金曜日, 8月 05, 2005

玉川上水を歩く 3

玉川上水散歩_3

代田橋から新宿、新宿から代田橋
代田橋から新宿、新宿から代田橋。この道は新宿から自宅への行き帰り、結構歩いている。が、メモを残すため頭の整理をしていると、地名の由来など新しい発見もあった。
京王線代田橋駅
大原2丁目。甲州街道の南に残る細長い三角形の一帯。京王線、代田橋駅の下に、唐突に渓谷が。しかし、この水は一体?清流復活事業で生まれた玉川上水の水も、環八手前、浅間橋跡あたりで終わり、神田川に放流されているわけだし、そもそも、直前の玉川上水永泉寺緑地公園の水路には、水などなにもなかったわけで。。。調べてみた。どうも湧水を集めている、といったところ。
この渓谷も一瞬。再び暗渠に戻る。第一緑道。代田橋駅から環七までほんのちょっとの区間。環七は地下道で渡れる。散歩して、川沿いの遊歩道が大きな道と交差する地点って、交差点もなく、大回りしなければならないときも多いのだがこれは助かる。
笹塚
環七をわたり、第一緑道を笹塚に。駅の手前で開渠。駅前で暗渠。駅をこえると開渠。ちょっと歩いて暗渠。あとは新宿の終点まで暗渠となる。笹塚駅手前の上水沿いは、ちょっとした桜並木。また、自然のまま、野趣豊かな深い水路が掘られている。土地の高いところは深く掘り下げることにより、流れを確保している。逆に土地の低いところは迂回するのが定石か。笹塚駅前で大きく迂回しているのは、牛窪低地と呼ばれるこの一帯を避けて流れを確保しているのであろう。笹塚橋のあたりで三田用水に分水されていた。目黒の恵比寿ビール工場や三田方面へ供給されてたようだ。
笹塚駅前で大きく曲がった上水は、途中一部開渠となりながら、中野通りと井の頭通りが交差する大山交差点のちょっと北手前、北澤橋、といっても川などないのだが、このあたりで上水は再び大きく北に向かう。笹塚駅と幡ヶ谷駅、それとこの北澤橋をつなぐ三角形が牛窪低地ということか。
ちなみに笹塚という地名の由来。熊笹に覆われた神聖なお墓、という意味。実際この地に円墳があったとも。で、誰のお墓かということだけれども、伝説がある。笹塚はダイダラボッチ(蹈鞴法師・大太法師)という巨人の首塚ということ。ダイダラボッチは諏訪大社の手長足長明神。
そういえば、代田橋の代田という地名もこの伝説の巨人に由来する。富士山を作ったり、琵琶湖を掘ったり、また日本各地の山や湖を作ったと大活躍の巨人だが、その特徴は「片眼であり、1本足、巨人、踏鞴を操り風を起こす」ということ。古来の製鉄法、たたら製鉄、その技能集団と関係あるのだろう。古来たたら製鉄においては溶けた鉄の温度を見るために、目で見てその色で判断。その為、溶けた鉄の強力な光によって網膜が傷ついてしまい、独眼となってしまうわけだろうし、そもそも「ダイダラ=タタラ」って音もピッタシ。このあたりにはタタラ製法にたけた技能集団がすんでいたのであろうか。街道沿いの塚(土手?)に笹が生い茂っていた、という説もある。夢はないが。
幡ヶ谷
北澤橋を越え、大山町から西原へと。「旧玉川上水遊歩道」。広くゆったりした緑道が続く。この遊歩道は新宿近くまで、昔の橋桁を残している。幡ヶ谷を過ぎ初台。このあたりで遊歩道は甲州街道とほぼ隣り合わせに続き、山手通りと交差する。ちなみに幡ヶ谷は源氏の武将が白旗を洗った「旗洗い池」(今は埋め立てられている)が地名の由来。初台は大田道潅が構えた最初の砦/台であったから、とか。
新宿駅南口
山手通りを越えてからも遊歩道が続く。この地下、かつての水路の下を京王線が通っているのか。電車の通る音が遊歩道下より聞こえてくる。文化学園前、いかにも水路跡といった雰囲気の桜並木の散歩道を通り、いかにも水路であったような遊園地を抜け、車の通行道となった葵通りを進み、新宿駅南口から代々木に抜ける通りとの交差点葵橋跡に到着し、旅は終了。

実のところ、四谷大木戸跡には行っていない。四谷駅のあたりであろう、と思い込んでいた。新宿御苑の北東の角近くにある、というのが今回メモをつくっていてはじめてわかった。有終の美を飾るためにも、画龍点晴を欠く、の例えもあるわけで、今度行ってみよう。
4回に分けて玉川上水のはじまりから、ほぼ終わりの地まで、歩き終えた。どんなルートだったのか、とりあえず辿ってみよう、といっただけの動機で歩いた。40キロ近く高度差を保ったままの尾根道を歩いたわけだ。

羽村の取水口あたりの公園や、小金井公園近くの桜並木など花見の季節には、結構有難そうな場所も多くあった。桜に限らず、玉川公園駅近辺、井の頭公園あたりなど、なかなかに素敵な雑木林の中を散歩できた。分水も結構あるんだなあ、この上水って、大江戸への水の幹線ルートであると同時に、流域各共同体へのライフラインであったことを改めて実感した。歴史と共に変わる玉川上水の役割、少なくとも飲料水の導線としての役割は小平まで。それ以降の流れは、癒しのため。処理水をわざわざもってきていることなど考えもつかなかった浄水場を含めた水のネットワークに思いをはせることができた。暗渠と都市のかかわりについて調べてみようと思い始めた。

上水の完成までには結構なドラマがあったこともはじめてわかった。多摩川から大江戸への水路工事の計画。取水口/堰の決定をめぐる利害関係者の思惑。第一案の日野、第二案の福生、その計画の脆弱性を突き、取水口を羽村に変えようと図る松平伊豆守。能吏安松金右衛門によれば羽村を取入口にすれば江戸にも、そして自藩川越にも水を取り込むことができると。結局は地形上の障害のため、日野からの工事、福生からの工事は失敗。工事失敗の責任をとり、切腹する清廉・誠実なる良吏関東郡代伊奈半十郎。そして、純工事技術的観点からも最良の羽村案に決まり工事開始、通水。小説の粗筋でありますので、どこまで史実か分かりはしないものの、ドラマティックではあります。伊奈半十郎のことを調べてみよう、と改めて思った。

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