日曜日, 8月 07, 2005

神田川を歩く 2

神田川上水散歩メモ_2神田川?神田上水?井の頭の湧き水を江戸まで引き込んで、とはよく聞くのだが、「川」が昔からあったのであれば、玉川「上水」といった力技の工事などしなくてよいだろうに?川があったのか、無かったのか、気になった。

往古は平川
川はあった、というか、昨日のメモにあるように、「井の頭の池から流れだした水は、善福寺川、妙法寺川の流れを集め、武蔵野台地の端の低地を縫うように、時には飯田橋や水道橋のあたりに白鳥池とか小石川大沼といった湿地、芦が一面に生える沼地を形成しながら海へとながれていた」わけで、自然の流れはあった。この流れ、往古は平川と呼ばれ、江戸時代になり神田川となる。が、その自然の流れに少々人の手を加えたときに出世魚っぽい名前がつく。つまりは、江戸市中に水を引き込むべく開削工事を行った区間、井の頭から関口の大洗堰までが「神田上水」、関口から飯田橋あたりの江戸城外堀あたりまでが「江戸川」、それより下流が「神田川」と。さらに、この水系は現在、昭和40年の河川法により、一気通巻で「神田川」と。神田川が機能別に名前を変えたことが「川」「上水」の混乱のもとでありました。

神田上水を中野弥生町からスタート
今回の散歩は、神田上水から江戸川ルートということになるか。で、神田上水を中野弥生町からスタート。このあたりは中野新橋あたりまで一部区間、遊歩道が切れることもある。ただ、おおむね良好。山手通りを越え、いかにも直近に整備されたような遊歩道を歩き青梅街道と交差。ここから落合中央公園・落合水再生センターまで快適な遊歩道。予想がおおきく狂った。てっきり、善福寺川の環八以西ルートのような、少々未整備の側道を想像していたのだが、きれいな路が続いていた。
妙正寺川と合流
西武新宿線「下落合駅」 付近で、妙正寺川と「合流・落ち合う」。この川も結構複雑な流路で流れてきている。地形の微妙なうねりを感じながら、次の休みにでも歩いてみようか。ちなみに、合流点というのが落合の地名の由来。

おとめ山
崖下に沿って関口まで。途中、台地から神田川への段丘崖にあるいくつかの名所に。まずは、おとめ山。JRとの交差の手前、新目白通りを渡り坂を登る。将軍の狩の休憩所であったこの地は近衛家とか相馬家を経て「電力の鬼」、あの松永安左エ門の自宅兼茶室であったことも。魅力的な人物。石田礼助、石坂泰三、中山素平、土光敏夫。。。かっこいい経営者はいたよなあ。本を読み直そう。湧水点チェックも。

新江戸川公園
ついで、新江戸川公園。細川家の屋敷跡で、池を中心にした回遊式泉水庭園で名高い。庭園日もさることながら、自然景観を重視した公園の奥の崖を上り、林というか、森というか、上り下り。いい感じであった。
関口芭蕉庵
関口芭蕉庵。松尾芭蕉が、藤堂家の下級武士として神田川堀割工事に従事。そのときこの地にすんでいたとも。何ヶ月かまえ訪れた深川万年橋畔の芭蕉庵跡よりずっといい雰囲気ではあった。しかし、道沿いの表門は閉まっており、あきらめて隣の急坂「胸突坂」に登り、降りて来たとき胸突坂に面した門が開いていたので、恐る恐る入った次第。半分以上の方があきらめているのでは。坂を隔てた隣には、神田川の水神をまつる「水神社」があった。
江戸川公園
江戸川公園。公園は椿山荘に隣接して、関口台地の南斜面の神田川沿いに広がる東西に細長い公園。椿山荘は元黒田家下屋敷。明治に山県有朋がこの地に居住し椿山荘と命名。
この椿山荘と新江戸川公園。大名黒田家および細川家の屋敷跡。先日の散歩のときに買った本、『東京の空間人類学(陣内秀信;筑摩書房)』にあった大名屋敷の住空間のシナリオどおり。引用する「まず多くの場合、大名屋敷は高台の尾根道に面して立地する。そこでは敷地内の斜面となるところに、高低差による湧水を生かして池をつくり、回遊式の庭園を設けることができるのである。しかも、できるかぎり尾根道の南側に立地し、敷地内の北寄りに位置する高台平坦部に建物を置いて、その南の斜面に庭園をつくろうとする傾向が読み取れる。。。(p.43)」。実感。

関口・大洗堰
江戸川橋の交差点に。そもそもここに関口、大洗堰があったのはどういった理由によるのだろう。そもそも堰はなにをせき止めていたのか。調べてみた。結論からいえば、せき止めていたのは「海水」であり、ここ文京区関口あたりまで満潮時に海水が登ってきていたから。飯田橋や水道橋のあたりは、日比谷の入り江から続く芦が一面に生える沼地であり、湿地。この地図で一目瞭然。飯田橋の近く、通称「大曲」のところに「白鳥橋」って橋があったが、これはこの辺りにあった白鳥池の名残?
関口の大洗堰で上水と吐き水(余水)に。上水は小小石川から日向台下、水戸家上屋敷(現在の後楽園)内を抜け、さらには、水道橋駅近くで川を懸樋で越えてお城や江戸市中に給水される。
家康入府以来の日比谷入り江や低地の埋立地に住み、塩辛い水を飲んでいた人たちはこれで状況改善。これでも足らなくなったため、玉川上水、となるわけであるが。
ともあれ、これが上水。で、余り水・吐き水は堰を越え、飯田橋近くの江戸城外堀に流れ込む。いわば江戸城に流れ込む川であるからして、江戸川って呼んでも不思議ではない、か。大洗堰から飯田橋あたりまでを江戸川、と読んでいたわけだが、大江戸のセンターである江戸城(の堀)に流れ込んでいたわけだから、そう呼ばれたのであろうか?真偽のほど不明。

水道橋
江戸川橋から水道橋まで歩き、水道橋の上から御茶ノ水方面を眺め、改めて、切通しのすごさを感じる。あそこで掘り起こした土を日比谷の入り江に持っていき埋め立てに使ったのであろうし、そもそも、あの台地を切り崩すエネルギー、お城の近くに大洪水を起こす川筋があることへの恐怖、そのため尋常でないくらいの「曲がり方」で川筋を人工的に御茶ノ水方面へ持っていく、そのエネルギーを感じながら本日の予定終了。

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