水曜日, 8月 24, 2005

高麗の郷散歩

会社の同僚と雑談。国分寺崖線を紹介してくれた男。高麗川散歩がいいとのこと。ガイドブックなどで、「高麗の郷。歴史と文化そして自然の宝庫、巾着田」といったコピーは目にしていた。が、なにせ遠い。二の足を踏んでいた。しかし、国分寺崖線を教えてくれた男。結構ハケの道を堪能した。今回も外れはあるまい。高麗に行くことにした。



西武池袋線高麗駅
西武池袋線高麗駅下車。JR八高線の高麗川駅からのアプローチがいいのか、どちらがいいのかよくわからなかったので、とりあえず出たこと勝負で高麗駅に降りた。

駅前に天下大将軍、地下女将軍の真っ赤な将軍標。このトーテムポールっぽい標識、韓国の伝統的守護神。天・地の守り神がともに相ともに村の守りについている。駅前の坂を下り、高架をくぐり、299号線に。左折。少し進み、道脇に入る。高麗石器時代住居跡。縄文時代中期のたて穴式住居跡。

聖天院
299 号線に戻り、道路わきを久保の交差点から高麗川に。歩道がないので少々車の往来が気になる。高麗川に掛かる橋・高麗橋を右折、清川沿いにのどかな道を進む。鹿台橋を右手に見ながら、元宿公会堂の交差点に。ここからカワセミ街道、といってもなんと言うことのない田舎道ではあるが、高岡浄水場、下高岡公会堂と歩き、聖天院に。高麗王若光王一族の菩提寺として奈良時代に創建。品のあるたたずまいのお寺さん。本堂は新築したものか。山門に向かって右側に、高麗の王若光の墓が置かれている。次は高麗神社。

高麗神社
高麗神社は聖天院から歩いて5分くらい。高句麗からの渡来人の指導者高麗王若光(こま「こしき」じゃっこう)を祭った神社。716年、というから奈良時代の初め、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国の高麗人1799人が武蔵國に遷され、高麗郡が設置された。高麗王若光は高麗郡の郡長に任命され、武蔵の国の開発に尽力し、この地で没した。またこの神社は出世・開運の神としても名高い。浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎らが、高麗神社に参拝した後、相次いで総理大臣となったことから「出世明神」と崇められてもいる。
参道の奥に緑に囲まれた本殿があり、さらにその奥に重要文化財の高麗家住宅がある。

神社を出て、小道をゆっくり降り、高麗川にかかる出世橋を渡り、JR八高線高麗川方面に。もくせい通り、野々宮を通り、左手に丘陵地帯を眺めながら静かな野の道をのんびり歩く。栗坪地区の「麓道」を。高麗中学、学童保育所、万蔵寺と進み、高麗峠への登り口に。登り口を確認し、後は時間次第で再度戻ってくる、という段取り。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


巾着田
日も落ちてき始めたので急ぎ足で巾着田へと。歩行者専用の木製橋・あいあい橋を渡る。巾着田は、高麗川が大きく湾曲して、地形が巾着(口についた紐を引っ張ると口が縮んで閉まる袋。小銭入れ)の形に似ていることからつけられた名称。ここに移り住んだ高句麗からの渡来人が、蛇行する流れを巧みに利用して、川をせき止め、その内側にあふれた水を導き水田とした。つまりは当時高度な技術であった稲作を伝えたところといわれている。川原には川遊びを楽しむ家族が多い。巾着田を湾曲する川に沿って歩く。予定では湾曲部の「頭」あたりにある橋を渡り、高麗峠へ、と思っていたのだが、あいにく通行止め。峠道の日没も嫌であるので、結局は高麗峠行きは中止。後は、鹿台橋まで戻り高麗駅へ。本日の予定終了。


散歩をしながら考えていた。高麗、高句麗からの渡来人はどうして、この高麗の郷に来たのか。関東というか当時で言えば武蔵の国、これって結構広いのに、そのなかでこの郷に来ることになったのはなぜ?もちろん、自分たちの意思でというわけではなく、中央政府、西暦645年大化の改新から幾多の政争を経て西暦701年大宝律令を制定、律(刑法)と令(行政法・民法)をもとに、中央集権国家を目指し始めた大 和朝廷の指示によるのだけれども、この地が彼ら渡来人の終の棲家となった理由は?調べてみた。で、全くの推測、いつものとおり、自分として「筋が通ればいいか」ってスタンスでの我流解釈をしてみたい。

渡来人はどうして、この高麗の郷に来たの、か?
地理的解釈
まずは地理的解釈。この高麗神社のある一帯、現在の大都市東京に住んでいる我々から見れば関東のはずれ、のんびりとした田園地帯。が当時としては上野の国府(前橋市)から武蔵の国府(府中)に通じる幹線道路沿いの地域である。当時武蔵の国は東山道の中の一国。東山道とは近江国・美濃国 ・飛騨国 ・信濃国 ・武蔵国 ・上野国 ・下野国の7国。つまりは、上野の国府からは、東山道武蔵路を利用し、ここ高麗郡・入間郡をへて武蔵の国府に入ったわけで、昔は、メーンストリート。地理的に「はずれ」であったわけでなない。納得。
技術論(?)的解釈
次に、技術論(?)的解釈。渡来人のもつ技術力ゆえのこの地への移動。つまりは,西暦708年秩父(秩父鉄道黒谷駅の近く)で発見された和銅(にぎあかがね)という自然銅との関連。和銅の発見は画期的事件であり、朝廷はそれを祝って年号を慶雲から和銅に改元したほど。和銅の開発に関係する渡来人を監督するためかもしれない。また和銅を武蔵の国府に運搬する流通センターの機能を果たすためにこの地に集められたのかもしれない。高麗=駒、からも連想できるように、運搬手段としての馬の扱いは、ツングース系、騎馬民族の血を引く高麗人の得意とする「技術」であろう。ともあれ、秩父産出の銅にまつわる高麗人の「巧みさ」ゆえの移住。
政治的解釈
最後に政治的解釈。移転当時、この地は未開の大地。埼玉といえば埼玉古墳群がある行田市あたりが当時の「都会」だったのだろうか。こういった先住有力豪族が支配する「都会」を避けて、未開の地に移した理由は、地方での有力豪族に対する政治的施策か?つまりは先住の地方豪族に対する中央政府の橋頭堡つくり。先住の豪族の影響力がないところに、最新技術集団を落下傘降下。有無を言わさず開拓の実績をあげて中央集権化を進める中央政府の尖兵として力を見せつける、ってことか。渡来人は、高麗川筋を中心に開拓をすすめ、やがて、入間川(いるまがわ)、越辺川(おっぺがわ)、都幾川(ときがわ)と開拓をすすめていったわけであるが、巾着田における 水田開発なども押しも押されもしない実績のひとつとであろう。結局どの解釈を最終自分案として採用するかだが、3案足して3で割るといったところで自分としては結構納得。

武蔵のいたるところに渡来人の足跡がある
なぜ高麗の地に?ということを調べる過程で気づいたことがある。はじめ、高麗の地への移転はなんとなく「特別」な出来事、といった印象を持っていた。平家の落人的イメージというか、渡来人への態のいい「押し込め」といった、一種の「隠れ里」的印象をもっていた。事実はまったく違ったようだ。渡来人の移転、活躍は当時至極あたりまえのこと。武蔵のいたるところに渡来人の足跡がある。地名しかり、神社しかり。新座は西暦758年、帰化した新羅僧32人,尼2人、男19人、女21人の74人を武蔵国に移し設置した新羅郡が名前の由来。「志木」とは「志楽木=新羅」から。渡来人を核として高麗郡と新羅郡をつくったわけだから、これは当然といえば当然。その他東京都狛江市は「コマエ」と呼ぶが語源は高麗(こま)、三鷹市牟礼のムレとは朝鮮語で「聖なる高い場所」、といったように渡来人にまつわる地名は数限りない。
神社も同様。高麗神社とか駒形神社とか白髪神社といった渡来人系の神社の数は東京・埼玉で130箇所以上とも。高麗への移住はなにも特殊・特別なことではない。7世紀後半から朝鮮半島からの渡来人が続々と関東地方に現れている。文献上だけでも「西暦666年(天智5年)に百済人2千余人が東国移住」「西暦684年(天武13年)に百済人僧尼以下23人が武蔵國へ」「西暦687年(持統元年)には高麗人56人が常陸、新羅人14人が下野、さらに高麗の僧侶を含む22人が武蔵へ移住」。そして西暦716年(霊亀2年)の高麗郡が設置であり、西暦758年(天平勝字2年)の新羅郡設置である。天武・持統朝では渡来人を次々と東国各地に移住させていた。渡来人には田地や食料が与えられまた終身にわたり課役が免除されていた。当時の大和の中央政権にとって東国の支配と北武蔵の開発をすすめるためには、高い知識と技術をもった渡来人の力が必要不可欠なものであったのだろう。

飛鳥・奈良時代の日本列島には、何波にもわたって朝鮮半島から大量の渡来人がやってきた
武蔵の地に限らずマクロに日本を俯瞰しても、飛鳥・奈良時代の日本列島には、何波にもわたって朝鮮半島――伽耶や百済・高句麗から大量の渡来人がやってきた。5・6世紀には秦・漢・文氏・今来漢人等。7世紀から8世紀にかけては西暦660年の百済滅亡、西暦668年高句麗の滅亡にともない亡命してきた、百済王家・高麗王家らの亡命渡来人。4世紀以降8世紀の奈良時代まで,高句麗・百済・新羅などからの人々の移住が何波にもわたり繰り返されたわけである。
ここまでメモしてきて、「渡来人」ということを特殊なこととして考えること自体なんだかなあ、という気がしてきた。飛鳥文化発祥の地だった高市郡の人口の8、9割が、百済系渡来人の後裔だったというし、天智天皇は百済系、天武天皇は新羅系、こういった天孫系・征服王朝系も大陸との関わりがあるわけだし、出雲族といった征服王朝以前の有力豪族であってもその祭る神は大陸と深いつながりがあるというし、そもそも日本の神々などほとんどが大陸とのかかわりが強いわけで、渡来人が云々といった議論など意味がない、ということか。

とはいいながら、最後にこんな疑問がでてきた。渡来人の活躍が当たり前のことであったとして、ではなぜ高麗の地が、そして高麗王若光王が今にいたるまで「高麗の」といった形容詞で語られるのであろうか。調べてみた。結論は「高麗王若光が高徳の人」であったから。
神奈川県大磯に、高来神社がある。高麗王若光が祭られている。高句麗の使節としてとも、一族を引き連れての亡命とも言われるが、ともあれ、朝廷の指示で大磯に上陸、各地に散在して、この地方の人たちに、鍛冶、建築、工芸など各種の技術を伝えた。その徳ゆえに、高麗郡の郡長に任ぜられこの地を去って後も大磯の国人等は、長く王の徳を慕い、高来(たか神社をつくり高麗王の霊を祀った。ちなみに白髪神社も高麗王若光が祭られる。「高麗王はその髭髪白かりき、ゆえに 高麗明神を一に白髭明神とたたえ奉る」と言い伝えられている

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