水曜日, 8月 24, 2011

玉川上水散歩そのⅡ:羽村の取水口から多摩川の崖線を南下し、拝島から武蔵野台地の稜線を東に進む

玉川上水散歩のメモの第一回は、青梅線・羽村の駅から玉川の上水取水口までの事跡についてのあれこれで終わってしまった。玉川上水散歩の第二回は、玉川上水をはじめて歩いた、羽村の取水口から立川の西武拝島線・立川駅までをメモする。


本日のルート;青梅線・羽村駅>五ノ神社・まいまいずの井戸>新奥多摩街道>「馬の水飲み場跡」>禅林寺>都水道局羽村取水所・羽村堰>玉川水神社>陣屋跡>羽村堰第一水門>羽村堰第ニ水門>羽村橋>羽山市郷土博物館>羽村堰第三水門>羽村導水ポンプ所>羽村大橋>堂橋>新堀橋>加美上水橋>宮本橋>福生分水口>宿橋>新橋>清厳院橋>熊野橋>かやと橋>牛浜橋>熊川分水口>青梅橋>福生橋>山王橋>五丁橋>みずくらいど公園>武蔵野橋>日光橋>平和橋>拝島分水口>殿ヶ谷分水口跡>こはけ橋>ふたみ橋>拝島上水橋>西武拝島線・立川駅

羽村堰第一水門水神社や陣屋跡を訪れた後、奥多摩道路を少し戻り、羽村堰第一水門の少し下手に架かる人道橋を渡り羽村堰下に。堰下周辺は羽村公園となっており、投渡堰の手前に昭和33年(1953)建立の玉川兄弟の銅像が建つ。多摩川対岸に拡がる草花丘陵や、河川敷、固定堰、投渡堰など、取水部の風景をしばし眺め、羽村堰第一水門部へと。
1911年(明治44)にコンクリーの水門となった第一水門は、多摩川の水を玉川上水に取り入れるための水門。大水の時などはこの第一水門を閉めて土砂などの流入を防ぐ。この水門で取水された上水は、現在、羽村堰から小平監視所までの間のおおよそ12kmが上水路として利用されている。小平監視所から下流には玉川上水を流すことなく、その水は導水管で東村山浄水場に送られているが、その直接の要因は昭和40年、新宿・淀橋浄水場の廃止により、下流に水を流す必要がなくなった、ため。小平監視所より下流は長らく空堀の状態であったが、昭和59年、都の清流復活事業により、昭島にある多摩川上流処理場で高度処理された下水を、小平より下流へ流し、現在清流れを保っている。

羽村堰第ニ水門第一水門から少し下流に第ニ水門。第一水門で取り入れた水を一定の水量にし、玉川上水に流すための水門。余水は、脇の小吐水門から多摩川に戻す。あたりは堰下公園となっている。

羽村橋
羽村堰第二水門下手に羽村橋。奥多摩道路・羽村堰交差点脇に大樹がある。東京都指定天然記念物「羽村橋のケヤキ」と呼ばれる。案内によると;「目通り幹囲約5.5メートル、高さ約23.5メートル。島田家敷地南側の奥多摩街道に面する崖際に立っており、崖の高さ約2メートル。根元の北側は崖上に、南側は崖下に扇状にはびこり、幹は直立して崖下から約4メートルのところで南西に一枝を出し、その上約1メートルのあたりから大枝に分かれ、下部の小枝は垂れて樹姿全体は鞠状をなして壮観である。なお崖下に湧水があり、樹勢はおう盛であり、都内におけるケヤキとして有数のものである」、とある。
崖下のささやかな湧水の写真を撮り、坂を少し上り島田家の屋敷を見やる。先ほど訪れた、禅林寺の開基は島田九郎右衛門と伝わる。また、所沢の三富新田を歩いたときに、島田家の旧家が残っていた。府中の森の郷土館にも島田家の旧家が保存されている。島田家って、武蔵野の台地を開いた旧家であろう、か。

羽山市郷土博物館羽村橋の辺りには堰下公園。公園から多摩川を渡る橋がある。羽村堰下橋と呼ばれるこの橋は、人と自転車だけが通れる人道橋。橋を渡って対岸の羽山市郷土博物館に向かう。昭和60年(1985)開館のこの施設には、常設展示の他、多摩川や玉川上水、中里介山に冠する資料が展示されている。多摩川によって形成された河岸段丘など、地形フリークには興味深い展示内容でもある。屋外には旧田中家の長屋門、旧下田家の民家が移築されている。旧下田家は19世紀中頃の農家の面影を今に伝える。

羽村堰第三水門再び羽村堰下を渡り、玉川上水へと戻る。少し下ると羽村堰第三水門が見えてくる。この水門は玉川上水、と言うか、多摩川の水を村山貯水池(通称、多摩湖)・山口貯水池(通称、狭山湖)に送水・分水するための水門である。地図を見ると羽村堰第三水門から多摩湖(村山貯水池)を結ぶ一本の直線が描かれている。この地下には羽村線導水路が貯水池へと続く。地上は羽村堰第三水門から横田基地までは「神明緑道」。横田基地で一度道は分断され、その東から再び、「野山北公園自転車道路」となって多摩湖へと続く。この道は、村山貯水池(通称、多摩湖)・山口貯水池(通称、狭山湖)を建設する際に敷設した、羽村山口軽便鉄道の路線跡でもある。どこかで見た軽便鉄道の写真では、トラックでレール上の貨車を引いていた。

村山貯水池・山口貯水池への羽村線導水路大正5年(1916)、拡大する東京の水需要に応えるべく、狭山丘陵の浸食谷を堰止め、村山上貯水池の工事が着工。大正13年(1923)に完成した。また、その下手にも、昭和2年(1927)、村山下貯水池が完成。さらに、昭和2年(1927)には狭山丘陵の柳瀬川の浸食谷を利用し、山口貯水池(狭山湖)の工事が始まる。関東大震災後の東京の復興と人口増加による水需要の増大に、村山貯水池だけでは十分にまかなえなかったため、である。工事は7年の歳月をかけ昭和9年(1934)に完成した。
羽村堰第三水門からの導水路は、狭山丘陵から流れ出す自然河川だけでは十分ではないため、多摩川の水を導き水量を確保するのがその目的である。当初、山口貯水池の水を村山上貯水池に通し、村山上貯水池の水とともに、村山下貯水池に導き、下貯水池から境浄水場村山境線(隧道、暗渠で境浄水場に至る導水線・現在は多摩湖自転車道となっている)で境浄水場に流した。境浄水場からは自然流下により和田堀浄水場に送水。そこから淀橋浄水場に水を送った、と。
狭山丘陵は多摩川の扇状地にぽつんと残る丘陵地である。狭山って、「小池が、流れる上流の水をため、丘陵が取りまくところ」の意。古代には狭い谷あいの水を溜め、農業用水や上水へと活用したこの狭山丘陵ではあるが、その狭い谷あいに多摩川の水を導き水源とし、都下に上水を供給している、ということである。

昭和40年には現在の西新宿副都心にあった淀橋浄水場が無くなり、その機能が昭和35年(1960)通水の東村山浄水場に吸収された。それにともない、導水路網も少し変わる。狭山湖(山口貯水池)に貯められた水は、ふたつの取水塔をとおして浄水場と多摩湖に送られる。第一取水塔からは村山・境線という送水管で東村山浄水場と境浄水場(武蔵境)に送られ、第二取水塔で取られた原水は多摩湖に供給される。また、多摩湖(村山貯水池)からは第一村山線と第二村山線をとおして東村山浄水場と境浄水場に送られ、バックアップ用として東村山浄水場経由で朝霞浄水場と三園浄水場(板橋区)にも送水されることもある、と言う。また、東村山浄水場は朝霞浄水場と原水連絡官が結ばれ、多摩川だけでなく、利根川の水も使用するといった、ダイナミックな上水路導水網となっている。

羽村導水ポンプ所水門より少し下流に羽村導水ポンプ所。ここから多摩川の水は小作浄水場(昭和51年)に送られる。また、小作には小作取水堰(昭和47年着工。55年通水)があり、小作浄水場に水を供給するとともに、地下の導水管により山口貯水池に送水されている。

羽村大橋羽村導水ポンプ所を過ぎると羽村大橋。奥多摩道路羽村大橋詰め交差点から、玉川上水と多摩川を跨ぎ秋川を結ぶ。

堂橋

羽村大橋をくぐり、緑道を7分ほど進むと堂橋。『上水記』では川崎橋と呼ばれた。由来はこの辺りの地名から。堂橋となったのは、橋に下る坂があり、その坂の途中に「川崎の一本堂」とも呼ばれる薬師堂があった、ため。「一本堂」の由来はケヤキの大木から。多摩川が氾濫したとき、一本のケヤキの大木にしがみつき、命拾いした十六名の人たちが、その感謝のために、この一本のケヤキを使ってお堂を建立した、とか。このお堂も、近くあった宗禅寺も、玉川上水の工事のため移転。現在新奥多摩街道沿いにある宗禅寺内に薬師堂が残る。
往昔、堂坂を下ったところには多摩川を渡る渡し場があった、とか。大正末期までは船頭が活躍した。また、この坂は関東大震災の頃、多摩川の砂利、砂を羽村の停車場まで運ぶ馬車が往来した、とのことである。



新堀橋

堂橋のあたりまで来ると、上水路と奥多摩街道の比高差が開いてくる。崖面を眺めながら河岸段丘を進む玉川上水も、このあたりから桜並木は次第に雑木林へと変わる。水神様を祀った小さな祠もある。ほどなく、道はふたつに分岐。左の道を進むと、ほどなく新堀橋に。新堀橋あたりでは奥多摩街道と上水の比高差は、ほどんどなくなる。橋の袂に金比羅様が佇む。新堀橋の名前の由来は、新しく上水堀を開削したことによる。旧水路は現在の水路より多摩川堤に近いところをながれていたのだが、開削後、多摩川の氾濫によって上水の土手が決壊することが多く、元文四年(1740)、代官上坂安佐衛門、新田世話役川崎平右衛門によって付け替え工事がおこなわれた。旧水路と現水路の間には小高い山があり、その北を通すことにより上水土手の決壊を防ごうとしたのだろう。
旧水路は先ほどふたつに分岐した道を左にそのまま進み、613mほどまっすぐ進み、加美上水橋の先で現水路と合流する、といった流路であった。周辺は福生加美上水公園となっており、旧路跡の一部は史跡指定地となっている。加美上水橋近くには、「福生市指定史跡 玉川上水旧堀跡」の碑が建っており、旧堀らしき遺稿も残る。

ちなみに、代官上坂安佐衛門、新田世話役川崎平右衛門は、散歩をはじめて知り得た、誠に魅力的な人達。特に川崎平右衛門は、玉川上水開削だけでなく、武蔵野新田の開発の地で、しばしば出合う。その威徳を称え、供養塔も各所に建っていた。

加美上水橋福生加美上水公園を越え加美上水橋に。この橋は、もとは鉄橋。多摩御陵、村山・山口貯水池へ玉川の砂利運搬のために福生駅から多摩川の羽村境までの1.8キロ、砂利運搬専用線が敷かれていた。鉄路は昭和36年に廃止され、当面は無名橋であったが、後に地名より加美上水橋と、名付けられた。



宮本橋加美上水橋を越え、妙源寺あたりからは、雑木林も切れ、上水南側には民家が建ち並ぶ。先に進むと宮本橋に。元は中世に創建の宝蔵院の門前に架けられていたので宝蔵院橋と呼ばれていたが、明治になって住職が神官となり、宮本と名乗ったため橋名も「宮本橋」となった、とか。廃仏毀釈の時代の流れに抗し得なかったのだろう、か。
宮本橋の南に、板塀に囲まれた白壁の屋敷が見える。なんとなく気になって板塀に沿って進むと煉瓦の煙突があったり、蔵があったりと、如何にも、いい。下戸の小生にはとんと縁はないのだが、清酒『嘉泉』とか『玉川上水』などで知られる田村酒造とあった。

福生分水口

宮本橋の少し下流、小橋が架かり、石垣の中程の鉤型に切れ込んだあたりに田村分水口がある。水は田村酒造のオーナー、田村家へ流れ込む。田村家は江戸の初期の頃から福生村の開拓に貢献した代々の名主。元禄年間と言うから、17世紀の末の頃、分水が認められた、とか。玉川上水の分水は三十五ほどあった、と言うが、個人分水は、明治になって砂川村の砂川源五右衛門さん以外に、あまり聞いたことがない。特例中の特例では、あろう。
邸内に引き込まれた分水は、もともとは灌漑用水とか生活用水として使われた。田村家が酒造りをはじめるのは、そのずっと後のこと。水車を廻し精米製粉をおこなったり、酒造場の洗い場の水として使われたりしたようだ。邸内を離れた分水は明治以降、その下流の福生村北田園、南田園の田畑を潤した。現在は福生永田のあたりで暗渠となるが、多摩川中央公園で再び開渠となり、整備された園内をゆっくりと流れ、JR五日市線の鉄橋の手前で多摩川に合流する。
ちなみに、このあたりには多摩川から取水した田用水があったが、昭和22年の台風による決壊にともない、水源を玉川上水に変更したため、田村上水(宅地化により昭和44年取水停止)と合流することになった。田村分水と田用水を合わせ、福生分水とも呼ばれる。

江戸の頃、もとは上水としてはじまった玉川上水であるが、その後、流路の灌漑用水としても機能するようになる。将軍吉宗の亨保の改革の頃、盛んに行われた新田開発のサポートの為もあり、分水口は三十五カ所ほどあった、と上にメモした。その分水口も、昭和となり、市街地化が進むとともに、昭和37年には十六カ所。昭和40年に、淀橋浄水場が廃止されるときには更に減少し、現在残る分水口は、この福生分水を含め、熊川分水、拝島分水、立川分水、砂川分水、小平分水の六カ所となっている(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)。

宿橋

宮本橋を越えると、緑道といった風情は無くなり、奥多摩街道を進むことになる。田村分水の少し下流に宿橋がある。「宿」とは名主屋敷を中心とした村の中心地のことを意味する。名主・田村家の近く、福生の渡しを越えて、「八王子道」、「青梅道」へと続く道筋に架かる橋ではあったのだろう。

新橋奥多摩街道をさらに進み、新橋に。その昔、福生から五日市へ向かう都道59号は曲がり道、くねくね、といった難路であった、とか。そのため、福生駅前から一直線に道を通し、五日市に向かう工事が行われ、多摩川には永田橋、玉川上水には、この新橋が架けられた。昭和36年の頃、と言う。都道95号線は現在都道165号となっている。



清厳院橋新橋から先は、奥多摩街道は玉川上水から少し離れる。右手に上水の流れを意識しながら進み、清厳院橋に。奥多摩街道は清厳院橋で玉川上水の南に移る。清厳院橋は橋の南にある清岩院が、その名の由来。応永年中(1394から1427年)の開創と伝えられる古刹。五日市広徳寺の末、とか。五日市の広徳寺を訪ねたことがある。誠に趣きのある、素敵なお寺さまであった。
それはともあれ、この清岩院、小田原北条氏よりの寄進を受け、また、徳川幕府からも「寺領十石の御朱印(年十石を課税された土地の寄付)」といった庇護を受けている。境内には湧水が涌き、湧水フリークとしては、しばしの休憩を楽しむ。
この清厳院橋は牛浜橋、日光橋とともに、昔より往来の多い橋であった。橋の維持管理のコストは「村持」であるため、橋の架け替えの度に、利用者に資金強力をお願いする記録が残る。橋の維持管理は結構大変たったようである。設置の権限は普請方役所にあるも、維持管理は各持ち場の負担。熊川村には橋普請のため、無年貢地である「橋木山」を用意していたほどである。

熊野橋

清厳院橋からは玉川上水に沿って小径が続く。先に進むと熊野橋に。この橋から多摩川を渡り、あきるのに続く県道7号は平井川を越えて青梅線・東秋留駅近くの二宮神社へと向かう。いつだったか、二宮神社を訪ねたことがある。崖下の湧水が思い起こされる。
熊野橋は承応2(西暦1653)年、玉川上水の開削に際し、村の農道として架けられた。往昔、付近に熊野権現があったのだろう。現在は歩道橋が跨ぎ、往昔の面影はないが、歩道橋から眺める多摩川対岸の山稜の景観はなかなか、いい。

かやと橋熊野橋を越え、都道29号を進む。右手の小高い堤のため玉川上水は眼に入らない。県道と上水の間には駐車場があったり、ガソリンスタンドがあったりと、緑道といった風情でもない。ほどなく、「かやと橋」に。橋の名前の由来は福生市志茂の字である、萱戸、から。橋は新しく、昭和49年に上水の南に市立七小が開校され、上水北の学区となった志茂・牛浜地区の児童の通学用として設けられた。

牛浜橋

道の両側に民家が連なる奥多摩街道を進むと牛浜交差点。名前の由来は地名の字牛浜、から。この地は江戸から砂川方面を経て、牛浜の渡しを渡り、対岸の二宮から五日市、檜原へと続く往還であった。この道筋は五日市街道の一部を成すが、元和年間、というから17世紀の前半、甲州裏街道の警備のため檜原に檜原御番所が設けられたため、檜原御番所通り、とも呼ばれた。ために人馬の往来も多く、もとの木橋では維持・修理が大変、ということで、明治10年には石造アーチ橋に掛け替えた。愛称、眼鏡橋と呼ばれたこの橋も昭和52年には現在の橋に架け替えられた。

熊川分水口牛浜橋から先も、上水に沿って道はない。実際に眼にしたわけではないのだが、牛浜橋から200m下ったあたりに、熊川分水の取水堰がある、と言う。地図でチェックすると、スギ薬局福生店の裏手あたりに、ささやかな堰が見て取れる。この堰のあたりに分水口があるのだろう。その対岸には熊牛稲荷公園があるようだ。
この地で取水された水は、熊川神社の脇を抜け、石川酒造へと向かい、その先は福生南公園の崖から多摩川へと流れ落ちる。熊川村は多摩川の崖線上10mのところに開けた集落。多摩川からの取水は困難であり、熊川村の名主である石川家が中心となり、集落の上水と灌漑用水確保のため、そして、石川家の家業でもある酒造りの水車動力源として、玉川上水からの分水を望んだ。明治5年の運動開始から、完成まで17年の歳月をかけて完成し、昭和30年代に上水道が普及し始めるまでの間、熊川分水は熊川村民の生活を支えた。ちなみに石川家は先ほどメモした田村家の親戚筋とのことである。

青梅橋

奥多摩街道を更に進み、福生第三中学校手前を左に折れ、玉川上水に架かる青梅橋に。所謂、江戸から青梅に向かう青梅街道(成木街道)、と言うよりも、立川や拝島、羽村から青梅方面へと向かう街道、といった通称ではあろう。もとは、農作業に使う作場橋といったささやかなものであったが、昭和36年、現在の橋となった。 福生橋から山王橋に青梅橋からは、少し北に進み新奥多摩街道に入る。先に進むと、ほどなく福生橋。幅15mほどではあるが、それでも玉川上水に架かる橋としては最大のもの、と言う。福生橋の北詰で新奥多摩街道を離れ、民家の間を成り行きですすむと上水脇にでる。先に進み山王橋に。往昔、付近の山王権現の石塔があった、とか。





五丁橋

山王橋から北東に向かい青梅線の踏切を渡り、右に折れ、青梅線に沿って成り行きで進み、五丁橋に。五町歩の耕地があったから、とか、五丁山と呼ばれる山林があったから、など、橋名の由来は諸説ある。

みずくらいど公園五丁橋を渡り、青梅線の手前を左に折れ、先に進むと「みずくらいど公園」。現在の玉川上水は公園北を通るが、小山を隔てた公園南には玉川上水の旧跡が残る。開削当時の上水の姿が残っており、堀跡に入ると、その規模感に少々圧倒される。「みずくらいど」は、水喰土。水が地中に吸い込まれる、といった言い伝えが残る地であった。この地まで掘り進んだ上水ではあるが、言い伝えそのままに、水を通すことができなかったため、現在の流路に変更した。旧路は、この公園南側の立川崖線に沿って南に延び、武蔵野公園付近で北に方向を変え、西武拝島駅前の玉川上水・平和橋の付近までおおよそ1キロほど残っていたようだが、現在、上水旧跡はこの公園内に残る、のみ。
羽村から堀り進んだ玉川上水は、この地の水喰土に阻まれ流路を変えた。実のところ、流路変更はこれがはじめてではない。そもそもが、取水口も地形・地質に阻まれて二度変更している。最初の取水口は、現在の日野橋下に取水堰を設け、青柳崖線に沿って谷保田圃を抜け、府中まで掘り進めたが、大断層に阻まれ、水を地中に吸い込まれ断念した。二度目の取水口は熊川から。これも途中大岩盤に阻まれ断念した、とか。羽村口を取水口としたのはその後のことである。羽村口からの取水については川越藩士である、安松金右衛門の助言を受けた、ともある。幕閣における玉川上水計画の中心となった川越藩主・松平伊豆守信綱としては、川越藩の領地でもある野火止の地に水を送るには、取水口は羽村くらいの標高から水を通す必要があった。羽村口から取水できれば、途中から分水で野火止に水を供給できるため、安松金右衛門に命じ、羽村からの詳細な水路図も作成していた、とも言われる。ともあれ、羽村から掘り進んだ水路も、この水喰土で流路を北に変更し、先に水を流すことができた。

武蔵野橋その流路に沿って先に進む。左手に上水、右手に小山。時に小山に上り、南の旧路を眺めたりしながら八高線をくぐり、玉川上水緑地日光橋公園の雑木林を楽しみながら進むと国道16号・東京環状と交差。玉川上水、八高・青梅・五日市線を跨ぐ跨線橋となっている。昭和40年のこの跨線橋の開設により、信号待ちの渋滞は大いに改善された、とのこと。

日光橋東京環状を越え、先に進むと日光橋。その昔、日光橋との間に昭和38年(1963)まで、熊川水衛所があった、とのことである。分水口の開閉、塵芥の排除などの業務をおこなった水衛所も、昭和40年、新宿の淀橋浄水場が閉鎖され、その機能を東村山浄水場に統合・移転するに先立ち、砂川水衛所、小川水衛所とともに小平監視所に統合された。日光橋は、日光街道に架けられたのが名前の由来。当初、江戸防衛の西の拠点に揃った、八王子の千人同心も、天下泰平の世となり、その役割も様変わりし、家康の眠る日光東照宮警備をその職務としたため、八王子と日光を往復した、とのことである。明治24年には煉瓦積みアーチ橋となったが、昭和25年に現在の橋に架け替えられた。





平和橋

日光橋を越えるとほどなく平和橋。橋の手前の線路は横田基地への貨物引き込み線。平和橋は、地元篤志家による命名、とか。平和橋の南は拝島駅がある。拝島って、ずっと拝島市、と思っていた。拝島大師といった知られたお寺さまの名前が「刷り込まれて」いたのだろう、か。それはともあれ、拝島村と昭和町が合併し、昭島市となった。拝島の名前の由来も、拝島大師に関係がある、とか。多摩川の中州「島」に大日如来観音が流れ着き、これをお堂に安置して、「拝む」ようになった、とのことである。

拝島分水口この橋の南詰め東側に分水口がある。分水の開通は元文5年(1740)年、あるいは更に早いという説もある。分水はここから南方へ流れ、拝島宿に引かれ、生活・農業用水として利用されていた。当時の拝島村は日光街道(現奥多摩街道)の宿場として、八王子や甲州と江戸や日光を往来する人々で賑わっていた。拝島宿の中央を奥多摩街道に沿って東に流れた拝島分水は、田中村で多摩川より取水した九ケ村用水(17世紀後半頃には既に完成;通称「立川堀」)合流し、宮沢・中神・築地・福島・郷地・柴崎の村々を灌漑し、柴崎村で再び多摩川に注いでいたようである。
高橋源一郎の著書「武蔵野歴史地理」には、「ここ拝島は、市場としては誠に典型的の場で、南、八王子の方より来れば、下宿の入口にて道路は画然一屈曲し、これより西北中宿を経て上宿となり、上宿の出口で又一屈曲している。用水路が道路の中央を流れていた」と分水の様子が描かれている。
拝島分水口からの水路は一部付け替えられているが現在も流れているようだ。水路は、JR拝島駅の南側から松原・小荷田地区を通り、そのまま奥多摩街道に沿って拝島大師表門前を通過し、多摩川から引かれた昭和用水に合流している。ちなみに、昭和用水は、取水量の減ってきた九ヶ村用水取水口の替わりに昭和8年(1933)年に設けた堰。九ケ村用水取水樋門跡や昭和用水取水口から水路跡を辿った記憶が、メモをしながらよみがえってきた。そういえば、これら用水散歩のメモは未だ書いていない。再度歩き直し、メモをまとめてみようかと思う。

殿ヶ谷分水口跡拝島分水口から、ほんの少し下流の対岸に殿ヶ谷分水口跡がある。玉川上水に小さな堰がある。このあたりが、分水口のあったところだろう。殿ヶ谷分水は「享保の改革(将軍吉宗)」による新田開発の奨励により、享保5年(1720年)に開削され、現在の立川市西砂地区・昭島市の美堀地区(宮沢・中里・殿ヶ谷新田)の生活・農業用水に利用された。現在は、宅地化が進み、用水路は埋め立てられ、その一部は「殿ヶ谷緑道」として残る、のみ。

こはけ橋西武拝島線の手前に「こはけ橋」。地名の字小欠(こはけ)、から。こはけ橋の少し手前に拝島原水補給口がある、と言う。玉川上水は水質保護のため、上水の両側が金網で保護されており、補給口はみることができなかった。この原水補給口には、多摩川昭和用水堰で取水した水を、拝島第四小学校前の原水補給ポンプ場からおよそ2キロ、ここまで送られてくる。昭和16年頃、東京への上水供給が不足するおそれがあったためつくられ、現在も機能しているとの、こと。

ふたみ橋西武拝島線を越えるとき、玉川上水緑道の左岸が通れなくなる。右岸の西武拝島線の踏切を越えると人道橋である「ふたみ橋」に出る。これからが武蔵野台地の稜線部を辿る散歩のはじまりのように思える。西武拝島線って、小川駅から玉川上水駅までは元は、日立航空機立川工場への専用鉄道であり、小川駅から荻山駅間も同様に陸軍施設への引き込み線など、いろんな歴史をもった路線を集めて1968年、玉川上水駅と拝島駅が結ばれ、西武拝島線ができあがった、とか。

拝島上水橋
こはけ橋から拝島上水駅までの間、400mほどは玉川上水北側には、鬱蒼とした樹木が生い茂り、誠にもって、美しい景観が続く。拝島上水橋を越えると、上水南側には昭和の森ゴルフコースが拡がる。ゴルフコースを見やりながら、美堀橋を越えると、上水は一旦、暗渠となる。この暗渠は昔、このあたりに陸軍の飛行場があった時に、整備された、とか。「玉川上水は美堀橋を越えたすぐ先で300m程の暗渠に入ります。これは戦時中、上水の南側にあった飛行場の滑走路を延長するため、上水に蓋をした名残と言われています。ここは西武立川駅からすぐの所で、当時の飛行場だった場所は現在はゴルフ場になっています。」との案内があった。日も暮れてきた。地図を見ると、すぐ北に西武拝島線・立川駅があった。玉川上水散歩、第一回はここで終了。一路、家路へと。

玉川上水散歩そのⅠ;序

いつの頃だったか、今となっては、はっきりしないのだが、玉川上水を羽村の取水口から四谷大木戸まで、歩いたことがある。散歩を初めて、それほどたっていなかったと思うので、2005年の頃だとも思う。羽村から四谷大木戸まではおおよそ43キロ。標高差92mということなので、平均千分の二、という緩やかな勾配の台地稜線部・馬の背を4回だったか、5回だったか、それもはっきりしないのだが、のんびり、ゆったり辿ったことがある。
きっかけは自宅の杉並区和泉から京王線明大前駅への通勤・通学路途中にある公園に、橋を模した欄干があり、ふと眼を止めたことに、ある。九右衛門橋とあった。川など、どこにもその痕跡は見あたらないのだが、そこは玉川上水の水路を埋めて整備した公園であった。
地図を見ると、環八辺りから新宿までは、代田橋・笹塚駅近辺の一部を除き、川筋は埋められ暗渠となっている。一方、その上流は多摩川の取水口まで開渠となっており、往昔、江戸の人々に潤いをもたらし、武蔵野の新田開発の水源ともなった流路が未だ残っていることを知り、その流路をとりあえず、取水口から辿ってみようと思ったわけである。
このときの「玉川上水一気通貫」の散歩に後も、折り触れ、玉川上水は歩いた。代田橋から新宿まで、玉川上水跡を整備した公園を歩いたのは、十回はくだらないだろう。逆方向、下高井戸から環八の西、開渠が暗渠にもぐる浅間橋跡まで、そして、浅間橋から井の頭までも、また、井の頭から三鷹まで、時には、玉川上水駅から三鷹まで下ったこともある。
野火止用水や千川用水跡を歩くため、玉川上水からの分水口を探しに出かけたこともある。狭山の箱根ヶ崎から下る残堀川を辿り、玉川上水とクロスしたこともある。ことほどさように、玉川上水は、あまりに「身近な」ものとなってしまい、頭の中では既にメモを書き終えたような気になっていた。
先日、近くの図書館に行き、『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』と『玉川上水;アサヒタウンズ編(けやき出版)』を読み、長らく「熟成」させていた、メモをまとめてみようと思いはじめた。いつだったか古本屋で買った、『玉川上水物語;平井英次(教育報道社)』、『約束の奔流・小説玉川上水秘話;松浦節(新人物往来社)』、『玉川兄弟;杉本苑子(朝日新聞社)』、なども読み直した。幾度となく歩いた玉川上水ではあるが、時間軸は数年前のことであったり、つい最近のことであったりと、首尾一貫のメモからはほど遠い。失われつつある時を求めての玉川上水散歩のメモ、あるいはくっきり、あるいはぼんやり、とした風景を思い浮かべながらメモをはじめる。



本日のルート;青梅線・羽村駅>五ノ神社・まいまいずの井戸>新奥多摩街道>「馬の水飲み場跡」>禅林寺>都水道局羽村取水所・羽村堰>玉川水神社>陣屋跡>羽村堰第一水門>羽村堰第ニ水門>羽村橋>羽山市郷土博物館>羽村堰第三水門>羽村導水ポンプ所>羽村大橋>堂橋>新堀橋>加美上水橋>宮本橋>福生分水口>宿橋>新橋>清厳院橋>熊野橋>かやと橋>牛浜橋>熊川分水口>青梅橋>福生橋>山王橋>五丁橋>みずくらいど公園>武蔵野橋>日光橋>平和橋>拝島分水口>殿ヶ谷分水口跡>こはけ橋>ふたみ橋>拝島上水橋>西武拝島線・立川駅

青梅線・羽村駅
玉川上水の取水口の最寄り駅、青梅線・羽村駅に下りる。駅近くの観光案内で、辺りの見所を探す。取水口は駅の西ではあるのだが、駅のすぐ東に「五ノ神社」があり、そこに「まいまいずの井戸」がある、と言う。五ノ神社という名前にも惹かれるし、「まいまいずの井戸」も見てみよう、ということで、五ノ神社に。

五ノ神社・まいまいずの井戸
五ノ神社は創建、推古九年、と言うから西暦601年という古き社。『新編武蔵風土記稿』によると、熊野社と呼ばれていた、とか。この辺りの集落内に「熊野社」「第六天社」「神明社」「稲荷社」「子ノ神社」の神社が祀られており、ためにこの辺りの地名を五ノ神と呼ぶ。地域の鎮守さま、ということで五ノ神社、となったのであろう、か。熊野五社権現を祀っていたのが社名の由来、との説もある。
神社の名前の由来はともあれ、境内にある「まいまいずの井戸」に。すり鉢状の窪地となっており、螺旋状に通路が下る。すり鉢の底に井戸らしきものが見える。すり鉢の直径は16m、深さ4mもある、とか。何故に、井戸を掘るのに、これほどまでの大規模な造作が、とチェックする。井戸が掘られたのは鎌倉の頃。その頃は、井戸掘りの技術も発達しておらず、富士の火山灰からなるローム層、その下に砂礫層といった脆い地層からなる武蔵野台地では、筒状に井戸を掘り下げることが危険であったので、このような工法になった、とか。狭山にある「堀兼の井」を訪ねたことがある。歌枕にも登場する堀兼の「まいまいずの井」よりも、こちらのほうが、しっかり昔の形を残しているようだ。

新奥多摩街道
羽村駅に戻り、西口から渡り道なりに進む。新奥多摩街道を渡ると、道脇に「旧鎌倉街道」の案内:「北方3キロ、青梅市新町の六道の辻から羽村駅の西を通り、羽村東小学校の校庭を斜めに横切り、遠江坂を下り、多摩川を越え、あきる野市折立をへて滝山方面に向かう。入間市金子付近では竹付街道とも呼ばれ、玉川上水羽村堰へ蛇籠用の竹材を運搬した道であることを物語る」、とある。
旧鎌倉街道の多摩川の渡河点は現羽村大橋と永田橋中間付近。多摩川を渡ると、慈勝寺東側の多摩川崖下を東進、草花台から森の下、平井川を渡って、平沢、野辺、東郷、へと下る。
鎌倉街道と言えば、高尾から秋川、青梅を越えて秩父に進む鎌倉街道山ノ道()を辿ったことがある。また、西国分寺から東村山、狭山、毛呂山、武蔵嵐山へと進む鎌倉街道上ッ道も、断片的ではあるが歩いたことがある。八王子の平井川を下ったときは、その道筋は鎌倉街道の支道といったものであった。この案内の旧鎌倉街道も山ノ道とか上ノ道といった鎌倉街道の「幹線」からは外れており、支道といったものであろう、か。とはいうものの、「鎌倉街道」といったものが実際にあった訳ではなく、昔よりあった道を整備し、鎌倉への往来を容易にした、といったもの、その総称が「鎌倉街道」と呼ぶようでは、ある。

ハケ村
新奥多摩街道を離れ、多摩川の段丘崖を開いた切り通し坂道を下る。段丘崖のことを「ハケ」と呼ぶ。羽村の地名に由来は「ハケ」村が「ハ」村に転化したとの説がある。武蔵野台地の西端であり、「ハシ」村からの転化との説もある。地名の由来は、例によって、諸説、定まることがない。

「馬の水飲み場跡」「ハケ」の坂を下ると坂の右手の石垣に「馬の水飲み場跡」の案内。急坂を往来する馬の水飲み場跡であった。農産物の運搬だけでなく、明治27年青梅線が開通して以降は、多摩川の砂利を羽村の駅まで運んだ、と言う。

禅林寺
多摩川に向かって坂を下る。道の右手にお稲荷さま、左手にお寺さま。坂も寺坂と呼ばれるようだ。お稲荷様にお参りし、お寺様の境内に。禅林寺と呼ばれるこの寺には中里介山が眠る。中里介山と言えば、未完の大作『大菩薩峠』で知られる。その『大菩薩峠』で長い間、疑問だったことがあった。何故に、一介の素浪人が、こともあろうに、また、酔狂にも大菩薩峠といった高山に上り、旅人を殺めなければならないのか、理解できなかったのだが、中世の古甲州街道(大菩薩峠)を辿って、その疑問は氷解した。大菩薩峠って、中世には武蔵と甲斐を結ぶ甲州道中であり、江戸にはいっても、高尾から大垂水峠を越え、上野原から小仏峠越えで甲州に進む甲州街道の裏街道として、当時の幹線道路であった、ということである。今で言えば国道1号線での事件といったものであった。

境内には天明の義挙を顕彰する「豊饒碑」が残る。天明2年(1782)の大飢饉、翌年の浅間山の大噴火などにより、農民が疲弊・困窮、全国で農民一揆が起きた。この多摩においても、農民の窮状を憂えた、羽村の指田、森、島田、嶋田ら名主・組頭といった九名が、穀類の買い占めを計る富商・農家の打ち壊しを計画。天明4年、箱根ヶ崎村の池尻(狭山池)に2万とも3万とも、と伝わる農民が集結。その規模において、武州世直し一揆といった、幕政を揺るがすほどのものとなった動きに対し、幕閣は強圧策で臨み、首謀者9名と十数か村の63名は捉えられ獄死した。先日、農民が集結した、と言う箱根ヶ崎の狭山池を歩いた。その時のメモで、幕末に官軍に反発する幕府の振武隊も箱根ヶ崎に留まった。今は静かな箱根ヶ崎ではあるが、往昔、青梅筋、狭山筋から青梅街道をへて江戸と結ぶ、交通の要衝であった、ということを、改めて実感した。

都水道局羽村取水所・羽村堰
禅林寺を離れ、県道183号を道なりに進み、多摩川沿いを走る奥多摩街道に出る。多摩川の対岸には草花丘陵が連なる。道を少し上手に進むと玉川上水の取水口が見えた。羽村堰第一水門だろう。豊かな水が蓄えられている。
その左手に鉄製の水門といった形の堰、その先にはコンクリートの堰、さらにその先には河川敷が拡がる。鉄製の水門は「投渡堰」と呼ばれている。多摩川に4本の橋脚を据え付け、その前に杉丸太を組み、砂利によって水を堰止めている。そして、その杉の丸太上部を3本の「鉄の梁」で固定している。その「鉄の梁」を「投げ渡し」とよぶようだ。増水時には「鉄の梁」をウィンチで巻き上げ、水圧で杉丸太を倒し、砂利ごと水を下流に流すことによって水位を落とし、水門を守る。現在は「鉄の梁」ではあるが、昔は、その投げ渡しも木材であったことは、言うまでも、ない。
その先のコンクリートの堰を「固定堰」と呼ぶ。昔は、蛇籠とか牛枠・三角枠等と言った竹や木材と石を組み合わせて造った枠、というか、現在で言うところのテトラポットで堰を築いていた、と言う。牛枠は、胴体は蛇篭に詰められた砂利であり、頭が三本の木材を組み、斜めに付きだしている、といったその形状から名付けられたものであろう。

河川敷にも、蛇籠とか牛枠らしきものが点在する。多摩川はこの堰に少し上流、丸山付近で、ほぼ直角に曲がっているが、その水勢や水路を制御し、平時には効率よく見水を一直線に取水口に導き、増水時には護岸を守るために置かれているのだろう。
投渡堰と固定堰の境はスロープ状になっている。そこは、江戸の頃、奥多摩や青梅で切り出した木材を筏に組んで多摩川を下った、筏師たちのたの「筏通し場」の跡である、とか。
「きのう山さげ きょう青梅さげ あすは羽村のせき落とし」、と歌われた、多摩川の筏流し。奥多摩・青梅の山の材木を多摩川に流し(山さげ)、鳩ノ巣渓谷の岩場を超した沢井のあたりで材木を三枚に繋ぎ(青梅さげ)、羽村まで下る。羽村の堰ができるときは、筏師と工事関係者では一悶着あったことだろう。が、所詮、堰はお上の普請。筏師が敵うべくも無く、筏師は堰通過に細心の注意を払う、のみ。当初、堰の修理費は筏乗りの負担であった、とも。筏流しは羽村から六郷までおおよそ四日。日当も農作業の倍以上で、割りのいい仕事であった、よう。筏師の仕事は大正の頃まで続いたようである(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)。

玉川水神社

奥多摩街道から羽村の水門と堰を眺め、さらにその少し上流にある玉川水神社と陣屋跡に進む。玉川水神社と陣屋跡は隣り合わせて並んでいた。玉川水神社は、承応3年(1654)、玉川上水の完成をもって、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟が「水神社」を吉野の「丹生川上神社」より勧請した、と。「丹生川上神社」は白鳳時代、というから7世紀とか8世紀の創建と伝わる古社。「ミズハノメノカミ」「ミクマリノオオカミ」を祭神とする。もとは、「水神宮、などと呼ばれていたのだろうが、明治になって玉川水神社となった。水神社の境内には「筏乗子寄進灯籠」が残る。
玉川庄右衛門・清右衛門兄弟とは、玉川上水工事を請け負った兄弟。羽村在の加藤家の一族で、江戸で枡屋の屋号で割元、というから、土木工事への「人材派遣」を生業にしていた、とも、江戸柴口の商人とも諸説ある。上水完成の誉れ、として苗字帯刀を許され、「永代御役」をつとめ、年額二百石分の金子の給付をうけることになった。玉川の名を賜ったのは、その時以来である。玉川用水開削の計画は承応元年(1652)、川越藩主・松平伊豆守信綱等の幕閣により決定、町奉行神尾備守に多摩川を水源とする上水の開削の事業計画の立案を命じた。いくつかの業者の入札をおこない、工事請負代金六千両で玉川兄弟が落札。入札金額は九千両から四千五百両まで幅があり、その金額の妥当性については、水利事業のスペシャリストであり、上水計画の実施にあたっては上水奉行(道奉行)に就いた関東郡代・伊奈半左衛門の知見を重視した、とのことである。工事着工は承応2年(1653)4月、8ヶ月後の承応2年(1654)11月には、四谷大木戸まで、およそ43キロの上水路開削が完成した。江戸の町に水が流れたのは翌年、承応3年(1655)6月のことである。

家康が入府した頃の江戸は、低地は一面の汐入の地。日比谷の辺りまで入り江拡がっていた。その低湿地を埋め立て、武家屋敷や町屋の敷地をつくるも、問題は飲料水の確保。埋め立ててつくった江戸の町から掘り出す井戸水は塩気が多く、飲料水とはなり得ない。上水を確保すべく、赤坂に溜池を堀り、湧水を上水用としたり、小石川の水を上水としたり、井の頭の水を水源とする神田上水を整備するなどして江戸の町を潤すも、町の急速な発展には従来の上水網では追いつかず、多摩川からの水を江戸に導くことになった。これが玉川上水である。

陣屋跡
明和六年(1770)、玉川上水の管理を、それまでの民間の上水請負人を廃止し、幕府の直轄支配となってからの現地管理事務所、といったもの。「出役」と呼ばれる幕府の役人3名が三ヶ月交替で勤務。その下の、水番人や見廻り役を差配し、上水流量の増減による分水口開閉の立会、水路の巡視、塵芥の除去、四ッ谷大木戸水番人・御普請方役所への連絡、橋の監理などをおこなった。

羽村に2名、砂川村に1名(見廻り役)、代田村に1名、四ッ谷大木戸に1名、赤坂溜池に1名、計5カ所に六人の水番人を置き、砂川村以外には水番所が設けられていた、と(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)。

幕府による上水管理・支配は幾度となくその支配替えをおこなっている。開削当初は玉川上水奉行・関東郡代である伊那半十朗忠治の支配下に玉川兄弟(玉川庄右衛門、清右衛門)が「上水役」としてその任にあった。江戸に5人の手代、羽村に二人、代田に一人、四ッ谷に一人の手代を置き、羽村大堰の管理、上水路の補修・維持管理を行い、水銀の徴収をおこなった。(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)。
杉本苑子さんの『玉川兄弟』によれば、水の取水口の見込み違いなどで工事代金が増え、二千両を自己負担することになった庄右衛門・清右衛門兄弟に対し、関東郡代・伊那半十朗忠治が水銀の徴収の権利を与えるよう幕閣に訴えた、とある。また、別説では、当初、水銀の徴収といっても、単に集金業務だけであり、収入は幕府に入り、年額二百石の給付金では上水の維持管理・水銀の徴収のコストはまかないきれず、万治2年(1659)、二百石の給付金を返上する代わりとして、水銀の徴収による収入を認めてもらうよう玉川兄弟が幕府に訴え、それが認められた、ともある。どちらが正確か、門外漢にはわからないが、ともあれ、以降は水銀の徴収による収入で上水運営に関わるすべてのコストをカバーするようになる。
玉川上水奉行支配ではじまった玉川上水の運営体制であるが、寛文十年(1670)には、町年寄(奈良屋市右衛門、樽屋藤左衛門、喜多村彦兵衛)の支配下となる。町年寄って、江戸の町屋の自治支配体制の頂点であり、その町年寄は町奉行の支配下、と言うことであるから、結局は上水の支配役は町奉行の傘下となったと、言うことだろう。その頃までには四谷大木戸から江戸の町へと石樋や木樋で結んだ上水路整備も一段落し、上水の運営・支配は、上水工事担当役員から江戸の町の行政担当役員に担当替えした、ということ、かも。この町奉行支配も元禄六年(1693)には、道奉行支配となる。
元文四年(1739)には、玉川両家の上水管理業務は、その懈怠故に、職を免ぜられた、とある。その理由は定かでは、ない。定かではないが、単なる業務上の問題以上に、政治的な思惑が働いているように思える。そもそもが、水銀の徴収とは、使用・不使用にかかわらず、上水網がカバーする地域からは、有無を言わさず徴収するものであり、一種の税金のようなものである。その税金を一介の請負人に任せるのは幕府の官僚としては心穏やかならず、といったものであったろう。官僚は、機会を見てこの既得権益を取り戻そうと考えていたことと、思う。
その既得権益を取り返すきっかけには、武蔵野の新田開発への分水問題が大きく関係しているようにも思える。亨保7年(1722)、将軍吉宗の新田開発推進策を実行するため、武蔵野に多くの新田が開発され、そこに玉川上水からの分水を流した。従来、玉川家は、上水は水銀、灌漑用水は水料米として徴収していたが、武蔵野新田は水料を免除されていた、と言う。玉川家と武蔵野新田開発担当の幕府役人との間には、いろいろと軋轢が起きていた、と想像できる。こういった状況の中で、玉川家が起こした、なんらかの瑕疵を捉え、この時とばかり、罷免へと持ち込んだのであろう。支配役の担当替えが多かったのも、その一因とも思う。支配役が同じであれば、開削当時の状況も忖度し、開発の貢献者の子孫の水元役をすべて剥奪するといったこととは、違った状況になっていたか、とも思う。

それはそれとして、それにしても、散歩でいくつかの用水を訪ねたのだが、民間主導で行われた用水工事は最終的には、その功績を「無」とする傾向が武家側に多いように見受けられる。工期4年、延べ80万の人夫を動員し箱根の外輪山を穿ち、深良へと芦ノ湖の水を通した、希有壮大なる「深良用水」の工事請負人である江戸の商人・友野某の工事後の消息は不明である。獄死した、との説もある。箱根と言えば、箱根湯本から小田原の荻窪へと岩山を穿ち、「荻窪用水」を完成させた川口廣蔵については、個人の記録はおろか、工事の記録そのものもほとんど残っていない。稀代の事跡を商人如きに、との武家・小田原藩の作為の所作であろう、か。

玉川兄弟の罷免の後、町奉行の支配下に神田上水の請負人でもあった鑓屋町名主長谷川伊左衛門、大据町名主小林茂兵衛が、神田・玉川上水の監理をおこなう。明和五年(1769)には町奉行所管から普請奉行支配下に代わるも、翌年、上水請負人が廃止され、幕府の直轄支配となる。玉川兄弟が上水役から罷免され、わずか30年ほどで、幕府官僚の思惑通りの上水支配となった。陣屋跡からだけでも、あれこれ空想・妄想が拡がってしまった。玉川上水散歩の第一回は、実際は拝島を越え、西武拝島線・立川駅当たりまで下ったのだが、イントロのメモが少々長くなった。上水を辿る散歩のメモは次回から、とする。

土曜日, 7月 30, 2011

吉備散歩;高松城水攻め跡からはじめ、思わず古代吉備王国を彷徨うことに


関ヶ原の合戦に続いて、備中高松城の水攻めの跡を辿ることにした。特段に、合戦地フリーク、というわけではないのだが、田舎の愛媛に帰る途中、岡山から四国へ常に直行も味気ない、どこか岡山乗り換え地近くで、半日程度歩けるとところはないかと、新幹線車内で地図を眺める。と、岡山駅から総社に向かう総社線・備中高松駅近くに、「高松城水攻築堤跡」が目に入った。秀吉の水攻めで知られる備中高松城が、新幹線岡山駅から20分程度。こんな近くにあるとは思わなかった。これが、備中高松へと向かうことになったきっかけである。

いつもながらの、行き当たりばったり、成り行き任せの散歩ではあるが,備中高松までの総社線の車窓に、備中一宮駅とか、吉備津彦神社とか、なにか有り難そうな場所が登場する。また、備中高松駅を下り、近くの観光案内を見ると、造山古墳とか、備中国分寺・国分尼寺跡といった、これまた、なんとなく有り難そうな遺跡がある。すべて後でわかったことではあるのだが、このあたりは古代に大和朝廷と張り合うほどの力をもっていた、吉備王国の中心地であった。高松城水攻め跡巡りがきっかけで始めた散歩ではあるが、気がつけば古代吉備王国のど真ん中を歩くことになっていた。事前調査無し、成り行き任せのため、「後の祭り」が多いのだが、今回ほど、そのことを実感したことは、ない。次回、田舎に帰るときには、今回取りこぼしたところをキチン、と辿ることを楽しみに、ということで、吉備の国への最初の散歩をはじめる。



本日のルート:JR岡山駅>吉備線・備中高松駅>蛙ヶ鼻築堤跡>最上稲荷の大鳥居>史跡船橋>高松城址公園資料館>本丸跡>宗治自刃跡>足守川の取水口跡>造山(ぞうざん)遺跡>備中高松駅

吉備線
岡山駅で新幹線を下り、吉備線に。元は高梁川の舟運の地、総社市湛井と岡山を結んだもの。備中松山や新見の当たりから高橋川を舟運で下ってきた物産を岡山に運ぶために建設された。後に高梁川に沿って伯備線が建設され舟運が衰退するとともに、湛井駅を廃し、総社駅で伯備線と繋げている。ワンマン運転の気動車には学生が溢れ、ローカルな雰囲気が如何にも、いい。岡山駅を離れ、備中高松駅までに幾つか駅があり、各駅に停車するのだが、その駅名も誠に興味深い。

備前三門駅:岡山を出て次の駅が、備前三門。三門という名前に惹かれる。「さんもん」ではなく、ここでは「みかど」と呼ぶ。お寺の「三解脱門」に由来する、と。「三解脱門」とは、涅槃(悟り)に至るために通過しなければならない三つの関門(空・無作・無相)を寺の門に擬したもの。駅の近くに妙林寺とか常福寺が地図に見えるが、この三門は常福寺のものの、よう。その昔、参勤交代の殿様が門の前を通るとき、籠の扉を開けて頭を下げた、とも伝わるようであり、格式の高い門であったのだろう。
ちなみに、山門とは門、というより、寺院そのものを指すようだ。元々寺院は山中にあり、山中の寺門、といった意味であったものが、近世、寺院が平地に建てられるようになってからも、特に禅宗寺院で使われるようになった、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

大安寺駅;次の駅が大安寺。如何にも大寺を思い起こさせるこの駅名にも惹かれる。近くにそれらしき寺院は見かけられない。チェックすると、駅名の由来は此の辺りがその昔、奈良の大寺・大安寺の庄園があったことによる、と。大安寺は聖徳太子創建縁起をもつ、南都七寺のひとつ。奈良から平安前期にかけては、東大寺、興福寺と並ぶ大寺であった。
大安山駅の北に矢坂山という標高131m程度の独立丘陵がある。往昔、八坂山の西側は入り江であり、「奈良の津」と呼ばれていた、とのことだが、この入り江の東側に50町歩に及ぶ大安寺の庄園があった。公地公民が律令制の基本、とはいいながら、寺社はその「公共性」故に、田畑の私有が認められていたため、9世紀から12世紀に渡る平安時代、奈良・京都の社寺、貴族たちは荘園になるべき土地を朝廷から貰い受け、開拓していった。
この吉備の国には河川の扇状地や浅瀬の干潟など埋め立て・開墾に適した土地が点在している、これに目をつけた中央の大社寺は競って朝廷からこの土地を手に入れ開拓荘園を作っていった、と言う。この大安寺のあたりも、笹ヶ瀬川や中川、辛川、西辛川といった川筋が、八板山の西で合わさる。これら幾多の川によって形づくられた干潟を朝廷から貰い受け、大安寺が直接開拓し、荘園としたのであろう、か。
「濃尾の入り海」と呼ばれ、一面の干潟であった濃尾平野の干拓には、東大寺と地方の豪族のコラボレーションで数多くの東大寺荘園が作られている(『日本人はどのように国土をつくったか・地文学事始;学芸出版社』)。東大寺の財力と地元の労働力のコラボであろう。翻って、この地をみるに、大安寺の駅の北にある矢板山には50近くの群集墳がある、と言う。これら豪族が、濃尾での東大寺と同じスキームで大安寺より資金を借りて干潟を干拓し、その一部を庄園として寄進した、といったことも考えられる。
専門家ではないので、どのようなスキームで大安寺庄園が形づくられたのか定かではないが、日本の国土は基本、低湿地の埋め立てによって造られていったわけであり、大安寺庄園というキーワードがきっかけとなり、古代吉備の国つくりまで、空想・妄想は拡がっていく。

吉備の穴海
「濃尾の入り海」、と言えば、このあたり、岡山平野は往昔、「吉備の穴海」、と呼ばれる内海であった。今から約6,000~7,000年前は、縄文海進期と呼ばれ、現在よりも温暖な気候でもあり、海水面が現在よりも数m高かったと言われる。カシミール3Dで地形図をつくり、標高4mまでを「水色」で塗ってみると、児島半島を南に、20余の島々が点在し、岡山平野が環状に島で囲まれている。これが吉備の穴海といったものだろう。
その後、気候の寒冷化、中国山地に源を発する吉井川、旭川、高橋川によって運ばれる土砂の沖積作用によって、穴海が次第に埋められ、干潟となってゆく。また、河川による沖積作用は、この地方で盛んに行われたタタラ製鉄の発達により更に加速されることになった、と言う。「真金吹く吉備の国」、良質の鉄の一大産地と言われた中国山地では、タタラ製鉄に必要な火力を確保するため木材が伐採され、山々が荒れ、結果、崩れた大量の土砂が干潟に流れ込む、また山を崩して土砂を川に流すといった、砂鉄採取の製造プロセス故に、これまた、土砂が干潟に流れ込む。土砂に埋もれた河口は年々、南へと広がり、次第に干潟が埋められていった。
岡山城が築かれた16世紀末からは、吉備の穴海の大規模な干拓事業が開始される。宇喜多秀家に始まり、池田公が引き継ぎ、干拓事業は明治からさらに戦後まで続き、干潟が埋め立てられ、現在のような中国地方最大の平野がつくられた。岡山から児島までの四国連絡の車窓からは、現在では一面の平野が拡がり往昔の吉備の穴海を想像するのは少々難しい。

備前一宮・吉備津駅:大安寺駅の次は備前一宮駅。駅前には吉備津彦神社がある。如何にも有り難そうであり、高松城巡りの後に訪れることに。また、その次の駅は吉備津。駅前には吉備津神社がある。iPhoneでチェックすると備中一宮。ここにも吉備津彦が祀られる。これまた、有り難そう。高松城巡りの後、時間があれば立ち寄ることに。このときは、吉備津彦神社や吉備津神社の祭神である、吉備津彦が古代吉備の国を象徴する神であり、これら神社を山懐に抱える丘陵が多くの古墳を有し、吉備の中山とも呼ばれる古代吉備の国の中心地であったことなど、知るよしも、なし(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

備中高松駅
吉備津駅の次が備中高松。駅を下り、案内図を手に入れる。高松城水攻めに関する案内とともに、駅の西に造山遺跡とか備中国分尼寺跡とか備中国分寺跡が見て取れる。備中国分尼寺跡とか備中国分寺跡まで辿りたいとは思えども、さすがにそこまでの時間は、ない。せめてはと、古代吉備王国を代表する造山古墳へは辿るべし、と散歩コースをルーティング。
散歩のコースは、最初に足守川の川水を堰止めた築堤跡が残る、という築堤南端に進む。その後、高松城址を訪れ、次いで、足守川の水を築堤内へと取り込む取水口へと辿り、そこからは高松城水攻旧跡を離れ、古代吉備王国の象徴でもある造山遺跡へと進むことに。
ちなみに、高松の地名の由来であるが、今ひとつはっきりしない。香川県に高松市があるが、そこの地名の由来は、「大きく高い松があったから」、とか、「渡来人が常緑樹である松を、不老長寿の象徴としていたことから」といった説もあるが、平安時代の「和名類聚鈔」に高松の地が「多加津(たかつ)の郷」と記されている。この備中高松も、吉備の穴海の水際がこのあたりまで迫ってわけであろうから、たかの津、って可能性もある、かも。単なる妄想。根拠なし。

蛙ヶ鼻築堤跡
駅を離れ、少し南に成り行き出進み、石井山の南に残る蛙(かわず)ヶ鼻築堤跡に。築堤に上り整地された堤上を歩く。堤には樹木が茂っていることもあるのだろうが、この堤には人工的な趣きはあまり感じられない。この堤は、もともとの地形であり、築堤の南端として堤を石井山繋いだだけ、と言う人もいる。築堤は高さ7m余り、とも伝わるので、高さも少し低いようだ。
高松城水攻めの築堤は底辺24m、上幅11m、高さ7m。吉備線足守駅の少し下に築かれた取水席堰から、この蛙ヶ鼻まで3キロほど堰を築いた、とか。高松城攻めの主将秀吉に水攻めを進言したのは軍師・黒田官兵衛。工事は宇喜多勢が担当。12日間で築いたとのことであり、多くの百姓が賃金やお米と引き替えに動員されたのだろう。
城の水攻めと言えば、秀吉の小田原北条氏攻略の折の、忍(おし)城の水攻めを思い出す。埼玉の行田市にある「さきたま(埼玉)古墳群」を訪れたとき、その古墳のひとつ・丸墓山が忍城攻略の主将石田三成の本陣であり、水攻めのために築かれた堤が、現在も石田堤として残っていた。結局、忍城を落とすことができなかったが、そのプロトタイプがこの高松城水攻めであった、とか。

最上稲荷の大鳥居

築堤跡を離れ、成り行きで進むと県道241号に。いくつかの水路が県道に合わさる少し手前に、誠に強大な鳥居がある。この鳥居から北に2キロ強進んだところにある最上(さいじょう)稲荷の大鳥居である。正式名称は「最上稲荷山妙教寺」。日蓮宗のお寺でありながらの大鳥居。神仏習合の形を今に残す。
鳥居で大きいのは、この最上稲荷と京の平安神宮、そして大和の一宮である桜井の大神神社。高さは大神神社が32.2m, 最上稲荷27m,平安神宮は24.4m と全国第二位。柱径は最上稲荷4.6m, 平安神宮63m,大神神社3m と全国一位。重量は最上稲荷,2,800 t , 大神神社180t 、平安神宮不明と、圧倒的に全国一位。昭和47年建立の鉄筋コンクリート製の大鳥居である。なお、最上稲荷は伏見、豊川稲荷とともに、日本の三大稲荷(諸説ある)のひとつ、とも言う。
上に、神仏習合の形を今に残す、とメモした。明治の神仏分離令によって、それまでの、神と仏が渾然一体となった状態・神仏混淆を切り離すべし、となった。神仏習合・混淆とは、神は仏が衆生済度のために仮の姿で現れたもの、といったことであり、それはまた、教義を持たないが日本古来の宗教であり民衆と密接に結びついていた神様と、膨大な教義をもち、理論的裏打ちされたものではあるが、外来のもので民衆には少々有り難すぎるといった仏様のコラボレーション。両者の一長一短を補い、普及のために協業して発展してきた日本の宗教形態であろうが、明治元年の神仏分離令によって大半の寺社は神と仏に分かれた。この最上稲荷はどういった経緯か定かではないが、神仏習合の状態のままで今に続いているようである。と、あれこれメモしたが、こういったことも、メモの段階でわかったこと。後の祭りのひとつである。高松城へと先を急ぐ。

史跡船橋

県道241号を離れ、成り行きで田畑の中の道を西に進む。備中高松駅の北側を南北に通る道が水路とクロスするところに木製欄干の小橋が架かり、そこに史跡船橋の案内があった。
かつて高松城は北、東、そして西の三方を沼で囲まれ、城と外部は人ひとり通れるかどうかといった小径で結ばれていた。その小径、というか畦道が通っていた城の南側も秀吉軍との戦に備えて、あたりの低湿地・深田を堀り、外濠とした。八反堀と呼ばれたこの外濠と外部を結んだのが、舟を繋いでつくった船橋。城よりの出撃のときはこれを利用し、城に戻ると舟を撤去し外部との連絡路を絶った。その長さは64mほどもあった、と言う。

高松城址公園資料館左手に沼沢地を眺めながら道なりに進むと土蔵のような建物。資料館とあった。しばし資料館で時を過ごす。城主・清水宗治の陶像や秀吉、毛利勢の布陣図などが並ぶ。資料に寄れば、秀吉の最初の着陣は龍王山(現:最上稲荷)であったようだが、築堤開始頃には石井山が舌状に突き出た台地先端部に陣を移している。京より山陽道を下る信長を迎えるためである、とも。足守川の西、庚申山には吉川元春が布陣。吉備の中山の日差山には小早川隆景が陣を張る。また、1980年のこの辺りの洪水の写真などもあり、高松城水攻めに少々のリアリティが出てきた。資料を参考に秀吉勢、毛利勢の布陣をカシミール3Dで作成した。
資料館横の案内によれば、高松城とは、「備前の国に通じる平野の中心、しかも松山往来(板倉宿から備中松山城に至る)沿いの要衝の地にあり、天正10年の中国役の主戦場となった城跡。城は沼沢地に望む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築城された「土城」である。城の周辺には東沼、沼田といった地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀をなしていた。縄張りは方形(一辺約50m)の土壇(本丸)を中核にして、堀を隔てて同規模の二の丸が南に並び、さらに三の丸と家中屋敷とが、コの字状に背後を囲む単純な形態。本丸跡は江戸時代も陣屋として活用した」、と。
資料館の辺りは二の丸と三の丸の境、とか。城郭の構造は平城梯郭式。本丸、二の丸、三の丸は梯子のように縦に順に並び、それぞれが細い通路で結ばれていたようだ。

現地にあった「中国役に関する説明」と「高松城水攻略史の案内」をもとに、高松城水攻めの概要をメモする;今から約400年前の天正10年(1582)、全国統一を目指した信長は西進をはかり毛利と対峙。織田信長の命を受け羽柴秀吉は、3万の大軍をもって、備中国南東部に侵入。毛利方は備中境に境目七城を築き秀吉に備える。境目七城の兵力は、南から、宮路山城(兵400)・冠山城(兵300)・加茂城(兵1000)・高松城(兵5000)日幡城(兵1000)・松島城(兵800)・庭瀬城(兵1000)。毛利勢は足守川を防御ラインとしていたようである。
秀吉は諸城を次々と攻略し、最後に残ったのが備中高松城。秀吉は高松城の城主清水宗治に利をもって降伏するよう勧めたが、義を重んじる宗治はこれに応じなかった。高松城は深田や沼沢の中にかこまれた平城で水面との比高がわずかに4mしかなく、人馬の進み難い要害の城であった。攻めあぐねた秀吉は参謀黒田官兵衛の献策に戦史にも稀な水攻を断行、兵糧攻の策をとる。秀吉は、備前国主宇喜多氏の家臣千原九衛門勝利を奉行とし、3キロに及ぶ堤もわずか12日間で完成させた。時あたかも梅雨の頃で、増水した足守川の水を流し込み、たちまちにして188ヘクタールの大湖水ができ、城は孤立した。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

籠城1ヶ月を経て城兵が飢餓に陥った8月2日の未明、京都本能寺で信長は明智光秀に討たれた。秀吉はこれをかたく秘めて講和を急ぎ、毛利方の軍師、安国寺恵瓊を招き「今日中に和を結べば毛利から領土はとらない。宗治の首級だけで城兵の命は助ける」という条件で宗治を説得させる。宗治は「主家の安泰と部下5千の命が助かるなら明4日切腹する」と自刃を承諾した。時に8月4日巳の刻(午前10時)湖上に船を漕ぎ出し、秀吉から贈られた酒肴で最後の宴を張り、誓願寺の曲舞を舞い、「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」と辞世の歌を残して48歳を一期として見事自刃した)、と。
信長が討たれたことを知った毛利方では、秀吉に騙されたと、追撃を主張する吉川勢などに対し、小早川は、和睦締結を決めたからにはそれを守るべし、と追撃を止めた。そのことを徳とした秀吉は、天下人となった後、毛利家を優遇した、とか。ちなみに、高松城水攻めの宗治自刃の場面として描かれている図には、湖上に浮かぶ舟の後ろに高松城が見える。そこには天守が描かれているが、実際は本丸は土壇で囲まれたものであり、天守はなかったようである。


本丸跡
資料館を離れ、橋を渡り本丸跡に進む。沼には蓮が咲く。往昔、蓮池と呼ばれていた、と。昭和67年、沼が復元された後、400年の時をへて自生した、と言う。沼と本丸跡は少し段差があり、土壇で囲まれていた往時の沼城のイメージが少しだけ、残る。
本丸跡には清水宗治 辞世の句碑;浮世をば 今こそ渡れ 武士の名を高松の 苔に残して 、が建つ。また、清水宗治の首塚もあった。秀吉の本陣のあった石井山の持宝院に葬られていたが、明治42年本丸跡に移された。江戸時代には陣屋が置かれていたようである。首塚、といえば、宗治の胴塚は、本丸から100mほど西側の住宅地、昔の渦中屋敷跡の一角に祀られている、とのこと。主君切腹の折の介錯人国府市正は亡骸を城内に埋め、自身も首を掻き切ってその中に倒れたとのこと。胴塚は、メモをはじめてわかったことではある。少々遅くなったが、合掌。

宗治自刃跡

本丸跡を離れ、宗治自刃の地に向かう。二の丸跡、といっても、ほとんどが民有地の畑であり宅地となっている。二の丸跡を成り行きで進み、三の丸跡にある宗治自刃の地に。星友寺境内外に供養の五輪塔 が残る。宗治自刃跡の少し南の田圃の中に、藪(やぶ)というか、ちょっとした木立。「こうやぶ」と呼ばれ、家臣殉死の跡と伝わる。






足守川の取水口跡
高松城址を離れ、吉備線・足守駅近くにある高松城水攻めの取水口跡に向かう。足守川と吉備線・足守駅がクロスする少し南に取水口跡があった。跡、といっても案内があるだけで、往昔の名残は何も、ない。それにしても、長さ3キロ、基底部28m・上辺部11m、高さ7mといった巨大な築堤がこれほどまで完璧に焼消失するものだろう、か。秀吉が中国大返しのとき、毛利勢の追撃を防ぐため一面を水浸しとするため堤を崩し去った、と言うが、それにしても、そんな大規模な堤防をそれほど簡単に崩せるものだろう、か。人によっては、築堤は国道180線辺りまで築けば、城は水没する、とも言う。であれば築堤は200m程度で十分、とも。どちらが正しいのかわからないが、ともあれ、取水口跡辺りにむかって延びる舌状丘陵に猛将加藤清正が陣を張る。取水口を毛利勢より断固護るといった布陣であろうから、規模の大小はともあれ、築堤は築かれたのは事実ではあろう。



足守
ところで、足守駅の付近にこれといった街並みがみあたらない。地図をみると駅の北4キロほどのところに足守の町がある。秀吉の正室北政所の実兄木下家定が関が原合戦後この地を領有し、初代備中足守藩主となった。北政所は首尾一貫して徳川方に味方した故の処遇であろう、か。城はなく陣屋があったこの足守藩は、木下家の統治のもと、明治まで続いた。備中足守藩と言えば、緒方洪庵の出身地。大阪で蘭学塾「適塾」を開き、幕末から明治維新にかけて、多くの有為な人材を育てた。
足守の由来は「葦守」、から。『日本書紀』には応神天皇の行宮として「葉田の葦守宮」との記述がある。足守町の少し南にある葦守八幡がその跡地とのこと。葦はイネ科の植物。湿地を好む。往古より、足守川流域は低湿地で葦が茂っていたのであろうし、葦が茂るということは稲作にも適した土地、ということでもある。実際吉備の地は福岡県の板付遺跡とともに、弥生時代前期、日本で最初に稲作が始まった地、とも言われる。実際、吉備は弥生時代中期に稲作が急速に拡がった、とか。また、葦は屋根や垣根に使われる貴重な建材でもある。食料や建材として「守る」べき植物として、葦守という名前ができたのだろう。

応神天皇の行宮「葉田の葦守宮」跡と伝わる葦守八幡へと辿りたい、とは思えども時間的に少々きつそう。散歩はパス。見てきたような、なんとか、ということにはなるのだが、葦守宮が応神天皇の行宮ってことは、吉備王国と大和朝廷の関係が何か垣間見えそうに思える。チェックすると『日本書紀』には以下のような物語が描かれていた;応神天皇の妃、兄媛(えひめ)が故郷である吉備恋しさのあまり、「帰省」の許しを乞う。帰省を許したものの、兄媛に会いたいと応神天皇が吉備に下る。その行宮が葉田の葦守宮、である。応神天皇を迎えた兄媛(えひめ)の兄の御友別(みともわけ)は、一族をあげて歓待。それを徳、とした応神天皇は、御友別の支配する地域をその子らに分封し、その支配権を公に認めた、とある。
この『日本書紀』に描かれる、天皇が妃を焦がれて吉備まで、といった話はあまりにナイーブであり、文言通りにはとれないが、このエピソードから読み取れる大和と吉備の関係を、我流でまとめてみる。
吉備王国は3世紀から発展をはじめ5世紀頃には複数の首長を中心とした連合王国が成立。大和や出雲に匹敵する力をもつ王国となる。5世紀から6世紀はじめにかけて大和朝廷は吉備を支配下に置くべく謀略をはかり、7世紀にかけての分割支配体制により吉備国は崩壊をはじめ、8世紀には、備前・備中・備後・美作と完全に分割され、大和朝廷の支配下に入る。これが、時系列で見た吉備と大和の関係である。
で、上の応神のエピソードの解釈であるが、応神天皇は4世紀後半の天皇とされるので、可能性としては、拮抗した力関係もと姻戚関係を結んで吉備と大和が友好関係を保っている次期ともとれる。また、支配下に置くべく吉備に楔を打ち込むべく下向した、ともとれる。吉備王国は有力な首長による連合王国であった、とされる。親大和・反大和などさまざまな思惑の豪族の連合王国ではあろうが、その中で、応神天皇の后・兄媛(えひめ)の兄の御友別は、親大和朝廷系の豪族であったのかとも思う。
御友別、といえば日本武尊の東征に吉備武彦命が従う、というくだりがある。吉備武彦命は『古事記』では御?友耳建日子(みすきともみみたけひこ)と呼ばれ、『日本書紀』の応神記に、吉備臣の祖先である「御友別」と同一人格か、祖先か、ともあれ、深い関係がある、とされる。その御?友耳建日子こと、吉備武彦命が日本武尊の東征に副官として従う、という神話の意味することは、吉備王国が大和朝廷によって侵略・平定された後、東国への軍事行動に吉備武彦命系列の吉備の豪族が参加・転戦した、ということであろう。
足守から葦守、そして応神天皇まで空想が拡がった。そろそろ、次ぎの目的地である造山古墳へと向かう。

造山(ぞうざん)遺跡
足守川取水口跡から足守川に沿って南に下る。国道180号を越え、岡山自動車道をくぐり、足守川に前川が合流する辺りで足守川を東に渡る。道の右手に舌状に突き出る丘陵は庚申山。毛利方の吉川元春の陣跡である。標高は74mほどの小高い丘陵に一万の軍勢を揃えた。田圃の中の道を先に進むにつれて前方に小高い独立丘陵が見えてくる。方向からして造山古墳ではあろう。古墳と知らなければ、ぱっと見た目には、自然の丘といった風情である。後でわかったことであるが、この古墳は低丘陵を切り離し、土を盛り平らに削り墳形を整えたということである。近づくにつれ、古墳の廻りには集落が見える。集落は古墳の東側に集中している。古墳へ上り口を探して集落を成り行きで進むと、古墳へと続く坂道に出た。
坂道を上り、平坦部より前方後円墳の前方部へと進む。前方部の墳丘は破壊されており、その跡に荒(こう)神社が祀られていた。逆方向の後円部は中世期には砦が築かれていたとのことであり、また、毛利方が後円部の周囲に土塁を築き、郭を2カ所、堅堀を3カ所築くなとしているので、原型からは大きく変わってはいるのだろう。平坦部も毛利勢によって大幅に削平されている、とのことである。
造山古墳に来るまで、全く知らなかったのだが、この造山古墳は全長350m、後円部の径200m、高さ28m、全国でも、仁徳天皇陵486m、応神天皇陵430m、履中天皇陵360m次いで、第四位の規模を誇る。古墳時代は4世紀から8世紀にかけて200年も続くわけだから、ひょっとすると、ある時期、日本最大のものであった可能性もある。かも。詳細な調査は未だされていないようだが、この古墳に祀られるのは豪族・首長の連合王国であった古代吉備王国の大首長の墓ではないか、とされる。




日本でも最初に稲作が始まり、弥生中期には豊穣なる稲穂が実り、中国山地からのたたら製鉄による鉄器を農具に武具に揃え、瀬戸内の制海権を支配した古代吉備王国は3世紀から力をつけ、4世紀から6世紀にかけて吉備王国は、大和・出雲王朝と拮抗するほどの勢力となっていた。この造山古墳は、古代吉備王国全盛期のものと言われる。
通常、前方後円墳は大和朝廷の権威の象徴として、服属した国々にその技術を伝えたと言われるが、造山古墳の築造時期は5世紀前半とされる。大和朝廷が吉備王国を支配すべく、その動きをはじめたのは5世紀後半から6世紀と伝わるので、吉備王国が大和朝廷の支配下に入る前であり、大和との交流の中で築造技術を入手したのか、とも推測される。吉備には100m以上の規模の古墳は20基ある、という。大和地方の40基は別としても、吉備王国の繁栄の程が偲ばれる。それにしても、これほどの古墳に自由に上れるとは思っていなかった。天皇家の墳墓ではない、ということが幸いした。ともあれ、思わず知らず、古代吉備王国の力の象徴であった巨大古墳を歩けたのは誠に、いい散歩となった。造山古墳は大正10年(1921)、周辺の6基の陪塚(一族か重臣の墓)とともに、国指定遺跡とはなっている。

備中高松駅
造山古墳の南の丘陵は日差山。標高172mのこの山には高松城攻城戦の折、小早川隆景勢二万が陣を張った。また、造山古墳から丘陵の狭間の道を南西に総社方面へと進むと備中国分尼寺や国分寺跡、幾多の古墳跡が見て取れる。が、残念ながら時間がない。日暮れも近い。とりあえず備中高松駅まで戻る。足早に田圃の中の道を進み、足守川を越え、岡山自動車道を抜け備中高松駅に。2キロ程度ではあるが駅についたのが午後5時15分。散歩に出かけたのが午後1時10分。結構時間がかかってしまった。予定にしていた備中一宮吉備津神社や備前吉備津彦神社も残念ながら、次回のお楽しみとして、岡山駅に向かい、一路田舎の愛媛へとむかうことにした。

吉備津彦について
実際に訪ねることはできなかったのだが、備中一宮吉備津神社や備前吉備津彦神社の主祭神である吉備津彦が気になってチェックした。『古事記』、『日本書記』によると、吉備津彦命は孝霊天皇と倭国香媛の子。五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)、とも呼ばれた。孝霊天皇の時代に吉備国を平定。崇神天皇のときには四道将軍のひとりとして3、山陽道を制服するため派遣された、とある。
しかしながら、少々の疑問が芽生える。吉備を征服した大和の王族を、どうして吉備の人々が一宮の主祭神として祀るのであろう、か。それも、大和朝廷によって分割された備前・備中・備後・美作の一宮に主祭神として祀られる。『吉備の古代史;門脇禎治(NHKブックス)』など、あれこれ本を読んでも、いまひとつ門外漢には難しすぎて、よくわからなかった。が、ある日、何気なく立ち寄った近くの地域センターの図書ライブラリーで借りた『吉備王国残照;高見茂(東京経済)』を読み、なんとなく納得できる説明があった。
『吉備王国残照;高見茂(東京経済)』によると、吉備津彦は吉備王国の指導者であった、とする。5世紀頃、吉備王国は吉井川・旭川・高梁川・芦田川の流域に拡がる豊かな農業生産地帯と、中国山地の砂鉄資源に恵まれ、瀬戸内の製塩、また内海交通の制海権を掌握し、大和朝廷に拮抗する力をもつ王国であった。その中心地、吉備津、すなわち、吉備の湊の首長が吉備津彦であった。
その吉備王国を征服すべく大和朝廷から派遣されたのが五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)。吉備津彦を中心とする吉備王国は激しく抵抗するも、吉備津彦は殺害され、吉備国は大和に敗れた。吉備津彦は大和朝廷に抵抗した吉備の英雄の名前であった。
五十狭芹彦命が吉備津彦と同一神となったロジックは、古代、征服者に自分の名前を与えるのが服属の証しであった、とのことから。そのことは、小碓命(おうすのみこと)と呼ばれていた日本武尊(やまとたける)が熊襲タケルを殺害した後、熊襲は服属の証しとして「タケル」を小碓命に与えたことにも顕れる、とする。かくして、『古事記』や『日本書紀』には、服属の証しとして与えられた吉備津彦の名が、大和天皇家の系譜に組み込まれ、吉備王国の征服者と記載された。一方、吉備の人々は征服者である大和朝廷に深い恨みを抱き、やがて吉備津彦は祟りの神となった。その怨霊を怖れた大和朝廷は、その怨霊を鎮めるべく吉備津彦を神として祀り、神社に高い位を与えた。吉備の人々は、吉備津彦を吉備王国の英雄として忘れることなく、吉備国が分割された後も、往昔の吉備王国の栄光の象徴として、それぞれの一宮の主祭神として祀られた。(『吉備王国残照;高見茂(東京経済)』)、とのことである。
ついでのことながら、同書(『吉備王国残照;高見茂(東京経済)』)に、桃太郎のお供が何故に、犬、猿、雉なのか、の説明があった。江戸時代の滝川馬琴による『燕石雑誌』を引用し、次のように説明する;桃太郎が退治する鬼の住む鬼門は丑虎(うしとら・東北)。これを退治する桃太郎の家来は、その逆方向にある申(猿)、酉(酉)、戌(犬)でなければ、ならなかった、とか。なんとなく面白い。

日曜日, 7月 17, 2011

関ヶ原散歩そのⅡ;大垣から赤坂宿をへて、関ヶ原の南宮山と松尾山に上る

関ヶ原散歩の2日目は大垣からはじめる。関ヶ原の合戦の前哨戦、と言うか、ことによっては、主戦場ともなったかもしれない、西軍の居城・大垣城当たりを彷徨い、その後、大垣の北僅か4キロ程度、大垣城に対峙する東軍の本陣となった中山道・赤坂宿を訪れる。赤坂宿からは旧中山道の垂井宿を経て関ヶ原に移り、毛利勢が籠もった南宮山、小早川秀秋が布陣した松尾山に上る。後は時間次第、成り行きで、島津軍の撤退路である牧田路を辿ってみよう、と。
昨日の関ヶ原における西軍布陣の跡をメモしながらも、どうして主戦場が大垣城・赤坂のラインから関ヶ原にシフトしたのか、未だによくわからない。関ヶ原を主戦場とするような大きな戦略が、どこかで動いていたのか、それとも、東西両陣営の戦況次第の「成り行き」故のことなのか、はっきりしない。また、そもそもが、大垣城が何故に西軍の拠点となったのか、大垣の「有り難さ」もよくわかっていない。とりあえず、大垣を歩けば、何か、その「有り難み」の一端にでも当たるかも、といった、いつも通りの、お気楽な散歩スタイルで大垣を歩くことにする。
関ヶ原では、実際に南宮山や松尾山を上り、それぞれの山上の布陣跡を辿り、山上から関ヶ原の合戦の地でも眺めれば、文字面だけではない、それぞれの陣立ての合戦時のポジショニングなどを実感できるかも、と。同僚と3名、関ヶ原の合戦への空想・妄想の旅にでかけることに。

本日のルート;大垣・水門川>大垣城>中山道・赤坂宿>川湊跡>安楽寺・家康本陣跡>中山道・垂井宿>南宮大社>南宮山>桃配山・徳川家康最初の陣跡>不和の関跡>松尾山>牧田路

大垣:美濃と尾張・伊勢を結ぶ水陸の要衝
どこで手に入れたのか、今となっては、覚えてはいないのだが、「城下町大垣観光マップ」を手掛かりに、大垣の町を歩く。地図を見るに、水門川が大垣の城を囲む。水門川は、かつて、お城の外濠であった。お城の南、大垣城西総門跡を少しくだったところに「奥の細道むすびの地」の碑。松尾芭蕉は、およそ5ヶ月におよぶ「奥の細道」の旅を、ここ大垣で終えた。「蛤のふたみに別 行秋ぞ」と詠んで、水門川の船町港から桑名へ船で下った。奥の細道の終点、ということも、大垣と芭蕉の深い関係など、それはそれで面白いトピックではあるのだが、今回の散歩のテーマ、関ヶ原の合戦の視点からの「大垣の有り難さ」、からして気になったのは、桑名に船で下った、というくだり。水門川は揖斐川に合わさり、桑名と結ばれていた。桑名は古くからの東海道の要衝。七里の渡しをへて東海道・宮宿と結ばれ、南には伊勢路へと下る。大垣は桑名に通じる水運の要衝の地であった、ということだ。
水門川を隔て「奥の細道むすびの地」の逆側には、住吉燈台と船町港跡の碑があった。高さ8m、四角の寄せ棟造りの住吉燈台は、その菜種油の明かりで、船町港への出船・入り船の目印になっていたのだろう。地図を見ると、大垣の東を流れる揖斐川、西を流れる杭瀬川、養老山系からの牧田川の合流するあたりで、水門川も合流し、揖斐川となって伊勢へと下る。そして、この合流地点の福束に西軍に与する小城があった。この城が、8月16日に東軍に与する美濃衆の手に落ちた。福束城の落城により、大阪・大和・伊勢・桑名を経て濃尾に通じる補給路が断たれたことが、大垣籠城を見切った一要因、と言う説もある。大垣は、それほどまでに、重要な水運・兵站の拠点でもあった、ということだろう。
また、大垣市内を水門川に向かって歩いていたとき、美濃路大垣本陣跡とか、美濃路大垣問屋場跡、といった「旧美濃路」の案内が目に付いた。美濃路とは中山道の垂井宿から大垣を経て、墨俣・清洲、そして東海道の宮宿を結ぶ脇往還。街道が整備されたのは江戸の頃ではあろうが、東軍の進撃路にも沿っており、関ヶ原の合戦の頃にはある程度道は開けていたのであろう。また、大垣は中山道の赤坂宿や垂井宿までも指呼の間。陸路の要衝でもある。つまるところ、大垣って、美濃と尾張・伊勢を結ぶ「水陸の要衝」であったのだろう。

大垣;湿地帯に囲まれた自然の要害
水門川を北に進み、水路が東に折れる辺りの八幡神社に大垣の湧水がある、と言う。湧水フリークとしては、歩みも、心もち早くなる。神社境内の湧水は自噴水と呼ばれるように、勢いよく地下より噴き上がっている。「大垣観光マップ」を見るに、ここ以外にも、大垣城大手門近くの名水大手いこいの泉など、市内各所に自噴水があるようだ。
自噴水は揖斐川からの伏流水と言う。養老山系からの伏流水という人もいる。どちらの説が正しいのか、専門家でもないので、はっきりしないが、ともあれ、大垣の周囲は東西南北、どちらの方向にも幾多の河川が流れる。伏流水が噴き出してもなんら不自然ではない。往古、現在の濃尾平野はすべからく「海」であった。そこに旧木曽川三十六流とも呼ばれたように、流路定まらぬ木曽川水系の木曽川・長良川・揖斐川が気ままに流れ、扇状地を形づくり、その下流には、氾濫のたびにあちこちに自然堤防帯がつくられ、氾濫の後には後背湿地が残った。人々は扇状地からはじめ、島や自然堤防そして後背湿地が交錯する氾濫原である「自然堤防帯」を埋め立て陸化し、濃尾平野を形づくっていった。
大垣も揖斐川や杭瀬川の乱流による氾濫原に残った、後背湿地帯のひとつである。大垣は「輪中」で知られる。洪水氾濫後に堆積した土砂を利用し堤防を築き、補強を繰り返し、集落を水害から守るため、ぐるりと堤防で囲んだのが「輪中」。輪中の先端部には水神を祀る、と言う。大垣には24もの水神が残るというから、大垣は多くの輪中によって守られていたのだろう(『日本人はどのように国土をつくったか・地文学事始;学芸出版社』)。湿地から悪水を抜き、現在では埋め立てられ町屋となっているが、元は後背湿地であったわけで、周囲を流れる河川の伏流水が自噴水となって、市内各所に噴き出している、ということだろう。
八幡様の自噴水から輪中の話しとなったが、要は、大垣近辺は木曽三流の形成する後背湿地帯、ということ。城の前面に幾流もの河川が流れ、流路定まらぬ大河が作り出した氾濫原がひろがっていたのだろうから、攻めるには難儀ではあったろう。今回のテーマである大垣の「有り難さ」の観点で考えれば、少々、牽強付会、こじつけ、の感無きにしもあらず、ではあるが、大垣城はひょっとすれば湿地帯が前面に拡がる堅城であったのかも。水陸の要衝とともに、このことも、大垣の有り難さのひとつであった、かも。単なる妄想。根拠なし。

大垣城
八幡神社を離れ、その妄想上の堅城・大垣城に向かう。国宝であった天守も戦災で焼失し、現在の天守は1959年(昭和34年)に再建された鉄筋コンクリートの建物である。大垣城の歴史のあれこれはパスし、関ヶ原の頃をチェックすると、当時の城主は、伊藤彦兵衛盛宗。石高は三万四千石。父の長門守祐盛は城造りが「趣味」であったとのことで、文禄四年から慶長元年にかけ、四層の天守閣を作り上げた。彦兵衛もその趣味を受け継ぎ、二の丸、三の丸と改修を進め、二十万石もの大名がもつような立派な城を造りあげた(『島津奔る;池宮彰一郎(新潮社)』より)。
石田三成は8月10日にこの大垣城に入った、とされる。が、入城までには一悶着あったようである。城接収の交渉に出向いた西軍使者が、「武門の意地」を示すため、形だけの交戦を、との伊藤彦兵衛のサインを見逃し、戦闘状態に。接収の使者の軍勢には被害多く、結局、豊後杵築城主・福原右馬助と平塚為広が城を包囲。もとより、戦闘の意志のない大垣勢は、即開城し、城には福原長堯等七千百が籠もる。ちなみに、接収に出向いた使者のひとりが福束城主;丸茂兼利。上で、福束城が東軍に落ちた、とメモしたが、それは、この接収時の被害による戦力ダウンも、その一因であった、とか(『島津奔る;池宮彰一郎(新潮社)』より)。
三成の大垣入城から関ヶ原前夜に至る東西両軍の動きをまとめる。
8月14日、東軍 福島正則の居城 清洲城に入城。
8月16日 西軍 丸茂兼利の福束城が東軍の手に。西軍、大阪・大和・伊勢・桑名を経て濃尾に通じる補給路が断たれる。
8月17日、西軍 島津勢、佐和山城から大垣に向かう
8月19日、家康の使者、清洲に到着しで檄。東軍に進軍の動き。
8月20日 西軍、島津勢大垣郊外6キロの墨俣に進軍。木曽川・長良川・揖斐川の合流点であり、濃尾決戦の最重要戦略拠点と想定。
8月21日 午後5時頃、東軍清洲発。二手に分かれ、一隊は木曽川上流の渡河点・河田をへて岐阜城攻略へ。池田・堀尾・山内・浅野・一柳勢、一万八千。
もう一隊は下流の尾越の渡しを経て岐阜城攻略へ。福島・細川・加藤・藤堂・黒田・田中勢、一万六千。
8月22日早暁 河田の合戦で東軍池田勢、岐阜城主織田秀信勢に勝利。岐阜城攻略の勢い。 8月22日夜明け 尾越(起)の渡しを渡った福島勢、岐阜城の支城・竹ヶ鼻砦を落とす。池田勢の岐阜城攻めの勢いに、遅れてはならじと、尾越の渡しルートを進んだ軍勢のうち、福島隊は岐阜に急行。先陣争い故の強行軍である。
8月23日、河田ルートを進撃した池田勢他と、尾越より急行した福島勢により岐阜城落城。 8月23日、尾越ルートを進んだ黒田・田中・藤堂勢は、福島正則の岐阜攻城戦について行けず。他の「獲物」を探す。家康への馳走には、治部の本拠を衝くべし、と岐阜から大垣への最短コースを選ぶ。石田勢、その進撃を防ぐべく、舞兵庫に一千の兵を与え、合渡川の渡しへと急行するも、黒田勢との合渡川の合戦に敗れる。
大垣城外沢渡村に布陣した、三成は岐阜落城の知らせを受け、大垣城籠城を決める。墨俣に布陣の島津豊久は孤立。義弘は豊久救援のため、少人数ながら呂久川対岸に堂々と布陣。合渡を突破した黒田・田中・藤堂は島津を攻めることなく、赤坂宿方面に進む。島津勢、無事大垣城に戻る。島津を見捨てた三成に、島津は怒り心頭であった、とか。
8月24日 東軍・赤坂着陣。
8月28日 西軍 長松城の武光勢、東軍の赤坂布陣に怖れ、城を脱出。東軍 一柳直盛が入城。大垣と関ヶ原(垂井)の中間にあり、大垣と垂井の西軍連絡網、遮断される。相川北岸は東軍域となる。
9月1日 東軍 家康 江戸出立
9月2日 西軍 大谷行継 山中村に布陣
9月3日 西軍 伊勢路転戦の宇喜多秀家 大垣城 入城
9月7日 西軍 毛利、南宮山に布陣。毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親。
9月11日 東軍 家康 清洲城着。
9月13日 西軍 小早川秀秋 松尾山に布陣。
9月13日 東軍 家康 岐阜城入城
9月14日 正午 東軍 家康 赤坂到着。

こうして、9月14日 午後 家康は赤坂の小丘(岡山)に本陣を造営する。この推移を見ていると、東軍に大いなる戦略があるように思えない。西軍も同様である。大雑把に言えば、木曽川を境にして、東の尾張は東軍、西の美濃は岐阜の織田秀信が西軍に与した、ということもあり大方は西軍。当初、木曽川を境に濃尾平野で一大会戦とでも想定されていたのだろう。が、清洲に東軍が8月14日に到着するなど、予想以上のスピードでの展開であり、また、大垣とともに西軍の拠点として東軍に対峙するはずの岐阜城が、予想以上に簡単に東軍に落ちる。上に岐阜城攻略戦に参戦できなかった東軍諸隊が大垣を目指すも、結局は赤坂に、とメモしたが、人によっては、それは成り行きではなく当初から赤坂に家康の本陣を構え、岐阜・清洲と連携し大垣を攻略する、といった戦略であった、と言う。本当のことはよくわからない。わからないが、結局は赤坂宿に家康の本陣が敷かれた。その赤坂宿に向かう。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

中山道・赤坂宿
大垣を離れ、赤坂宿へと向かう。今となっては、どこをどのように進んで赤坂に行ったのか、そのルートは定かではないが、貨物引き込み線のある美濃赤坂駅、川湊跡、川湊跡のすぐ隣にあった記念館、如何にも落ち着いた町並み、そして家康が本陣を構えた、という岡山(勝山)の風景だけは、はっきりと記憶に残る。
記憶を順に辿る。まずは美濃赤坂駅。この駅は秩父を訪れたときに出会った駅の風景をダブルところがあった。秩父の駅には武甲山を切り崩した石灰を運ぶ貨物列車や引き込み線があったが、この美濃赤坂駅にも引き込み線が残る。北にある金生山は石灰の切り出しで知られる山であった。秩父の武甲山がそうであったように、切り崩された山肌が剥き出しになっており、現在も日産1万トン近い石灰が採掘されている、と言う。また、この山は石灰だけでなく古くから大理石も採掘されたようで、平安時代後期に編纂された『続日本紀』には、その記録が残る。

川湊跡
杭瀬川にあった赤坂宿の川湊である。杭瀬川の流路は元揖斐川の本流であった、とのこと。享禄3年(1530)の大洪水で流路が変わり、本流は赤坂川湊の東、200mあたりを流れ、杭瀬川はその支流となった。支流となるも、上流1キロほどのところにある池田山からの自然の湧水を集め、舟運は衰えることなく、江戸の頃はこの地より、米、材木、酒、そして金生山から採掘した石灰などが杭瀬川を下り、桑名へと運ばれた。
明治になり石灰採掘技術が進むと、大量の石灰が舟運で運ばれ、往来する数、数百艘とも言われた。この舟運も大正になり鉄道にその役割を譲り、現在は常夜灯が残る親水公園として往時の名残を留める、のみ
川湊跡のすぐ隣には赤坂会館。明治8年に建てられた警察署を移築したもの。現在の機能重視の建物とはちょっと違った外観は、如何にもの存在感を示す。観光・史跡案内兼赤坂宿の資料館となっていた。

和宮お嫁入り普請の町並み
旧中山道に沿って本陣跡、脇本陣跡や和宮お嫁入り普請跡の町並みを彷徨う。和宮お嫁入り普請とは、皇女和宮が江戸将軍家に嫁ぐに際し、街道筋の町屋を建て替えた。建て替え費用は10年で返済、とのことではあったが、その間に幕府が倒れ、返済はそのまま立ち消えになった、とか。

家康本陣跡

赤坂宿の雰囲気を感じ、家康本陣のあった岡山を目指す。町並みを成り行きで南に下り、美濃赤坂駅当たりまで戻り、西に小高い台地を見やりながら、更に線路に沿って南に下ると安楽寺。推古天皇元年(593)、聖徳太子建立と言う。この安楽寺の建つ岡の中腹に家康の本陣があった、と言う。徳川家の三ツ葉葵の紋を許されたということも、頷ける。
寺の石段をのぼり、境内に。寺の梵鐘は、関ヶ原合戦の時西軍の大谷吉継が軍営で使用したもの。お参りを済ませ、山頂、といっても53m程度ではあるのだが、その山頂への途中、壬申の乱の碑もあった。壬申の乱の時、大海人皇子が勝利祈願をおこない、戦勝後、天武天皇となったが大海人皇子、敵として戦った大友皇子の冥福を祈り宝物を寄進した、という話も残る。
ちなみに杭瀬川の名前も壬申の乱の大海人皇子に由来する、との説がある。関ヶ原の不破の関あたり、黒血川で大友皇子軍と戦い傷ついた身体を、杭瀬川(当時は矢の根川、とも)で癒した。ために、苦癒(くいや)せ川>杭瀬川と転化した、とか。ちょっとできすぎ、か。
石段を上ると、それらしき物見台があった。家康本陣から大垣を眺める、といったイメージつくりの観光用のものではあろう。8月24日に黒田・細川勢が赤坂に到着し。家康が本陣を構えた9月14日まで、おおよそ二十日。東軍諸将は丘の麓や周囲に布陣し、砦を築いて大垣城を本拠とする、石田三成らの西軍と対峙した。
家康になった気分で大垣、陣立てを見下ろすに、中山道に沿って東から筒井定家、藤堂高虎、黒田長政、金森長近、加藤嘉明、細川忠興。中山道と家康本陣のある岡山(勝山)の間には、東から松平忠吉、本田忠勝、井伊直政、京極高友。岡山の東には田中吉政、西には堀尾忠氏、福島正則。岡山の山麓下には、東から時計回りで、織田有楽斉、中村一忠、有馬豊氏、池田長吉、池田輝正、浅野行長、生駒一生、山内一豊。そして、岡山から少し離れた、現在の中山道と大谷川が交差するあたりの長松城に一柳直盛が陣を張る。

杭瀬川の合戦
それにしても、西軍方は、家康がこれほどまでも早く岐阜まで戻るとは思っていなかったようである。西軍内に動揺が起こる。美濃で戦火を交えた外様大名を中心とした東軍総勢三万五千弱。家康本隊三万二千七百。それに、実際は到着していないものの、秀忠率いる中山道隊は三万七千四百も勢揃い、などと考えれば東軍の総勢は十万。少々戦慄が走る、かも。
その西軍の動揺を鎮めるべく、家康着陣の9月14日、西軍の石田三成の将・島左近と宇喜多秀家の将・明石掃部が仕掛けたのが杭瀬川の合戦。場所はJR北大垣駅の少し南、杭瀬川が東海道本線と交差するあたりである。
島左近五百。宇喜多勢八百。林に伏兵を隠すなどの仕掛けを整え、島左近勢が杭瀬川を越え、稲刈りを始める。明らかな挑発。前面には中村一忠勢(当時11歳)。挑発にのり中村勢追撃し杭瀬川を越える。頃合いを見計らい、島隊の伏兵隊が出現。島隊も反転し中村勢壊滅。中村勢の隣に陣を張る有馬豊氏が救援に。杭瀬川を渡河する宇喜多勢の明石掃部勢に横槍。中村・有馬勢、杭瀬川を越える。左近の伏兵が中村・有馬勢を突き壊滅状態に。東軍の本田平八郎が突進し、残兵収容し、戦いは終わる。局地戦とは言いながら、東軍、または、家康、恐るに足らず、と西軍の気勢が上がった、とか。
杭瀬川の合戦、とメモはした。が、実際には訪れていない。メモを書く段階ではじめてわかったもの。前もってあれこれ調べず、成り行きでのお気楽散歩であるので、後の祭り、となることが多いのだが、この杭瀬川の合戦跡には行ってみたかった。後の祭り、をしみじみ感じた。

 三成関ヶ原に
杭瀬川の合戦には勝利したものの、三成は合戦当日の夕刻7時頃、大垣城を離れ、関ヶ原へのシフトを決める。両軍の推移を整理しながら自分が三成になったつもりで妄想すると、とてもではないが、怖がりの自分には大垣に留まる自信は、ない。
家康勢10万近くが、大垣の周辺に集結(実際は秀忠軍が未着で七万程度だが)し、尾張だけでなく、美濃も岐阜城を含め東軍に下る城も多くなる。伊勢・大和からの兵站拠点も東軍に下る。中山道は東軍に抑えられ、陸路からの兵站補給も少し危うい。頼りの大阪城の主将である毛利輝元の来援の見込みも、ない。となれば、西の大阪との兵站路を確保するには、家康軍より少しでも西に布陣して大阪との繋ぎをつくっておこう、それには伊吹山系と鈴鹿山系が接する地溝帯を通る中山道、西の近江に抜ける北国街道脇往還を扼する関ヶ原の地がよかろう、と思う。
ということで、かどうかはさだかではないが、ともあれ、9月14日午後7時頃、大垣城に詰めていた西軍は関ヶ原を目指し、石田軍を最初に、第二に島津、第三は小西、第四に大谷・脇坂・朽木・小川・赤座、第五・殿軍を宇喜多の順に出発した。順路は大垣の西から杭瀬川を渡り野口村へ迂回。南宮山に隣接する栗原山の麓に至り、そこから山入りし南宮山の西、牧田川が開いた牧田路を北に上り、関ヶ原に向かった。
大きく迂回した理由は、先の散歩で大垣の北、4キロほどのところにある赤坂に布陣した徳川家康の、軍勢に進軍を秘するためであった、とメモした。が、本日の散歩で、長松城が東軍に下ったということがわかった。長松城は大垣と関ヶ原を直線で結んだ中間点にある。結局、南宮山の南を迂回するしか道はなかった、ということであろう。私たち3人も、そろそろ、赤坂での空想・妄想から離れ、場所を関ヶ原へと移す(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)


南宮大社

旧中山道に沿った県道216号を西に進み、大谷川を渡ると、県道を離れ、南西に青野町から追分交差点へと進む。追分は中山道と美濃路の分岐点。旧中山道を進み、相川を越えると垂井宿に入る。問屋場跡、本陣跡を見やりながら南宮神社の一の鳥居・常夜灯目安にを左に折れ、一直線に南に進み、南宮山への上り口のある南宮大社に向かう。
楼門前の石橋は神様用であり、我々凡俗の民は、脇の参拝者用石橋を渡り境内に。朱に塗られた社殿、拝殿、舞殿など、誠に結構なる構え。美濃一宮である、ということも頷ける。主祭神は金山彦命。神話では金山彦命はイザナミノミコトが火の神カグツチを生むときに熱さのあまり吐き出したものが神となったものである。鉄器、金属といった金気一切を司る神様といったものだろう。全国に点在する金山彦を祀る神社の「総本山」として、鉄にかかわる人々の信仰を得た。
それにしても、なにゆえに、鉄をつくる人々が信仰する神様が、この地にあるのだろう。あれこれ妄想するに、谷川健一さんが書いた『青銅の神々の足跡』は南宮大社の「ふいご祭り」の描写から始まっている。伊吹山から下る強風、というか、伊吹山系の南を垂井へと抜ける風の道は、火力を強め、高温で砂鉄(磁鉄鉱)を溶かし鋳造鉄をつくる「たらら製鉄」に適した立地であったのだろう。南宮山の北、伊吹山麓の伊富岐神社、美濃国の二宮であるこの社は伊福氏の祖先神を祀る。伊福部とは、吹子によるたたら炉を扱う民を掌握する氏族である。神武東征の折り、鉄器の供給で戦いに貢献し、その功により河内の日置庄を賜り、そこに金山彦命を祀った氏族が、この地に移り住んだ、といった、とも伝わる。ともあれ、南宮大社を中心に、このあたりには鉄をつくり、その神を祀る氏族が住んでいたのだろう。

ところで、鉄器造り、と言えば「たたら製鉄」と思い込んでいたのだが、鉄器をつくるには、鋳造型の「たらら製鉄」だけでなく、鍛造型の鉄器つくりも古くからあったようだ。鍛造型とは鉄鉱石を叩いてつくるもの。材料となる鉄鉱石は褐鉄鉱や赤鉄鉱。先ほど訪れた赤坂の金生山は赤鉄鉱の産地として知られる。また、尾張の湿地に生える芦原の根本から褐鉄鉱(スズ・サナギ)が採れた、とも言う。
タタラ製鉄って、山陰地方が有名であるが、山陰地方などでタタラ製鉄が活発になるより以前、古代の東海地方では、質は劣るものの、タタラ炉を作らなくても野辺で鉄をつくる独自技術で製鉄を始めていた、ようである。美濃地方は四世紀ごろから鉄器をつくるための材料となる鉄鉱石(磁鉄鉱・砂鉄、褐鉄鉱、赤鉄鉱)の発見とともに製鉄が始まり、飛鳥時代には一大鉄器生産地となっていた、ということだ。南宮山が金山彦を祀る理由は、こういった事情であったの、かも。単なる妄想。根拠なし。
ちなみに、往昔、この社は中山金山彦の社(正確な名称はよくわからない)、と称されたようである。中山は『山海経』五蔵山教の南山教、西、北、東、中山教の五篇、各山脈の内、出鉄・製鉄の中心とされている故の呼称だろう、か。また、南宮社となったのは、国府の南、という説もあれば、ミナカタ=南の方向は、五行思想での火の神の座に当たる故、との説もある。妄想・空想は拡がっていきそうだが、そろそろ南宮山に上ることにする。

南宮山
南宮大社の社殿の南側を進むと、「南宮山ハイキングコース」と書かれた道標がある。道標に従い、先に進んでいくと、「瓦塚」。社殿に使われていた瓦が葬られている塚とのことである。さらに奥へと進むと、南宮稲荷神社の参道へとつながり、連続して続く朱の鳥居をくぐり抜け、左に分岐するルートをとると、途中に安国寺恵瓊の陣跡という表示ある。実際の恵瓊の本陣そのものは、登山道の東側にある東蛇溜池の向こう側の高台ではあるのだが、まあ、このあたりにも布陣していた、ということだろう。
安国寺恵瓊の陣跡を過ぎると、登山路となる。路はきちんと整備され迷うことはない。本陣に向け、比高差362mほどを上ることになる。登山脇に積まれた石積みを見やりながら、先に進むと巨大な御神木。幹には注連縄が巻かれている。山道を上りながら、左右の堅堀や、段状に削られた曲輪跡のような地形が見える。というか、陣跡への上り故に、そう思い込んでいるだけ、かも。毛利秀元一万六千、吉川家四千の部隊がこの山中に留っているわけだから、山中のあちこちに削平地は必要だろう。
更に、先に進むと道脇に小さな祠。山に上り始めておおよそ30分強。高山神社と呼ばれる。祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)。この山には椿が多く、故に、別名椿姫宮とも。また、子安観音も兼ねている、と。
高山神社から先は尾根道を30分弱歩くと、視界が開け、空が拡がる展望台に到着。山頂は標高419mであるが、展望台は標高404m。山頂から少し下ったところに毛利秀元の本陣があった。「南宮山毛利秀元陣所古址」と銘記された石柱のほか、関ヶ原合戦陣形図などが立っていた。
本陣跡からは大垣方面の平野部も含めて広大な濃尾平野を見渡すことができる。しかしながら、本陣跡からは、関ヶ原は全く見渡すことができない。南宮山本陣への上りに1時感ほどかかったが、この本陣から南宮山の尾根道を上り、関ヶ原にむかうとすれば5つの尾根を越えて、2時間以上の山越えは必要だろう。本陣跡に上って感じたことは、この毛利の布陣は、戦う意志の有無は別にして、大垣城を巡る会戦の後詰め、といった構えであり、関ヶ原の合戦に向けたものではあり得ない。大垣城を巡る会戦への直接参戦を避けるべく、後詰めとの名目で、この山に籠もったのであろうが、状況が大きく変わり、結果的に関ヶ原合戦での陣立てのひとつとなってしまった、ということだろう。
南宮山に籠もった毛利軍は秀元の本陣を山頂近くに押しやり、麓に東軍に内応の吉川広家が布陣。結局、関ヶ原の合戦には全く動くことはなかった。「宰相殿の空弁当」という話がある。西軍への参戦を求める安国寺恵瓊の再三の要請に対し、宰相秀元は食事中、との口実で返答を避けた、と伝わる。
空弁当が事実かどうかわからないが、それまでして、東軍への内応をやり遂げ、本領安堵を図った毛利勢であるが、結果的には、あれこれの経緯があって戦前の120万石から37万石へと大減封となった。ちなみに南宮山の東禄に布陣し、何も動くことのなかった、安国寺恵瓊千八百、長塚正家千五百、長曽我部盛親六千六百の戦後処置であるが、安国寺恵瓊は六条河原で小西行長・石田三成と共に斬首。長塚正家も居城近江水口城に戻るも捕縛・切腹の後、首は三条橋に晒される。長曽我部盛親はあれこれの経緯があるも、結局は領地没収。その後大阪冬の陣、夏の陣に西軍として参戦するも、大阪落城後、京にて斬首された。結局、南宮山に集結した西軍勢で、「静観」故に報われたものは、誰もいない。

桃配山・徳川家康最初の陣跡
展望台から山道を下り、南宮大社へと戻る。国道21号を西に進むと野上地区に。「一ツ軒」交差点の少し手前の桃配山の麓に、家康は初戦での本陣を設けた。桃配山は南宮山の西北麓にある小山であり、関ヶ原盆地の東の入口を扼す。桃配という名前は、往昔、この地で天智天皇の弟(異説もあるが)である大海人皇子と、天智天皇の子である大友皇子が戦った壬申の乱のとき、大海人皇子が兵士に桃を配ったことに由来する。桃は邪気を祓い不老不死の力を与える霊薬である果実とされていたようだ。その故事にならい、家康の参謀である本多平八郎忠勝がこの地を本陣とした、と言う。
本陣辺りの地区・野上といえば、「野上行宮」が思い起こされる。行宮(行宮)とは仮の御所といったもの、壬申の乱のとき、大海人皇子がこの地にあった尾張大隅氏の私邸を行宮として大乱の指揮を執った。何故に尾張大隅氏の私邸を指揮所としたか、ということだが、あれこれの経緯は省くが、大海人皇子は尾張氏系の大海氏と関わりあるとされる。壬申の乱に際しては、吉野より尾張・美濃に進み、軍資金など尾張系氏族の援助を受け、大友皇子との戦いに備えた。
野上行宮の場所は、家康最初の本陣の少し先を南に折れ、新幹線をくぐった先にある、とのことであった。これも、残念ながら、前もっての事前調査無し、を原則とする、お気楽散歩故の、後の祭りのひとつではある。ちなみに、大海人皇子が壬申の乱に勝利し、武天皇となったが故に後に指揮所が行宮と呼ばれるようになったのだろう。

不破の関守跡
国道21号を西に進み、梨の木川を越え、更に西に進み藤古川の手前、道路を少し南に入ったところに不破関守跡。不破の関は、古代の東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに、古代の東山道に設けられた関であり、畿内防衛の重要拠点であった。これらの関は、特別に、「三関」と呼ばれ、関より東が東国である。
不破の関が設けられたのは、673年のこと。天武天皇の命により設置された。その後、8世紀の後半には非常時の時を除いて関は封鎖されることになった。費用負担が大きかったのが閉鎖の一員とも。芭蕉も『野ざらし』の中で「秋風や藪も畠も不破の関」と詠む。『新古今和歌集』にて藤原良経が詠んだ「人住まぬ不破の関屋の板さびし 荒れにしのちはただ秋の風」を踏まえて作ったもの、という。荒れ果てた関跡がちょっとイメージできる。ところで、不破の関。壬申の乱の頃には、未だ関は設けられてはいない。大海人皇子の軍勢は鈴鹿山系と伊吹山系の狭隘の地を通る古代東山道の東の出口、道を藤古川が遮る辺りの「不破の道」を塞いだわけである。道を塞ぎ、近江朝・大友皇子の東国への援軍要請の連絡網を絶ち、大海人皇子と縁の深い美濃・尾張勢を味方につけ、壬申の乱を戦い、勝利を得た。
上に大海人皇子は尾張系の大海氏との関係が深い、とメモしたが、大海人皇子の湯沐邑(ゆのむら)は美濃の安八磨郡にあった。湯沐邑とは皇后や皇太子に私的に与えられた土地であり、その地美濃の安八磨郡とは西美濃でも最西端にある。吉野から美濃へと迂回した理由も、頷ける。安八磨郡には先ほど赤坂宿でメモした金生山も含まれており、ひょっとすれば、その地で作られた鉄器には武器も含まれていたであろう。大海人皇子直轄の武器庫があった、との説もある。ともあれ、美濃・尾張の軍勢と、鉄の兵器をもって近江朝の大友皇子を打ち破った。
壬申の乱、というか大海人皇子や大友皇子の頃の日本はおもしろい。壬申の乱は百済系の天智天皇・近江朝廷・大友皇子と新羅系の大海人皇子の戦いととらえる人もいる。あれこれ説があり、門外漢はあまり深入りできないが、黒須紀一郎さんの『覇王不比等』は、この頃の大陸との動きに連動した「国際的」な日本の朝廷の姿が描かれて、大海人皇子や大友皇子のあれこれが、誠におもしろかった。

松尾山・小早川秀秋陣跡

不破関守跡を離れ、藤古川を渡り、成り行きで南へと進み、藤古川に黒血川が合わさるあたりにあった駐車場に車を停め、幟に従い松尾山へ向かう。登山道は整備されている、というかブルドーザーで山頂近くまで道を削ったようだ。山の斜面もそれなりに急ではあるが、木々を伐採してしまえば、軍勢が一気に下ることもできそう、などと、同僚とあれこれ空想しながら東海自然歩道となっている登山道進み、勾配の急な階段を上りきると松尾山頂。登山口から2キロ、およそ40分弱で標高293mの頂上に到着した。頂上は意外と広く、ベンチや四阿が整備されている。北に向かった方向は木々が伐採されており、関ヶ原が一望の下に見下ろせる。昨日歩いた笹尾山の三成の本陣に翻る幟もはっきり見える。これほどはっきり合戦地が見下ろせるとは思わなかった。

松尾山にはその昔より松尾山城が築かれていた。近江と美濃の「境の城」として、時には美濃へ、あるときは近江へと備えたこの山城は、山頂に本丸、周囲に四つの曲輪を配し、曲輪の周囲に土塁を築き、それぞれの曲輪には腰曲輪を備えた結構なる城であった、とか。で、この城に9月13日、突如陣を構えたのが小早川秀秋。9月14日のお昼頃、との説もあり、よくわからない。それまでの動きをチェックすると、8月17日には近江に軍を進め、石部に10日あまり、その後、鈴鹿まで進み5,6日留まり、佐和山の近くの高宮まで戻り13日頃まで、漫然と日を過ごした、と伝わる。
合戦前夜、という絶妙のタイミングでの松尾山布陣、それも、三成の9月12日付け、増田長盛宛の書状では、松尾山には西軍の総大将・毛利輝元を迎えるとなっており、そのうえ、この松尾山に既に布陣していた元の大垣城主伊藤盛正を押しのけての布陣である。高宮で東軍への内応を取り付け、東軍・黒田家からのお目付が小早川勢についていた、とも言われている。絶妙な日時での強引な布陣。何かの軍略が働いていたか、単なる偶然なのか、あれこれの説もあり、よくわからない。
ともあれ、このような絶妙のタイミングで松尾山に陣取った小早川勢が、西軍が優勢に推移していた状況を一変させる。小早川秀秋の裏切りの軍勢一万数千名が松尾山を一気に下った。唯一の救いは、主・小早川秀秋を見限り、主命の裏切りに服すことのなかったのは小早川勢の先鋒・松尾主馬とその配下にあった一千五百。戦後、松尾主馬の行動に感銘を受けた将も多く、結局田中吉政に一万二千石で家老として迎えられた、と(『島津奔る;池宮彰一郎(新潮社)』より)。



関ヶ原の合戦
松尾山からの小早川勢が戦局を一変させるまでの、合戦の推移をメモする;家康15日午前二時、赤坂発、桃配山着陣で夜が明ける。東軍布陣完了は午前7時頃。以下、参謀本部がまとめた東西両軍の布陣。
一番隊、先鋒福島隊6千は関ヶ原の南部に布陣。天満山の宇喜多秀家一万七千に対峙する。別働隊;藤堂高虎二千四百九十、京極高知三千、その後ろに寺沢広高二千四百が福島対の少し北に布陣し、松尾山の小早川秀秋一万五千に対峙する。
二番隊主力は関ヶ原北部、山麓から北国街道脇往還に向かって、北から細川忠興五千、加藤嘉明三千、田中吉政三千、筒井定次二千八百五十、松平忠吉、井伊直政。これら前線部隊の後ろに第二段として、金森長近、生駒一正、またその後段に織田有楽、古田重勝が北国街道を扼した小西行長四千、島津義弘・豊久一千弱、笹尾山の石田三成六千に対する。遊撃隊として黒田長政五千四百が二番隊と呼応して山麓最北端に布陣し、石田陣への突撃の機を伺う。
三番隊は徳川麾下の本多忠勝五百が桃配山の前面に布陣。背後に家康本隊三万が備える。四番隊は池田輝政四千五百六十が面宮山神社の前面に布陣
その西の中山道沿いに西から順に有馬豊氏九百、山内一豊二千五十八、浅野幸長六千五百が布陣慶長5年(1600年)9月15日早朝、午前8時頃、井伊直政、松平忠吉の抜け駆けをきっかけとした宇喜多秀家との銃火の応報で戦端が開かれる。抜け駆けに怒った福島正則勢は先鋒としての面子もあり、宇喜田の隊と全面戦闘状態に。宇喜多隊の前衛隊長明石全登は八千の軍団を率い福島勢を圧倒。劣勢の福島勢は加藤嘉明隊、筒井定次勢の助力を受け崩壊状態から踏みとどまる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)



宇喜多の側面を衝こうとした藤堂高虎、京極高知勢は、大谷吉継別働隊の主軸である戸田重政、平塚為広が蹴散らし、松尾山前面まで進出する。西軍優位の勢である。
南部戦線の戦闘状態に呼応し、北部戦線でも東軍右翼の黒田長政、竹中重門、細川忠興らの隊は一斉に石田三成、小西行長の隊を攻撃。石田勢の猛将・島左近に翻弄される。島左近が銃弾に倒れた後も、入れ替わり攻め寄せる黒田、細川、田中、加藤勢に対し、石田勢の蒲生郷舎、舞兵庫が東軍の攻撃を跳ね返し、損害を与え、多勢に無勢ながら西軍優位に推移する。
小西勢は西軍で唯一劣勢ながらも、天満山の中腹でかろうじて抵抗。崩壊を食い止めていた。島津勢は不気味な「静観」。東軍も敢えて戦火を交えることをしなかった、とか。

かくして午前8時に始まった合戦は、午前中は西軍、すこし優位のうちに進む。家康も督戦のため、午前10時頃本陣を桃配山から最前線に近い陣場野に進める。正午、家康からの松尾山への銃撃を契機に、正午頃、小早川秀秋が松尾山を下り西軍を攻撃。初戦は大谷吉継勢が小早川勢を圧倒するも、脇坂安治九百九十、朽木元綱六百、小川裕忠二千百、赤座直保六百が東軍に寝返り、小早川に同調し、三方から攻められた大谷勢主力・平塚為廣、戸田重政は相次いで討ち死にし、大谷吉継も自害して果てた。
小早川の裏切りで大谷の隊が壊滅するとそれまで西軍優勢であった形勢は逆転し、小西行長、宇喜田秀家の隊も敗走し、石田三成の隊も奮闘したが敗走した。西軍は敗れた。戦闘が完全に終結したのは午後3時頃だったという。

戦局を大きく変えた諸将の戦後処置;小早川秀秋は筑前名島三十七万七千石から岡山藩五十五万石に加増・移封。脇坂安治は当初より内応の意志明確と大洲五万石に加増。その他の武将は、内応の意志不明確とのことで、朽木元綱は朽木二万石を安堵されず、一万石の減封。小川裕忠、赤座直保は所領没収となった。
島津勢の撤退路
合戦時、東西軍激戦の真っ直中で「静観」を保った島津勢。合戦集結の後、退却戦で武威を示すべく、敵中突破する撤退戦の実施を決定。前進し家康本陣の前を突っ切り、中山道や北国街道脇往還を逃れることなく、関ヶ原東南端の烏頭坂から牧田路(伊勢街道)を目指した。伊勢街道を目指した以上、伊勢の何処かから船に乗り薩摩に戻ったのであろう、と勝手に思っていたのだが、藤古川に沿って牧田まで下り、そこからは牧田川に沿って鈴鹿山系へと入り込み、幾多の峠を越えて、琵琶湖東岸・高宮に進み、水口を途中の集合地点としている。その理由はわからない。その先は信楽から甲賀の山系、生駒山系を辿り泉州・和泉へと進んでいる。
撤退路を少しでも遠くまで辿りたい、とは思えども、日暮れも近い。車で烏頭坂から牧田道を下り、牧田川との合流点あたりまで走ることにし、島津勢撤退戦の経緯をメモして、本日の散歩を終えることにする。

島津勢撤退線の経緯;合戦に耐えた島津勢六百動く。黒田、細川勢は静観。中山道か北国脇往還に折り返すときに追撃する計画であったのだろう。が、島津勢はそのまま前進。前面の福島正則勢は道を開けるも、福島正則の養子正之が攻撃。結果、潰乱。家康の督戦を受け、井伊、本田勢が攻撃。島津勢三百、四百に減るも家康本陣に迫る。
島津勢、本陣手前で旋回し、牧田街道の烏頭坂へと向かい伊勢街道へ。井伊、本田、松平忠吉が追撃。島津豊久は島津義弘の身代わりとして討ち死に(別の説も)。烏頭坂の途中で筒井勢が島津勢を迎え撃つも、島津勢蹴散らす。長寿院盛淳、島津義弘の身代わりに。追撃井伊直政、松平忠吉、島津の銃に重傷。
島津義弘、牧田路をそれ、多良路に入り、牧田川を渡る。牧田川を渡る頃は三十名程度に。牧田川の渓谷に沿って多良を目指す。養老山麓の急峻な山道を進み、勝地峠。勝地峠あたりで戦闘終結の令が追撃勢に伝わり、追撃軍引き上げる。牧田川に沿って南下し、下多良、多良を過ぎると、山道は南西に転じ、延坂、下山、堂之山、時山に。その先は、五僧峠を上り、杉坂峠を経て琵琶湖岸の高宮に出る。
高宮からは敵中を水口に向かう。水口は西軍の長塚正家居城。長塚正家も関ヶ原の合戦後、水口城に籠もっており、島津勢も、水口を一時集結する場所としていたようだ。実際、入来院衆がこの地で収容した負傷者二百五十余名。そのうち百八十が本国に戻った、と。島津義弘は水口から甲賀の山中の険路を突破し信楽の里。落ち武者狩りと戦いながら、生駒山系の南辺りを通り、和泉に到着。三日三晩の不眠不休退却行であった。義弘勢三十名に、途中で別ルートを進んだ島津の士が集結し八十名程度となる。大阪安治川に停泊の島津船が摂津住吉の浦で義弘勢、負傷者を収容し、西宮で内室を収容し薩摩に向かった(『島津奔る;池宮彰一郎(新潮社)』を参考にメモ)。