土佐街道は、近世つまり江戸時代のもので、三坂越えと呼ばれている地域のものである。
成立;一六〇三(慶長八)年江戸幕府開始ととも日本橋を起点に諸街道一里塚を築かせ始めていることにより、松山藩も、かなり早い時期に街道整備を始めたものと思われる。一七四〇(元文五)年から一七四一(寛保元)年にかけて一里塚を木製から石製に作り替えた記録が残っている。
路程;松山札の辻を起点に森松・荏原を経て、三坂峠から久万町七鳥・二箆(私注;ふたつの)に至るコースである。
久万高原町内の里塚石は次のようになっている。
六里 東明神、七里久万町村、八里 菅生村、九里 有枝村、十里 七烏村、十一里 東川村、十二里 蓿(私注;しゅく?)川村 以上すべて現存する。
特色と利用
①松山藩の久万山支配の道である。
(松山藩士等人馬の往来の便を図ったもの・中世城館の配列に沿っている)
②人の往来の開けたところである。
(駄賃持ちたちの馬による物流の道であった)
③百姓一揆の道である。
(一七八七年土佐用居・池川の百姓、一八四二年土佐名野川の百姓いずれも大宝寺に逃散)」とあった。
二箆(ふたつの)は予土国境・黒滝峠の手前に二箆山がある。面河川谷筋の七鳥から面河川を渡り山に取り付き、十一里の里程標石を越え、高山通り(山腹に高山の集落がある)の尾根筋を猿楽石をへて予土国境・黒滝峠に至ることを指すのだろう。
里程石
松山城下、現在の市電本町三町目停留所近くのお濠そばに松山藩の高札場があり、その札の立つ場所より土佐街道を予土国境の黒滝峠まで一里ごとに里程石が立つ。
〇里程石の場所
六里 東明神の里程石は後ほど出合う。七里久万町村の里程標はこれ。その先越ノ峠からすぐ八里里程標石(上述、菅生村)、有枝川の谷筋へと向かう色ノ峠手前に九里里程標石(上述、有枝村)、七鳥かしが峠を越え面河川谷筋の七鳥に出ると十里の里程標石(上述、七烏村)、面河川を渡り高山通りの尾根筋手前に十一里の里程標石(上述、東川村)、黒滝峠へ向かう尾根道の猿楽岩傍に十二里(上述、蓿川村) 、黒滝峠には十二里十六丁の里程標石は、昨年の土佐街道歩きですでに確認済。 また遍路歩きの途次、八坂寺の北の遍路道に三里、一遍上人修行の場として知られる窪寺に四里の里程標石に出合っている。
百姓一揆
案内にあった「③百姓一揆の道である。(一七八七年土佐用居・池川の百姓、一八四二年土佐名野川の百姓いずれも大宝寺に逃散)」のうち、一七八七年土佐用居・池川の百姓一揆は予土往還・高山通りの黒滝、また黒滝峠から水ノ峠を経て池川の町でその案内に出合った。その時のメモを再掲する。
池川紙一揆逃散の道 
「池川紙一揆逃散の道 紙一揆とは山間部においては米納の代わりに紙を藩に現物していたわけだが、搾取に苦しみ起こした農民一揆。農民一揆には徒党を組み暴徒と化すもの、強訴に及ぶもの、他国に逃亡する逃散があるが、池川紙一揆逃散の道とは、天明七年(1787)2月26日、土佐藩への貢祖である紙の現物納入に苦しむ池川の農民六百人が逃散を決め伊予に逃亡したもの。
そのルートは寄居の集落から水ノ峠、雑誌山北麓の通称「雑誌越え」を経て黒滝峠で伊予に入る。黒滝峠からは猿楽岩を経て尾根筋を進み七鳥に下る通称「予州高山通り」を進み(七鳥に下る山麓に高山集落の地名が地図にある。高山通りの由来だろうか)、久万の四国遍路第44番札所大宝寺に庇護を求めた。
結局、この寺において帰国後処罰されないことを保証され、3月21日大宝寺を離れ帰国の途につく。帰路は土佐街道・松山街道のもうひとつのルートである、現在の国道494号筋を進み瓜生野峠(サレノ峠?)を経て用居の番所で取り調べを受けた後、池川に戻ったとのことである。
名野川百姓の逃散
「えひめの記憶」には「池川紙一揆が菅生山へ駈け込んでから五五年、天保一三年(一八四二)七月四日土佐名野川郷民三二九人が逃散して来ている。
天保一三年七月四日郷民は仁淀川沿いに越境し、山を伝い中津から、七鳥、更に進んで七月一五日には菅生山に入った。
このたびは一揆の理由が前の紙一揆とは理由がちがっていた。前回の寺院の取扱いは、一人の責任者も出さなかったが、これはその後の藩政の支障となったことを理由に、土佐藩は極力寺院扱いを拒杏し、松山藩との政治的折衝によることに成功。松山藩は、菅生山に土佐郷民の引渡しを申し入れ、七月二五日松山藩から四五○人、土佐藩より六〇〇人の役人を出し、大宝寺を包囲し、一人ずつ帳簿と引合わせて、裏門から呼び出して渡し、直ちに腰縄をかけて引き立て、農民は強制的に帰郷させられて事件はおさまったのである。
大宝寺ではこの事について腹におさまらず嘆願書がでている。(岩屋寺所蔵文書)」とあった。

遍路標石と久万新四国七十二番
遍路標石と久万新四国七十二番
路傍の石仏
七里の里程石を離れた遍路道(土佐街道・松山街道)は少し国道33号を進み、次の交差点で左折、直ぐ右折し径に入る。しばらく進むと道の左手の祠に石仏、そしてその傍に遍路標石が並ぶ。
石の祠には五体の石仏が祀られる。その前に「久万新四国七十二番」と書かれた木の標識がある。
その石の祠の右、石の祠とコンクリートブロックに挟まれて遍路標石が立つ。風雨に晒され文字は読めない。また、遍路標石の前には馬頭観音があるとのことだが、それは崩れて原型をとどめていなかった。
道を進むとその先、道の左手に石仏。それほど古い仏ではないように思える。

国道33号に出る
路傍の石仏の先、水路脇を進む
川に沿った水路を右折し国道33号にでる
路傍の石仏の先で水路が現れる。水路に沿って北に進むと直ぐ川に沿って東西に流れる水路に合流。往昔の遍路道(土佐街道・松山街道)はそのまま直進し渡河したようだ。渡河するのも一興と思ったのだが対岸は藪。渡河は止め、水路を右に折れ川に架かる橋の南詰の国道33号に一旦出る。この辺りで国道33号と旧国道がわかれる。

国道を逸れ藪道に
国道を逸れ、廃屋庭の藪を抜けや藪道に

廃屋南は川まで藪
「遊山会」が調査した土佐街道、つまりは国道改修前の遍路道は國津33号の西側を進むとある。橋の北詰に道の取り付き口は見当たらない。取敢えず国道から逸れてみようと辺りを見廻すと、橋の北詰に廃屋があった。
廃屋の庭の藪を掻き分け、藪ではあるが踏み込まれた感のある道筋を北進する。

溝に落ちる水路にあたる
突然溝に落ち込む水路に出合う

水路は北進し国道33号に接近する
草の茂る踏み分け道を少し進むと、溝に落ちる水路に出合う。「遊山会」の土佐街道(遍路道)の資料には、土佐街道は仰西渠(後述する)から先は仰西渠から続く水路に沿って進むとある。国土地理院の地図で確認すると、この水路は仰西渠から繋がっているように見える。土佐街道(遍路道)のオンコースに立っているということだろう。水路を進むと国道33号に接近する

水路は国道33号に沿って溝となって流れ国道を潜る
国道一筋西、集落の中を抜け

国道に沿って溝となって流れる
水路は国道の一筋西側、集落の中を進み、ほどなく国道33号の西側を溝となって北に進む。ほどなく水路は国道33号を潜り国道の東側に移る。


国道33号を潜った水路は開渠・暗渠となり沢にあたる
国道を潜った水路は、開渠となって進む

その先で暗渠となり沢にあたる
国道を潜った水路は草に覆われた水路となって流れ、その先、集落の中を開渠そして暗渠となって流れ、国道33号右手下で沢のあたる。


水路は沢水が流れる鉄板下を潜る
コンクリート補強された沢の鉄板下を潜る

国道下を水路は進む。これが土佐街道筋
沢にあたった水路は、よく見ると水路の上を鉄板が覆い、沢水はその鉄板を流れ、水路は鉄板下を潜り先に進んでいる。鉄板の覆われた沢の手前に水門が設けられている。時に応じ余水を沢に落としているのだろうか。 
以下は妄想であるが、この水路が往昔の「仰西井手」、つまりは仰西渠より導水された水路であれば、否、この水路が往昔の「仰西井手」でないとしても、沢がある以上、「仰西井手」を流れてきた水は一度沢に落ち、その下流部の堰止より水路を流して久万川右岸の入野の地を潤していたのではないかと思える。
沢を越えた水路は国道33号すぐ下を上流へと続く。
新四国三十三札所案内標石
沢筋橋の手前で国道を左に逸れる
橋を渡ると新四国三十三札所案内標石

水路をそのまま進み沢を渡るには少し水が多すぎる。で、沢の手前で国道に一旦出る。
ついでのことでもあるので、水路(遍路道)を離れ、この沢筋の少し上流にあると言う新四国三十三札所案内標石にちょっと建ち寄ることにする。
国道に出て沢に架かる橋の手前を左に折れ、最初の橋を渡ると道の左手に標石が立っていた。「三十三ヶ所 観世音 十五番札所へ 寛政三辛亥(かのとい)」とある。ミニ三十三所観音霊場だろう。観世音菩薩は三十三の姿(十一面観音や千手観音など)に変身し衆生を救済するゆえの「三十三札所」ではあろう。
さきほどはミニ四国遍路巡礼。こちらはミニ観音霊場巡礼、この地域にはふたつのミニ巡礼道があるのだろう。
寛政三辛亥(かのとい)
元号と並べ表記される干支(えと)についてメモする。
辛亥(かのとい)は干支と呼ばれる60を周期とする数詞の48番目。古代中国にはじまる暦法上の用語であり、暦を始めとして、時間、方位、ことがらの順序などに用いられる。干支は十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類)と十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類)の組み合わせよりなり、甲子よりはじまり、乙丑 ,丙寅,丁卯,戊辰,己巳,庚午,辛未,壬申,癸酉,甲亥、と十干と十二支がひとつずつずれる組み合わせで進み、60番の癸亥で一巡する。ぱっと見には10と12であれば120のようにも思えるが、61番は最初の組み合わせに戻るため60通り。そういえば10と12の最少公倍数は60だ。
で、前々から干支が元号(この場合は寛政三)とペアで並ぶのは何故?と思っていたのだが、よくよく考えれば、お上の都合でころころ変わる元号では経年がわからない。
寛政の三つ前の元号は明和だが、例えば明和五年と寛政三年までは何年あるかこれだけではわからない。が、干支と合わせは、明和五年(1768)は戊子(つちのえね)で干支の25番目。寛政三年(1791)は辛亥で干支で48番目。48-25=23。1791-1768=23。これなら商人も10年でいくら利子をつけて、といった商いも安心してできるかも。
因みに、干支(えと)は通常十二支とするが、本来は十干と十二支の組み合わせであり上述の60の組み合わせを言う。また還暦を61とするのは暦としての干支が一巡し元に還ることに拠る、と。 

千本峠越えより下った遍路道にあたる
水路は遍路道にあたる

遍路道は直ぐ国道33号に繋がる
新四国三十三札所案内標石より道なりに進み国道33号に戻り、水路が沢を潜った先で水路に復帰する。
国道33号直ぐ下を流れる水路(仰西井手)はその先で石で組まれた水路トンネルに入る。水路トンネルの上は過日千本峠から高野、槻ノ沢の集落を経て久万川(天丸川)を渡り国道に出た遍路道筋である(千本峠越え前半千本峠越え後半)。
実のところ、後述する遍路標石の案内に拠れば、遍路道はこの地におりることなく、この水路の直ぐ東を流れる久万川の左岸、大除城址のある山裾を進みもう少し上流の遍路標石立つところに出たようである。
千本峠越えの遍路道を辿った折、大除城址のある山麓は採石場となっており、この地に下ってしまったが、採石場脇に今でも遍路道が残っているのだろうか。

「仰西渠」の案内
千本峠越えの遍路道から水路に戻る
石組トンネル上、遍路道と思い下ってきた道に「仰西渠」の案内がある。「手づくりの水路“仰西渠” 仰西渠は、元禄年間。(1688-1703)に山之内彦左衛門(後に仰西という)が私財を投じて寛政させた注目すべき水路で、青の洞門(大分県耶馬渓)にも匹敵するといわれております。この水路のおかげで、農業用水の確保に苦しんでいた農民が、どんなに助かったか言うまでもありません。長さ57m・幅2.2m・深さ1.5mのこの水路は、現在も当時の姿のまま、利用されています。昭和25年10月10日県の史跡に指定されています」とある。
石組みトンネル上の遍路道を越え、再び水路(仰西井手)に戻る。

水路脇に仰西渠の案内
仰西井手
水路(仰西井手)を進むと仰西渠の案内があり、「ここを流れる用水路が造られた江戸時代は、米は年(税)として武士におさめる大切なものでした。人々は、とても重い税のために、なんとかして水田を広げて、コメのとれ高を増やそうと努力しました。
入野地区のような、やや高いところへ水を引くには、久万川のずっと上流のこの地から用水路を引くしかありません。
最初、人びとは、川の上流に堰を造り、固い岩山のところは筧(かけひ)をつかって水を引こうとしたようですが、筧は台風や大雨、強風などでこわされたり、流されたりすることが多かったようです。修理する費用や時間もなく、水がなければ稲が育たなくなってしまいます。人びとの暮らしは大変苦しいものだったようです。 人びとの苦しい生活を見かねた山之内仰西は、用水路を造り、入野地区まで水を引こうと考えて、かたい岩山を切り開く工事にとりかかりました。
仰西渠が潤した入野の地が記される

はじめは、仰西や石工だけで行っていましたが、「石粉一升、米一升」のアイデアにより村人の協力がえられました。そのうちに米をめあてにしていた人も、心から水を求めて仕事に取り組むようになり、ついに用水路は完成しました。この後は、コメの取れ高も安定し、暮らしはずっとよくなったそうです。
その後、人びとは、この用水路を「仰西渠」と呼ぶようになりました。「仰西渠」は山之内仰西や地域の地人々の「郷土を思いやる心」がひとつになって、造ることができた用水路です」とある。
案内と一緒に仰西渠用水地図があり仰西渠が潤した入野の地域が描かれ。そこは国道と久万川に挟まれた一帯であった。

仰西渠
手掘り隧道
水路の先に自然の岩盤を穿った手堀りの隧道がある。その傍から国道に上るステップがあるが、水路はその先の岩盤を切り開き久万川からの取水口まで続いている。大岩を乗り越え取水口まで辿る。途中大岩を切り開いた余水吐けもあった。
上の記述で水路を「仰西渠」ではなく「仰西井手」と記したが、それはこの取水口まで続く自然岩を切り開いた水路を辿ったことがその発端。



取水口
取水口導水路の先の手掘隧道
上述遍路道の「仰西渠」の案内に、仰西渠の長さが57mとあったが、取水口から計ると大岩を掘りぬいたあたりで57mを越えている。とてもではないが、地図に描かれた入野の耕地まで届かない。チェックすると、「仰西渠」とは13メートルの手掘水路トンネルを含めた安産岩を穿ったところを指し、そこから先は「仰西井手」と呼ばれる水路となって流れていたとあった故である。

散歩をはじめていくつの手堀りの用水に出合っただろう。箱根の深良用水荻窪用水、足柄の山北用水、愛媛でも丹原の劈巌透水路志川堀抜隧道、つい最近では高知での野中兼山通した本山町の上井・下井行川井筋など枚挙に暇ない。水を求める先人の努力は散歩をはじめるまで、全く知らなかったことである。
また、農民、商人普請の用水開削の記録は残らず、あまつさえ罪を問われるケースが目についた。お上としては農民・商人のその功を認めたくなかったのだろうか。

それはともあれ、土佐街道を調査した「遊山会」の資料には、「ここ(仰西渠)から「土佐街道」は「仰西渠」に沿って延びている。旧国道と現国道が分岐するところで西に入り南に振って細い道をいくと遍路標識と馬頭観音や地蔵群が見えてくる」とあり、トラックログも国道に沿って左手、その後右手を進み新旧国道分岐点を越え、川を渡った先で国道に合流している。このルートを逆方向に忠実に辿ってきた。三坂峠から久万高原町の中心部まで、土佐街道は遍路道を兼ねているわけで、旧遍路道をオンコースで辿ってここまで来た。

仰西渠之碑
仰西渠之碑
巨大岩盤を掘り抜いた手堀り隧道傍のステップを上ると、国道33号より一段高いところに「仰西渠之碑」と刻まれた石碑が立つ。
傍にある案内には「仰西渠(コウサイキョ) 仰西渠は、江戸時代の明暦(1655ー1658)から寛文年間(1661ー1673)のころ久万川の上流、天丸川に沿って安山岩の岩盤を掘削して造られた用水路である。その長さ57メートル、幅2メートル20センチメートル、深さ1メートル50センチメートルで、川水を取り入れて下流の水田25ヘクタールを潤している。
旧久万町村の商家山田屋の山之内彦左衛門が私財を投じて掘ったもので、彦左衛門の号「仰西」にちなんで、水路を仰西渠と名づけた。
当時の久万町村・入野村は用水域に乏しく、西明神村の天丸川に堰をもうけ樋をつないで取水していたが、破損しやすく経費と労力を空費していた。そこで彦左衛門は恒久策として水路の斬り開きを計画し、石のみと槌だけで三ヶ年かけて完成した。
多くの人を雇い、岩を砕いた岩くず一升に米一升を交換して励まし、工事のために私財をほとんど無くしたという。現地の丘に明治10(1877)年「仰西渠之碑」が建立され徳をたたえている。 昭和25年(1950)10月24日 愛媛県指定史跡 久万高原町教育委員会」とあった。

高殿神社
国道33号を少し進み、遍路道(土佐街道・松山街道)は道を進み、高殿神社前で国道を右に逸れる。社叢に鎮座する社に参拝。「こうどの」神社と呼ぶと偶々出合った地元の方に教えて頂いた。
本殿は立派。社に彫られた彫刻もなんだか、いい。縁起をチェックすると「神代の昔、明神右京が日向の高千穂にあった高殿神社の神様(高御産巣日神;たかみむすひのかみ)の分霊をお持ちしてお祭りした。後に明神右京の霊をも合わせ祭った。 明治43年東明神本組にあった村社三島神社をも合わせ祭った。本殿を飾る彫刻は郡内随一で宝物の随神、鰐口は町指定の文化財である」とあった。
明神右京
明神右京には遍路歩きの途次、久万高原町にある第四十四番札所菅生山大宝寺の縁起で出合った。寺の縁起によれば、「その昔、明神右京・隼人という兄弟の狩人がこの地で十一面観世音菩薩を発見し奉持、安置したのが大宝寺のはじまり、とか。また、大宝元年(701)百済の僧が渡来し、この地にお堂を建て、奉持した十一面観世音像を安置したのが始まり」とあった。大宝寺の本尊は十一面観世音菩薩である。
狩人
空海と狩場明神(「弘法大師行状図絵」)
何故に「狩人」が唐突にも登場するのか?少し気になりチェックすると、四国八十八カ所の縁起には「狩人」が登場するケースがいくつかある。そしてそれは、熊野権現御垂迹縁起に関係ある、との説があった(『巡礼と遍路;武田明(三省堂選書)』)。
熊野権現御垂迹縁起によると、「唐の国から、九州の弥彦、四国の石鎚などを経て熊野本宮の大湯原の大木に天下った熊野権現は、獲物を追ってきた狩人の前にその姿を現した、と言う。
熊野権現御垂迹縁起の影響なのかどうか定かではないが、弘法大師・空海にまつわる高野山開創伝承にも狩人が登場する。『金剛峯寺建立修行縁起』によれば、空海が修行の地を求めて探し歩いていたとき、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)で、犬をつれた狩人に出会う。空海は狩人に告げられるまま犬の後を追うと、紀伊国天野(現在の和歌山県かつらぎ町)で土地の神である丹生明神(にうみょうじん)が現れる。
空海は丹生明神から高野山を譲り受け、伽藍を建立することになったというストーリーだが、この狩人は実は狩場明神であり、山の神である丹生明神を祀る祭祀者であった、とのこと。高野山では狩場明神(高野明神とも)と丹生明神とをその開創に関わる神として篤く敬っているとのことである。聖なる山に異国の神である仏教伽藍を創建するに際し、地元の山の神に「礼を尽くした」ということではあろう。ともあれ、狩人の「謎」は少し解決。

国道33号に出る
高殿神社を離れ簡易舗装の道を進む。道の右手、久万川の東に特異な形をした山が見える。大除城址があるという。なんとなく気になる山容。千本峠を越え(といっても、峠越えといった険しい道ではないのだが)から高野、槻ノ沢の集落へと下って来た遍路道はその山麓を抜けるとも言う。現在砕石場があり成り行きで仰西渠のところへ下りてきたが、そのうち遍路道が残っているかどうか歩いてみようと思う。
大除城址
仰西渠の近く、久万川傍(だったと思うのだけど)にあった「大除城址」の案内に拠れば、「大除城址は中世の山城である。標高694m、麓からの比高は約150m、南北に流れる久万川が裾野をめぐり、土佐街道(現国道33号)が膝下を通る要害の地にある。
遺構は、中予地方を代表する城に相応しく、大規模で堅牢である。三方の険しい地形にそびえ立ち、北方のみが尾根によって背後の山と続いている。本丸跡と推定される最頂部の郭(郭Ⅰ)は、長辺約30m、短辺約18mの方形をなし、周囲は石垣によって固められている。郭Ⅰから南西方向に数mずつの段差を隔てて郭Ⅱ、郭Ⅲに続くが、これら郭の側面にも石積の跡を確認することができる。
郭Ⅱの下の郭Ⅳには東側に小規模な空間があり、虎口であったと考えられる。 郭Ⅰから南東方向には三角形の腰郭(郭Ⅴ)が設けられその下に郭Ⅶがある。 郭Ⅶの北側石積から北東斜面に上り、石垣が続いている。郭Ⅰから北方に降って背後に続く尾根道の鞍部には堀切が設けられて守りを固めている。
「予陽河野家譜」には、土佐一条氏の侵入を防ぐために河野氏が築城し、喜多郡宇津城主(私注;小田村、現在の内子町)大野安芸守直家に守らせたと記されてある。築城年代は明らかではないが、文亀元年(1501)前後であるとも推定されている。寛正五年(1464)に久万山入道というものが築城したという庄屋記録があることから、小規模な砦の跡へ築城したとも考えられる。
天文年間には直家の子利家が河野氏にそむいて小手ヶ滝城、大熊城(ともに川内町)の戒能氏を攻め、永禄年間には土佐一条氏が久万山に侵入したのを、利家の子直昌が防いだという(予陽河野家譜)。
直昌は武勇にすぐれ、土佐長曾我部氏に対抗する山の手の旗頭として河野氏の重鎮であった。その幕下は48騎、41箇城といわれ、大除城を中心に、三重の円陣を描き予土国境に向かって展開していた」とあった。
大野氏
大野氏は旧小田町、現在の内子町といった土佐国境地帯に勢力を持つ「山方衆」の有力武将であり、守護である河野氏からも半ば独立したスタンスを示していた。一族には河野氏と敵対する宇都宮氏や長曽我部氏と結ぶものあり、また、河野氏の勢威が盛んで、権益が侵されないときは臣従するも、河野氏が弱体すすると上述の如く、山を下り河野氏に叛乱をおこすこともあった、とか。 その中で、直昌は河野氏の宿将として、土佐一条氏、毛利氏、三好氏、伊予宇、宮氏、長宗我部氏などの侵攻をたびたび撃退し、衰退した河野氏を支えたとのことである。

新大橋北詰めに千本峠遍路道合流点の遍路標石
高殿神社から国道44号の一筋東の道を進み久万川に架かかる新大橋手前で国道に出る。橋を渡った北詰め、道右左手に遍路標石と小さな石仏が並ぶ。遍路標石には「浄るりじ道 三り四丁半 いわやじ江 四り」と刻まれる。
また「遊山会」の資料には、此の地が「槻ノ沢、畑野川を経て岩屋寺へ行く道の分岐点となっている」とある。
遍路道
遍路標石に「いわやじ江 四り」と刻まれ、「槻ノ沢、畑野川を経て岩屋寺へ行く道の分岐点となっている」との記述は、この標石は松山の第四十六番札所浄瑠璃寺から久万の第四十五番札所岩屋寺へと向かう、所謂、逆打ち遍路道の案内ということだろう。 
何時だったか歩いた順打ちの遍路道は第四十四番札所大宝寺を打ち終えた後、畑野川筋河合を経て第四十五番札所岩屋寺へ向かう。
岩屋寺を打ち終えた後、河合まで打ち戻りその先で千本峠越えの山道に入り、高野の集落を経て槻ノ沢の集落に出る。そこからは上述の如く仰西渠の辺りにでたのだが(千本峠越え前半部千本峠越え後半部)、「遊山会」の資料では槻ノ沢からこの標石へと繋ぐとの記述となっている。
既に上でメモしたように実際歩いた印象では、槻ノ沢から標石への道筋には大除城址のある山に大きな採石場があり、山裾を進めそうもなく、道なりに仰西渠辺りに出たのだが、ひょっとすると砕石場の西端を抜けこの標石の地まで歩けるのかもしれない。

今回はここまで、次回はこの千本峠越え遍路道から三坂峠までを繋ぐ。


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