金曜日, 5月 26, 2017

東京 旧利根川散歩 そのⅠ:古隅田川を足立区・葛飾区の区境に沿って歩く

先日来、旧利根川流路を辿ろうとしている。手始めに、利根川東遷事業のはじまりともなった会の川・川俣締切跡を下ったのだが、そのきっかけとなったのがこの古隅田川散歩である。

国土地理院今昔マップ首都1896-1906
とある週末、これといって歩きたいところが思い浮かばない。で、地図を眺めていると気になる箇所が目についた。足立区と葛飾区の区境が不自然に入り組んでいるのだ。いつだったか日暮里から三ノ輪そして隅田川に架かる白鬚橋まで、音無川跡を歩いたことがあるのだが、その川筋跡は荒川区と台東区の境となっていた。
とすれば、この足立区と葛飾区の区境の不自然、というか、川筋をもとにすれば自然と言うべきではあろうが、ともあれ、両区境も川筋では?とチェックすると、それは古隅田川の流路跡であった。
「流路跡」というフレーズには故なく惹かれる我が身である。それではと古隅田川跡を辿ったわけだが、散歩の途中での案内で、古隅田川は旧利根川流路であることを知った。正確に言えば、知ったというか、忘れていたのである。

古隅田川に出合ったのはこれが最初ではない。これもいつだったか春日部市の東武伊勢崎線・豊春駅近くで出合ったことがある。現在春日部市南平野辺りから北東に進み、春日部市梅田辺りで大落古利根川に合流する古隅田川は、旧利根川の流路であり、現在は逆川として北東に進むこの古隅田川の流れは、かつては逆方向、つまりは、梅田で大落古利根川から別れ、現在の流れと逆方向、南西に下って元荒川に注いでいた。
その流れは、下りて中川筋との合流を経て、常磐線・亀有の南東辺りから足立区・葛飾区の境を進み、隅田川に注いていた、といったことをメモしていたのだが、すっかり忘れてしまっていたのだ。

 国土地理院 今昔マップ 首都1917-24(荒川放水路工事中時期)
この古隅田川の流れは、旧利根川が江戸に下る南端部であった。で、古隅田川散歩をしながら、どうせのことなら旧利根川の流路を北から下り、古隅田川と「繋げよう」と前述会の川・川俣締切跡から下りはじめたのだが、なにせ遠い。会の川筋を歩いただけで、現在「小休止」中。
これでは古隅田川に届くまでに結構時間がかかりそう。どうもそれまで古隅田川散歩の記憶を保ち切れそうもない、といった齢故の記憶力の事情もあり、旧利根川流路散歩の途中ではあるが、とりあえず古隅田川散歩のメモを挟み込むことにした。

●古隅田川の隅田川合流地点は?
足立区・葛飾区の境を画する古隅田川の流路を辿る前に、古隅田川が隅田川に合流する辺りを歩こうと、あれこれチェックする。水神社とも称される隅田川神社の北辺りで隅田川に合流した、といった記事が多い。国土地理院地図(1896‐1909)にも「水神社」の表示があり、その北で水路が隅田川から切れ込んでいる。
とはいうものの、その切れ込み箇所に繋がる明確な水路跡はなにもない。古隅田川跡らしき水路はすべて、かつての綾瀬川に注ぎ、そこで途切れているように見える。
現在の綾瀬川は葛飾区堀切4丁目にある小谷野神社あたりから、人工的に開削された荒川放水路に沿って南東へと下っているが、荒川放水路(明治44年(1911)着工、大正13年(1924)完成)が開削される以前の綾瀬川は、真っすぐ南下し、現在京成・堀切駅脇で、荒川放水路と隅田川を繋ぐ「旧綾瀬川第二運河」の通る水路筋を下り墨田川に合流している。
国土地理院地図(1896‐1909)の地図には、明治20年(1877)創業の鐘ヶ淵紡績が記されている。工場は現在の墨堤通りの東西に分かれて建ち、「思い込み」で見れば工場の間の通りを辿れば、水神社の水路切れ込み箇所に届くのだが、それが水路跡との確証はない。

古隅田川散歩のルートを想うに、水神様から歩きはじめてもいいのだが、隅田川神社や木母寺辺りは以前歩いたこともあり、結局古隅田川流路を辿る散歩は「国土地理院地図(1896‐1909)」に水路跡が記された、旧綾瀬川に古隅田川の水路が合わさる近く、東武スカイツリーライン線・堀切駅北の堀切橋辺りを古い隅田川の最下流点とし、そこから流路跡を遡ることにする。

本日のルート;
堀切橋へ
千代田線・北千住駅>柳原寺前の通りを荒川放水路堤防に>東武スカイツリーライン線と交差>京成本線と交差>千住汐入大橋>墨堤通り>綾瀬橋>東武スカイツリーライナー線・堀切駅>堀切橋
正覚寺に
瀬川>小谷野神社>正覚寺
■東京拘置所西側向かう
小菅神社>第六天排水機場>水戸橋>八幡社>小菅西小学校>東京拘置所>差入店>拘置所柵に沿って案内板が立つ>小菅稲荷神社>東京拘置所前交差点>古隅田川の水路


■堀切橋へ■
千代田線・北千住駅
地図で東武スカイツリーライン線・堀切駅辺りへと続く水路跡を想う。駅の東、柳原2丁目の柳原寺前に、如何にも水路後といった、弧を描いて進む通りがある。これが古隅田川跡であろうと、成り行きで柳原寺に向かう。

「国土地理院地図(1896‐1909)」に見る古隅田川
メモの段階で古隅田川跡をチェックする:かつての綾瀬川に注ぐ古隅田川の流路を「国土地理院地図(1896‐1909)」でチェックすると、常磐線・亀有駅の南東から足立区・葛飾区の境を「小菅監獄」まで進んできた流れは、小菅監獄の西側を南下し、後に荒川放水路として開削される川筋の中央部まで進む。そこから現在の首都高速環状線のルートに沿って、というか、おなじルートを小菅ジャンクション手前まで東に蛇行し、ジャンクション手前で弧を描いて西に向かい、柳原2丁目に進む。その川筋は、如何にも水路跡といったカーブを描く柳原寺前の通りのようである。
地図には後に開削される荒川放水路のど真ん中を下るもの、柳原寺前の通りの一筋東を、南西に向かって下るものなどいくつもの水路跡が見られるが、なんとなく柳原寺前の通りが古隅田川跡だろうと思い込む。

柳原寺前の通りを荒川放水路堤防に
如何にも水路跡といった風情で弧を描く、柳原寺前の通りを荒川放水路に向かう。堤防に立ち、宅地の中を進む水路跡の通りや荒川放水路の対岸の荒川小菅緑地公園を眺める。
iphoneにブックマークしている「今昔マップ」の「国土地理院地図(1896‐1909)」でチェックすると、古隅田川は弧を描いて堤防に達した後、荒川小菅緑地公園まで東に向かい、小菅水再生センター辺りで半円を描きながら正覚寺へと向かい、首都高速小菅ジャンクション手前で流路を変え、高速道路のルートに沿って折り返し、再び荒川放水路の真ん中まで戻り、そこから小菅監獄の西塀に沿って北に向かっている。

東武スカイツリーライン線と交差
堤防から通りに戻り、東武スカイツリーライン線・堀切駅へと向かう。弧を描く道を進むと京成スカイツリーライン線と交差。アンダーパスが異常に低い。桁下高さ1.7mとある。
東武スカイツリーラインとはかつての東武伊勢崎線。東京スカイツリーの開業に伴い、スカイツリーラインと改称されたようだ。それはそれでいいのだが、「国土地理院地図(1896‐1909)」には東武線と記載されている。東武伊勢崎線の開業が明治32年(1899)と言うから、「国土地理院地図(1896‐1909)」とはいいながら、この地図は明治32年(1899)以降ということになる。

京成本線とクロス
東武線を越えると今度は京成線のアンダーパスを潜る。京成線の手前に小祠があり、その脇に橋の親柱を飾る擬宝珠が置かれている。「国土地理院地図(1896‐1909)」には京成本線は描かれていない。京成電鉄の第一期開業区間である押上・柴又間の開業は明治45年(1912)であるから当然であるが、「国土地理院地図(1896‐1909)」を見ると千住町から東に向かった道が、この辺りで柳原に向かって北に上るが、その曲がり角で道が水路と交差している。この擬宝珠は、そこに架かっていた橋のものだろうか。
なお、水路は緩い南向きの弧を描いて東に進み、小菅水再生センター辺りで古隅田川から分岐し南に下る水路と堀切橋辺りで合わさり、少し下って旧綾瀬川に合流しているように見える。
堀切
堀切の地名の由来は、葛西一族の館を囲む濠からとのこと。とはいえ、館跡も濠跡も見つかってはいないようだ。

千住汐入大橋
京成線・堀切駅に向かう途中、ちょっと寄り道して隅田川を見に南に下り千住汐入大橋に。護岸整備された対岸の汐入公園の向こうに東京スカイツリーが屹立している。
汐入
いつだったか南千住から汐入地区を歩いたことがある。そのときの「汐入」のメモ;戦国期の南千住のあたりの地図を眺めてみると、浅草から橋場・石浜に隅田川(当時は、入間川)に沿って砂州・微高地がある。同様に、現在の千住大橋・素盞雄(スサノオ)神社近辺にも砂州が認められる。が、その内側は千住大橋から三ノ輪を結ぶ線より東は入り江状態。その線より西は三河島のあたりまでは泥湿地帯となっている。源頼朝が浅草・石場から王子へと平家討伐軍を進めるに際し、小船数千を並べて浮橋とした、というのも大いにうなずける。 江戸以前、南千住の一帯は、入間川(隅田川)沿いに堆積した砂州を除き、ほとんどが水の中・湿地帯であった、ということだ。汐入と称される所以である。

墨堤通り
千住汐入大橋から隅田川左岸を進み、隅田川と荒川放水路を繋ぐ旧綾瀬川第二運河手前、マンションとタクシー会社(東京交通自動車〈株〉)を都道461号に抜ける。マンション敷地で通り抜けできないかと思ったのだが、そこは地図には「墨堤通り」表記されていた。
墨堤通り
墨田区吾妻橋から足立区千住桜木まで、隅田川に沿って走る。吾妻橋東詰めから隅田川の堤を通り、向島5丁目辺りで都道461号(二本並行して走る)を京成線・関屋に。京成関屋から隅田川の流路と並行に進み、荒川に架かる西新井橋手前の千住桜木町に至る。
墨堤通りという以上、往昔は隅田川(荒川とも入間川とも)の土手を通る道筋ではあったのだろう。向島5丁目で二本走る都道461号の内側の道筋、そしてこのマンション脇を進む道筋は川に面している。更には京成線・関屋から先の道筋は、いつだったか歩いた掃部堤の道筋のようだ。
掃部堤
「掃部堤」は隅田川、と言うか、昔の荒川・入間川の堤防。名前の由来は、この堤を築いた石出掃部介(かもんのすけ)、より。
石部掃部介は小田原北条の遺臣。江戸時代にこの地に移り、新田を開発。場所は、元の隅田川・荒川の堤であった熊谷堤(旧区役所通りにあたる:掃部堤の内側を斜めに通る)と掃部堤に囲まれた一帯。掃部堤もその新田・掃部新田を水害から防ぐため築かれたものであろう。
往時は高さ4mもあったと言われる掃部堤であるが、削平され現在は墨堤通りとなっている。
墨堤の桜
墨堤といえば桜が有名である。墨堤の桜は四代将軍家斉が常陸国・桜川の桜を移植したのがはじまり。その後八代将軍吉宗が100本の桜を植える。当時は桜並木の桜を愛でるというより、屋敷に咲く桜木を愛でるのが普通であり、当時としては画期的なことであったようだ。
場所は水神社のあたり。現在のように三囲神社あたりまで桜並木ができたのは明治の初期、1880年代になってからのこと。明治も中頃となると、桜並木も荒れていたようだが、大倉財閥の当主・大倉喜八郎などの尽力により、現在に至る、と。明治の頃まではヤマザクラ、現在はソメイヨシノが大半を占める、とか。

綾瀬橋
旧綾瀬川第二運河に架かる綾瀬橋を渡る。散歩の当日は何故に「綾瀬橋」?などと思いながら首都高速6号向島線の高架に覆われた橋を渡ったのだが、前述の如く荒川放水路が開削される以前の旧綾瀬川が隅田川に注ぐ水路であるとメモの段階でわかり、納得。

東武スカイツリーライナー線・堀切駅
綾瀬橋を渡り運河左岸を荒川放水路方面に向かう。荒川放水路と運河を遮る隅田水門手前の跨線橋を渡り運河右岸に戻り、東武スカイツリーライナー線を跨ぐ人道橋を渡り堀切駅に。

堀切橋
堀切駅のすぐ前の堤防を北に進み、荒川放水路に架かる堀切橋を渡る。「国土地理院地図(1896‐1909)」を見ると、古隅田川が旧綾瀬川の水路に合流している。地図でトレースできる古隅田川の最下流部。やっと想定した散歩始点にたどり着いた。
次の目的地は荒川放水路を渡った先にある正覚寺。「国土地理院地図(1896‐1909)」にある古綾瀬川の川筋にお寺のマークがある。


■正覚寺に■

綾瀬川
橋を渡り、荒川放水路に沿って下る綾瀬川に架かる橋を渡る。この水路は荒川放水路開削に伴い、下流部を切られた旧綾瀬川を荒川放水路に沿って新たに開削した水路ではあろう。ただ、その水路は「国土地理院地図(1896‐1909)」に古綾瀬川と記される水路と重なる。古綾瀬川?ちょっと混乱。
いつだったか草加を歩いたとき、古綾瀬川を歩き、そのとき、「中・下流域では流路定まることなし、といった古綾瀬川ではあるが、それでもその流路としては、一筋は足立区花畑あたりから東に向かい松戸の近くで江戸川に注ぎ、もうひとすじは水元公園あたりから中川筋(といっても中川筋開削以前の古利根川)に下っていた。その流路を江戸の頃、東武スカイツリーライン線・新田駅の少し北、蒲生大橋あたりから小菅まで直線化工事を行った」とメモした。
「国土地理院地図(1896‐1909)」には直線化工事を行い隅田川に注ぐ本流水路を「綾瀬川」、隅田川合流点手前で本流から分岐し、下って中川に合わさる水路を、何故かは知らねど、「古綾瀬川」としている。何故だろう?疑問は解けず。

小谷野神社
綾瀬川に沿って水戸橋の西にある正覚寺へと向かう。北に向かうと綾瀬川堤防下を通る道路わきに小谷野神社がある。境内にあった由来を刻む石碑に拠れば、元は当地、小谷野村にあった稲荷社。元禄10年(1697)には既に存していたことが記録に残る。地名が堀切となるに伴い、小谷野の旧名を残さんと昭和45年(1970)に小谷野神社と改称された。
境内入口に祀られる三峯、水天宮は元々綾瀬川が隅田川に合わさる箇所にあったもの。荒川放水路開削に伴い、三峰社は現堀切橋際に、水天宮は隅田川水門際に移され、後さらにこの地に遷座した。
葛飾区のHPに拠れば、小谷野は奥州平泉の豪族小谷野氏の出身地故といわれるが、定かではない。小谷野氏の出自云々はともあれ、この地からは室町時代の板碑が所在しており、古くから人が住んでいたようである。

正覚寺
綾瀬川を覆う中央環状線の高架を見遣りながら、高速が南北に分かれる小菅ジャンクションで新水戸橋を渡り綾瀬川右岸に向かう。東京拘置所西側を南に下ってきた古隅田川が現在荒川放水路となっている水路の真ん中で東に折れ、中央環状線に沿って綾瀬川の水路辺手前まで進んだ後、南西に弧を描きこのお寺様の辺りを通り、そこから先は直線に進み、先ほど辿った荒川放水路右岸・柳原の土手に向かう。
「国土地理院地図(1896‐1909)」に拠れば、弧を描く水路のほとんどが現在の小菅水再生センターの敷地内を進むが、再生センター東の正覚寺は古隅田川水路傍に表示されている。水路跡が残るとも思えないが、とりあえずお寺様を訪ねる。
境内に入る。落ち着いた趣のお寺さまである。結構造作が新しいのは、高速道路と水再生センター工事に際し、本堂・客殿・庫裡等一切新築され、ためではあろう。
境内にあったいくつかの案内を大雑把にメモ:
正覚寺と日本最初の公立学校
「正覚寺と日本最初の公立学校」には、「真言宗正覚寺は常照山阿弥陀院と号す。本尊阿弥陀如来像は慈覚大師作と言う。開山は開山和尚安心の没年が文禄元年(1592)であるから、室町末期と推察される。
境内には「とげぬき地蔵」という古い石地蔵が安置される。水戸街道の北側にあったものを、大正4年、荒川放水路開削にともない移された。「とげぬき」は「罪(とが)抜き」から。小菅監獄から出所時、この地蔵に願をかけると「罪」を抜くことができたため、いつしか「とがにき」から「とげぬき」になった、と。
このお地蔵さまには「きられ地蔵」の伝説も伝わる。元禄の頃、この地蔵の付近に美女が現れ旅人を悩ますとの噂。参勤交代でこの地を通る水戸光圀が地蔵の首を一刀のもと切り離す。首はそれ以降行方不明となり、正覚寺で首を据え付ける。後に寺の近くで首が掘り出されたため、正覚寺で箱におさめ供養している。「首切り」の話はともあれ、地蔵堂の水舎に元禄年年間の銘があり、光圀とのなんらかの関連がなきにしもあらず」、との説明に続き、「もうひとつの珍しい史実」として、以下の説明が続く。
「明治2年、この地に小菅県庁が置かれる。県庁では政府の出した府県学校取調局の令に基づき、正覚寺本堂内に「小菅仮学校」という、わが国最初の公立の学校を設ける。当初は県庁役人を対象としたが、希望者には管内の一般町村民の入学も許す。但し、民間の入学者は稀であった。
この学校は隣の千住宿の慈眼寺にも分校を設けたが、明治4年の廃藩置県で県庁とともに廃校となり、明治6年の学制発布で青砥学校(区立亀有小学校)や勝鹿学校(区立新宿小学校)が設立され、生徒の大半はそちらに移る」と。
「聴聞規則」
更にこの公立学校の「聴聞規則」が続く;
「「聴聞規則」は本邦初等教育史上貴重な資料であるが、内容は旧態依然とした封建制そのものであったことがうかがい知れる。
当県仮学校当分小菅村正覚寺ニ相定候事
一 六ノ日 定休 四月十九日 会議ニ付昼後休
二 七ノ日 未ノ刻ヨリ小学講釈
諸役人出席下民といえども聴を許す但朝索読質問勝手次第
三 八ノ日 未ノ刻ヨリ牧民志告心鏡
庁内之諸役人必ズ出席すべし其他有志輩聴聞勝手たるべし但し朝前同断
四 旧ノ日 未ノ刻ヨリ孟子輪議
庁内之諸役人壮年之ものは必ズ出席すべし老幼の輩は勝手次第たるべし但し朝前同断
五 十ノ日 未ノ刻ヨリ千住四丁目慈眼寺小学講話
御用村用当二而小菅表へ出合候村人小前ども必ず出席すべし
若し怠り候もの来れは郷宿向き取調之上、正覚寺二止宿いたさせ教諭を加う其他四方之民人老若とも出席聴聞することを欲す
知事判事之内取締として時々出席すべし其他諸氏聴聞勝手たるべし但し朝前同断
明治二年 小菅県」とあった。

下民とか小前(江戸時代の小農民をいい,「前」は身分とか分限の意。一般に耕地や宅地を所持し年貢を負担する本百姓をすべて小前,小前百姓といった。また村役人級の大高持 (大前) に対して,一般の百姓あるいは水呑百姓のような零細な困窮農民をさすこともある(「ブリタニカ国際大百科事典」)などの表現や講義内容を指しての封建的とののとだろうか。
尚、「朝前同断」は、「朝は前と同じだ」との意味だろうか。ということは、その前に記されている、朝索読質問勝手次第を指すの、かと。

同じく境内にあった「史跡 県立小菅学校の跡」には「学制発布以前の公立学校として、都下教育史上貴重な遺跡」とある。学制発布は明治5年(1872)であるので、その3年前に設立されたということである。
小菅正覚寺念仏結衆地蔵像
「この地蔵像は念仏結衆を願う兵左衛門と同行衆によって建立されたものです。光背の向かって右には「寛文元天(1661)。。。」、左には「念仏結衆本願兵左衛門同行廿一人」と刻まれ、供養を行う集団を「念仏結衆」と記しています。
17世紀中頃以降は、「同行集団」とあらわすことが多くなるのですが、この地蔵像には「結衆」と「同行」が併記されています」とあった。

結衆と同行はほぼ同義で用いられ、地蔵(庚申)像などに「同行卅七人敬白」などと刻まれることもある。これは37名の結衆が地蔵(庚申)供養のため造立と読み替えるわけだが、このお地蔵さまには結衆と同行が併記されている、ということだろう。


■東京拘置所西側向かう■

水路跡も水再生センターの敷地の中となるので、この辺りの散歩は終わりと、次の目的地、古隅田川の流路である東京拘置所の西側に向かう。お寺さまから新水戸橋に戻りその一筋北の水戸橋に向かう。

小菅神社
水戸橋に向かう途中、道の左手に社がある。新水戸橋交差点から一段低い通路を抜けて進むと小菅神社に。明治2年()、小菅県が出来た際、県庁内(現東京拘置所)に県下356町村の守護として伊勢の皇大神宮を勧請するも、明治5年に小菅県所管の葛飾72ヶ村などが東京府に移管するに際し小菅村の田中稲荷社に移す。明治42年小菅神社と改称し、田中稲荷は摂社となる。境内には田中稲荷社が祀られていた。

第六天排水機場
小菅神社を北に向かうと右手に第六天排水機場が見える。その裏手に目的の古隅田川の水路が足立・葛飾区境に沿って続くのだが、とりあえずは先ほど訪れた柳原堤防から先に続く水路跡が、荒川放水路で寸断された箇所である東京拘置所西側から古隅田川を「遡上」すべく、右手の水路は後のお楽しみとする。

水戸橋
第六天排水機場のすぐ北、水戸橋を渡った西詰めに「水戸橋跡地」の案内がある。
水戸佐倉道
「前方に延びる道は、東海道など五街道に附属する水戸佐倉道です。この街道は日本橋を出発点とする日光街道の千住宿(足立区千住)から分かれ、常陸国水戸徳川家の城下をつなぐ道でした。途中、新宿(葛飾区新宿)では、下総国佐倉に向かう佐倉街道と分かれました。
これらの街道は、土浦藩や佐倉藩等が参勤交代に使う重要な道でした。享保10年(1725)八代将軍吉宗が、大規模な狩りを小金原(千葉市松戸)で行った際、水戸橋で下船して水戸佐倉街道を通行した記録が残されています」とある。

日光道中千住宿で分かれ、水戸まで29里、おおよそ122km、19の宿場で繋ぐ 流路定まらぬ低湿地であった江戸近郊の低地を抜ける水戸佐倉道は、河川改修や新田開発で江戸の近郊農村として野菜などの食料供給地となり、その物資の往来だけでなく、生活も豊かになった江戸の庶民の行楽地への往来としても使われるようになる。成田山、国府台帝釈天木下川薬師半田稲荷へとこの橋を渡って向かったのだろう。

橋名:みとはしの由来
「地元に伝わる話によると、その昔、水戸黄門(光圀)一行が旅の途中、小菅村に出没する妖怪を退治しました。 その妖怪は、親をならず者に殺され、敵を討とうとした狸でした。 子狸が退治されそうになった時、近くのお地蔵様が身代わりとなりました。 その事実を知った光圀は、後の世まで平穏となるようにと自ら筆をとり、傍らの橋の親柱に「水戸橋」と書き記したと伝わっています。 また、水戸橋下流の正覚寺には、身代わりとなったといわれているお地蔵様が安置してあり、お堂前の水舎には元禄10年(1697)の銘があります」。正覚寺云々は前述のとおり。
水戸橋・橋台の石組・綾瀬川
「ここに組まれた石組みは、江戸・明治時代から桁橋の水戸橋を支えてきた橋台を受け継いだものです。この構造は、皇居(旧江戸城)内濠に架かる木造橋である平川橋に名残を見ることができます。
水戸橋が本格的な橋として架橋された年は定かではありませんが、江戸初期の寛政年間(1624-1644)と考えられています。
水戸橋が架かる綾瀬川の開削については、「西方村旧記付図」(越谷市立図書館)に、寛永年間に匠橋付近(足立区)から小菅(葛飾区)を経て、隅田川合流地点まで掘替えた記録があります」、と。

蛇行する綾瀬川の直線化工事は、代官伊奈氏により足立郡内匠新田(足立区南花畑)から葛飾郡小菅(小菅)に、流量を調節すべく新たに水路を開削した。 その後、五街道制定にともない、寛永7年(1630年)に草加宿の設置が決まる。これに合わせ、天和3年(1683年)に蒲生大橋(東武伊勢佐木線新田駅の北東)辺りから九十九曲がりと称され、千々に乱れる綾瀬川の流路の直線化工事を行った。直線化工事とは、この蒲生大橋から古綾瀬川との合流点辺りまでの一直線になった綾瀬川の区間のことであるが、上記解説は、伊奈氏による開削工事を指すのだろう。

八幡社
水戸橋から綾瀬川にそって北に向かうと二基の石灯籠と石造りの小祠がある。地図にある鳥居のマークが不釣り合いなほどのささやかな社である。 脇にあった案内:
「八幡社とタブの木の大樹について 小菅の水戸橋付近、綾瀬川沿いに「八幡社」と大きなタブの木がありました。昭和30年代に造られた「小菅音頭」の歌詞の中にも「月もおぼろの八幡社」と歌われています。この社と大きなタブの木は、綾瀬課川のふちにあって舟の往来や行き交う人々を見守ってきました。 由緒などは不明ですが、『水戸佐倉道分間延絵図』に記載されている古い社で、棟札により元禄十三年(1700)第五代将軍綱吉に仕えた柳沢吉保によって、小菅御殿内の鎮守として再興されました。第八代将軍吉宗の時代(1740年頃)の小菅御殿古図には「八マン」と記載され、鳥居の図が示されています。
このあたりは「八幡山」と呼ばれ、小菅一丁目では一番の高台でした。綾瀬川・古隅田川に囲まれた小菅付近は昔からたびたび洪水に見舞われてきましたが、昭和以降の大洪水にも水に浸かることはなかったと言われています。小菅一丁目に大きな被害をもたらした昭和三十四年の伊勢湾台風の際にも八幡社に多くの人々が避難したと伝えられています。
大切に守ってきたこの社は、今般水戸橋の架け替えに伴い、旧社殿は取り壊され、新しい石造りの社として再建されることになりました。平成二十二年」とあった。

解説とともにあった往昔の写真には、綾瀬川を上る船と鬱蒼とした鎮守の森が見える。まだ護岸工事が実施されていない。綾瀬川の改修・護岸工事は大正9年(1920)から昭和5年(1930)にかけて行われたといった記録もあるので、それ以前の風景だろうか。
このときは解説にある小菅御殿が現在の東京拘置所の辺りにあったなど、知る由もなかった。事前準備なしの散歩は何が出てくるかわからず、後の祭りも多いが、それ以上に偶々の出合いが多く、この基本方針(単に面倒だ、というだけとも言えるが)はやめられない。

小菅西小学校
八幡の小祠の南の道を西に向かうと小菅西小学校にあたる。正門脇の敷地内に案内があり、「小菅銭座跡」とある;
「小菅銭座跡 葛飾区小菅一丁目25番1号小菅西小学校
小菅銭座は安政6年(1859)、江戸金座の直轄で、幕府の財政窮乏と銅相場急騰のため、前例のない鉄小銭を鋳造する場所として設置されました。小菅銭座の中心部は、江戸時代初期には伊奈氏下屋敷、江戸時代中期には鷹狩のための御殿から幕府の所有地・小菅御囲地となり、江戸時代後期には災害に備えての小菅籾蔵と変遷を辿った場所の一角で、現在の西小菅小学校付近にあったとされます。
万延元年(1860)には前例のない鐚銭といわれる粗悪鉄銭である四文銭を小菅で鋳造しました。最盛期の慶応年間の鋳造職人は232人を数えましたが、慶応3年(1867)にその役割を終えました。
今その頃の様子を示すものはほとんど残っていませんが、昭和25年(1950)までは銭座長屋といわれた建物が残っていました。かつて水路があった場所には、銭座橋の橋跡が残り、貨幣史関係の資料として今に伝えています。
上に小菅御殿は現東京拘置所辺りとメモしたが、この小学校あたりまで敷地であったようだ。

東京拘置所
道なりに北に進むと東京拘置所にあたる。モダンな造りの建物である。チェックするとWikipediaに、「1997年改築工事が開始、1999年には「小菅刑務所・管理棟」が日本の近代建築?選に選定、2003年中央管理棟・南収容棟、2006年北収容棟が完成」とある。
なるほど、近代建築20選に選ばれるような建物か、と思ったのだが、選定された建物は敷地内に残る戦前の建物とのことであった。衛星写真で見ると、中央の管理棟にヘリポートがあり。そこを中心に、南北にV字の収容棟が延びており、その西側にそれっぽい建物が見えた。
拘置所と刑務所
ところで、上に東京拘置所と記したが、ここにくるまで小菅刑務所と思っていた。明治12年(1879)小菅に東京集治監が設置され、明治36年(1903)小菅監獄と改称、大正11年(1922)小菅刑務所となったが、その小菅刑務所は栃木の黒羽刑務所に移ったようだ。
その経緯は、巣鴨にあった東京拘置所が、昭和20年(1945)、連合軍総司令部(GHQに接収され、所謂巣鴨プリズンとして戦争犯罪人の収容所となる。そのため、東京拘置所が小菅刑務所に一時的に同居。平和条約締結(1952年)にともない、巣鴨プリズンは日本に移管。巣鴨に東京拘置所が復する。
その後首都圏整備計画の一環として昭和46年(1971)、東京拘置所が巣鴨から小菅刑務所の地に移り、それにともない小菅刑務所は栃木に移った、と。小菅は、受刑者を収容する刑務所の機能から、未決囚を収容する拘置所にその機能を変えた、というのが正確かもしれない。因みに、巣鴨の東京拘置所跡地はサンシャイン60の辺りである。
拘置所に懲役受刑者?
Wikipediaで東京拘置所の収容者の項目を見ていると、収容定員3,000名、未決拘禁者(刑事被告人)、死刑確定者(死刑囚)、懲役受刑者(本所執行受刑者及び他刑務所への移送待ちの一時執行受刑者)を収容する、とある。未決拘禁者1,281(女性75)、懲役受刑者は696名(女性43)といった記事もみかけた。
未決拘禁者はいいとして、また、刑務所への移送待ちの受刑者もいいとして、拘置所に受刑者?チェックすると、本所執行受刑者とは懲役受刑者ではあるが、刑務所に送られることなく、この拘置所に留まり簡易作業を行う受刑者のことのようだ。「刑務所」より「拘置所」のほうが、イメージがいい(?)。刑務官に「分類」された刑の軽い人達なのだろう。

差入店
面会者出入口の道路を隔てた向かいに「池田屋 差入店」とある。当日はシャッターの閉まったお隣と二軒が指定差入点とのことである。普段見ることのない用語ではある。

拘置所柵に沿って案内板が立つ
柵に沿って古隅田川の流路のある東京拘置所の西側に向かうと、柵の前にふたつの案内板があった。
東京拘置所と煉瓦工場
明治維新後に籾倉施設が利用され「小菅県庁舎・小菅仮牢」となり、廃県後は払い下げられ、民営によるわが国初の洋式煉瓦製造所が設立されました。
明治五年二月二十六日、和田倉門内の旧会津藩邸から出火した火災により、銀座・築地は焼け野原と化します。政府の対応は速く、三十日には再建される家屋のすべてが煉瓦造りとされることが決定されます。煉瓦造りの目的は建物の不燃化をはかるだけでなく、横浜から新橋に向かって計画されていた日本最初の鉄道の終点に、西欧に負けない都市を造りあげようという意図もありました。 明治五年十二月、東京府はその製造を川崎八右衛門にまかせることを決定、川崎はウオートルスに協力を依頼し小菅に新式のホフマン窯を次々と設置し生産高を増していきます。
明治十一年内務省が敷地ごと煉瓦製造所を買い上げ、同地に獄舎を建て「小菅監獄」と命名(明治十二年四月東京集治監)、西南戦争で敗れた賊徒多数が収容され、煉瓦製造に従事し、図らずも文明開化を担っていきました。東京集治監で養成された優秀な煉瓦技能囚が全国各地に移送され、各地の集治監で製造されることになる囚人煉瓦の最初でもありました。
小菅で製造された煉瓦は、銀座や丸の内、霞ケ関の女王であるレンガ建築の旧法務省本館、旧岩崎邸、東京湾の入口に明治時代に建造された海上要塞の第二海堡等に使われ近代日本の首都東京や文明開化の象徴である煉瓦建物造りに貢献してきたのです」
小菅御殿と江戸町会所の籾倉
東京拘置所の広大な土地は、寛永年間(一六二四年~一六四三年)徳川家光が時の関東郡代伊奈半十郎忠治に下屋敷建設の敷地として与えた土地(十万八千余坪)で、当時はヨシやアシが茂り、古隅田川の畔には鶴や鴨が戯れていました。十数代にわたり代官職にあった伊奈氏が寛政四年(一七九二)に失脚するまでの間、八代将軍吉宗の命により遊猟時の御善(私注:膳?)所としての「小菅御殿」が造営された場所でもありました。
寛政六年(一七九四)に取り壊された小菅御殿の広大な敷地の一部に。天保三年(一八三二)十二月江戸町会所の籾倉が建てられました。その目的は大飢饉や大水、火災などの不時の災害に備えたもので、老中松平越中守定信の建議によるものでした。
深川新大橋の東詰に五棟、神田向柳に十二棟、ここ小菅村に六十二棟、江戸筋違橋に四棟の倉庫を建て、毎年七分積金と幕府の補助金とで買い入れた囲籾が貯蔵されていました。小菅に建てられた理由は、江戸市街と違い火災の心配が少ないこと、綾瀬川の水運の便がよかったこと、もちろん官有地であったことも条件の一つであったろうといわれています。
小菅社倉の建物は敷地が三万七百坪、この建築に要した費用は三万八千両、まもなく明治維新となり、この土地はすべて明治政府に引き継がれました」と。

なんの予備知識もなく、とりあえず古隅田川の流路へと向かうために偶々出合った東京拘置所であるが、関郡代の下屋敷、将軍家の小菅御殿、江戸町会所の籾倉、文明開化の象徴ともいえる「煉瓦」工場と、いくもの歴史のレイヤーが見えてきた。行き当たりばったりの散歩の妙である。

小菅稲荷神社
ふたつの案内板のある道を隔てた対面に赤い鳥居の小さな稲荷の社がある。 案内には「小菅稲荷神社と「小菅御殿の狐穴」」とある:
「小菅稲荷神社は小菅御殿の鎮守として小菅御殿内に祀られていましたが、昭和に入り現在の地に移されたと伝えられます。稲荷神社の使い「狐」が御神体の両脇を固めています。狐が穀物の神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の使いになったのは、一般には宇迦之御魂神の別名が「御饌津神」(みけつかみ)であったことから、ミケツの「ケツ」が狐の古名「ケツ」に想起され、誤っ「三狐神」と書かれたためと言われています。
そして狐の習性(山から下りて実る稲穂を狙う害虫を食べて小狐を養う)が、古来の日本人の目には、繁殖=豊作として結びつき、狐が田の先触れ、五穀豊穣、稲の豊作を知らせる神の「お使い」として人々に定まっていきます。日本各地に「神の使い」狐の伝説が残されています。
小菅稲荷神社には「使い姫」の伝説が残されています。本殿の裏、こじんまりした庭の石山の根元には二つの穴があります。小菅御殿があった当時、将軍様の御逗留の際に不意の敵襲に備え、無事に御殿外に脱出できるよう空井戸を利用した抜け道があったと言います。
この抜け道を明治時代に入り不用なものとして埋めふさいでしまったところ、御殿跡地の政府の施設では事故が相次いで発生しました。ある夜、心痛した偉いお役人の夢枕に一匹の城狐が現れ、「私はいにしえからこの小菅稲荷の「使い姫」として空井戸に棲んでいた狐一族の長老であるが、この程我らの住居を埋められ大変難渋しておる。速やかに穴を元に戻すように」と言い残して消えました。
そこで、速やかに穴を元に戻した結果、ぱったりと事故が起こらなくなったといいます。当時のものを模した「狐の穴」は本殿の裏にちゃんと残されています」とあった。

社にお参りを済ませ、本殿裏の狐の穴をみようとしたのだが、本殿は頑丈に施錠されており、入ることはできなかった。道端から見た、本殿裏の竹の下にあるのだろうか。

東京拘置所前交差点
道を西に進み首都高速中央環状線と合わさる交差点に。交差点南には「保釈金 お立替えいたします」といった「非日常的」な看板。北には東京拘置所入口。知らず写真を撮っていたら守衛さんに制止された。撮影禁止のようだ。
旧小菅御殿石灯籠
拘置所入口左手、敷地内に案内板が立っている。「旧小菅御殿石灯籠」とあり、案内板左手に石灯籠が見る。案内には:
「旧小菅御殿石燈籠 所在地;小菅1丁目35番地
現在の東京拘置所一帯は、江戸時代前期に幕府直轄地を支配する関東郡代・伊奈忠治の下屋敷が置かれ、将軍鷹狩や鹿狩りの際の休憩所である御膳所となりました。その後元文元年(1736)7月に小菅御殿(千住御殿)が建てられました。 寛政4年(1792)小菅御殿は伊奈忠尊の失脚とともに廃止され、敷地は幕府所有地の小菅御囲地となりました。御囲地の一部は、江戸町会所の籾蔵や銭座となり、明治時代に入ると、小菅県庁・小菅煉瓦製造所・小菅監獄が置かれました。
旧小菅御殿石燈籠は、全高210cmの御影石製で、円柱の上方に縦角形の火袋と日月形をくりぬき、四角形の笠を置き宝珠を頂いています。もとは刻銘があったと思われますが、削られて由緒は明確ではありまえん。旧御殿内にあったとされるこの石燈籠は、昭和59年(1984)に手水鉢・庭石とともに現在地に移されました 葛飾区教育委員会」とあった。

脇には「石灯籠について」とする、東京拘置所による手書きの案内もあり、同様の解説が記されていたが、小菅御殿は奥州諸侯の送迎にも供されたこと、九代家重公御世継時代の養生所等にも使われたこと、明治12年の小菅監獄の敷地が7万坪に及ぶものであったこと、石灯籠は江戸初期の作、といったことが付け加えられていた。

古隅田川の水路
東京拘置所の西側、堤防手前の道路と拘置所の柵に囲まれて親水公園といった風情の水路がみえる。古隅田川の水路筋を利用した公園である。荒川放水路開削により流路断ち切られ、ために、一筆書きに進むことのできなかった古隅田川の流路であるが、ここから先、中川からの分岐点までは、足立区と葛飾区の境をひたすら進むことになる。
流路断ち切られたが故に、彼方此方へと大廻りし、ために、なんの知識もなかった小菅の地の歴史について、結果的には多くのことを知り得たのだが、メモが多くなってしまった。
今回のメモはここで終え、次回は足立・葛飾区境を「一筆書き」に進み中川までをメモすることにする。

土曜日, 5月 06, 2017

伊予 歩き遍路;四十五番札所・岩屋寺より四十七番札所・八坂寺へ ②:千本峠遍路道;千本峠を越え国道33号合流点へ/六部堂越え

先回、久万の町にある四十四番札所・大宝寺と四十五番札所・岩屋寺を繋ぐ遍路道のひとつ、「逆打ち・打ち戻しなし」のルートを、越ノ峠を越え有枝川、槇ノ谷の谷筋を辿り八丁の坂(茶屋跡)へと上り、数年前歩いた岩屋寺への尾根道と合流。遍路道のひとつを繋いだ。
返す刀で八丁の坂(茶屋跡)から山裾の車デポ地に戻り、次の目的地である千本峠越えに。四十四番から四十五番へと「巡打ち」した後、同じルートを「打ち戻る」途中から山地に入り、久万の町に再び戻ることなく、松山へと下る三坂峠方面に向かうルートである。当日は千本峠を越えて高野の集落に出たところで時間切れとなった。

今回の散歩は、千本峠越えの後半部と六部堂越を目す。千本峠後半は、先回の最終地点である高野の里からはじめ、ゆったりとした山里の道を辿り、槻ノ沢集落を経て国道33号まで下り、千本峠越えの遍路道を繋ぐ。国道33号に下りた地点で、思いがけず仰西渠に出合い、水路好きのわが身には、よきご褒美ともなった。

次いで六部堂越に向かう。「えひめの記憶」に久万から三坂峠に向かう遍路道のひとつであったと記されていたこと、そしてなにより、六十六部回国僧・遊行僧由来の「六部」という言葉に響きに惹かれて、誠にお気楽に向かったのだが、これが結構な難行。
「えひめの記憶」には、「『四國遍路だより』に「(六部堂越の道は)山頂(さんちゃう)の景色(けしき)は重巒雄大(ちゃうらんゆうだい)ですが、さして近(ちか)いこともありませず淋(さび)しい道(みち)です。大方(おほかた)は千本峠越(ぼんとうげご)えして松山街道(まつやまかいどう)に出(で)ます」とあるように、お遍路さんも絶えて久しくこのルートを辿っていないようで、現在は遍路道の案内も、ない。
河之内の集落から峠近くまで続く林道も、峠直前の沢部で切れ、後は藪漕ぎでなんとか六部越(峠)に這い上がることになった。結構な急斜面の沢筋のトラバースでもあり、躊躇しばしの末の決断ではあった。

峠から国道33号方面への下りは、国道>六部堂越>皿ヶ峰へと上る登山者のログも多く、まあいいか、とパスし、替わりになんとか六部堂越までの「スムーズなルートを繋げようと。
しかし、六部堂越は復路も楽をさせてくれなかった。峠から地図に破線で描かれる踏み分け道を下るが、それもすぐに消え、往路の林道に滑り降りる始末。誰の役に立つとも思えないが、こうとなれば虚仮の一念で、六部堂越までの「藪漕ぎ無し」ルートを見付けようと、林道と踏み分け道の組み合わせでなんとか峠と繋げた。
それにしても、道を覆い絶えることのない茨、道を塞ぐ倒木、茨と倒木の「通せんぼコラボレーション」に悩ませられた六部堂越であった。

これで、数回にわたってメモした、久万に入るいくつかの峠越えの遍路道、また久万から出て松山へと下る三坂峠に続くいくつかの遍路道も歩き終え、ルート完成。
ルートは繋いだものの、歩き疲れたお遍路さんが、古の遍路道ではないものの、体に優しい国道を歩かず、あえて峠越えの遍路道を歩くとも思えない。実際、峠越えでお遍路さんに会うこともなく、国道33号で見かけたお遍路さんに声をかけて乗車をお誘いする帰途となった。

本日のルート;
■千本峠越え■
(後半部)
高野集落の遍路道分岐:8時2分>槻ノ沢の2基の道標;8時11分>大除城の案内;8時16分>手印の道標:8時17分>馬頭観音と道標;8時25分>道標を土径に:8時29分>採石場;8時36分>久万川;8時42分>仰西渠:8時43分

■六部堂越■
(往路)
林道に車をデポ;9時55分(標高745m)>登山道分岐;10時16分(標高890m)>六部堂越えの林道分岐点;(標高940m)>峠直前で林道が消える;10時43分(標高1,000m)>六部堂越;11時27分(標高1,010m)
(復路)
登山道も消える;11時41分(標高1,000m)>林道からの踏み分け道も消える;11時時54分(標高980m)>往路の林道に滑り降りる;12時6分(標高940m)>峠との道を繋ぐ;12時15分(標高980m)>車デポ地に戻る;13時2分(標高745m)

■千本峠越え■
(後半部)

高野集落の遍路道分岐:8時2分
先回、危険個所ってどの程度のものか確認のため、通行止めの木標から先に進んだのだが、既に復旧工事は終わっているのか、落石可能性を避ける安全確保のためだけの通行止めであったのか、その因は不明だが、結局知らず高野の集落に出てしまった。そして集落から車道を下り土径に分かれる遍路道を確認し散歩を終えた。
本日の散歩はその分岐点から。国道33号を久万の町に。そこから県道12号に乗り換え、峠御堂トンネル手前、「高野展望台」の案内が立つ分岐を左に折れ高野集落に。遍路土径分岐近くのスペースに車をデポし散歩をスタート。

槻ノ沢の2基の道標;8時11分
しばし畑地脇を進んだ後、杉林に入る。杉林を抜けると槻之沢(けやきのさわ)の集落に出る。一面の霧の中、棚田がうっすら見える。千本峠を越える手前の棚田は人の手が入っておらず、草茫々で荒れ果てていたが、この集落の棚田は水が満々と張られ、杉林を出たところに立つ2基の道標に美しい霧の借景を与えていた。

大除城の案内;8時16分
土径を下ると道脇に「大除城の跡」の案内。「大除城は、天文年間(1532-1554年)に、道後湯築城主の河野氏が、土佐の長曽我部一族の侵入を防ぐためにこの前方の山頂に築いたものです。以降、城主の大野氏は3代にわたり繁栄しましたが、天正13年(1585年)に秀吉の命を受けた小早川隆景軍に河野氏が降伏し、大除城を明け渡したのです」とある。
次第に晴れてきた霧の先に、周囲からちょっと抜け出た山が見える。標高694.2mピークの山が大除城山だろう。

手印の道標:8時17分
大除城の案内の直ぐ先に手印だけの道標が立つ。特に道の分岐もないのだが、先ほどの大除城の案内の直ぐ傍でもあり、昔は大除城山方面、というか槻ノ沢集落への分岐道でもあったのだろうか。







馬頭観音と道標;8時25分
土径を下り車道に出たところに木標があり、その傍にささやかな馬頭観音と並んで道標が立つ。
「えひめの記憶」には「遍路道が車道と合流した地点に馬頭観音が祀られており、その横に道標がある。ここで遍路道は二つに分かれる。一つは、ここで右折して大除城址の左側の山麓を回って久万川に向かって緩やかに下っていく道であるが、この道の大半は消えている。もう一つは道標からそのまま直進する道である」とある。
上の手印道標のところで、大除城山・槻ノ沢集落方面への土径分岐でもあったのでは?などとメモしたが、昔にこの車道があったわけもないだろうから、強ち間違いでもなさそう、かと。

道標を土径に:8時29分
車道を少し下ると、道の右手に道標があり、遍路道は右に折れ土径を下ることになる。「えひめの記憶」には「道の右端に道標あり、順路・逆路に加えて、菅生山・久万町道を指示している。ここから左折すれば大宝寺参道の中之橋に至る脇道となる」とある。
左手の耕地に向かう道は見えるが、特段道筋といったものわからないが、国土地理院2万5千分の一地図を見ると車道をもう少し下った辺りから、久万の町を結ぶ線が見える。道路改修で昔の道筋が消えたのだろうか。よくわからない。 ともあれ、道を右に折れ農家の作業小屋など、のどかな土道を進む。右手には砕石場と岩肌がむき出しになった山が近づく。大除城山ではあろう。

採石場;8時36分
4月中旬ではあるが、いまだ残る桜を眺めながら土径を進むと砕石場ゲート辺りで車道に合流する。「えひめの記憶」には「採石場のある山の裾(すそ)近くで道の一部が消えている。その消えた道の先に残る五反地で、大除城址の山麓から下ってきた道と合流して50mほど進むと道端に道標がある。久万川左岸にあったものを、川の改修工事の際に移設したと地元の人は言う」とある。
当日は、遍路道と車道が合流した辺りを探したのだが、道標は見つからなかった。先ほど馬頭観音の車道にでたところで、「ここで右折して大除城址の左側の山麓を回って久万川に向かって緩やかに下っていく道であるが、この道の大半は消えている(「えひめの記憶」)」とあったが、ひょっとする道標はその山麓を廻る道筋にあるのかもしれない。地図には大除城山の山麓をぐるりと廻る道筋がみえる(Google Street Viewでは確認できなかった)。

久万川;8時42分
車道を下り久万川に出る。橋の北詰めに大除城の案内。さきほど棚田で見た案内より詳しく説明されている。「大除城 大除城址は中世の山城である。標高694m、麓からの比高は約150m、南北に流れる久万川が裾野をめぐり、土佐街道(現国道33号)が膝下を通る要害の地にある。
遺構は、中予地方を代表する城に相応しく、大規模で堅牢である。三方の険しい地形にそびえ立ち、北方のみが尾根によって背後の山と続いている。本丸跡と推定される最頂部の郭(郭Ⅰ)は、長辺約30m、短辺約18mの方形をなし、周囲は石垣によって固められている。郭Ⅰから南西方向に数mずつの段差を隔てて郭Ⅱ、郭Ⅲに続くが、これら郭の側*面にも石積の跡を確認することができる。
郭Ⅱの下の郭Ⅳには東側に小規模な空間があり、虎口であったと考えられる。 郭Ⅰから南東方向には三角形の腰郭(郭Ⅴ)が設けられ、その下に郭Ⅶがある。 郭Ⅶの北側石積から北東斜面に上り、石垣が続いている。郭Ⅰから北方に降って背後に続く尾根道の鞍部には堀切が設けられて守りを固めている。 「予陽河野家譜」には、土佐一条氏の侵入を防ぐために河野氏が築城し、喜多郡宇津城(私注;小田村、現在の内子町)主大野安芸守直家に守らせたと記されてある。築城年代は明らかではないが、文亀元年(1501)前後であるとも推定されている。寛正五年(1464)に久万山入道というものが築城したという庄屋記録があることから、小規模な砦の跡へ築城したとも考えられる。
天文年間には直家の子利家が河野氏にそむいて小手ヶ滝城、大熊城(ともに川内町)の戒能氏を攻め、永禄年間には土佐一条氏が久万山に侵入したのを、利家の子直昌が防いだという(予陽河野家譜)。
直昌は武勇にすぐれ、土佐長曾我部氏に対抗する山の手の旗頭として河野氏の重鎮であった。その幕下は48騎、41箇城といわれ、大除城を中心に、三重の円陣を描き予土国境に向かって展開していた」とあった。
大野氏
大野氏は旧小田町、現在の内子町といった土佐国境地帯に勢力を持つ「山方衆」の有力武将であり、守護である河野氏からも半ば独立したスタンスを示していた。一族には河野氏と敵対する宇都宮氏や長曽我部氏と結ぶものあり、また、河野氏の勢威が盛んで、権益が侵されないときは臣従するも、河野氏が弱体すすると上述の如く、山を下り河野氏に叛乱をおこすこともあった、とか。 その中で、直昌は河野氏の宿将として、土佐一条氏、毛利氏、三好氏、伊予宇、宮氏、長宗我部氏などの侵攻をたびたび撃退し、衰退した河野氏を支えたとのことである。

仰西渠:8時43分
久万川に架かる橋を渡ると「仰西渠」の案内。「手づくりの水路“仰西渠” 仰西渠は、元禄年間(1688‐1703)に、山之内彦左衛門(後に仰西という)が私財を投じて完成させた注目すべき水路で、青の洞門(大分県本耶馬渓)にも匹敵するといわれております。
この水路のおかげで、農業用水の確保に苦しんでいた農民が、どんなに助かっか言うまでもありません。
長さ57m・幅2.2m・深さ1.5mのこの水路は、現在も当時の姿のまま、利用されています。昭和25年10月10日県の史跡に指定されています」とある。

案内脇に水路が流れており、岩を掘り抜いた隧道も見える。水路に沿って取水口まで辿り、自然の岩を活用した余水吐けなどを見た後国道33号に出ると、記念地とともに詳しい案内があった:
「江戸時代に山之内彦左衛門(後の仰西)が、水田に水を引くことができず困っていた農民を救うために私財を投じて作った農業用水路で、長さ57mで幅2.3m、深さ1.5mあり、下流25haの水田を潤した。固い岩盤をノミと槌だけで切り開いており、県指定史跡となっている。現在も当時のままの姿で田畑を潤しており、潤いと安らぎをもたらすものとして地元の方々に親しまれている。 ここを流れる用水路が造られた江戸時代は、米は年(税)として武士におさめる大切なものでした。人々は、とても重い税のために、なんとかして水田を広げて、コメのとれ高を増やそうと努力しました。
入野地区のような、やや高いところへ水を引くには、久万川のずっと上流のこの地から用水路を引くしかありません。
最初、人びとは、川の上流に堰を造り、固い岩山のところは筧(かけひ)をつかって水を引こうとしたようですが、筧は台風や大雨、強風などでこわされたり、流されたりすることが多かったようです。修理する費用や時間もなく、水がなければ稲が育たなくなってしまいます。人びとの暮らしは大変苦しいものだったようです。
人びとの苦しい生活を見かねた山之内仰西は、用水路を造り、入野地区まで水を引こうと考えて、かたい岩山を切り開く工事にとりかかりました。
はじめは、仰西や石工だけで行っていましたが、「石粉一升、米一升」のアイデアにより村人の協力がえられました。そのうちに米をめあてにしていた人も、心から水を求めて仕事に取り組むようになり、ついに用水路は完成しました。この後は、コメの取れ高も安定し、暮らしはずっとよくなったそうです。

その後、人びとは、この用水路を「仰西渠」と呼ぶようになりました。「仰西渠」は山之内仰西や地域の地人々の「郷土を思いやる心」がひとつになって、造ることができた用水路です」。

散歩をはじめていくつの手堀りの用水に出合っただろう。箱根の深良用水荻窪用水、足柄の山北用水、愛媛でも丹原の劈巌透水路や志川堀抜隧道など枚挙に暇ない。水を求める先人の努力は散歩をはじめるまで、全く知らなかったことである。
また、農民、商人普請の用水開削の記録は残らず、あまつさえ罪を問われるケースが目についた。お上としては農民・商人のその功を認めたくなかったのだろうか。

これで千本峠越えを国道、かつての旧土佐街道まで繋いだ。来た道を車デポ地まで折り返し、次の目的地である六部堂越に向かう。


■六部堂越■

(往路)
林道に車をデポ;9時55分(標高745m)
車デポ地の高野の集落から県道12号に折り返し、峠御堂トンネルを抜け、河合の集落で県道209号に乗り換える。有枝川の開いた谷筋を北に進み河之内の集落県道を左折し、集落の中の道を進む。
地図には林道らしき道筋が、六部当堂越の近くまで記載されている。ピストン行の関係上、車を寄せられるところまで進もうと、いくつか蛇行を繰り返すが、ペアピンカーブを越えたとここで舗装が切れる。スペースに車をデポし、六部堂越スタート。

登山道(?)分岐;10時16分(標高890m)
周囲も開け、左手に沢を見ながらの散歩である。林道を20分ほど進むと右手に踏み分け跡がある。実のところ、往路ではこの踏み分け跡を見落とし、知らず林道を先に進んでいた。
後述するあれこれの顛末があり、復路に登山道を上り峠に辿りつくルートはないものかと地図を注意深くチェックし、この箇所から峠に繋がる破線を確認。登山道かとも思い入ってみるが、直ぐに沢に出合い、その先に踏み分け跡は見当たらなかった。沢を渡り、どこかにルートがないものかと探したのだが、完全に消え去っていた。


六部堂越えの林道分岐点;(標高940m)
登山道分岐点(消え去っていた)を過ぎると林道が荒れてくる。茨が道を覆い腕や体に刺さり難儀する。登山道分岐から940m等高線に沿って少しすすむが、その後は緩やかではあるが等高線に垂直に林道を進む。結構林道分岐もあり、GPSでもなければ不安になるだろう。
林道も荒れてくる。茨だけでなく倒木も相まって結構大変。標高930m辺りでは、もう滅茶苦茶。その先標高940m辺りで右に林道が分かれる。これも後の話ではあるが、この直進する林道が復路峠との道を繋いだ林道である。地図に記載された林道が消える、ちょっと先といった辺りであった。

峠直前で林道が消える;10時43分(標高1,000m)
地図に林道表示はなくなるが、それでも分岐の先に林道が続く。荒れている分岐林道を進むことなく、「より少なく悪い」条件の林道を左折し、北東に突き出る尾根筋(標高980m)の突端部に。そこでも林道が分岐するが、なりゆきで尾根筋を進む林道を標高1,000mまで上ると、林道は等高線1,000m辺りを進む水平道となる。
激しい茨に遮られながら林道を進み、この分なら峠(六部堂越)まで林道が続く?などと期待しながら進むが、道は峠直前でスパッと消える。峠までは数十メートルもないだろう。

六部堂越;11時27分(標高1,010m)
切れた道の先は緩やかではあるが等高線がこれ込んだ沢筋となっている。六部堂越はその谷筋を上りきったところにあるようだ。道が切れた箇所から水平にトラバースしていけば峠に着くように見えるのだが、峠までの沢筋は倒木と藪で難儀しそう。
しばし逡巡。足元の悪い沢を藪漕ぎトラバースするか、林道から尾根筋に這い上がり峠に向かうか、結構悩む。で、結局尾根道を選択し、取りつき口を探し尾根に向かって這い上がってはみたのだが、尾根筋に踏み分け道もなく、藪も激しく一旦林道に戻る。
一度は撤退と林道を下り始めたのだが、ここで諦めるべからずと思い直し、結局林道の切れた箇所から沢の斜面に取りつき、GPSの峠位置情報を頼りに力任せで峠手前の尾根筋に這いあがる。
尾根をちょっと下ると左手に下から上る道が見えた。国道33号から六部堂越に上る登山道だろう。その道に下りると右手に踏み分け道があり、「六部堂 皿ヶ嶺」の木標が立っていた。

本来なら峠から国道33号まで道を下るのだが、その道は木標にあるように皿ヶ嶺の登山ルートとなっており、多くのルート図もあるようなので、ここから折り返す。国道に下りるにかかるであろう時間を使い、往路で難儀したルートではない、六部堂越に続く「スムーズ」なルートを繋ごうとの想いであった。

(復路)
踏み分け道も消える;11時41分(標高1,000m)
六部堂越から下る踏み分け道を探す。地図に描かれる破線に沿って踏み分け道がある。これはラッキー、これで道を繋げることができる、と思ったのも束の間、踏み分け道が切れ、その先も進めそうもない。






林道からの踏み分け道も消える;11時時54分(標高980m)
さてどうしたものか。と、下に林道が見える。踏み分け道と林道の間は数メートル離れでいるが、林道に滑り降りる。
そこから林道を進むが、地図の破線部からどんどん離れてゆく。道を破線部に戻ると、そこから右手にかすかな踏み分け道が下りている。これで安心。と思ったのだが、その道も消えてしまう。またまたどうしたものか、と悩む。

往路の林道に滑り降りる;12時6分(標高940m)
GPSの地図には往路上った林道ログが40mほど下に見える。が、急斜面を滑り下りる必要がある。先ほど出合った林道に戻れば往路の林道に繋がるように思うのだが、地図には記載されておらず、あらぬ方向に連れて行かれるかもしれない。
ちょっと悩んだ末、往路の林道へと沢筋の急斜面を滑り降りることにした。足元に気をつけながら、倒木を乗り越えなんとか林道に復帰。下りた箇所は上述「六部堂越えの林道分岐点」の直ぐ傍であった。

峠との道を繋ぐ;12時15分(標高980m)
林道に復帰したのだが、目標とした六部堂越まで「スムーズ」に上るルートが繋がっていない。上で、「六部堂越えの林道分岐点」とメモしたが、この時点では六部堂越に繋がっているかどうかわかるはずもないのだが、それはともあれ、この分岐林道を辿れば、先ほど峠からの踏み分け道の行き止まり地点で出合った林道に繋がっているのではと道を上る。
これまた激しい茨と倒木。勘弁してくれ、と思いながら、それ以上に誰の役にも立つわけもないのに、とも思いながら進むと、踏み分け道から林道に下り、そこから下に続く踏み分け道の箇所に到着。林道と踏み分け道の組み合わせではあるが、「スムーズ」に六部堂峠ルートが繋がった。

車デポ地に戻る;13時2分(標高745m)
これで本日の散歩は終了。前述の如く、登山道を辿っての「スムーズ」なルートはないものかと、辿りはしたものの道は消えており、地図にある破線を辿っての峠に辿るルートはないものと「納得し」、車デポ地に戻り家路へと急ぐ。
これで久万の札所に入る二つの峠ルート、久万の札所の「逆打ち・打ち戻しなし」ルート、久万から松山の札所に下る御坂峠へと抜けるふたつの峠道をカバー。次回の遍路道はさて、どこにしようか。