火曜日, 11月 22, 2011

和泉川南流散歩

先日、玉川上水新水路、現在通称「水道道路」と呼ばれる道筋を歩いた。その時、水道道路が杉並の和泉から新宿の淀橋浄水場所へと向かう始点、現在の和泉給水所辺りを谷頭、源流点とする窪地、甲州街道と南台・弥生町の台地に挟まれた窪地を流れる小川があったことを知った。
給水所の辺りには池があった、とも伝わる。また、玉川上水の新水路建設の際の記録に、その谷頭付近は「(新水路)引込口より下流約250間は湧水が多かった」ともある。そもそもが、地名が和泉と言う位であるから、源流点辺りには湧水が多くあっても、さほど不自然ではない。
和泉川と呼ばれたその小川は、南・北の二流に別れ窪地を下り、途中で、玉川上水からの分水も含め、幾つもの窪地からの細流を集めながら渋谷区本町あたりで二流が合わさり、南台・弥生町の台地が切れた辺りで神田川に注いでいた、とのことである。
この川筋跡、と言うか道筋は、自宅から新宿へ「気まぐれ」に、そして、成り行きで何度も辿った道筋でもある。如何にも川筋のような緩やかな蛇行で進む道筋や、偶然出合わす暗渠などを見て、用水路跡かな、などと思ってはいたのだが、和泉川とも、神田川笹塚支流などと呼ばれる、神田川水系のひとつの流れであるとは思っていなかった。
暗渠だけの、今は名のみの「川」跡ではあるが、今回は和泉川の本流でもある南流、次回は北流と、二度に分けて歩いてみようと思う。

本日のルート;和泉川南流源流点>源流点からすぐに民家の敷地に入る>431号に向かって北東に進む>東放学園東を北に進む道とクロス>和泉商店会の道筋に向かって南東に向かう>道筋を越え少し西に進み、道なりに北東に向かう>南北に通る沖縄タウン商店街を越え、都道431号角筈和泉線の一筋手前を環七・泉南交差点に>泉南通り交差点を越え、水道道路脇下の道を一筋南に入った道を進む>荻窪;荻窪に注ぐ北からの流れ、幡ヶ谷分水の流れを集め、水道道路を南に越える>水道道路脇を進む。弧を描いた上端部が境橋跡>先に進むと水路は富士見学園の敷地に入る>一時迂回。迂回路は和泉川北流>十号通り坂商店街を南に折れ、富士見学園敷地からの水路跡に合流。一の字橋跡>明治橋>中野通り>中幡庚申堂。牛窪からの流れ(東流と西流れ)もここで合流>大きな通りを中幡小学校前へと>途中、和泉川北流の神橋跡を確認>中幡小学校;幡ヶ谷からの小流が中幡小学校東端に合流>中幡小学校を越えると、すぐに左手に細路に入る>新道橋>氷川橋跡>柳橋>地蔵橋手前に地蔵窪からの流露が和泉川に合流>地蔵橋>小笠原窪に進む>児童センター前交差点>本村隧道>旗洗池>小笠原窪再上端>本村隧道手前で出羽様池からの流れと合流>小笠原窪と出羽様池の水流を集め和泉川に>再び地蔵橋に戻る>本町小学校裏に登下校用橋跡>新橋>本村橋>村木橋>弁天橋>二軒家橋>杢右衛門橋>山手通り_清水橋交差点>方南通りの東放学園裏手を弧状に迂回>大関橋>つみき橋>柳橋>羽衣橋>羽衣の湯;神田川の歌>長者第一号橋>長者第二号橋>神田川と合流

和泉川南流源流点井の頭通りが甲州街道とクロスする松原交差点の手前、井の頭通り和泉2丁目交差点脇に和泉給水所(和泉水圧調整所)がある。ここを始点に新宿に向かって一直線に走る道は都道431号角筈和泉線。環七泉南交差点より先は水道道路として知られるが、和泉川南流の源流点は、この和泉給水所の辺りにあった。交差点を都道431号に入り、なりゆきで南の甲州街道方面へと進み和泉給水所の甲州街道側のゲート前に。和泉川南流の源流点は、この給水所ゲートの北東、現在は民家の建て込んだ辺りであった、とのこと。ゲート前から源流点辺りを進もう、とは思うのだが、民家の敷地となっており、先に進むことはできない。 東放学園専門学校脇を南北に通る比較的大きな道筋まで戻り、如何にも水路跡らしき道筋を左に折れ、給水所方面へと進む。ほどなく道筋は行き止まりとなるが、源流点はその先の民家の敷地の辺りであったようである。Goo航空地図で見ると、昭和22年の写真に東放学園東(もっとも、この頃は,学校はなかったのだろう、けど)の道筋から源流点に向かう川筋らしき痕跡が見て取れる。

沖縄タウン源流点であった、かとも思える地点を確認し、川筋跡というか、民家の間の小径を、道成りに東に向かう。正確には源流点から東放学園東の通りまでは川筋跡は北東に進み、この通りからは方向を変えて和泉仲通り商店街からの通りに向かって南東に進み、甲州街道手前で和泉仲通り商店街からの通りとクロスする。
通りを越えた川筋は民家の軒先といった細路を北東へと向かい、和泉明店街、通称沖縄タウン、を南北に通る道筋とクロスし、その通りを越えると都道431号角筈和泉線の一筋南の細路を環七・泉南交差点へと向かう。異常に多いマンホールが印象に残る。
少々寂しい商店街が、何故に「沖縄タウン」なのか。商店街のHPを見ると、街を活性化するための試みであり、特に沖縄と関係が深い、というわけでもないようだ。杉並区には「沖縄学の父」と呼ばれる、伊波普猷(いはふゆう)氏や、『おもろさうし』の研究で有名な仲原善忠などの高名な沖縄の学者が住んでいた、さらには23区内で沖縄関係の在住が多く、沖縄料理の店も都心では一番多い、といった「杉並区」の特徴にフォーカスし、街おこしをおこなっている、とのことである。実際、商店街を通るとき、エイサー演舞などのイベントを目にすることもある。

環七・泉南交差点環七・泉南交差点を渡る。玉川上水新水路が造られたときは、ここには十五号橋が架かっていた、とのこと。環七建設の構想は古く、とはいっても、昭和2年の頃に素案ができた、と言うから、環七も当時は現在のような幹線道路でもなく、田舎の小径といったものではあったのだろう。
環七は、戦前には一部着工するも、戦時下には中止となり、戦後も計画は遅々として進まなかったようである。Goo地図で見ると昭和22年の航空写真には、環七の道筋に代田橋あたりから青梅街道手前まで、世田谷通りから国道246号まで、など環七の道筋が断片的に見て取れる。
状況が動いたのは1964年(昭和39年)の東京オリンピック。駒沢競技場や戸田のボートレース会場、そして羽田空港を結ぶため計画が急速に動き始め、オリンピック開催までには大田区から新神谷橋(北区と足立区の境)まで開通した。Goo地図で見ると、オリンピックを翌年に控えた昭和38年の航空写真には荒川の神谷橋あたりまで道筋が開通している。
その後、計画は少し停滞し、最終的に葛飾区まで通じ、全面開通したのは1985(昭和60年)のことである。構想から全面開通まで60年近い年月がかかったことになる。ちなみに、環七、環八、および環六(山手通り)は知られるが、その他環状一号から五号も存在する。環状一号線は内堀通、二号は外掘通り、三号は外苑東通り、四号は外苑西通り、五号は明治通り、とのことである。

荻窪の流れ合流点跡環七・泉南交差点を越えた南流水路は、水道道路の南に出る。水道道路の南に沿って、道路と少し段差のある細路が東に続く。この道が南流の流路かとも思ったのだが、和泉川南流は環七を越えてすぐ、少し南に折れ、水道道路の二筋南の細路を進んでいた、ようである。
先に進み、比較的広い道とクロスするあたりで和泉川南流は北に折れ、水道道路の北側に移った、とのこと。 和泉川南流が流路を北に変えるこのあたりは荻窪と呼ばれる窪みであった、とのこと。北に流路を変える道筋を、そのまま東に進むと緩やかな上りとなっているし、また、南からも窪みに向かって如何にも水路跡らしき小径が下ってくる。これは、甲州街道に沿って東進してきた玉川上水が、荻窪の「窪地」を避けるべく、代田橋で流路を南に変え、環七を渡った辺りにある荻窪の最上端部から下る流れと、笹塚駅近く、稲荷橋あたりからの玉川上水幡ヶ谷分水が合わさり、この窪地へと流れる細流跡とのことである。
荻窪への流れの最上端は玉川上水が環七を渡ってすぐの公園脇。環七を渡って最初の、北に一直線に進む路地の入口辺りが、荻窪への流れの最上端と言われる。流路はおおよそ西の世田谷区、東の渋谷区の区境を下っている。京王線を越え、甲州街道の手前あたりは、世田谷区、渋谷区、そして杉並区の区境となっている。
往昔、このあたりに三郡橋が架かっていた、と言う。南豊島郡、東多摩郡、荏原郡の3つの境界がその名の由来。笹塚駅付近、稲荷橋より分水された玉川上水幡ヶ谷分水もこのあたりで合流し、甲州街道を渡り北に進み、荻窪の和泉川南流の合流点に向かっていた、と。流路はおおよそ杉並区と渋谷区の境となっているように思える。往昔、地域の境を川筋にすることが多かったとの所以である。
ちなみに、地形図をみると、このあたりは、北は和泉川・神田川水系、西は北沢川・目黒川水系、東は宇田川・渋谷川水系といった3つの水系の分水界。玉川上水が代田橋あたりから先、南へ北へと蛇行するのは、言い換えれば、分水界の尾根道を外れないように進んでいる結果でもあろう。


より大きな地図で 和泉川(神田川笹塚支流) を表示
水道道路の北側に移る荻窪から水道道路の北側に移った和泉川南流は駐車場の南詰めに出る。駐車場北詰めは、源流点より東流してきた和泉川北流が、北東へと向かう地点であるが、駐車場南詰めに出た南流は、駐車場の南端と水道道路の間の小径を東へと向かう。
大正時代、関東大震災など二度の地震で水道道路、当時の玉川上水新水路は二箇所決壊し大きな被害を出した、と言う。一箇所は現在中野通りが通る窪地に築いた築堤、そしてもう一箇所は、この荻窪の辺りのようである。

境橋先に進むと、道筋、と言うか川筋跡は北に少し弧を描くように進む。水道道路にあった地図によれば、弧を描く始点あたりに欅橋という表示があったが、それらしき名残はなにも、ない。先に進み弧の最上端あたりに橋跡。堺橋の名残である。昭和32年(1957)に架けられたこの橋は、杉並区方南と渋谷区笹塚の境近くにあり、ために昭和初期までは境橋とされていた、とのこと。
弧を描いた道筋は、再び水道道路脇に接近し、しばらく水道道路と平行して東に進み、北東へと流路を変えると、ほどなく富士見学園の敷地内へと進む。

一の字橋富士見学園西側の道を左に折れ、学園敷地を迂回する。北に進むと、東西に走る比較的大きな通りに出る。最近できた道かとチェックすると、Goo地図で見るに昭和22年の航空地図に比較的広い道筋が、北東方向へと緩く弧を描き中野通りまで続いている。この道筋は和泉川北流の流路でもあった。
通りを進み、富士見学園東側を南北に通る道筋に戻る。ここは笹塚十号坂商店街とある。十号とは、玉川上水の新水路が和泉の水衛所(水圧調整所・和泉給水所)から新宿の淀橋上水場まで造成されたとき、新宿から和泉にむかって一号から順番に架けられた橋の名前。一号と二号は淀橋上水場の敷地内であったが、三号橋は山手通りに架けられていた、と言う。
笹塚十号坂商店街を北に上り、途中、富士見学園から出てきた、と思える道筋・川筋跡をチェック。休憩所のようなコーナーとなっていた。道筋は商店街の通りを越えて民家の間を進むが、和泉川南流がこの笹塚十号坂商店街の道筋とクロスするところに、一の字橋が架かっていた、とのこと。橋の名残はなにも、ない。
明治橋跡細路を進み笹塚中学校裏を越えると、笹塚中学校東を南北に通る道と交差。明治橋跡が残る。と言っても、片側支柱だけが、ぽつんと佇むだけではある。先に進むと中野通りにあたる。通り手前には石、なのかコンクリートなのか、ともあれ橋跡らしき名残が残るが、これといった橋名の記録は、ない。



中幡庚申塔中野通りを越えると、川筋跡は北東に走る通りに突き当たり、そこから流路を北東へと向ける。突き当たりには中幡庚申塔が残る。この庚申塔のあたりには庚申橋が、1990年代の後半の頃まであったとのこと、である。

牛窪からの流れが合流中幡庚申塔の辺りには牛窪と呼ばれた窪地からの流れが合流する。玉川上水が笹塚から大きく南に迂回し、中野通りが井の頭通りとクロスする手前で再び流路を変え、弧を描いて北に向かうのは、玉川上水が荻窪を迂回している、ということである。
荻窪の最上端 は、南へと大きく弧を描く玉川上水と中野通りがクロスする辺り。荻窪の最上端近く、中野通りの少し西からふたつの流れが和泉川南流へと注いでいた。ひとつの流れは中野通りの西を下り、あとの一流はすぐに中野通りの東へと向かい、通りにそって下り、二流は水道道路・笹塚出張所前交差点で合わさり、中幡庚申塔のあたりで和泉川南流に注いでいた、ようである。

和泉川北流・神橋中幡庚申塔から先は比較的大きな通りを進む。緩やかなS字のカーブが如何にも、往昔の川筋の風情を残す。先に進み、公園脇の道を、何の気なしに北に進み、ちょっと寄り道。東西に走る細路の脇に橋の支柱らしき、もの。神橋とあり、和泉川北流唯一の橋跡であった。

中幡ヶ谷小学校・幡ヶ谷からの細流跡神橋跡から元の通りに戻り、先に進むと中幡小学校。中幡小学校の東端には幡ヶ谷駅あたりからの水路が合流する。最上端部は幡ヶ谷駅手前の玉川上水の近く。北東に切り上がってきた玉川上水が東に流路を変え、幡ヶ谷への駅への道と分岐するあたり。玉川上水からの分水であったのだろう。
流路は最上端より北東に、川筋跡と思われる細路を駅に向かう。ほどなく川筋は商店街に呑み込まれ流路跡は消える。甲州街道を渡り、駅前商店街の雑居ビルの敷地をクランク状に進むようである。水路跡らしき道筋が現れるのは幡ヶ谷の駅に続く道筋。水路は北に進み、観音湯西端の細路を進み水道道路に当たる。
水道道路の北側に渡った水路は幡ヶ谷第二保育園脇の細路を進むが、水道道路付近は現時点(2011年10月)では通行できない。水道道路を少し西に戻り、坂道を下り水路跡らしき道筋に戻る。水道道路から少し離れたところに大きな段差の石段があるが、水路跡はそこから東は崖、西は民家の軒に挟まれた細路を北に下る。ほどなく流路は東へと変わるが、その地点の西側は上り坂となっており、如何にも窪地といった流路である。その先で水路はクランク状に曲がり、中幡小学校脇に出る。

新道橋中幡小学校東側で、和泉川南流は大きな通りを離れ、北側の小径に入る。流路跡はそこから遊歩道らしくなる。先に進むと道の左手に幡ヶ谷新道公園。公園の東側の通りは六号坂商店街からの道筋。水道道路から下る道筋は、六号通り商店街、六号坂商店街、そして新道公園前から先は六号大通り商店街、と「出世魚?」の如く名前が変わる。そして、この通りに架かるのが新道橋である。

地蔵窪からの流れの合流点跡水路跡を先に進む。幡ヶ谷保育園裏を進み、橋跡を示す鉄製の柵をいくつか見ながら進むと地蔵窪からの流れの合流点に。合流点脇には公文堂製印所と書かれた民家があった。
地蔵窪の源流点は幡ヶ谷駅を少し東に進んだ甲州街道脇にあるエネオスのガソリンスタンドの裏手あたり、とか。往昔、この地には1686年建立のお地蔵様が祀られていた。地蔵窪の名前の由来である。幡ヶ谷地蔵とも子育地蔵とも呼ばれるこのお地蔵様は、現在はガソリンスタンドのすぐ西、陸橋脇のビルの一角に移されている。まことに奇妙な形の祠ではある。
案内によれば、「地蔵信仰は古くから行われていますが、地蔵は苦痛の時に身代わりに現れるとか、冥界と現実界との境にあって死後救ってくれるとか、子供の安全を守ってくくれるとか、いろいろと考えられていました。この地蔵は子育て地蔵と呼ばれており、このあたりの低地は昔から地蔵窪といっています。この地蔵は江戸時代の貞亨3年(1686)年の造立で、もとはすぐ前にお堂がりましたが、甲州街道の道幅を拡げるとき、ここにあった大ケヤキのあとに移され、大勢の人々の浄財によって立派なお堂が作られました(渋谷区教委区委員会)」、と。
地蔵窪を離れた流路は、甲州街道を北に渡り、金物屋と駐車場の間の細路を北に下り、水道道路に当たる。すぐ西は水道道路の本町隧道。1975年に造り替えられた現在の隧道は昔の位置より少し西に移っている、と。隧道の少し西には、如何にも閉じ込めらた跡を残す昔の隧道跡らしき壁が残る。往昔、水路は隧道を通り水道道路下を潜っていたのではあろう。
本町隧道を潜り、帝京短大の一筋東の細路が水路跡。先に進むと、帝京整形外科の東裏あたりで、北西からの細路が合流していたようだが、これは小笠原窪と出羽様池跡からの水路から分水された流路跡とのことである。小笠原窪と出羽様池跡は後でメモする。
細路を進み、児童センター前交差点からの比較的大きな通りに出るが、水路は三叉路の交差点の手前を突き切り、北に進み和泉川南流に合流していた、と。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

小笠原窪・出羽様池跡からの流れの合流点地蔵窪からの流れとの合流点の一筋東、氷川神社から南に下る比較的大きな通りとクロスするところには橋跡の名残を残すコンクリートと鉄の柵がある。往昔、このあたりには氷川橋とか本町桜橋があった、と言う。場所から言えば氷川神社の参道とも言えなくも、ない。氷川橋の跡だろうか。
氷川橋か否かはともあれ、この地は小笠原窪と出羽様池跡からの流れの合流点であったところ。小笠原窪の最上端部は初台駅の少し西、幡代小学校の前あたり。現在は甲州街道に面した公園となっている。窪地最上端の先にある尾根道の南は渋谷川水系。小笠原窪へと下る尾根道の北は神田川水系となっている。ちなみに、このあたりを通る玉川上水も、渋谷川水系・宇田川の谷筋を避けて、尾根道でもあった甲州街道に再接近している。
地蔵窪からの水路は甲州街道を越え、北に下る。水路跡を進むと高知新聞・高知放送社宅洗旗荘のビルがある(渋谷区本町1丁目9)。ビルの前に石碑とその案内。石碑には「洗旗池」、その記念碑の案内は「旗洗池」と語順逆転している。案内によると、「平安時代後期に東北地方を舞台にした後三年ノ役(1083~1087)の帰途、源 義家(みなもとのよしいえ、通称:八幡太郎)がこの池で源氏の旗である白旗を洗ったという。このことが幡ヶ谷というこの付近一帯の地名の起源となった。その白旗は金王八幡宮の宝物となり、今残されている旗がそれである。
この池は60平方メートル程の小さな池で、肥前唐津藩小笠原家の邸宅内にあり、神田川に注ぐ自然の湧水であった。昭和38年(1963)に埋められ、今は明治39年(1906)4月、ここに遊んだ東郷平八郎筆の「洗旗池」(はたあら いけ、の記念碑だけが残されている。
源義家がはたして白旗を洗ったかどうかの証拠はありません。しかし関東地方特有の源氏伝説のひとつであり、幡ヶ谷というこの付近一帯の地名の起源となった有名な池だったのです(渋谷区教育委員会)」、とある。
金王八幡は渋谷駅からほど近い社。旗洗池で白旗を洗った義家は、その白旗を金王八幡に奉納して上洛した、とのことである。後三年の役は、それまで東北に覇を唱えていた清原氏が勢力を失い、平泉の藤原氏が台頭するきっかけとなった東北地方での騒乱である。
石碑の揮毫は東郷平八郎。日露戦争の雌雄を決する日本海海戦でロシアのパルチック艦隊を殲滅した海軍元帥。明治の頃、小笠原子爵邸を訪れた折に揮毫した、とのこと。
旗洗池を離れた水路は、北に進み、渋谷区本町1-39-1あたりで、東から流れ下ってきた出羽様池からの水路と合流し、流路を北西に変更し水道道路方面へと向かっていた。出羽様池とは新国立劇場の北、水道道路手前にあるテニスコートのあるあたりである。出雲松江藩松平出羽守の屋敷があったのが、出羽様池の名前の由来である。
流路を北西に変えた川筋は、ジョルティ初台とサンシャインコーポベル初台の間の細路を進み、本町図書館の二筋裏手を進み、水道道路にあたる。その後、水路は本村隧道を抜け、比較的大きな通りを児童センター前交差点へと向かう。道は緩やかなカーブを描き進む。如何にも水路跡といった趣きである。児童センター前交差点を越えた川筋は道なりに進み、和泉川南流の合流点へと向かっていたようだ。なお、既にメモしたように、水道道路を越えてすぐ、西へと向かう分水路があり、地蔵窪からの流れと合わさり和泉川南流へと合流する流れもあった、よう。

柳橋小笠原窪・出羽様池跡からの流れの合流点から川筋跡らしき道筋を東へと向かう。少し大きな通りとの交差するところに新しく造られた橋、というか橋のモニュメント。柳橋とあった。

本町小学校・地蔵橋柳橋を越え、川筋跡をしばらく進むと、大きな通りに出る。通りの前には本町小学校がある。ここは、和泉川南流の北をおおよそ平行に流れてきた和泉川北流が合流する地点。地蔵橋という橋跡が残るが、ここでふたつの流れが合流し、神田川へと向かっていた。
地蔵橋の名前の由来は子育酒呑地蔵尊、から。地蔵橋南詰めに子育酒呑地蔵尊があった、とのことだが、更地となっており建物はなにも、ない。地蔵尊の祠を求めて辺りをさまよっていると、子育酒呑地蔵尊は中野通りに近い幡ヶ谷2丁目36?1にある清岸寺に移ったとあった。酒呑地蔵尊は、勤勉に働いた男をねぎらって酒を馳走したところ、酒に酔い川、和泉川だろうが、ともあれ、川に落ちてなくなった。その後、村人の夢枕に現れ、村から酒飲みをなくすために地蔵建立を求めた、とか。そのうちに、訪ねてみよう。

登下校用橋跡本町小学校裏手の川筋を進む。小学校の裏門には登下校用に造られた、と思われる橋跡が残っていた。

新橋跡本町小学校を越えると、南北に走る通りに橋跡が残る。中央部の鉄パイプは外された石の柱が残る。1940年(昭和15年)に造られた新橋跡である。暗渠が南北より一段低くなっており、なんとなく川筋跡の趣が残る。南北に走る通りを北に進むと方南通りに通じる。

本村橋跡細路を先に進み、今度は東西に走る通りと交差するところに本村橋跡が残る。橋跡と言っても、橋名を刻んだコンクリートのモニュメントが四方の隅に立つだけ、ではある。モニュメントは2006年(平成18年)に造られた、とか。本村は「ほんむら」と読む。水道道路の本村隧道とおなじく、本町の前身である本村が名前の由来。

村木橋東西に通る道を越え、斜めに切り上がり、最初にクロスする南北の通りに架かっていたのが村木橋。1955年{昭和30年}に造られた石造りの支柱が残る。支柱の間は鉄の柵。

弁天橋跡村木橋を越え、ほどなく南北に通る道筋にかかっていたのが弁天橋。まったくのモニュメントとして造られており、往昔の橋の面影は残っていない。

二軒家橋跡先に進み、本町中学校の東側を南北に走る通りとクロスするところに架かって橋が二軒家橋。この橋も近年、あたらしくモニュメントとして作り直されていた。二軒家はこのあたりの字名である。

手通り・清水橋跡

少し広くなった川筋跡を方南通りに沿って一筋南を進む。山手通り手前には杢右衛門橋があったようだが、山手通りの工事の影響か、コンクリートの段差らしきものしか見つからなかった。
和泉川南流が山手通りと交差することころに架かっていたのが清水橋。山手通りと方南通りの交差点にその名を残す。清水橋の由来は、清水橋交差点を少し北東に入ったところに二軒家公園があるが、そこにあった湧水池の清水による、とか。

大関橋跡

山手通りを越え、川筋は一度方南通りにあたる。このあたりに大関橋があった、とか。橋の痕跡は見あたらなかった。大関橋から先は、ほんの数メートル方南通り、否、正確には方南通りは清水橋で終わり、清水橋交差点から新宿十二社までは都道432号淀橋渋谷本町線と言う、500m弱の極めて短い道に衣替えしているのだが、ともあれ、都道432号に沿って進む。
その432号をほんの少し東に進み、東放学園手前で、学園の裏手に入り込み、南に弧を描くようにして進み、再び都道432に戻る。川筋跡は、自転車置き場となっていた。それにしても和泉川と東放学園は「縁」がある。源流点近くでも、東放学園脇を進み、終点近くでも再び東放学園脇を歩くことになった。

都道432号・都営大江戸線西新宿五丁目駅東放学園の東側を都道432号に出る。水路は通りを横切り、都営大江戸線西新宿五丁目駅中を抜け、通りを北に渡る。往昔、交和橋と呼ばれる橋があった、とか。清水橋交差点を含め都道432号の南は渋谷区、通りの中央から北は新宿区に変わる。

つみき橋

新宿区に入ると、川筋は道の中程に花壇が置かれるなど、遊歩道といった趣きとなる。北東に道を進み、これまた東放学園の東脇を北西に向かう通りとクロスするところに橋跡が残る。支柱の文字はかろうじて読めるといった状態。えのき橋、と読んだのだが、実際はつみき橋。1924年(大正13年)に架けられたこの橋は、石で造られた欄干の中央部がバッサリと切り離され、鉄の柵によってふさがれていた。

柳橋川筋跡を北東にしばらく進むと、北西に通る道と交差。そこに柳橋の跡が残る。1932年(昭和7年)に造られた橋跡は石橋の欄干の中央部分が切り開かれ通路となっている。

羽衣橋跡柳橋を越えるとすぐに東西に通る広い通りにでる。ここに架かっていたのが羽衣橋。橋の西に羽衣の湯、と言う銭湯がある。銭湯と言うより、現在ではサウナなども備えた温泉スパ、といったものではあるが、ここは「"あなたはもう忘れたかしら.....♪"」で知られるヒット曲、"神田川"の舞台となったところ。ヒット当時の1973年(昭和48)の銭湯の面影は、今は、ない。ちなみに、「神田川」の記念碑は桃園川と神田川との合流点近くに建つ。

長者第一号橋跡羽衣橋を少し北に進むと長者第一号橋跡。東西に通る道とクロスするところに石だったかコンクリートだったか定かではないが、橋跡が残る、1938年、と言うから昭和13年に造られたものである。

長者第二号橋跡更に一筋北を東西に通る道とのクロスするところには長者第二号橋跡が残る。残るとはいうものの、橋の面影はなく、鉄の柵が残るだけ。

神田川と合流長者第二号橋跡のすぐ先で和泉川南流は神田川に注ぐことになる。合流点には大きな排水溝造られていた。雨水などの排水路として和泉川の暗渠は活用されているのだろう、か。

神田川水系と渋谷川水系の尾根道でもある甲州街道と南台・弥生町の台地の間の窪地の谷頭の湧水や、甲州街道に切り上がるいくつもの窪地の細水を集め、流れ下ってきた和泉川も、ここ南台・弥生町の台地の切れたところで神田川に注いでいた。
和泉川の本流でもあった、南流散歩はこの合流点でお終い。次回は和泉川北流を辿ってみようと思う。

水道道路・玉川上水新水路

環七と甲州街道がクロスする大原交差点の少し北に泉南交差点がある。そこから一直線に新宿に向かう道があり、水道道路と呼ばれている。自宅から新宿への往来に、気まぐれに、そして、折りにふれて歩いている道でもある。途中六号路とか十号路などという名前の通りなどがあり、その号数って何、なんだろう、「水道道路」の向かう新宿、現在高層ビルが建ち並ぶ西新宿には、かつて淀橋浄水場があったわけであるから、東京の水道網とは、なんらかの関係はあるのだろう、などとは思いながらも、そのままになっていた。
先日、玉川上水を羽村の取水口から新宿の四谷大木戸跡まで歩き、そのメモをまとめるとき、この水道道路は玉川上水の歴史、また、東京の水道網の開始とも大いに関連のある水路であったことがはじめてわかった。
明治31年(18989)、淀橋浄水場が新宿に建設されるにともない、従来の玉川上水の水路(旧水路)、甲州街道に沿って進んできた水路が和泉で流路を南に変え、分水界の尾根道を、蛇行を繰り返しながら進む水路であるが、その玉川上水の旧水路とは別に、和泉水圧調整所(旧和田堀水衛所;現在、和泉給水所となっている)から新宿の淀橋浄水場に向かって一直線に進む新水路が開かれた。現在の都道431号角筈和泉線、通称、水道道路と呼ばれる道がその水路跡である。淀橋浄水場が建設された最大の目的は、玉川上水の水質汚染、そして更には明治19年(1886)、東京とその近郊にコレラが大流行し、従来の堀割の玉川上水に変わる水道網建設が必要とされたためである。
和田掘水衛所から淀橋浄水場までの距離は4.3キロ。水路途中にある窪地には、淀橋浄水場の掘削土などで盛り土した8-10mの築堤を造り、幅6mの開渠水路が造られた。当時の写真を見るに、なかなか大規模な水路である。
しかしながら、この水路堤は大正10年(1921)の地震や12年(1923年)の関東大震災で2箇所が大きく決壊し、地域に洪水をもたらした。これを契機に、新水路の見直しが行われ、昭和に入ると、水路は当時計画中の甲州街道拡張に合わせ、甲州街道下に送水管を敷設することになる。昭和12年(1937)には、和田堀町地先から地下に潜り、代田橋で甲州街道下に移り、角筈で左折して浄水場につながる埋設管を敷設し、新たな送水路が完成した。
不要になった新水路は自然地盤まで崩し、幅9mの砂利道とする計画もあったようだが、結局は、自然地盤に戻ったところがあったり、堤が残ったり、といった、現在の道の姿となった。水道道路とは呼ばれるものの、道路下には水道管も埋設されてはいない、今は、「名のみ」の水道道路であるが、それでも、なんらかの「発見」を楽しみに散歩に出かけることにする。

本日のルート;和泉給水所>沖縄タウン>環七_泉南交差点>十三号通り公園>十号通り商店街>中野通り>七号通り公園>六号通り商店街>本町隧道>本村隧道>初台_出羽殿池>山手通り>十二社通り>新宿中央公園>新宿水道局>淀橋浄水場跡碑

和泉給水所
新水路の起点は井の頭通りが甲州街道とクロスする松原交差点の手前、井の頭通り和泉2丁目交差点脇にある和泉給水所。玉川上水の旧和田堀水衛所のあったところである。上でメモしたように、旧玉川上水は和泉給水所の南を進み、代田橋へと進み、その先は北沢川水系(目黒川水系)、宇田川(渋谷川水系)、神田川水系の分水界を尾根道から離れることのないように蛇行を繰り返し進むが、新水路は、ここから新宿に向かって一直線に走る。現在の都道431号角筈和泉線が新水路跡である。環七泉南交差点より先は水道道路として知られるが、始点は和泉2丁目交差点であった。
通勤路でもある和泉交差点を都道431号に入り、右手に和泉給水所のタンクを見やりながら、住宅街を進む。道筋が少し北に折れるあたりで道路脇に公園が現れる。地図を見ると、和泉給水所から一直線に進んだところであり、ここが水路跡ではあろう。昭和22年のgooの航空写真にも水路跡らしき「ノイズ」が見て取れる。
先に進み、和泉仲通商栄会(和泉仲通り商店街)の通りを越えると、道は車一台がやっと通れるといった小径となる。道の右手に公園が続く。いかにも「公共物」の敷地跡といった風情。とはいえ、水路の名残りは、素人目には、何も、ない。

沖縄タウン
公園に沿って先に進むと少々レトロな雰囲気を残す和泉明店街に。通称、沖縄タウンと呼ばれている。何故に「沖縄タウン」なのか。商店街のHPを見ると、街を活性化するための試みであり、特にこの地が沖縄と関係が深い、というわけでもないようだ。杉並区には「沖縄学の父」と呼ばれる、伊波普猷(いはふゆう)氏や、『おもろさうし』の研究で有名な仲原善忠などの高名な沖縄の学者が住んでいた、さらには23区内で沖縄関係の在住が多く、沖縄料理の店も都心では一番多い、といった「杉並区」の特徴にフォーカスし、街おこしをおこなっている、とのことである。
伊波普猷は戦災で焼け出され、荻窪にあった比嘉春潮のお宅に寄寓していた、と。仲原善忠氏は世田谷区成城とも言われるが、それはそれとして、実際、商店街を通るとき、エイサー演舞などのイベントを目にすることもある。
環七・泉南交差点クランク状になった商店街のメーンの通りを越え、民家の密集する細路、車一台がかろうじて通れるといった細路を進むと、環七・泉南交差点に出る。新水路があった頃は、十五号橋が架かっていた、とのことである。かつて、水道道路と交差する通りには、新宿の淀橋浄水場を起点に一号から十六号までの名称が付けられ、そこには木橋が架けられていたがようだが、現在地名として残るのは、六号通り商店街、十号通り商店街以外には、バス停の七号通り、そして十三号通公園だけとなっている。ちなみに和泉仲通り商店街とクロスするところには十六号橋が架かっていたそうである。

環七
環七とのクロスするところに十五号通り橋が架かっていた、とは言うものの、新水路が造られた頃には、現在の環七が通っていたわけでは、ない。環七建設の構想は、昭和2年の頃には素案ができ、戦前には一部着工されたようだが、戦時下では中止となり、戦後も計画は遅々として進まなかった、とのこと。Goo地図で見ると昭和22年の航空写真には、環七の道筋に代田橋あたりから青梅街道手前まで、世田谷通りから国道246号までなど、環七の道筋が断片的に見て取れる。
状況が動いたのは1964年(昭和39年)の東京オリンピック。駒沢競技場や戸田のボートレース会場、そして羽田空港を結ぶため計画が急速に動き始め、オリンピック開催までには大田区から新神谷橋(北区と足立区の境)まで開通した。Goo地図で見ると、オリンピックを翌年に控えた昭和38年の航空写真には荒川の神谷橋あたりまで道筋が開通している。
その後、計画は停滞し、最終的に葛飾区まで通じ、全面開通したのは1985(昭和60年)のことである。構想から全面開通まで60年近い年月がかかったことになる。ちなみに、環七、環八、および環六(山手通り)は知られるが、その他環状一号から五号も存在する。環状一号線は内堀通、二号は外掘通り、三号は外苑東通り、四号は外苑西通り、五号は明治通り、とのことである。ともあれ、十六号通り橋が架かった頃は、地域の小径ではあったのだろう。

和泉川(神田川笹塚支流)
環七・泉南交差点を越える。ここから水道道路は片側一車線の道として、新宿に向かって一直線に進む。水路筋の地形図をカシミール3Dでつくってみると、大雑把に言って、水道道路から甲州街道方面にかけての南側の標高が高くフラとになっており、北側が低く窪地となっている。また、流路途中で、北側の窪地が南へと切り込んだところがいくつもあり、築堤はそういった窪地に盛り土をおこない、水路堤をつくったのではないかと思う。最大の窪地が、現在の中野通りと甲州街道のクロスするあたり。牛窪と呼ばれたこの窪地は水道道路を越え、甲州街道の南まで切り上がっている。玉川上水か笹塚から南へと弧を描いて進む地点でもある。そのほか、大小の窪地が水道道路の南まで切り上がっている。
一方、水道道路の北側窪地の先には南台・弥生町の台地があり、その北側を神田川が流れる。そして、水道道路・甲州街道の通る尾根道と南台の間の窪地には、和泉給水所辺りを谷頭とする、和泉川と呼ばれる細流が流れていたとのこと。どこかの資料で「(新水路)引込口より下流約250間は湧水が多かった」、との記録もあり、また、和泉給水所の辺りには池もあったようで、和泉川と呼ばれる水流があってもそれほど不自然ではない。
和泉川は、現在はすべて暗渠となっており水路は残らない。その痕跡は橋跡や遊歩道らしき道筋として残るだけではあるが、往昔、和泉川の細流は南台の台地が切れたあたりで、神田川に合流していた。和泉川が神田川笹塚支流とも呼ばれる所以である。流路を調べると、和泉川は南北二流に分かれ、途中で一流となり神田川に注ぐ。また、この川筋には、水道道路の南側まで切り込んだ窪地からの細流、玉川上水からの分水も注いでいたようである。
この川筋跡、と言うか道筋は、新水路同じく、自宅から新宿へ「気まぐれ」に、そして、成り行きで歩く道筋と重なるところも多い。次回は、和泉川の暗渠を辿ってみようと思う。

荻窪環七・泉南交差点を越えると、水道道路の南北は段差があり、築堤の名残らしき雰囲気を残す。このあたりは、基本的には水道道路と甲州街道は同じような標高ではあるので、道路南側の段差は、水道道路を越えて甲州街道方面へと切り込んだ窪地ではあろう。実際、この窪地は「荻窪」と呼ばれていたようであり、その最上端、と言うか、再南端は、甲州街道を越え、旧玉川上水が環七と交差するあたり、とのこと。甲州街道に沿って東流してきた玉川上水が代田橋で流路を南に変え、環七との交差点あたりから再び東流するのは、この荻窪の低地を迂回するためである。なお、荻窪の谷頭から流れる水は窪地を北に下り和泉川に注いでいた、とのことである。

十三号通り公園道を先に進む。水道道路の北側は段差があるも、南側は次第に段差が目立たなくなり、十三号通り公園のあたりでは、ほとんどフラットな状態となる。水道道路と交差する通りには新宿の淀橋浄水場を起点に一号から十六号までの名称が付けられ橋が架けられていた、と上にメモした。『日本水道史;日本水道協会』にも、「小径路にして車馬の通行なきものは歩道として築堤上に昇り、水路上を木橋を架して通行せしむ」とある。ここにも往昔、木橋が架かっていたのではあろう。
なお、上で大正10年、12年の地震で大きく決壊したのは2箇所とメモした。一カ所はこの13号通りと14号通りの間。もうひとつは8号通りと9号通りの間とのこと。9号通りと8号通りの間とは、現在の中野通りとの交差するあたりであろうが、13号通りと14号通りの間とは、15号通りが環七であるので、荻窪からの水路が水道道路とクロスするあたりではなかろう、か。


より大きな地図で 和泉川(神田川笹塚支流) を表示

十号通り商店街
道を進み富士見女高前交差点に。この交差点の南側は十号通り商店街。北側は十号坂商店街とあった。十号通り商店街を南に進むと京王線・笹塚駅に至る。「号」表示で商店街となっているのは、この十号と東に進んだ六号通り商店街のふたつだけ、である。

中野通り・笹塚出張所前交差点
十号通り商店街を越えると、道は中野通りに向かって下り、交差点を越えると再び上り坂となる。地形図を見ると、中野通りに沿って窪地が甲州街道を越え、井の頭通りの手前まで延びている。新水路が築かれた頃は、この窪地に堤を築き、水路を渡していたのだろうが、それにしても、現在、堤の痕跡は素人目には見あたらず、自然な坂道となっている。
新水路が造られた当時、この窪地を越える築堤には、その下に隧道を通していたようである。『淀橋浄水場史;東京水道協会』の中に「玉川上水新水路被害状況」という地図があり、そこには第8号橋と第9号橋の間に「第三号暗渠」と書かれた隧道らしき記載があった。新水路には三カ所の隧道があったようだが、現存しているのは、2箇所だけであり、この地の隧道は築堤もろとも、元の地勢に戻されたのではあろう。
なおまた、この中野通りとクロスする隧道あたりは、大正10年、12年の地震によって大きな被害を受けたところ。『淀橋浄水場史』には、「水路敷が沈下、北側の水路堤防約10間が崩壊し流失。多数の亀裂残れり」と、ある。

牛窪中野通りと甲州街道が交差する笹塚交差点の南詰めに牛窪地蔵が祀られているが、その名の通り、このあたりは「牛が窪」と呼ばれる大きな窪地であった。玉川上水も笹塚から流路を南へと変え、この牛窪を迂回している。この窪地は雨乞い場でもあり、また、牛裂の刑を執行する刑場跡でもあった、とのこと。牛窪地蔵が祀られたのは宝永・正徳年間の疫病を避けるため。地蔵尊の祠、といっても現在は結構モダンな造りとなっているが、その脇には道供養塔、庚申塔が祀られる。
窪地の最上端は中野通りと井の頭通りが交差する大山交差点の少し北、笹塚駅あたりから荻窪を迂回すべく、流路を南に向けた旧玉川上水が窪地を迂回した後、再び北に流路を大きく帰る地点の少し北あたり、である。この窪地最上端辺りからも二筋の水路が北に向かい、中野通りと水道道路の交差する笹塚出張所交差点のすぐ東で合流し、和泉川に注いでいた、とのこと。

 七号通り公園
中野通り・笹塚出張所前交差点を東に、ゆるやかな坂を上る。道の北側は交差点あたりでは段差があるも、次第にその差を縮める。南側にはほとんど段差は感じられない。先に進むと道脇に七号通り公園があるが、その脇を南に向かう道筋も、水道道路との段差はほとんど、ない。

(この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

幡ヶ谷駅方面に切りあがる窪地
七号通り公園を越えると、道の北側に坂道が現れ、段差が感じられるようになる。道の北側に幡ヶ谷第二保育園があるが、この保育園の西側は大きな段差となっている。保育園とその東の境は、崖のようでもある。どうも、このあたりは幡ヶ谷駅の少し北を最上端とする窪地となっているようであり、その窪地を細流が北に向かって流れ、和泉川に注いでいた、とのことである。

六号通り商店街水道道路・社会教育館前交差点の南北には商店街が連なる。水道道路より幡ヶ谷駅方面への商店街は六号通り商店街。道を北に下るのは六号坂商店街。十号の場合と同じ名前の付け方になっている。

本町隧道
先に進み、道路南側に公園、北側に帝京めぐみ幼稚園が見えるあたりに本町隧道(第二号暗渠)。道の北側ある石段を下り隧道を潜る。新水路の築堤により通りを分断され、往来が不便になった住民のために造ったもの。新水路にはこのような隧道が3箇所設けられた、と上でメモした。『日本水道史;日本水道協会』には、「新水路は代々幡村字北笹塚、下町及び本村の三箇所に於いて道路を横断する。此付近に於いて水面は地盤上22.27尺以上にあるを以て、道路は煉瓦拱を以て構造とし、水路の下を通過せしむ。此笹塚村のものは、幅8尺、高さ10.5尺、長さ80尺、本村のものは幅6尺、高さ9尺、長さ98尺」とある。本町隧道とはこのうちの、代々幡村字下町、のことだろう。

地蔵窪よりの水路跡
隧道を設けたのは、重い荷車を上げ下げするのが大変であるため、との説明もある。ということは、隧道のあるところは当時のメーンルートであったのかとも思う。また、隧道のあるあたりは窪地でもあり、窪地を下る水流を通すためのものでもあったのだろう。この本村隧道にも、幡ヶ谷駅の少し東にある地蔵窪からの流れが北に下っていた。現在の隧道は1975年に造り直されたとき、元の位置より少し西に移ったようである。実際、隧道のすぐ横に、如何にも塞がれたようなトンネル跡がある。

本村隧道

道を東に少し進み、道の北側に東京公衆衛生学院、南に都営アパートが切れて公園が現れるあたりに本村隧道(第一号暗渠)がある。本村隧道に比べてクラシックな造りが今に残る。住所は渋谷区本町(ほんまち)。かつては幡ヶ谷本町、そしてその昔は幡ヶ谷字本村と呼ばれたのが名前の由来。

小笠原窪・出羽様池からの流路跡
この本村隧道には初台駅の少し西、幡代小学校と甲州街道の間を最上端とする窪地、小笠原窪から北に下る流れと、オペラシティの北側にあった出羽様池からの小笠原窪に向かって西に向かって進んできた流れが合流し、北西へと下り本村隧道を越えて進み和泉川に合流していた。
小笠原窪の名前は、幡代小学校から甲州街道を越えたあたり、現在高知新聞・高知放送の社宅あたりにあった肥前唐津藩小笠原家に由来する。出羽様池は出雲松江藩松平出羽守の屋敷があった、から。

角筈交差点
本村隧道を見たあとは、ひたすら水路跡の道筋を淀橋浄水場のあった、西新宿に。山手通りの手前、レストランのデニーズのあたりにあるテニスコートは位置から言って、出羽様池の跡だろう。先に進み、十二社通り・角筈交差点を越える。角筈の地名の由来は、諸説ある。角筈周辺を開拓した渡辺与兵衛の髪の束ね方が、角にも矢筈にも見えたことから、とする説。否、渡辺与兵衛が在家の僧であり、真言宗では在家の僧(優婆塞:うばそく)を角筈と称したから、との説。その他、熊野神社の十二社の近くにある熊野神社の僧(当時は神仏習合のため)が鹿の角を杖に使っていたから、といった説など、さまざま。誠に、地名の由来は諸説あり、定まること、なし。

淀橋浄水場跡
先に進むと新宿中央公園。このあたり一帯にはかつて淀橋浄水場が拡がっていた。高層ビルが建ち並ぶ西新宿副都心には、その面影は、今は、ない。「新宿の青梅街道口にて電車を下り、青梅街道を西は二三町ゆけば、淀橋浄水場あり。(中略)二個の大烟突、高く空に聳ゆ。多摩川上水の水、ここに来り、ためられ、瀘され、浄められ、蒸気ポンプの力にて鉄管に汲みあげられて、都下に文流す。烟突はその蒸気力をつくるためにのみ用立つもの也。人の身体にたとふれば、ここは心臓にして、全都の地下にひろく行きわたれる大小の鉄管は、なお血管の如し」。これは明治から大正にかけて多くの紀行文を表した大町桂月の『東京遊行記』(1906)にある、淀橋浄水場の情景である。大町桂月の旧宅を求めて、関口の台地を彷徨ったのが懐かしい。
また、田山花袋は、『時は過ぎゆく』の中で、泥土の中で働く工夫、広い地面に、トロッコの軌道が敷かれや水道管が積まれる淀橋浄水場の工事を描く。(『東京の30年』に記載との記事もあるが、所有する文庫には、その記載は、ない)。淀橋浄水場があった一帯は江戸の頃、館林秋元家の抱屋敷(下屋敷?)であり、秋元家の下級武士の出であった田山花袋は、秋元家の文書筆写の内職のため新宿内藤町の家から角筈村の旧秋元家屋敷に通 っていた。『東京の30年』に「川そいの路」というコラムがあるが、そこには「丁度其頃、私は毎日新宿の先の角筈新町の裏を流れる玉川上水の細い河岸に添つて歩いて行った。私は小遣取りに、一日二十銭の日給で、さる歴史家の二階に行つて、毎日午後三時まで写字をした」とある。浄水場となる角筈のあたりを頻繁に歩いていたのだろう。それはともあれ、当初浄水場の建設予定地は、この秋元家の屋敷があった淀橋の地ではなく、この南、千駄ヶ谷村の宇都宮藩旧戸田屋敷であったようだ。明治維新の混乱期における上水管理体制の不備や、江戸時代を長きにわたって使ってきた、木樋の腐食による水質汚染もあり、上水の汚染が大きな問題となってきた。また、明治19年(1886)のコレラの大流行での大きな被害も契機となり、近代水道の設置を迫られた政府は、オランダ人ドーソン、イギリス人バルトン氏、パーマ-氏などを起用し水道設置計画を立案し、千駄ヶ谷村をその候補地とした、とのこと。この構想では、旧玉川上水の水路の流路を利用するものであり 、計画は明治23年に決定された。
当初の予定地の千駄ヶ谷村から、この淀橋の地に変わったのは日本人技師・中島鋭治氏の提言による。綿密な測量により、千駄ヶ谷の浄水場計画地は「凸凹高低がひどく、たくさんの盛り土を必要とし、綿密な構造が不可欠な沈殿池や濾過池としては危険である」、とした。明治24年には、この提言が認められ、「千駄ヶ谷村を淀橋に、麻布と小石川に建設予定の給水所を本郷と芝に」「但し、淀橋浄水場より以西2000余間は新たに水渠を開鑿する」という計画に変更された。玉川浄水新水路はこの提言に基づいて建設されたものである。
淀橋浄水場には4つの沈殿池,24の濾過池、そして、大町桂月の『東京遊行記』に描かれた蒸気を発生される大煙突があった。水道は蒸気ポンプで加圧し、高地給水地域に給水。低地給水地域には、本郷給水所より自然流下で給水した、とのこと。なお、浄水場を千駄ヶ谷から淀橋に変えたことにより、浄水場標高が5m高くなり、結果的に蒸気ポンプ動力の負担減となった、と言う。また、蒸気を発生させる大煙突は東京の近代化のシンボルともなった、とのことである。工事は明治25年、神田川への余水吐工事からはじまり、浄水場の建設と平行し、明治26年、代々幡村本村(本村隧道)、下村の道路築堤(本村隧道)、北笹塚道路築堤(中野通りにあった隧道)の建設が始まり、明治31年に完成。当初は神田区、日本橋区のみへの給水であったが、翌明治32年には市内全域に給水するようになった。

淀橋浄水場碑

高層ビルの建ち並ぶ西新宿を、往昔の浄水場の写真を想い描きながら新宿駅近く、エルタワーの脇にある「淀橋浄水場碑」を訪ね、本日の散歩を終える。西口エルタワー裏の植え込みの中に、その昔、水道局事務所の正門のあった場所を示す赤御影石の記念碑が設置されていた。




水曜日, 8月 24, 2011

玉川上水散歩そのⅡ:羽村の取水口から多摩川の崖線を南下し、拝島から武蔵野台地の稜線を東に進む

玉川上水散歩のメモの第一回は、青梅線・羽村の駅から玉川の上水取水口までの事跡についてのあれこれで終わってしまった。玉川上水散歩の第二回は、玉川上水をはじめて歩いた、羽村の取水口から立川の西武拝島線・立川駅までをメモする。


本日のルート;青梅線・羽村駅>五ノ神社・まいまいずの井戸>新奥多摩街道>「馬の水飲み場跡」>禅林寺>都水道局羽村取水所・羽村堰>玉川水神社>陣屋跡>羽村堰第一水門>羽村堰第ニ水門>羽村橋>羽山市郷土博物館>羽村堰第三水門>羽村導水ポンプ所>羽村大橋>堂橋>新堀橋>加美上水橋>宮本橋>福生分水口>宿橋>新橋>清厳院橋>熊野橋>かやと橋>牛浜橋>熊川分水口>青梅橋>福生橋>山王橋>五丁橋>みずくらいど公園>武蔵野橋>日光橋>平和橋>拝島分水口>殿ヶ谷分水口跡>こはけ橋>ふたみ橋>拝島上水橋>西武拝島線・立川駅

羽村堰第一水門水神社や陣屋跡を訪れた後、奥多摩道路を少し戻り、羽村堰第一水門の少し下手に架かる人道橋を渡り羽村堰下に。堰下周辺は羽村公園となっており、投渡堰の手前に昭和33年(1953)建立の玉川兄弟の銅像が建つ。多摩川対岸に拡がる草花丘陵や、河川敷、固定堰、投渡堰など、取水部の風景をしばし眺め、羽村堰第一水門部へと。
1911年(明治44)にコンクリーの水門となった第一水門は、多摩川の水を玉川上水に取り入れるための水門。大水の時などはこの第一水門を閉めて土砂などの流入を防ぐ。この水門で取水された上水は、現在、羽村堰から小平監視所までの間のおおよそ12kmが上水路として利用されている。小平監視所から下流には玉川上水を流すことなく、その水は導水管で東村山浄水場に送られているが、その直接の要因は昭和40年、新宿・淀橋浄水場の廃止により、下流に水を流す必要がなくなった、ため。小平監視所より下流は長らく空堀の状態であったが、昭和59年、都の清流復活事業により、昭島にある多摩川上流処理場で高度処理された下水を、小平より下流へ流し、現在清流れを保っている。

羽村堰第ニ水門第一水門から少し下流に第ニ水門。第一水門で取り入れた水を一定の水量にし、玉川上水に流すための水門。余水は、脇の小吐水門から多摩川に戻す。あたりは堰下公園となっている。

羽村橋
羽村堰第二水門下手に羽村橋。奥多摩道路・羽村堰交差点脇に大樹がある。東京都指定天然記念物「羽村橋のケヤキ」と呼ばれる。案内によると;「目通り幹囲約5.5メートル、高さ約23.5メートル。島田家敷地南側の奥多摩街道に面する崖際に立っており、崖の高さ約2メートル。根元の北側は崖上に、南側は崖下に扇状にはびこり、幹は直立して崖下から約4メートルのところで南西に一枝を出し、その上約1メートルのあたりから大枝に分かれ、下部の小枝は垂れて樹姿全体は鞠状をなして壮観である。なお崖下に湧水があり、樹勢はおう盛であり、都内におけるケヤキとして有数のものである」、とある。
崖下のささやかな湧水の写真を撮り、坂を少し上り島田家の屋敷を見やる。先ほど訪れた、禅林寺の開基は島田九郎右衛門と伝わる。また、所沢の三富新田を歩いたときに、島田家の旧家が残っていた。府中の森の郷土館にも島田家の旧家が保存されている。島田家って、武蔵野の台地を開いた旧家であろう、か。

羽山市郷土博物館羽村橋の辺りには堰下公園。公園から多摩川を渡る橋がある。羽村堰下橋と呼ばれるこの橋は、人と自転車だけが通れる人道橋。橋を渡って対岸の羽山市郷土博物館に向かう。昭和60年(1985)開館のこの施設には、常設展示の他、多摩川や玉川上水、中里介山に冠する資料が展示されている。多摩川によって形成された河岸段丘など、地形フリークには興味深い展示内容でもある。屋外には旧田中家の長屋門、旧下田家の民家が移築されている。旧下田家は19世紀中頃の農家の面影を今に伝える。

羽村堰第三水門再び羽村堰下を渡り、玉川上水へと戻る。少し下ると羽村堰第三水門が見えてくる。この水門は玉川上水、と言うか、多摩川の水を村山貯水池(通称、多摩湖)・山口貯水池(通称、狭山湖)に送水・分水するための水門である。地図を見ると羽村堰第三水門から多摩湖(村山貯水池)を結ぶ一本の直線が描かれている。この地下には羽村線導水路が貯水池へと続く。地上は羽村堰第三水門から横田基地までは「神明緑道」。横田基地で一度道は分断され、その東から再び、「野山北公園自転車道路」となって多摩湖へと続く。この道は、村山貯水池(通称、多摩湖)・山口貯水池(通称、狭山湖)を建設する際に敷設した、羽村山口軽便鉄道の路線跡でもある。どこかで見た軽便鉄道の写真では、トラックでレール上の貨車を引いていた。

村山貯水池・山口貯水池への羽村線導水路大正5年(1916)、拡大する東京の水需要に応えるべく、狭山丘陵の浸食谷を堰止め、村山上貯水池の工事が着工。大正13年(1923)に完成した。また、その下手にも、昭和2年(1927)、村山下貯水池が完成。さらに、昭和2年(1927)には狭山丘陵の柳瀬川の浸食谷を利用し、山口貯水池(狭山湖)の工事が始まる。関東大震災後の東京の復興と人口増加による水需要の増大に、村山貯水池だけでは十分にまかなえなかったため、である。工事は7年の歳月をかけ昭和9年(1934)に完成した。
羽村堰第三水門からの導水路は、狭山丘陵から流れ出す自然河川だけでは十分ではないため、多摩川の水を導き水量を確保するのがその目的である。当初、山口貯水池の水を村山上貯水池に通し、村山上貯水池の水とともに、村山下貯水池に導き、下貯水池から境浄水場村山境線(隧道、暗渠で境浄水場に至る導水線・現在は多摩湖自転車道となっている)で境浄水場に流した。境浄水場からは自然流下により和田堀浄水場に送水。そこから淀橋浄水場に水を送った、と。
狭山丘陵は多摩川の扇状地にぽつんと残る丘陵地である。狭山って、「小池が、流れる上流の水をため、丘陵が取りまくところ」の意。古代には狭い谷あいの水を溜め、農業用水や上水へと活用したこの狭山丘陵ではあるが、その狭い谷あいに多摩川の水を導き水源とし、都下に上水を供給している、ということである。

昭和40年には現在の西新宿副都心にあった淀橋浄水場が無くなり、その機能が昭和35年(1960)通水の東村山浄水場に吸収された。それにともない、導水路網も少し変わる。狭山湖(山口貯水池)に貯められた水は、ふたつの取水塔をとおして浄水場と多摩湖に送られる。第一取水塔からは村山・境線という送水管で東村山浄水場と境浄水場(武蔵境)に送られ、第二取水塔で取られた原水は多摩湖に供給される。また、多摩湖(村山貯水池)からは第一村山線と第二村山線をとおして東村山浄水場と境浄水場に送られ、バックアップ用として東村山浄水場経由で朝霞浄水場と三園浄水場(板橋区)にも送水されることもある、と言う。また、東村山浄水場は朝霞浄水場と原水連絡官が結ばれ、多摩川だけでなく、利根川の水も使用するといった、ダイナミックな上水路導水網となっている。

羽村導水ポンプ所水門より少し下流に羽村導水ポンプ所。ここから多摩川の水は小作浄水場(昭和51年)に送られる。また、小作には小作取水堰(昭和47年着工。55年通水)があり、小作浄水場に水を供給するとともに、地下の導水管により山口貯水池に送水されている。

羽村大橋羽村導水ポンプ所を過ぎると羽村大橋。奥多摩道路羽村大橋詰め交差点から、玉川上水と多摩川を跨ぎ秋川を結ぶ。

堂橋

羽村大橋をくぐり、緑道を7分ほど進むと堂橋。『上水記』では川崎橋と呼ばれた。由来はこの辺りの地名から。堂橋となったのは、橋に下る坂があり、その坂の途中に「川崎の一本堂」とも呼ばれる薬師堂があった、ため。「一本堂」の由来はケヤキの大木から。多摩川が氾濫したとき、一本のケヤキの大木にしがみつき、命拾いした十六名の人たちが、その感謝のために、この一本のケヤキを使ってお堂を建立した、とか。このお堂も、近くあった宗禅寺も、玉川上水の工事のため移転。現在新奥多摩街道沿いにある宗禅寺内に薬師堂が残る。
往昔、堂坂を下ったところには多摩川を渡る渡し場があった、とか。大正末期までは船頭が活躍した。また、この坂は関東大震災の頃、多摩川の砂利、砂を羽村の停車場まで運ぶ馬車が往来した、とのことである。



新堀橋

堂橋のあたりまで来ると、上水路と奥多摩街道の比高差が開いてくる。崖面を眺めながら河岸段丘を進む玉川上水も、このあたりから桜並木は次第に雑木林へと変わる。水神様を祀った小さな祠もある。ほどなく、道はふたつに分岐。左の道を進むと、ほどなく新堀橋に。新堀橋あたりでは奥多摩街道と上水の比高差は、ほどんどなくなる。橋の袂に金比羅様が佇む。新堀橋の名前の由来は、新しく上水堀を開削したことによる。旧水路は現在の水路より多摩川堤に近いところをながれていたのだが、開削後、多摩川の氾濫によって上水の土手が決壊することが多く、元文四年(1740)、代官上坂安佐衛門、新田世話役川崎平右衛門によって付け替え工事がおこなわれた。旧水路と現水路の間には小高い山があり、その北を通すことにより上水土手の決壊を防ごうとしたのだろう。
旧水路は先ほどふたつに分岐した道を左にそのまま進み、613mほどまっすぐ進み、加美上水橋の先で現水路と合流する、といった流路であった。周辺は福生加美上水公園となっており、旧路跡の一部は史跡指定地となっている。加美上水橋近くには、「福生市指定史跡 玉川上水旧堀跡」の碑が建っており、旧堀らしき遺稿も残る。

ちなみに、代官上坂安佐衛門、新田世話役川崎平右衛門は、散歩をはじめて知り得た、誠に魅力的な人達。特に川崎平右衛門は、玉川上水開削だけでなく、武蔵野新田の開発の地で、しばしば出合う。その威徳を称え、供養塔も各所に建っていた。

加美上水橋福生加美上水公園を越え加美上水橋に。この橋は、もとは鉄橋。多摩御陵、村山・山口貯水池へ玉川の砂利運搬のために福生駅から多摩川の羽村境までの1.8キロ、砂利運搬専用線が敷かれていた。鉄路は昭和36年に廃止され、当面は無名橋であったが、後に地名より加美上水橋と、名付けられた。



宮本橋加美上水橋を越え、妙源寺あたりからは、雑木林も切れ、上水南側には民家が建ち並ぶ。先に進むと宮本橋に。元は中世に創建の宝蔵院の門前に架けられていたので宝蔵院橋と呼ばれていたが、明治になって住職が神官となり、宮本と名乗ったため橋名も「宮本橋」となった、とか。廃仏毀釈の時代の流れに抗し得なかったのだろう、か。
宮本橋の南に、板塀に囲まれた白壁の屋敷が見える。なんとなく気になって板塀に沿って進むと煉瓦の煙突があったり、蔵があったりと、如何にも、いい。下戸の小生にはとんと縁はないのだが、清酒『嘉泉』とか『玉川上水』などで知られる田村酒造とあった。

福生分水口

宮本橋の少し下流、小橋が架かり、石垣の中程の鉤型に切れ込んだあたりに田村分水口がある。水は田村酒造のオーナー、田村家へ流れ込む。田村家は江戸の初期の頃から福生村の開拓に貢献した代々の名主。元禄年間と言うから、17世紀の末の頃、分水が認められた、とか。玉川上水の分水は三十五ほどあった、と言うが、個人分水は、明治になって砂川村の砂川源五右衛門さん以外に、あまり聞いたことがない。特例中の特例では、あろう。
邸内に引き込まれた分水は、もともとは灌漑用水とか生活用水として使われた。田村家が酒造りをはじめるのは、そのずっと後のこと。水車を廻し精米製粉をおこなったり、酒造場の洗い場の水として使われたりしたようだ。邸内を離れた分水は明治以降、その下流の福生村北田園、南田園の田畑を潤した。現在は福生永田のあたりで暗渠となるが、多摩川中央公園で再び開渠となり、整備された園内をゆっくりと流れ、JR五日市線の鉄橋の手前で多摩川に合流する。
ちなみに、このあたりには多摩川から取水した田用水があったが、昭和22年の台風による決壊にともない、水源を玉川上水に変更したため、田村上水(宅地化により昭和44年取水停止)と合流することになった。田村分水と田用水を合わせ、福生分水とも呼ばれる。

江戸の頃、もとは上水としてはじまった玉川上水であるが、その後、流路の灌漑用水としても機能するようになる。将軍吉宗の亨保の改革の頃、盛んに行われた新田開発のサポートの為もあり、分水口は三十五カ所ほどあった、と上にメモした。その分水口も、昭和となり、市街地化が進むとともに、昭和37年には十六カ所。昭和40年に、淀橋浄水場が廃止されるときには更に減少し、現在残る分水口は、この福生分水を含め、熊川分水、拝島分水、立川分水、砂川分水、小平分水の六カ所となっている(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)。

宿橋

宮本橋を越えると、緑道といった風情は無くなり、奥多摩街道を進むことになる。田村分水の少し下流に宿橋がある。「宿」とは名主屋敷を中心とした村の中心地のことを意味する。名主・田村家の近く、福生の渡しを越えて、「八王子道」、「青梅道」へと続く道筋に架かる橋ではあったのだろう。

新橋奥多摩街道をさらに進み、新橋に。その昔、福生から五日市へ向かう都道59号は曲がり道、くねくね、といった難路であった、とか。そのため、福生駅前から一直線に道を通し、五日市に向かう工事が行われ、多摩川には永田橋、玉川上水には、この新橋が架けられた。昭和36年の頃、と言う。都道95号線は現在都道165号となっている。



清厳院橋新橋から先は、奥多摩街道は玉川上水から少し離れる。右手に上水の流れを意識しながら進み、清厳院橋に。奥多摩街道は清厳院橋で玉川上水の南に移る。清厳院橋は橋の南にある清岩院が、その名の由来。応永年中(1394から1427年)の開創と伝えられる古刹。五日市広徳寺の末、とか。五日市の広徳寺を訪ねたことがある。誠に趣きのある、素敵なお寺さまであった。
それはともあれ、この清岩院、小田原北条氏よりの寄進を受け、また、徳川幕府からも「寺領十石の御朱印(年十石を課税された土地の寄付)」といった庇護を受けている。境内には湧水が涌き、湧水フリークとしては、しばしの休憩を楽しむ。
この清厳院橋は牛浜橋、日光橋とともに、昔より往来の多い橋であった。橋の維持管理のコストは「村持」であるため、橋の架け替えの度に、利用者に資金強力をお願いする記録が残る。橋の維持管理は結構大変たったようである。設置の権限は普請方役所にあるも、維持管理は各持ち場の負担。熊川村には橋普請のため、無年貢地である「橋木山」を用意していたほどである。

熊野橋

清厳院橋からは玉川上水に沿って小径が続く。先に進むと熊野橋に。この橋から多摩川を渡り、あきるのに続く県道7号は平井川を越えて青梅線・東秋留駅近くの二宮神社へと向かう。いつだったか、二宮神社を訪ねたことがある。崖下の湧水が思い起こされる。
熊野橋は承応2(西暦1653)年、玉川上水の開削に際し、村の農道として架けられた。往昔、付近に熊野権現があったのだろう。現在は歩道橋が跨ぎ、往昔の面影はないが、歩道橋から眺める多摩川対岸の山稜の景観はなかなか、いい。

かやと橋熊野橋を越え、都道29号を進む。右手の小高い堤のため玉川上水は眼に入らない。県道と上水の間には駐車場があったり、ガソリンスタンドがあったりと、緑道といった風情でもない。ほどなく、「かやと橋」に。橋の名前の由来は福生市志茂の字である、萱戸、から。橋は新しく、昭和49年に上水の南に市立七小が開校され、上水北の学区となった志茂・牛浜地区の児童の通学用として設けられた。

牛浜橋

道の両側に民家が連なる奥多摩街道を進むと牛浜交差点。名前の由来は地名の字牛浜、から。この地は江戸から砂川方面を経て、牛浜の渡しを渡り、対岸の二宮から五日市、檜原へと続く往還であった。この道筋は五日市街道の一部を成すが、元和年間、というから17世紀の前半、甲州裏街道の警備のため檜原に檜原御番所が設けられたため、檜原御番所通り、とも呼ばれた。ために人馬の往来も多く、もとの木橋では維持・修理が大変、ということで、明治10年には石造アーチ橋に掛け替えた。愛称、眼鏡橋と呼ばれたこの橋も昭和52年には現在の橋に架け替えられた。

熊川分水口牛浜橋から先も、上水に沿って道はない。実際に眼にしたわけではないのだが、牛浜橋から200m下ったあたりに、熊川分水の取水堰がある、と言う。地図でチェックすると、スギ薬局福生店の裏手あたりに、ささやかな堰が見て取れる。この堰のあたりに分水口があるのだろう。その対岸には熊牛稲荷公園があるようだ。
この地で取水された水は、熊川神社の脇を抜け、石川酒造へと向かい、その先は福生南公園の崖から多摩川へと流れ落ちる。熊川村は多摩川の崖線上10mのところに開けた集落。多摩川からの取水は困難であり、熊川村の名主である石川家が中心となり、集落の上水と灌漑用水確保のため、そして、石川家の家業でもある酒造りの水車動力源として、玉川上水からの分水を望んだ。明治5年の運動開始から、完成まで17年の歳月をかけて完成し、昭和30年代に上水道が普及し始めるまでの間、熊川分水は熊川村民の生活を支えた。ちなみに石川家は先ほどメモした田村家の親戚筋とのことである。

青梅橋

奥多摩街道を更に進み、福生第三中学校手前を左に折れ、玉川上水に架かる青梅橋に。所謂、江戸から青梅に向かう青梅街道(成木街道)、と言うよりも、立川や拝島、羽村から青梅方面へと向かう街道、といった通称ではあろう。もとは、農作業に使う作場橋といったささやかなものであったが、昭和36年、現在の橋となった。 福生橋から山王橋に青梅橋からは、少し北に進み新奥多摩街道に入る。先に進むと、ほどなく福生橋。幅15mほどではあるが、それでも玉川上水に架かる橋としては最大のもの、と言う。福生橋の北詰で新奥多摩街道を離れ、民家の間を成り行きですすむと上水脇にでる。先に進み山王橋に。往昔、付近の山王権現の石塔があった、とか。





五丁橋

山王橋から北東に向かい青梅線の踏切を渡り、右に折れ、青梅線に沿って成り行きで進み、五丁橋に。五町歩の耕地があったから、とか、五丁山と呼ばれる山林があったから、など、橋名の由来は諸説ある。

みずくらいど公園五丁橋を渡り、青梅線の手前を左に折れ、先に進むと「みずくらいど公園」。現在の玉川上水は公園北を通るが、小山を隔てた公園南には玉川上水の旧跡が残る。開削当時の上水の姿が残っており、堀跡に入ると、その規模感に少々圧倒される。「みずくらいど」は、水喰土。水が地中に吸い込まれる、といった言い伝えが残る地であった。この地まで掘り進んだ上水ではあるが、言い伝えそのままに、水を通すことができなかったため、現在の流路に変更した。旧路は、この公園南側の立川崖線に沿って南に延び、武蔵野公園付近で北に方向を変え、西武拝島駅前の玉川上水・平和橋の付近までおおよそ1キロほど残っていたようだが、現在、上水旧跡はこの公園内に残る、のみ。
羽村から堀り進んだ玉川上水は、この地の水喰土に阻まれ流路を変えた。実のところ、流路変更はこれがはじめてではない。そもそもが、取水口も地形・地質に阻まれて二度変更している。最初の取水口は、現在の日野橋下に取水堰を設け、青柳崖線に沿って谷保田圃を抜け、府中まで掘り進めたが、大断層に阻まれ、水を地中に吸い込まれ断念した。二度目の取水口は熊川から。これも途中大岩盤に阻まれ断念した、とか。羽村口を取水口としたのはその後のことである。羽村口からの取水については川越藩士である、安松金右衛門の助言を受けた、ともある。幕閣における玉川上水計画の中心となった川越藩主・松平伊豆守信綱としては、川越藩の領地でもある野火止の地に水を送るには、取水口は羽村くらいの標高から水を通す必要があった。羽村口から取水できれば、途中から分水で野火止に水を供給できるため、安松金右衛門に命じ、羽村からの詳細な水路図も作成していた、とも言われる。ともあれ、羽村から掘り進んだ水路も、この水喰土で流路を北に変更し、先に水を流すことができた。

武蔵野橋その流路に沿って先に進む。左手に上水、右手に小山。時に小山に上り、南の旧路を眺めたりしながら八高線をくぐり、玉川上水緑地日光橋公園の雑木林を楽しみながら進むと国道16号・東京環状と交差。玉川上水、八高・青梅・五日市線を跨ぐ跨線橋となっている。昭和40年のこの跨線橋の開設により、信号待ちの渋滞は大いに改善された、とのこと。

日光橋東京環状を越え、先に進むと日光橋。その昔、日光橋との間に昭和38年(1963)まで、熊川水衛所があった、とのことである。分水口の開閉、塵芥の排除などの業務をおこなった水衛所も、昭和40年、新宿の淀橋浄水場が閉鎖され、その機能を東村山浄水場に統合・移転するに先立ち、砂川水衛所、小川水衛所とともに小平監視所に統合された。日光橋は、日光街道に架けられたのが名前の由来。当初、江戸防衛の西の拠点に揃った、八王子の千人同心も、天下泰平の世となり、その役割も様変わりし、家康の眠る日光東照宮警備をその職務としたため、八王子と日光を往復した、とのことである。明治24年には煉瓦積みアーチ橋となったが、昭和25年に現在の橋に架け替えられた。





平和橋

日光橋を越えるとほどなく平和橋。橋の手前の線路は横田基地への貨物引き込み線。平和橋は、地元篤志家による命名、とか。平和橋の南は拝島駅がある。拝島って、ずっと拝島市、と思っていた。拝島大師といった知られたお寺さまの名前が「刷り込まれて」いたのだろう、か。それはともあれ、拝島村と昭和町が合併し、昭島市となった。拝島の名前の由来も、拝島大師に関係がある、とか。多摩川の中州「島」に大日如来観音が流れ着き、これをお堂に安置して、「拝む」ようになった、とのことである。

拝島分水口この橋の南詰め東側に分水口がある。分水の開通は元文5年(1740)年、あるいは更に早いという説もある。分水はここから南方へ流れ、拝島宿に引かれ、生活・農業用水として利用されていた。当時の拝島村は日光街道(現奥多摩街道)の宿場として、八王子や甲州と江戸や日光を往来する人々で賑わっていた。拝島宿の中央を奥多摩街道に沿って東に流れた拝島分水は、田中村で多摩川より取水した九ケ村用水(17世紀後半頃には既に完成;通称「立川堀」)合流し、宮沢・中神・築地・福島・郷地・柴崎の村々を灌漑し、柴崎村で再び多摩川に注いでいたようである。
高橋源一郎の著書「武蔵野歴史地理」には、「ここ拝島は、市場としては誠に典型的の場で、南、八王子の方より来れば、下宿の入口にて道路は画然一屈曲し、これより西北中宿を経て上宿となり、上宿の出口で又一屈曲している。用水路が道路の中央を流れていた」と分水の様子が描かれている。
拝島分水口からの水路は一部付け替えられているが現在も流れているようだ。水路は、JR拝島駅の南側から松原・小荷田地区を通り、そのまま奥多摩街道に沿って拝島大師表門前を通過し、多摩川から引かれた昭和用水に合流している。ちなみに、昭和用水は、取水量の減ってきた九ヶ村用水取水口の替わりに昭和8年(1933)年に設けた堰。九ケ村用水取水樋門跡や昭和用水取水口から水路跡を辿った記憶が、メモをしながらよみがえってきた。そういえば、これら用水散歩のメモは未だ書いていない。再度歩き直し、メモをまとめてみようかと思う。

殿ヶ谷分水口跡拝島分水口から、ほんの少し下流の対岸に殿ヶ谷分水口跡がある。玉川上水に小さな堰がある。このあたりが、分水口のあったところだろう。殿ヶ谷分水は「享保の改革(将軍吉宗)」による新田開発の奨励により、享保5年(1720年)に開削され、現在の立川市西砂地区・昭島市の美堀地区(宮沢・中里・殿ヶ谷新田)の生活・農業用水に利用された。現在は、宅地化が進み、用水路は埋め立てられ、その一部は「殿ヶ谷緑道」として残る、のみ。

こはけ橋西武拝島線の手前に「こはけ橋」。地名の字小欠(こはけ)、から。こはけ橋の少し手前に拝島原水補給口がある、と言う。玉川上水は水質保護のため、上水の両側が金網で保護されており、補給口はみることができなかった。この原水補給口には、多摩川昭和用水堰で取水した水を、拝島第四小学校前の原水補給ポンプ場からおよそ2キロ、ここまで送られてくる。昭和16年頃、東京への上水供給が不足するおそれがあったためつくられ、現在も機能しているとの、こと。

ふたみ橋西武拝島線を越えるとき、玉川上水緑道の左岸が通れなくなる。右岸の西武拝島線の踏切を越えると人道橋である「ふたみ橋」に出る。これからが武蔵野台地の稜線部を辿る散歩のはじまりのように思える。西武拝島線って、小川駅から玉川上水駅までは元は、日立航空機立川工場への専用鉄道であり、小川駅から荻山駅間も同様に陸軍施設への引き込み線など、いろんな歴史をもった路線を集めて1968年、玉川上水駅と拝島駅が結ばれ、西武拝島線ができあがった、とか。

拝島上水橋
こはけ橋から拝島上水駅までの間、400mほどは玉川上水北側には、鬱蒼とした樹木が生い茂り、誠にもって、美しい景観が続く。拝島上水橋を越えると、上水南側には昭和の森ゴルフコースが拡がる。ゴルフコースを見やりながら、美堀橋を越えると、上水は一旦、暗渠となる。この暗渠は昔、このあたりに陸軍の飛行場があった時に、整備された、とか。「玉川上水は美堀橋を越えたすぐ先で300m程の暗渠に入ります。これは戦時中、上水の南側にあった飛行場の滑走路を延長するため、上水に蓋をした名残と言われています。ここは西武立川駅からすぐの所で、当時の飛行場だった場所は現在はゴルフ場になっています。」との案内があった。日も暮れてきた。地図を見ると、すぐ北に西武拝島線・立川駅があった。玉川上水散歩、第一回はここで終了。一路、家路へと。

玉川上水散歩そのⅠ;序

いつの頃だったか、今となっては、はっきりしないのだが、玉川上水を羽村の取水口から四谷大木戸まで、歩いたことがある。散歩を初めて、それほどたっていなかったと思うので、2005年の頃だとも思う。羽村から四谷大木戸まではおおよそ43キロ。標高差92mということなので、平均千分の二、という緩やかな勾配の台地稜線部・馬の背を4回だったか、5回だったか、それもはっきりしないのだが、のんびり、ゆったり辿ったことがある。
きっかけは自宅の杉並区和泉から京王線明大前駅への通勤・通学路途中にある公園に、橋を模した欄干があり、ふと眼を止めたことに、ある。九右衛門橋とあった。川など、どこにもその痕跡は見あたらないのだが、そこは玉川上水の水路を埋めて整備した公園であった。
地図を見ると、環八辺りから新宿までは、代田橋・笹塚駅近辺の一部を除き、川筋は埋められ暗渠となっている。一方、その上流は多摩川の取水口まで開渠となっており、往昔、江戸の人々に潤いをもたらし、武蔵野の新田開発の水源ともなった流路が未だ残っていることを知り、その流路をとりあえず、取水口から辿ってみようと思ったわけである。
このときの「玉川上水一気通貫」の散歩に後も、折り触れ、玉川上水は歩いた。代田橋から新宿まで、玉川上水跡を整備した公園を歩いたのは、十回はくだらないだろう。逆方向、下高井戸から環八の西、開渠が暗渠にもぐる浅間橋跡まで、そして、浅間橋から井の頭までも、また、井の頭から三鷹まで、時には、玉川上水駅から三鷹まで下ったこともある。
野火止用水や千川用水跡を歩くため、玉川上水からの分水口を探しに出かけたこともある。狭山の箱根ヶ崎から下る残堀川を辿り、玉川上水とクロスしたこともある。ことほどさように、玉川上水は、あまりに「身近な」ものとなってしまい、頭の中では既にメモを書き終えたような気になっていた。
先日、近くの図書館に行き、『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』と『玉川上水;アサヒタウンズ編(けやき出版)』を読み、長らく「熟成」させていた、メモをまとめてみようと思いはじめた。いつだったか古本屋で買った、『玉川上水物語;平井英次(教育報道社)』、『約束の奔流・小説玉川上水秘話;松浦節(新人物往来社)』、『玉川兄弟;杉本苑子(朝日新聞社)』、なども読み直した。幾度となく歩いた玉川上水ではあるが、時間軸は数年前のことであったり、つい最近のことであったりと、首尾一貫のメモからはほど遠い。失われつつある時を求めての玉川上水散歩のメモ、あるいはくっきり、あるいはぼんやり、とした風景を思い浮かべながらメモをはじめる。



本日のルート;青梅線・羽村駅>五ノ神社・まいまいずの井戸>新奥多摩街道>「馬の水飲み場跡」>禅林寺>都水道局羽村取水所・羽村堰>玉川水神社>陣屋跡>羽村堰第一水門>羽村堰第ニ水門>羽村橋>羽山市郷土博物館>羽村堰第三水門>羽村導水ポンプ所>羽村大橋>堂橋>新堀橋>加美上水橋>宮本橋>福生分水口>宿橋>新橋>清厳院橋>熊野橋>かやと橋>牛浜橋>熊川分水口>青梅橋>福生橋>山王橋>五丁橋>みずくらいど公園>武蔵野橋>日光橋>平和橋>拝島分水口>殿ヶ谷分水口跡>こはけ橋>ふたみ橋>拝島上水橋>西武拝島線・立川駅

青梅線・羽村駅
玉川上水の取水口の最寄り駅、青梅線・羽村駅に下りる。駅近くの観光案内で、辺りの見所を探す。取水口は駅の西ではあるのだが、駅のすぐ東に「五ノ神社」があり、そこに「まいまいずの井戸」がある、と言う。五ノ神社という名前にも惹かれるし、「まいまいずの井戸」も見てみよう、ということで、五ノ神社に。

五ノ神社・まいまいずの井戸
五ノ神社は創建、推古九年、と言うから西暦601年という古き社。『新編武蔵風土記稿』によると、熊野社と呼ばれていた、とか。この辺りの集落内に「熊野社」「第六天社」「神明社」「稲荷社」「子ノ神社」の神社が祀られており、ためにこの辺りの地名を五ノ神と呼ぶ。地域の鎮守さま、ということで五ノ神社、となったのであろう、か。熊野五社権現を祀っていたのが社名の由来、との説もある。
神社の名前の由来はともあれ、境内にある「まいまいずの井戸」に。すり鉢状の窪地となっており、螺旋状に通路が下る。すり鉢の底に井戸らしきものが見える。すり鉢の直径は16m、深さ4mもある、とか。何故に、井戸を掘るのに、これほどまでの大規模な造作が、とチェックする。井戸が掘られたのは鎌倉の頃。その頃は、井戸掘りの技術も発達しておらず、富士の火山灰からなるローム層、その下に砂礫層といった脆い地層からなる武蔵野台地では、筒状に井戸を掘り下げることが危険であったので、このような工法になった、とか。狭山にある「堀兼の井」を訪ねたことがある。歌枕にも登場する堀兼の「まいまいずの井」よりも、こちらのほうが、しっかり昔の形を残しているようだ。

新奥多摩街道
羽村駅に戻り、西口から渡り道なりに進む。新奥多摩街道を渡ると、道脇に「旧鎌倉街道」の案内:「北方3キロ、青梅市新町の六道の辻から羽村駅の西を通り、羽村東小学校の校庭を斜めに横切り、遠江坂を下り、多摩川を越え、あきる野市折立をへて滝山方面に向かう。入間市金子付近では竹付街道とも呼ばれ、玉川上水羽村堰へ蛇籠用の竹材を運搬した道であることを物語る」、とある。
旧鎌倉街道の多摩川の渡河点は現羽村大橋と永田橋中間付近。多摩川を渡ると、慈勝寺東側の多摩川崖下を東進、草花台から森の下、平井川を渡って、平沢、野辺、東郷、へと下る。
鎌倉街道と言えば、高尾から秋川、青梅を越えて秩父に進む鎌倉街道山ノ道()を辿ったことがある。また、西国分寺から東村山、狭山、毛呂山、武蔵嵐山へと進む鎌倉街道上ッ道も、断片的ではあるが歩いたことがある。八王子の平井川を下ったときは、その道筋は鎌倉街道の支道といったものであった。この案内の旧鎌倉街道も山ノ道とか上ノ道といった鎌倉街道の「幹線」からは外れており、支道といったものであろう、か。とはいうものの、「鎌倉街道」といったものが実際にあった訳ではなく、昔よりあった道を整備し、鎌倉への往来を容易にした、といったもの、その総称が「鎌倉街道」と呼ぶようでは、ある。

ハケ村
新奥多摩街道を離れ、多摩川の段丘崖を開いた切り通し坂道を下る。段丘崖のことを「ハケ」と呼ぶ。羽村の地名に由来は「ハケ」村が「ハ」村に転化したとの説がある。武蔵野台地の西端であり、「ハシ」村からの転化との説もある。地名の由来は、例によって、諸説、定まることがない。

「馬の水飲み場跡」「ハケ」の坂を下ると坂の右手の石垣に「馬の水飲み場跡」の案内。急坂を往来する馬の水飲み場跡であった。農産物の運搬だけでなく、明治27年青梅線が開通して以降は、多摩川の砂利を羽村の駅まで運んだ、と言う。

禅林寺
多摩川に向かって坂を下る。道の右手にお稲荷さま、左手にお寺さま。坂も寺坂と呼ばれるようだ。お稲荷様にお参りし、お寺様の境内に。禅林寺と呼ばれるこの寺には中里介山が眠る。中里介山と言えば、未完の大作『大菩薩峠』で知られる。その『大菩薩峠』で長い間、疑問だったことがあった。何故に、一介の素浪人が、こともあろうに、また、酔狂にも大菩薩峠といった高山に上り、旅人を殺めなければならないのか、理解できなかったのだが、中世の古甲州街道(大菩薩峠)を辿って、その疑問は氷解した。大菩薩峠って、中世には武蔵と甲斐を結ぶ甲州道中であり、江戸にはいっても、高尾から大垂水峠を越え、上野原から小仏峠越えで甲州に進む甲州街道の裏街道として、当時の幹線道路であった、ということである。今で言えば国道1号線での事件といったものであった。

境内には天明の義挙を顕彰する「豊饒碑」が残る。天明2年(1782)の大飢饉、翌年の浅間山の大噴火などにより、農民が疲弊・困窮、全国で農民一揆が起きた。この多摩においても、農民の窮状を憂えた、羽村の指田、森、島田、嶋田ら名主・組頭といった九名が、穀類の買い占めを計る富商・農家の打ち壊しを計画。天明4年、箱根ヶ崎村の池尻(狭山池)に2万とも3万とも、と伝わる農民が集結。その規模において、武州世直し一揆といった、幕政を揺るがすほどのものとなった動きに対し、幕閣は強圧策で臨み、首謀者9名と十数か村の63名は捉えられ獄死した。先日、農民が集結した、と言う箱根ヶ崎の狭山池を歩いた。その時のメモで、幕末に官軍に反発する幕府の振武隊も箱根ヶ崎に留まった。今は静かな箱根ヶ崎ではあるが、往昔、青梅筋、狭山筋から青梅街道をへて江戸と結ぶ、交通の要衝であった、ということを、改めて実感した。

都水道局羽村取水所・羽村堰
禅林寺を離れ、県道183号を道なりに進み、多摩川沿いを走る奥多摩街道に出る。多摩川の対岸には草花丘陵が連なる。道を少し上手に進むと玉川上水の取水口が見えた。羽村堰第一水門だろう。豊かな水が蓄えられている。
その左手に鉄製の水門といった形の堰、その先にはコンクリートの堰、さらにその先には河川敷が拡がる。鉄製の水門は「投渡堰」と呼ばれている。多摩川に4本の橋脚を据え付け、その前に杉丸太を組み、砂利によって水を堰止めている。そして、その杉の丸太上部を3本の「鉄の梁」で固定している。その「鉄の梁」を「投げ渡し」とよぶようだ。増水時には「鉄の梁」をウィンチで巻き上げ、水圧で杉丸太を倒し、砂利ごと水を下流に流すことによって水位を落とし、水門を守る。現在は「鉄の梁」ではあるが、昔は、その投げ渡しも木材であったことは、言うまでも、ない。
その先のコンクリートの堰を「固定堰」と呼ぶ。昔は、蛇籠とか牛枠・三角枠等と言った竹や木材と石を組み合わせて造った枠、というか、現在で言うところのテトラポットで堰を築いていた、と言う。牛枠は、胴体は蛇篭に詰められた砂利であり、頭が三本の木材を組み、斜めに付きだしている、といったその形状から名付けられたものであろう。

河川敷にも、蛇籠とか牛枠らしきものが点在する。多摩川はこの堰に少し上流、丸山付近で、ほぼ直角に曲がっているが、その水勢や水路を制御し、平時には効率よく見水を一直線に取水口に導き、増水時には護岸を守るために置かれているのだろう。
投渡堰と固定堰の境はスロープ状になっている。そこは、江戸の頃、奥多摩や青梅で切り出した木材を筏に組んで多摩川を下った、筏師たちのたの「筏通し場」の跡である、とか。
「きのう山さげ きょう青梅さげ あすは羽村のせき落とし」、と歌われた、多摩川の筏流し。奥多摩・青梅の山の材木を多摩川に流し(山さげ)、鳩ノ巣渓谷の岩場を超した沢井のあたりで材木を三枚に繋ぎ(青梅さげ)、羽村まで下る。羽村の堰ができるときは、筏師と工事関係者では一悶着あったことだろう。が、所詮、堰はお上の普請。筏師が敵うべくも無く、筏師は堰通過に細心の注意を払う、のみ。当初、堰の修理費は筏乗りの負担であった、とも。筏流しは羽村から六郷までおおよそ四日。日当も農作業の倍以上で、割りのいい仕事であった、よう。筏師の仕事は大正の頃まで続いたようである(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)。

玉川水神社

奥多摩街道から羽村の水門と堰を眺め、さらにその少し上流にある玉川水神社と陣屋跡に進む。玉川水神社と陣屋跡は隣り合わせて並んでいた。玉川水神社は、承応3年(1654)、玉川上水の完成をもって、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟が「水神社」を吉野の「丹生川上神社」より勧請した、と。「丹生川上神社」は白鳳時代、というから7世紀とか8世紀の創建と伝わる古社。「ミズハノメノカミ」「ミクマリノオオカミ」を祭神とする。もとは、「水神宮、などと呼ばれていたのだろうが、明治になって玉川水神社となった。水神社の境内には「筏乗子寄進灯籠」が残る。
玉川庄右衛門・清右衛門兄弟とは、玉川上水工事を請け負った兄弟。羽村在の加藤家の一族で、江戸で枡屋の屋号で割元、というから、土木工事への「人材派遣」を生業にしていた、とも、江戸柴口の商人とも諸説ある。上水完成の誉れ、として苗字帯刀を許され、「永代御役」をつとめ、年額二百石分の金子の給付をうけることになった。玉川の名を賜ったのは、その時以来である。玉川用水開削の計画は承応元年(1652)、川越藩主・松平伊豆守信綱等の幕閣により決定、町奉行神尾備守に多摩川を水源とする上水の開削の事業計画の立案を命じた。いくつかの業者の入札をおこない、工事請負代金六千両で玉川兄弟が落札。入札金額は九千両から四千五百両まで幅があり、その金額の妥当性については、水利事業のスペシャリストであり、上水計画の実施にあたっては上水奉行(道奉行)に就いた関東郡代・伊奈半左衛門の知見を重視した、とのことである。工事着工は承応2年(1653)4月、8ヶ月後の承応2年(1654)11月には、四谷大木戸まで、およそ43キロの上水路開削が完成した。江戸の町に水が流れたのは翌年、承応3年(1655)6月のことである。

家康が入府した頃の江戸は、低地は一面の汐入の地。日比谷の辺りまで入り江拡がっていた。その低湿地を埋め立て、武家屋敷や町屋の敷地をつくるも、問題は飲料水の確保。埋め立ててつくった江戸の町から掘り出す井戸水は塩気が多く、飲料水とはなり得ない。上水を確保すべく、赤坂に溜池を堀り、湧水を上水用としたり、小石川の水を上水としたり、井の頭の水を水源とする神田上水を整備するなどして江戸の町を潤すも、町の急速な発展には従来の上水網では追いつかず、多摩川からの水を江戸に導くことになった。これが玉川上水である。

陣屋跡
明和六年(1770)、玉川上水の管理を、それまでの民間の上水請負人を廃止し、幕府の直轄支配となってからの現地管理事務所、といったもの。「出役」と呼ばれる幕府の役人3名が三ヶ月交替で勤務。その下の、水番人や見廻り役を差配し、上水流量の増減による分水口開閉の立会、水路の巡視、塵芥の除去、四ッ谷大木戸水番人・御普請方役所への連絡、橋の監理などをおこなった。

羽村に2名、砂川村に1名(見廻り役)、代田村に1名、四ッ谷大木戸に1名、赤坂溜池に1名、計5カ所に六人の水番人を置き、砂川村以外には水番所が設けられていた、と(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)。

幕府による上水管理・支配は幾度となくその支配替えをおこなっている。開削当初は玉川上水奉行・関東郡代である伊那半十朗忠治の支配下に玉川兄弟(玉川庄右衛門、清右衛門)が「上水役」としてその任にあった。江戸に5人の手代、羽村に二人、代田に一人、四ッ谷に一人の手代を置き、羽村大堰の管理、上水路の補修・維持管理を行い、水銀の徴収をおこなった。(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)。
杉本苑子さんの『玉川兄弟』によれば、水の取水口の見込み違いなどで工事代金が増え、二千両を自己負担することになった庄右衛門・清右衛門兄弟に対し、関東郡代・伊那半十朗忠治が水銀の徴収の権利を与えるよう幕閣に訴えた、とある。また、別説では、当初、水銀の徴収といっても、単に集金業務だけであり、収入は幕府に入り、年額二百石の給付金では上水の維持管理・水銀の徴収のコストはまかないきれず、万治2年(1659)、二百石の給付金を返上する代わりとして、水銀の徴収による収入を認めてもらうよう玉川兄弟が幕府に訴え、それが認められた、ともある。どちらが正確か、門外漢にはわからないが、ともあれ、以降は水銀の徴収による収入で上水運営に関わるすべてのコストをカバーするようになる。
玉川上水奉行支配ではじまった玉川上水の運営体制であるが、寛文十年(1670)には、町年寄(奈良屋市右衛門、樽屋藤左衛門、喜多村彦兵衛)の支配下となる。町年寄って、江戸の町屋の自治支配体制の頂点であり、その町年寄は町奉行の支配下、と言うことであるから、結局は上水の支配役は町奉行の傘下となったと、言うことだろう。その頃までには四谷大木戸から江戸の町へと石樋や木樋で結んだ上水路整備も一段落し、上水の運営・支配は、上水工事担当役員から江戸の町の行政担当役員に担当替えした、ということ、かも。この町奉行支配も元禄六年(1693)には、道奉行支配となる。
元文四年(1739)には、玉川両家の上水管理業務は、その懈怠故に、職を免ぜられた、とある。その理由は定かでは、ない。定かではないが、単なる業務上の問題以上に、政治的な思惑が働いているように思える。そもそもが、水銀の徴収とは、使用・不使用にかかわらず、上水網がカバーする地域からは、有無を言わさず徴収するものであり、一種の税金のようなものである。その税金を一介の請負人に任せるのは幕府の官僚としては心穏やかならず、といったものであったろう。官僚は、機会を見てこの既得権益を取り戻そうと考えていたことと、思う。
その既得権益を取り返すきっかけには、武蔵野の新田開発への分水問題が大きく関係しているようにも思える。亨保7年(1722)、将軍吉宗の新田開発推進策を実行するため、武蔵野に多くの新田が開発され、そこに玉川上水からの分水を流した。従来、玉川家は、上水は水銀、灌漑用水は水料米として徴収していたが、武蔵野新田は水料を免除されていた、と言う。玉川家と武蔵野新田開発担当の幕府役人との間には、いろいろと軋轢が起きていた、と想像できる。こういった状況の中で、玉川家が起こした、なんらかの瑕疵を捉え、この時とばかり、罷免へと持ち込んだのであろう。支配役の担当替えが多かったのも、その一因とも思う。支配役が同じであれば、開削当時の状況も忖度し、開発の貢献者の子孫の水元役をすべて剥奪するといったこととは、違った状況になっていたか、とも思う。

それはそれとして、それにしても、散歩でいくつかの用水を訪ねたのだが、民間主導で行われた用水工事は最終的には、その功績を「無」とする傾向が武家側に多いように見受けられる。工期4年、延べ80万の人夫を動員し箱根の外輪山を穿ち、深良へと芦ノ湖の水を通した、希有壮大なる「深良用水」の工事請負人である江戸の商人・友野某の工事後の消息は不明である。獄死した、との説もある。箱根と言えば、箱根湯本から小田原の荻窪へと岩山を穿ち、「荻窪用水」を完成させた川口廣蔵については、個人の記録はおろか、工事の記録そのものもほとんど残っていない。稀代の事跡を商人如きに、との武家・小田原藩の作為の所作であろう、か。

玉川兄弟の罷免の後、町奉行の支配下に神田上水の請負人でもあった鑓屋町名主長谷川伊左衛門、大据町名主小林茂兵衛が、神田・玉川上水の監理をおこなう。明和五年(1769)には町奉行所管から普請奉行支配下に代わるも、翌年、上水請負人が廃止され、幕府の直轄支配となる。玉川兄弟が上水役から罷免され、わずか30年ほどで、幕府官僚の思惑通りの上水支配となった。陣屋跡からだけでも、あれこれ空想・妄想が拡がってしまった。玉川上水散歩の第一回は、実際は拝島を越え、西武拝島線・立川駅当たりまで下ったのだが、イントロのメモが少々長くなった。上水を辿る散歩のメモは次回から、とする。